自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

二木医学博士の生命論~生命を全うした生き方とは?(2)

2018年11月28日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 

中心帰一的なアプローチな方法が日本古来の医学の基礎概念

 2018。 11/28

************************************************

 今月帰国したばかりのインドでのご報告をさせていただいたが、

滞在中は、完全菜食の友人宅にお世話になった。 
たとえ、菜食の食べ物でも、外で調理されたものを、御裾分け
しようとして断られた。
何が入っているかわからない、どのような人(カースト階級〛
が造ったのか不明だ、というわけで、インド人知人が自宅で
作ったけど~とランチを持ってきてくれたが、それを、
部屋の中に持ち込むことさえ、遠慮するような空気が
家の中に漂っていた。
 
三週間、完全菜食で過ごしたが、実に胃がすっきりして、
気持ち良い思いをした。 
完全菜食というのは、卵がダメなのはもとより、玉ねぎ、
にんにく、キノコ類などもNGであった。 
デリーの大気汚染は世界有数だが、野菜はなぜか
フレッシュで味わいがあった。

さて今日の話題は、二木博士(*1)の菜食主義に話が
進んでいく前のプロローグにあたる。

まず、唐突だが、総括的な博士の病気への信念、つまり、
“疾病は必ずなおる”という考え方を観てみたい。
疾病は必ずなおる~という信念はどこから来ているのか?
博士の著書(*2)から引用したい。

“私は長い間、いろいろな病気をした体験から、
‘病気は必ず、治る’という信念を得た。
病気して死なないのは、なおりつつあるからだという
信念のもとに、その病気のもとを探して、その根を
断つことに努めるのならば、病気の力より、治る力
のほうが勝って、病気が全快する。

これが疾病の根本原理だと私は信じている。” (引用終わり)

やや、大雑把な言い回しのような気もする。
”病気して死なないのは、なおりつつあるから”
という箇所である。

病気すれば、’治る’か、’重篤になる’か、場合によっては、
死に至るか極端に言えばどちらかのだから、博士が言う
、’直りつつある’ということと、’死なない’という
こととの見極めがどこにあるかが肝心だろう。

ここでは、生まれつき虚弱体質だった、博士が赤子の時から、
青年期、成人してもなお、多くの病にかかりながら、
結局のところ自己の信念療法により、自然治癒力
が最大限に発揮される方法を信じて、それらの病を
克服してきたという体験に基づく結論であるのだろう。

それでは、その信念療法とはいかなるものか? 
ご自身が西洋医学の医者であるにもかかわらず、西洋医学に
基づいた医学は、博士の信念療法の礎えとは
少し異なるようだ。 

なぜなら、西洋医学の研究方式は遠心的であるために、
本質をついていない~と二木博士は自著で述べているからだ。

“西洋医学は西洋人の医学であって、決して日本人のための
医学ではない” と博士は言う。

つまり、西洋医学と日本人に適応する医学とは根本的に
異なると博士はいう。
その理由を次のように挙げる。

”西洋医学の文化的気候的背景が、日本人のそれとは異なり、
西洋医学が発達する過程がそうした環境を念頭に発達して
いるわけで、そこから、すでに日本人がそれを取り入れるに、
無理な点がある”

“西洋医学は肉食を中心とした民族は、鉄砲を発明して
狩猟し、船をつくって、魚をとり、寒ければ暖房で温め、
風の入らない家をつくるというように、自然と
調和するより、自然を無視して、自然研究が足らない
人工的なものであることが、西洋医学の長所でもあり、
欠点ともなっている”(引用終わり)

一方、日本民族はどうであったかといえば、
“日本は自然に恵まれ、水は清く、空気は澄んで、
日光はきらきら輝き、立派な食物が豊富にあり、
自然に頼り、自然に感謝し、機械文化は西洋と比べ遅れ
人間に病気は少なかったのだ。” 

博士のここでいう、’日本独自の医学’とは、東洋医学の
分類に近いものがあるだろう。
たとえば、’気の流れ=順気’の滞りが病の原因であると
いうことは、中国から文化が渡ってくる以前に存在して
いたと、‘ホツマツタエ’には述べられているが、すでに
日本人の祖先は、順気が健康の礎であることは
知っていた。

同時に、博士が述べているように、自然と人間の生活は
離し難く、家材には、湿気や熱さに柔軟に対応できる、
木や和紙などを用い、釘を使わずにはめ込み、冬にも夏にも
適応する日本従来の建築様式があった。

このような自然との共存ともいえる、古来日本人の生活様式
は日本独自の文化を育む背景になり、ひいては博士の言う、
’日本独自の医学’を生み出してきたのだろう。

ところで、’西洋医学と日本人の不適合性’を指摘する博士は
東大医学部を卒業している。
その当時の研究方法を振り返り、博士は次のように、
西洋医学の研究方法における視点と日本的医学の視点との
違いを述べている:

“西洋は遠心的研究である。
たとえば、解剖学的研究では、動物を解剖して、骨、肉、
神経があり、その先の細胞はというように枝から枝へ、
葉から葉へと細部にわたって、研究している。


 
博士論文を例にとれば、或る人がある一つのことを
研究して博士になる。
次の研究者はさらに一歩先の枝葉のような細かいこと
を研究して博士になる。
どこまでいっても、研究しきれない。上の方の事を
研究した人は下の方の事がわからず、下の方の研究を
した人は上の方の事を知らない。


 
こうして、いつになっても、まとまらないのが遠心的
研究であって、西洋の学問は皆、これである。
日本の医学の研究も現在はこの方法であって、
よく世間で、‘ノミ、シラミの事を研究して医学博士に
なったのだから、人間のことはわかるまい’などと
言われても仕方がない。” (引用終わり)
かつて、アポロ宇宙飛行士の1人が、’西洋の科学的研究とは、
分析を重ねているが、その実、本当の‘何故’という
核心部分に決して触れることがない~´という言葉を述べて
いるが、共通した意見のように思う。

二木博士が西洋式と対角線上にあるという日本方式とは
どのようにものなのだろうか?

“われら日本式は、求心的帰一的研究である。
どういうことかといえば、個々の現象を一つの中心に
まとめてしまう方法である。
医学で言うのなら、その中心というのは、生命である。
生命には空気も日光も水も草も木も必要である。
そして、空気も日光も水も草も木もすべて生命に
帰一するのである。” (引用終わり)

求心的方法とは、中心を常に念頭に入れて問題解決を図る
方法でもある。
医学的に観れば、私たちの命、生命力こそ、その中心に
あるものだ~と博士は以下のように述べる。

“この生命は永遠にわたって、変わることがない、
宇宙の大生命の根源に通じている。
その大生命体の根源は遠心的研究ではいつまでたっても
到底握ることができないから、枝葉の研究から、
元の方へ帰る求心的研究をしなければならないのである。
日本の研究は古来そうであった。” (引用終わり )

としたうえで、日本には、昔、存在していたという
仙人を例にとりあげる。

”仙人は気の実を食って、清らかな水を飲み、清らかな
山の光線に当たり、朝早くから働き、
現在も田舎の長寿者の暮らしがそうである。” (引用終わり)

が、長寿者もいずれは死を迎える。健康な死、天命を
全うした死がそこにある。
天命を全うした死に方とは?
博士はこういう。

“まるで油が尽きて、燈心が風が吹かないのに消えてしまう
ように、苦しみ一つない、いわゆる生理的死がそれである。
この生理的死には、少しの病はない。胃、腸、肺、心臓、
脳、すべて健全である。
動物は皆、この生理的死で死んでいる。
山へ行っても、だれも動物の死骸を見ることはない。
彼らは死ぬまで健康で、行くべきところに行って、
死んでいるのである。”(引用終わり)
 
確かに、この言葉の後半部分、動物の生理的死に
ついてはうなづくことがある。
特別の異常な殺され方、餌に毒を盛られるとか、
人間に切り裂かれるとか、車との衝突などの事故死を除いては、
小動物や、ハエや昆虫にいたるまで、スズメや鳩を
含めて、人間に死骸をさらけ出すようなことはめったに、
ないのだ。
きちんと、死に場所を定めて、自分の昇天の時を知って、
しかるべき場所に移動しているのだろう。 

二木博士は、これを大往生(だいおうじょう)とも呼び、
最近は大往生する人が多くないとし、それは
“今日の医学の研究が、生命を離れて、端へ端へと行っている”
からだという。

*1)明治6年 秋田佐竹藩の藩医の家に生まれる。
20歳までいろいろの病気に悩み、
玄米食の実行により、健康となった。
明治34年東大医学部卒、駒込病院勤務中伝染病
の研究をしながら、栄養学的に食物の研究に努力する。
ドイツに留学し、天然免疫性に関する医学界
における世界最高の業績を残す。
帰国後、赤痢駒込菌を発見し、鼠咬症病原
スピロペーターの発見によって、
学士院の恩賜賞を受けた。
かたわら、二木式腹式呼吸を発表、玄米・菜食、
すなわち完全食を提唱した。
その間、当で愛教授、都立駒込病院長、
日本学士院会員、養生会会長、
豊島丘女子学園理事長、修養団団長、
その他多くの要職を兼ねる。
藍綬褒章を賜り、その後昭和30年11月3日、
文化勲章を授与せられた。
*2) “健康への道” ~完全正食の医学~ 
東京書院発行、昭和32年



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化勲章受章者、二木医学博士の生命論~腹式呼吸~(1)

2018年11月21日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

病は原則、克服できる~と体験実感した背景 2018 11/21

************************************************

”生命医療”に関してかなり以前ブログで触れたことがある。

それは、自らの病の克服と患者の臨床的体験が基軸となって、

生命医療を提唱した内田医師の話だった。

今日から数回にわたり、その生命医療を彷彿とさせる、

医学博士 二木謙三氏(*1)の体験と健康実践方法などを

ご紹介したい。

 

博士は、昭和30年文化勲章を受章された。

私の手元に博士の著書(*2)ある。

ご一緒に紐解きながら、博士の自らの”体の機能への信頼”を、

具体的な病の症例とともに理解し、さらに、健康を保善する

食事’正食‘を考えていきたい。

博士は明治30年生まれ。

一歳まで生き延びられないであろうと、周りが認めるほど

生まれながらに病弱だったと、博士は次のように書いている:

“リンパ腺が晴れやすく、中毒にかかりやすい

皮膚に痒いものができ、それをかくと、腫れて膿をもつようになり、

それはだんだん広がり、慢性皮膚病となった。

かゆいので夜はねむれず、不眠症になり、目も悪くなり、眼精疲労

で目が痛く、明るい光で書物は読めない。

絶えず頭痛がし、胃腸は悪く、便秘や下痢に苦しめられた。” 

(以上引用)

 

不健康が原因で、小学校には遅れること3年、ようやく、

9歳にして入学できたという。

この時期、博士は食用療法の大切さを子供ながら、

初めて体験し、それが博士の提唱する”食”の考え方の

動機になっているように思う。

一昼夜、無尿症になり、尿毒症を起こしかけて、危篤に

陥ったときのことだった。 

漢方医であった、博士の叔父が小豆(あずき)の煮汁を

与え、体が改善に向かった。

博士の言葉を引用する: 

“塩物をことわって、毎日、小豆(あずき)の煮た汁を

飲まされた。

そうするうちに、不思議にも一日一日と尿が出るように

なって体がやせてきた。

私は子供心にも食べ物がこれほど、体に大きな関係を

持つのかと驚異を感じた”(以上) 

 

医食同源という言葉がある。

まさに、普段の食事の内容如何で、長い年月でみると

生きた薬となり、健康に一役かっているということだ。 

博士の子供時代の、急性腎炎は小豆汁によって改善をみた。

そのとき、痩せて青白くなったのだが、この状態をむしろ、

自然治癒力の発動した結果と、肯定的に、博士は

こう分析している。

 

“私は病気の時は顔色が蒼くなって体が痩せるのは、

血管が収縮して病気に対する抵抗力が強くなるせいだと

いうことを、身をもって体験したのだ。” 

 

体調が悪いと、食欲がなくなる。 

周囲から、顔色が悪いと言われると、何か、病気では

ないかと、不安が助長する。

しかし、博士は、このような状態は、自然治癒力の働きとして、

実際は、体の中で抵抗力が増し、病に対し闘うためだ

と理解した。

 

小学校から中学時代になると、神経衰弱にかかった。

高等学校にいくと、それがまたひどくなり、健忘症に

なった。具体的にいうと、万全の準備をもって試験に

臨んでも、土壇場で、試験用紙をみて頭がぼーっとして

しまい、何も思い出せなくなってしまう。

そのせいで落第したが、博士自身、健康になるために、

独自の健康法をこのころから実践し始めている。

“人並になりたいという一心で、人から何かよい健康法を

きくと、すぐやってみた。

特に複式呼吸、冷水摩擦、駆け足などは熱心に実行した。” 

と博士は書いている。

 

腹式呼吸は 胸式呼吸(*3)と異なり、臍の下、臍下丹田

から息を吐き、静かに、おなかの重心に息を吸い込んでいく

方法だが、これを続けることにより、虚弱体質だった博士が、

学校の徒歩競争に一番でゴールインしするほど体の力に

自信がもてるようになった。 

 

“私は最初から一等をとろうとは夢にも思っていなかったが、

しかし、古人の言の正しいことをしみじみと知った。

白隠禅師のすすめたとおり、腹式呼吸は全身の力を発揮させる

ものであることを痛感した。”

と記している。

実際、複式呼吸は、瞑想でも、ヨガでも、ストレッチ運動でも、

呼吸はその効果を発揮するための要(かなめ)となっている

ことは、今ではよく知られている。

 

息と精神とは密接な関係を持っている。

たとえば、興奮すると、息が荒々しく、いわゆる、息が

上がった状態になり、精神的にますます、落ち着かなく

なるものだ。

耐久力が必要なことをするときのみならず、歌唱や演説、

声を出すときに腹式呼吸でハラの底から力を出すと、

聞いている人の心に届きやすい。

 

普段から腹式呼吸を意識して行っていると、自然と、

身についていくものだとも思う。

さて、博士はこうして、自分自身の体験を通して、

健康法を、健康になりたい一心から試みていたが、

ついに胃腸病を克服するときがきた。

それは大正9年のインフルエンザ流行の年だった。

当時、伝染病研究所の部長をしていた博士は、胃酸過多

で悩まされていた。本文から引用する:

 

“大正9年インフルエンザが大流行したので、私は昼食

を食う暇とてもなく、しばらく昼食をやめていた。

すると、胃の具合がたいへん良くなったので、それからは

忙しくなっても、二食にしていた。

その後一食にしたらどうだろうかと、当時玄米を研究的

に食べていたので、最初冬一か月だけ、寒げいこのつもり

で玄米一食にしてみたところ、胃酸過多症が

なおってしまった。”(以上引用)

 

二木博士はこうして、それから、玄米一食を貫いた。

60歳のときには、ますます健康に自信がでて、合気道の

創始者、植芝氏に師事し、10数年間、毎朝道場に通って、

合道の稽古に励んだ。当時の日課をこう綴っている。

 

”朝4時に起床、禊(みそぎ)をして、牛込若松町に

ある合気道本部道場に新宿西大久保から通い、

合気道の稽古をして、6時に帰宅、それから一日一食の

朝食をとった。

玄米ご飯一杯と、野菜の二分間煮(無塩、無糖)と

果物という簡素さだった。”(以上引用)

 

まるで仙人のような食事だ。

博士は、小食であればあるほど、睡眠時間が少なくて

済むという。

玄米食は完全食だとよく聞くが、博士の体験をもって

語られると、それも説得力のある話だと思う。

 

さて、ここまでは博士の持論の背景となったご自身

の病気の克服の手記であるが、次回は、

博士の具体的な病理学理論に触れてみたい。

 

 

 

*1)明治6年 秋田佐竹藩の藩医の家に生まれる。

20歳までいろいろの病気に悩み、玄米食の実行により、

健康となった。

明治34年東大医学部卒、駒込病院勤務中伝染病の研究

をしながら、栄養学的に食物の研究に努力する。

ドイツに留学し、天然免疫性に関する医学界に

おける世界最高の業績を残す。

帰国後、赤痢駒込菌を発見し、鼠咬症病原

スピロペーターの発見によって、学士院の

恩賜賞を受けた。

かたわら、二木式腹式呼吸を発表、玄米・菜食、

すなわち完全食を提唱した。

その間、当で愛教授、都立駒込病院長、

日本学士院会員、養生会会長、豊島丘女子学園理事長、

修養団団長、その他多くの要職を兼ねる。藍綬褒章

を賜り、その後昭和30年11月3日、

文化勲章を授与せられた。

*2) “健康への道” ~完全正食の医学~ 

東京書院発行、昭和32年

*3)腹式呼吸は二木式腹式呼吸なるものを博士は

発表している。

それを簡略してみると、以下のような方法でできる。

“平田篤胤(ひらたあつたね)先生が述べているように、

寝る前に、体を仰向けにした状態で、

足を強くふみのばし、下腹に力をいれて、息を

数えながら、胸から上を虚にし、腹から

下を実にするという心持で行うのが良い。・・・・

呼吸時は、吸うときは、腹のふくれるように

少し腹が固くなるように息をすい、

あまりいきまないように少しとらえて、精神を

落ち着かせて、静かに吐き出す。

 

胸の方から先に空気を出す。

次に上腹部にある空気が胸を通って、外へ出て

下腹に少し残るように出す。

吸うときも吐くときも下腹には力をいれて、

長く徐々に吐いたり出したりすることが大切だ。

また、呼吸は鼻でするのがよい。

この呼吸は八分いれて八分出すことを数回繰り返して

あまり疲れない前にやめるとよい。

 

 

************

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガンジス川とジャイナ教の文化に触れた旅

2018年11月17日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

2018年10月・11月インド滞在のまとめ  2018・11/17

*****************************************************************

今回の旅。いくつかの思いがけない出来事がありました。

それぞれに印象が深く、アトランダムに想い出

振り返ってみたいと思います・ 

下の写真はガンジス川で、母の遺骨をインド古来の、

お釈迦様時代から続く死者の霊

弔う儀式を、行った時の写真です。

 

 

流しているのが、母の遺骨を包んだ白い布地です。

お経(般若心経など)をあげた後、流します。

そのあと、バナナの葉っぱの上に花びらと蝋

燭に灯をともし、流して精霊を癒しました。

 

 

目の前には対岸にお寺など、古い建物があります。

一番高い岡に建てられているのは、ハリドワールで

も有名な女神の寺院です。

朝九時でした。

4時にデリーをタクシーで出発して、4時間強乗り続け

8時間半にガンジス川聖地、ハリドワールに到着。

信じられないほど、人気のないガンジス河の水量は多く、

流れも速く、母の追善供養の儀式は20分足らずで

終わりました。 

目的を果たすと、そのまま、又デリーに引き返しました。

 

次の写真は、インド人に頼まれて、初めて自分のサリー

を友人の娘さんに着つけた時の写真です。 

彼女は人生2度目のサリー着用ということで、普段は

ジーンズで闊歩しているのに、この時は歩くのも少し

気遣いながら・・・

 

 

 

この彼女がカレッジの卒業式に、ぜひ来てほしいというので、

参列させてもらい、そのあと母親や親戚の人達ととったのが

以下の写真です。

 

 

向かって左から2番目が彼女です。

ガウンの下はインド伝統服ではなく、モダンなミニ

カートが、時代の変遷を感じます。

実は、彼女は、完全な菜食で殺生が禁止され、

空中の微生物を吸い込まないように、マスク

をする人がいるほど厳格な、ジャイナ教の出身です。 

つまり、姓が、ジェーンとつくのです。

このジェーンという名前が先祖代々、ジャイナ教徒

の教祖の血をひく証明です。

 

たまたま、卒業式から数日後、ジャイナ教徒に

とって、大切なお祭りの日にあたり、彼女の

家族から、一緒に夕飯を誘われました。 

ディナーを頂く前に、家族一同で、ジャイナ教の

テンプルに新しい服に着替えて詣でます。

にもぜひとお声をかけていただき、一緒に、

めての体験である、ジャイナ教のテンプル

に入らせてもらいました。黄金の寺院の模型が

飾られ、荘厳な雰囲気が漂っていました。(写真下)

 

 

このお寺でのお祈りが終わると、自宅に戻ると、家長が

サンスクリット語でジャイナ教のお経を唱え、家族全員

でお祈りする儀式が 最後に残っていました。

和気あいあいと 寺から戻り家族で団らんしていると、

その用意ができた家長のお経が始まりました。(下)

 

それぞれ、皆、絨毯の上に正座(印度の正座はアグラ)

し、一緒にチャンティングが始まりました。

さて、ヒンズー教徒にとって、年に一度の最大な祭り、

ディワリが11月7日にありました。

友人に誘われ街のにぎやかさを味わいに、近くの

マーケット(いわゆる商店街)に出かけました。

そこで、女性が、おめでたい時、結婚式やお祭

などに行う”ヘナ“を、手の甲にしてもらいました。

下の写真です。

 

 

ほぼ、完成まで25分、付けてもらった後、

シャワーはNG。翌朝までヘナしてもらった手は

そのままにして、自然にはがれるのを待つと、

次のように、くっきりと模様が現れました。(下)

 

 

さて、今回のインド旅の目的の中でも、最も肝心な 

ナダブラハム(音の真髄)を得ること、つまり、

インド古典音楽の成果は? 

はい、勿論。

幸いに、ありました。かつての、シタールの師匠と

特別レッスンをいただけました。

 

次回から、自然治癒力のお話です。 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

****************************

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする