自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

お知らせとお詫び と追記

2022年07月21日 | 介護と自然治癒力

約半月の、お暇(いとま)を乞います   2022/7/21

****************

今朝の投稿の追記)

今朝がた、下記のようなご報告をさせていただきました。

が、現在 7月21日16:20、約8時間経過して 補足を

させていただきます。

 

昨夜、就寝前は、38度5分の熱で、それでも、定席に

座り、夕飯を食べ、レモネードを飲む元気がありました。

 

今朝も、同様の熱でしたが、昨夜と異なり、

気管支から上がってくる痰で 時折、ゴボゴボと咳を

しながら、体温は39℃5分まで上昇。

 

私は、横で、セラピーをしながら注意深く様子を

観察。

時折、声掛けすると、”大丈夫”としゃがれたハスキー声

で返事する夫。

痛いところもないし、苦しいわけでもない、と

応答があっても、さすがに、高熱で体内は灼熱、

だるいだろうと推測。

 

一方、これでコロナ菌は死滅するだろうと、彼の生命力

に手を合わせ、火の浄化、それは、不動明王のあの、

燃え滾る火技の行にも等しい、今の夫の身体に、祈りを

深めていました。

その心持で、順気を整え気合を入れる8時間でした。

 

現在、熱は、38度半ばに戻り、ハチミツとヨーグルト

を混ぜ、リンゴの寒天ゼリーを口にするだけ、回復して

きたように感じます。

 

気功をされている方は、ご存じだと思いますが

順気が通っていない身体には、足首からつま先に

かけて表裏、とても冷たいのが、普通です。

高熱で39度まで上がっていても、ここだけは、

氷のような感触なのです。

これが、温まれば、だいぶ、身体が回復すると

思いますので、この部位が温まるような

施術を試行錯誤している現在です。

 

応援マークをいつもいただき、ありがとう

ございます。

とても大きな励ましとなりました。

この場を借りて感謝申し上げます。

****************************

介護を通して、今、沢山、学んでいます。

理屈ぬきの、寄り添うの意味、愛の意味、忍耐の意味、

エゴの意味、ヒトの儚さと強さ、そして、波動という

心と身体から発する、創造力。

 

冒頭の写真は、10日ほど前のショットです。

筋肉が削げ落ちた夫が、一人で歩き始めました。

彼は、これまで、要介護4の認定を受けて、3年間

車いすとベッド生活でした。

が、自宅に戻って3か月の間に、こうして一人で

歩けるようになりました。

 

ところが、昨日、日中、お世話になっている施設

から電話で、夫が高熱を出したとのこと。

他の数名の方たちは、もっと早く、発熱して、施設の

ゆかりの病院で調べたら 全員がコロナ陽性と判明。

 

”須田さんもコロナ陽性と思えます。

皆さん、病院に行きましたが、熱程度では、自宅で療養

してくださいと、熱覚ましの薬をいただいて、帰宅した

模様です。

しばらく、自宅療養でお願いいたします。”

ということでした。

 

その後、防護服と完全マスクが自宅に届けられました

そのようなわけで、

皆さま、しばらく、介護に徹底いたしますので、

少なくても2週間のお休みをいただきたいと思います。

 

また、ご報告をいたします。

どうぞ、皆さまもご健勝に、その間、お過ごしくださいます

ように。

ご報告とご理解をいただくために、一筆いたしました。

 

 

 

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ハイヤー セルフの声なき声が・・

2022年07月15日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方


聞こえる私です・・・” God と Good”   2022/7/15
*************************

最近 特定宗教団体の母親の献金額が一億円、そのため、家庭
崩壊、その家族の一人が、安倍晋三氏を、ターゲットに爆弾を
投げて、命を奪い、世間を震撼させた悲しい事件が起きました。

その理由というのは、母親が莫大な額を貢いだ宗教団体は、元
をたどれば、日本に招いた当時の権力者、岸信介元首相だった
からという話。 安倍晋三氏は、その孫であったのです。

信者が献金するという動機は何なのでしょう?

”神からの愛は、お金で買えるのか?”
”神への愛は、献金の多寡で、評価できるのか?”

と考えていたときに、以下のように、ハイヤーセルフから
答えが来ました。

”そろそろ、究極のことを言う。

いい加減に、神をあがめる心を利用するのは、止(や)め
たまえ。

君たちが、神という言葉で人々に、頭を垂れさせ、彼らの、
真心を逆手にとり、その家族を不幸にしてまでも、執拗に
私腹を肥やす献金に、固執するのは、いかなるものか。

その神は、一体、どこに、いるのだろうか? 

信者の人たちよ、本当のことを知り給え・・・
神とは寺院の中にいるのではない。
そこに置かれた像でもないし、そうした偶像を作られる
対象ではない。

神は、実は姿形をもって、’存在’ しているものではない
からだ。
存在していないということは、空想かといえば、そうでは
ない。
 
神と称される、実態は、エネルギーとして存在している。

大いなる創造の想念と生かす力として、君たちの中に、
外に、空気のように、取り囲み、存在しているエネルギー
ということ・・・

その ’パワー’ は、だから、あなたが生きている根源の
力だ。
それを君たちは、本当に自覚したことがあるか?
君たちの中から無限に、湧き上がる、あの力を?

あの力を自覚できたら、’神よ!’と、外に向かって呼び、
神の愛を求め、神を探すための術を、他者に聞きに行く
必要があるのか?

神の王国を作るために、その神を標榜する組織に、献金
することが信仰の証になるのだろうか?

あなた自身の内にある、そのエネルギーを自覚したとき、
一人ひとりがそうしたとき、自ずから、神の王国に
ふさわしい愛と調和の世界が、地上に、顕現していくだろう。

”あの力”を自覚できたら、”あの力”の本流に、自分が
つながっていることを知ったら、”その本流”こそが、
自分のルーツだと理解できたら、あなたの求めていた
”神”と出会えたということ・・

神 という姿形を持った実像は存在しない。

あるのは、エネルギーだけだ。
神と称されるのは、自分の内側から湧きおこってくる、
真の声、自分を導くハイヤーセルフの声、そして、声を
送りだしているエネルギーそのものなのだ。

それは、姿なき、創造のプロセスの中に現れる、確実なる
エネルギー。

創造のプロセスとは、何か?

瞬間瞬間に、今、肉体を維持するために、自分意識が自覚
しない間に身体中のすべての、細胞が行っている一連の
働きの中にある。

古い細胞は、毎日死滅し、新しい細胞が生まれ変わり、
新陳代謝が休むことなくすすみ、自律神経を働かせ、
心臓を動かし、細胞同士が意思疎通して、必要な栄養素
がそこに行き、いらない廃棄物は肉体の外に捨てられ、
ウイルスが侵入すれば、白血球が増加して、彼らと闘い、
抗体を造り、免疫を強化させる。

今も休むことなく、こうして、身体を守りながら、
身体を生かしているエネルギーが、生命力といわれるも
の・・
神の別名。”


”このエネルギーを自覚して、意識をもって、活用すれば、
君たちの人生の願いは、すべからく叶う。

叶うというのは、言葉のあやだ。

その創造力を知れば、ことごとく、自分の思うままに、
量子は形ヅクラレ、それらの量子は結び合って、
現実の表現として現れ、君たちの願いは、実現していく。

そのためには、まず、自分の中に”それ”が”存在”している
事実を、心から、思い出す必要がある。

それは確かに難しい。

その理由は、君たちは、肉体を持っているからだ。
肉体の五感によって、すべての事象を判断する宿命を
持っているからだ。

そんなに簡単に、このパワーを自覚することが、
できないような仕組みになっているからだ。

五感感覚では、このパワーは、感覚外の領域であり、
五感をもって、把握できないからだ。

科学と称するものも、この五感感覚をもとにして、
出来上がっている。

だから、目で見て 耳で聞いて、確認して、納得できる
データしか、ヒトは科学的だからと、信じることは
できない。

しかし、このパワーは、最新の量子物理学と、霊性で
理解される。
誰もが持つ、魂がつながっている霊的な智慧か、
アインシュタインのような物理学の大家なら、
信じられることだろう。

が、安心したまえ。
必ず、君はそこに到達する。

人はそこへ到達するために、向かっているのだから。
もう到達している君は、さらに、深く掘り下げて、
神人合一の、人間の本当の在りようを、体現して
いくだろう。”

”そこの到達するために、ヒトは、躓き、転び、
物質的世界や考え方(常識)に翻弄されて、一歩ずつ、
前進するために、人生を生きている。

体験して失敗して、物質の扉を少しずつ開けながら、
奥にある、霊的な扉にたどりつく。”

”神は”GOD"だ。
’GOOD’は神の形容詞だ。

’良い’という意味にしては、出来過ぎた文字合わせだ。

O,つまり、もう一つ、神のGODという単語の中に、
現象界の世界の空間を表す〇を付け足せば 現象界で
神’God'が現れたとき’GOOD’といわれる状態になる。

善きもの、ただただ、善きもの、であるのが、神と
いわれるエネルギーの正体。

それは、傷つけることなく、生かすのみ、咎める
ことなく、愛するのみ、排斥することなく調和に
包み込む、大いなる創造の原動力が、まさに、
このエネルギーだ。

このエネルギーに集中する。

何をしていても、誰といても、どこにいても、どんな
感情で揺さぶられていても、このエネルギーを意識
している心がぶれないように、することが最大の修行
かもしれない。

それは自分自身との闘い・・

これが、神を想うこと。
これが、信心。
純粋な、神への想いが、神が一番望まれ、喜ばれる
捧げもの。

このエネルギーを知ることは、むしろ、頭を垂れる
ほどの、謙虚さが生まれることでもある。

肉体次元の自分の中にある、この異次元の創造力は、
自分のものでもあると同時に 与えられたものである
という認識が生まれるからだ。

悟りを知っていても、悟っていないようにふるまい、
深い智識を持っていても、まだまだ浅い知恵者で
あるように、人は、おのずと遜る(へりくだる)
術(すべ)を身に着けるだろう。

この限られた肉体で使われる、小さな脳裏で考える、
そのエネルギーの活用量は、ほんの、海の浜辺の
砂一粒程度の、小さなものである、ということを
理解できるからだ。

そのエネルギーを理解すればするほど、ある意味、
人は用心深くなるだろう。

私は無限の力があるといって、断崖絶壁から海に
向かって飛び込むような真似はしないだろう。

その力を生かすためには、まず、自分の想念エネルギー
を整えること、完全に、そのエネルギーと一致する
ためには、とても注意が必要で
あることを知っているからだ。”



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神話は実在の話か,おとぎ話か?

2022年07月06日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

正道の神代時代から、権力を争う闘争世界への移行         2022/7/6

**************

超古代文明が栄えたところ、例えば、

日本の秀真伝えに書かれている

数十万年前から数万年前の時代は、

単なる

神代の神話と、現代人は思っている

ようだが・・・

 

私の師から聞いた話をもとにして

お話させていただく。

20万年前に都市があったか?

といえば、あったという。

現在は、土の下に埋もれている

かもしれないが、当時は、

美術や学問が盛んで、そこに

寺院も建られた。

が、その寺院の役割は現在と

少し異なる。

現在のような礼式にのっとった

礼拝場所というより、そこを

人々は通り過ぎるときに、

自分自身の中に住む神との対話に

意識を集中できるような

役割をしていたらしい。

 

この超古代都市の人々は、

現代よりはるかに高度の哲学を

持ちながら、生命力は強く、

今よりはるかに長い、寿命を

保っていた。

数千年というのは、驚くべき

寿命ではなく、数百年から

現在のように百歳を待つ前に、

平均寿命の年を迎えると

いうことは、考えられなかった。

 

古代人の信仰は、儀礼に満ちたもの

ではなく、むしろ、

生活の中の生き生きとした生命を

瞬間瞬間感じ、大切にして、

生きていくという、生命力の尊重

と、生命力を健全に生かす

智慧そのものだったようだ。

 

そうした生き方は、自分の生命力が

どこから与えられたかを、

承知だったから、その大元を十分

理解しその根源とつながる

ことができて、そこから無限の

富や物質的繁栄が 自然と

もたらされていった。

 

寺院は、そうした生命観とともに

発達した、科学や文化、

技術や歴史・遺産となる習慣など

後世に繋いでいくための

役割を果たすところだった。

寺院で人々は、そうしたことを、

記録を残し、保存しておいた。

また、集会場の役目をして、

専門家が集まり、研鑽したり、

当時の(現代よりさらに進んでいた)

科学的な議論をする場所

でもあった。

 

建築技術は進み、必要な金属の製造も

おこなわれ、農耕も行われ、

その都市に住む人たちは、一人ひとり

が自分の本質を生かした

仕事に従事し、賢明な智慧者が

数人いれば、穏やかに町の生活は

保たれた。

そこでは、法律はまだ作られておらず、

社会の調和は、健全に

保持されていた。

 

時が流れた。

人々の数は膨れ上がり、多くの

価値観が生まれ始めていた。

過去から引き継いて、当たり前と

されていた”正道”がいつの

間にか、無法の道を歩む者たちによって、

乱され始めた。

 

支配志向のあるものや、正直者たちを

利用しようとする連中も現れてきた。

こうして、次第に人々の間に分離

が始まり、統治するものと、

されるものという、区別が出てきた。

 

正直で正道を歩く人たちの一部は、

こうした風潮に、批判的になりながらも、

一線から身を引いて、隠遁的生活をしながら、

自分たちの信じる智慧と、正道の道を

同胞に訴える努力を試みた。

この隠遁生活をした、智慧者たちが、

現代に続く、原始的な

僧侶団の源流になった。

 

表舞台で権力を大きくしていく

統治者は、王と呼ばれるように

なり、行政的集団をつくり、

政治を形造っていく。

その時には、古代の、生命力の源

と意識をつなげ、生活の中に

実践していきながら、豊かな

バランスの取れた生活をしていった

先人たちは、完全に過去の時代

のものとなり、煩雑で人間の

こざかしい知恵を使いながら、

苦労とともに生活を送るという

現代のパターンの基本が、できていった。

寿命は短くなり、支配者に年貢や、

労働義務を果たす生活苦が

生まれ、その生活の苦しさ

忘れるための、肉体的快楽

(飲酒や肉体的欲望のはけ口)に

溺れることも覚えていった。

 

寺院は、古代の本来の、人々が

文化や技術・科学的発達のために

使われていたところではなくなり、

権力者たちが自分たちを守る

ために雇った、司祭により、

人々の罪深さを説き、

救われるためには寺院に寄進をし、

僧侶たちを大切にして、

そこに祀られた神々に帰依する

必要があると、教える場所に変った。

 

人々は、自分たちの力の微小なる

ことを自覚し、その上に罪と

いうレッテルを貼られ、恐れ

自己(生命力につながっている

存在であるという意識)喪失感を、

受け入れた。

寺院では、本来の生命の源への

賛歌と喜びをたたえる場所から、

儀式的で、生贄を捧げて罪とが

への許しを請う場所となって

しまった。

 

そうして時代は過ぎ、生命の源へと

再び、心を回帰させることを

目的とした、魂のルネッサンス

訪れたのだ。

西洋社会には、イエスキリストが、

東洋社会には、仏陀が、その役目

をになった先人として出現する

ことになる。

 

二人の先駆者は、古代の人の実相を

謳歌していた智慧を、

失い、罪と死老病苦で苦しんで

いる人たちの、光から遠ざかった

意識を、解放させ、再び、古代の

光に満ちた精神に回帰

させるために表れた。

 

”我はすべての者の道なり、真理なり、

生命の光なり”という

キリストの言葉が、それを表している。

真理とは、特別な宗教の教えではない。

生命の実相に回帰したとき、

その生命の光に心身を照らし

合わせたとき、真理を知ったと

いうのだ。

真理にくみする者は、わが声を聴く~

というわが声とは、

特定の宗祖の声ではない。

誰もが心の奥に持つ、真の我、

つまり、光の我の声と、

繋がるということなのだ。

 

さて、このお話のジャンル区分けは、

”ホツマツタヱ”とした。

それは、どうしてかというと、

日本の超古代史と言われる、

この書の中に記載されている人の

寿命や天皇の即位の期間が、

常識からはるかにずれて、途方無く、

長いのである。

 

何十万年という単位すら出てくる。

超古代史とするのならば、ヒトが

何千年も命を有して生きて

いる時代が、日本には確実に

あったことになる。

このあたりは、研究者によって、

いろいろな考え方があり、

時には、自分なりの計算方法

使って、現代常識に当てはまる

ような数字に、入れ替えて解釈する

人がいるくらいだから、

この常識を逸した寿命の計算

には多くの人たちは、素直に

理解したとは言えないとは思う。

 

私は、シンプルにこう考える。

天照大神より、さらに昔の時代、

ウビチ二・スビチニという

初めて、男神、女神が婚姻して

家族を作り始めた神代の時代は、

現代とははるかに異なる、

ヒトと神とは、ほぼ一体で生きて

いた時代ではないかと。

 

先に大師が述べていたように、

神話の世界とは、実在する世界の

映し図であり、当時は人が天と

自由に心を使い、行き来できて

いた時代なのかもしれない。

つまり、我々が縛られている

肉体的次元の、時間や、空間の

束縛が、ほとんど無かったのだろう。

 

このような形で、時空を超越

しながら生きていればヒトは

年を取らない。

すでに何度もこのブログでご紹介

していて恐縮であるが、

ヒマラヤのヨギ、ババジはすでに

有身体の姿で、千歳の齢は

過ぎて生きていて、時々信者の前に、

姿を現していらっしゃる。

 

このヨギは、ガンジス川の大岩の奥

に潜んでいた、姉君に呼ばれて、

その身体は維持して、幽体、

つまり、三次元の世界から

消えないでほしいと、懇願された。

その理由として、今、肉体を

もって生きている人たちも、

そうしたババジの肉体の姿を

有しながら、肉体にとらわれず、

心の赴くままに千変変化しながら、

ヨギとしての務めを

果たしている姿を見せることで、

真の人間の姿を認識できるように、

という姉君の想いがあった。

 

この時代に生きていた、神人合一

ともいえる我々の遥かなる

祖先たちも、このような、

ヨギのように、正道を生き、

神の御心と一体になりつつ、普通に

生活をしていたのではないだろうか?

そして、生命の大源と常に、繋がっていた。

 

はるかに、いまの世の、精神性の

暗黒時代とは異なる、光の世界

であったのだろう。

時代は変化していく。

きっと、当時が、真の黄金文化であり、

現在が精銅時代であったとしても、

また、このような黄金時代が、再び、

やってくる方向で、動いていると

信じたい。

 

 

 

 

 

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お詫びと訂正 

2022年07月05日 | 協会ホームページ

”滝行の意義への誤解的言い回し”に関して     2022/07/05

 

先の2022年7月1日の記事で、はじめ発表した記事の表題に、

’滝行や苦行で悟りは開かれない”という文言を付けました。

 

そのあと、それを消去して、本文に改めて以下のように、位置づけをさせて

いただきました;

”他にも、いろいろな方法で、病という、身体の不調和を消した人たちは大勢います。

多種多様の宗教があるように、本来の自分の姿に立ち返るためには、多くの

手段があるといえましょう。

滝行や瞑想三昧をする理由も、ここにあると思います。

徹底的に身を清めたり、下界の境地を魂の境地に、引き上げていくとき、こうした

様々な行を通して、本来の姿に立ち戻るということは、大いにあり得るのでしょう。”

現にお釈迦様も、悟りを開く前には、岩屋にこもり、大木の下で瞑想を重ねていた。

 

この表題をつけて、間もなく、私の尊敬する方たちの中には、実際、

滝行で身を清めながら、ご自身の実相に大きく近づいていらした方たち

のお顔が、浮かんだからです。

 

決して滝行を否定する意味で、当初、このサブタイトルを書いたのではなく、

あくまでも、’苦行をすることが、悟りの道への条件である’~と、世間一般に

信じられている常識を、否定することだったのですが、誤解を招く、言い方で

あることに気が付き、訂正させていただきました。

 

滝行や苦行をされて、神仏に近づく修行をされている方たちにとっては、

大変、失礼な言い回しになってしまいました。

訂正させていただき、配慮および考慮が足らなかったことに、お詫びを申し上げます。

 

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病が消える、”想念エネルギー”

2022年07月01日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

自分の魂の資質が持つ”凄さ”・・・・・     2022/7/1

*************************************

身の回りでは 少なくても8名の人が、難病や、

死の宣告を受けた病、奇跡としか言いようの

ない回復などを、実現しています。

どうしたら、そんなことが起きるのでしょう。

 

その前に、前回までのお話の大要を、振り返って

みましょう。

今日のお話は、その続きとなりますので・・

”悟り”についてでした。

”悟る”ことって、とても簡単なこと・・

ただ、ただ、自分の本来の姿。

それが”完全な姿”なのですが、それを、知ったとき、

変容が心身に起こる。。。

 

心の中では、自分の中の、完全なる自分を

見つめる”聖なる心”が、意識され、

その心こそ、”存在”といえる、物質や現象

を作り出す,”種”を秘めたエネルギーす。

自分が神聖なる存在だという事実を、

’真理’と呼ぶのなら、’真理を知ったとき、

ヒトは 真の意味での”束縛のない自由な境地’

に至るということでした。

 

さらに、”自由な境地”というのは、肉体的にも

自分を束縛するものがない、

境地でありますから、一般的に、不幸と呼ばれる

苦しく悲しい制約や、限定された条件から

解放された心持でもあります。

 

仏教でいうところの、’不生’で’不滅’で、

空(くう)の存在に、限りなく

近づいた、心境でもあるといえるでしょう。

 

さて、今日の本題です。

 

この時、病は癒えています。

それまで、病を持っていた人というのは、

どこかで、自分を責めて、何か自分を許せない

という重しを背負い続けていたかもしれません。

 

到底、そんな自分を愛せないし、赦すことも

難しい心境だったでしょう。

そうした想いの反映が、何か悪いことが起きても、

当然な自分と錯覚するほどだとしたら、それに

ふさわしい病を、作り出していたことでしょう。

 

”罪、病、不調和、不幸”は、湿気の多いときに

発生するカビに似てます。

一旦、カビがつくと、その家具は、あっという間

にカビだらけになってしまいます。

でも、カビを落とせば、本来の光沢を取り戻すのは、

私たちの病を健康に戻す作業に似ています。

この湿気の多い、じめじめした重い空気は、自分を

含めて他者を攻撃する、あるいは、怒りを覚えたり

する、執着的な心持。

反対に、カビが生えないときの空気は、カラッと

した湿度のないものですから、これと対照的な

心持だといえるでしょう。

 

偽物である 罪意識や、自分への劣等感などの、

カビにふさわしい、’想い’をもし、完全に抹消したら、

本来のピカピカの自分の姿が、現れると、覚人は

言います。

 

アートマセラピーで、不調和が消えていくその

理由は、これだと思います。

小学生のころ、理科の実験で太陽に虫眼鏡を

紙の上に置いて、かざすと焦点が定まったところが、

その熱で燃えていきます。

私たちの想念が、自分の神性である、実相に集中

したとき、大きなエネルギーが湧いて、病や不完全

が焼けてしまうのに似ています。

 

他にも、いろいろな方法で、病という、身体の

不調和を消した人たちは大勢います。

多種多様の宗教があるように、本来の自分の姿

に立ち返るためには、多くの手段があるといえましょう。

滝行や瞑想三昧をする理由も、ここにあると思います。

このような修行によって、徹底的に身を清めたり、

下界の境地を魂の境地に、引き上げていくとき、

こうした様々な行を通して、本来の姿に立ち戻ると

いうことは、大いにあり得るのでしょう。

 

そして、こうした科学的でないような方法で病が

癒えるという現象に、共通して言えることは、一つだけ。

その不調和な事象を表している原因となる 自分自身

への”罪意識”、や”不完全意識””神とつながる想念”

波動で、昇華する仕組みなのです。

 

厄介なことに、こうした負の意識は、潜在意識の奥の

引き出しに、しまわれている場合が多いので、

多くの場合は、楽しいこと、たとえば、趣味や旅行、

美食やパーティーなどの社交の場、習い事を含めて、

それに没頭することで、なんとなく抱えている

”重さ”を忘れる傾向があることを、心療内科を

創立した池見酉次郎博士は指摘しています。

 

話を戻しますと、誰もが知っている、聖書の奇跡

とされる話。

キリストが死人を生き返らせたり、目の見えない

の目を開かせたりしたこと、

それらは、でも、決して、奇跡ではありません

 

なぜかというと、きちんと目に見えない法則のもと

行われているからです。

キリストの”自分は神の子である”という、意識を

常に持っていました。

その意識は、神の心のヴァイヴレーションに

重なっていました。

身体的に不自由な相手を、キリストは、その波動

で包んだときに、ご自身の愛にあふれた精妙な

神的波動と、相手のキリストへの信頼と

”救われたい”と強い願いが重なり、相手の深層意識

の中から、自分は不完全であるという意識が

消えたのでした。

そのとき、その人の彼の魂がつながっている超越意識、

つまり、神的意識波動が、大きく振動し始めて

キリスト意識に、共鳴したからです。

共鳴して、病が消えました。

生き返りました。

なぜなら、キリスト意識の根底にあるものは、

”人間は神の子である”という死を知らない存在である、

というその意識だからです。

 

共鳴できたのは、その不完全に見えるその人自身も、

神の子だからです。

神の子の意識波動は、キチンと心の奥底に、

取り出されることなく、ただ、使われずまま、

しまいこまれていたのでした。

 

キリスト意識と、その人の神の子の意識が、

こうして、重なったとき、おのずから、そうした

不完全な姿が消えました。

 

この原理を応用すれば 自分自身の身体の不調を

整えることは、キリストの存在がいなくても、

一人でも可能です。

多くの修行者たちは、車いす生活を余儀なくされて

いても、車いすを捨てて生活をはじめたり、

余命宣告を越えて健康を取り戻したり、医者が

見放した持病を克服したり、しています。

 

それは、この原理が応用されたからにほかなりません。

”自分の想念を意識を、常に、神と神の完全性に

振り向けることで 不完全な自分の身体のヴァイヴレーション

を高め、神の完全性を発する創造の源の波動

に融合し、その完全性に一体となった”わけです。

 

病に苦しむ人たちは、そうした、完全性を実現した

修行者のもとに、集うでしょう。

その修行者の心の持ちように感化されて、少しでも

完全なる自分を見るように、自ずから、波動が整っていく、

そうすれば、自分の苦しみの元になっている

意識を放つことができるのを知っているからです。

 

自然治癒力セラピー協会で申し上げているところの、

”自然治癒”の最たる根本的方法とは、こうした

”想念治癒”の一言につきます。

想念治癒の場合、一度治って、また、ぶり返すとか、

さらに他に悪い症状が出てくるということはありません。

原因を根こそぎ、とってしまう、根本的な治癒だからです。

 

想念波動は、本当に強い力を持った、創造力です。

これこそ、宇宙創造時のもっとも強力な創造の手段で

あったことは、今では知る人ぞ知るの当たり前の事実です。

多くの聖典を開いて 地球創造の原理をみると、

そのことがわかります。

 

健康も病のみならず、すべての存在が、この波動を源に、

創造されること。

人の精神の解放も、奴隷化も、この想念波動の力によること。

 

心療内科の先駆者である池見酉次郎博士が、セルフ

コントロールの医学を確立した背景に、この想念波動の

実在を医師として、応用することにありました。

暗い想念には、それにみあわった身体の不具合が発生し、

そこに光を射しこませれば内臓の不具合が、おさまっていく。

それを患者自身で、客観的にコントロールできるような、

”セルフコントロール”という仕組みをつくったのも

池見博士でした。

 

私たちの本当の心は、純粋で、まっすぐで、愛で、

喜びであること。

その自分の本当の心を見つめることは、内在する神の心

を見つめることであり、そこに、意識を置いていくことで、

自分の完全形が、必ず、外に表れていくこと

を知ると、恐怖は消えます。

 

すると、身の回りにも、自分の身体にも、調和に満ちた

姿が、自然と現れていく・・

それこそが”想念の波動エネルギー”の自分が自分できる、

一人での癒し方法でそれがいかに効果的であるかは、

冒頭に書いたように、身の回りのクライアントさん

や死から生へ向かうことができた、人たちが証明して

くれています。

 

 

 

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