自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

いつ?誰が?~”今の私が”

2024年07月30日 | 今朝の”インスピレーション”


いつもハッピーです。 "I am always happy😌 "
2024年7/29
******************
今朝は、久しぶりのインスピレーションです。

聖なる場所といわれる教会やお寺
掃き清められた静寂な空気と荘厳さ

そこに佇み、座っているだけで
心が落ち着いてくる場所

誰がそうした雰囲気を創り上げているのか?
神様? No
仏様? No

そこに詣でて、祈り、謙虚に自分を見つめる
人々の心が、集積しているから・・その波動が
創り上げているのでしょう

手を合わせ、頭を垂れて、純粋に至高なるものへ
想いを馳せて、そうした、心が創り出しているのなら・・

そうした波動を出せば、今、ここが聖なる場所
になりえるはず・・・

どうやって?

心の中にある、この聖なるお宮(魂が鎮座する)
に意識を集中して、目を閉じて、そのヴァイブレーション
を創り出していくことで・・

いつ? ~ 今でしょ。
誰が?~ 私が。

そのヴァイブレーションを創り出せるのは、
あの人でも、あなたでも、彼らでもない。

そのヴァイブレーションって何?

私自身しか座れない、小さなこの聖なる心の内の
特別な場所で、

活かされていることに、
与えられている沢山のチャンス
共に過ごせる家族がいることに、
信頼できる友人たちの存在に感謝できたら

その想いは、ヴァイブレーション(波動)になって、
果てしなく周囲に伝播していくことでしょう。

さらに、波動は波動を呼び、実現化されて自分の元に
現象化して、自分の出した、波動にふさわしいものが
顕れてくるでしょう。

波動は創造の種だから。

善き人との邂逅や、必要なものが必然的に与えられ、心身
が健全化し、エネルギーがふつふつと湧いてくるでしょう。

それを、幸せ というのなら、それを造るのは、結局
今の私 ということなのでしょう。

いつも幸せ・・I am always happy・・

この言葉は、だから、とても効力のある、マントラ(真言)
なのです。

(マントラ:注~常に、口に出すか、念じることで
効力のある言霊)







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宇宙に飛び出し感じること、それは、合気道や池見博士のいう、セルフ の自覚

2024年07月28日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方


地球に向かう宇宙船の中で エドは 深い絶望感に 
打ちひしがれる。
彼の言葉を引用する。
 
“ 真理がわかったという喜びにつつまれていた。
今、自分は神と一体であるという、一体感が如実にあった。

それからしばらくして、、今度はたとえようもないほど
深く暗い絶望感に襲われた。

感動が収まって、想いが現実の人間の姿に及んだ時、
神とスピリチュアルな意味で一体であるべき人間が、
現実にあまりにも あさましい存在の 在り方をして
いることを思い起こさずにはいられなかった。

現実の人間は、エゴのかたまりである。
さまざまのあさましい欲望、憎しみ、恐怖などに
とらわれて生きている。

自分のスピリチュアルな本質などは、すっかり忘れて
生きている。

そして、総体としての人類は、まるで狂った
ブタの群れが暴走して崖の上から、海に飛び込んでいく
ところであるように行動している。

自分たちが集団自殺しつつあるということにすら、
気づかないほど、愚かなのだ。“(以上引用)
 
そう考えながら、エドは絶望していく。

地球に戻り、彼は、この至福感と絶望感の 極端から
極端といえる感覚の波の狭間に揺れた体験を基に、
真理の確信への努力に励む。

もっと、大きな法則をみつけようと様々な哲学書や
宗教書を読み漁り、ついに、宇宙で味わった神との一体感は 
特定の神ではなく、キリスト教を越えた神であることを知る。

と同時に、宗教が 組織化された場合の矛盾 について、
エドは次のように述べる。
 
“ 宗教は、教団として組織化されることから生じた、
真理の道の踏み外しがある。

すべての宗教は偉大なスピリチュアルな真理を掴んだ
指導者の教えに始まる。

しかし、信者は、その教えの本質を十分に理解しない。

 各宗教の教祖となったような人々は、イエス、ブッダ、
モーゼ、モハメッドにしても、あるいは、ゾロアスター
や老子にしてもみな、人間の自意識の束縛から脱して、
スピリチュアル・ワンネス(筆者:精神的同一体)に
触れた人々なのだ。

だから、彼らはみな、同時に超能力者でもあった。
彼らは奇跡を起こした。 ・・略・・

しかし、その教えを受けて、追随した人々のほうは、
自意識の束縛から逃れきれていないために、教えられた
真理をそこまでの深みまで理解把握していない。

だから、指導者が世を去ると、信者集団はスピリチュアル
な道理から、人間的自意識の側に引き戻されてしまう。

そして、教団が組織され、教団全体として、ますます
原初の真理から離れて行くことになる。

教団化された既成宗教は、どれをとっても、今や真の
リアリティー、スピリチュアルなリアリティーから
離れてしまっている。“(以上引用)
 
 そして、エドは独自な方法で、”万教が帰一する一つの真理”、
に たどり着く。

何故 独自な方法が必要だとかんがえたのか?
引用する。

“ 硬化している、既成宗教の枠組みで語ろうとすると、
その宗教の伝統 の 重みにからめとられてしまう・・・

伝統による人間の意識の束縛 は 大きすぎるほど大きい“
(以上引用)
 
エド独自な方法 とは、宇宙飛行士 という特権を生かした
ものだった。
なぜなら、

“ 宇宙空間に出れば、虚無は真の暗黒として、存在は光
として、即物的に認識できる。

存在と無、生命と死、無限と有限、宇宙の秩序と調和
といった、抽象的概念が 抽象的にではなく、即物的に
感覚的に 理解できる。

歴史上の賢者たちが精神的知的修練を経て やっと
獲得できた感覚を、
”われわれは宇宙空間に出るという行為を通して容易
に獲得できた“(以上引用)
とする。
 
エドは 人間のエゴに対して落胆はしたものの、キリスト教や
既成宗教を越えたところの、宇宙の意思、
無限に進化をしていくエネルギーに触れた。

人間がエゴを捨て、宇宙意識を高めることで
宇宙の壮大な計画に協力できるだろうと確信する。

 だからこそ、次の確信を得て、こう、語るのだ。
 
“進化の方向ははっきりしている。
人間の意識がスピリチュアルに より拡大する方向に向かう
 
その時は イエスやブッダやモハメッドという、宗教の
開祖として方向性を示してきた先導者に、われわれ自身が
限りなく追い付いていくのだという。

ユングは、集団無意識 をわれわれ人類が共有しているとするが、
宇宙飛行士のエド・ミッチェルは 集団無意識 を ユングとは、
違う意味合いで こう使う。
 
“ 集団無意識の根拠は 人間が原始時代から蓄積した経験の
集積に求められるべきではなく、エゴから離れた意識の面 
において、すべての人間がそれぞれ神に連なっているのだ 
ということに求められるべきであると思う“(以上引用)

*すべての人間がそれぞれ神に連なっている”の言葉。

これが、植芝氏(前出)でも、池見博士(前出)でも
共通した、真の自分の定義である。

そして、自然治癒力も、この意識によって、無限に発動
され得るのは、私自身が体験している。



************************
 
参考文献: 宇宙からの帰還  立花 隆 著   中央公論社  1994年


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真のセルフは、合気道でも、心療内科でも、創始者の悟りの前では同意語

2024年07月24日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

合気道創始者-植芝氏の禊(みそぎ)と池見博士の”真のセルフ”
2024年7月23日
*****************************************


以下 2023年1月9日の記事の再校です;

昭和34年1月15日、鏡開きの日に合気道本部道場で

植芝氏は、次のような話を遺している。

その筆記があるのでご紹介していきたい。

ここには禊(みそぎ)と合気道の関係性が語られている。
*************************

“合気道とは宇宙内をことごとく、禊(みそ)ぎ、
森羅万象の罪障、邪気邪念を祓い清め処理する
ところの大道であります。

ここに”禊”(みそぎ)という言葉が出てくる。

浄化するという意味だとすれば、合気道は世界の
邪気邪念を浄化する手段だと、いう。

合気道は武道の一つだけではない。

世界、ひいては、宇宙の浄化を促進する手段なのだ。

合気道創始者の植芝氏の言葉はさらに続く:

”合気の道は愛を守る道であります。 

愛なくば、この世の一切は成り立たないのです。

ゆえに合気の真の働きがなければ、この世はつぶれる
と私は信じているのであります。


“合気とは宇宙の中心にたって、漂える世を建ち直す
役目を持っているところの一つの道です。

自己をみそぎ、人を国を宇宙をみそぎ、神の名によって、
進むのであります。”
 

宇宙の中心 宇宙をみそぐ、そして、神の名によって、
つまり、大調和で大平和の 神 の世を顕現するために
すすむと、言う。


ところで、植芝氏流にいうのなら、

病とはどこから生じるのか?
 
植芝氏の考え方を借りれば、禊(みそぎ)が不十分だから
となるだろう。

禊が不十分だと、生命力が隠される

病気は、生命力が十分発揮されていない状態なら
病気とは、生命力の隠ぺいが原因だといえるだろう


隠ぺいすることは、包み隠すこと、

だから、その状態を別言葉で、罪(つみ~つつむ)
ともいう。

罪つくり とは、禊(みそぎ)で、浄化されない
暗黒の嘘の自分(”小我”)が、真の自我(大我)を、
隠蔽(いんぺいしたときの行為のこと。

言霊的にもそういえるだろう。

禊(みそぎ)して、その罪穢れを祓えば、罪という、
’つつまれた’暗黒は 浄化されて、光に変わる。


冒頭の引用文の中にあるように、植芝氏は、禊(みそぎ)
の大切さ、自分を清めることで回りが清まっていき、
しいては、世間の穢れを落とすことができる
述べている。

ある意味、とても宗教的な雰囲気のある言葉にも聞こえる。

が、植芝翁はこう語る。

“私の合気は、宗教から出てきたのかというと
そうではない。 

真の武産(たけむす)から、宗教を照らすのです。 
未完の宗教を完成へと、導く案内でもあります
。”


“そのために、大地のけがれ、地球上における今までの
誤った武によってなされた戦争やけがれ、また、戦争
によって、亡くなった人々の想念を清めて、大地を
浄め、
人類の浄めを慰霊のために、神の意をもって、
この植芝は合気道を以てするのです。

他の方法でそれをする人々もいるでしょう。“



植芝氏のこの”清める”という言葉と同意の、”禊”の
目的は、”未来の宗教”のため、とも、いう。

世界の浄化とは、戦争や争い、人間の自然に対する
横柄さや傲慢さを、自然と鎮圧していく、ことに
つながっていくのだろう。

その過程における手段として、合気道の本領がある~
と。

“合気道とは、すべてを自己に吸収して、相手もなく
敵もなく、それらはすべて自分の中に吸い込まれて、
自己に同化させてしまう”

“悪を悪として切らず、悪を祓い浄めて、和合してゆく
のが合気道じゃ”


病に対しては、

“病を敵対するものとして対処せず、自分の
心を祓い清めて病を受け入れていく”

そうしていくうちに病が緩和していくとも言う。


どのように、自分の中に一切合切を吸収して自己同化
させられるのか?

そしてそれがいかに、平和に貢献するのか?

次の答えがある。

本当の自分は、“空っぽ”だから、空っぽになればよい
という。

“(本当の自分は)小我で動く想念が無い

としたうえで、

人間の真実は神そのものであるのに、
小我の想い(業や執念)に邪魔されて、その姿を
深く奥に隠しているのです。

そして、小我の想念で常に動いて、迷い迷っている
のが、凡夫なる通常の肉体人間の姿であります。 

その邪魔していた想いがなくなってしまえば、
神そのままが現れてくるのです。”

本当の自分は、神であると、喝破する。

ただ、邪魔している想念をたちきれば、神そのままの、
本来の自分が現れるという。

”通常の肉体人間はいわば、宇宙分の一です。 

分霊分母が宇宙であり、分子の一が肉体人間です。 

ところが 
分母分子に分けている棒(業や執念)
なくなると、分母も分子も宇宙になってしまう
のです。

いいかえれば、
空(くう)になると、今までの
人間観はくるりと逆になります。 

すると
宇宙分の一だった人間が一分の宇宙、即ち
宇宙そのものとなるのです。“


ここにいたって、禊(みそぎ)の本当の意味がわかる


つまり、私たちの本質は、神であるのだから、
小我にくっつく、業(カルマ)やマイナス想念などが、
禊で祓えられれば、ちり芥(あくた)が落とされ、
本来の清らかな自分が現れるのだ。

この姿が未来の宗教の真の目的であると植芝氏は教える。

合気道はそのための手段。

そして、私たちは合気道を学ばなくても、神になる
ための、それぞれの手段を持っている。

その手段を遺憾なく発揮させるためにただ一つ、自分の
中心には、清らかな”神”が座しているという自覚だけが、
あればよい。

その自覚とともに、人はそれぞれの方法で、真の自分を
探り出していく。

心療内科の設立者、池見博士の 真のセルフの探求も、
セルフ・コントロール方法という手段が、その
一つと言えるだろう。

それに関しては、これから、ご紹介していきたいと思う。






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池見先生(心療内科創始者)、厳しい”生きがい論”ですね!

2024年07月22日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方





2024年7月22日 病と生きがいの関係

さて、先週に引き続いて、心療内科の創始者の
池見博士のお話です。
今日から、博士が提唱する、健康になるための、自分で
できる療法”セルフ・コントロール”のお話です。


ところで、”セルフ・コントロールのセルフ”とは
何でしょう??

セルフ の意味がはっきりしていなくて、セルフコントロール
の意味が曖昧です。

もともと、医学的には、”現代社会のストレスを乗り越え”
”心身両面で社会復帰への適応能力の回復をはかる”ことが、
セルフ・コントロールの一般的目的とされています。

適応?
それに関して、現代風の一般的解釈を、次のように
博士は、述べています

”(セルフの意味の答えがないままに)適応といい、セルフ・
コントロールといわれるものの正体は、’人がするからおれもする’
・・・といった具合に、ただヤミクモに外的なものに追従し
調子を合わせることのようである”

と世間的な’適応’の意味を書いたうえで、続けて、

”(外的なものに追従するだけで)自分自身になる勇気もなくて、
他人がどう思うかだけで、自分を評価するようになった人間は、
まったく本来性を失って、存在していることになる”

というアメリカの社会教育学者リースマンの意見を紹介してます


’自分自身になる’ とか、’本来性’とか言う言葉が、博士のいう
セルフの意味と関係があるようです。

とはいっても、現実をみると、理想通りにはいかないことも
認めている博士です。

”しかし、世間なみの文化生活とやらができ、富や地位が
身についてくると、自分がヌケガラになっていることにさえ
気が付かなくなるようである。

われわれの ’世間の子’ としての生活の中では、現実に
妥協して、外的な適応をうまくやることで、一応、小市民的な
安定が得られる。

セルフ(本来の自己との触れ合いを深めるなどという、面倒な
回り道をしないこと、ウエットな人間性をすり落していくこと
現代のエリートになるために必要な条件とさえいえる”


つまり、世間の子と呼ばれる自分とセルフと呼ばれる自分は
対照的な位置にあるようです。
世間的に満足が行く方向に進むほど、自分本来の’セルフ’を
置き去りにしていることが多いからです。

私たちの多くは、両方の自分をうまく、調整しながら生きてい
ます。
が、なかには、セルフが失われていくことに対して、虚無感
や社会への憤り、自分自身を批判することも出てきます。

’本来の自分’を置き去りにしていることで、阻害感や喪失感
といった、敏感な反応を示す人も 沢山います。


そうした喪失感を、一時的に紛らわせ、吹き飛ばすための
手段として、池見博士が挙げているのは

”動物的な本能を刺激する俗悪な映画、LSD(麻薬ではないが、
幻覚を引き起こす化合物)、流行歌手、競馬や競輪、テレビ”

そして、私が、冒頭のタイトルに書いたように、”厳しい”と
感じたもう一つの、気の紛らわし方法も、付け加えておきます。

”深い茶の心や花の心などは、教えなくても、中年婦人の欲求
不満のはけ口になる、婦人文化サークル”。

このあたりの評価に、私は、池見博士の求道者としての心を
垣間見ます。

私も、厳密には同意見です。
婦人文化サークルの、欲求不満のはけ口・・深い茶の湯の心や、
華道の心を教えることなしに・・自己満足的な範囲で留まる
カルチャーセンターの講義など・・・


池見博士の、セルフの追究は、真剣です。
心を内側に向けることで本来の自分”セルフ”と向き合っていく
という姿勢が、中途半端ではないから、こうした、きつい言葉
も生まれるのでしょう。

上にあげた、こうした諸々の余暇活動は、心を、むしろ、外側
に向けて、いっときの、理由のない欲求不満や、無駄に時間を
使っていないという言い訳の一端を担っているからでしょう。







引用箇所;”セルフ・コントロールの医学” 池見酉次郎
s・57年9月1日 日本放送出版協会


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心療内科と宗教

2024年07月17日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー


池見博士の宗教観と自然治癒力の接点 7月17日(2024年)
******************************************

前置き)

池見博士は、私の知る限り、最も尊敬する医師である。

自分の最期は、(一般的な西洋医術では自分は納得できないし)、
(解剖に回されたり警察に引き渡されたりする手間がない
ように)(さらに、家族への説得のために)心身医療に
特化した池見博士のような医師にご協力いただいて、
自宅で静かに息をひきとれたら理想的だ思っている

創立者の池見博士のような、極めて、スピリチュアル的
(あえて、この言葉を使うが)で、心理学的な奥深さと
医科的専門知識を兼ね備えた、達人を、私は知らない。

***********************

池見博士はご自身の宗教観に関して、次のように
書いている:①

”私のいわゆる宗教は、自然(宇宙)と、自然の中のあらゆる
存在者、人間社会とすべての個人をあらしめ、個を貫いて
全体に及ぶ生きた秩序への気づきを深め、それをふまえての
自己実現ないし、セルフコントロールを促す’道’ということに
なる。

また、私にとって、’宗教的な生き方’ とは、このような全体的
秩序への限りない、謙虚さと信頼を、日々に培ってゆく
生活態度のことである”

もう少し、上の博士の言葉を砕いて読んでみたい。

宗教には、神や仏がつきものだが、博士にとっては、それは
”全体に及ぶ生きた秩序”をさした。

この秩序は、大自然の営みに、そして、そこでの生きとし
生けるものすべてに貫かれている、”生きた秩序”、つまり、
”生命力とその働き”をさしているように思う。

自然治癒力セラピー協会の、セラピーを可能にする本源は、
博士のいう生きている秩序、つまり、”健康を保つため、
身体にそなわった本来の秩序ある機能”にある。

それは、生きとし生けるものすべてに流れている“個を超えた”、
生命力 にほかならない。

自然治癒力セラピー協会では、これをとことん信頼する。
そのとき、自然と、意識波動が、高まっていく。
最終的には、宇宙意思(大生命力)の波動とつながり、
そのときに、病という不完全さが 自然治癒というかたちで、
消えて本来の健全な姿が現れると考えている。


池見博士は こうしたことをふまえたうえで、
”自己実現ないし、セルフコントロールを促す’道’”を 
ご自身の宗教と定義した。

宗教といえるには、現実にそれが応用されて、活かされ、
生活や健康が、健全に豊かにならなければ、意味がないのだ。

頭でっかちの、独りよがり的な、観念的な”宗教”は、排斥
(はいせき)を呼ぶだろう。

その正義のもとに、暴挙が行われ、信徒から多大な寄付を
要求して、社会悪と呼ばれる種を撒く結果にもなるだろう。

現実に即して、生きた、意味のあるものでなければ、
宗教 とは本来、呼べないものだと思う。

池見博士は、こうしてセルフコントロールをもって 
博士の宗教の定義である、”道”を確立した

では、セルフコントロールとは、どういうものか?
次回から数回にわたって、みていきたい。



 ”セルフ・コントロールの医学” 池見酉次郎s・57年9月1日 
日本放送出版協会





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