自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

エディ夫人への手紙(2)

2020年05月30日 | 健康と直結する”一元論”について

想念と病の関係・・・・・     

2020年 5月30日

*****************************************************************

 

クリスチャンサイエンスの創設者エディ夫人の究極の形而上的癒しの理論を

ご紹介してきた。

深く切り込めばきりがないほど、その論は深く、強く、確信に満ちている。 

神への信頼と神から与えられた命は完全で病はそこに存在しないという信念は、

エディ夫人の意識にゆるぎない

 

が、どんなにその信念と信仰が完全でも、人はいつかは死ぬ。 

死ぬというのは消滅するのではなく、身体の皮衣を脱ぐわけだ。 

人は”死ぬ”という現象の直前までは生きているし、死んだあとでも、

意識があるとしたら、結局、”自分”は消滅することはないのだ。

最近の私はそう感じるのと同時に、だからこそ、以前のように、

”~~だから****だ”と 一定の原因結果のルールを全面に押し出すのに

やや抵抗を感じ始めている。

 

どういうことかといえば、エディ夫人のように、完璧な形而上的癒し論を

展開させていたとしても、ある日、何かがきっかけで認知症になったり、

記憶喪失症になったり、大病にかかったり、不慮の災害に見舞われたり、

という、想いもがけないことが絶対、起こらないと誰が言えるのだろう?

という疑問が出てきたのだ。

 

自然治癒力で私はこれまでの虚弱体質を変えてきた。 

それは確かにそうだ。

誰の手からも”気”と呼ばれる、”プラーナ”の電力(電磁波)が

出ていることも知っているし、それで大概の体の不調は改良できるし、

新陳代謝は、体全体を数か月かけて細胞全部を変える(*1)という

メカニズムに視点を当てていれば、人間が老化することもないこと

を知っている。

 

神は愛なり、愛はすべてを覆う。 それに、波長を合わせられれば、

心身調和や外的環境が整えられることも、体験ずみだ。

が、だから、そうだからと言っても、例外があるということも

つきつけられた。

”人生は奇なり”と言えることが実際、周りに置き始めているのだ。

であるのなら、これが真実であると言い切るのには、この人生は

短すぎるのではないか?

そういう心持であることをもふまえて、先回の続きをご覧いただければ

ありがたい。

*******************************

親愛なるエディ夫人へ。

 

たとえば、次のあなたの言葉(同著234頁)は、どうでしょう?

“Sin and disease must be thought before they can be manifested.

You must control evil thoughts in the first instance, or they will 

control you in the second. 

Jesus declared that to look with desire on forbidden objects was

 to break a moral precept. 

He laid great stress on the action of the human mind, unseen

 to the senses.”

 

須田訳 ~罪と病は、現象化する前にすでにあなたの心の中にある。

心に罪や病を招く考えがわいたらすぐそれを制御すること、

でないと、次の瞬間にあなたがコントロールされてしまう。 

キリストは(聖書の中で)、禁じられている対象

(スダ注:たとえば女性など)を欲望の心で眺めるだけで、

モラルが破られた(スダ注;聖書には姦淫と同罪とある)

と明確に説いている。

キリストは、(外からの)感覚ではとらえられない人間の(

内なる)心の動きを非常に重要視した。“(引用終わり)

 

エディ夫人へ・・・ここで、想いと行動とは、同じものであることを

あなたは打ち出していますね。

私もこのブログで、”意識”を考えながら、想いのエネルギーが

現象化されたものが物質であり、環境であり、病であり、境遇で

あるということを考えてきました。

想いが病むと、体も病む。

では、どのようにしたら 病の想念をコントロールできるのか、

その箇所をあなたの言葉の中から見つけてみたいと思います。

 

いくつかの実話が例としてあげられていますね。

たとえば、237頁には、“A little girl, who had occasionally listened 

to my explanations, badly wounded her finger. She seemed not to notice it.

 On being questioned about it, she answered ingenuously, 

“ There is no sensation in matter.”

 (須田訳: 私(エディ夫人)の話を時々聞きに来ていた女の子が、

悪いことに指を負傷した。

しかも、本人はそれに気がついていないようだった。 

そこで誰かがそれを尋ねたとき、女の子は無邪気にこう答えた。

‘物質(指)には感覚はないの。’ と。”

(引用終わり)

 

この女の子は頻繁にエディ夫人のもとで、お話しを聞いていたのでしょう。 

感覚は私たちの心が感じるもので物質そのものには無い~ということは、

たぶん、指を怪我したことさえ気がつかないでほかのことに心が夢中に

なっていたのでしょう。

 

キリストの言う、”幼子のような素直な心を持つなら天国に行けるだろう”

という言葉を思い出させますね。

幼子は、先入観念や常識にとらわれていない。

 

あなたはこの小さな女の子に、日頃から “肉体は物質で、物質には

感覚はないのよ。 

何か感じるのはその人が~なったら痛いとか、苦しいとか、そういう

心があるからなのよ。”

と教えていたのに違いないですね。・・・

 

ガンジー(印度を独立に導いた独立運動の父と慕われる聖者的政治家)

の話を思い出しました。

彼は、麻酔なしに、手術に挑んだのです。

そんな大胆なことができた理由は、肉体とスピリチュアルな

自分の境界をはっきり意識して線をひいていたからだと聞いた

ことがあります。

 

大人たちの智慧は、近代教育が教える物理的法則や生物学的知識に

裏付けされています。

常識観念というのも、多くの人たちの感覚的判断に支えられています。

そういうものに裏付けされた信念ほど、換えることは難しい~と

つくづく思います。

ましてや、あなたの言うように、‘真理による治癒’が 病の‘根本的改善’

であるという考え方に替えることはとても難しいことでしょう。

何故替えることが難しいか?

あなたは次のように書いていますね。(237頁)

 

“They devote themselves a little longer to their material gods, 

cling to a belief in the life and intelligence of matter, and expect 

this error to do more for them than they are willing to admittee 

only living and true God can do.”

(須田訳: 彼らは自分たちが信じる物質的な神々にもっと、

献身的に仕えることが、真理の実在にまします神に自らを託すより、

大きな利があると期待している。“

(引用終わり)

 

Material Gods(物質的な神)とは私たちの周りにたくさん存在しています。

お金、名誉、恋人、憧れの異性、薬、その他諸々・・・・

人は二足のわらじを履くことはできない、というし、二つのボートに

片足ずつ乗せて進むこともできない、という喩があります。

同様、物質的な神と、真理の実在の神、と二つの神を追い求めることは

できないのでしょうか?

私にはわかりません。 

ただ、やはり二足のわらじを履くことはできない~と思います。

時々、取り換えながら、二足のわらじを活用しているのが、

私たちでしょう。

どちらのわらじを履く時間が長いか~の違いがあるだけでしょう。

エディ夫人、あなたの徹底したセオリーを読むと、身がひきしまります。

曖昧性は微塵もないほど、徹底しているからです。

私は、たぶん、徹底できない曖昧性を受け入れながら、それでも、

心のどこかの次元では、ぶれない自分をも同時にまた、見つめて

生きていきたいと思います。 

それが精いっぱいのところ~が本音かもしれません。

 

 

引用原文箇所:

Science and Health with Key to the Scriptures”, 

by  Mary Baker Eddy

published by The First Church of Christ, Scientist, in Boston, Massachusetts, 

U.S.A  1982 

(*1)体は1年未満で体内の98%の原子を入れ替える。

これは 5日毎に 胃腸内壁 をつくり、

1か月毎に 皮膚 をつくり、6週間毎に 肝臓 をつくり、

3か月毎に 新しい 骨格 をつくる。 

さらに、DNAについて、こう発表しています。

何億年もの 進化の記憶を保持する遺伝子物質である 

DNAでさえ、6週間前と同じではない

 

 

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親愛なるエディー夫人へ(語りかけ) 

2020年05月22日 | 健康と直結する”一元論”について

 自然治癒力とスピリチュアルな癒しの本質は同じ                                                              2020/5/22

*********************************************************************

 

 

エディ夫人が創設したアメリカマサチューセッツ州ボストン市にある 

クリスチャンサイアンスの教会

 

愛すべきエディ・ベーカー夫人へ、

 

あなたの足跡、それは形而上的分野のみならず、社会的にも

顕著なものがありました。

あなたが活躍していた19世紀中ころは、まだ女性の地位も低かった。 

女性の人権が今ほど認められていない時代に、あなたは女性の

社会的地位の向上を 自分の生き様の中で、実現して来られましたね。 

あの時代に離婚することは簡単ではない風潮の中、あなたは離婚して

しかも、3度の結婚をした。 

宗教家としてだけではなく、女性としての幸せも真摯に、情熱的に

求められたのでしょう。 

そして、ついに、Christian Science の教義を生み出したのです。

 

あなたの伝記の中には 形而上的癒しを追求するきっかけになった、

次の事件がありました;

“Then in the winter of 1866, Mary Patterson fell on an icy sidewalk 

and severely injured her spine. 

Bedridden, she turned to her Bible, and while reading an account

 of Jesus healing a paralytic, 

she said she experienced miraculous healing. She later claimed 

that was when she discovered Christian Science.”

 

これによると、クリスチャンサイエンスを創設するきっかけは1866年、

凍った歩道を歩いている際に足を滑らし、背骨をひどく傷つけたことに

端を発するのですね。  

そして起き上がることもままならない不自由な身体で、あなたは聖書

をひもとき、キリストが体が麻痺した男を奇跡的に癒した行(くだり)

を読んだとき、あなた自身が“癒された”のでしたね。 

 

それが“キリスト教科学”(Christian Science)を創設するきっかけ

となった。

癒されてから9年の間、あなたは、バイブルを探究した。 

そして書き上げたのが、“Science and Health with Key to the Scriptures”

でした。

私は、この本を読み、あなたの力強い信仰と、神への信頼、病と信仰、

生理学、などに、とても共感を受けました。

 あなたは、この本を通して、一つの真理を 強い信念とともに、喝破

しておられる。 

それは、”病は神が造ったものではない” ということ。

 

病は ”人間の迷い(顛倒妄想)の意識から生み出されたもの”で

あることを。

あなたにとって、”存在”とは特別な意味を持つものでした。

それは、”永劫に有る”ということであって、私たちが 日常、普通に 

ある” と語る程度のものではありませんでした。

 

私たちの魂が神(完全なる思考形態エネルギー)から派生しているが

ゆえに、そして、神は存在するがゆえに、私たちの魂も本来、

完全なる姿で、存在するものである、という主張は一貫して

この本に流れています。

 

だから、病になる身体とは、この魂の容器に過ぎず、その意味では、

”存在しないもの”、だということ。

肉体は、人生の目的が終われば、燃やされて灰になるのですから。

病になるのは、肉体ではなく、それの主体である精神であるということも、

主張されました。

灰になるものは、実存している存在物 ではない、ということですね。

 

あながた奇跡的に背骨損傷で動けないときに、キリストの光と同化して、

癒されたと感じたとき、光に当てられて消えた影のように、あなたが

苦しんでいた病は、消えてしまった。 

そこであなたは悟りました。

病とは、”自分の意識を神の波長に合わせた”時には、非実存の姿を

露呈するということを。

 

この人生は、自分のエゴが演じる舞台です。 

その意識舞台で どこにスポットライト(意識の集中)を当てるかに

よって、奇跡的回復が可能になると、あなたは説いておられる。

 

ところで、あなたが、”外から得る薬~くすり~”を意味ないものとして

扱ったのと同様、私も薬に頼ることなく生きてきました。 

その考え方や行為は、常識を外れているがゆえに、なかなか、理解され

難いものですが、あなたの著書 ”Science and Health with Key to the

 Scriptures”を読むと、なぜ、あなたが薬を拒絶したかのの理由が

語られています。

 

例えば、234頁の次の文章にこう書かれています。

“Spiritual draughts heal, while material lotions interfere with truth, 

even as ritualism and creed hamper spirituality.

If we trust matter, we distrust Sprit.”

 

須田訳: スピリチュアル(真理に基づく霊的要素)なものを 

吸収することで、癒しは起きるが、物質的な薬は真理探究の妨げとなり、

それは宗教儀式や教理がスピリチュアル要素を害するに似ている。 

我々が物質を信頼するほど、スピリチュアルな霊性への信頼は失われる。

(~引用終わり)

 

あなたの云う、スピリチュアルな要素は、“生命力への信頼”でも

あると私は信じてます。

スピリチュアルとは言葉を替えれば、生命力のパワーと根幹は同じです。 

私たちは神の子ですから 生きているエネルギー、生命力は神から来ている、

この認識がスピリチュアリズムにつながると思います。 

そして、生命力を信じる礎にもなります。

 

そして、生命力は “自然治癒力” のエネルギーです。 

病になったとき、物質(自分以外の外の力、薬や迷信や呪術や、

代替治療など)に頼れば頼るほど、自らの生命力が無視されていきます。 

無視される時間が長いと、自然治癒力が発動するメカニズムが狂ってきます。 

 

病を癒そうと、外に頼れば頼るほど、自らの内にある、自然治癒力

出番がないと察して、それが飽和点に達すると、自然治癒力自体が

鈍ってくるからです。 

それはまるで、あなたが言うように、宗教を信じても、儀式的に

こだわればこだわるほど、感動を伴う心の宗教的体験が薄れて

行くのに似ています。 

つまり、スピリチュアルな霊性から皮肉なことに、宗教的な儀式を

重んじるあまり、離れて行く過程ととても似ている気がします。

 

自分の中にすべての力(パワー)が具わっている。 

時には薬を利用せざる得ないことはあるでしょう。 

それでも、そのことを知って服用するが否かは、長い目で見ると

大きな違いが生まれます。

自分の内にある治癒力を信ずることなく、薬や外部に頼り切って

いけば、どんどん薬の種類も量も増えて行くことに抵抗がなく

なるでしょう。

 

あなたはキリスト教義をベースにしてスピリチュアルな霊性を

説きますが、東洋では仏教や神道、あるいは、イスラム教もどの

教えでも、あなたのいう、”キリスト意識”に匹敵する概念が

存在しています。

 

それは、自分の魂は神と結びついていること、仏教でいえば、

神は存在しませんから、仏性とでもいうのでしょうか、イスラム教も、

神に全託する祈りを通して、すべてが神の意思どおりに運ばれてこそ、

幸せがもたらされると信じる。

なんというのでしょうか・・・

それは病にあっても、微塵も、外部に頼るものではなく、

自分自身の中に、神とつながることで癒しがあるという、自分と神

の関係性の認識と、神への信頼というものでしょう。

 

ですから、誰でもあなたの著書を読んで、宗教を問わず、体と心、

神と人間、癒しの本質、病の正体、など、あなたが書かれている内容

を理解できると私は思いますし、 あなたのこの本は 多くの人たち

にこれからも読まれ、理解されて欲しいと願うのです。

 

 

続く

 

引用原文箇所:

Science and Health with Key to the Scriptures”, 

by  Mary Baker Eddy

published by The First Church of Christ, Scientist, in 

Boston ,Massachusetts, 

U.S.A  1982 

 

 

 

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形而上学的癒しの病の位置づけ

2020年05月14日 | 健康と直結する”一元論”について

病の根本改善は物質的療法のみでは不可能だ。       2020/5/14

**************************************************************************

先回の続きから)

まず、女史がどのように病を捉えているか、を、アトランダムに

著書から抜粋してみたい。

 

① *病の原因は神聖なる科学におけるキリストによって、

抹殺されなければならない。 

もしそうでなければ、いわゆる、肉体的感覚(physical sense)

が勝利するだろう

I引用終わり]

 

初めの言葉”病の原因は抹殺されなければならない。” ~ 

言い換えれば、ここで ”病は存在しない”と,エディ夫人は病を

切り捨てる。 

それを聞けば、”病が存在しないわけはない!”と多くの人は思う。 

が、’存在しているように見えているもの’と’存在しているもの’とは、

意味が違うのだ。 

 

エディ夫人が”病気は」尊際しない”という意味は、病は、実は、

存在しているように見えているだけで、本当は、”夢のような”

仮の存在にすぎないからである。

もし、病が存在するのなら、エディ夫人の言葉を借りて表現すれば、

”肉体的感覚が勝利する” ことになってしまう。

 

”肉体的感覚”とは、”病になっている”と認識する感覚である。 

感覚、視たり、聞いたり、触ったり、味わったり、触れたり、

という五感は、顛倒妄想を生み出す元で、錯覚を作り出す大元

であると、般若心経でも中心になっている考え方である。

では、エディ夫人に言わせると、この感覚が”何に”、勝利するのだろう。

 

それは、”生命”にである。  

エディ夫人の言葉を借りれば、、”永遠のキリスト”に対してである。

ここで、キリスト教ではないから、と、この意見に躊躇する読者も

おられるだろう。

キリスト という言葉の代わりに、ご自身の信仰の対象の言葉に

置き換えてよいかと思う。 

 

宇宙意識、生命、仏、クリシュナ、光、偉大なる何か(something great) 

などなど、存在する真なるものである。

さて、その説明が②に続く。

 

② もし、病気が実在するならば、それは不滅性(immortality)に属する

ことになる。

つまり、もし病気が真に本当にあるのなら、それは真実の一部

であるということだ。

 

そこで薬剤を用いたにせよそうでないにせよ、なぜ、病(真理の状態)

打破しようと試みるのだろう? 

しかし、もし病気や罪が幻想であるのなら、この滅ぶぺき夢、つまり、

幻想(顛倒妄想)から目覚めることが、真の健康と私たちの本質である

清らかさや不滅性に導くのである。

(引用終わり)

 

’病気が実在するのなら、それは不滅性を持っているとしたら、

決して治ることはないということ。

健康であるより、病気である状態が真実だ、という理屈になる。

ところが、病気は西洋医学の処方に頼らずとも、どんなに重篤であっても 

’奇跡的回復’が可能なのだ。

 

実際 エディ夫人自身が奇跡的回復体験を持ち、スチャンサイエンス

を創始した。(*2)

また、こぶし大の癌が患者の気持ちの向け方で、消えてしまうこともある。

 

”ありがとう、ありがとう”と数万回毎日唱え続けて、癌細胞が消えた人

を知っている。

その場合、”病気は実在していない”ということが明らかに言える。 

①にも書いたように、’実在する’ と ’実在するかのように見える’違いが、

こうした事例をみるとはっきりわかる。 

 

ここでエディ夫人は、”もし、病気が実在するならば、それは不滅性(immortality)

属することになる” という。 

実在するとは、永久に存在することはない。 

どんなに病で苦しんで死んでも、死体からは、病は消える。 

生命が消えれば 病はなくなる。 肉体が朽ちれば、完全に消える。

だから、病気は不滅ではない~ということだ。  

一方、不滅ではないものは何なのか?  

エディ夫人は それこそが、”真実” だと言う。

 

眞實とは何か? 教義の中の眞實、真理、神の定理、神の法則、

を指すのなら、キリスト教信者のエディ夫人にとっては、それは、

キリストそのものだろう。

仏教徒にとっては、不生不滅のバンニャーの智慧(般若の智慧)

が、”真理” である。

このキリスト教的解釈も仏教的解釈もどちらも矛盾はない。 

なぜなら、エディ夫人は

もし病気や罪が幻想であるのなら、この滅ぶぺき夢、つまり、

幻想(顛倒妄想)から目覚めることが、真の健康と私たちの本質で

ある清らかさや不滅性に導くのである” と 言っているからだ。 

 

言い変えれば、’顛倒妄想を取り去れば、空 が現れる~ということ。 

’空中には、般若心経には’老いることも無く、死も無い’”と書かれている。 

そこに不滅性があるという点で、エディ夫人のこの言葉はとても東洋的だ。

 

病気は幻影である。 顛倒妄想である。 これから般若の智慧

(般若心経の真髄の教え)によって、目覚めれば、その時は

病気はすでに消える~ということと同じだと、エディ夫人は語る。

 

③ 聖典によれば、病人は決して薬剤や衛生学、その他いかなる

物質的療法によっても、本当に癒されることはない。 

これらの方法は、問題の矛先をそらし、子供が快適に眠れるよう

甘いシロップを与え、恐怖を鎮める鎮静的な一時的役目をするに

ほかならない。(引用終わり)

 

ここでいう聖典とは聖書のこと。 薬剤や衛生学、いかなる物質的

療法を本質的に癒すことは不可能だ。

薬や物質に頼ったところで、所詮、対症療法でしかない。  

症状が消えるための一時的な処置ともいえよう。

それは、癒されたとように見えているが、症状が出なくなっただけ

の話だ。 

症状が出なければ、癒されたのか? 

否、病の原因そのものへの、本質的改善がなされることが無い以上、

再発の可能性は残る。 

それをエディ夫人は、薬の投与は、”問題の矛先をそらし、子供が

快適に眠れるよう甘いシロップを与え、恐怖を鎮める鎮静的な

一時的役目をするにほかならない。”と言っている。

 

一時的に症状を消すことで、本質的体の改善という最大のテーマ

からそれて、病という恐怖から一時的に眼をそらす様を、

物質的療法の一時的効果としてエディ夫人はみなす。

 

④ 病(症状)が消えると、また再発するかもしれないのに、

私たちや癒されたと思う。

しかし本当に癒されたと言うのには、病気が再発する状態が根こそぎ、

取り除かれるまでは早い(引用終わり)

 

コロナヴィールスもこれに似たことがあった。 

陽性だった人が陰性になり、数日後に、また、陽性反応が出たりした。 

病が消えて、また、再発する。 これは体が根本に改善されていないからだ。 

”病気が根こそき取り除かれる”=それを以て、根本改善、本当に

癒されたと言える。

では、病気が根こそぎ取り除かれるためには?

次回にエディ夫人の著書から 再び答えを求めてみたい。

 

 

引用箇所: ”Science and Health with Key to the Scriptures”, 

by  Mary Baker Eddy 

published by The First Church of Christ, Scientist,

 in Boston, Massachusetts, U.S.A  1982 

(*2)

”Then in the winter of 1866, 

Mary Patterson fell on an icy sidewalk and 

severely injured her spine. Bedridden,

 she turned to her Bible, and

 while reading an account of Jesus healing 

paralytic, she said 

she experienced miraculous healing. She later” By

 

 

 

 

 

 

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超越意識と病の超越

2020年05月05日 | 健康と直結する”一元論”について

形而上学的に見る 病の本質        2020・5・5

*****************************************************************************

薬は不思議である。 

薬がないと不安で仕方がない人たちがいる一方、

薬を飲むことに苦痛を感じる人もいる。 

この薬が絶対、今の症状に効くから、と信じて飲めば、

本当に効く。

 

たとえそれが薬袋に入ったまがい物、例えば小麦粉を丸めた物

だったとしてもだ。 

それが有名な、薬のブラシーボ効果だが、飲めば治るという信念が、

実際そうさせていることを科学的に証明したものだ。

 

病は気から、とか、イワシの頭も信心云々、とかいう慣用句があるが、

確かに、精神作用の大きさが薬の効き具合と比例するようだ。

 

一方、私は、極端の薬恐怖症者だ。 

乳幼児の頃や母親に何やら甘いシロップ状の薬を飲んだ記憶以外に、

薬は飲んだことはない。

 

10代のころ、生まれつきのアトピー性湿疹が”おじいちゃん”とあだ名を

つけられるほど、頭、おでこ、首、手脚の皮膚をカサカサにさせて、

さすが娘心に何とかしたいと想い、軟膏を新宿中央病院からもらって

何年か、つけていたが、谷口雅春師の言葉を17歳で読みその薬も捨てた。

 

お産した直後、薬が出たが飲まなかった。

30代で、腫瘍摘出手術をしたあと、翌日から抗生剤か痛み止めか

よくわからなかったが、飲むようにと出された薬も、飲めなかった。

 

勿論、風邪薬は飲んだことはないし、40度の熱が出て 身体の随所に

膿をもつほどおできができたときも、”有り難い、これで細菌が死ぬ”

とばかり 医者にかかることなく、解熱剤飲むことなく、10日間あまり、

その状態を甘受した。

 

息子が生まれ、初めて種痘の予防接種を受けて、私の恐れの念が反映してか、

高熱をだし川崎病と診断された時は、町医者から病院を紹介されたが、

セラピーで切り抜け、それ以後は、予防接種をしに行くことはなかった。 

 

インフラが整っていなかったインドの地で合計10年余り、息子も共に過ごしたが、

デング熱や コレラになったが薬を取ることなく免疫をつけて治した。

 

こうした西洋医学療法に対する私の頑固な拒否的態度は、どこから来ているか?

それは、自分の生命力を信じることで体が根本から改善されていくという

自らの臨床的体験からだった。

 

現代西洋医学の薬をとれば、それは対症療法だから、一時的に症状は改善され、

楽になるだろうが、体の根本の体質は変わることはないということ。 

一方、体が自力で自然治癒力を発動して症状を改善したときは、

蛹(さなぎ)が蝶々になるように、その時々で、体自体が変容していくのである。

 

体が変容すれば、精神も変容する。 

心身一体だからだ。 自分の体の主人公は”わたし”という精神性であることを、

そのたびに、強固に自覚できていく。 こうして、体は意識によって変革され得る

という事実を体験してきた。

 

現代西洋学は、解剖学から始まった。

言い変えれば、”死体”を切り刻み、生命のない人間の肉体から発達していった。 

だから、(生命を無視し)体の器官を機械のパーツのように分解して考える。

人間の体の有機的結びつきや 臓器や器官の関連性がなかなか、わかりずらい。 

一方、東洋医学は、生きた体から始まる。 そこには根底に”生命力”の流れを

第一義に考えるから、有機的繋がりや心身の関連性が大切な要素になる。

 

気功でもカンポウでも、アユールベーダでも、整体でも、すべて、生命力、

プラーナの流れが重要な診断の鍵となっている。

 

これからご紹介する著書はキリスト教の宣教者の御本(*1)である。

 

そこに書かれている”薬と身体”、”病と癒”しの考え方は、私が抱くそれと

一致している。 

その根底には、徹底的な生命主義、一元論的哲学、人間の本質的な性質である、

神性論を含めて、自然治癒力セラピー協会が提唱する”生命力”の復元の有り方が 

著者の深い信仰と重なって説かれている。

 

それを今日からすこしずつ、ご紹介させていただきたい。

 

”Christian Science “ 創始者、マサチューセッツ形而上学大学学長で、

ボストン市所在第一科学者キリスト協会名誉牧師の メリー・ベーカー・エディ

女史が残した、“Science and Health with Key to the Scriptures”,

(邦題:”科学と健康“)から、引用させていただく。

 

先回のブログで“キリスト意識”について書いた。 

ヨガナンダ師が述べているように、“キリスト意識”はキリスト教信者だけに

備わっている狭い意味のものではなく、誰もが持っているキリスト

(神の子)の意識、いいかえれば、人間の仏性や神性という、神の資質に

限りなく近い意識を”キリスト意識”と定義する。

 

これからご紹介する文章の中で女史が使っているキリストという言葉も、

そういう意味として読んでいただくと、理解しやすいと思う。

 

まず、女史がどのように病を捉えているか、を、アトランダムに著書から

抜粋してみたい。

 

① *病の原因は神聖なる科学におけるキリストによって、

抹殺されなければならない。 

もしそうでなければ、いわゆる、肉体的感覚(physical sense)が

勝利するだろう。

 

② もし、病気が実在するならば、それは不滅性(immortality)に

属することになる。

つまり、もし病気が真に本当にあるのなら、それは真実の一部で

あるということだ。

そこで薬剤を用いたにせよそうでないにせよ、なぜ、病(真理の状態)を

打破しようと試みるのだろう? 

 

しかし、もし病気や罪が幻想であるのなら、この滅ぶぺき夢、つまり、

幻想(顛倒妄想)から目覚めることが、真の健康と私たちの本質である

清らかさや不滅性に導くのである。

 

③ 聖典によれば、病人は決して薬剤や衛生学、その他いかなる

物質的療法によっても、本当に癒されることはない。これらの方法は、

問題の矛先をそらし、子供が快適に眠れるよう甘いシロップを与え、

恐怖を鎮める鎮静的な一時的役目をするにほかならない。

 

④ 病(症状)が消えると、また再発するかもしれないのに、私たちや

癒されたと思う。しかし本当に癒されたと言うのには、病気が再発する

状態が根こそぎ、取り除かれるまでは早い。

 

⑤ その取り除かれる原因こそ、病を創りだしている要因である、

“滅びる心(mortal mind,)すなわち超越意識より離れたふらふらした心である。

(引用以上)

 

次回から一つずつ詳しく見て行きたい。

 

 

 

(*1)、“Science and Health with Key to the Scriptures”,

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