自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

トラを征服したスワミの話(下)

2014年08月30日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

聖者の予言が成就した  2014・8・30

*************************************

西ベンガル州 クーチビハ―ルの宮殿

 

前回のお話しの続き・・・・

さて、これ以上トラと闘うと カルマの法則で トラ達の怨念が災いを

もたらすから今の生活を改めなさいという、聖者の言葉を父の口から

聞かされたスワミ。

しかし、

”父の警告を受けて間もなく、私は、クーチ・ぺハールの首都を訪ねた。

絵のように美しいこの町は私にとっては初めての土地で私はここで

気分転換をして休養するつもりだった。

ところが、例によって、ここでも物見高い群衆が道を行く私の後ろから

ぞろぞろついて来た。 

彼らは私をみてささやき合っていた。


’これがトラと格闘する男だそうだ’

’あれでも脚かね、まるで木の幹ではないか!’

’あの顔を見ろよ。あの男はきっとトラの王様の生まれ変わりに

違いない!”

子どもたちは、どこでも号外のような役目をする。

それに女たちのおしゃべりも手伝って、2.3時間のうちに、

町中が私の出現で興奮のるつぼと化してしまった。”

 

こうして町中がスワミの到着の話で持ちきりになった日の夕方、

とうとう、その国[須田注:当時は王侯(ラジャ)たちが管轄する

大小の国が集まってインドという国家が成立していた]を治める皇太子の

代理が訪れ、翌日、宮中にスワミを招きたいと語る。


その時、スワミは直観する。

”一瞬、わたしは、何かが起こりそうな予感がした。

そして、静養のつもりだったこの旅を邪魔されたくないと思った。”

しかし、翌日、護衛付きの4頭立ての馬車が迎えにきて、皇太子自ら、

スワミを迎え入れた宮殿の一室で、会食会が始まった。

 

そこで 皇太子はスワミにこのように話しかけた。

”今、私の街ではあなたが素手で野生のトラと闘うことができる

という噂で持ちきりですが、それは本当か?”

本当だとスワミが答えると、

”私には信じられない。

あなたはカルカッタの街に住んで毎日、白米を食べているふつう

の都会人にお見受けする。

あなたが今まで戦ったというトラたちは、実は阿片[麻薬]で骨抜きに

されたトラだったのだろう・・”


さらに、皇太子は

”私が最近生け捕りにした、ラージャ・ベーガムと闘っていただこう。

もし、あのトラの攻撃くい止め、トラを鎖でつなぎ、気を失ったり

せず、自力で檻(おり)から出てこれたら、そのトラを汝に進呈しよう。

そして、多くの褒美と賞金をだそう。

けれども、この戦いに負けたら、いかさま師ということで、国中に

ふれわたらせよう。”


 こうして一週間後の試合が設定された。

まるで”キリスト教徒を猛獣の檻に入れて見物した残忍なローマの

皇帝”のようだと 皇太子に対して、スワミは思った。

”それから一週間、私が来たるべき試合に備えて、心と体の調子を

整えて待っていた。”

 

同時に スワミに仕えていた下男が、その町の噂を聞いて伝えた。

それによると、トラは神々に呪われた悪霊の生まれ変わりで、スワミの

高慢な鼻を、”へし折る”ために闘う~という話だった。


もう一つは、

虎の守り神に 多くのトラたちが願いをかけている、それは

人間の分際(ぶんざい)で 虎族に挑戦し、侮辱を重ねてきた

スワミを罰するために ラージャ・ベーガムが遣わされた”

という噂だった。

 

これはスワミに、当然、父が警告した”カルマの法則”に基づく

聖者の予言、つまり、’次回の試合には大きな怪我を負うことで 

スワミは、僧侶になるだろう’ という 予言を思い起こさせた。

当時、父からそれを聴いたとき、一笑に付したスワミだったが・・・。

 

試合の準備は着々と進んでいた。

数千人を収容する観覧席をあつらえた会場、皇太子自ら先頭にたって

この試合の準備を薦めていた。

 

当日が来た。

”中央にラージャ・ベーガムをいれた巨大な鉄の檻を置き、その周囲

に厳重な柵を張り巡らした場所”が闘いの場になっていた。


怒りと食欲を煽るために、トラには少ししか餌が与えられて

いなかった。

”おそらく皇太子は、私を褒美の餌として このトラに与える

つもりなのだろう”とスワミは思った。

 

試合の様子は、スワミの口から語ってもらおう:

はらわたを引き裂くようなラージャ・ベーガムの咆哮と半ば恐怖に

襲われている観衆のどよめきの中を、私は静かに登場した。

身に着けていたものといえば、腰に巻いたわずかな布だけだった。

 

私が柵のかんぬきを外して中に入り、後ろ手でそれを静かにかけ

なおすと、血に飢えたラージャ・ベーカムはすさまじい勢いで

檻の鉄格子にとびかかり、私に恐ろしい歓迎のあいさつをした。


観衆は心配と恐ろしさのあまり、しんと静まり返ってしまった。

おそらく、私が猛獣の前の置かれたみじめな子羊のように見えた

のだろう。私はためらわずに、檻の中に入って行った。

 

私が檻の戸を閉めると同時に、ラージャ・ベーガムは猛然と私に

とびかかってきた。

そして、あっという間に、私の右手を引き裂いて使い物にならなく

してしまった。

虎の最高の御馳走である、人間の生血が、その傷口からだらだらと

流れおちた。 

それはちょうど、あの聖者の予言が着々と成就していくのを暗示

しているように見えた。


しかし、私は、すぐに今までに経験したことがなかったこの強烈な

ショックから立ち直った。 

血まみれの右手を腰布の下に押し当てて、自分の視野から追い払うと、

左腕を大きく一振りして骨まで砕けよとばかり、虎に一撃をくらわせた。

トラは一瞬よろめいて、ふらふらと檻の後ろの方に後退したが

またもや死にもの狂いの勢いでとびかかってきた。

私はその頭に自慢の鉄拳の雨を降らせた。”

こうした模様をスワミは 高校生のヨガナンダ師に話す。

 

”文字通り ’血だるまの死闘’であり、たけり狂うラージャ・ベーガム

は、苦痛の呻きが聞こえ始め、気力を失い始め、観衆は”虎を撃ち殺せ”

と興奮の渦に叫んだ。” 

 

猟銃を持った隊の弾も、結局トラには命中せず、その間、なおも、

相手に猛打を浴びせ続け最後の意思を、終結した一撃を食らわせる

と、トラは”ついに倒れて動かなくなった。

 

そこでスワミは皇太子の命令どおり、床の上の一連の鎖で、トラの

首をしばり 檻の鉄格子につないで戸口に出て行こうとした。

その瞬間、気が萎えたと見えていた、ラージャ・ベーガムは名前の

とおり、ラージャ(王)の風格で、渾身の力をしぼって起きた。


そして、いきなり巻かれた鎖を引きちぎり、スワミの背中めがけて

襲い掛かってきた。

”私は肩をかまれて、その場にどうと倒れてしまった。

だがすぐに飛び起きると、トラを組み伏せて、その頭に容赦なく

鉄拳を浴びせた。

とうとう、トラは本当に気を失ってしまった。

私は今度は前よりも用心して、トラを縛り付けゆっくりと檻を出た。”

 

しかし、この勝利はスワミに思いがけない、霊的変化をもたらした。

”私が最後に檻の扉を閉めたとき、私の世俗的野心の扉も同時に

閉められたようだった。”と ヨガナンダ師に語ったのだ。


そして スワミの父の口を通して語られた聖者の予言は成就した。

スワミはその後賞金と賞品、闘ったトラを褒美として皇太子から

与えられたが、心を喜ばすものではなかった。

スワミは語る:

”身心の苦悶に満ちた日がそれから始まった。

私は傷がもとで、敗血症にかかり、6か月の間、瀕死の病床に

横たわった。”

 

やっと起き上がれるようになったスワミは故郷に向かう。

そして、父に赦しを乞う。

さらに あの予言を残して去った聖者と再会したいという祈りを

込めて、願いをかけていると、

”虎退治はもうたくさんだろう”

と聖者は、突然スワミの前に姿を現わしたのだった。


そして、 時は来たとばかりに、スワミを自分の弟子として

向かい入れたのだ。

私と一緒に来なさい。今度は私が 心のジャングルをうろつく、

無智というトラを退治する方法を教えてやろう。’

 

多くの見物人に取り囲まれて トラを素手で打ち負かしては

賞賛を得ていたスワミは 師を見つけて、そのイニシエーション

を受けて、自分の心のジャングルに住む”無智というトラ”を退治

するために 新しい生活に入った。


虎と群衆に囲まれる生活より、 多くの天使に囲まれる生活を選んだという

ことだった。

         

 西ベンガル州にある クーチべハールの所在地

 

引用箇所: ”あるヨギの自叙伝” パラマハンサ・ヨガナンダ 著、 森北出版、、1983

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トラを征服したスワミの話(上)

2014年08月27日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

ジャングルのトラの征服者は心のトラをもとらえた・・・ 2014・8・27

*****************************

 

先日 早朝7時、 アメリカ ロスアンジェルスのSRF

(Self Realization Fellowship)

から 40年の間 修道女としてヨガナンダ師の教えを学ぶ、キャサリン師から

あることでお電話をいただいた。


SRFとはSelf Realization Fellowshipの略名で、 印度の不滅のヨギ

マハ・アヴァター・ババジ(このブログでもたびたび取り上げている)

の曾孫弟子にあたる ヨガナンダ師が アメリカに渡り、ババジの意思を

受け継いで設立された。


この協会は特定の宗教集団とは趣を異にしている。 

目的は、ヨガ=神との合一 の手法を科学的技法として紹介。

そのヨガはヴァカバッド・ギータでクリシュナが述べているところの

”あらゆる真の宗教に共通した科学的真理”が根本になっている。


それを瞑想の中で個人の心の中に打ち立てて、”肉体的病気”

”心の不調和”、 ”魂の無知” から解放させること。

 

”すべての人は皆 神性を宿している”ことを前提に、同胞愛に目覚め

互いに奉仕しあうこと。

 

科学と宗教とは同じ原理に立つ ”一つの体系” であると知り、

東洋と西洋のそれぞれの”文化的””霊的知識”の相互理解の交流を

計ることなどが挙げられている。

 

”あるヨギの自叙伝”は ヨガナンダ師の半生をつづった、回顧書だが、

20年前に初めて読んだ時に、最初に興味を持った内容は、

ヨガナンダ師が 実際会って見聞した不思議なヨギ達の生態だった。


当時、私自身が、インドに住み始めたころ。インドの地の不思議な

パワーに圧倒されながら、今も生きて存在している、ヒマラヤのヨギの

存在の確信できる、説得力ある体験談に、興味をそそられた。


何度、読んでも、体験に裏付けされた盛りだくさんのエピソード

に、常に霊的インスピレーションを受けることのできる内容だ。

私のの愛読諸の一冊になっている。


話しは前後するが、小一時間ほどの SRFの教導者キャサリン女史との

電話の最後に、私はある了承を得ようと、切り出した。

それは、”あるヨギの自叙伝”の中から、いくつかの感銘したエピソードを

拙協会のブログでご紹介したい~という許可だった。


キャサリン女史は、それは良いことです。発表して下さい。 何らかの

啓発が読者に与えられるのなら・・。” と 快く承諾してくださった。

 

若いヨガナンダ師が興味を持ち、自ら訪ね歩いて、面談を申込み 

体験に、感銘をうけたように、奇蹟を日常的に起こすヨギ達の存在は、

きっと、日本の方達にも関心を持って読んでいただけるかもしれない。


ヨガナンダ師は自ら、名だたるヨギや聖者のもとを訪ねてその眼で

実際 見聞したことを著書に現わしている。

少し そのあたりから、いくつか、ご紹介したい。

 

初めのエピソードは タイガースワミと呼ばれ名声を博した、僧侶の

極めて、インドらしいエピソードだ。


インドでは昔からベンガルトラで有名で、また、トラは女神[ドルガ]の

乗り物としても庶民から親しまれている動物でもある。

ソーホン・スワミという名前の僧侶は、別名 タイガースワミとして

知られていた。 


タイガースワミと呼ばれる理由は、この僧侶(スワミ)はトラとの試合で

まるで飼い猫のようにトラを意のままに操ることができるということで

有名だったからだ。

ヨガナンダ師は当時まだ高校生。

友人のチャンディが、タイガースワミの家を探り当て、ヨガナンダ師に

一緒に訪問しようと誘うところから始まる。

 

ヨガナンダ師は、スワミの容姿をこう書いている:

’その巨大な体に目を見張ってしまった。

そして、暫く声は出なかった。

こんなに分厚い胸板やフットボールのような腕の筋肉は見たことも

なかった。

とてつもなく太い頸(くび)の上には獰猛のようでしかも静かに

落ち着いた顔が、ふさふさとした髪と長いひげに縁どられ、その

黒く輝いた瞳は鳩のような優しさと 同時にトラのような精悍さを

ほのめかせていた。”

 

ヨガナンダ師はこのスワミに会うと、開口一番こう質問する。

スワミジ、ジャングルの怪獣の中でも、特に凶暴なあのベンガルの

王者たちを、どうして素手でやっつけることができたのですか?”


その質問を皮切りにスワミは過去を語り始めた:

”私が子供のころ、真っ先に抱いた野心はトラと闘うことだった。

その頃の私は、強い意志は持っていたが、体はひ弱だった。”

”私がこの弱点を克服したのは、不屈の粘り強さをもって、自分の

望む健康と力を、心の中に描き続けたからだ。


私は精神力の偉大さを証明するあらゆる事実を、自分で経験してきた。

ベンガルの王者どもの真の征服者は実に、この精神力だったのだ。”

そして 付け加えた:

”虎にもいろいろの種類がある。 

在るトラは人間の欲望というジャングルの中をうろついている。

外にいるトラを、いくら倒しても、霊的には何も得るところはない。

それよりも、人間は心の中をうろつきまわっているトラの征服者

になるべきだ。”

 

そう 語るスワミが 単なるジャングルのトラを、素手で倒す力を

誇示するために戦うことに興味を失い、自らの心に潜むトラを征服

しようと霊的な道に進み始めるきっかけを話し始めた。


きっかけは、タイガースワミの父親の言葉だった。

 ”私の名声が絶頂に達したころ、私はそれに酔って、すっかり得意に

なってしまった。 

そこで今度は、トラと闘うだけではなく、そのトラに、いろいろな芸

をさせて見世物にしようと考えた。

つまり、野生のトラに飼いならされたトラと同じような芸をさせたのだ。”

この見世物も人々の心をとらえ、成功を収める。


ところがそうした折、スワミの父が、物思いに沈んだ面持ちで

こう切り出した:

”息子よ、私はお前に警告したいことがある。”

その警告とは、このままの生活を続けていけば、因果 の法則

(カルマの法則)によって、禍(わざわい)が来るだろうと、父は

語った。


その理由は、ジャングルのトラたちは、スワミの行為に少なからず

恨みをいだき、その恨みの念が飽和点に達すると、禍いのもとになる

と父は言う。


そして付け加えた。

”息子よ、私はある聖者から聞かされた、不吉な予言をお前に

話さなければならない。

実はきのう、私がいつものように、ベランダで瞑想していると、

その人が近づいてきた。


’親しい友よ、私はあなたの好戦的な息子さんのために、神の

お告げを伝えにやってきました。

今すぐ、息子さんの野蛮な行為をやめさせなさい。

さもないと、この次のトラとの試合で彼はひどい怪我をして、

6か月の間、瀕死の苦しみを味会わなければなりません。

そして、彼は結局、、これまでの生活を捨て、僧侶になるでしょう。’”

 

その話を父から聞いたスワミはそれでも、何の感銘も受けず、

むしろ、”残忍きわまるトラに、まともな心を叩き込んで、

エチケットを教える、森の学校の教師、トラの飼育者である

自分のどこが悪い”と、反省の余地は全く持ち合わせがなかった。


そして ベンガル州の王子の要請が来て、世紀のトラとの対決

が迫っていることは、このとき、まだ知る由もなかった。

 

 

~続く

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケオスの意味

2014年08月24日 | ペットロスの癒し

 ジュピが目の前に現れたのも ケオスの結果   2014・8・24

****************************

             大阪から新幹線で東京に着いたときのジュピ

 

興味あるのは ケオス という言葉の概念だ。

ケオスというのは、混乱状態 になって訳の分からない状況を

イメージしがちだ。

本来の意味はそうではないと大師は解く。

つまり、ケオスとは明確にして創造的な言葉として発声される

ことによって創造され物質化される原理に従って、

具体的現実となって、顕現しようと常に待機している深い霊的

実存状態のことです”

としている。

 

皆様は聖書の創世記をご存知だと思う。

映画などでも取り上げられている有名な宇宙創造のシーン。

神が”光有れ”と宣言して光が生まれる。

こうして次々と さまざまなものが創造されていく。

その前提にあるのが 聖書の中で

”神は言葉とともにあり” という ラインだ。

言葉は神であった。

神はだから、言葉の中にあった。

 

つまり 言葉、ことば、ことだま、言霊 は、事象を造りだす

エネルギーの種であったというのだ。

ケオスとは、だから、 言葉として発せられる前の状況で

混沌としているように見えて、実存因子を持っているエネルギー体

であると 理解できるだろう。

これは私たちが日頃 祈り という形で何かを欲する時

祈りが効かれたようにして、それが実現することにも

似ている。

 

一番効果的な祈りは

~が欲しいです。~をください” という懇願スタイルではない。

”すでに~が与えられています。 私はそれを心の眼でしっかり

見ることができます。ありがとうございます。”

とすでに与えられていることを 念じ 感謝することだ。

それもできるだけ 明瞭にかつ具体的 詳細にいたるまで

心の眼で 凝視することだ。

それは神が宇宙創造をしたときと同じ原理だと大師は述べている。

 

神は黙して、瞑想し給いたのです。

言い変えれば、神は理想的な世界を観じ給うたのです。

世界形成の素となる、原質をそのヴァイヴレーションが

低下するまで御心の中に 把持し続け、しかる後、

言葉を落とし給うたら、世界が現出したのです。”

 

神は 瞑想された。

瞑想して 無なる境地になったのではなく、これから存在すべく

宇宙の姿形を凝視せられた。

そして、そのために必要な要素を、あるいは 原質の波動を

地上の物質として成り立つ波動にまで変えていかれて、

最終的に ”~よ、有れ!” と宣言して その創造をなされたのだ。

人の願いがかなう原理もそれに準じるといわれる。

想念の具象化という意味で。

 

最近、私のもとにチュチュの生まれ変わりと 筆者が密かに信じる

ジュピターがやってきた。

彼との出会いも不思議で、チュチュの死後 数週間後、夢の中に、

チュチュが 現れた。

何とも嬉しい再会だった。 

チュチュは夢の中で 姿を消すときに 次に生まれ変わる時の姿

シルエットとして、私の瞼(まぶた)の裏に残していった。


それが、’テリア種’であったことは間違いないが、影のような

シルエットだったので、具体的な犬種は、わからなかった

 

この時以来、無意識に、彼の示した ”第二のチュチュの姿”を

探し始めた。

きっと、チュチュの魂の一片を引き継いでいる、子犬が どこかで

そろそろ、生まれて、私との、再会を待っているという ”想い”が

4月ごろから、日増しに強くなっていった。

 

そんなとき、縁があって、ジュピと出会う。

インターネットの一枚の写真だった。

会うだけあいたい。

新幹線で大阪まで行った折、彼の写真を掲載したブリーダーさん

宅にお邪魔した。

’ピっピ’ とブリーダーさんに呼ばれていた、小さなヨーキーの

坊やは、一歳の誕生日を迎えようとしていた。

それまで、ブリーダーさんが 手元に置いておくつもりだったと

いう。

”犬舎のプリンス”として手放さず育て、いずれは、ピッピの

両親のように、ドッグショーーに・・と心づもりされてたことを

知った

 

そのブリーダーさんの期待はかなわなかった。

ジュピターは、満一歳を前にして、身体のある部分の不完全さが

わかり、期待するお役目は難しくなったということだった。

そんな話を聞いて、決心もつかず、東京に戻った。

 

数日後ブリーダーさんからメールがはいった。

”手元に置いておくより、よろしければ須田さんに・

須田さんと、相性があうようなので・・この子も幸せです

もし、OKなら、ブリーダーさん自ら、信頼できる医師に 彼の

体の欠陥を治してもらうからと、請け負ってくれた。

こうして、それから約ひと月後、大阪に迎えにいって、我が家に

ジュピを家族として向かい入れた。

 

あの夢を見ず、チュチュのメッセージを受けたと思わなければ、

チュチュの生まれ変わりに会いたい”という想念も湧かなかった

ろう。

心に 具体的イメージをもって 生まれ変わりを見つけたいと

思っていなければ、ジュピの写真をネットでみて、わざわざ

大阪まで彼に会いに行くこともなかっただろう。

ジュピターの誕生日から計算すると、ちょうど、チュチュが亡く

なって1週間後に受胎した、ジュピの命だった。

チュチュのメッセージ性のある夢は、それから2週間後に

見たことになる。

チュチュは私がインドにいる間、心臓麻痺で亡くなった。
最後まできちんと看取りができなかった私と、もう一度
けじめをつけたい~と この世に生まれ変わり、私の
もとに現れたと、強く感じている。

 

  

ジュピをみていると、

プラス 

を彷彿とさせます・・・・

                                                  

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廃棄される魂はない・・・

2014年08月21日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方



平和な地球と恐れの撲滅   2014・8・21

****************************

8月18日ブログ内容の続きともなっている。

 ・ 私たちは決して比較をしません。

私たち(スダ注:大師たち)が比較をしない

というのはどういうことなのだろう?


私たちの社会では常に比較対象しながら、改善をはかり、

反省に反省を重ねて、進歩がみられると思われている。


健康に関してもそうで、健康な人のそれぞれの機能の

基準値が定められ、比較することで、基準値より、

高い低いでそれ相応の処置をとることが常識だ


このように、私たちの生活レベルで比較しないで

いること~はまず、難しい。

 

大師がここで言っている比較 とは 何を指している

のだろうか?


私たちの人間性について限定して 使われているの

だろうか?


あの人はまだまだだ…未熟だ…よくできている…・

私の方が~だ・・・

兄弟でも性格がこうも違う・・・などなど、比較を

して相手を評価することが、その人の本来の資質を

限定してしまう。


人はそれぞれ異なる個性でその奥には ’大我’という

素晴らしい資質を持っている以上、そういう表面的な

現象をみて、比較すべきでない~という意味なのだろうか?

 

しかし、もしかしたら、比較対象は人間だけでなくて、

この世の中に存在する、生きとし生けるもの、あるいは、

無機質に見えるモノ、あるいは、目に見えない資質など

すべてを含んでいるのだと 読み直してみると思えてきた。

 

宗教一つとってもいえることだ。


~教は ”こうでああで、他の~教と比べれば こういう

ところが ああなのだ。”と比較や分析をして、この宗教では

だから、救われない”とか、”救われる”とか論議したり、

ましてや”正しい” ”正しくない”で 裁きあっている現実。


いかなる場合も、争うことの原因は ”比較すること” 

から来ているのだ。

自分の信念と、価値観と、正義か非正義か、善か悪か、・・・・・

 

宗教はすべて善である~とも大師はいう。(*3 に述べる)

大師は、どんなものに対しても、”比較をしなければ”、

本当の眼力が開けるとも語る。


現象から現象を超越した本質へ、表面から内奥へ、

意識や分別から 超越意識とアセンションされた世界へと

心の眼を移しなさいと 暗に述べているように思える。

 

2・宇宙の創造時には たぶん 想念のエネルギーが動いた

大師が語るこの一言。

何かが生まれるという背景には、必ず、そこにエネルギーある。


存在させるためのエネルギーは物質的なモノではなく、それを

実現(創造)させようという、”想念[思念]エネルギー”がもとに

なっているという。


旧約聖書で 創世記の中に、人は神の似姿として創造された 

とある。

神の創造性と人間の創造性はそういう意味ではスケールが

違うにせよ同一のものだと大師は言う。


人間の ”創造しようとするときのエネルギー想念” は

本来、神の天地創造の原理に生かされたエネルギーと

同等のものと大師は考える。

 

しかし、現実世界では、物事は思うように、簡単に展開し

現実化しないものだ。


その理由を大師は次のように述べる:

 ”まず、想念が 神の意識から人間の意識の中 に直接押し

だされ、先へ先へと進んでさえおれば、きっと前途に、

何かがあることがわかる。


 ところが、ここで人間はたいてい、過ちをおかして、

この想念を、もともと 自分のものと誤認してしまうのです。”

 

 

 

つまり、人間の中に植えつけられた 神の資質である

”愛や善”、”調和の念” と 人間の心が直結しないから、

宇宙の意思のとおりに物事が運ばない。


人は考えて希望し、願いのままに生み出したいと欲する。


ところが、その欲望が 自分自身(小我)の ”想い” 

から発せられているのなら、他者を踏みつけても、

満たしたいと願うだろう。


すべては自分のため。

自分の利のため。


この場合、”自分”を第一義にする 人間の小我癖によって

宇宙~地球も含めて、私たちの内外(周囲)に満ちている、

本来のパワフルな創造的エネルギーの波動と合わなくなって

しまったというのだ。

 

3. あらゆる宗教は、本来は皆善

大師は言う:

”なぜなら、それらは、いずれも終局において、一切のもの

の底には、今日まで 把握し損ねた ”実存 ”という、ある

深き因子、触れえなかったもの、本来 おのれのもので 

正当に所有し得る、

 

また、正当に所有すべきあるもの、が存在する という

悟りに導くからです。”

 

とはいっても、どんな宗教を選んでも、選ばなくても、

いつか、必ず人は善なる自分の本性”に行きつくと

大師は信じている。


人間の生み出した 宗教 は だからこそ、皆 善きなる

ものと結論できる。

その行きつく先は善に 他ならないから。そして、大師の

冒頭に述べた ”比較しない” という言葉どおりに

宗教の優劣を論じるのは矛盾に満ちているというものだろう。

 

狂信的新興宗教や、オーム真理教など、世間を騒がせ、

危害を与える組織はどうなのだ?と 問う人もいるだろう。


羊の皮を借りた狼のように、宗教というヴェールで本質を隠し、

小自我(パワーや自負心、プライドや名誉を求める)を満たす

獲物を虎視眈眈と狙っている狩猟動物のようなものかもしれない。

 

兎の皮をかぶった虎の子(狩猟動物)に 

”何故お前は 兎のような温和な愛らしい癒しを与える

存在ではないのだ” と言っても、意味がない。

 

狂信教的宗教集団が善でないということはたやすいが、

その集団をつくっている人達一人ひとりにもアートマがある。

 

 

大師のカンガエでは、それも承知した上のことかもしれない。

狂信的な宗教の罠にはまっても、ある意味、一瞬の

”迷いの閃光”のようで、必ず、いつか、自分の本質 

目覚める日が来て、本来の魂の路線に戻ることを大師は

知っているのかもしれない。


たとえ、数代の人生の輪廻が必要としても・・・だ・

 

死んだ人達は?

例えば、オウム真理教の犠牲になって、サリン事件に

巻き込まれた人達は?

大師は言うだろう・・・


所詮魂は生き通しだ。

これもまた、裁きは地上の法廷の話で 宇宙の営みの中では

廃棄される魂というのはありえないのだ~と。

必ず、更生され、犠牲になった魂もより高い次元へと飛翔する

チャンスが与えられている(いく)のだろう。

 

一口で宗教と言ってもさまざまだ。

大師が述べるようにすべての宗教が善であるとは 信じがたい

かもしれない。

信じる方も選択する責任が当然あるのだろう。

真理は必ずしも宗教にあらず。

宗教は必ずしも真理に非ず

 

そこの舞台の裏のからくりはあまりにも 深淵すぎて筆者も

想像すらできないのだ。

一切のものの底には、今日まで 把握し損ねた実存という

ある深き因子があると大師は言う。


一切 とは 総て。

総てのものには、誰もうまく把握できないが、確実の存在

する因子、つまり実存なるものがあるという。

 

実存(ほんとうの自分)に還ろう、実存とは何か? 

掘り下げていこう。

実存を知り さまざまな不幸の素になっている、

恐怖を無くそう・・・・


一人ひとりの こうした気づきの中に、それぞれの

立ち位置で 心地よく生きていける 平和な社会・・ 

の下地が造られるはずだ、


地球という大地の母が 原発の大気汚染や海水汚染、あるいは

森林の見境ない伐採などの 不安をかかえず、 安心して

地球上の、生きとし生けるものをやさしく抱擁してくれる世界・・・

を創造するためにも。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

完全なる自分を見出す眼力

2014年08月18日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 霊力や精神力に頼るなとは?   平成26年8月18日

***********************************

ファイル:Nanga Parbat 029.jpg以下の記事は2013年7月9日に掲載しましたが、もう少しわかりやすく

読んでいただけるように、少し手をいれたものです。

 

 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた、11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを、実証されるのを実際に

見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許してくれた。


私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容を、そのまま受け入れるか、

否認するかは、読者の自由である。

 ****************************

 

調査団が紹介された、その方は、年齢不詳のヒマラヤの聖者、

エミール大師の尊敬する大師の一人だった。

エミール大師と同様、その方も、一見、日常出会っている

人たちと少しも変わることがない風情、いわば、普通の人である。


それでも、隊員達は、師には、その方を覆う、何かしら、遥かに

精妙なものを感じた。

それを言葉で、表現すると、その大師はこう答えた。

 

“それ(精妙なものを感じる理由)は、人間の可死的な部分を、

不可死の部分と比べるからです。

もし、皆さんが(すべての本質として潜んでいる)、神の性質

(実相)のみを見て、(表面上の)現象と現象との比較を

しなければ、ちょうど私に対すると同じような観方を、すべて

の人たちにすることができるでしょう。

 

言い変えれば、すべての人々の中にキリスト(神性)を求める

ことにより、その人たちの中にある、キリスト=神なる実相を

描き出すことになりましょう。”

 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 

” 私たちは決して比較をしません。”

”私たちは、常にすべての人々の中にキリスト 即 神なる本質 

を見るだけです。

その意味では、私たちは 皆さんの’肉眼の視野’の中にはないわけです。

 

私たちは、人の実相なる完全さを見るのです。

言い変えれば、私たちには 完全な眼力~視力 があります。

 

ところが、皆さんは、他人の不完全な相を見ている、即ち、

不完全な眼力しか持っていない。”

ここで この大師は調査団に教示している。


完全な眼力とは 人の実相なる完全さをみることをさし、他人の

不完全な相を見ている限り、不完全な眼力でしかないという。


さらに、表面上に現れている(現象面)ことを見ないから

大師たちは比較をする対象はなく、実相のみを見る完全な眼力で

一元の世界(大本には一つの善、生命力、愛、智慧 があり、

そこから万物は派生している世界)をとらえているだけだと

いうのだ。

 

”このように、私が言うことを聴いても、あなた方が立派な方

に接して、その教えを受けるか、ただ今のように、私たち

(普段は下界で生活することのない)を見たり話したりのできる

ところまで意識を高め得ない限りは、私たちの教えが何か

わからないでしょう。


ただの、インスピレーションを受けたみたいにしか思えない

でしょう。

しかし、私たちが誰かと語るとき、あるいは語ろうとするときは、

インスピレーションを伝えるのではありません。”

 

”それは 本当のインスピレーション が受けられるようになるまで

導いていく、一種の教えなのです。” …略…

 

すべて、神の手にゆだねず、人間の我の手に、移すときに色々な

問題や困難がおこるのです。

私たちが 少しもあなた方と異なる者でないことは、先ほどに

言った通りです。

異なるのは理解の仕方だけであって、ただ それだけです。”

 

”総てを神にゆだねる”、 概念ではわかっても、どのように現実生活

の中で、それが可能であるのか?


修道院にはいらない限り、神にゆだねる生活は経済的・現実的では

ないと思う方もいるだろう。


ここで 大師がいう ”神にゆだねる” とは決して、現実生活を放棄

して、神様助けてください と祈る生活ではない。

神とは私たちの中にある生命力 私たちを生かそうとする愛、

私たちの本質的な絶大なる力や意志力などの総称であると考える。


そして、大事なことは ”比べない”と語った大師の言葉にある

ように思う。

現象面に覆われて隠されているが唯一のリアリティー、真実、現実

つまり私たちは本来,光,同様、この上なく自由で明るく、闇を制覇

するものであるという認識と 信念を持つよう努力することなのだ

と思う。

 

 ”いろいろな 違う主義、教え、教条、あらゆる角度のあらゆる

宗教は、本来は皆善なのです。

なぜなら、それらは、いずれも終局において、一切のものの底には、

今日まで 把握し損ねた実存というある深き因子、触れえなかった

もの、本来 おのれのもので 正当に所有し得る、また、正当に

所有すべきあるもの、が存在するという悟りに導くからです。”

 

”まず、想念が 神の意識から人間の意識の中 に直接押しだされ、

先へ先へと進んでさえおれば、きっと前途に、何かがあることが

わかる。

 

ところが、ここで人間はたいてい、過ちをおかして、この想念を

もともと 自分のものと誤認してしまうのです。

 

こうして、彼は神から離れ、神の完全なる表現の媒体となる

代わりに、自我流を冒し続けて 本来完全となるべきものを

不完全な表し方にしてしまいます。”

 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

”すべて善き想念は神の直接、完全なる表現です。”

 

 ”人間が学ばねばならない重大なことは、霊力や精神力 (*1)

とは永久に縁を断ち、直接に神を表現することであります。(*2)

 

霊力というの、すべて、人間自らの創りだしたものであり、

ともすれば、人を誤らしめるものであります。“[145148 

 

”霊力や精神力と縁を立つ”という意味?


”自分で何かを成し遂げた”

”この霊力は自分が人よりスピリチュアルということだ”という

”小さな我” の自負するような自我の助長をもたらす精神力や 

霊力をいうのだろう。

 

こうした資質は、最終的に放棄しなければならないのかもしれない。


霊力も精神力も、常識的な意味とは相反して、ここでは 自我の力と

大師は理解しているのだろう。


人は、最後は、”自分が”という 自分 に、捕らわれた概念すら

なくなり、自分の個性を持ちながら、大いなる生命と愛の海原

にたどりつく。

この時、すでに、気張る心(精神力)も、霊力 も必要なく、

そのまま、自分自身 であり、真の自我、リアリティー、

そのものであるに違いない。 


その時こそ、真の眼力に目覚め、真の(地上的でいうところの)

霊力をもつに違いない。

さらに、何よりも大切な、愛と喜び、いわゆる至福を味わう瞬間の連続

となるだろう。

 

 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 

直接に神を表現すること”、と大師のいう神は、特定の宗教上での

神をさしてはいない。

大師は、神とは ”法則であり、かつ、人間の概念でいえば、

愛である” ともいう。


私たちが 本来の”幸福で心身健康な生活”の基盤となる健康な身体を

保持できるのも、生かそうとする(神=リアリティーの)法則に則って、

体の中の細胞隅々で、自然法則が正しく機能しているからに他ならない。

 

大師のように、年齢や時間 空間を 超越して存在できる生命に至る

までは長い道のりがかかるかもしれないが、だれでも、それを達成

することは可能であり、それが、即ち、神を 表現すること~と 

大師は意図しているのだろう。

 

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 空の神秘~読者の方の投稿です。 実物はもっと美しいのだと思います。 日没時の情景。

<script type="text/javascript"></script>

ジャンル:
ウェブログ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする