自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

究極のマントラ(2)~谷口雅春師の唱えた言霊

2019年07月24日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

谷口雅春氏の教える、”人間の実相” と、

ガヤトリーマントラ との共通点

*********************************2019・7/25  

前書き)

"祈り"は眼に見えない科学の一つだと考える。

なぜなら、”祈り”はほとんど確実に何らかの影響力を持つ

ものだから。

私が、タイトルでつかっている”究極のマントラ”とは、真言

祈りの言葉など、無数にあるそれらの中で、インドにおいて、

最もパワフルと言われている”ガヤトリーマントラ”をさして

いる。


次回から、少しずつ、詳しく紹介させていただくことにして、

今日は、唯心論説く谷口雅春師と、そのガヤトリーマントラ

の共通点について記事を投稿させていただきたい。


このサンスクリット語で語られるマントラの存在を知って

いる人は少なくないが、その言葉の意味を理解している人は、

多くは無い。

このマントラが、”究極”なそれと呼ばれる所以(ゆえん)は

何か? 


インド古代から伝わるヴェーダ哲学の真意を表した、この

マントラによって、三界の業が浄化され、本来の人間の実相

が現れるとされるからだ。

では、実相とは何か?


今日は、その究極なマントラの内容と、共通する真理を説かれた

谷口雅春師(注;師はガヤトリーマントラご存知なかったと思う)

の言葉をご紹介したい。

 *************************

手元に谷口師の教えた経言(のりごと)(*1)がある。

これはある意味、マントラである。

しかも、究極のマントラに限りなく近い内容だと私は思う。

どこが近いのかといえば、”性善説”の徹底、つまり、善しか

実存しないという、人間の実相像である。

谷口師は”人は神の子である”とシンプルに言い切った。

だから、親神(おやがみ)の資質である、無限の愛と智慧、

無限の供給に 誰もが恵まれていて、当たり前だという。

神の平穏の懐(ふところ)に抱かれて、安寧の中で静かに

歓びに浸っている姿こそ人間の実相であるという。


谷口師は言霊(ことだま)を使って、その実相が顕現すされる

ように、唱えやすく、わかりやすい、力強い経言を残した。


以下にいくつか、ご紹介させていただく。
皆様も、よろしければ、静かに、ご自身の唇をもって、声に

出して読んでいただきたい。

その内容が、言霊となって耳に広がるとき、自分の体と心が

どう反応するか、身をもって体験していただければ幸いだ。 

 

”吾は今、‘善’そのものと融合して一体であることを感じる。

吾はもはや、‘善’そのものと疎隔(そかく)の感じをいだか

ない。

吾は‘①神’の家に住む神の子としての権利を自覚して②悦び

満たされているのである。

吾は③悪夢より目覚めて‘神’の御許(みもと)にいくのである。

今吾は内在する神の生命と愛と智慧とを明らかに知るのである。

吾は我が境遇と運命とが④自己自身の想念の反映にすぎない

ことを悟ったのである。

それゆえに、吾は最もよきものを、最も浄きものを、最も真なる

ものをのみ思うのである。


吾は⑤すべてのもののうちに、我が求むるよきものを見出すこと

できるのである。

吾は今、神の智慧と力とで満ち溢れている。

吾は今、宇宙生命と一体なることを感じて、歓びに満たされて

いるのである。

それゆえに吾が求むる一切は必ず成就するのである。

吾れこのことを感謝し奉る。”

 

次に以下、この経言(のりごと)の中で私が下線を引いた言葉、

①から⑦までの私の個人的見解による解説~

 

①  神’の家に住む神の子( 性善説の極地を説くマントラ)

このフレーズは、聖書の中の言葉を思い起こさせる。

人が、放蕩息子にたとえて、神から離れた姿を例えている。

本当は、人は、父=神 に愛されてその後継者として、すべて

を与えられているのにもかかわらず、その真実認めない

どころか、本当の自分は(親から愛されていないから)神(親)

と離れたところにあると思いこみ、家出をして、さまようのが

聖書の中の放蕩息子であり、現代の、神を忘れた私たちの姿でも
ある。

谷口師の言う、”神の家に住む神の子”とは、本来の私たちの姿

を表現して

いるのだろう。

 ②  悦び

びでもなく、びでもない、ここでつかわれている、びと

いう漢字の意味するものは、法悦’の悦、つまり、本当の真実

(法)を知ることで得られる、

心の安寧、無執着、つまり、法悦(ほうえつ)状態をさす

 

③  悪夢より目覚めて

豊臣秀吉の辞世の句にあるように、生きている間の出来事は

一瞬の、夢幻(ゆめまぼろし)である。

良い夢ばかりでなく、苦労や悲しみを伴う、悪夢を見ている

こともあるだろう。 

その間は不安定で怖い。

まるで、大波に揺られている小舟のように、私たちは周囲の

環境や、価値観に揺さぶられ、感情は上がり下がりしている。


何をしても、なかなか思うようにいかず、あがいたり、アリ

ジゴクに陥るように、抵抗すればするほど、事態が悪くなる。

執着してもしかたがないのに、心が離れられなくなって、

どんどんと、かたくなになっていく。


こうした、現実の苦しみのように見えて、その実、そこには、

実態は、仮想で、実存的(永久に存在する)ではない。

夢から覚めれば、実相がわかる。

だから、これらの苦しみを、悪夢 と呼ぶ。

これらは、”顛倒妄想”の中での体験を意味している。


谷口師は教える。 

私たちの父親が、神であると知れば、言い換えれば、私たち

の本来の実相が、どのようなものなのか合点がいけば、すでに

すべてが一瞬にして変わる。

実相が現れれば、太陽が雨雲を押しやるようにして、明るい光

そのものの、実態(実相)が出現して”悪夢”は自然と、雲散

霧消(うんさんむしょう)して、消えると・・


 ④  自己自身の想念の反映

仏教で説くところの唯心所現(ゆいしんしょげん)を意味する。

私たちの周囲で起きている、人の言動も環境の良しあしも

すべて、元を問えば、私たちの想念、つまり、考え方や物の

観方が創り出したものだ。

つまり、自分の考え方が変われば、周りが変わるということ。

周りが変わるとは、単純に物質的変化だけではない。

目に見えないもの、健康や豊かさ、希望や愛情など精神的に

すべて変化する。 

 

⑤  すべてのもののうちに、

我が求むるよきものを見出す良きもの、善なるものを私たち

無意識に求めるようになっている。

それを現実にもたらすためにも、良いことを想い、考え、想念

清めていくことが大切だろう。

いろいろな方法で。

先人たちはそのために、言霊のパワーを使って、マントラ(祝詞

や経や、真言や言霊)を教え、残してきた。


⑥  歓び

ここでつかわれている歓びという漢字は、前に出てきた法悦

の’悦’とは異なる。

法悦はで味わうもの。

びは心で感じ、身体的なものだろう。


前後の文脈をみると、’宇宙生命と一体なることを感じて

とある。

宇宙生命、これもまた、理解しようとしても言葉では、簡単

には、言い表せない。

自然治癒力セラピーを通して、あるいは、個人個人の修行を

通して、私たちのに無尽に走る神経のように、すべての細胞

有機的に結び付け、自然治癒力を促している、今、この身体に

みなぎる、生命力こそ、その宇宙生命の現れの一つと、すでに

多くの方たちが体験で知っている

別の形で、それを、感じ取り、歓喜で生命の実感を、知っている
方たちは、きっと、多いことだろう。

 

⑦  必ず成就する

自分が欲する祈りは、~人を傷つけようとするものは除いて~、

案外、”自分“だけの祈りだけではないことがある。

気が付かないうちに、宇宙の大生命意識が、自分の心に種を

落とすことがある。

それが、芽生えて、言葉として表現できる、”祈り”になる。 

こういう祈りは、必ず実現する’と先人は教える。

 

さらに、自分自身が常に、大いなる宇宙意識と結びついて

いる自信があれば、どんな祈りも成就するだろう。

だから人は修行するのかもしれない。

修行することで、神や仏、宇宙の意識に限りなく近いところ

自分を置いておきたいのだ。

それは自分のためだけにあらず、自分を含め、他者を、星々を、
宇宙を、清めることができるという、大いなる喜びの為に。

自分が、神や仏に近いところにいるという自覚は、'叶う’という

確信につながり、確信が強い分、実現に必要な要素を、自然と

四方八方から引き寄せる力となるからだ。

よく、’とんとん拍子に物事が運ぶ’、とか、’偶然に偶然が

なって’、’流れるように、物事が進んだ’いう話を聞く。

それは、神や仏の恩寵も勿論だが、その人自身の潜在意識

にためられた、強い信念がものを言っているのだろう。

 

 

 

 * (1)”日々読誦30章経” 光明思想社 平成25年

 

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究極のマントラ; Science of "Gayatri Mantra"(1)

2019年07月17日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

そう呼ばれる理由と目的とするところ      2019 .7/17 

*************************************

前書き)

①ぼうさんの質問の答えで先回少し脱線した。

それから自分自身でいろいろ考えたりして、もう少し私の体験

と情報を皆様と共有したいと思い、脱線ついでに今日から

数回の予定で、”究極のマントラ”について考えてみたい。


先回(7月10日)にも触れたが、

マントラとは真言であり、真の言葉、つまり、言霊(ことだま)

として唱える人に幸いをもたらすものだ。

宗教には古今東西問わず、祈りの言葉、お経、などが存在

している。

② 15年間のインド滞在中に多くのマントラを師たちから

伝授していただいた。

その中でも特に、"Gayatri Mantra”と呼ばれる真言は、罪を清め、

カルマを除き、本来の人間の本質に戻ることを約束された

マントラだった。


だから、私はあえて、このマントラを究極のマントラと

呼ばせていただく。

そのマントラを後日このシリーズの後半で、詳細にお伝えしたい。

その伏線として今日から数回にわたって、究極 という意味を

考えるために遠回りをさせていただく。

お付き合い願えれば幸せだ。

 

③お詫びと訂正)

先回の本文中の谷口雅春師のお名前を雅治師と間違えて

お伝えしてきた。

ここでお詫びとともに、訂正させていただく。

 

************

幸いとは何か?

神頼みしてそれがかなうことではない。

その人の持つ本来の力量(キャパシティー)が十分に発揮

できるようになるから幸せといえるのだろう。


愛においては、周囲の人たちと愛深い交流があり、

智慧においては深い智慧が湧いて万事つつがなく事

が運び、豊かさにおいては貧しさということを知らないほど

十分に必要なものが無理せず必然的に回ってくる。


言い換えれば、“実相円満完全”な自分自身の本質が

今の環境に映し出されるということだが、

祈りの言葉はそのために、摩訶不思議な力を持つものだ。

 

インドの宗教の根幹にあるプリンシパルは、”絶対不二一元論”

にある。

絶対完全なもの(神)しか存在せず、すべては一元に還る

ということだが、もう少し簡単にいうと、この世の

不調和や不健康、不幸は、永遠に実存するものではなく、回り

灯篭のように一過性で、それぞれの人の持つカルマ(業)の清算、

バランスをとるために現れているという考え方だ。

 

"絶対”の反対は’相対’。

この地球上の科学も人の考え方も相対的な価値観(考え方)に

成り立っている。

相対する価値観は、唯一無二の絶対価値観にはなりえない。

良いか悪いか、美しいか醜いか、という、相反する二つの

対照的な基準が常に存在してその比重によって、対象を

判断したり審判を下したりしている。

 

一方、絶対的価値観というのは、神は善であり、義であり、美で

あり、完全であり、愛であり、無限の豊かさであり・・・という、

’完全円満性’をいう。


インドのヒンズー教では多くの神様がいるのだが、しかし、

”一元論”が根本にあるから、絶対神は一つ、が、“表現体”

として様々な神様が出現していると考える。


この世の中に不完全性があるように見えるのは、次の

理由からだと考えられる。


ア)カルマを超越しない限り、毎日の出来事は個人的でも

社会的でも、すべて、カルマ(業)の浄化(カタルシス)の

ために起きているか、

イ)潜在意識のため込んだ歪(ひずみ)が不完全を

表しているのか、あるいは、

ウ)一人ひとりのエゴが人類意識のエゴとなり、自然現象

を狂わすほどの不協和音を醸し出して、地球の磁力や

大気の仕組みを壊しているのか・・・

 

それでも、私たちが肉体という衣を脱ぎ捨てて

次元の違う世界へ死という形で移行すると、また、

異なった世界があると先人たちは教えている。


地球よりすさんだ星(あえてその霊界の場所をこう呼ぶのなら)

もあれば、大方の星は霊的にもっと進化しているとも

聞いている。


こうして私たちの肉体の衣を
脱ぎ捨てて向かっていく方向は

その究極の一元の世界に限りなく近づいていき、

輪廻転生したり、次元を超えた星での修行をしながら、

生と死(幽体的死)を繰り返しながら、’絶対善’、’絶対愛’

の中へと少しずつちかづき、最終的にその絶対なる

暖かくも優しく、懐かしくも最大の癒しを与える存在と、

一体化していくのだと、私の霊的な師匠は教えてくれた。


さて、前置きが長くなったが、
こうしたプロセスを、地球に

居ながらにして魂的に進化させるために、”究極の真言”が

存在している。


ヴェーダ哲学(神学)~紀元前5千年に編集されていた

という~の中で、最も有名なその真言を

皆様と数回にわたって共有したいと思う。

ヴェーダ哲学の根幹は、不二一元説であるから、

先ほど述べたように、絶対的価値しか本当の意味で

実存していない、という。


こうした考え方を、サンスクリット語で

“ADVAITA”と呼んでいる。

日本でこの真理をもっともわかりやすく解説されている

宗教者の一人が谷口雅春師であった。


次回は、谷口師の言葉をあげて、究極のマントラの

前編としたい。

そのADVAITAの本質を簡略な日本語で表した、谷口氏の言葉

をご紹介するところから、究極のマントラ(2)を

はじめさせていただきたい。

 

 

 

 

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ぼうさんへ:マントラと呪文に関していただいた質問の返答

2019年07月10日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

ぼうーさんへのお返事、  2019 7月10日

***************************************

 前書き)

村上氏のスピリチュアリティのお話は

まだ続きますが、先回7月3日に

予告しましたように、今日は少し脱線します。

**************

ぼうーさんからずいぶん前(2019・2/8)

に、以下のようにコメント欄(公開)

質問をいただきながら、気がつかず、

3月になってその質問を拝見し、時間が

経過しているので慌てて、’機会が

あったらブログ上で取り扱いたい”

と返答をしています。

もう7月。

とりあえず、いただいた質問をUPして、

遅ればせながら茶色字で返事を入れました。

 ぼうさんの目に留まることを願いつつ。

 ぼうさんの質問は以下のように始まって

います。

*************************

須田先生、はじめまして、こんにちは。

密教や修験道であるような「呪術」と(

西洋)黒魔術に代表されるような

「魔術」の違いがどうしても知りたく、

調べてもわからず、しまいに先生の

ブログ記事に行きつきました。

関係のない記事にてコメントで

申し訳ないです。

参考にさせて頂いた記事は6年前の、

「インドで知った黒魔術の攻防戦」です。

「魔」ついては、個人的には一部

可視化、肌で感じるといった形で

わかることもあるのですが、そうで

ないことも多いです。

それで先生がご自身の体験を通して

どうお考えになっているかお伺い

したく思いました。

伝統的にお守りに代表される「破魔矢」

ですとか、仏教で「降魔」という観念で

魔を退けている日本の呪術も魔性との

関りはないのでしょうか? (質問終わり)

 

***この質問の中にある、黒魔術の攻防

というくだりは、私が実際インド滞在時の

最終ステージで体験したものだ。

詳しいことは、当時のブログを見て

いただければ仔細に状況プロセスが

つづられているが、ざっくりお話

すると、生霊の念に体が縛られ、

危うく死の扉の近くに行くという

体験だった。(大げさに聞こえるが、

私の代わりに一人の身近な女性が

病院に緊急に運ばれ命拾いし、

その代わりのように、彼女の弟

が心臓麻痺で数時間後他界した。)

 

こういう話は、科学的ではない。

また、作り話でも本当の話でも読者の

方には信ぴょう性がないものとしか

映らないと思う。

ぼうさんは行間のニュアンスから私の

体験を真なるものととらえてくださり、

その時の相手の呪術の念から身を守る

ために唱え続けた真言に興味を持たれた。

 

サンスクリット語ではこの場合の

真言をマントラという。

呪術に使う言葉を呪文というが、

マントラを呪文を考える人もいる。

それに関しては、以前、私はこんな

記事をブログに挙げているので

最後の方に、参考に載せておきたい。

 

さて、ぼうさんのお返事に入りたい。*** 

回答~これ(破魔矢の魔)に関しては、

魔性と関係が当然あると思います。

破魔矢については、日本超古代史

(ホツマツタヱに書かれている事柄)

の中で、その云われについて触れています。

 それを読むと、古事記の神話以上に、

リアリティーがあり、破魔矢を含め

日本人が古代から続く風習や慣習

などの‘起源’を知ることができます。

ホツマツタヱによると、“はたれ魔”

という”人の欲望や利己意識に付け

込んで入り込む’魔’の存在を認めていて、

ホツマツタヱの中では命尊(ミコト)

と呼ばれる神々がこれと戦った記録も

残っています。(これに関しては後日

また、ブログでご紹介したいと思います。)

 

仏教でいう”魔”については私は正式に

勉強をしていませんが、少なくても、

お釈迦様が最後の悟りを開くとき、

この‘魔’と観想をしている中で闘った

ことは、スリランカの経典の中に

書かれているようです。

ちょうど、西洋の悪魔的存在と匹敵

するのですが、キリストが、深い

祈りと瞑想を続けているときに、

’全世界を お前にやるから私に服従

しないか~’と誘惑してきた

悪魔と同様の種といえるでしょう。

  

質問)先生の記事に、「この状況下で、

古神道の さすさつづ歌 という、

魔性を払いのける祝詞を選んだ。

・・・黒魔術師 からの、波動を

突っぱねるために 祝詞の波動で

わが身を守り続けた。」 とあります。

 基本、例えば密教の真言に「魔性」

はなく、前述の祝詞のように全く別

(次元)の(神聖な?)力が働いて

いる、と考えてよいのでしょうか?

 

回答~はい、真言と訳した場合はそうです。

ただし、どの宗教にも裏と表があるように、

言葉で相手を呪い、身に災いをもたらす

という方法はあるようです。 

というのもその実在を、数年前に高野山

に行ったときその呪文が書かれた書物を

古書専門店で見つけたからです。 

当時はインドの黒魔術の体験がまだ

生々しく、私自身、もう触れたくない

という想いが強かったせいか、その本

は興味はありましたが、購入しません

でした。

 

密教にも呪文は存在していたでしょう。

陰陽師(おんみょうじ)と呼ばれる人たち

の中にもそうした業を知っている人たち

がいたようです。

 

質問)先生も般若心経の記事で真言は

「呪文」と訳されている、と書かれて

いますが、また学術界では魔術を単に

呪術と学術的に呼び変えているだけの

ようですが、一般人としては、その

あいまいな線引きがどうしても

気になるところです。

 

回答~専門学者ではないので、呪術と

魔術の線引きを学術的にお話は

できませんが、学者さんも、たぶん、

呪文の体験や真言の力を体験したかた

はあまりいないので この線引きを

現実的にひくことは難しいのでは

ないでしょうか? 

ですので、魔術=呪術と単純に呼び

変えているのも不思議ではありません。

それから、魔術と訳された本来の言語、

それが英語でもサンスクリット語でも、

元の言葉がわかれば、魔術か呪術か、

その概念がはっきりとするように思います。

 

私は、魔術ときくと、インドでよく

身近な人たちがかけたりかけられたり

していると信じていた”黒魔術”、英語

では文字通り、black majic と称して

いたそれを思い出します。

私が住んでいたニューデリーの界隈

でも教養を受けた人たちがこの言葉を

意外と頻繁に使っていたのが印象的

でした。

黒魔術でつかわれる、呪いの言葉は、

真言と訳されるマントラの中の呪術

とは異なります。

まさに私がインド滞在中最後のほうで

体験させてもらった、黒魔術の師

からかけられることになった

私への呪いの言葉は、その念の

入りようを恐ろしく感じた周りの

弟子たちが”もうやめてください。

須田さんが死んでしまいます”と

止めたほどでしたから、(その弟子の

ひとりが私の会社の運転手でしたので、

その話を直に聞くことができました)

その時、その師匠は、おどろおどろしい

雰囲気を醸し出していたと推測

します。

 

そして現にその術は私のところに

確実に届き、その時刻、私は体が重く

硬直して、ベッドから起き上がれ

なかったのですから直観的にその術

で受けている波動は察知するほど

でした。

また、中世の西洋諸国で行われた

魔女狩りも想起させられます。

魔女たちは特殊な‘念の力’を使い、

キリスト教に反する邪道な悪を

操るものとして、とらえられ火あぶり

に処せられ、中には無実の疑いを

かけられ犠牲になった

人たちも多かったようです。

黒魔術はいわゆる、呪いです。

相手の幸せを祈るより、呪うための、

言霊を駆使します。

一方、マントラは神への祈りの言葉

に通じます。

それは相手の幸せを祈るため、肯定的な

本来の祈りの言葉でもあると思います。

 

 ****************以上です。続いて、

 呪術に使う言葉を呪文というが密教的な

意味で真言と考えられるマントラを呪文と

呼ぶ人もいる。

それに関しては、以前、私はこんな記事を

ブログに挙げているので最後の方に、

参考に載せておきたい。

 

(平成25年9月2日のブログ記事より)

 真言 という言葉をそのまま使っている 

仏教宗派がある。

真言密教だ。弘法大師が開いた真言密教

の中で、”真言” は重要性を持つ。

それは、”言霊” の威力 によって、 

魔を祓い、病すらそれによって、

治すことも可能だからだ。

言霊の威力というのは、その聖なる言葉

の発する振動が、人や事象に

変化を与えることもできる。

弘法大師の書かれた”即身成仏義”に次の

ような言葉がある。”六大(*1)

は無碍にして、常に瑜伽(ゆが)なり。” 

”諸の顕教の中には 四大等 を以って、

非情とす、密教には 即ち これを

説いて 如来の三摩耶身とす、

四大等 は 心大 を離れず” と

説いている。 

 

意味は、物質はそれぞれ、お互いに

無碍涉入(むげしょうにゅう)しており、

物質は単なる、物ではなく、ことごとく

意識を備えた物心一如の自覚体である、

一木一草森羅万象、総て自己との

深い関わりがあり、それらの存在すると

ころに人格的存在があり、仏の

三摩耶(samaya=誓願)によって、貫かれた、

如来の三摩耶身である。

 

言い換えれば、この世の中の万物は 

如来の心の顕れであり、すべての存在

にその心が流れているから、自分と、

まわりの自然事象とはすべて深い関係で、

繋がっている、ということだろう。

或いは、それらの事象と一如である

からこそ、自分の発するコトバの

波動によって、すべからく、自分を

含め周りの事象の変化を可能に

するのである。

この言霊の威力を使う真言密教の

行の一つに護摩法(ごまほう)がある。

四角の炉に蒔きをくべ、火を燃やし、

真言を唱えながら行う、心身清浄の

行だ。 

筆者がガンジス河の修行所で

体験したそれは、次のようなものであった。 

”・・・・・スヴァハ(日本語の

漢字表記では娑婆詞~ソワカ~” 

で終わる マントラを繰り返しながら、

そのたびに、香木が燃えたぎる炉の

中に、お香や、花や米などの供え物を

投げ入れる。

日本では、数度、真言宗の寺や、

大山御不動様また、鞍馬の満月の

祈りの夜などでお焚きあげを体験したが、 

ガンジス河の古式の護摩法の儀式と

根本的に同一な儀式であった。

 

護摩行に関しては、印度の古代聖典、

ヴェーダの中で、リグ・ヴェーダにその

儀式の方法が書かれている。

火炉(かろ)に供えられた供物を

聖なる火で焼き、火煙となった供え物は、

天の諸神のもとへ運ばれる。

と同時に、この火炉の薪(たきぎ)は

智慧の火の象徴であり、燃やすお供物は、

我々の煩悩と欲である。

それらが 智慧の火の中に交わり、

溶け、燃え尽き、さらに、煙となって、

転化して上昇、天に昇っていく。

 つまり、煩悩が燃やされ、新たな智慧

のエネルギーに転化し、昇華していくさま

を深く、観ずることも、護摩行の特性で

あるだろう。

 

日本の密教では こうした理念を受け

継ぎお炊き上げに繋がっていくのだろう。

このお炊き上げの裏にある真の意義は、

印度で生まれた、タントラ密教の考え方にも

通じるものがあり興味深い。

我々の欲望を否定するのではなく、

それを聖なるエネルギーに同化させていく

手段と考える。

象徴的に 聖なる火 で それらを燃やす。

欲そのものは悪ではない。

欲は誰しも持って生まれた煩悩、

それは生命力の伸びようとする、

エネルギーの顕れでもあり、

自分を浄化せしめるパワーの根源でも

あるのだ。

 

キリスト教会の教義によると、

 ”人は罪深い原罪を持つ”存在で、 

赦しと救済が必要だから、イエスが

十字架にかかり、贖罪をしたと

説かれる。

イエスを信じることで、罪は許されるが、

永久に、人と神との間に 越えられない

一線があるという一般的キリスト教

考え方とは、そこで、密教は、意見を

異にする。

 

護摩行では先にもお話ししたが 

真言が唱えられる。 サンスクリット

で言うところのマントラだ。

般若心経で書かれている、”呪” 

である。呪、呪文というと、

漢字では 呪い(のろい)と同義語

に錯覚しがちだ。

呪いのような、言霊を利用した、

よこしまな呪術は真言密教では、

禁じられる。

よこしまな呪術 というのは、言葉を

変えれば、己の欲望のために、言霊 を

行使して、

”小自我の欲求達成のための手段”と

すること。

般若心経の 呪 は、その意味とは

正反対の自分を縛る執着(呪縛)から

の解放を得て自我意識に到達するための

言霊をさす。

例えば、念仏や念誦に用いられる

呪文を密教では 

vidya(明呪)、mantra(真言)dharani(ダラー二)

と呼んでいる。

その梵語のもともとの意味は、

vidya( 明呪 )は般若の智慧( ヴァンニャー)

であり、無明を開き真理に明るくする智慧。 

mantra(真言)は、神聖な思想を盛る

器の意味dharani (ダラー二)は、

精神統一する際に必要な精神力をそれぞれ

表現している。 

弘法大師が、

”真言は不思議なり、観誦すれば、

無明を取り除く。一字に千理を含み、

即身に法如を証す。”といわれた、

不思議と述懐された真意は、魔術的

な要素 をさしているのでなく無明

を取り除く、という真言(マントラ)

の不可思議さをさしている。

真言の一つの文字に 千の(無数の)

真理をあらわし、これを理解したとき、

その身に功徳をいただき、真理と一体

(大我)を実現するということを大師は、

言われている。

護摩法とお炊き上げ、そして 真言の

祈り、それはすべて、不浄を燃やし、

燃やして残る大我(人間の実相)の顕現

を目的にした、儀式ということで

共通しているようだ。

 

 

 

***補足*1) 地・水・火・風を四大、

それに空・識を加えて六大元素とする

 

 

 

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ぼうさん、遅くなってごめんなさい。お約束は次回に。

2019年07月03日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

2019.7/03

***************

 

ぼうーさんからいただいたコメント

(2019・2/8)に次回お返事としての記事

(このシリーズの臨時投稿)を書きますね。

7月に入ってしまいました。

遅くなってごめんなさい。

魔術と呪術、西洋と東洋のそれの比較など、

私の体験を踏まえて質問してくださった

ボウさん、次回のブログを、読んで

いただけるとよいのですが。取り急ぎ、

お詫びとお知らせまで。

 

 

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遺伝子を解読した科学者村上氏のスピリチュアリティ (2)

2019年07月03日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 

魂はどこにあるか? 魂意識と現在意識のギャップ   2019・7/03

 

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先回は遺伝子レベルでの生命と魂を明解に科学的に定義することは

難しいという村上氏の意見をご紹介した。

そして村上氏は魂の存在を認め、所見を述べている。

村上氏の考える‘魂’は、それではどういうものなのか? 

それが今日のテーマだ。 

 

村上氏はその著書“生命の暗号”の第5章で次のように魂について

書いている。

“私の考える魂は今の自分が意識している心ではありません。

一般に意識できるのは心であり魂ではないと思うのです。”


皆さんは魂がどこにあると思いますか? 

ある人は胸にあるチャクラ当たりを手で示すし、ある人は

頭脳の中にあると考えているかもしれない。

私は、魂は体の中にあるのではなく、魂の中に体があるのだ

と思っている。

 

魂とは耳にしたことがあるかもしれないが、キルリアン写真に

写るといわれる人の体から発するオーラは一種の光で色がついて

その写真には現れる。


魂もきっと、こうしたオーラのように光状で、私たちのこの

肉体をすっぽり覆っているのだと思う。

その意味では、魂は実のところ、村上氏の言うように‘意識ある心’

を超越しているといえるだろう。

それでは‘無意識の心’にあるのかといえば、それも少し違う。

 

心というと英語では、mental,とか Spirit という言葉が

それにあたり、一応それぞれの意味合いが少し異なり、

定義もあるようだ。


一方、魂はsoulと訳されることが多いようだが、本当のところ、

その実態の定義がない以上、魂という言葉に何か説明を

つけることは難しいような気がする。


’私たちはすべての宇宙の存在とつながっている’~というときや、

’地球の裏側にいてもあの人とはつながっている’と感じるとき、

それは心(メンタル、スピリット)でつながっているというより、

”魂レベル”での結びつきをさしているのだろう。

 

その魂レベルの意識は どこにあるかといえば、潜在意識より

もっと深い“深層意識”のまた奥にある意識のようなもので、

現在意識では決してとらえることができない代物だと

私は考える。


それはちょうど、自分の魂が今生の境遇条件(親、家族、

家庭、国、環境など)を選んで生まれたように、

でも、その覚えが全く現在意識にないように、今の意識とは

かけ離れた意識(と呼べるのなら)なのだろう。

 

私たちは、自らのこの人生の背景、親や境遇、環境など

を熟知したうえで生まれてきていると、先人たちは言う。

その目的は、この人生における魂の課題を自ら設けて、

それに挑戦するためにふさわしい条件を選択したからだ

と師たちから聞いてきた。

 

村上氏もそのあたりのことを漠然とした言葉ではあるが、

次のように表現している。

“魂とは無意識の世界と関係するのではないか、魂はあるけれど

自分でも通常は意識できないもののように思えるのです。”

そしてこう続けている。

“心はうれしくなったり、悲しくなったり、怒ったりします。

しかし死んだら心はなくなるのです。

心とは意識の世界であり、肉体とは不可分です。

肉体と不可分なるものは死んだらなくなっても不思議では

ありません。”

(以上引用)

 

’心は肉体と不可分’と村上氏は言う。

なぜなら、心の動きは肉体を持っている間だけしか意識されない

もので、心のとらえる、悲しみ、うれしさ、悲しさ、怒り、

などは、実際は移ろいやすい一時的なものであることを

村上氏は指摘する。


どんなに雲が厚くても早く流れていても雨になって落下

しても本来その雲の上に変わらない大気、青空が存在するのと

同様に、変わらない私たちの本当の“深層のさらに奥にある

意識”が常存している。 


それを村上氏は”魂”と名付けてこう述べている。(以下引用)

 

“ここに無意識の世界というものがある。

これは自分でもはっきり意識できない世界ですが、この世界

と魂がつながっているのではないか。

魂は無意識とつながっていて、そこからサムシング・グレートの

世界へ通じている。”(以上引用)

 

以前ブログで何度もご紹介した、ハワイの伝統的問題解決方法の

ホ・オポノポノの継承者、ヒューレン博士もこの見解と

同様のことを説く。

つまり、神性なる意識の世界につながって生きることを

目標とするのならば、それを実現するために、現在意識を通して、

潜在意識の中にたまりにたまったマイナス感情をクリーン化

することが必要だという。 


徹底的にクリーンすることで、超越意識下の心の部分を

介在してその神性なる意識に結び付くことができる

とヒューレン博士は教えた。

 

神性意識に結び付いたとき、すべての行為、発する言語に

おいて、調和と愛に裏付けされた人間智を超えた力”と結びつく

ことができて、周囲を生かしながら、いわゆる中道の道を

進むことができる。


このヒューレン博士の言う 神聖なる意識につながることを、

村上氏はサムシング・グレート(something Great)とつながる

という言葉で表現しているように思う。


つまり、本来の私たちの魂とは、村上氏の言葉を借りて言えば、

肉体が滅びても残る、とても精妙で純化したエネルギー、

サムシング・グレートに直結できるものと理解してよいようだ。

 

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*(*1)~サンマーク文庫

“生命(いのち)の暗号”、

①巻と②巻  

サンマーク出版 2009年

 

*村上和雄1936年生まれ 

筑波大学名誉教授。

78年筑波大学応用生物学

化学系教授になり、

遺伝子の研究に取り組む。

83年高血圧の黒幕である

酵素“レニン”の遺伝子解読

に成功。先端学際領域研究長

を94年より務めた。

96年日本学士院賞受賞。

 

 

 

 

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