自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ヨガの大元不二一元論のイロハ(5)

2021年03月24日 | 健康と直結する”一元論”について


エカムサット(壱に帰一する)の真意     2021年3月24日

**************************************************************************

多様性の中の”統一性”をエカムサットとサンスクリット語で呼ぶ。

この真理が大切な理由は、それを知ることで、心の平和を保ちやすい

ということだ。

今、どんな状態で健康面、経済面、社会環境や人間関係が表面化

していても、その多様性の中には、究極的に一つの”本当の姿”

しかないと、一歩立ち止まり、反芻して、状態の正常化のために

必要な安定した心持ちを見つけ出すことができるという点だろう。

 

先回は一人の男性を例に挙げた。

彼が、家庭では父親、会社では部長、親しい友人間では”~君”と

呼ばれて、その場に応じた顔を使い分けている男性を例にあげて、

様々な多様性を演じる一人の男性、という設定で、エカムサットの

意味をお話した。

多様性の中の”壱”とは 何をさすか?

それは、いわゆる、神と呼ばれる存在である。

神という言葉がしっくりこない人は、ご自身が信仰している対象でも、

無神論者の方にとっては、”宇宙の法則”と言う言葉、

学者肌の方にとっては、”数式のようにぶれない科学的法則”という表現

でも、同じ意味合いと理解していただきたい。

 

多様性を示すのには、ゼロ(0)を用いたい。なぜなら、多様性とは、

変化とその現れを示すものだから、実体がなく、泡のような現象でも

あるからだ。

実体とは、実存しているもの、つまり、”在って在るべき者・物”だから、

これが”神”と呼ばれる実態で、”壱(いち)”と示した。

すると、1のあとにゼロをつければ、無数にその、多様性は広がる。

10から10000000・・・

無限に、数は増殖できる。

そこには”数”が増えるという実体があるように思いがちだが、

もし、一(いち)を取ってしまったらどうだろう? 

すべては無に帰す。つまり、零になる。

 ヴェーダ哲学ではこう、考える。

”身体、心、知力(学力)、地位、名誉、財産”などを表すものは、

ゼロにしかすぎない。

1である、神だけが、存在しているだけである。神だけが主人公なのだ。

私たちは、それを知って、常に、自分の本質である’神’に、

繋がっているように、心の内の神経を集中すること。それによって、

私は、私として、永遠に存在するものであることが、理解されるだろう。”

 

だからといって、森の中に人を避けて籠って、社会生活を断念することは、

現実的ではない。

サイババ師はこう、述べた:

”あなた方は、自分の親類縁者、身近な社会環境の中で、

義務を果たすべきです。

しかし、このように自分の義務を遂行しながらも、決して霊的な

[スダ注;自分の中にある神聖な資質の学び]から逃れてはなりません。

あなたの世俗的生活は精神生活と調和するようにしなければなりません。

あなた方がこの世に生きている限りは、そこの規則や規制は

無視できません。

しかし、何をしていようとも、人生の霊的な目標である’至高者’を

見失ってはなりません。

一方、父母、親類、富、不動産、その他なんであっても、あなたに

属するモノは何一つ'無い’という事実を認識するべきです。

これらすべてが、カゲロウのように儚く、それらはあらゆる心の

迷いの本体である、’変化する身体’に関係しています。”

 

心の迷いの本体である、”身体”とはどういう意味で、

述べられているのだろう?

年を重ねれば重ねるほど、ある一つの事実を痛切に感じる。

それは、身体は確実に変化していっていることだ。

幼児期、青年期、成年期、老人期と分けてみれば、外見的にも

体力的にも、身体機能は刻一刻と変化してきている。

一方、”わたし”というアイデンティティーはこの身体を持っている

限り、変わらない。

言い換えれば、個人の気質や個人的性格の特徴や’らしさ’は、

変わらず継続しているから、人がどんなに老いても、

その人としてのアイデンティティーは残り、その人を認識できるわけだ。

 ヴェーダ哲学では、こうした虚ろいやすい形式(この場合は身体の変化)

は、幻影だと説く。

身体は、’自分’と呼ぶ資質の中でも、本当に変わらないコアな部分、

”アートマ”の人生という河を渡る道具だと捉える。

身体は、大切な河を渡るための”船”であるのだから、メンテナンスをして、

大切に扱うべきだが、目的地に着いたら用済みとして廃棄される時も

必ず、来るものである。 

そのことを、サイババ師はわかりやすく次のように講義した。

 ”あなたの身体という船に水漏れや穴が開かないように注意して、

船が浸水しないようにします。

つまり、心配事があなたの心の中に入り込んで、病気に

かかりやすいような状況をつくることは

避けましょう。

それが船の浸水を避けるという意味です。

常に船は清潔に保たなければならない。

それは言い換えれば、神様という清掃する専門家に、

助けを借りて、祈りやジャパ(神の名を反復して唱えること)、

瞑想、神への愛行などを実行することです。

清掃やの仕事と床屋の仕事が違うように、あなたの心を、

清らかなにするためには、神様だけが不純物を

あなたのハートから取り除くことができるということを

忘れないでください。

 しかし、この身体は、あなたの衣服にしか過ぎない。

あなたが自分の身体を、あなた自身だと、考えるのは、

無知によるのです。

無知を取り払うこと、それはどうしたら、できるか・・・

それは、決まりきった、修行をすることではありません。

あなたの頭で”真理”を”認識”するだけのことです。

’真理の認識’とは観念的なことではありません。

あなたが、’身体’ ’感覚’ ’心’ ’知力’ ’アートマ(神我)’

の性質’などを 把握して理解して

認識しさえすれば、宇宙の神秘をマスターできるでしょう。” 

(以上、サイババ師の言葉)

 

では、次回から、その一つ一つを、見て行きたいと思う。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨガの大元=不二一元論のイロハ(4)

2021年03月17日 | 健康と直結する”一元論”について



”エカムサット”の本当の意味              

2021年3月17日

****************************************************************************

前書き~

ヨガの大元とは、インドの多種にわたるヨガの背景には、

ウパニシャッドというヴェーダの哲学が存在する。

それが、一元論であるため、あまり、聞きなれないこの言葉を、

砕いて教えていただいたノートが手元にあった。

南インドのカルナタカ州に住んでいらした、シュリ・サティア・

サイババ師の夏期講習だったと思う。

第一回から第三回まで、すでに、発表させていただいたが、

今日から、エカムサット、という、真理を、お伝えしたい

と思う。

先回は,身体が取る食事がヨガを遂行するには,理想的なサットワ的

なものでないことが多いなか、きちんと身体が調和を保って

“残留物”でパンクしない理由は何故か?

それは、身体に流れているチャイタニアと呼ばれる身体の意思が

あるからだというところまでたっだ。

 

そのチャイタニアとは何であるのか?が今日のテーマです。

サイババ師(あとはスワミと表記)は講話の中で次のように語った。

 

“身体は自動車に喩えられる。眼はヘッドライト、下は警笛、

耳はスピーカー、そしてそれぞれの部品が機能するにはバッテリーが

必要です。

同様に、身体のもろもろの器官は,身体の中にある‘アートマ’の力

と言えます。

たとえば、不活性な鉄の削りくずは磁石の力で引っ張られると

あちこちに動くことができる。

それと同様に、それ自体では活性のない身体のあらゆる器官の

活動も、アートマの力の存在で可能になるのです。

私たちが永遠のものであり、知覚力」を備えた真実のアートマ(大我)

を忘れて、このうつろいいく不活性の肉体を,美しくするために

多くの時間と労力とお金を費やしている、これが現代人です。“

 

なぜ、不活性の肉体にそれほど、人は時間とお金と労力を費やすのか?

それは自分の身体について、三つの勘違いをしているからだと、

スワミは言う。

一つは,自分自身を真実の”大我”以外の何者かと,取り違いしていること。

二つ目は、自分自身に属していない人やモノを,自分自身のモノと見ること。

三つ目は,消えて行く定めのものを永遠的だと信じることだという。

 

実際、私たちはこの自分と呼ぶ肉体を本当の自分だと意識をしている。

それが証拠に、人は、自分の身体を“これは私の身体だ。”と言う。

”私と身体”はこの文章の中では別々のものとしてとらえられている。

つまり、人間は”身体ではない”ということだ。

身体とは別のものが”私である”と人は無意識に知っているのだ。 

 

英語で考えるとよりわかりやすいかもしれない。私の身体を英語では

”my body” という。

この場合、私の、my, という所有格のつく対象物は、

それを持っている所有者とは異なるのは当たり前だ。

“これは私の車だ”といえば、車は私が使っているもので、

車が私ではない。

それでも人は身体と自分を同一視する傾向がある。

二つ目の勘違いは、人は世俗的な物質的な所有物、例えば、

土地や家、車や財産などを、自分の所有物と執着することである。

自分の物であるという権利は、正確には登記されている間、

あるいは、その所有者が生きている間、

または、その所有者が使っている間、認められるだろう。

 

しかし、その条件がなくなれば、”自分のもの”では、

なくなる。

”盛者必衰の理(ことわり)”という平家物語の語りの冒頭に

あるように、一時的で儚い”所有物”に過ぎない。

その所有者が死んだら、あの世に持っていけないのは誰でも

知っている。

それらの所有物がこの世に限定された持ち物であるにもかかわらず、

必用以上の執着を持つことからいろいろな問題が起きているのだ。

 

執着ということでいえば、物質だけが対象ではない。

人に対してもだ。

結婚する前は誰が自分の伴侶になるかわからないから、

’私の夫、妻”という言葉は、当然、結婚後に生まれる。

が、離婚すればその言い方は崩れる。

自分の子供であってもそうだろう、わずか100年足らずの人生

の期間だけの人間関係ともいえるだろう。

それなのに、”私の”、”私の”、と人に対しても、物に対しても、

大いなる執着を持つのは何故だろう?

スワミはその理由は,“自分自身を身体と同一化する勘違いから

生まれている”と言う。

 生まれてきたときは誰もが、身体を被う薄い布一枚すら、

持たずに誕生した。

それなのに、半生起もしないうちに“これは自分のもの、

これも自分の財産、これは自分の家族”となんと

“自分の~”と呼ぶ所有物が増えていく。

しかも、それらに対する執着が強く、一生涯その儚い一時的な

所有物を守ろう、離すまいとして振り回され続けている人は

多いようだ。

人生、私の~への執着のために、四苦八苦してエネルギーを費やして、

心の内側を観ている余裕もないまま、多くの人達は、死を迎えるの

だろうか?

 

スワミは言う:“あなたは誰にも属していない。同時に誰もあなたに

属していない。真に変らず存在してきたもの、

これからも存在するものは、たった一つしかありません。

賢者はそれを多様性の中の一つと呼びました。ところがあなた方は

その’一つ ’の真実を探そうとせず、

多様に顕れている現象にふりまわされているだけなのです”と。

 

もう少し具体的に言えば、こういうことだろう。

たとえばあなたは結婚している。妻も子供もいる。妻はあなたを

“夫”と呼ぶ。子供はあなたを”お父さん”と呼ぶ。

会社ではあなたは、“課長”と呼ばれ、親からは“わたしの息子”

と呼ばれている。

あなたはいろいろな名称で呼ばれるが身体は一つである。

自分の身体がどこに置かれているか、その人間関係はどうなのか?

という関係性で違った名称で呼ばれる。

これがヴェーダ聖典にいわれる、”エカムサット”の意味である。

”一つしかないモノが多様性を持つ”という意味だ。

”壱なるもの”が多く表れているだけなのだからそこには

当然統一性がある。

言い換えれば、いくら多い姿で変装しても、お面をとった人は

皆同じ同一人物なのだから、結局はその人自身だという

こと。

たくさんの現れ方をしているが結局、“一(いち)”しか

存在しないのである。

 

この世界でも同様である。一つのものが多種多様の姿や状態

になって、表現されている。

スワミは言う;“その‘壱’なるものが主人公である、すなわち、

‘神’と呼ばれる存在だ。”。

 

壱という数はよく見ると面白い。次回に続く・・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨガの大元=不二一元論のイロハ(3)

2021年03月08日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

ヨギの取るべき食餌~食事だけに限らないという話      2021年3月8日

*********************

前書き)

ヨガの大元とは、ヨガ理論の基本という意味で、そこには

ヴェーダ哲学の不二一論説がある。

ヨガの語源はユージュナーというサンスクリット語で、

これは本来の自分の中にある神と、身体を持った

自分の意識を結びつけるというところから来ている。

インド古代からはヨガの熟練者をヨギと呼び、彼らは

その意味で、神と一体化する修行を積み、これが

今言うところのヨガとなっている。

様々な身体のポーズをとるハタヨガが健康的体操のよう

に人気を博しているが

色々な種類のヨガがあり、今、ここで皆様がこうしたものを

読んでいらっしゃるのも、ギャーナヨガと呼ばれる

真理知識を吸収するという、ヨガの行法の一つである。

自然治癒力が私の協会の主眼だがそのために、この知識が不可欠だ。

その理由は、ヨガの根底に流れる考え方が、私たちの意識を

生命力につなげることができるからだ。

そこで回数を何度かわけて皆様に16年のインド生活と13年の

大学院での研究生活の成果として、ヨガのイロハ

をお伝えしている。

その意味は、大きい。なぜなら、自己セラピーをするときに、

こうした知識があるかないか、

最終的に気合いを身体に流す時に大きな分かれ目を味わうことがある。

つまり、自分の生命力にゆだねられるか否か、の、その瀬戸際で、

人は最終的に信じてきた方向に向くものだからだ。

もちろん、現代医療に異議をとなえているからではないが、

自分の生命力を信じられれば,国民の薬代は大きく減る事だろう。

 

自分の生命力を信じられるということはどういうことか? 

それは”生命力”は、自分の持ち物ではなく、神様といわれる

宇宙の大きな叡智からお借りしているものであると知ることだ。

そして、そのためには、この身体は夢のように儚いもので、

それを生かしている生命力とは全く

次元の異なることを知るということでもある。

言い変えれば、不二一元説という理論、これは難しい学説

ではなく、ごくシンプルに自分という本当の霊的存在は、

スピリチュアル的存在、あるいは、魂は、不滅のものである、

というものである。 

それを知るということは、本当の自分は宇宙の実存的(変わらない)

存在、あるいは、神(完全調和態)から派生しているものだと

目を覚ますことにある。 

もちろん、目を覚ますということは容易ではない。

頭でわかっていても目を覚ますことにはつながらない。

それは言い換えれば俗に言う、悟りを開くとか、大悟すること、

または、解脱することだから。

 

人は言い換えれば、そのために、何憶年かけて生物として

誕生した時代から、変わらない魂を持ちながら、

その魂の本質(ゴール)に,いきつくゲームを(神からの視点でいえば)

終わらせるために、何度も生まれ変わってきているともいえるだろう。

********************************

先回は身体を正しく用い、善い想念を持ち、善い行為をして、

善い結果を収穫するお話しだった。

今日は食事の規制について。

純粋な食事をサンスクリット語でサットワ的な食べ物と呼ぶ。

ヨギ(ヨガの達人)や僧侶、修行中の人は

決して動物食は口にしない。その意味はこうである。

私たちの想念は食べ物の種類によって決められると考えるからだ。

たとえば、燻製を造るとき、薪にどの種類の木を使うかによって、

火も煙も変わってくるようなものだ。

インドではサンダルウッド(白檀や紫檀)は香りも貴重で

最高級の木材だが、これを燃やせばお香となる。

中には燃やすと悪臭を漂わす木もある。

燻製を造るのにはそれにふさわしい木材を使うのと同様、

食物もそれによって想念の種類が変わって

くるから、ヨガをする人はそれにふさわしい食べ物をとる

ことが要求される。

 

避けなければならないものは、食べて体内で毒ガスが溜るもの、

血液が清浄になるもの、脂肪がたまり

血管が収縮するもの、そして頭に浮かぶ想いが良い思想を産むもの

・・・などで、サイババ師は講義ではっきりと、

”わたし達の思想は自分が食べる種類の食物の結果です。”と教えた。

ヨガの目的は?

神との合一である。神との合一とは、具体的には心の安寧、

心身の調和、老齢の超越、新陳代謝や

免疫システムの活性化・若返りなどをさす。

 

先回のお話しにあったように、この身体はマンディールと呼ばれ、

神聖な社(やしろ)でもある。

でああるのならば、二つの食品はまず避けなければならないだろう。

誰もお宮の中で酩酊状態になるまでアルコールを口にする人はいないのと

同様、お酒はほどほどにということ。

もう一つは、お宮の中で異常に感情を高ぶらせる人

外に放り出されるのと同様、激情を燃え立たせる(ラジャス的)

食品は避けるべきだということになる。

 

肉類は肉食系男子という形容詞に使われるように、

エネルギッシュで活動的なイメージを与えるとおり、

激情を燃え立たせる食材である。だから、ヨギは菜食主義者となる。

 

以前ブログでも書いたように、万物には三つのグナ(性質)がある。

サットワ、ラジャス、タマスの三要素だ。

これはすべての物に人に状況に適応されるグナなのだが、

食べ物にも当然この三つの種分けが可能だ。

サットワ的な食べ物とは、バランスのとれた心つくり、

激情を押さえ、穏やかにさせるもので、木の実、乳製品、果物、

野菜、全粒粉の小麦粉や米などがあげられる。

 

ところが、サイババ師はこのような食材、口で消費するものだけが

身体に入る食物ではないという。

身体に入る食物~エネルギーとしては、眼や耳、鼻や手などの

感覚器官からも外界からの物体を消費するからだ。

すべてこうした五感の器官から入ってくる情報がサットワ的で

あることが真の意味で、心を清め安らかにするとサイババ師は教える。

 

たとえば、耳。

耳も純粋な食べ物を必要としている。それは何を指しているかと

いえば、耳は”神聖な言葉と神に関係する話を中心に耳を傾け、

噂話や悪口、マイナスの言葉に耳を傾けて、汚された情報を入れない

ように選択して耳を守ることが大切だという。

その上で口でサットワ的な食べ物を体内に消化させたとき、

真の意味でそれを消費したといえる

 

鼻の器官を例にとれば、鼻を通して、決して毒ガスのごとき

汚染された空気の匂いを体内に入れるべきではなく、清浄で

新鮮な空気を入れることに注意しなさいということになる。

もし、本当の悟りを開くヨギ(パラアートマ~至高の魂)

に達したければ、5つの汚染に心すれば可能だとスワミは教えた。

 その5つとは、言葉、見るもの、聴くもの、思想、行動である。

食物だけサットワ的な食べ物に注意していても、諸感覚で

こうした純粋でないものを取り入れていることをゆるしていれば、

結局、身体が清まることはできず、想念思考も至高の高みに

いたることができないと、言う。

 

スワミは身体を寺にたとえたが、五感の器官をその寺の門に

なぞらえて、私たちに説明してくれた。

寺の門を入れるものは、その寺の神を礼拝するために来たものか

帰依者に限られるというのだ。

身体も同様、5つの門があり、それが身体に備わった五感の扉

と言った。

五感の扉を開けて中にいれるべき対象は神聖であるものや考えで、

そうでないものを無差別にいれていては身体は神聖な寺院では

なくなると注意した。

 

さて、次に"ヴィハーラ”の問題を考慮しなければならないと教えた。

ヴィハーラとは場所や人、物などに関連する活動を意味している。

どんな場所に行くか、どんな種類の環境を作るかどんな種類の人たち

と付き合うか、ということだ。

ここで興味深い例をスワミは出した。それは”怒り”を制御するため

に森や人里離れた僻地に籠り、

修行や瞑想三昧にふける苦行者への提言だった。

ヴィハーラが大切なあまり、人間同志の付き合いを避け、

神を想うための瞑想の場所を見つけ、家族も捨てて孤独の生活

に入る苦行者は当時のインドでも決して少なくなかった。

すると、そのような純粋なサットヴァ的な生活をしていた

修行者にスワミは次のような質問をした。

”あなたは森の中に隠遁して難行苦行をしているようだが、

それで心の弱い要素、怒りや憎しみ、

などを征服することができると考えていますか?”

さらに、こう続けた。

”怒りや憎しみは人々といる時に起こるものであるのなら、

それを征服するのは同じ環境においてするのが妥当ではないですか?

なぜなら、森の中の孤独な生活では確かに静けさを保って

いられるが、いったん、群衆の中にもどれば、

前と同じ怒りが湧いてくるのは必然でしょう。

自分の諸感覚をコントロールしたいと思うのなら、

宗教的苦行でそれができると想像するのは錯覚にすぎない。

身体の微妙な働きかたを理解しなさい。

そうすれば簡単にあなたの目的は達成できる。”

 

私たちが巻き込まれる厄介な人間関係や問題というのは、

人間が自分の身体を正しく用いる術を知らないからだというのだ。

それは新車を買っても、新車の装備の働きを知らなければ、車を

動かすことができないのと同様だ。

さて、ここで又、食餌の話に戻る。こうして身体を正しく使う

ことを知らないということは、冒頭に述べたような毒ガス

を出すような食べ物を毎日数回、身体の中に投げ捨てていれば、

どのようになるかということだ

 

どうして、身体が毎日、不浄な食べ物を食べ続けていても、

人はそう簡単に病気にならないでいるのか?

それは、身体の中にはチャイタニアと呼ばれる’意識’が

働いているからである。

それでは次回はこのチャイタニアと呼ばれる身体の意識と身体を

活動させているアートマの働き、スワミの言う身体を正しく

使うための、ヴェーダで教える身体の機能について、お

話しを続けさせていただきたい。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨガのイロハの教えと般若心経エッセンス

2021年03月05日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

不二一元論の凝縮したお経が般若心経        2021年3月5日

************************************************************************

前書き)

ヨガの大元とは、ヨガ理論の基本という意味で、そこには

ヴェーダ哲学の不二一論(ふじいちげん)説がある。

ヨガの語源はユージュナーというサンスクリット語で、

これは本来の自分の中にある神と、身体を持った

自分の意識を結びつけるというところから来ている。

インド古代からはヨガの熟練者をヨギと呼び、彼らはその意味で、

神と一体化する修行を積み、これが今言うところのヨガの源流

となっている。

様々な身体のポーズをとるハタヨガが、健康的体操のように

人気を博しているが、色々な種類のヨガがあり、

今、ここで皆様がこうしたものを読んでいらっしゃるのも、

ギャーナヨガと呼ばれる真理知識を吸収するという、

ヨガの行法の一つである。

同時に、この考え方は、自己セラピーの大きな決め手に

なるだろう

自己セラピーで大切なことは ”自分の内なる力で治せる”と

いう自信だ。

自信は、理屈ではなく、腹から納得して確信できる感覚である。

それを、言葉に表すと、”一元論の理論”の考え方とも言えそうだ


症状があるとき症状を無くそうとする。

それが回復させるとき、その回復を自分の生命力にゆだねられるか否か? 

どこまでゆだねられるか? 

自己の生命力を信じられると、薬で症状を抑える前に、その症状を

出し切ることが、むしろ、好転の手段だと、感じるだろう。

自然治癒に任せる場合、症状はカタルシスの役目を持っていると

身体が知っているからだ。

カタルシスとは、浄化作用でもある。

そのあらわれとしては、身体の随所が中から赤くはれ上がったり、

そこから、ドロっとした血膿みが出たり、場合によっては熱が上がったり、

水がたまっているように足首や関節が腫れるたり、

痛みが増したり、下痢をしたり、咳が激しく出たり、吐いたり、などなど

私自身が体験してきたカタルシスを語っても、まだ、足りないほどだ。(*1)

自分の生命力を信じられるということはどういうことか? 

それは”生命力”は、自分の持ち物ではなく、神様といわれる

宇宙の大きな叡智からお借りしているものであると認識からはじまる

さらに、この身体は夢のように儚いもので、生命力は、この身体とは

別物の、身体を使いこなしている次元の異なることを知ると

いうことでもある。

ごくシンプルに、自分という本当の霊的存在は、スピリチュアル的存在、

あるいは、魂は、不滅のものである、と、自覚することが、生命力の

理解につながるだろう。 

人はそのために、何憶年かけて、生物として誕生した時代から、

変わらない自己アイデンティティーの魂を持ちながら、

その魂の本質(ゴール)にいきつくゲームを(神からの視点でいえば)

何度も生まれ変わりを繰り返して、楽しんでいるともいえるだろう。

 

そして今日お伝えする般若心経は、このヨガの基本哲学のエッセンスが

凝縮されていると思う。

**************************

般 若 心 経 口 語 訳 

 

仏説 摩訶般若波羅蜜多心経(ぶっせつ まかはんにゃ はらみたしんぎょう)

意味)

仏さまが菩薩(真理の求道者)のために~(*1) 

彼岸(あの世=転じて悟りの世界)

にいたるための大いなる智慧を説いた御経

*1) 菩薩=ボーディサットヴァ(原語)

=真理・安寧を求め修行する人たち(意訳) 

 

1・観自在菩薩* 行深 般若波羅蜜多時 照見 五蘊 皆 空 度 

一切 苦厄、舎利子、

 菩薩=ボーディサットヴァ(原語)

=真理・安寧を求め修行する人たち(意訳)

自らの内に存って在る(自在)(=自己の本性、本源、仏性)を

内観して[本来ここは、観世音菩薩と訳しているようです)

悟りに至る、至上の教えの 深い行をなしたとき、

すべての現象世界に知覚できる

あらゆるもの=五蘊(色・受・想・行・識)は 

空(くう)であることを悟り、現世の苦しみ一切から放たれ 

自由になることができた。

 だから、シャリシ(弟子の名前、呼びかけ)…次の行へ。

 

2・色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是、舎利子、

意味)

物質は空(くう)と異なることなく、

空(くう)は 物質と 異ならない。 

この世に形あるもの=色(しき)の本質は、

空(くう)である。 

空(くう)が(現象界に)形あるものとして現れている。 

想いや行動、識別なども これらもまた(空(くう)*1)

そうであって空が本来の姿なのだ。

(*空については下記に説明してます) 

だからシャリシ(弟子の名前)よ、・・・ (次の行へ)

 3・是諸法 空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故 空中 無色 

無受想行識 無眼耳鼻舌身意

意味)

法(真理)は、空そのもの、それは、本来の実相(本来の実存)

であり、生まれたり、滅したり、汚い・清い、増える・減る

とかいう(この世のすべてに当てはまる)二元性

(たとえば、陰と陽、プラスとマイナスなどの相反する姿)はない。、

空の中(*2下記に説明してます)とは、現象世界・つまり、

物質や 感覚器官で受ける感覚、感覚から派生する想い、

想いから派生する行動、行動から派生する

認識(これらすべて合わせて受・想・行・識という) 

は、空の中である現象界に存在しているように見えているだけで、

実存性(永劫不滅)はなく、一時的な現れだ。

 現象世界(この世=空が質量を持って物質として表現されている、

三次元の現象界)には、それを受け止める感覚器官である、

眼や耳・鼻・舌・意識などがあるが、それらも一時的で永遠に

変わらない”実存”ではない。

 4.無色聲香味蝕法 無眼界 乃至 無意識界 無無明 亦 無無明尽 

乃至 無老死 亦 無老死尽 

意味)五感(前に述べた目や耳、鼻、舌、意識をさす)器官が”

無い”という意味は、その器官によって認識できる、

物質や聞いたり、嗅いだり、味わったり触れて感じる感覚も

確かなものではない。

目で見えている現象界でもそうだし、意識界で感じていることも、

実質はない。

無明 (明るくないつまり意訳して悟っていないこと)は

実存していない(ということは、わたしたちの魂では

もう悟っている)のだから、無明を滅しようとするのは本来ない。 

同様に、死も老いる事も有るかのごとく見えているだけなのだから

(死んだら魂だけの老化も病もない姿にもどる)

老いや死を超越すること本来もない。

 5・無苦集滅度 無智 亦無得 以 無所得 故 菩提薩埵 依 

般若波羅蜜多 故 心 無罣礙 無罣礙 

(意味)苦しみや迷いは本来、無い。

現世の知恵は本当の智慧ではないから、その知恵で真理を

得れるかと言えば、得ることはできない。

だから、菩提薩埵(菩薩のこと)~サンスクリット語では

ボーディサットヴァで意味は、修行して心の安寧・

真理を求める人は、バンニャー(般若)の智慧

(=人間の知恵を超えた真理に至るための智慧)を

良く理解することで 心に解脱して何も捕らわれるものが無くなる。

 6・故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想、 究境 涅槃 三世 諸仏 依 

般若波羅蜜多 故 得阿耨多羅 三藐三菩提

(意味)(真理の智慧を知れば、現象世界に捕らがなくなる)ゆえに、

恐怖から遠く離れ、価値観がさかさまの、夢のような一切の想念から

放たれる。

この般若(バンニャー)の教えによって、三世にわたって、菩薩は

阿耨多羅三藐三菩提=アヌッタラー・サムヤック・サンボーディー

(梵語原語)=すべての人が平等に到達できる至高の悟り(意訳)

を得ることができるのだよ。

 7・ 故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 

是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故 説 般若波羅蜜多 呪 即説呪曰 

(意味)

その般若の智慧を顕わした、この真言=般若波羅心経に書かれている

真理=ほど、偉大な真言はなく真理を明らかにした真言もなく,

他にこれ以上の真言はなく、これに等しい真言もない。

すべての苦しみを 取り除くことができ、真理を説き、虚はなく、

それゆえに般若波羅蜜多=バンニャーバラミーター

=(浄土へ悟りとともに到達できる智慧)を説きあかしたのだ。

その心経を要約した真言(マントラ)とは、以下だ。

 

8・掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆詞 般若心経

(ギャテイギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ)

日本語漢字訳音読み発音

ガテガテバラガテ バラサムガーテ ボディ・スワァハ)~

インドのお釈迦様の時代に唱えられていた発音(梵語)

 

最後のこの 神呪=マントラ(真言)は、意味をあえて訳しません。

それは、この言葉の波動そのものに意味があるとされ、この波動が、

般若心経の教えをすべて含んでいるということだからです。

この 最後の2行のマントラの意味を説明した真理が、

600巻の般若経のエッセンス、般若心経 という御経で 意味を

解説され、最期のマントラをもって、結ばれます。

 

************************************

(注)空(くう)とは何ぞや!

*1 空 とは何も無い事でも、状況次第で変わる現実の本質でもなく、

無ではもちろんありません。

皆様にご想像していただきたいのは、図形の円です。正しく円を

描くためには中心がぶれないことが大切ですね、

コンパスを使います。

そのとき、その針が刺さる中心に位置する、それが空の点です。 

ここでは、時間と空間を超越してます。なぜなら、そこはエネルギー

の塊りの点で、プラスとマイナスの電気や、タオ思想にあるような

陰陽の力が全く均等に押し合いへし合いしている、

動 にして均衡が保たれている静の極致と言えるでしょう。

時空を超越しているのはまだ人の想、念、識がないため物質世界とは

一線を画しているからです。

少し言葉が飛びますが、もし、皆さんが今生きている時のこの身体が

必要になくなったとき、つまり、死んだときは、時空を超えた体験を

きっとなさるでしょう。

 

さて、この中心点がなければ、円は存在しないと同時に、

すべての現象界に存在するものもまだ、表現されていいない

ところです。

現実に生きている現象界の本質のみがここにはあるわけで、

それが開かれたとき、展開して、色、五蘊(ごうん)~受、想、行、識

(般若心経上記の説明ご参照)が出てきます。

この点は 死も老もなく、すべて凝縮されて展開を待つのみですから、

ある意味”智慧”の光で満たされていると言えましょう。。 

また、生まれたり、滅亡したりという 二元的価値観は存在しない

次元です。 

それを、一元論の次元と呼んでいるわけで、これが今、書き記している

ベーダ哲学の説く、アドヴァイタ哲学に相当する考え方です。

(空の意味する、”真善美”の完全世界のみが本当の実在しているものとする)

 

*2 ですので、”空中”の意味は、”現象世界”のことでもあります。

円の中に直径を2本、90度の角度でひくと そこにクロスされた縦線、

横線の意味とは何でしょう?

縦線は時間で横線は距離が、そして時間と距離があれば空間ができて

きます。

つまり今生きている現象世界です。 

この、現象世界は、空という中心点から派生した時間と空間が

できた現象界です。

それを、空の中 と私はここで、定義しました。

 

* 1・観自在菩薩 行深・・の部分は、すべての解説書には

観世音菩薩がという訳になっています。

この教えはもし、太古のインドから伝わるベーダ聖典の

アドヴァイタ思想(不二一元説)が基になっているとしたら、

観世音菩薩はインドには存在していませんので、お釈迦様が

観世音菩薩が云々と説くはずがないので、これは観自在の菩薩

というもともと、菩薩という漢字がボーディ―サットヴァと

いうサンスクリット語の漢字当てしたものなので、

それを基本に考えました。

つまり菩薩とは真理を探究する求道者ですので、その修行者が

自分の内に在る空を観る観想の修行をしたときと解釈しました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする