本音と建て前
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昨日の投稿を読んでくださってありがとうございます。
過去の記事を推敲していたら、以下の記事が出てきました。
2020年2月6日のブログです。
昨日の記事内容に被さっています。
(ただし、昨日の内容には、本音と建て前という、考え方
は微塵も触れてませんでしたが。)
本筋は、4年前も今も、変らない主旨があると思いました
ので くどくなりますが、投稿させていただきます。
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誰にでも、本音と建て前の自分がいる。
本音を出せば、相手に不快感や誤解を招くから、適当に
社会的な言葉に自分の本音を変換する。
とても、笑う気分でなくても、とりあえず、周囲と
同調して楽しそうに振る舞う。
本音と建前の、その”ふり幅”が大きければ大きいほど、
ストレスを感じる。
”建て前”=”本音”で、もし、他者と接して、相手に不快感
を起こすことないほど熟成した自分であれば、人生に
ストレスは大分、なくなるに違いない。
芸能人やスポーツ選手の間で時々、大麻の所持が話題に上る。
今日も女優のEやSのその裁判に700人近い人が傍聴席の券
のために並んだとニュースに出ていた。
女優や俳優は表舞台の顔だ。
生き生きとした魅力を保つために、どれほど彼らは努力を
しているだろう。
スポーツ界のスターも、公平で、さわやかさを期待される
のはやむを得ないだろうが、人間だから、絶対見られ
たくない、“本音” の部分はあるに違いない。
たとえば、自信のなさや不安、心配や嫉妬などで
葛藤していても、すべて押し隠さなくてはならない。
それが建て前と本音のギャップになる。
そして彼らのように、本音の自分と建て前の自分(公の
ステージで見せる顔)とのギャップが大きくなりすぎた
とき、コントロール不能になったとき、大麻などが、
”嫌な自分(負の感情)”を”ハイな自分(プラス感情)”
へと変えるための助けとなっていたのだろう。
皆さまはこんな経験をしたことがないだろうか?
誰かと電話で長話をしたくなる、お酒を無性に飲んで
みたくなる。
ショッピングで予定外のものをたくさん買う、
どこか、静かな自然の美しい場所に一人旅に出かけてみたく
なる・・・
当たり前の事かもしれないが、もしかしたら、その背景
には、このギャップに耐えがたい自分がいるから
かもしれない。
”自分の本音の負の部分”が、強くなって、そのバランスを
取るための手段になっているかもしれない。
本音の負の部分 というのは、他人がのぞけない自分の
心の奥に潜む、負の感情だ。
他人が知っている自分は、“建前の自分”だから、彼らが描いて
いる“わたし”の像には、ドロドロの内面などは見えない。
バランスが崩れると、その“スマートに演じているわたし”を
自分自身で、想いだすために、電話で友人と話したくなる。
そうすれば、“いつものイメージの自分”を確認できて、
何となく、ほっとする。
ショッピングは、好きなモノを手に入れると同時に解放感
をもたらしてくれるから これもバランス修正の善い薬だ。
お酒は言う間でもなく、飲んで酔えば、本音の声を聴かなく
てすむから嫌な気分も一時的に忘れる。
芸能人が大麻に手を伸ばすのも、我々が日常生活で’健全な
手段で、”視たくない自分” に煩わされないようにする
ことも、同じ一つの目的から来ているのかもしれない。
本音の心の負の感情 に打ちのめされないため~という
目的だ。
“本音の負の部分”が強くなっていくと、こうしたレメディー
をとりながら、“建前の自分”を強くしてバランスを取る。
“世間の人々が知っている自分” と “自分しか知らない内面
の負の感情”のギャップは、ストレスを生むと同時に、
それとどう向き合うかで、二つの異なる選択肢ができる。
一つの選択肢は、内面の負の感情に眼をそむけて、そのために、
外界に眼を向けていく生活。
趣味や交友、ビジネスやパソコンゲームや、楽しく没頭できる
ことに、集中するという選択肢。
外界には、刺激を与えてくれる対象はいくらでもある。
もう一つの選択肢は、そういう生活を余儀なくされているに
しても、自分の内面に目を向けようとする生活だ。
内面に目を向けるためには、静寂が必要だし、時には
一人だけの時間が大切だ。
田舎暮らしという言葉が使われるようになった。
退職後、自然の中で暮らしたいという都会人が増えてきた。
“規則・ルール・の型にはまった、これまでの会社勤めから
解放されたくなった”というのが、人里離れた離村で86歳の
一人暮らしの理由。
周りからは、彼を、“仙人”と呼んでいる。先日の放映番組の
一コマである。
現役時代は、数百人の部下がいたというほどやり手だったの
だろう。
が、次第に、いつかは自由で解放された人生を楽しみたい・・
という夢があったと語っていた。
この老人は番組でこうも語っていた。
“こんなに好きなことをして最後まで楽しく生きられた
ことに感謝をしたい。
あと数年で命が絶えたとしても、満足だ” と。
テレビでは語られない、この人自身特有の、自分の内面との
向き合い方 があったのだと思った。
好きなこと~といっても一人で、家を修繕する、畑を耕し
自給自足の生活をする~というもの。
ヒトは一人でいればいるほど、否応なしに、“内面と向き合う”
チャンスは多くなるはずだ。
若いのに命を絶つ多感期の子供たちは少なくない。
“何のために生まれたのだろう?”
“生きている価値などない”、
“自分は生まれなければよかったのだ。
いじめられ、傷つくだけで。”
この“自分の本音”と“建前”のギャップに悩むのは、大人
だけではないことは確かだ。
十代の彼らもまた、本音の自分と建て前の自分の“ギャップ”
の狭間で“助けて!”と叫びながら、周りの普通の大人たち
や友人たちに理解されない、内面の葛藤で苦しんでいる。
青年期、壮年期、殆どの人はこうした“ギャップ”に気が
つきながら日々の忙しさの中で、どうすることもせず、
見て見ぬふりをする。
それは、ちょうど、夏休みになり、楽しさに宿題や課題を
忘れ、といっても、いつも心に気にかかっている状態に
似ている。
夏休みも終わりになりかけた最後の週に、慌てて、たまった
宿題に手をつけるのが、私自身も常だった。
同様に、眼をそらしていた“ギャップ”に、向き合わなければ
“心の平和”が取り戻せない事に気がついていても
なかなか、どうにもならないものだ。
夏休みの宿題なら、1週間で片付くかもしれないが、人生の
終焉にこのギャップに気がついても、心の奥に何層にも
積み重なった“負の感情”は、固く定着してしまい、
一朝一夕にそれを色替えするにはあまりに強固になりすぎて
いる。
“こんな人になりたい” とだれにでも願う像があるだろう。
“でも到底、自分は逆立ちしてもそんな風になれるはずない”
と同時に諦める自分もどこかにいる。
どうして、そう否定しがちになるのだろう?。
その大きな理由の一つには、建て前の自分 と 本音の自分の
ギャップを埋めることはできないと考えているからかも
しれないし、負の感情を積み重ねていくうちに、
コントロールが効かないほど、強く心の重荷になっている
からかもしれない。
心療内科を確立した池見酉次郎先生は、宗教学に精通して、
ご自身でも悟りのための修行を積んでいた。
心の奥底に眠る“負の感情”を克服するために、さらに
深い次元に潜む“すでに悟っている自分”を
掘り起こす努力をされていた。
それは心の内面に目を向け、深く、さらに深く、内面の
感情を見つめ、その感情と身体の器官の関連性を
見つけることでもあった。
私たちが“自分”だと思っているものは、ほとんどが、
外界(家族、職場、友人、趣味活動、仕事、運動、学校、
恋愛、チャリティー活動、など) の他人とのかかわり合い
ある日常生活でつくられたものだ。
自分らしさ、アイデンティティーというのも、そうした外界
の社会生活の中で身に着いた、他者からみた“自分像”にすぎない。
池見先生のように、内面にさらに、奥深く内面へと、
凝視していくのには、他者の眼は役にたたない。
”本当の自分は?” という問いかけを、自分に、他者はできない。
自分が自分で、し続けていくほかない。