空(くう)って実態がないもの?それともあるもの?
2015・6・28
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般若心経では、空即是色 と言い、そのあと、空中無色 と
矛盾したことを解く。
空は神であるのなら、物質のない、”空の中” とは
なんなのだろう?
現代の一元論の言葉(*1)には次のような説明が続く:
“物質はものの実質に非ず、生命に非ず、真理に非ず、
物質そのものには知性なく感覚なし。“
色そのもの、つまり物質は実質を持たない存在だと説く。
その色が存在していると見える、あるいは存在していると
認められている所は、今私たちの住んでいる”娑婆世界”
(現象世界)だ。
これが、空の中、空中 だと私は考えている。
あるように見えるが実態はない。
だから移り変わる。
イロハニホヘト 色は匂えど・・・・ の世界である。
何故あるように認められているのだろう?
それは、単に、私たちの心 が色付けして(物質化して)
そのものの実体があるよう、見せているだけだと言う。
“物質は畢竟‘無’にして、それ自身の性質あることなし。
これに性質を与えるものは‘心’にほかならず。
‘心’に健康を思えば健康を生じ、’心’に病を思えば
病を生ず。”
健康を思うとあるが、単に、“私は健康だ”と思うことではない。
私は糖尿病と言われたけど、でも健康だ~と思うよう努力しても、
糖尿病であるという事実(仮相)を受け入れているのなら、
逆に 糖尿病は消えないだろう。
反対に、病気になるのも“病気になるだろう”と思ったから
すぐ病気になるわけでもないだろう。
ここでいう思うとは、
健康だと、潜在意識、そして、さらにもっと深い自分の本質
に近い超越意識(五官の感覚や感情に左右されない
湖の底にあるような静かな意識)が
‘思う’、‘納得する’ことが必要なのだ。
それはそう難しい事ではない。
何かのきっかけでストンと、心に入るという体験は皆様も
されているだろう。
そのように直観で‘これはその通りだ。
”私の本質は完全で愛であるのだから、病気や不幸などの不調和に
乱されたりするものではない。“
と ストンとそのまま受け入れるとき、すでに 病気はその人にとって
存在しないものとなっている。
すぐ結果が出る人もいれば、症状が続き、不幸も集結しない
現象面で悩む人がいるのはどうしてだろう。
一元論ではこのように説明される:
“映画のスクリーンに 力士を映せば力士を生じ、
病人を映せば、病人を生ずれども映画のフィルム
そのものは無色透明にして
本来、力士も無く、病人も無く、ただ無色透明の実質(フィルム)
の上を被える、印画液によりて生じ足る、いろいろの模様(くもり)
があるいは力士の姿を現じ、あるいは 病人の姿を現ずるが
ごとし。”
このあたりは ホ。オポノポノの提唱者 ヒュウレン博士が同様に
今起きている現象、自分にかかわる人の現象も含めて、それは、
自分の過去の記憶を清めれば消えていくものだと言う教えに
似ている。
博士は、本来の自分である、神格に戻るためのプロセスとして
そうした今の病や不幸をとらえている。
つまり、私たちの不幸は、過去の私たちの記憶のフイルムに
押された印象が再生されて、同じように、何度も私たちを
悩ましているにすぎない。
その過去のフイルムの原画を取り去れば、そこには神格としての
光しか存在しないのであり、すべてが上手く調和を以て
運ぶことを教えている。
一元論の谷口師も、以下のように記している:
“汝らもし、活動写真の映写機に印画液によりて
生じ足るいろいろの模様(くもり)なき、無色透明のフィルムを
かけてこれを映写すれば、やがて老いて死すべき
健康なる力士もなく、虚弱なる病人は無論なく、
ただ スクリーンにあるものは
光明そのもの、生命そのものにして矍鑠として
照り輝かん。”
続く
*引用箇所 ”甘露の法雨 ” 谷口雅春