自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

色(物質)の本質は空、では”空の中”とは?・・・

2015年06月28日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 空(くう)って実態がないもの?それともあるもの?   

2015・6・28

*****************************

般若心経では、空即是色 と言い、そのあと、空中無色 と

矛盾したことを解く。

空は神であるのなら、物質のない、”空の中” とは

なんなのだろう?

 

現代の一元論の言葉(*1)には次のような説明が続く:


“物質はものの実質に非ず、生命に非ず、真理に非ず、

物質そのものには知性なく感覚なし。“


色そのもの、つまり物質は実質を持たない存在だと説く。


その色が存在していると見える、あるいは存在していると

認められている所は、今私たちの住んでいる”娑婆世界”

(現象世界)だ。


これが、空の中、空中 だと私は考えている。

あるように見えるが実態はない。

だから移り変わる。


イロハニホヘト 色は匂えど・・・・  の世界である。

何故あるように認められているのだろう?


それは、単に、私たちの心 が色付けして(物質化して)

そのものの実体があるよう、見せているだけだと言う。

 

“物質は畢竟‘無’にして、それ自身の性質あることなし。

これに性質を与えるものは‘心’にほかならず。


‘心’に健康を思えば健康を生じ、’心’に病を思えば

病を生ず。”

 

健康を思うとあるが、単に、“私は健康だ”と思うことではない。

私は糖尿病と言われたけど、でも健康だ~と思うよう努力しても、

糖尿病であるという事実(仮相)を受け入れているのなら、

逆に 糖尿病は消えないだろう。


反対に、病気になるのも“病気になるだろう”と思ったから

すぐ病気になるわけでもないだろう。


ここでいう思うとは、


健康だと、潜在意識、そして、さらにもっと深い自分の本質

に近い超越意識(五官の感覚や感情に左右されない

湖の底にあるような静かな意識)が

‘思う’、‘納得する’ことが必要なのだ。


それはそう難しい事ではない。 


何かのきっかけでストンと、心に入るという体験は皆様も

されているだろう。

そのように直観で‘これはその通りだ。

”私の本質は完全で愛であるのだから、病気や不幸などの不調和に

乱されたりするものではない。“


と ストンとそのまま受け入れるとき、すでに 病気はその人にとって

存在しないものとなっている。


すぐ結果が出る人もいれば、症状が続き、不幸も集結しない

現象面で悩む人がいるのはどうしてだろう。

 

一元論ではこのように説明される:

“映画のスクリーンに 力士を映せば力士を生じ、

病人を映せば、病人を生ずれども映画のフィルム

そのものは無色透明にして


本来、力士も無く、病人も無く、ただ無色透明の実質(フィルム)

の上を被える、印画液によりて生じ足る、いろいろの模様(くもり)

があるいは力士の姿を現じ、あるいは 病人の姿を現ずるが

ごとし。”

 

このあたりは ホ。オポノポノの提唱者 ヒュウレン博士が同様に 

今起きている現象、自分にかかわる人の現象も含めて、それは、

自分の過去の記憶を清めれば消えていくものだと言う教えに

似ている。


博士は、本来の自分である、神格に戻るためのプロセスとして 

そうした今の病や不幸をとらえている。


つまり、私たちの不幸は、過去の私たちの記憶のフイルムに

押された印象が再生されて、同じように、何度も私たちを

悩ましているにすぎない。


その過去のフイルムの原画を取り去れば、そこには神格としての

光しか存在しないのであり、すべてが上手く調和を以て

運ぶことを教えている。 

 

一元論の谷口師も、以下のように記している:


“汝らもし、活動写真の映写機に印画液によりて

生じ足るいろいろの模様(くもり)なき、無色透明のフィルムを

かけてこれを映写すれば、やがて老いて死すべき

健康なる力士もなく、虚弱なる病人は無論なく、

ただ スクリーンにあるものは

光明そのもの、生命そのものにして矍鑠として

照り輝かん。”

 

続く

 

*引用箇所 ”甘露の法雨 ” 谷口雅春 

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生長の家、甘露の法雨 から見る、空 の観念

2015年06月25日 | 健康と直結する”一元論”について

 自然治癒力と真理の関係     2015・6・25

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宗教と真理は違う。


真理は、でも、善き宗教の中に表現が異なっていても

流れている。

それが、人のアートマに届き、心を打つ。


自然治癒力を引き出すと言うこと。

様々な真理へのアプローチを、拙ブログでご紹介するのは、

真理を理解体得したとき、治癒力は引き出されている~

と考えるからだ。


なぜなら、自然治癒力は、生体が本来持つ生命力であり、

生命力こそ ”うわべの私の意識”では把握できない”

本当の私の正体”だからだ。


本当のこと、それが真理だとしたら、本当の事、真理を

知ることは”本当の自分”を知る一歩でもある。


知ることは、心を変え、その’本当の自分’を発現する

ために不可欠だ。 


真理について・・・

どんな人にも 神様や仏様を敬う心はどこかに潜んでいる。

それが宗教に結びつかないまでも、それぞれの人の心には

その神仏に手を合わせる心を、原点として、生きるうえでの、

自分なりの規律をもっているはずだ


今日から 般若心経の原点が、一元論であるということを、

現代の一元論の代表的な言葉を以て比較してみたい


私たちは先祖供養に、般若心経を唱える。

その精髄を理解して唱えれば自分の心身の健康のみならず、

先祖への深いご供養へとつながることだろう。

 

”色即是空”(意味)色(物質)はすべて空(くう)の

姿が本質である。

”空即是色”(意味)空は展開して物質になる

 

空とは何か? 

一元論 というのは 大元(すべての事象のおおもと)は

”壱成る存在”から出ているということだから、

その一なる存在は 世に言う “神”、を指す。

すべての本質は”神”である。


日本の神道にみられる八百万の神(やおよろずのかみ)も

すべての自然現象の中に神が存在することを観た、

古代日本人の直観だろう。

 

まず、空 が神の資質であるとしたら、その神は

どのように定義されているかというと、

このくだりを現代の一元論(*1)では以下のように

表されている。


“宇宙を貫く心 宇宙を貫く大生命、宇宙を貫く法則

真理、智慧、光明、智慧、絶対の愛。“

 

その神 のエネルギーの流動するサマを 般若心経では 

“空” という。


空とは空っぽの意味でもなく、ましてや無の意味

ではない。

サンスクリット語でいうところのアカ―シャ 

つまり 空の気の流れるその場所に、実態として

存在するエネルギーということだ。


それでは どのようにして 空即是色、この空

(神のエネルギー)が物質になったのだろう。


この全能なる神、完全なる神の‘心’動き出て

コトバとなれば一切の現象展開して万物成る。”


聖書にある、初めに言葉ありき~という創世記の行と

一致する。


ここにコトバとカタカナになっているのは、私たちが

日常声帯で発している言葉という意味ではなく、

意思(念)のこもった波動体としての’ことば’を意味

している。


だから、“‘心’動き出てコトバとなれば”、

色(現象、物質)が形成れたとある。


この原理は以前、ヒマラヤに住む寿命不詳の大師 

エミール師をブログでご紹介したが、その師の言葉を

思い出される方もいるだろう。


 何も道具を使わず、水を凍らせたり、お金を出現させたり

したエミール大師は、その理由は 仕掛けがあるわけ

ではなく、念の世界、自分の心の波動で、ものを創造する

ことができるのだ と調査団に語る。


それは、神様が天地創造したときと同じ原理だという。


谷口雅春師は一元論に基づき、このことを次のように

表している。


“万物はこれ、神のコトバ、すべてはこれ霊、すべてはこれ心、

物質にて成るもの一つもなし。”


私たちの健康も、境遇も、これすべて、私たちの念が

造りだした物であると一元論では教える。


インドの太古の聖典ベーダも、同様であり、其の後発生した、

さまざまな宗教の教義の礎にもなっている。


最近ご紹介した ヒューレン博士のホ。オポノポノでも、

現在の不幸に見える事象は過去の記憶(マイナスの想念)

の作用によると教える。


だとすれば、健康も若さも、私たちの心次第ということになる。


心次第~というのは、言葉の綾で、本来私たちはすでに健康の

生命体なのだ。

それはありのままの自分である。


余計なもので、それを覆って自分は’~こういう状態(病)だ’

と決めつけなければ自然と本来の自分が現れ出ると

いうことになる。

 

 

続く

(*1)~谷口雅春師”甘露の法雨”の中から

 

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和歌と浄化・穢れ祓い

2015年06月22日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

言霊の威力~超古代から現代まで   2015・6・22

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先先回のブログ “わか姫の話”の中で、“あかはなま~”から

始まる あわの歌 を 金折命((が常に唱え、身体の24経絡の

順気を整えていたことを書いた。

金折命の養女であった、わか姫にもこれを早くから教えられ、

姫は管弦【琴】をひきながら歌の道に秀でた才能を示す。

'あかはなま' は 5文字、次に続く節、 'いきひにみうく' は

7文字、その繰り返しの、5.7 の 5.7数で歌が綴られる.

超古代史の中にすでにみられる歌の基本的形は、言霊を継承

するのに最適だったと言える。

たとえば、言霊を使って歌を詠んだ、その他のエピソードが

”わか姫の綾”に記されている。

 

或るとき、稲田に害虫が発生し、被害がおよび、農民たちは

嘆いた。

そこで、わか姫と、天照大神の中宮である、瀬尾律姫は言霊

をもってしてこの害虫を駆除したとある。

 

“中宮は田の東(き)に立(た)ち

玄(おし)参(くさ)を持って

扇(あお)ぎ、若姫の神は歌を

詠(よ)みて祓(はら)い給えば、

蝗虫は忽(たちま)ちに去(さ)れり。

この故に向津姫は詔(ことのり)

して、この歌を三十人の侍女

を田の東に佇(たたづ)ませて、

各々共に歌わしむなり。“

 

その歌は

“たねはたね  うむすぎさかめ 

まめすめらのぞろはもはゝそ 

むしもみなしむ“

 

現代の言葉(漢字づかい)に振り替えると、

「田(た)種(ね)畑(はた)種(ね) 

大麦(うむ)小麦(すぎ)栄(さか)芽(め)

黒豆(まめ)小豆(すめ)等(ら)の

稲(ぞろ)葉(は)も喰(は)めそ 

蝗(むし)も皆(みな)鎮(し)む」

 

この歌を、わか姫は女官と一緒に、繰返し三百六十回

詠うと、

“蝗虫は西の海にざらりと

飛(と)び去(さ)り、汚(お)穢(え)

を祓(はら)えば、稲はやはり

若やぎ甦(よみが)えるなり。”

 

と効力を奏し、害虫は飛び去って行ったことが

記されている。

この話しが元となり、5・7調の形式をそなえた歌を  

和歌” と名付けたと言う。

この時の害虫の駆除に、わか姫が一役かった、

紀(き)志(し)伊(い)国(くに) をそれ以来、和歌の国 

呼ぶようになったと、秀真伝えには記されている。


“歌の徳により枯れたる

稲の若返(わかかえ)る故、

歌(うた)を和歌(わか)と

名付け紀(き)志(し)伊(い)国(くに)を

和歌(わか)の国(くに)と稱す。”

 

言葉の威力という意味では、真言やマントラなど、呪文や

経も含めて、現代にまでその力は広く認められているところ

だが、身近なところで ヨガナンダ師の幼少期の、こんな

エピソードもある。


それは ”あるヨギの自叙伝”に登場する師の思い出話しで

ある。

同時に 言葉の力、善い言葉のみを使おうと呼びかける

逸話にもなっている。

兄弟ケンカで言葉の投げ合いはつきものだ。

幼いヨガナンダ師は ことの成り行きで 怒りにまかせて、

妹にたいして、明日までに”大きなおできができるぞ!”

と宣言してしまうのである。


すると、ほんとうに、妹の顔に、おできが出て、ヨガナンダ師

はびっくりしたというお話しだ。


”念”の籠った言葉、”念”の字体は、今の心 と書くが、その 

(久遠の)の中から出た言葉は物事を造りだす力を持つので、

善きにせよ、悪しきにせよ、その言葉通りの事態を招へい

するということだ。

 

キリストさまも、死人ラザロに対して、言葉で”目覚めよ”

という言葉を投げかけて 生き帰らせたことが聖書に

出ている。

言葉の持つ威力を忘れてしまいがちな現代人だが、

確実に太古より言葉の持つ力は、変わらずに存在している

とつくづく思う。


ところで最近 テニス選手だった松岡氏が 格言集を出して

話題になっているという話を聞いた。

インドの息子の部屋にも 日めくりカレンダーがあり、

簡潔で的確な言葉が毎日読めるようになっていた。

少し興味を持っていた矢先、テレビで氏のことを取り

上げて、家族たちのエピソードも織り交ぜながら、考え方

や生きかたの紹介する番組を見た。


幼い子供が、暑いさなか、母親と歩きながら”寒い寒い”

とつぶやく。

熱でもあるのかと想い、心配で額に手をやるも、熱はなさそうだ。

”何故、寒いの?”と聞く母に、松岡氏の子供はこう答える。

”パパが暑ければ、寒い寒いと言葉で唱えていると、本当に涼しく

感じられるようになると教えてくれたの”


心頭滅すれば火もまた涼し~

この言葉を文字通り、日々の生活に取り入れている松岡氏も

それに従うご家族の方達も”すごい”と思った。

同時に、言葉の威力を知っているかただからこそ、他人が

聞いたら吹き出しそうな話かもしれないが、徹底した実践を

行っているのだとも思えた。


しかし、そうは言っても肩の力を抜く加減も必要かもしれない。

言葉の力は絶大だが、その力を発揮させるのは、やはり、

人力を超えた大きな力が作用することも事実だと感じる。

その”大きなる力”を信じられれば、躍起(やっき)になること

もないだろうし、文字通り”適当”である”ほどほど”で周囲との

調和もとれてくるのだろう。


何やら脱線してしまったが、わか姫の言葉、祈りの和歌は

稲につく害虫を吹き飛ばし、聖人の言葉は、その通りの

状況を造りだす。

私たちも 自分を浄化しながら、大いなる力を通して、

自分の祈り(願い)の成就を願う。

正しき人の言霊は希望を言葉に託したとき、すでに

成就する率が高くなる。

本当の祈りの効果を知っている人は、すでに、自分の

願いは実現しているのだという確信と感謝を持って

いるから、さらに高い確率で祈りは成就するものだ。

言葉の力、言霊の力は存在する。

秀真伝えのこうした話を知ると、太古の昔から、和歌を詠み、

穢れを祓い、心身すら浄化していた日本人の叡智を知りえる

気がする。

 

 

 

 

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太古の食習慣と寿命 

2015年06月19日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 東西南北の由来・キミという言葉    20156・19

*******************************

 

わか姫は いざなぎ・いざなみ

の神様のご長女だ。

天照大神のお姉さまに当たる

~秀真伝えによる~3歳の時、

親の忌み年と重なり、小さな

船に乗せられて厄年の影響を

受けないようにと、河に流され、

金折命(かなさくのみこと)

に拾われ 育てられた。

この姫は、とても聡明だった。

姫は、育ての父君 金折命(かなさく

のみこと)に”東西南北” と

名付けた本縁を尋ねる。

秀真伝えには こう記されている。

 

“金折命の教(おし)ゆるに

「日の出(い)づる方を東(ひがし)

と名付く。

日(ひ)の頭(かしら)故に略して

「ひがし」と謂(い)う。

日の丈(たけ)登(のぼ)り至(いた)る

を南(みなみ)と名付く。

皆(みな)が見(み)る故に「みなみ」

と謂(い)う。”

皆の目線を集め、成功に導くさま

を”ひのめを見る”というが、

東は太陽の出てくる場所、特別な

意味合いがあったことがこの節を

読むとわかる。

 

さらに、反対の西はどうかと

いうと、

”日の落ち入る方を西(にし)と

名付く。

煮(に)え鎮(しづ)む故に略して

「にし」と謂(い)う。

米飯を炊(かし)ぐ時、米と水を釜

(かま)に入れ薪(たきぎ)をもって

炊(かし)ぐ。”

 

西側に勝手の竃(かまど)を

用意したのだろうか。

”その火(ひ)頭(かしら)を東(

ひがし)に配す。

煮(に)え盛(さか)んなる時(とき)

に南に配し、煮(に)え鎮(しづ)む

時を西に配する。

これを(え)日(か)(吉日)毎の

食飯となすなり。“

と 書かれている。

 

現代でいうところの家相の良し

あしでも、かまど(台所)の

位置は重要だそうである。

金折命は、姫に、コメを

炊くときの縁起の良い方向、

吉飯とするための心構えを

教えている。

すなわち、

飯を炊くとき、煮えてそれを

さますとき、西に置く

ゆえに、煮えしずむニとシ

から 西とつけられる。

風水でも、東向きにレンジを

おくと、人は西に向かってたち、

西側に火(ガスレンジの)が

つけられることになるので 

家の気のめぐりが

良いと聞いたことがある。

 

さらに、金折命は、飯炊きに

付随して 神代の昔の食生活

に触れ姫に語る。

 

“太古は年に二食とし、その時

の人寿は千万歳なり。

その後月に三食となり、時の

人寿は百万歳なり。”

太古の神代の昔、一年に2度しか

食事をとらなかったという。

寿命は千万歳、その後、

食事の回数が多くなるごとに

寿命も縮んでいったという。

 

“その後月に六食となり、

時の人寿は平均して二十万歳

となれり。

今の世は食の多く重なる故に、

人寿は平均して二万歳となれり。“

 

天照大神は ひと月に三食、

しかも、非常に苦い草、これは

富士山にその昔生えていたそう

だが、それを常食にしておられた

という。

“古を鑑みる時、食重なれば人寿

は次第に短命となれり。

故に天照大神は月に三食とし、

常に深(しん)苦(く)の蓬菜(はおな)

を食し給うなり。“

 

ここまで 語ったあと、再び、

秀真伝えでは東西南北の本題に戻る。

南と北の謂れについて、金折命

は次のように、若姫に語る。

“また宮殿は南向きとなし、

南天の陽気(ようき)を受

けて長寿を得給うなり。

この故に宮殿の造営をなす時

は南向きとなすなり。

宮殿の後方を「きた」(北)

と名付く。

日の帰り来たるに配して

「きた」と謂(い)う。“

北を 別称、”ね” とも言う。

そのいわれは、

“日が入れば夜(よる)となり、

寝(ね)る故に北(きた)を

「ね」の方と謂(い)う。”

訪問客への習わしとしても、

南北をつかいわけていたようだ。

 

“例(たと)えば、若し人(ひと)

来(き)たりて事を辨(わきま)

える時、遇(あ)わざる時を

「北(きた)夜(よ)」に配し、

既(すで)に相(あい)見(み)る

時を「日(ひ)の出(で)」に配す”。

互(たがい)に談(かた)りて事を

辨(わきま)える時、真昼(まひる)

の如く明らかなる故に「みなみ」

に配す。

事(こと)落(おち)着(つ)くを

「にし」に配し、既(すで)に

帰(かえ)り退(しりぞ)くを

「きた」に配する。

「ね」(根)より来(き)たりて

「ね」に帰る故に、来(き)たるは

「きた(北)」なり。”

 

北と来たの言霊の同根を語った

あと、大自然の様子を重ねて

方角を語る。

“また木(き)は春(はる)に至ると

若葉を生ず。

夏に至(いた)ると青葉が茂(しげ)り、

秋に至ると葉(は)の煮(に)られて

紅葉(こうよう)となる。

冬に至ると黄(き)葉(ば)と

なりて落下する。“

“木(き)の性(さが)も同じく

根(ね)は北(きた)に帰る故に、

北の方を「ね」、東(ひがし)の

方を「き」と謂(い)う。

木(き)の芽(きざ)す故なり。

南(みなみ)は栄(さか)えるに

より「さ」と謂(い)う。

西(にし)は熟(じゅくし)

尽(つく)る故に「つ」と

謂(い)うなり。“

 

その他にも興味あるところ

としては、以下のような

説明が続く:

“木(き)は東(ひがし)に、

花(はな)葉(は)は南(みなみ)

に、木(き)の実(み)は

西(にし)に配(はい)する。

木(き)の実(み)熟(じゅく)し

落(お)ちて地(つち)に生(い)き、

再(ふたた)び身(み)の実(み)

を見る故に、木(き)の

実(み)を「み」と謂(い)う。

太古は「き」と「み」を、

陽神と陰神に配し、「き・み」

(君)と謂う初なり」と。 “

 

木は東に、木の実は西に配する

ため、太陽の昇る、陽 と沈む 

陰 にそれぞれ神を置き、

陽神と陰神と併せ持った人

(神)に対しきみ という言葉

が生まれたともここに述べられ

ている。

 

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自然治癒力ってなんでしょうか?

2015年06月16日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 自然治癒力ってなんでしょうか?  2015・6・16

**********************************

 

当たり前のように使っているこの言葉、いろいろな定義があるにせよ、

一口にいえば、生命力の力 ともいいかえることができるでしょう。

生命力はどこから来るのでしょうか?


この体の物質的組織からでしょうか?

だとすれば、死体には生命力の働きがないのは何故でしょう?

肉体が死んだということは生命力がそこには無いと言うこと

であるのなら、生命力があっての肉体 といえないでしょうか?

やや理屈っぽい言い方をしています。

 

生命力というのは実は遍在している力の一端、生かそう生かそうとする

本来の愛の働きの現れでもあるわけです。


キリスト教でも偉大なスピリチュアル大師たちは、この働きを

持つ最も大きな存在を神 と呼びます。

 ここに命題があります。

初めに神が存在するのなら 

”なぜこの世の中には不幸と悲しみに満ちている”のかと

いう疑問です。


神が愛であり、生命力であるのなら、なぜ、”病と格闘しなければ

ならない”かということです。


神 とは 全き善、愛、智慧、歓び、供給源、全知全能の

存在であると大師は教え、しかし、現実は、ほぼ正反対の状況

に遭遇する毎日だからです。


初めに神が存在する~

つまり、初め完全円満大調和の世界を神は御つくりに

なったということ。


次に自分の似姿である 人間 を創造されたといいます。

人間 は 親の遺伝子、つまり、神の遺伝子を以て誕生

しているわけです。


人間の親が神ならば、本来の親(大生命)から受け継いだ 

資質、それを神性というのです。

 

人は誰にでも仏性、神性がある。

神性なる存在として、人は 神の資質を反映しているにも

かかわらず、不幸の存在は矛盾しているようで、実は矛盾

していないのでもあります。


こう考えたらそういう結論にいたります:


”不幸とは実は その人が自分の意思で引き起こしているもの、

あるいは、自由に創造性を駆使して、身のまわりに顕して

いるもの”と考えられるからです。


だれでも、好き好んで不幸になりたい人はいないのに、

馬鹿げていると言う前にちょっと考えてみてください。


貴方は 自分に与えられている、神性なる資質を十分理解し、

そして、今与えられているもの、状況に関し、心から感謝を

感じながら”今” を生きていますか?


感謝を感じるということは、”有り難い”と思うことですが、

その想いを心底感じることができるのは、実は人が不幸を

味わって身に染みるというものです。


今一刻一刻を、感謝の心に満たされている人には、

その意味では、不幸は訪れない。


活かされている 生かされているということを、身をもって

知るには人は多くの道を経なければ、なかなか実感するまで

にはいたらないのかもしれません。


自分が一番世の中で不幸でみじめだ~と思う人は多いのですが 

身のまわりの ほとんど100%の他者は 不幸(

病気や、家庭問題、経済問題や職場での問題など)

に向き合いながら それでも笑顔を造ってあなたに

接しています。


本当のその人が耐え忍んでいる、”忍耐の胸の内”までは

なかなか他者は、想像できないものなのでしょう。


もう一つの不幸の存在する理由、あるいは、意義があります。

それは自分自身の創造したものがあるということに

気がつくためです。


自分自身の創造というのは、”自分の想念が形作られて

身のまわりに現れる人や物 あるいは 置かれた環境” 

になっているということです。


或る人はとても社交的でいつも多くの人に囲まれて

楽しんでいるし、ひっそり、田舎暮らしをしながら大自然と

対話して田畑を耕すことが至福であると感じる人もいる。


自分が今置かれている環境は、ある意味、自分のこうしたい

という長年の想念の現れであるともいえるわけです。


そうした中、不幸が来るというのは、自分の想念に対する

シグナルでしょう。


何か独善的、ひとりよがり、エゴ、自分勝手な想いが

先行していなかったか?

それを反省する機会なのかもしれません。


なぜなら、どの問題にしても、結局は自分の心に端を発していると

いっても過言でないわけですから。


災害や事故に巻き込まれたとしても、それも、因縁の世界

に生きている限り、何かの因、つまり原因があり それに

巻き込まれた以上自分も、その原因を造っていたと考えられます。


自分は正しいと思って行動していても、もしかしたら、

それは自分の”価値観の過信になっていたり、相手に良かれと思った

ことが、思いがけない悲しみを与えていたり、そういう 

因がつもりつもって、縁(きっかけ)となって、何か事が

起きる法則は成就してしまう。


それが心の法則でもあるのです。

良いこともそうですし、悪いこともそうですが、ここでは何故

不幸があるかと考えているのであえて事件(事故)を

取り上げました。

神は完全であるから、すでにこの世の中の実相も

完全に造られている~のです。

それが現れるかどうかは、自分の心がいかに自分自身に

遺伝子としてもっている神性を発現していくかどうか、

どれだけ、行動に移せたかどうかにかかわってくる

のでしょう。


その分、身のまわりは本来の光の輝きを増して平安に

整ってくるのだと思うのです。


健康もそうです。

本来 私たちは健康とか病とかいう、二元的価値観を

知らなかったはずです。

生き通しの生命力があるのですから、その人の生きている

意義があるうちは健康(当たり前な姿、自然の姿)で生きられる。

私たちの本来の姿を知ること、それが、本来の生命力の復元に

大きな力を持つのだと思います。

 

 

 

 

 

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