自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

医学の異次元の進化への期待 

2020年12月26日 | ワクチンと健康

波動医学~コロナワクチン開発を通して・・・    2020年12月26日

***************************************

コロナのワクチンを廻って,令和2年11月25日に開かれた、

衆議院予算委員会の国会中継で、立憲民主党の、岡本氏が

次のような事実を背景に、質問をしていたのが印象的だった。 

 

①6700億円もの多額な予算をコロナのワクチン開発にかけている

②世界の先進国24か国の中で、実生活の面で科学的アプローチ

をしながら取り組んでいるかどうかの国際的調査によると、

日本は下位から数えた方が早いという、17番目の評価をうけたこと。 

③導入するワクチンに対して科学的な効用の証拠(エヴィデンス)

が無いということ,

④そうした疑問に対しての情報公開がほとんど無い事


などを挙げていた。

 

アメリカの大手薬会社ファイザー社は95%の有効性をうたい、

使用申請を提出している。(2020年12月1日現在)

同議員の質問は、それらの有効性を日本独自の安全性の基準を

もとにどのように判断し、国内での使用を許可するのか、だった。


ここではコロナ(COVID19)のワクチンの適応性を話題

するのが目的ではない。

そもそも、このワクチンの開発方法はMichael Erman/Julie 

Steenhuysen、(翻訳:AnswersNewsによると、”異端のアイデア”)

に副ったものだったという。

 

具体的にはどういうことだろう? 

その部分を抜粋する。

 

”ファイザー/ビオンテックとモデルナのワクチンは、

ウイルスの遺伝情報をヒトに投与し、体内でウイルスの

タンパク質を作らせることによって免疫を誘導する。

こうした「人体をワクチン工場として機能させる」

というアイデアは、かつては異端とされていた。”

(抜粋終わり)

 

つまり、人体を使って抗体をつくり、ワクチンに活用する。

それが最近までは、異端とみなされていたということだ。

さらに、続けて

”バイオテクノロジー企業は何年にもわたってそれを

検証してきたが、ファイザー/ビオンテックやモデルナの仕事

によって、このアプローチが有効であることが確認された。


ファイザーとビオンテックの場合、約4万4000人が参加する

大規模臨床試験に、どのバージョンのワクチンを使うかと

いうことを含め、通常なら数カ月かかる重要な意思決定をわずか

数日で行った。” (抜粋終わり)

 

大変なスピードでワクチンの有効性を結論づけて、使用申請が

12月上旬には許可される。


立件民主党の岡本氏は副総理の麻生氏に対し 

”今の状況下で、もし、あなたの順番に回ってきたら、この

ワクチンを接種するのですか?”と尋ねた。

 

麻生氏は飄々とした顔つきで

”順番が回ってくる? それはどういう意味ですか?”

と逆に質問した。


思わずこれを見ていた私は苦笑した。

積極的にワクチンを受けたいという意欲があまり見えない

ような気がしたからだ。 

新ワクチンの副作用や有効性がまだ、日本国内でも確実に証明

されていないのは、重々承知の上だったろう。

 

さて、ヴィールスの抗体やら、免疫を人為的に人体の中で

造って、こうしたワクチンを製造して、果たしてそれが

どのくらいの期間に有効性を持つのか? 

95%の確率で有効ということだが、果たしてそうかどうか?


時が証明してくれるだろう。

 

普通の新薬の実証実験ではマウスやラットで投与テスト

してデータとして効果があがった場合、その薬を即、人体に

あてがうことが多い。

実験動物に効果があがったとしても、人間の体の細胞はラット

やマウスのそれとは本質的に同じなのだろうか?


本質的に、という意味は、構造的には同じでも、もっと

細分化した細胞の電子波動レベルで同じなのだろうか?という

意味だ。

 

マウスやラットの細胞も、人間の細胞も物理的に言えば、

素粒子、さらに 超素粒子にまで連なっている。

その素粒子以上の段階になると、これは物質として目に

見える固体ではほぼなくなり、波動的存在になっているのだ。


この波動的実体の超素粒子レベルが、マウスと人間と同じと

いう研究など、行われていない。

医療対象として考慮できる範囲はせいぜい原子レベルだ。

 

しかし、人体は 内臓諸器官などの組織が 細胞で固められ、

細胞は分子で構成され、分子は原子で成り立つ。

そして原子は素粒子や超素粒子などのミクロな精妙な実体を

もつもので構成されている。


だとしたら、当然、このミクロで精妙な実態を持つ素粒子

レベルで、ワクチンが効果的に働くことが証明されない限り、

どんなワクチンやそのほかの薬でも、本当の効用性に疑問符

がつく。

 

残念ながら、実際的な病気の治療といえば、通常、諸器官の

異常が確認された段階で診断が行われ、薬が投与される。

が、病気によっては、原子、分子、細胞、それ以上まで


これまでに”想念の効用性”や”病と想念の関係性”など、ブログ

で考えてきた理由がここにある。

つまり、徹底した”治療”と”検診”、真の病の原因追跡のため

には、今の医学の限界と考えられている領域を逸したところに

焦点を是非 当てていただきたいと感じるからだ。


実際の量子物理学の世界では物質の本質が、すでに”波動体”に

近いものであることは証明されている。 

そして、ヴィールス自体も、波動体のミクロの領域をもち、

その段階で、ヴィールスに侵入される体とそうでない人の

違いもあるのだろう。

超素粒子の世界、ヴィールスの侵入はすでにそこから始まって

いる。


素粒子と素粒子の間はとても広い”空間”が占め、それは

大きなラグビーグラウンドに一粒の水滴をたらした大きさが

原子の中の素粒子の大きさだと言われている。

 

この素粒子と素粒子の間は物質的ではない”空間”がある

には何が存在しているのだろうか? 

エネルギーだ。


’生命’というエネルギーがあり、そこから、生命の意思

が生まれる。 


そしてさらに、その空間こそ、私たちの”心”が発する

”想い”のエネルギーに影響を受ける部分である。

もう一度繰り返しになるが、”あらゆる病源はこのあたり

の領域で生命体に侵入してくる”のだ。

 

聖者が毒を飲んでも体に異変が起きなかったという、

インドで実際に合ったお話しをご紹介したことがある。


それは、体を構成している物質のミクロの次元で、

”毒”のもつエネルギーが、無効になったからである。


低い波動は、聖者の持つ高い精妙な波動には、溶けめない。

細かく振動しているところには、荒い振動波は入り込めない


 

さて、こうして考えて行くと、

ある意味 この聖者にとってはワクチンをとっても良し、

取らなくても良し、という結論にいたる。

彼の体に入り込むヴィールスがいない以上、痛くもかゆくも

無い問題なのかもしれない。

 

波動レベルから病への対処を考えるということが、自然治癒力

セラピー協会の考え方であり、コロナを含めあらゆる

ヴィールス・細菌に対する理想的な対処と、向き合い方といえる。

 

          

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ヒマラヤの聖者エミール大師の奇跡(3)

2020年12月18日 | 健康と直結する”一元論”について


目前で、水を氷にしたが・・その目に見えない意識科学    

2020年12月18日

***************************************

 前書き

 2013年6月から10回にわたって、アメリカ調査団が

ヒマラヤ付近で遭遇した聖者との体験記録

ご紹介しました。 

この世離れしている架空の話と、思う方も

いらっしゃるかもしれませんが、16年インド

に住んでいた私にとっては、ただの手品

物珍しさではない、正真正銘の真理が

聖者との体験記に込められているような気がいたします。

これから再度 数回にわたり、推敲したものを、再び、

掲載させていただきます。

 

これまで、想念はエネルギーだという話題を何度か取り

上げています。 

皆様の想いがこの調査団の人たちと重なり、ヒマラヤの浄化

された冷たい空気に包まれ、浄化されますように・・・・・

 

著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働き実証されるのを実際に

見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許して

くれた。

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容をそのまま受け入れるか、

否認するかは、読者の自由である。

********************************

 

 

その晩、一同が宿舎で集まっていると、いつものように、突然ドアー

も開けずに、エミール師が 彼らの真ん中に出現した。


“いわゆる、魔法のように、私がこの部屋顕れ出たのを皆さんは、

今、目撃しました。

さて、今度はみなさんに、肉眼でも見える 一つの簡単な実験を

してみましょう。

皆さんは 肉眼で見てから、初めて信ずるのですからね。

どうぞ、よく見えるように、丸く輪をつくって、寄ってください。


さて、ここに皆さんの中の 誰かが今しがた、から汲んできた

ばかりの、水が一杯あります。見てごらんなさい。

のちょうど真ん中に、氷の一片 できかけてきたでしょう。

 

一片一片、だんだん 固まってきたの部分が増え、とうとう 

コップ一杯に凍ってしまいましたね。

一体どうしたのでしょうか?


私は水の真ん中の分子(複数)を 私の想念によって ‘普遍なるもの’

the universalの中に置き、それが形をとるようにしたのです。

言い換えれば、そのヴァイヴレーション(波動)を下げて行って

遂にそれが氷となり、その外の分子群も その周囲に集まって

をとり、遂に全部がに化してしまうというわけです。

 

この真理(法則)を、みなさんは 小さいコップだけではなく、桶や

池、湖や海、はては地球上の水全体にまで適用できるのです。

そうすると、一体どうなるでしょうか?


皆 凍る ことになりはしないでしょうか?

一体、何のために?

 

目的はないんです。

それでは、一体 いかなる原理によってそうするのか、と皆さんは

お尋ねになるでしょう。

 

完全なる法則の使用によって’ と私はお答えしましょう。

では この場合は一体、何の為か

何のためでもありません。


それは、別に何かの為になることもなかったし、また、為になるよう

にもできません

もし私が、この実験を 徹底的やり続けて行くとすれば、結局

どうなるのでしょうか? 


それは 反動 が来ます。 

誰に来るか? 私にです。

 

 

私は法則を知っている。

だから、私の 表現するものは 忠実に私に返ってくるのです。

故に 私は、善のみを表現します。

したがって、善のみが 私に 善として返ってきます。


もし、私がどんどん凍らせ続けていたら、最後の目的を遂げる

ずっと前に、冷寒が 私に 跳ね返ってきて私まで凍ってしまい

私自身の冷凍という形で 私は自分の希望の収穫物刈り入れる

ことになるでしょう。

 

だから、私が善を表現すれば、私は永遠に私の言葉を収穫するのです。

 

今、この部屋に私が現れ出たのも、こういう風に説明ができます。

あなた方が私を残して出て行った小部屋で私は自分肉体を 

‘普遍なるもの’に戻した。

私たちの言い方をすれば、一切の質量(substanceが 存在する

‘普遍’なるもの中に、一旦 奉還したのです。

 

それから、私の 神我(I AM~実相)、即ち、内在するキリスト意識を

通して、肉体を心の中に置くと、そのヴァイヴレーションが下がり、

ついに この部屋の ここへ、具体化し 再現して 皆さんにも、

見えるようになるというわけです。“

39

 

****後記***  

ここでのポイントは二つ。それは、水を凍らして氷にすることが

できる理由は 物の本質である波動をどんどんと精妙なものに、

大師の思念で替えていくことで、氷という分子構造に作り替える

ことが可能だということ。


ところが、それを突き詰めて行って行けば、その法則は自分自身に

返ってくるため、大師自身が凍っていってしまうという面白い予測

を大師は語る。 

 

これは日常生活にも言えることで、誰かに対して怒りの気持ちが昂じて、

その人の不幸を願うようなことを念じ続けていると、結局、自分に

その念が帰ってきて、自分も不幸になるという法則だ。

 

もう一つの点は、内在のキリスト意識、つまり、自分の神聖なる

意識に完全に自分を帰結させると、肉体はその荒い振動数から

きわめて精妙な振動と移行するために肉眼では認識できない姿になり、

また壁やドアなどの粗い物質の目を通り抜けるほどになれると

いうこと。 


つまり、普遍なるものに自分を戻して、その場所に行き、着いたら

また粗い波動に波動数を下げていき、肉体としてみんなの前に姿

を現したということである。

 

 

 

************************

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―

自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

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ヒマラヤの聖者エミール大師の奇跡(2)

2020年12月13日 | 健康と直結する”一元論”について


証人を目の前にして90マイルを5分で移動する  2020年12月13日

**************************************

前書き

2013年6月から10回にわたって、アメリカ調査団がヒマラヤ付近で

遭遇した聖者との体験記録ご紹介しました。 

この世離れしている架空の話と、思う方もいらっしゃるかも

しれませんが、16年インドに住んでいた私にとっては、ただの手品

物珍しさではない、正真正銘の真理が聖者との体験記に込められて

いるような気がいたします。

これから再度 数回にわたり、推敲したものを、再び、掲載させて

いただきます。

 

これまで、想念はエネルギーだという話題を何度か取り上げています。 

皆様の想いがこの調査団の人たちと重なりヒマラヤの浄化された

冷たい空気に包まれ さらに清まりますように・・・・・

 

                                          

著者はしがきから

わたしは、1894年に極東を訪れた 11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを実際に見るために、

大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許してくれた。

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と教え”と題して、

発表するが、そこに盛られた内容をそのまま受け入れるか、否認するかは、

読者の自由である。

 

ヒマラヤの小さな村 アスマーと呼ばれるところへ調査隊が向かったのは 

192212クリスマス以後 のことだった。

エミール師は 彼の配下の助手を2名、調査隊に付き添わせた。

調査隊全体の世話役のためだ。この二人の名前は ジャスト、ネプロウ 

といった。


ジャストは 調査隊執行委員各、ネプロウはその助手で、命令の遂行を

見届け監督役でもあった。

 

出発当日の朝、エミール師は調査団へ 見送りの挨拶を述べた。

 

“みなさんはこれから、ジャストとネプロウの二人を同行して

調査旅行に出かけるわけですが、約94マイル先の次のおもだった

宿泊地まで、たぶん5日ほどはかかるでしょう。


私は暫く、ここに踏みとどまることにします。

90マイルの道のりを行くのに、私はそれほどの時間がかからない

からです。

そして みなさんの目的地で、到着おまちすることにしましょう。

 

そこで、私からのお願いしたいことは、誰か一人、隊員の方にここに

残ってもらい、これからの出来事をよく観察し、証明する役を

引き受けていただきたいことです。

そうすれば、お互いに時間の節約にもなるし、ここに残ってもらう

も、これから10日間までには、調査隊に加われるわけです。


私たちとしては、その方によく見ていただき、見たことを、よく

報告してくださるように、お願いするだけです。“34

 

調査隊は 大師の、その旨を受けて、証明人と大師たちを残して

先に出発した。

ジャスト達は、非常に良く手際よく働いた。エミール大師にこう

言わせたほどだ。

 

“この二人のやり方以上にテキパキとした胸もすくような仕事のさばき方

想像もできないことを、特に、ここで申し上げておきたい。


どんなに細かいことにも 到れりつくせりの行き届きようで、いわば、

音楽のリズムと精確さとに ぴたっと合った感じである。“(34

 

この二人は、大師の弟子であり、後々特別な能力を示すのだが、その時

はまだ、調査団はそれに気が付いていない。

こうして予定どおり、5日目の4時ごろ、調査隊は予定の村に到着した。

ここで、エミール師が、出発時に約束したように、彼らを迎え出て

いるはずであった。


それに関して調査隊の報告が以下に続く。

 

“読者に私たちの驚きが想像できるだろうか?

私たちは間違いもなく、ただ一本しかない道を、途中で交替して

日に夜をついで、急行する飛脚は別として、この国では一番早い

交通機関でやってきた。


ところが、年齢も 相当いっているはずの、また、どう考えても、

90マイルの道のりを 私たち以上の短い時日では 来られないはず

人が、ちゃんと先着しているではないか!“(36)

つまり、大師は約束通り調査団を迎えて調査団の者たちを驚かせた。

調査隊の皆はその理由を知りたく、いっせいに大師に質問を浴びせかける。

師の答えは こうだった。

 

“あなた方が 御発ちになるとき、私は、ここで、みなさんをお迎え

しましょう言いましたね。 

その通り、私は、今 ここにいるわけです。


人間は本来 実相においては無限であり、時間・空間・制限を

知らぬものです。

ひとたび、人間がその実相を知れば、90マイルの道のりを行くのに、

5日も トボトボと歩かなければならないということはないのです。

 

実相においては、どんな距離でも一瞬にして、到達できるものです。

距離の長さなんか、問題ではありません。

私は ほんの一瞬の間の前に、あなた方5日前に出発した村にいました。

みなさんがご覧になっている私の肉体は、まだそこで、休息しています。


あの村に残っている皆さんの同僚は、4時数分前までに、私が 

~もう、今頃は着いているはずだから、出迎えの挨拶に行きましょうと 

ったことを 後日、証言するでしょう。

 

このことは、ただ、私たちがどんな約束の場所、どんな定められた

時刻にでも、肉体を残したままであなた方に挨拶に来られることを、

お目にかけるためにしたわけです。


皆さんにお供してきた あの二人にも、同じことがやればやれたのです。

そういうわけで、私たちが、みなさんと根源を同じくする 普通の人間で

しかないこと、また、神秘めかしいことは何もなく、父なる神、全能

にして 偉大なる 壱なる存在が、総ての人間に与え給うた力を、

ただ皆さんより、多く発現させただけであることが、一層よく

お分かりになったでしょう。

 

私の肉体は、今晩まではあそこに置きますが、そのあとで、こちらに

引き寄せます。

それで、みなさんの同僚の方も、こちらに向けて出発し、いずれ

そのうちに到着することになるでしょう。

 

さて、一日ここで、休養を取ってから、ここから 一日分の旅程先の

小さいに行き、そこで一晩泊まってから、また、こちらに戻って、

別の同僚に 会って、報告を聞くことにしましょう。

今晩 宿舎で集会をします。

ではしばらくの間 ごきげんよう“(37


*後記******************************

このお話しのポイントは瞬間移動だ。

よく臨死体験で、亡くなる間際、死の瞬間に、離れている距離に

関係なく、愛する人の元に魂が会いに行くという、お話しに本質的には

同じ。


私たちは死んだあと、霊体になり、思ったところに、体がすぐ移行

することができるはずだ。

つまり肉体という重い地球服を脱ぎ捨てた暁には、私たちも大師

と同じことができる::空間、時間を越えた次元に行くわけだから。

 

 

引用箇所)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻 

S54年6月5日第五版

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

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ヒマラヤの聖者エミール大師の祝福(1)

2020年12月08日 | 健康と直結する”一元論”について

花や木もうなづく        2020年12月8日

************************************

前書き

2013年6月から10回にわたって、アメリカ調査団がヒマラヤ付近で遭遇した

聖者との体験記録をご紹介しました。 

16年インドに住んでいた私にとっては、ただの手品や物珍しさではない、

正真正銘の真理が聖者との体験記に込められているような気がいたします。


これから再度 数回にわたり、推敲したものを、再び、掲載させていただきます。

これまで、想念はエネルギーだという話題を何度か取り上げています。 

皆様の想いがこの調査団の人たちと重なりヒマラヤの浄化された冷たい

空気に包まれ 清められますように・・・・・

 

著者はしがきから

わたしは 1894年に極東を訪れた 11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は 私たちが 偉大なる法則の働きを 実証されるのを実際に

見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許してくれた。


大師が、鳥や獣との会話しているところを目のあたりにみた 調査団の

報告がある。早速引用させていただく。

 

“ある日曜日の朝、エミール師と 一緒に野原を散歩していると、私は

先ほどから、私たちの頭の上を円を描きながら、飛びまわっている一羽

の鳩が気になってならなかった。


‘あの鳩は私を探しているんですよ’と師は、さりげなく言うと、歩みを

止めて 深い沈黙に入ってしまった。

数分すると、鳩は師の差し伸べた腕の上に舞い降りてきた。

その鳩は 北の方にいる大師の弟から音信を持ってきたというのである。

 

その弟という人は、やはり、同じ真理の道を 歩んでいるが、直接、

兄に意思を伝達するところまでは、修行を積んでいないので、

この方法を用いているのだそうである。


あとでわかったことではあるが、大師たちは ‘思念伝達’(大師がたの

言い方によれば、電気や無電よりもはるかに微妙な或る力)によって、

瞬間的に相互の通信ができるというのである。

 

それから 私のいろいろな質問に答えて、師は鳥たちを呼び寄せると、

空中を飛んでいる時でも、その飛び方を指図できること、花や木でも 

本当にうなずくこと、野獣でも少しも恐れないで寄ってくること、

小さい動物を襲って食い殺し、あとの死体を奪い合っていた二匹の

ジャッカル(山犬)を 引き分けたことなどを話してくれた。

 

その山犬など、大師が近づいていくと、闘いをやめて、大師の

さしのべた両手の中に すっかり 信じ切った様子で首を入れて、

静かに食べ合ったそうである。


さて、話を元に戻すと、エミール師はこうした以心伝心の

奥義を次のように語った。 

 

‘こういう風に、動物でも 支配できるのは、いつも五官で見ている

ような卑俗な自我ではなく、もっと、真実な、もっと深い真我 

なのです。

こういうことをしてみせるのも 私の自我ではなく、あなた方の

言う神、即ち内在する神、私を通して、働き給う 全能にして、

壱なる神なのです。

 

死をまぬがれ得ぬ 小我 としての私、自らでは、何事をも、為し

得ないのです。

あなたが 今までにみてきたようなことが 私にできるのは、

私が 外的な現象を完全に放棄し、真実なるもの、即ち、神我(われ神也)

=自己の実相・内在の神に語らしめ、なさしめ、しかして、神の大愛を

出させるときなのです。

 

あなたを通して 神の愛がすべてのものに出ていくとき、何物も 

あなたを怖がらず、どんな災害もふりかかることはありません。“

21)(引用終わり)

師は、調査団の部屋のドアーが閉まっていてもドアーを通さず、

どこからか、部屋に入ってくることがあった。

そのことについて次のように記録されている。

引用する。


“ぱっと出し抜けに(大師は)姿を現した。

寝る前に ドアーに 念入りに鍵をかけてみてもそうであった。”(22)


そこで、彼らは、もう、鍵をかけずに、開け放しにしておくことにした。

これは、私が 師を信頼することになるので、喜んでおられるようで

あった。

其の頃はまだ、師の教えが 全部わかるというほどではなかったし、

百パーセントそのまま 受け入れることもできなかった。

(22)(引用終わり)

 

さて、調査団の人たちも、その大師の無防備な生活態度には次のように

感嘆する。引用する。

 

“大師たちには何の見栄もてらいもなく、お仕事の仕方も全く子供の

ように純真であった。…略…

毎年 何千人という人が 毒蛇や猛獣のために生命を落とすが、

大師たちは 内なる愛の力 を発揮するから 害を受けること

がない。

 

時には、未開のジャングルに住み、時には猛獣の惨害より、村を

守るために自ら進んで、村の入り口に身を横たえることがある。

時によっては、水の上を歩き、水の中をくぐり、肉体の姿を消した

まま往来し、その他、何か超自然力の 所有者にしかできないと

思われる 所謂、奇跡の数々を行う。“ (23)


“このような大師たちは インドでも比較的少数しかおられない。

大師たち自身その数が限られていることや、学者たちも (大師の

ところまで)訪ねてこれるような人はごく少数しかいないことは 

よくご存じである。“(23)

(引用終わり

 

だからといって、これらの大師たちが われわれ下界の人間の生活に

無頓着かというとまったく逆のようである。

なぜなら、以下のように調査員は記している。

 

“大師がたは 不可視の世界[須田注:時間・空間を超えた世界)

においては、無数の人々に接触することができるのであって、

事実 不可視の世界に入ってその教えに感応する人々を援助する

のが、大師たちのお仕事の大部分のようである。“(23)(引用終わり)

 

後記**************

調査団は、大師たちの霊的意義を悟るにはいろいろな体験を観て、

“数年の思索が必要”(22)だったと言う。

ヒマラヤの大師たちは 大自然の中に 防備もなく生きておられる。

私自身も、シャンティクンジュ というヒマラヤ麓の道場にいた

とき、ある聖者の写真を見せてもらった。


そのリシ(ヨギ大師)は、ヒマラヤの雪の中で衣服をつけず、

写真に納まっていた。

寒さを感じることなく、その姿で、縦横無尽に移動しておられるという。

今日のお話しの中で、大切なポイントはいくつかあると思う。


‘思念伝達’がその一つ。

電気や無線よりもはるかに微妙な或る力によって、瞬間的に

相互の通信を大師たちはすることが可能だ。

いわゆる、以心伝心、というものだろう。


あの世の行けば、こうした術は普通に行われ、言葉なく会話する

ことが普通だと聞いたことがある。

同様、人同士だけでなく、生きとし生けるものすべて、心がある以上、

意思疎通の手段として会話をしているはずだ。


 ”花や木でも 本当にうなずくこと”を大師は指摘しているが、園芸の

達人はこのことを応用して話かけながら、より美しい花を咲かせ、

おいしい実を収穫しているのだ。

 

もう一つのポイントは、内在の神という存在だ。

大師は、調査団に、”あなたが 今までに みてきたようなことが 

私にできるのは、私が 外的な現象を完全に放棄し、真実なる

もの、即ち、神我(われ神也)=自己の実相・内在の神に語らしめ、

なさしめ、しかして、神の大愛を出させるときなのです”と語って

いる。

これは、誰でも、内在の神と繋がったとき、大師のみならず、

誰でもこのような不可思議な技が、日常にできることが可能となる

のだろう。

訳者註から)

真我を”神の我” と呼んでいるのは、アートマ の資質をもった、
人間の実相のことでもある。

この本の訳者は 以下のような、註を置いている。

真我とは) 人間の実相:肉体に非ず、様々な心に非ず、神に等しい
ものである。

故に、人間の実相は神と等しく 無限の智慧、愛、生命、美、歓喜、
調和、豊富である。

それらをどこまで出すかは、本人自身が自分の能力、才幹を どの程度まで
認識するか、即ち、‘私はどの程度まで……である’かを認知しているか
によって、決定される。
 
故に、人間は常に、‘私は無限(たとえば、愛、智慧など)である’
と観ずべきである”(24)とエミール大師は語る。


引用箇所)注*(  )内の数字は

引用した箇所の本文のページ数です。

 

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 

全5巻S54年6月5日第五版

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

*******************************************

 

 

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