自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

いよいよ~母 グループホームへ~

2015年08月30日 | 介護と自然治癒力

迷い悩みつ、現実のブロック     2015・8・30

***********************************

毎年、ある月に限って 大きな変化が起こるという体験を

もっていらっしゃる方達はいるかもしれない。


自分の場合は 6月、7月に何かしら それなりの

小事件や取り込みが多い。

去年は店の大掛かりな修繕工事やら テナントさんの

契約違反営業発覚に管理会社を巻き込んで 裁判沙汰

でもめた。

 

水漏れは、香取やの店の天井に大きなシミマークを作り、

ぽたぽたと水漏れとなって床を濡らしていた。


前者の出来事では、天井をはがし原因を探ることは難しく、

店の設計当時の大工さんを探し当てて、当時、建設現場

を知る人達が、推理しながらその2ミリほどの亀裂箇所

を探り当て 水漏れは抑えられた。


後者の件では、管理会社とはテナント問題がきっかけで

双方信用を失い、その管理会社とご縁を切った。


さて、今年はというと、母の介護の問題だった。

この夏、7月に入り 母も私も熱中症に似た症状が出た。


母は 夜中(よなか)中、寝ないで、動き回っているので

冷房の部屋に、落ち着いていることが少ない。


結果、暑さで、めまいがする、部屋が回っている、トイレも

一人で行けない、手を貸して・・・繰り返しの要請。

私は、一晩中、神経を逆立てて、母の動向を体全体で感じ取り、

物音で、咄嗟に何度も起きては母に手を差し伸べたり、

トイレに同行したりする。

結局、睡眠不足から、昼間 吐き気やめまいが起こるように

なった。

 

思えば、母が肋骨をおり、2月に救急病院へ搬送され、

3月には大腿骨を骨折して手術。


退院後、さらに、母の認知症状に拍車がかかったのだが、

身体的には、体の順気は整っているので、回復もはやく、

血圧の上昇も安定していた。


そのために、”デーケア―”には 骨折以前に通っていた施設に、

通うことができた。

自宅のある3階までの階段も ゆっくりだが 難なく

のぼり下がりできたからだ。


精神的にも、母と毎朝 灯明をあげ、仏様に向かい、

一日の挨拶と般若心経を読む毎日。 


夜の得たいの知れない活動以外は、穏やかに、”有難う”

も連発して口からでる 母の常套句になった。

夕食をおいしくいただけば、”有難う。

こんなにホットして家で過ごせるのはありがたい”

涼しい風が窓からはいれば ”有り難い。こんないい風が吹いて。”

ベランダには たくさん 花木のポットを置いた。

朝顔の大輪の紫が毎朝、母の枕元から見える窓辺に咲いた。

”きれいだねえ。有り難いねえ”

 

そんな母の、認知独特の症状は、夜11時過ぎごろから出た。


センモウと種分けされる認知症の特徴として 血栓が

できたり、軽い脳梗塞のために 脳神経に影響があるためか、

数分前のことも記憶が失せる。


夜はふらふらと ほとんど体を動かしていないと不安に

かられるようだ。

トイレも10分間隔になる。


結局、睡眠時間は 母も私も、平均 2~3時間、

中にはほとんど体を休められ無い夜もあった。

幸い 昼間 体が重いときは 数時間昼寝ができた。

母も デーケア施設でうとうとしていたようだ。

 

母は変わっていった。 

同時に、私自身が変わっていった。


母がどんな暴言を吐いても、これは ”母の言葉ではない”

と確信が持てたので以前のように、感情的に、振り回される

ことが少なくなった。


何より、そうした 人格がスイッチが入って、変わる母への

恐怖心が無くなった。


以前は、3月まで、妹の部屋に鍵をかけて寝ていた私。

7月には母のすぐ横で 安楽椅子に寝ていた。 

狭かったが、飛行機のビジネスクラスの席だと思えば、

体を横たえなくても 何とか うとうとできた。


いつでも突発的に起き上がることができるように 

床には眠らなかった。


こうして毎日が過ぎていくのは ある意味、楽しいこと

でもあった。

ただし、体は悲鳴を上げ始めていた。


心臓は不整脈が起き、血圧が160になっていたり、幾人かの

知り合いから”一回り小さくなりましたね” という正直な

意見をもらった。


辛辣な人は ”私の知っている貴方は元気なお姉さんの

ようなイメージだったが、今は、’ねえ’が’ばあ’ に代わって

しまったようで、一見したとき、わからなかった”

と私を見て、口にした。


’認知症の人がいると、誰か家族に必ず病人が出ます”

とグループホームのホーム長は私に 何度か箴言してくれ 

それを思い出した。


これは十分、睡眠をとるほかない。 そのために、

 ”母を 一週間に一度で良いから、夜間、預かってもらえる

場所を探してほしい”と 母のショートステーができる場所を 

ケアマネさんに探してくれるよう頼んだのは、6月下旬だった。

 

その可能性を探ってくれたが 

”11月まではどこも一杯だそうで。。。”と言われがっかりした。


直接、一番可能性の高い、特別老人養護施設の責任者に電話

して、意向を聞いてみた。

すると、顔見知りの信頼している その人はこういった。

 

”彦田さんは 正直、難しいのです。 

それは、ご本人が 職員にもっと自分をケアしてほしい

という要望をもってらっしゃるので、うちのような、

大人数の利用者さんがいると、まともに彦田さんと

向き合って時間をとることは難しいのです。


彦田さんも、とても不安になるようです。

お母さんのためにも グループホームをぜひ、考えて

あげてください。”

と意見され、再び、グループホームの可能性を真剣に

考えざる得なくなった。

 

デーケアがあるのなら ナイトケア― なるサービスが

有れば 本当に助かると思った。


ショートステーできる人、 あくまでこれは デーケアー

の参加者に限られて、しかも 母のように10分置きに

トイレにたったり、夜通し起きて、他の利用者さんに

迷惑をかけない職員さんの手が回る範囲の利用者に

限られるようだ。


夜だけ、余所で母を預かってくれる場所があれば、私の体も

なんとか持ちこたえられ、理想的な自宅介護が続けられる

かもしれないと想った。 


残念なことに、母を良く理解してくれる、通いなれた、

デーケア施設にはショートステーのサービスは設けていなかった

し、あっても、断れる可能性が高いと判断した。

 

こうした背景のもと、母はグループホームの御世話になること

になった。


ある種の渾然とした想いが私の心に残っていたが、共倒れに

ならないためには致し方なかった。


それは、7月26日日曜日の午後のことだった。

 

続く~

 

 

 

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宗教と触れ合う心療内科の癒しの基盤

2015年08月27日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

全体性の中の一(神)を自分の身体の中に見出す     

2015・8・27

**********************************

先回の続き・・・

例えば、心療内科を日本で初めて創設した 

池見酉次郎医学博士だ。

博士は 心理学、宗教学、哲学 などすべての道を

深く極められて、画期的な医療への

提言をされてきた方でもある。


セルフ・コントロール することで、健康になるという、

癒しの鍵を知っていた方だ。


セルフ・コントロールについては 次回に譲るが、

セルフ(自分)を知り、様々な自分をその本当の自分に

照準してバランスを保っていくということになる。


池見博士はさまざまな宗教の真髄も勉強されたのだろう。

”仏教であれ、キリスト教であれ、そのほか諸々の宗教、

宗派であれ、洋の東西を問わず、あらゆる宗教の中心を

なすものは、一体性、ないし、全体性の概念と

体験であると思われる。”と言っている。(*1)


一体性というのは、森羅万象、すべての人や事象と、

自分 とは切り離せない存在であるということだろう。


先にブログで話題にしたように、自分の念や想い、

などのエネルギーは必ず目に見えない、波動体として

瞬時に宇宙に向けて放出され、それがもとで現実に

コトを起こしたり、自然災害をも引き起こすという話だ。


つまり、自分とまわりのすべてとは、そういう意味で

無関係ではないということ。


全体性の概念と体験’というのは、こうした自己と全体との

位置づけを知ったうえでその体験を重ねる。


愛と不安 どちらかに分類される感情や想念しか

存在しないと ’全体を知るもの”は言う。


愛(プラス思考、思いやりやオープン性、明るさ)を

標準とした想いで行動していけば、それがひきつける環境、

協調や助け合いなどの行為をともなった状況を

引き寄せるだろう。


不安は それと反対のマイナス想念、嫌悪、過剰プライド、

嫉妬、悲しみなどに心を支配させていると、いつの間にか 

健康も損なわれ、環境の改善はなかなか計れない

ということになる。


そういう、全体と自分、環境と自分の想念、何よりも、

宇宙を支配している同様の想念(創造性と宇宙的法則やルール)

と自分とが一体であるという’一体感’が 悟りにつながる

ということなのだろう。

 

仏教でいうところの 悟り、については 博士は、

以下のようにのべている。


”’悟る’とは、自分と自分が住む世界の実体に

目覚める事である。

これを私どもは、医学心理学の立場から、

’意識の拡大’と呼んでいる。

そこで、人間が自らを知ろうとするためには、

その生みの親である自然(地球と宇宙)を

知らねばならない。”

 

自然や宇宙に内在する隠された秩序を知ると、

人間は自然と協調して生きていく存在であることがわかる。


自然を統括し支配する立場として、人間の横暴や傲慢な

態度を容認せざる得ない矛盾をはらむ、西洋文明から 

近代医学は生まれた。


だから人間不在の医学 とか、人間性を忘れた医学的治療 

という言葉が生まれるほど、機械的なマニュアル的な、

データ中心で 細部に専門が別れるがために

検査続きの診療となるのだろう。


池見博士は、自然と一体化して生きる人間性を重んじる

東洋的医学と対比している。


西洋的近代科学は”分析的な思考の上に推し進められて

きたために、自然と人間との関わり合いを、全体的に

理解しようとする 総合的思考に欠けやすい”と 

分析心理学のマスター、 ユングの言葉を博士は

引用している。

 

”西洋人は、自然に対して悪魔のような優越性を

持とうとしている。


しかし、自分自身が自然の支配下にあることを

見落としている。


このままだと、彼自身の自然が彼を滅ぼすだろう。

東洋人は自己の自然を知るのみならず、自己がどの程度

にまで自然そのものであるか知っている。”

 

さらに 博士は現代科学のこうした盲点のもとに

’人間不在の医学’となった近代の医学に対して、

古代の医学を "人間を心身一如の存在としてとらえ、

全人的治療を行うものだった”

と心身一如という観方の大切さを強調する。


この点が心療内科が生まれる原点となったのだろう。

 

さて、冒頭の話、私たちの想念エネルギーが物質化して

現象的にさまざまな様相で目の前に現れているという

お話しと池見博士の心身一如の話との共通点を探ってみたい。


同著から引用する:

”当科に入院してからも なお堅固に不定感情を訴え

続けていたが、交流分析(平易な精神分析)の集団指導

に参加するようになって、これまでの感情に走り過ぎた

反応のありかたについての自己分析が始まった。


其の後は、長い間抑圧していた、夫に 対する不満や

憤りについて、主治医を交えて夫とも話し合えるように

なってきた。


これによって、夫婦間の感情のしこりがほぐれるに

つれて、次第に症状は好転。


半年後には退院して、東京の夫のもとに還ることができた。

難聴と耳鳴りが突然消滅したのも、このような夫婦間の

軋轢(あつれき)がほぼ解消した当時のことである。”

 

この女性は夫に対して不満や憤りを心に抑えながら

暮らしていた。 

そのマイナスの想念が飽和点に達し、体に不調和を

きたした。 

そして 話し合い理解すること、心を解放するという 

愛 の一行為によって、退院したあと、同時に 

それまでの難聴 が解消したという。


難聴は”聞きたくない”という心の顕れといわれる。


夫人は、夫の行動に不満があり、そういう時の心境では、

どんな夫の言葉も’聞きたくない’という潜在意識が働き、

耳触り なものであったのだろう。

 

博士はこの例をとりあげた理由として、

医学的な処置に際して、人間性への適切な配慮が、いかに

必要であるかを感じさせられた”

からとして、次のような感慨を述べている:


”この例を通して、私どもが感じたことは、夫婦間の

感情問題もさることながら、医学的にできるという

ことと、それによって、患者が幸せになるという

ことは必ずしも一致しないということだった。”

 

医学的な 通常多くの医者や患者に支持されている常識が

必ずしも、その患者に適応されるかどうかという疑問だ。


一般患者の対処療法として効果が出ても、それが根本的

な治療になっているのかどうか?


セルフコントロール の大切さを説く池見博士にとって、

医療は、”心身一如”という観方を基盤にして ”心”の部分に

しっかりと”切り口”をいれない限り、本当の治癒が

見られないということになるのだろう・

 

 

*1)セルフ コントロールの医学 日本放送出版協会刊 昭和58年

 

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不安と戦争(社会的に身体的に)//愛の対極

2015年08月21日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム


一、二、三 の隠れた意味と純粋創造について  

8・21・2015

*****************************************

先回の続きになるが 一、二、三 の数には、

一(創造主)~愛と平和~、 二(対極)~不安と戦争、

そして 三(反作用)~純粋創造を続ける~という意味がある

というのが今日のお話し。


三の持つ意味を考える前に、一と二の持つ意味は?。


一は在って在るもの、存在するもの、という意味だから、

”一元的”というのは、”唯一絶対なる創造者が宇宙を創造し、

万物は、その’一’の現れ 

顕現されたもの”とする見方だ。

 

ここでよく質問されるのが、創造主が善ですべての力を

もつのなら、


何故、人生苦しみが多いのか? 

世界には戦争、個人には不幸があるのか? 

この世には神も仏もない“ という疑問だ。

 

この疑問の裏には、

”神のみが存在するのなら、そんな不幸をつくるはずがない。 

やはり、悪があるから戦争や悲惨なことが起こる”という、

暗黙の同意を求めている。


そうなのだろうか?

悪があるというのは ”二”つめの存在を認めている。


それは、”一”の神に対立する存在を指す。 

神と悪魔、善と悪、幸と不幸、美と醜、高低、悲喜、

などなど。


それへの解答として、一つの答を ある本から引用させて

いただきたい。 (以下引用部分)


“素朴な関係は、常に二元的である。 

崇高な領域の関係は、必ず三元的である。


左右、上下、大小、寒暑、など、被造物の中では最も偉大な

ニ元的要素、男女。


これらの二者には その間 というものはない。 

一方が他方より、比重が大きい小さいかの違いが、みられる

だけだ。

日常生活の体験のほとんどは二元的な関係があてはまる。


一方、崇高な領域の関係では、対極はない。 

すべては一つであり、一方から他方へと変転しても、終わり

のない循環を繰り返す。“

 

質問(一);現在の世界にもそれは当てはまるのか?


世界が今のような状態なのは、ほかの在り方ができず、

物質的に素朴な領域にあるからだ。


地震やハリケーン、洪水、竜巻など、天災と呼ぶものは、

一方の極から対極への要素への移動にすぎない。 


病や不調は、健康と快調の対極の間の行き来きだが、

あなたがたの要請に応じて現実になる。”

 

質問🉂自分たちの要請とは?

どこかのレベルで(対極の移動中)自らが引き起こさ

なければ病気にはならない。


元気になろうと決意さえすれば、快くなる。 

個人的失望も、自分で選んだものだし、世界的災厄や

世界的な意識(人類意識)の結果である。”  (*1)

 

質問(3)なぜ、戦争があり、常に不幸な状況が人には

起こり得るのか?

自分で選んだものなのか?

一という 善なる、オールマイティといわれる

創造エネルギーはそれを望んでいるのか? 

あるいは その一なる存在が、実際、創りだしているのか?


“あなたは,幻想の中で生き,そのために不安を感じる”(以上

**********

病は、創りだされたものではない。

私たちの 不安が嵩じて、名実化して現実になる。

幻想といえども、夢芝居の中のように、私たちはそれに

踊らされているだけだ。


この話は以前何度も聞いたことがある。

それは ヴェーダ哲学の中に・・

サンスクリット語でいわれる ”マーヤー”と呼ばれる幻想だ。


別名 神の遊戯(play) リーラ とも呼ばれる。

私たちは顛倒夢想の中で生きていると、般若心経は

説いているではないか。


その不安が戦争をもたらす?のかもしれない。

不安だから、資源を確保する、勢力を増す、多大な

ハイエナ的儲けをねらう武器商人(多国籍企業)の存在が

介在して、彼らの頂点に立とうとする、一握りの権力者

のエゴ意識が、戦争の影に見え隠れする。


こうした人々がいることを知っている地球族と、地球族を

コントロールしようとする大きな欲望、その欲望が、

脅かされるかもしれないという不安が、戦争の要因だ

という。

 

再び、本に戻る・

私たちの行為の定石の一つ、繰り返されていることとは?

“一番大切なものを愛し、次に破壊し、それから再び愛する。”


質問4)どういうこと?

“深く探ってみれば人間の行動には二つの動機しかない。

不安か、愛か?

実は感情の源もこの二つだけだ。


魂の言語にはこの二つの言葉しかない。

是が‘相対性’というシステムを可能にする二点、α(アルファ)

でありΩ(オメガ)だ。


この二点、物事に対するこの二つの思考がなければ、

ほかの思考は存在しない。


人の思考も言動もすべて、愛か不安かどちらかを根拠

としている。

他の考え方はすべて、この二つから派生したものだ。“

 

質問5)その二つの対極の想念が、人間の存在の

動力源でもあるわけですね?


“人が、何度も何度も同じ体験を繰り返す理由もここに

ある。


人が愛し、次に破壊し、そして愛するのもそのためだ。

常に一方の感情から他方の感情へ揺れ動くからだ。

愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その循環の

繰り返しだ。”

 

質問6)戦争と平和もそのカテゴリーに入るのですか?

“人間の行動のすべては、愛か不安に根差している。

人間関係だけではない。


ビジネスや産業、政治、宗教、子供たちの教育、国家の

社会問題、社会の経済的目標、そして戦争と平和、襲撃

したり、防衛したり、攻撃すること。 ・・・


団結したり、分裂したり、すべての意思決定は存在

しうるただ二つの考えから発している。


愛か不安か。“

 

質問7)愛と不安の定義をもう少し・・

“不安は縮こもり、閉ざし、引きこもり、走り、隠れ、蓄え、

傷つけるエネルギー。


愛は広がり、解放、送り出し、とどまり、明るみに出て、

分け合い、癒すエネルギー。


・・・不安はしっかりと抱え込み、愛は優しく抱きとる。

不安はつかみ、愛は解放する。


不安はいらだたせ、愛はなだめる。

不安は攻撃し、愛は育む。“

 

質問8)戦争は不安に基づき、平和は愛に基づいて

いるのですね?

“愛が存在するためには、そして純粋なる愛である自分を

知るためには、対象となるものが存在しないことを

知っていた。


正反対のものが、存在する必要があった。

そこで神は偉大なる極~愛の絶対的対極~にあるもの、

愛ではないあらゆるものを造りあげた。


それが現在‘不安’と呼ばれるものだ。

不安が存在した瞬間、愛もまた、体験し得るもの

として存在し始めた。“

 

質問9)それでは、なぜ人は不安の最大の現れである 

戦争を起こすのでしょう?

“それは神の無数の部分に(霊を持つすべての存在に)

神と同じ創造力を与えられたから。


あなたがたの宗教の中では、‘人間は神の姿をかたどり、

神に似せて造られた’というのはその意味だ。


物質的な似姿ではなく、本質的なものの継承者として。

つまり、あなたたちの能力には、宇宙から物質的な現実を

創出する力が含まれているということだ。“

 

質問10)戦争は、だから不安の要素(自分の権威に

しがみつく政治家たちや、様々な欲望が満たされる

ための手段)を満たすために、戦争が現実化するのですね。


そして、その戦争の悲惨さと体験を通して人類は平和への

渇望を知るということですね?

“愛を示す(理解する)ためにはまず、愛さない(愛が無い状態)

があるということが可能でなければならない。 


完全無欠の一元的絶対世界は別として、それ以外では対極

の存在なしには、なにも存在し得ないのだ。”(引用以上)

 

戦後70年を迎え、多くのメディアが戦争の爪痕、犠牲者たち

の家族の声、命を賭した特攻隊の番組などを組んでいた。


その当時の現場の中に引きずられ、当時の人たちの想像を

する苦悩と辛抱、忍耐、人間性を無視した当時の

不条理の社会を目の当りにして、現在の平和と対比してみた 

人たちは大勢いたことだろう。


犠牲になった一人ひとりの命に築かれている現在の平和を

実感したことだろう。


そして、永遠に生きる生命体として 彼らは今も天国で

穏やかな愛に包まれていることだろう。

現象世界、私たちが生きている この地球上の社会では 

対極の存在なしには、何も存在し得ないという上記の言葉、

死も生も、そういう意味では同じだけの重みをもったもの

として受け止められる。


そして、何よりも、戦争や平和を論じる際に、私たち一人

ひとりの心に、どれだけ愛があるのか、不安はないのか、

それを見つめなおす、良い機会なのかもしれないと

いう気もする。

 

*1) 

記事内の、本文(  )内の言葉は 

須田の補足です。

 

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一 二 三 の深い意味

2015年08月18日 | 健康のための心の波動

三という数字の持つ意味と生の揺らぎの意義     2015・8・18・

***************************************************

ここで千島学説の中から “生命弁証法”の項目を振り返ってみたい。

千島学説の研究家 枠山紀一氏はその著(*1)で10項目を挙げて

そのうちの一つが


“すべての事物は矛盾対立を内包し、その葛藤が進歩や変化の

原動力となる”


さらに、“生命の形態はアシンメトリーである。”というのがある。

生命の形態とは言い換えれば大自然の形態ともいえるだろう。


電子の小さな極点の形態から宇宙のしくみにいたるまで

左右対称、

陰陽のエネルギーが上手にバランスを取りながら全体として

平衡状態を保っている。


私たちがたとえば歩くとき、右足に全体重を預けるとき

左足は上に上がっている。


左足を前に一歩進めて、それから右足を挙げれば左足に

全体重がかかる。

こうして交互に左右不対象の動きを続けることで前進できる。

・・・・・・・

一、二、三、という数は象徴的だ。

もともとすべては一である。 


一から始まる。 


それが二つに分裂したかのように見える。

違う言葉でいえば 二つの相反する価値観が生まれる。 

美と醜、善と悪、などなど・・


今の私たちの二極化された精神世界の中で 

私たちは無意識のうちに 判断を下す。


好きか嫌いか、良い感じ、悪い感じ、楽しいか

苦しいかなどなど・・・


でも長所と欠点がほんのわずかな裏表の判断で

決まるように、この二極化された価値観が

アンバランスの中の前進を生む役目をするのだろう。

 

君子は豹の如く変化する~と言ったのは孔子

だっただろうか?


マニュアル的に一つの意見に固執するのではなく、

その時その時、人は変わっていくのも、生きている

証なのだろう。


それがたとえ振り返ってみて、誤った選択だったとしても、

だからこそ得られたものもあるのだろう。


生命も同様で生物の中の矛盾対立とよばれるように、

完全な平衡状態というのはあり得ることではなく、

多少なりともどちらかが,より力を持ったり、無くしたり

して、生体は保たれている。

 

風邪をひくのもその一つの矛盾対立が引き金になる。

体の中のアンバランスが崩れて、より良い平衡をつくろうと、

熱や鼻水、咳や痛みが伴う。体の自然治癒の働きの一つと

生体を知る人は考える。


水がたまるといって、心配する人がいる。

癌患者は腹水がたまる。 末期的症状といわれる。 

これも、考えてみれば腹水をためて、芯の体温が上昇して

いくのを下げようと生体の自然治癒力が必要性に応じて

働いているからだ。


私たちが一口に、症状が出ているからどこが悪いのだろうと

言う前に, 生体はこうしてアンバランスを創りだして

体を整えようとする働きがあることを認め、その力を、

信じたい。 


実験室で研究を重ねても、マウスと人とは異なる。 

物理的法則は試験管内では100%外れはないだろうが、

生命は 物理的法則を取り込みながら生命法則を生かす。


外科手術で片方の腎臓や肺臓を切り取っても、片方が

大きくなって、その不足を補う。

そこには生命の力が動いているからで、こればフラスコや

試験管の中では知りえない生命の法則の一つだろう。“

 

千島博士の弁証論によれば、1と2という対極にある

価値観(症状)の間を揺れ動く、生命の揺らぎがあるから 

三 という次の向上線に向かうことができるという

ことだった。


破壊と創造、戦争と平和、身体の崩れとその癒し、

常に二極双方のバランスを取りながら 人間の歴史は

時を刻み、生体は生命を保つための働きを休むことなく

行っている。


それを さまざまな観点から 先人たちは、三という

数字をもって顕わしてきた・

 

話が、前後するが、先回の記事で “正しい・誤っている”

というのは二元論の世界の言葉で、


”何にせよ、間違ったことは何もない。

間違っているというのは相対的な言葉で あなたがたが ’

正しい’と呼ぶことの対極を示しているだけだ。”


ホップ、ステップ、ジャンプ’ という動作にも

あらわれているように、三という数字には”発展”と

”展開”が”破壊”を通して起こり得る、展開して

新たな”創造”を生み出す象徴的数字ということになる。

クリスチャンは 三位一体を ’父なる神’、息子なる’イエス’、

そして’聖霊’と表現する。


心理学者の中には、それを、’超越意識、顕在意識、潜在意識’ 

と分別する。


心霊学者たちは、’精神と肉体と霊魂’ という分け方をする。


科学者たちは ’エネルギーと物質、エーテル’と分類する。


哲学者は ’思考と言葉と行為によって、真実が図られる’

という。

インドのヒンズー教では ’創造の神ブラフマ、

破壊の神シヴァ、維持の神ヴィシュヌ’という神の

三つの側面をとらえている。


ヒューレン博士が世界的に有名にしたホ・オポノポノでは 

’息子と母親と父親’というように精神を分けている。

 

私たちの日常の中にも、時間は、’過去と現在と未来’ と

三つに観念的に区別されるし、それを、’以前、現在、以後’

というように、分ける。


次回、もう少し掘り下げて 一、二、三 次元論をもとに、

戦争と平和について考えてみたい。


戦争は、国家間の不協和音である。 

私たちの生体の不協和は病気と呼ばれる。

戦争を語り、実は 私は体の細胞の中の分子レベル、

量子レベル、そして波動レベルの原因を探っている。

次回に譲りたい。

 

 

続く~

 

(*1)“蘇る千島学説 

”2004年 なずなワールド発行

 

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殺傷は罪?・社会問題・国家のエゴが生む殺害 

2015年08月15日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 終戦記念日に寄せて~純粋な創造 に向けて 8/15/2015

********************************

 

次のメッセージをお届けしたい。

数回にわたり、引用するもので、この出典は最後のブログの

ページに発表させていただきたい。


そのまま引用させていただく・・・・

”何にせよ、間違ったことは何もない。

間違っているというのは相対的な言葉で あなたがたが 

’正しい’と呼ぶことの対極を示しているだけだ。


では’正しい’とはどういうことか?

貴方がは、本当に客観的に判断できるだろうか・・・・・・


日ごろ、自分自身の理解をもとに、何が正しく、

何が悪いかを決定している人達はほとんどいない。

重要なことになると、ますます、その傾向が強くなる。 


重要なことであればあるほど、

誰か別の人の考えに従いかちだ。


そう考えると、あなた方の人生のある、領域をコントロール

する力を 完全に失ってしまった理由も、人生経験の中で

ぶつかる疑問も理解できる。”

 

質問① その領域や疑問は何をさすのか?

”魂にとって、とても重要な課題を含んでいる”領域だ。


”’神の本質’、’真のモラル’、’本当の現実とは何か?’、

’戦争’、’医療’、’堕胎中絶’’安楽死~生と死の問題’、

’個人の価値観やその構造’、’判断の実体’などだ。


こういう問題のほとんどをあなたがたは放棄し、

他人任せにしている。

自分で判断を下したくないのだ。


’誰かが決めるだろう! 私はついていけばよい。

それでよいのだ。’

とあなたがたは叫ぶ。 


’何が正しく、何が間違っているか、誰かが教えて

くれるだろう。’”

 

”さて、殺害についてかんがえよう。

何かを殺す正確な理由は在るのだろうか?

自分で考えて観給え。

偉い人に教えてもらったり、難しい情報を与えられたり

する必要がないことはわかるだろう。


自分で考え、どう感じるかを見つめてみれば、

おのずから答えは出てくる。

それらに従って行動するだろう。 


それが自らを権威として行動するということだ。”


質問② その反対は?


”他者を権威として行動すると、わけがわからなくなる。


国家は政治的な目的を達するために、人を殺しても

良いのか?

宗教は教義に従わせるために、人を殺して良いのか?

社会はルールに違反した者を殺して良いのか?

宗教的説得法として、社会問題の解決策として、

殺害という行為は適切か?”

 

③いまどきの集団的自衛権とやら・・・を考えると?


”さて、誰かに殺されそうになった。 その時、

あなたは相手を殺せるだろうか?


愛するものの命を守るために人を殺せるだろうか?

あなたが知りもしないものを守るためにはどうか?


殺されそうになって、ほかの方法で身を守れないとき、

自衛のために人を殺しても良いのか?


殺意のない人殺しと、計画的殺人とは違うのか?

国家は政治的課題を達成するために、正当な人殺し

はある、と信じるようしむけるだろう、 


権力機構として、存続を維持するために、国家は

その言葉を信じさせる必要があるのだ。


宗教は、自分たちが定めている真実を広め、教えを

維持し、守らせるためには、人殺しもやむを得ない、

と信じるようにしむけるだろう。


権力機構として存続するために、宗教はその言葉を

信じろを命じる。


社会はある種の違反行為(その行為はいずれは、

時代によって変わるのだが)を犯した者を罰するために、

死刑を必要だと信じるようしむけるだろう。


権力機構として存続するために、社会はその言葉を

受け入れさせなければならない。


あなたはこうした主張が正しいと思うか?

他者の言葉をあなたは受け入れるか?

あなた自身はどう思うのか?”

 

質問③ どうなのでしょう・・・

間違っているのですか?


”こうしたことには’正しい’も’間違っている’もない。


だが、あなたの決断はあなたが何者かを映し出す。

実際、国家はその決断によって、それぞれの姿を

映し出してきた。


その決断によって、いつまでも消えない印象

を作り出してきた。

社会も、その決断によって、自画像を作り出してきた。


あなたは、今、自分の姿に満足しているか?

宗教の姿は、あなたが望んでいるモノか?


今の社会の自画像はあなたが何者か正しく 繁栄しているか?

・・・・・こういう疑問に目をむけてごらん。”


”人は自分で考えて選択しなければならない。

そういう選択~過去の知識にたよらない決断~それが 

純粋な創造 と呼ばれるものだ・


そういう決定をしたとき、自分自身を新たに 造りだして

いることに気が付く。


あなたがたのほとんどは、この重要な仕事には関心がない。

他人任せで生きている。


だから、自分を創造せず、

’習慣の生き物’’外部から創られる生き物’に甘んじている。”

 

質問④ 習慣の生き物は困ったときはどうする?


”他人からどう感じるべきかを指示され、それが

自分の本当の気持ちとは違うと、深い心理的葛藤を

経験する。 


本当のあなたは ’他者の言うことと、自分の想いとは

違う’と語りかけている。


それではどこへ行けばよいのか?

どうすればよいのか?

 

そこで、まず行くのは 宗教者(あるいは霊能力者や

占い師・・須田補足)のところだ。


あなた方は僧侶やラビ、牧師、先生(霊能力者や占い師 

・・須田補足)のところへ行く。


大方、彼らは、あなたの心の声に耳を傾けよとは言わない。


ひどい人たちにいたっては、あなた方を脅し、脅えさせて、

直観的に知ったことさえ、捨てさせようとする。


彼らは 悪について、悪魔について、悪霊について、

呪いについて、考え付く限り、恐ろしいことを語り、

慰めを見出す唯一の場所は 彼らの思想、カンガエ、

教義であり、彼らが定義する正邪、善悪であり、彼らが

考える あなたの姿だと説く。”


自分の価値観を持ち、考え、自分自身でそうした

さまざまなことを決定する?


一隊 自分は何様のつもりだ?~という声が聞こえる。

そんな力は私にはない。まだまだ未熟だから。


”そう、お前は何ものか という問いに対して

あなたはいつかは答えることになる。


その仕事は、たった一人でしなければならない。

報酬も無く認められもしない。

気づいてもらえないかもしれない。”


質問⓹ そんな思いをして 何故 自分探しの旅を

続けなければならないのか


”良い質問だ。

どうしてそんな道へ歩みださなければならないかって?


自己探求と創造の旅に出ることで、何が得れるのかって?

どこにそんなことをする理由があるのかって?


その理由は、ばかばかしいほど 単純だ。

ほかにはどうしようもないから’” (引用以上)

 

皆さんは101匹の猿 の お話しを覚えておられるだろうか?


私たちが自分探し、創造的生き方 を追及していけば 

池に落とした石の波紋が広がるように、 いつか、何かが

劇的に変わる可能性を示唆しているような気がする。


たとえば、私たちが心底、戦争を反対するという

気持ちがあるのなら、’経済的な発展のために

~戦争特需~’とか、’他国からの協力(特に米国)

得られずらくなるから’とか、もろもろの資本主義に

生きる現世的構造の歪みの中でも、


純粋にそれを求めるのなら、


”今この瞬間、核兵器を捨て、地球のどこかで行われている

紛争を含め平和は突然訪れる” 日が来ることも夢ではない~

という気がする。

 

続く・・・

 

 

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