自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

三輪明宏さんの言葉と小池さんの都民ファースト

2017年03月31日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

 

ある教育評論家の体験談を受ける側の曖昧性・ 2017・4.6

*************************

今日は 先回に引き続き、アガスティアの葉に関したインド旅後半

予定でしたが、 昨日の都議会で昨小池さんの豊洲政策にモノ申す

という形で 自民党の意見が発表されましたので、急遽、順番を

変えて この記事を先に発表させていただきます。 

自然治癒力と政治の話は 直接 関係ないですが、今日の

話題は、あくまで、”心の曖昧性” というテーマですので 

よろしくご理解ください・・ 

”心の曖昧性” は 言葉の曖昧性 に端を発し、その心理的

影響として、マスコミなどが利用すると、私たちが気が

付かないうちに、その世代の価値観を作り出すこともできる。

その例として、負けることを知っていて第二次世界大戦を

つづけたときのように、戦争に行きたくないあるいは、

戦争が無駄であるとわかっている人たちも 世論に

抵抗することができず、戦地に’名誉な死’を予測して

万歳三唱で送り出されたように、あるいは、柔らかい、

生きている人間の腹に銃剣を突きつけるのを余儀なくされたように・・・

自分の意見を持ってていても、その世代の大きな力(常識)

に飲まれていく状況を作るのも、発端に、自分にとっては、

理解しがたい、”曖昧な言葉”で洗脳され、反対意見をいう

ことが はばかられるような、風潮が背景にあるのでしょう。

アートマセラピー協会の提唱している、自然治癒力 を、

信じる過程においても、肯定的に受け止めている人でも、

実際それを発揮できるかどうかの瀬戸際に、意外と 

こうした 誰にもある、”曖昧な心” の心理が、影響を

与えているように思います。

ここは、寝ていれば治るを’感じる’自分の本能があっても、

周りから医者に診てもらうべきだと言われればそのよう

にする~といった程度のことではありますが。

残念なことに、言葉の曖昧性 を自分で吟味することなく、

受け入れてしまった場合、”自然治癒力発露” の足を

引っ張ることのほうのが多いようです。 

 

 

 

三月下旬のテレビの番組で”人生の苦しい時に救われた言葉”と称して、

あるO教育評論家がこんな話をしていた:

”自分は今から~年前に とても落ち込んでいました。 

それは バス事故で自分のゼミの学生が数人死亡したからです。

とても苦しい時期でしたが、ある人の言葉で勇気を与えられ、力をつけて

もらいました。 

それが三輪明宏さんです。 

彼のコンサートに行き、終わってから楽屋に尋ねました。

すると、Oちゃん、と私を見つけて 中に招いてくれた三輪さん

の横に座り、思いがけず苦しい胸のうちを語りました。

全くそんなつもりはなかったけど、なぜか、横にいるだけで、

彼のオーラに包まれて、ホット気がゆるんだのでしょう。 

三輪さんはやさしく抱いてくれました。 

そして、こうおっしゃたの、

’Oちゃん、人生は正と負の時期があるの。 今は負の時、

そういう時は苦しいことが重なるけど、出すだけ出せば、

負は正になって、良いことが必ず、出てくるわ。 

だから、大丈夫。’

この言葉で私は立ち直りました。”

 

ヴィデオをとっていたのではないので、逐一の言葉は少しずれて

いたかもしれない。

が、大要としては 間違っていないと思う。

三輪氏の言葉は 確かに真実だと私は感じ、共感を覚えた。 

皆様はいかがだろうか?

波がある人生。不幸続きのように思えても、必ず、それが

逆転するときはある。

自分の体験と被さった。 

アートマセラピー施術でも 同様のことがいえそうだ。 

どんなに一生懸命セラピーを施術しても一向に好転せず、

不安になるときがある。が、それでも根気よく信念をもって、

続けていると、ある時から好転するのだ。

好転前が一番、しんどい。症状がむしろ悪化して見えることが

あるぐらいだ。

それはちょうど 夜明け前が一番、暗く闇が濃いのと同様に、

症状が好転していく前触れの’闇’であったと気づかされること

が何度もあった。

時を待てば、”必ず、好転するときがくる” ということを

信じている限り、人は、絶望して自暴自棄に陥ることは

ないのだと思う。

 

そう思いつつ、一方では、その答えを復唱すればするほど、

人の心の曖昧さに ふと、苦笑がもれた。

一応納得する展開であったが、よく考えると、疑問がわく答えでもあった。 

なぜなら、ここでは、O氏のゼミの生徒、将来を約束されている

大学生数名が 命を落とした事件が、O氏がかつてないような

心の煩悶を感じた引き金になっていたからだ。

三輪氏の回答、”負の事柄は、出すだけ出せば、事態は好転する” ~ 

他の事柄、様々な不運が重なるとか、自然治癒力セラピーでいうように、

体の膿(うみ)を出すだけ出せば、浄化できる”などという場合なら、

当てはまるだろう。

 だが、三輪氏の言葉が、人の命を引き合いに出して語られるとしたら、

残酷すぎる言葉だ。 

あるいは、愛とかシンパシーがあったら、この事例にこの言葉は適当

でない気がする。

 

このあたりを、私は ”心の曖昧性”と呼ばせてもらいたい。

O氏が ほんとうに落ち込んだ理由と、ゼミの生徒が事故死した 

という点は、どこでどうかかわっているかということが、きちんと 

説明されていない。

O氏は、’ゼミの学生の命を落とす事故に遭遇して、落ち込んだ’と

いう理由の背後にある本当の要因に言及していない。

ご自身はそのあたりを 教育者である以上自覚されていただろうが、

番組を観ている方に伝わってこなかった。

さらに、三輪氏にハグされて慰めてもらうほどの苦悩が、どのように

語られたのか、よく伝わらなかった。

事故死で、若い命を 数名の学生が落とした~という事実自体は、

O氏の責任所在が問われることではない。 

O氏が この事件後、なぜ、人生で一番苦悩することになったのか、

それはこの事故が原因で連鎖的に何か他の不幸が続いたのか、

事件そのものがO氏に何か考えさせられる要因を与えたのか? ・・・

曖昧だ。

三輪氏の言葉、悪いことは(負の事)が出るだけ出てしまえば・・・

納得しそうで よく考えると、辻褄があわない気分になるのは

私だけだろうか?

 

こういうことは私たちの日常生活には 意外と多いのかもしれない。

深くじっくり考えると、矛盾のある状況や言葉でも、

サラリと言われ、聞き流してしまうと、わかった気分になって、

スルーしてしまう

 

この記事を書いているのは、3月の最終の日曜日だが、

もう一つ、気になっている事がある。 

言う方と それを聞く方の 双方の ’その言葉を使う際の曖昧性’

という点でいえば現時点での、小池都知事の 安心と安全

(豊洲問題)意見だ。

 

昨年、都知事になった時点で、先代から抱えていた、豊洲移転の

負の問題が 9月以降盛り土がされていなかったということを

皮切りに、浮上した。

当初は 都政の古い体質改善と都民ファーストを貫くという

立場で、歴代の関係者の責任所在を追及する姿勢に 大方は

 ”いじめられている小池さん”という見方で緩和されていたが、

私は個人的に、何となく違和感を感じていた。

負の遺産も、都知事として受け継いだ以上、懐(ふところ)を

大きくして、受け入れる~という度量と、過去の経緯の詳細より、

今山積している移転の際の現実的問題の解決方法に取り組むの

が前向きではないかと感じたからだ。

なるべく、無駄な時間と税金を最小限にとどめて、

使用するための安全対策を前進的に進めることを期待していた。

しかし、豊洲問題は白州のお裁きならぬ、企業や当時の担当者達、

都の思惑などの解明に、石原都知事ら関係者を百条委員会に呼び、

責任問題の追及に力を注ぐことで、すでに半年以上たち、その間、

専門家からは、安全という観点では大丈夫という結果が出ている。

一方、一日の維持費に 五百万円の経費が掛かっているという 豊洲の 

実際的移転が伸びることによって、波紋が広がる、市場関係者や 今後の解決

すべき問題に焦点がなかなか当たらない。

都民にとって必要な、安全で、”都民の胃袋を十分に満たすための

市場のフル回転”は いつ現実的に可能になるのだろう?

 

小池さんの潔白を盾にしたクリーンなイメージは 確かに成功したかのように

見える。 

が、都民ファーストと言いながら 今のような、豊洲問題の向き合い方は、

自身の夏の選挙戦のための 都合の良い ”選挙ファースト” 行為に

みえてくる。

 

一番に、安全でないのなら、安全に使えるための対策を早急に講じることと、

二番に、対策や改良をしたうえで、都民に、安心してもらうための 

多方面からの情報提供、

最終的に、そのうえでの、賢明なる都知事の政治的選択手腕が望まれる~

と思う。

 

結論としては、”都民ファースト”とか、”安心”とか、私たちの耳に

心地良い言葉が、己の政治的エゴを隠す 政治家の隠れ蓑になって

いるかもしれない~と 感じるのは私の偏見なのだろうか? 

安心と安全 が第一です~と言われれば、死活問題

で事業が追い込まれている市場関係者も 物を言うことができなく

なる~と感想を述べていたのが、気にかかった。  

 

 

 

 

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今回のインド旅、竹林精舎で出会った僧侶の予言

2017年03月26日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 

インド旅 仏様ゆかりの地で出会った僧とアガスティアの予言 2017・3.26

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“ゴッホは良く描いた。多く悩み、苦しみ 死んでいった。

しかし彼は純粋な霊に戻り、苦しみの生で600点加点されて、

輪廻転生のサイクルを終わらせることができたのだよ。”

タナノート” ベルナール ヴェルベール、日本放送出版協会、1996

 

 

皆さんの中で、前生の存在を信じている人はどのくらい

おられるのだろうか? 


上に挙げた一節は、肉体を捨ててあの世に行き、再び、

生まれ変わるとき、人は以前の人生の行いによって、

失点したり得点したりしたもののバランスをとって、

次に生きるための環境を選んでくるという話の中の下りだ。


冒頭の言葉の意味は、ゴッホはすでに輪廻転生のサイクルを

終え、人として、地球上に生まれることはないの意、双六でいえば、

上がったということだろう。 


こうして何度も地上に生まれ変わることを輪廻転生というが、

これは、決して仏教用語だけではない。

 

原始キリスト教では、5~6世紀に行われたという

コンスタンチノープル教会会議の中で、

キリストが説いたとされる輪廻転生説は、聖書からオミット

されたという話である。


神道では、意外と、超古代史ホツマツタエを読む限りでは、

輪廻転生の考え方に遭遇する。


例えば、アマテラス大神の兄弟、ならず者で知られた

スサノオの尊は、後世、ヤマトタケ尊に生まれ変わったと出てくる。


それは、おのが業の深さを悔い、再度、正義を重んじる、

大和統一のために東国に賊を一掃するための任務を担う役目を

スサノオ尊の魂が買って出たとからである。 


仏教では因果応報、この世を要領よく生きても次の生では

きちんとつけは払うことになっているわけだから、

今の境遇は結局は誰のせいでもなく、自分の過去のなした業(わざ)の

結果であるという。

 

3月8日に戻ってきた今回のインドの旅は、これまでと

異なる色合いだった。 


もちろん、輪廻転生を含む不思議な体験があった。

今回のメインの目的は、仏様に縁のある世界遺産を含む

数カ所を訪れることだった。 


ンド・デリーにある国立考古学博物館を訪れた方なら

ご存じだろうが、この国は数百年前の美術品など

ほとんど歴史物の部類に入らないかのように、何気なく、

通路から手が触れそうなところにむき出しに置かれているのだ。

 

三蔵法師(孫悟空に出てくる)が訪れ、教本(お経)を

与えられたという、5世紀初頭に造られたナーランダ大学は、

仏様もここでマンゴーの木立の下で説法されたという

世界最古の大学である。 


広大な敷地、たぶん、ゆっくり見学したら数時間は

優にかかると思われる大学跡には、発掘された当時のレンガで

造られた部屋や教室があり、それこそ、この手でそのレンガの

一片を触り、不埒な見学者は少し削って持ってくること

だって可能なほど、警戒も保護も甘いのだ。 


が、そのおかげで十分に当時の風を想像しながら、

時の流れを超えて太古の雰囲気を謳歌することができた。 


さて、今日のメインテーマである、ある僧侶との遭遇は

そのあと起こった。

私にとっては大いに不思議なこと なのだが、興味のない読者

の方には しばらくお付き合いいただきたい。

少々私事の事柄である。


夕方前、当時、仏様にラージギルの大富豪が寄進しようと

した竹林精舎に足を延ばした。 

日本でもありそうな小ぎれいな瀟洒で竹の多い公園風の造りである。 


その一角のベンチに 黄色い衣をまとった僧が、信者と思しき

老人と話し込んでいた。 

私は惹かれるように、その方のそばに行き、しばらく突っ立っていた。 

すると、私の気配に僧は気が付き、ベンチから立って、私の方に

歩みを数歩すすめた。 


そして、首にかけていた数珠を右手に持ち、何やら経文のような

マントラを口ずさみなら、右手の手の平を私の頭の上に掲げて、

祝福してくださった。 


私は、思わず、合掌し、僧侶の足にナマスカーラ

(足にタッチする敬礼方法)すると、僧侶はその数珠を

私の首にかけてくた。


”ペンがあるか?”と聞かれたので、渡すと、何かの紙の裏に

ヒンズー語で書き始めた。 

私の情報は何も知らない。 


一方、僧侶は、すらすらと何かを書いていく。

途中で”一番好きなアルファベットは何か?”と、

”どの数字が一番好きか?”の 2点を質問された。 


そして、書き終わった紙切れを渡されて、その内容を

読んでくれたが、私の拙いヒンディー語の範囲でわかったことは、

そこには、自分の将来にかかわる予言めいたことが書かれていた


そうこうしているうちに、竹林精舎を一通り廻り終えた

同行の方が、私と僧とのやりとりに興味を持たれ、ことの

成り行きを簡単に話すと、自分の将来もぜひ、教えてほしいと僧侶に

頼んだ。


その方の意向を受け入れた僧侶は、同じような要領で、予言をした。


すると、その方は具体的に家族のことに関して質問をした。 

それにも、間髪を入れないほど端的に早く、答えが与えられた。 

こうして数日間にわたる旅の初日が過ぎた。


さて、このことを書いたわけは、旅の最後にアガスティアの葉に

書かれた予言を聞きに行くという予定が組まれていたからだ。


飛行機で4時間半かけて、古代タミール語で書かれた自分の予言

の葉っぱを探しに出かけることになっていた。


そして、意外な事実が 再び、アガスティアの館で、わかり、

再度、私たちは驚くことになったのだが、竹林精舎で出会った

僧の言葉と重なるという不思議な体験をすることになる。


 

~続く

 

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偽善者、罪人、善人、結局最後は皆一緒・・・

2017年03月21日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

おおらかな、罪や悪への観方   2017.3.21

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以下はニール・ドナルド氏が”神”(注;ニール氏が文中に

メッセージを与えた対象をこう呼んでいる。

ニール氏自身、それは自分の’無意識の領分’から発せられた、自分への

言葉かもしれないという疑惑を時には持つ)から受けたメッセージである。

 

”あなたは、過去をもとに自分の価値を決めるが、私(神)は未来をもとに

あなたの価値を決める”

”いつまでこの不幸が続くのだろう~"

落ち込みながら人はなかなか、明るい未来を心に描けない。 

が、神から見れば、明るい未来しか’無い’かのようだ。

”未来にこそ、真実がある。過去にはない。 これまでしたことは、

これからすることに比べれば、重要ではない。

これまで犯してきた過ちはこれから創造するものに比べれば何の意味もない。”

 

創造? 

これから創造するもの?

想像できないけど、きっとあると思うと悪い気はしない。 

いままで生きてきた中で生産性のある行動を、仕事をなしてきたのだろう?

と振り返る。

職場で、家庭で、出産や育児、趣味や奉仕活動で、・・・ 振り返れば、

親から守護を受けるだけの、子供時代にさかのぼれば、それから、成人し、

ささやかでも 何らかの形で人に与えることに従事してきたことは 

探し出せるだろう。

悪いことは覚えていても、今築き上げた現在までの 自分なりの成果を

(それが評価されているかいないかは別として) 忘れがちな人も多いようだ。

私自身でいえば、理想を追うばかりに、現実とのギャップに落ち込むことの

多い人生であったような気がする。 

そうして、罪ある生き方をしてきた、人をどれだけ、苦しめたことがあった

のだろうとか反省すると、因果応報、何か 罰せられる出来事が起きても

当然のような気がしていたものだ。

その究極が、地獄 の肯定だろう。

が、地獄は存在しない。罰せられるという意識は人が自分でそう判断して

思い込むことらしい。

”神”は続ける:

”すべての過ちを赦そう。”

”あなたの間違った情熱も赦そう。すべて赦そう。間違った意見、見当

違いの理解、有害な行動、自分勝手な決定、すべて赦そう” 

”ほかの人は赦してくれなくても、私は許す。”

”ほかの人が罪悪感から開放してくれなくても、私は開放する。”

 

罪人は 罪咎がある人だが、その罪は、人が決めたルールにのっとっている。

そして、人が裁き、そう決定付けられる。 

一方、神は、神の前では罪人は存在しないという。

そういわれれば、実際、歴史的にみても、罪人が、聖人になった例がある。

たとえば、パールミキ、マハバラ―タの編纂者といわれるが、彼は森で人を襲う

盗賊だった。 

が、ある縁(えにし)により、インド国民の小学生も知る、ラマヤーナと並ぶ、

マハバラ‐タを編纂し、聖者となるのである。

神は言う・自分の実存する聖なる意識に気が付いた時、そのとき、瞬きほどの

瞬間に聖人になる~と。

なぜなら、

”ほんとうのところ、罪人などいない。 

誰も罪を犯すことなどできない。 

まして、私(神)に対してありえない。

だから、(私は)貴方を赦すという。

本当はあなたを赦すのではない。

ただ、あなた(罪の意識、自分の本質を隠している転倒妄想から)

解放するのだ。

赦さなければならないことは何もない。

あなたを解放することはできる。 だから、今、解放しよう。”

 

このことは とても、意味深いように思う。

なぜなら、私たちは神を傷つけることができないからだ。 

否、神が どんな状況下でも、”傷つく”ということはあり得ないからだ。

”傷つけられた”とか”怒った”という感情は神にはない。 

つまり、神は傷ついたり、破壊されることはないということだ。

だから、

どんなことがあっても 私は傷つかない”と 重ねて神はいう。

そして、傷つきえないものは人を傷つけることもできない~という。

”私は無礼だ、失敬だと機嫌を損ねたり、傷ついたり、損なわれたり

しない。

そんなことはあり得ない。

あなたも同じだ。ほかのすべての人もそうだ。 

ただ、あなた方はみな、自分が傷つけられ被害を受けたと思うから、

復讐しないではいられなくなる。

苦痛を経験するから、お返しとして人に苦痛を与えずにいられなくなる。”

 

苦痛を与えるだけではない。

相手は間違っていると”ジャッジ(判定)する”のが人の常だ。 

神は言う;

”あなたが、自分の言葉を守れば、多少は筋が通るかもしれない。 

あなた自身、何が正しいとか間違っているとか、考え方を始終変えている。

個人でも社会でも同じことだ。”

 

変わる。変化する。 人の心も世間の考えも。 

何が正しく何が間違いか、だれも真剣に検討できない。 

法律でさえ、変わる。 憲法も今変わろうとしている。

世の中の流れはそんなものだ。

神の言葉は、ある意味、”いい”加減だ。 ”いい”加減というのは、”良い”、

加減 である。

加えたり減らしたり、程よく、だれもが抵抗しないで耳を傾けるだけの 

融通性がある。

頑固にこれが真実だとか、これこそ、真理だとか、こう生きるべきだ 

とかは主張はない。

むしろ、一貫性がないように聞こえるかもしれない。

 

何をやってもよい、結局、あなたは私の家に帰ってくるのだから~と

私たちに、寛容性ある赦しに満ちた言葉を 神はここで投げかける。

神の掟(おきて)とか、神から罰せられるとか、こうせよ、ああせよとか、

これのみが真実であるとか、戒律とか、すべて人間が組織の中で、収める

ために、社会性を重んじるがゆえに決めたものなのかもしれない。

結局、私たちは本当のところ、本当に最後まで残る、あるべき姿 から

逃げるわけができない。

なぜって、今、私たちが奔放に自由に、夢中になっていることも、いつかは

消える泡のようなものだと、いうことなのだから。

貴方は私(神)で、私(神)はあなた、私たちは一体であり、分かれて

いるように見える指のようですが、手のひらで全部つながっているのです~

と言いながら、いつかそれに気づくのが あなた自身です~という、

神の行間の無言のつぶやきが聞こえるような気がする。

 

 

 

 

 

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私は偽善者です。

2017年03月16日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

 

はい、矛盾に満ちている心を、素直に認めます。 2017.3.16 

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はい、私は偽善者です。

スピリチュアルだとか、宗教だとか、

一元論だとか、とかくそんな知識と、聖なる"名句"を

知っています。


”真理”という言葉を聞くと、敏感に反応、

魂(アートマ)が振りむくのを自覚してます。


が、心の仕組みを知れば知るほど、自分のメンタルが弱いこと

に気づくのです。

実際の行動を見れば、

”わがまま勝手”と不評を買いがち、マイペースが基調です。

 

一方、他者に対しての同情はあります。 

が、自分の限界以上にはかかわりたくないという

保全の気持ちがどこかにあります。


みんなが幸せになれば良いと心から願っています。”

という名句に首を縦にふりつつ、心の中では、

”幸せの判断も結局は 手前味噌、何が幸せかわからない”

と考えているので、その実、その言葉に感銘が

わかないのです。


が、だれかの不幸を結構、冷静に分析したり批判したり

して 原因を探っているメンタルを自覚して、苦笑して

います。

 

皆が調和をもって協力し会っている善良なる組織の

メンバーたちにエールを送ります。


が、自分がその中に入ったら、きっと、調和を壊して

しまうのでは?という恐れを同時に感じたりします。

 

自分の過去の失敗の原因を結構、今でも苦々しく振り返って

反省したつもりでいます。 

が、きっと、同じ失敗をまた、いつかどこかで繰り返すこと

を知っています。

 

他者に対して、”偽善者”だとか、”裏表がある”とか、

”ええかっこしい”だけだとか言って、どこかで批判している

反面、


自分が 無意識に批判する対象と 同じような行動

をしているので 恥ずかしくなることがあります。

 

無執着になろうと言いながら、つまらない物や事柄に執着

しています。


恐怖をなくすと言いながら、突然理由なく、怖くなることが

あります。

そう、矛盾だらけ。わかっていることと、実行すること、普段

考える心と、真理を知っている心とは別のようです。


だから私は”この中で自分を偽善者と思う人は?”

と聞かれれば 挙手するでしょう。

”はい、私は偽善者です。”と。

 

でも、それでも、ぶれない、どんな時でも離したくない 

信念 があり(ました~過去形)(ます~現在形)、

(あるでしょう~未来形)。そのぶれないものとは、

自分の信念です。


それは誰もがの持つ、生まれながらの”生命力”への信頼です。

それはわたし(達)のものであって、私(達)だけのもの

ではありません。


それは、学校で受ける頭の知恵や 暗記し積み重ねられた

常識一般科学的知識を超えたものだからです。


その生命を、私は、とことん、知りたいし~感じたいし~

離れたくない~と願います。

 

とはいっても、ここでも、私は 偽善者です。

生命を、いまだに、真に理解していないくせに、

自然治癒力を強調してるからです。


生命を、ほんとうに理解したら?

そしたら、私は、きっと、死を恐れなくなるのでしょう。

そして、すべての人に同じ生命力を感じられるから、

他者との個別感や遊離感が少なくなるでしょう。


まあ、全般的に言えば、やはり、私は偽善者です。

矛盾だらけです。


それでよい”と賢者は言います。

そして私も、”それでよい”と 肯定することにしました。 


矛盾があるから、この世界の進歩が生まれるからですし、

そのために、矛盾をはらんだ二元的世界に生まれてきたの

ですから。


矛盾するものがお互い意識して、摩擦を生みながら、

プラスとマイナスという左右に引っ張る力を

利用して、この世は進化していくのだとも聞きました。

ドイツの哲学者のいう、アウフヘーベン というやつです。

 

でも、 矛盾は決して快くない、なぜなら、矛盾が偽善を

生むことがあるからです。


偽善と妥協はつきものです。

妥協を含んだ善をなして、自己満足に終わっている場合

が実に多い。 


はい、だから、私は、やっぱり、偽善者です。

偽善者でない達人と聖人とは 一握りの人たちの名称です。

そういう人たちが存在していることも事実です。

凡人は 多くは、 厳密には偽善者です。

 

だから、せめてお互い、理解しあいましょう。


せめて、その弱さは互いの共通点と認め、責め合うことは

やめましょう。


一方、偽善者でなければ、周りの、一般的偽善者たちの

社会から、はじかれてしまうのも事実でしょう。


例、”人様にいやな気持をさせてはいけない。” 

”常識と離れてはいけない。”

”心で怒っても顔で笑いながら、相手を不快にさせては

いけない。” 

そうしながら、自分の周りの人間関係が回っている

のですから、ある意味、”偽善は潤滑油”かもしれません。

 

でも、この偽善者である私が、一つだけ真に求めていた

ものがありました。


それは、”神”の存在でした。

天にまします神ではなく、自分に内在する 神 のことです。


神は 自分を導く先生を通して近づくことができると

インドで教わり、スピリチュアルな先生を探しました。


インドで何人かの聖者たちと巡り合い、イニシエーションを

受け、神への扉を開きました。


でも神は誰にでも、直観さえあれば、いつでも、だれでも、

どこでも感じることはできるのです。


しかし、私は、偽善者だから、偽善者でない 魂の師と神 

が必要なのです。


神は過去において、私の前に見えぬ姿を様々な姿に変え 

様々な手段で 出現してくれました。 


私は偽善者かもしれません。

でも、一つ信念を貫いてきていることがあるから、こうして、

皆様とお話ができます。


それは、対症療法の西洋医学の薬の服用だけは私の生命力

を枯渇しないために、どんなに体が虚弱な時でも

断固として拒否してきたことです。


副作用を持つ西洋医学の薬は、体全体の細胞の生命力の

働きを、ある意味、犠牲にするのですから。 

 

私は薬を否定しているのではなく、私の体が受け付けず、

心がそれでよいと認めているのです。


偽善者の私が譲れない、たった一つの道は、自分の生命を

維持する血液や細胞、神経や臓器にとって、生命力を発揮

できる場をつくること。 


彼らが最も心地よく、必要と欲する波動(物質ではなく)

を与えてあげること、をれを、追及することです。


だから、”自然治癒力”に対しては、私は、”裏表のない善人”

であり 達人であると自負します。


spontaneous healing therapy という協会の正式名称は、

”同時(自然)的治癒” という直訳です。


生命が100%発露すると、自然に症状が癒されるという

所以でつけられました


今すぐでも、私のアートマセラピーを所望する病の症状

で苦しんでいる人がいるのなら、自分の命を賭してでも、

その人の生命[アートマ)に焦点をあて始めるでしょう。

これまでも、そうしてきました。

 

ただし、それ例外の”私”は、メンタルの弱い自分であった

ことを認めます。

つまり、偽善者である自分を自覚します。


死ぬまで、自分自身の中でメンタルのその弱さと、

生命力への強い信念の間を行ったり来たり、対峙しながら

ある意味、闘っていくのでしょうね・・・・

 

 

おわり・・・・

 

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谷口雅春師の言葉~祈りの本質~ヴェーダのマントラ

2017年03月01日 | 健康と直結する”一元論”について

 

祈りから健康と幸福を

*******************************************2017・3.1


私は、以前書いたように、宗教は肯定するが、組織になった

宗教の中に入るのは抵抗感がある。

宗教組織には、神の心のほかに その組織を運営する人たちの

心が、多かれ少なかれ反映されているからだ。


ある朝、最近のことだが、私が瞑想しているとき、一つの

インスピレーションが来た。

それは、宗教を求めるのは、人が幸せを望むからだが、

その最も効果的方法として、祈り に凝縮されるということ

内容だった。 

それぞれの宗教に、それぞれの祈りの方法はあっても、

結局は、祈りとは、純粋な、自分の内にある心を、神という

宇宙的で普遍的な波動に、周波数を合わせることだろう。

どの宗教でも祈りはそれぞれの形式で、存在する。

が、どの宗教にも共通した、祈りの、最も大切な究極の目的は

俗世間の波動から、次元を超えた、純粋な聖なる波動に、心
を切り替えること、という。


人は、厳かな宗教儀式中に流れる、賛美歌や、バジャンや、笛

の音に心が、洗われ、その儀式進行中に神との距離が縮まって

いくような粛々とした厳かさに、心地良さと安らぎを感じる。

宗教儀式の最大公約数的な、どの宗教にも共通した目的は、

執り行われる祈りの中で、厳かな、そして、懐かしい、平穏な

情感で心を満たすにあるからだ。


が、儀式が終わり、その場をされば、人は職場や家庭での日常

に戻る。

そこでは、現実的な諸事に追いたてられて、”振り回され”

起きてから寝るまで、神との対話などするゆとりがないような

忙しく、せわしい生活が待っている。


だからこそ、礼拝会場で、祈りの場に身と心をゆだねることは、

週に一度であっても、意義深い。


続いて、インスピレーションとして心に響いた言葉は、

”本当の祈りというのは、本来単独な環境で行われるべき”と

いう言葉だった。

単独な環境の中で・・・、ちょうど、イエスがゲッセマネで

深い祈りをささげたときのように、弟子だちや民衆を遠ざけて

独り、父なる神と向き合い、コミュニケーションを行う、

そうした一対一の関係でおこなわれた、心からの祈りは 最も

神と近づく手段になるということだった。 


イスラム教の開祖、モハメッドは、後に、”コーラン”として

残される聖なる言葉を、天使に伝えられたのは、洞窟の中で

一人、祈りをささげていた時だった。

イスラム教は、毎週金曜日の聖なる日は、大勢でメッカの方向

を向き、一斉に頭(こうべ)を床につけ、集団礼拝を行う。 

私も経験しているが、大衆の中にありながらも、実際は、1対1

偶像なき、アラーの神と、偶像はなしに、メッカの方向を

向き祈ることで、単独の祈りが成立している。


なぜなら、同じ聖句を唱えるとしても、最後は個人個人、アッラー

祝福を求める言葉が異なるからだ。

何回か同じフレーズで決められた回数、土下座して、頭を垂れた

あと、最後の祈りは、それぞれの言葉で、’一対一’との神との

対話で、ぶつぶつ、口の中で反芻して、一連の礼拝が行われる。 


さて、谷口雅春師の言葉を、シリーズで数回にわたり、取り上げ、

皆様にご紹介しているが今日の言葉は祈りにちなんだ次の言葉だ。

 

生命(せいめい)の底ふかく念じる事、また唱える事(こと)

等(など)‥‥

全て良き祈りとなる==祈りと云(い)うのは生命(いのち)の宣言

(のりごと)である。

念じ、唱え、呟(つぶや)いていることは悉(ことごと)く「いのり」

(命宣り)である。

数分間、神社または祭壇でとなえることや黙念のみが祈り

ではないのである。

常に、間断(かんだん)なく、善(よ)き事を考えている者のみが、

善き事を来る様に、常に祈っている事になるのである。

不断(ふだん)の祈りが大切である。”

(谷口雅春著『新版 光明法語<道の巻>』より)

 

命の宣言、宣言を”のりごと”と、ここでは訓読みにしている。

いのち+のりごと で いのり という言霊ができた。

命とは私たちの生命であり、生きているために燃えている

エネルギーであり、そのエネルギーの力で 必要なものを

宣言(せんげん)することで、それを引き寄せること

ができる。

そのとき、’祈りがかなった’と人は言う。

神が人に ”よし、願っているものをあげよう”と願を叶えて

くれたというより、自分には、すべて願うものは与えられて

いるのだから、祈りの中に、自分の ”命ののりごと”を

発する力が強ければ、それを宇宙から引き寄せたというのが 

本当のところらしい。


そして、大事なことは、常に途切れることなく、良きこと、

明るいこと、を心に持つことが 最も強いプラスのエネルギー

を持った祈りになると、谷口師は教える。

 

一週間に一度、あるいは、一年に何度か、神社仏閣教会で

祈りをささげることは意味深い。

ならば、間断なく、常に、何をしていても、立っていても

座っていても、無言で、あるいはつぶやきながら、良き言霊

を唱え続けること、それは本当に効果のあることに違いない。

 

インドの聖者は、数千年かけて、ヨギの呼吸法を現代につなぎ、

そして、最高で最短のマントラ(真言)を伝えてきた。


皆さまにご紹介したい、その一つが、’ソーハム’である。 

この意味は ”私は神”という意味の、最高に短く、最強の

ヴァイヴレーションを持つマントラといわれる。


これを息を吸うときに そー、はくときに ハムと 言う。

人は、呼吸を継続していないときはないのだから、一息の

呼吸ごとに この祈りを同時におこなうことで、どのくらい

一日で、”私は神だ”と、唱えることになるのか計算してみて

いただきたい。

私は神、という究極のマントラ。

これも、善い言葉 を常に口にする、思う、という一つの

方法だろう。

 

 

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