自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

母の生きる意欲と、これまでの自然治癒力の開花した身体を信じて・・

2015年04月26日 | 介護と自然治癒力

看護婦長の心配をよそに、自宅に戻る母と迎える私の決意
2015・4・26
************************************




自分の中のインナーチャイルドと呼ばれる純粋な部分と
現在意識の中の恐れの表出部分。

それと宇宙意識につながる超越的直観が、バラバラに
切り裂かれたような奇妙なアンバランス感を、
母の全面的介護を通じて味わった。

そしてそれがとても苦しかった。

それは、私の中にある、自分への不信が、そして、母の認知症
から逃げたいという心持が、母を不安にさせているのだ・・

すべて身の回りに現れている環境も人の関係も、唯心所現で、
結局は、自分が造りだしている世界。

そう、私の中のアートマは現在意識に呼びかけていたし、
インナーチャイルドという私の幼児期までの天使の部分は、
育ててくれた母の自分への無償の愛を知ってた。

その愛はその後、どのようなことが
母との間にあっても変わるものでは
ないと思っていた。

ただ、現在意識が 認知症の母と、24時間向き合うと、
心身圧力疲労感に悲鳴をあげて、そうした内なる声を
認められない、

さりとて聞き捨てもできないという矛盾に自分が分裂していく
のを味わっていた。

デリーに休息に来ていた。

また、介護生活が日本で待っているのか・・・
デリーの滞在日数が残り少なくなって
くるほど、私は 母に向き合うということの責任が重く
のしかかってくるのを感じていた。

認知のスイッチが入れば、錯乱状態に陥って手のつけられない
ほどのヒステリーになる母にどう向かい合ったらよいのだろう。 

今までは 同居していなかったので逃げ場はあったが
もう今はない。

夜も眠れない母、一晩中 付き合えるのだろうか?
母の心に潜む、不気味な”妖気”が耐え難い・・・(アートマの声~
それは私の中に潜む不穏さの影・・・)


インドへ出発してから、夫と母の共同生活はどうにか8日間
持ちこたえていたが、母は再び転倒して大腿骨を
骨折してしまった。 

手術の緊急性があるとのことで、一か月を目途に整形病院
に入院したので、3月11日、私は、帰国して成田に着くと
その足で、すぐに病院へ様子を見に行った。


病室に入って母に挨拶。
驚いたことに、私を見る眼も、ぼーっとしていて、江戸っ子
気質のはきはきした、母特有のものの言い回しとは異なり、
久呂律(ろれつ)も回っていない。

久しぶりに会った私を見ても、
”喜代姉さん?”と 叔母に私を見間違うほど、記憶が渾然と
していた。

毎日見舞に行くことにした。
家族との接点を取ることが母にとって唯一の”自分を確かめられる”
場であると思ったから。
だが、私たちが帰った後、車いすに固定されていた
体で”家に帰る”と暴れて、椅子をひっくり返すほど、
手がつけられなくなったと聞いた。

そうした母の今後の対応ということで、看護婦長と帰国後早速、
話し合いが持たれた。

開口一番
”ヤスヨさん(私をそう呼びました)
にお聞きしたいのは、お母さんが退院
したあとどうしたいと考えているか?
そのプランです。

彦田さん位の症状の多くの家族の
方達は 特別老人介護施設や
グループホーム、私設の老人ホーム、
などを希望しています。

社会福祉制度もあるのでそちらか
援助を申し出ることも可能ですし。
そのプランが決まっていないと
病院側でも退院を安心して認める
ことができないので・・熟慮して
返答ください。”

そのお返事をするのに、一週間の猶予をいただいた。

私の内心はほぼ、固まっていた。(インナーチャイルド:’
自分を安心させてくれたようにお母さんにも、今こそ
安心感を持ってもらうことが大切…
施設に送ったら、それが満たされないでしょう?)

これまで、母は高血圧や何度かの骨折、風邪や気管支炎にも、
自然治癒力に任せて薬を取らずに、十分、生命力の
活路を発揮させて完治した。

認知症と診断され”要介護3”のレベルでも、”生きる”と
意欲は、盛んだった。

幸いに、主治医(精神科)のご理解もあり、特段の薬は
飲んでいない。

それだけに、母らしい自然の生体機能を施設に行き、そちらの
判断にお任せしながら、薬をとっていく方法で
壊したくないと思った。

ただ、自宅介護に踏み切るには、一つ、最大の物理的ネック
があった。

自宅が古いビルの3階にあり、エレベーターの装置がない。
はたして、階段を上るということは、母の体力と回復を見て、
あと2週間の入院生活で可能になるのかどうか?

階段を上り下りできないと、昼間のデーケアの施設利用は
不可能になり、朝から夜、深夜から早朝の長い時間帯
私一人で母に寄り添うことになる・・・が、不可能だと思った。


”母は、階段を登れるようになるでしょうか?” 
と、次のミーティングのとき、M課長に予測を伺った。

”階段を登る?!” と私の質問を繰り返して

”無理でしょう。大腿骨骨折したのですよ。
しかも3階までなんて!。私のヴィジョンに 彦田さんが
階段を上り下りする姿はありません。”

看護婦長は静かに明白に返答した。

しかし、私は思い出していた。
今年2月、母が胸骨を骨折したおり、腰が立たないのに、
トイレまで這いずるように行き、赤子を出産するときの
ような気合をかけて便座に乗りあがるため 必死にもがき、
気が付いたら、便座に腰かけ用を足していたことを。

あの時は 単なる胸骨骨折ではなく、脳震盪を起こしていた・・・
だから、口からよだれを垂らしていても、母自身、気がつかない
ほどだった。

その時でさえ、自然治癒力で胸骨の骨折跡も頭の神経も
正常に戻って行ったのだ。

あの時の気力を取り戻せれば、今回の大腿骨骨折とはいえ、
必ず 3階までの、階段を母は上り下りできるようになれる~
と・・・・
私は信じた。

1週間が過ぎ、私の自宅介護の決意をMさんに伝えた、
”母と実家で、同居します。”

看護婦長のMさんは、
”あんなに頭が混乱していてしかも体が不自由で・・・24時間
面倒みる?
大丈夫ですか?”
そして、問題の階段について。

”3階は無理だとしたらどうしますか?”

これがクリアーされないと、母は家に帰してもらえないと
感じた。
私は とっさに答えた。

”セラピー室が店の裏にありますので、そこで寝泊まりを
しばらくすることも可能です。

と苦し紛れの対応策を話した。

もちろん、一階の部屋に母を孤立させて介護する意思は
有りませんでした。母がおとなしく、店の裏の部屋
の寝具の上で寝るはずはない!とわかっていました。

ケアマネさんを含めて、大方の周りのケア関係の人たちは 
“これで 彦田さんも寝たきりになるかもしれない・・”と
予測していたと言います。

まだ”これから先、何が起こるかわからない”という不安
とともに、母に溌剌とした笑顔を取り戻してもらいたいと
いう一心(いっしん)でとにかく 日常生活に復帰するため
のスタートを、ともに、寄り添ってみようという想いは
強いものとなった。

不安の中に、理想を求め、理想の中に現実とのギャップ
を見つめる・・
理想の声に従ったものの、自分の心からの受け入れが
まだできていなかったかも
しれない。

続く












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留守中、夫から申し出てくれた母との介護生活

2015年04月23日 | 介護と自然治癒力

私がインドに行っている間に母は緊急手術入院  

2015・4・23

*****************************


私がインドに行く前、試験的に2日間夫は母と、

暮らしてくれましたが、母は何十回となく

私の居場所を 夫に聞いたということでした。


これは、試験的にケアマネさんの助言から、私が

不在でも 母と夫だけで生活できるか、という、

試験的試みの二日間でした。


インドに旅立つ前の1日半は、私はあえて、母と

離れていましたが、

夫に母は、ヤスヨはどこへ行ったの?

聞き続けていたと聞きました。

****

そしてインドに立つ数時間前の、深夜、

夫は初めて、母の今まで知られざる側面を

見ることになりました。


夫から迷う私に、

”自分が、お母さんに、付き添うから、最後の

インド旅行になると思うから、今回は、行って

いらっしゃい”

と言ってくれた夫も、その時の、初めて知る母の

行動で、明日からの’介護’の二文字の重さを知る

ことになったのです。


母は夫にいつもの通り、恭代はどこにいるのか

聞いたそうです。

 ”どこにいるの?” 

”このビルの中にいるの?” 

”え、そうなの?もうじき来るの?

(…数分後に、夫に対して)

この嘘つき!

来ないじゃない!”


そういうと、やおら、手当たり次第、夫めがけて、
傍に有るものを、投げつけ始めたそうです。

これにはさすがの夫も驚きました。


階下の部屋で、数時間後にインド出発の最後の、

旅の準備をしていた私に、夫からSOSの携帯メール

が入りました。


”お母さんがパニック状態だから、すぐ上に

上がってきて!!”

時計を見ると、夜10時過ぎでした。

母は、

”ヤスヨがいなくなる。”

そして

たぶん、私を避けている、もう帰ってこないかも

しれない”


という 思い込みが、このとき頂点に達していたの

でしょう。

とりあえず、母と夫のいる階上の部屋に上がり、
事情を説明した私でした。


翌朝、私が、インドに立った後も、

”ほんとうに帰ってくるの?”

”何故、手紙をよこさないの?”

”電話もないの?”

と、寄り添う夫に質問攻め。


私は、実際には、ほとんど毎日、日本時間の

夕食後の時間を見計らって 母に国際電話は

れてました。


夫は、母に言いました。

 ”昨日、インドから電話 あったじゃないですか・・”・

と、夫の決まりきった答え。

”え、そう?、…覚えていない。” と母。


こんな会話の繰り返しが 毎日あり、ケアから

帰ってきた直後から、深夜、寝るまで、続いた

あとに、最後は決まって母は怒り始めました。


”(娘が)家に帰ってきても、うちにいれない! 

もう親子の縁をきる!” 


とわめき、夫には グサリと胸に突き刺すような、

極め付きの言葉を浴びせたといいます。


”ここは私の家よ! あなたは乗っ取ろうと

しているんでしょ!

出て行ってちょうだい!!”・・


冷静に、それまで、母に対処している夫も、

この最後の言葉には、認知症という病気から

出ている言葉とはいえ、聞き捨てならず、

言い返す言葉もなく、・・・ただ傷つく思いだけ

だったと 後から語っていました。


母の、認知症の症状が全開すると、夜間は本当

に長いのです。

寝付くまでが、長いのです。


寝付いても、すぐ、目を覚まして、とりとめのない、

要求を始めました。


そして、母は肋骨を骨折したものの、歩行には

差し障りがありませんでしたから、どこへでも

ふらふらと、家の中を退屈になると、歩き始め、

カンガエもなく思いついたことを

思いついたときにする・・・

という塩梅で、夫も、寝る間もなく、神経が
高ぶる日が続きました。

夫は、母の行動に目が離せず、危ない行為に、
反対したり、注意すると、突然、母が、怒りだす
。。。の繰り返しで、とうとう、夫は不眠症
なりました。


私が帰国して、母を夜中、夫が、母を観る必要

なくなっても、夫の不眠症は後遺症のように

続いていました。


目を離せない・・・・それは、夕方5時から

翌朝9時、ケアに行くまで続きます。


ある深夜、母は、お茶を飲もうと台所に入り、

ガスコンロの火をつけ消し忘れ、朝まで

つけっ放しだったとか・・・


どんなに気をつけていても、ふっとした隙に、

そんな事が起こってしまうもの‥

火事にならずに良かったというものの

ますます、夫の緊張は高まっていきました。

 

或るときは 深夜、布団の中に母がいないので

家中探した夫。


母の姿がなく、徘徊が始まったのかと思いきや、

母は、寒い2月の夜気に当たりながら、テラス

に佇んでいたそうです。


粗相して、汚してしまった下着を脱いで、

干そうとしていたようだ・・・と夫は後で

回想していましたが、下半身 何も身に着けず、 

寒い中、ベランダで、立っている母を見て、

慌てて、介護用パンツとズボンをはかせてくれた

夫でした。


”何が起きるかわからない。”


こうした小さな事件を通して 夫の夜の緊張感は、

本当に、半端ではなかったと思います。

 

その日、夫の心身の疲れはマックス状態でした。

特に、デーケアのない日曜日は、母は夫に、一日中、

深夜を含めて、つじつまの合わない話を取り留め

なくして、夫に質問攻め、答えを聞いて、

その答えに腹をたて、いらついて、行動は ますます

不安定になっていくという悪循環でした。


母は、頻尿症状があり、15分に一度”トイレ”と

言われ、外に連れ出して気を紛らわせてあげたくても、

男性の夫は、女性用トイレには一緒に入れないので、

母と、自宅に籠ることが多かったようでした。 


一度は、間に合わず、母を男性用トイレに、連れて
行ったと、話していました。

 

ところが、こうした最中、事件が起きました。

母の転倒です。


転倒前日の深夜も、玄関の鍵がかかっているかどうか、

心配になった母は、ふらふらと寝室から出て、

玄関の段差に躓いて頭をどこかに強く、打ち付けた

というのです。


そして、その翌日の夜 もっと、大きな転倒を

しました。

お腹がすいたという母に、夫が台所に立ち、

背中を母に向けている その間のことでした。


その少しの間に、母は転びました。

そして、大腿骨を骨折、手術を要する入院となった

転倒~もしかしたら、脳卒中?脳梗塞?の可能性も

あるという状況でした

お茶をいれに台所に立ったその矢先、ドスン

という音がして母が倒れていました。


それは、私がインドに行って留守中の、

夫と母との共同生活9日めの晩でした。


 母は 転倒し、病院に運ばれ 入院の運びと

なりました。

奇しくも2月、救急車で胸骨が折れたときに

運ばれたときと同じ病院でした。


手術もあり、一ヶ月は入院生活になると思う

と医師に言われ、夫は私に、電話で

正直お母さんに悪いけど、自分の心身が少し

解放されてほっとした

と本音を漏らしました。


その知らせをデリーで受けた私も 母の骨折は

ショックでしたが、夫の気持ちを考えると、

無情にも、夫の気持ちに、同感でした。

 

 

 

 

 

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ヒマラヤに行ってる間に母は骨折

2015年04月20日 | 介護と自然治癒力

ババジの洞窟へ行く・・               2015・4・20

*********************************

前置き)

勿論、まだ 現在進行形で 結果は出ていないのかも

しれません。

母の認知症と全面的に向き合ってひと月。


その間、私を救ってくれた言葉が

”有難う”

”愛しています”・・・


唯心所現という仏教の真理をご紹介して

いながら自分で実践できなければ

ただの、”絵に描いた餅”・・


自分の心を整理して見つめ直して、

やっと一つの山場を過ぎる事ができました。


夫には感謝してもしつくせません。


何故 母の介護を 引き受けてくれたの?

インドに立つ前に聞くと

”この階段を登らなければ次のステップに

行けないと自分の魂が言っているから。。。 


お母さんのためのようで自分のためかもしれない。”


”たった、2週間限定だからできるんだよ。”


この言葉を聞いて、私は、夫に母を任せることは

大丈夫と何となく納得できました。

 

それから起こったいろいろな事、

心の流れと惑いや憂鬱と心配、


私は実のところ、胸骨を骨折して

町田の自宅で母を介護していた20日間の疲労

がたまっていたのか、デリー到着後、1週間は

自宅の部屋でごろごろして 何も行動を起こす

気力がありませんでした。


どこにも行かず、印度人の親友たちにも

連絡せず、とにかくぼーっと過ごしていました。


サントシさんは、私がインド生活をしていた

頃からのお手伝いさんですが、私が帰印した

ときは、毎日 世話に来てくれています。

 

一日目、デリーに着いた私を見て、


どうしたのですか?

げっそり痩せて、すっかり頬がこけて、

やつれてしまって・・・”

痛々しそうに私を見つめるほど、弱っていた

ようです。

 

今回の目的は休養・・・でもただ、一つ 

ありました。


ヒマラヤのふもと、そう、ババジが クリヤヨガ

を現代に広めようとして 

前世の弟子だったラヒリマハサヤ師

に声をかけ 呼び止め、案内した、

あの洞窟にぜひ、今回 行ってみたかった

のです。


その洞窟で 前世で、マハサヤ師は 師匠

だったババジと共に瞑想し、

修行した所でした。


今世で 市井の社会人として結婚し

働いていた、マハサヤ師は。すっかり

その過去を忘れていましたが、ババジが

眼前に現れて、すべてを思い出したと
言います。


ババジは 当時、ヒマラヤを散策していて

いた、マハサヤ師を呼び止め

二人が前世で、ともに生活していた、洞窟に

案内します。

 

そこで、自分が、過去生で使っていた毛布を

見たとき、突然、自分の前世を想いだした

マハサヤ師に、ババジは、

この愛弟子の最後のカルマをとるために、

この場所に マハサヤ師を呼んだのだと

告げました。


マハサヤ師をヒマラヤから流れる

冷たい川の水に数時間浸るように命じて

心身を浄化させました。


そして、マハサヤ師の最後の欲望、

宮殿の中を観てみたい、というカルマ満たし、

放つためにババジは、あの、“幻の宮殿”を

その洞窟あたりにエーテル化させて現実化

させたのでした。

 

さらに、これからの時代、クリヤヨガを、

一般のレベルの人達に伝える使命

を、マハサヤ師にこの洞窟で告げるの

です。


今度 デリーに行ったらそこへ行こうと 

密かに願っていました。

 

 

着いた2月下旬から滞在中の3月上旬、

デリーは異常気象でした。


雹(ひょう)が降るほど寒かったり、

雨季ではないのに、スコールのような

雨が降ったり、おかげで私の部屋の

窓わくから雨水がしみこみ小さな

滝のように、壁一面から水が流れ、ベッドの

下まで洪水後のように水が溜まってしまった

ほどでした。


3月6日には 初夏を迎える 春の祭典 

ホーリーが始まるというのに、ぐずついた日が

続いていました。

 

サントシさんに 到着して

数日後、この、洞窟行のプランを伝えました。

すると、信仰には厚い彼女は、すぐ、興味を

持ってくれました。


女性一人では泊まれないアシュラム

に、宿泊を予定していたので、一緒

に行く人も見つけなければなりません。


ヒマラヤに行くのには、信頼おけるハイヤー

の車の調達も必要です。

 

体調も悪く、状態が整っていないまま、

予定がたたないまま、時間だけが過ぎて

行きました。


3月2日朝4時ごろでしたが、この時期に

似合わない、蚊のチーンという、

耳沢襟な音で目がさめました。


そして、何故か、“明日たとう。”と 決めました。


その朝、仕事に来たサントシさんに

“明日行きたいのだけど一緒にどう?”

と聞くと、“主人と家族に相談して・・”

と 帰宅。

其の後、“OK”の返事をもらい、

即座に、車を手配して、翌日朝5時にデリーを

出発しました。

 

4月3日 大雨の早朝4時半、

10時間以上かけて 車を走らせ、

目的地に到着しました。


アシュラムがその洞窟から車で

1時間ほどの距離にあり、

そこで泊まることにしました。


今まで幾度となく宿泊している

外国での宿泊施設には、必ず

パスポートの提示が必要という

常識が 慌てて準備を整える中、

なぜか頭から抜けていました。

 

当然、現地では、“パスポートが

なければ宿泊できません。” と宿泊を

拒否されました。


“なぜ持ってこなかったのですか?”

私も、何故だろう? といぶかしく思いました。


たぶん、このアシュラム自体が

私にとって、外国にある宿泊施設という観念が

なかったからでしょう。

ホテルの予約もしておらず、

道中、ハイヤーの中で、到着数時間前

アシュラムに、電話して 

“今晩、泊まれますか?”と聞く

ほどの無茶ブリでした。

 

むしろ、ババジの招待であの洞窟に行ける

のだから、

泊まれない道理がないと心の奥底で確信

していたとしか言いようがありません。

 

結局、デリーの息子に電話して、自宅に

おいてきたパスポートの顔写真部分を

PDFでそのアシュラムのパソコンに

送ってもらい、この問題は解決しました。


翌日はカラッと晴れて 

ハイヤーで1時間ほど徒歩で

さらに1時間かけてババジの

洞くつを訪れることができました。


誰もおらず、神秘的な時間を

超越した空間で一人静かな時間

を過ごしました。

 

そういえば、一昨年もこの時期

はインドのガンジス川のアシュラムに

いました。


忘れもしない、4月1日、その時は

日本に残してきた、愛犬のチュチュ

が、突然、心臓発作でなくなりました。


しかも、私がいた場所は、携帯電話で

連絡できない場所でしたので、チュチュの逝去

を知ったのは数日後でした。


今回も4月3日 ヒマラヤに着いた

その日、母が夜11時に転び 、大腿骨骨折

して、翌朝、病院に運ばれていることを知る由も

ありませんでした。


宿泊先になっている、このアシュラムでは

瞑想や共同活動時間は

携帯電話を切っていました。


母の入院・手術のことは、デリーへの帰路

ハイヤーの中で4月5日に知りました。

後から聞くと、毎晩、母は夫を深夜、何度も、

起こしていたそうです。


その夜も “おなかがすいたからラーメンつくる”と、

母が台所に立とうとしたので

夫が慌てて “ころびますよ。僕ば冷蔵庫を

調べてみます。”

と体を起こして立ち上がり、台所の冷蔵庫を

開けようと、母に背中を見せたとき、


後ろでドスンという音がして、

母が転倒していたそうです。

 

頭を打った様子もなく、そのまま 布団に

寝かせたら寝てしまったということで

命に特別の危険がないと判断。


翌朝 妹が来て、救急車を呼び、病院へ

運んだということでした。

続く・・・・

 

 

 

 

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母を救急車で‥1人にはしておけないと感じた節目

2015年04月17日 | 介護と自然治癒力

 私が留守中 夫が母の介護を決心した意図   

2015・4・17



*****************************************

ただ今 母のために、開けた”茶の香取屋”は

休業中です。

今週 火曜日から秀真輪読会 と 

アートマセラピー施術は始まりましたが

お茶屋さんはいつ再開店できるか・・・?


茶の香取やを休業しているのは、母が倒れて

店に出れなくなり

もともと母の精神的リハビリになるという、

励みもあって開けていたので、その開けておく

理由がなくなってしまったからです。


去年11月、サロンを初めて2か月過ぎ

軌道に乗ってきた2月上旬。

ちょうど 結びの会 のワークショップ当日、

2月7日土曜日の朝のことでした。


自宅から、今日の会の準備もあり早めに、

母の住む彦田ビルへ着きました。


店を開ける11時前に、母に昼食を届けに

上階の母の部屋を尋ねました。


呼びかけても返事がなく、中に入ると、足の

踏み場のない散らかった部屋に母が倒れて

いました。


認知症になって 以前は几帳面だった母の

8畳の部屋は数年前のチラシ広告、汚れた下着、

裁縫箱 トイレットペーパーのはしくず、など

が散乱して足の踏み場がないほど。


掘りごたつの中には、乾いたゴキブリの死骸も

見つかるほどの 汚れの凄惨さ。


週2度 ケアマネさんのご紹介で

ホームヘルパーさんが掃除に来て

くれるものの、母の部屋には、彼女も

入ることは許されませんでした。

だから、誰も、母の部屋の物を片づけることが

できなかったのです。


その理由は、好意で片づければ、

‘~が無くなった、盗まれた’と大騒ぎされて

犯人扱いされ、

派遣先に抗議の電話を 連日かけ続けるの

が常でしたので・・・

 

それは娘の私とて同じでした。


或るとき、散らかしてあるテーブル、

母の字でノートの切れ端に

走り書きがありました。


“ヤスヨの魂胆(こんたん)がわかった。

私を町田の自宅に呼んでくれるのも

いない間にここにきて、物色するためだった・・ “ 

と書かれていました。

それを見た私は愕然としました。


一人は寂しい、こうして、一緒にいられて、

有り難い・有り難い” 

と私の前ではよく口にしていた母が書いた

言葉とは、信じられませんでした。


喜んでくれるのが嬉しくて、私の自宅で

食事したり、父の墓参りに出かけたり

週に一度は車で自宅にきて、一緒に過ごす時の 

嬉しそうな笑顔が思い出されました。


でも、そのメモの筆跡は確かに、母の字でした。


そのメモを読んだときに、

“所詮病気だから” と納得することもできず、

母の本心はどこにあるのだろう?~と

いう疑問とともに、

母の部屋との関わり合いをもたないよう

にしようという心境にさせられました。

 

このような調子でしたから、ホームヘルパー

さんは 数年の間に何人も変わりました。


綺麗に片づければ、それが見つからないときに、

“あなたは、物を取った”と糾弾(きゅうだん)

され、頭ごなしに怒鳴られて、母のヘルパー

を拒否する方たちが続出したためです


今のヘルパーさんも前任者達の話を聞いて、

母の部屋に足を踏み入れることを躊躇して

ました。


そういうわけで、普段は、母の家に

上がることもなければ”泥棒”扱いにされる機会

も少なかろうと、いつも、玄関先で私は、

母と応対していました。


2月7日朝、この日は、玄関先で声掛けしても

返答なく、

不思議に思い母の部屋を覗いたら

痛い!痛い~”とうめきながら 母は、畳の上で、

うつ伏せになっていました。

 

下半身は何も身に着けておらず、そばには、

母の糞尿が寝具や畳を汚していました。


起こそうとしたとき、気持ち悪い、吐き気がする”

といって、母は、吐きました。


とっさに”これは危険だ!頭を打った可能性がある

と思い、救急車を呼びました。

 

10分足らずでかけつけてくれた救急隊員は 

意識があるか、おばあちゃん!”


と耳元で聞き、うなずく母にほっとした様子で、

受け入れ先の救急病院を探してくれました。


吐いたという事実はあまり重要視されず、

胸骨が痛む様子でしたので、O整形病院に

運ばれました。


そこでの検査では 胸骨2本骨折、医師の

判断では

自然につくのを待つしかないですね”ということ。


“吐いたのですが、大丈夫ですか?”

と私が不穏に想い打診すると、

“もし、また吐くようでしたら、脳神経科のある

病院で見てもらってください。

ここではないので、とりあえずご帰宅願いたい” 

との返事。

 

 かくして、家に帰ろうと病院を出たところで 

母は、大量の体液(黄色い胆汁のような)を

吐いたため、再び、救急車で

脳神経科のある総合病院に、運ばれました。


検査結果は

特に血栓のつまりもなく、MRIを見る限りは 

支障はないようです。” と医師。


“でも、なぜ、吐いたか調べた方が良いので

内科のある病院の紹介状を書きましょう”

と この日、三回目の救急車が用意されました。


 三度目の病院では徹底的に内科の検査、それも

2度にわたり 血液検査と精密検査を受けた

母の結果は 

“すべて内臓の働きは良好です。問題ありません。”


と言われましたが、移動が続き、休みなしで、

肋骨が折れている衰弱している母を 

“一日だけ入院させてもらえたら” という

こちらの要望を伝えると、理由を聴かれました。


この状況では、母の自宅までの三階という、

階段は登れないからと答えると、


“歩けない? 家の外階段を登れないから・・? 

でしたら、どこか近場のホテルでも探してください。

ここは緊急病院ですので次の方が詰まって

いますので・・” 


ということで帰宅。おぶることはできませんでした

で、母の気丈夫さで、何とか 三階まで

上がることができました。


そ朝から夜11時まで食べず飲まずの 

しかも、

ふらついて腰の定まらない、胸骨骨折の母を

何とか、3階の自宅(外階段)まで支えて

登らせることができたのは、母の生命力と

見えない守護の力の賜物だった

かもしれません。

 

当然、母は一人での生活は無理なうえに、

これまでのように デーサービスを

受けられる状況でもなく


”ともに住み介護する”ことにして、

回復を待ちました。


脳神経科検査のデータでは”何も問題はない”

ということ


でも、その晩から、よだれがでてきている

のに気づきました。

口も、ややへの字に曲がり、脳梗塞をした

後のように、足の運びが力が抜けてもつれる

状況。 


移動には車いすが必需でした。 

そういえば、3年前にS国立病院の脳外科

でMRIをとってもらったときは脳血栓が

見られ、

いつ、クモマッカや脳梗塞に

なってもおかしくない状況


言われたのを思い出しました。

 

ですので、今回 その血栓が破れたのでは

ないかと推測しました。


“胸骨骨折”の際、ただの転倒ではなく、軽い

脳梗塞を起こしたのではないかと・・・。

 

自宅では セラピーを行い、2週間後には

町田から相模原のデーサービスまで車で、

通えるようになるまで体力が回復しました。


ただ、夜間、頻尿が続き、30分に一度

トイレに行く状態。


こちらも寝ることがままならず、付き添いが

必要なので、不眠が続き、体に応えました。

 

さらに、娘が物色しに私(母)の家に

行っているという”妄想”が抜けきらず、

私の姿が見えないと、

“ヤスヨは相模原に行っているんでしょ。”

と夫に聞き、

”コートもなくなってしまったし。” 

の質問が数分に一度口から出る状態。


夫は、”コートは相模原にありますよ。

ヤスヨは今~しているから相模原に行って

いません。“

と何度も、答えるという会話が、

繰り返されました。

 

さて、私は、2月下旬からインドへ行く予定

になっていたので、

母の介護が必要ならその切符を、キャンセル

する覚悟はありました。


夫に相談すると

“今、行かないとまたいついけるか、わからない

だろうから・・・

2週間なら、御母さんをデーサービスに

朝送って、夕方帰ってきたら

外から弁当でも買って、一緒に食べるから

行ってらっしゃい”


と 快く介護を引き受けてくれましたが、

不安は残りました。


ケアマネさんにその話を伝えると、

“え? 本当にご主人一人で大丈夫ですか?”と 

危ぶまれ、夫とケアマネさんの事務所で

この件につき話し合いをしました。


その結果、従来通り、ケアには相模原から

送迎をしていただき、

日曜日を除く毎日、朝9時から夕方5時まで、

お世話になること。

朝と夜間は夫が家にいて、母とともに住むこと。

ということになりました。

 

“奥さんが行かれる2日前ぐらいから、

ご主人一人でとりあえず、御母さんと

ご一緒してみてください。

もし、難しければ、奥さんが日本にいなく

なってでは 大変ですので・・”


と ケアマネさんに提案されて、

同意してくれた夫でした。

 続く___


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アレキサンダー大王に説教したヨギ

2015年04月14日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

インドは征服できず、一人のヨギに心を征服させられた大王      2015・4.14

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インド古代の偉大な王として知られる、アショカ王と祖父、

チャンドラグプタ大王は、後世に名をとどめている。

ヨガナンダ師は”あるヨギの自叙伝”の中で、南インドに

訪問した際 王たちの石碑に訪れ、次のような感想を述べている。

 

“アレキサンダー大王のインド遠征には、ギリシャの歴史家や学

者たちが一緒に着いてきたが、彼らによって、多くの興味ある物語

が詳細に記録されている。


J・W・マクリンドルによって訳されたアリアン、ディオドロス、

ブルタータ、地理学者・ストラボ等による物語は、古代のインドに

一条の光を投ずるものである。


インド侵攻に失敗したアレキサンダー大王の最も称賛すべき業績は、

彼はインドの哲学やヨギや聖者たちに深い関心を寄せ、時折、

彼らを招いて熱心に交流を求めたことである。


王の軍隊が北部インドのタキシラに到着したとき、王はタキシラの

偉大な行者ダンダミスを呼び寄せようとして、ディオゲネス学派

の弟子であるオネシクリトスを使いにやった“

 

そしてそのヨギ ダンダミスに、に大王の使いは言う。

“偉大なるゼウスの御子にして、天下万民の支配者である

アレキサンダー大王の呼びかけに応じなければ、お前の首はない”

 

すると、この偉大な行者は、次のように答えたと言う;

“アレキサンダーがゼウスの息子ならば、私も同じゼウスの

息子である。

帰って大王に伝えたまえ。

至高の王である神は、不遜な悪の創始者ではなく、光の創造者

であり、生命や水や人間の心身の創造者でもある。


神は殺戮を憎み、闘いを仕掛けるようなことは決してなさらぬ。

早晩、死ぬ身のアレキサンダーは決して神ではない。


自分の内なる国土の支配者(須田注:心身の支配者)にも

なれない男が、どうして世界の支配者になれるだろう。


彼はまだ、行きながらに黄泉(よみ)の国へ行ったことも

ないし、この地球の息を遥かに超えた、あの大空の太陽の軌道

に着いても何も知らない“

 

さらに続けて

“わたしにとって、必要で真に価値あるものは、雨露をしのいで

くれる木々と、日々の食糧を提供してくれる草木と、喉の渇き

をいやしてくれる水だけだ。


凡人たちが後生大事に蓄えている、財産等というものは、

悩みや悲しみを引き起こすだけで、結局は実の破滅を

招くのがおちだ。

 

ただ私は、森の落ち葉を褥とし、見張りをすべき何物も

持たないから、いつでも安心して眠ることができる。


もし私が何か人の欲しがるようなものを持っていたら、

それなりの用心もしなければならない。


たとえアレキサンダーが、私の首をきったとしても、私の魂まで

殺すことはできない。


私の首はもはや悪態をつくこともなく、体はちぎれた頃ものように

地上に残るだろうが、私の実体はそこにはない。

私は霊となって、神のみもとは昇って行く。

 

アレキサンダーはせいぜい、富を求め、師を恐れる連中を

あのような脅しで脅迫するがよかろう。


たが、われわれバラモンに対しては、彼の武器な何の役にも

立たないと思え。

我々は金も要らなければ、死も怖くない。

だから、大王にこう伝えるがよい。


もし、あなたのほうで何かダンダミスから欲しいものがあるのなら、

あなたが彼の元へ足を運びなさいと。“

 

当時アレキサンダー大王は最北部において、マケドニア軍から

頑強な反撃をくらい、これ以上の進撃を辞めるべきだと言う

内部の声が出始めていた。


インドの行者は、それを知ってか知らずか次のような言葉を

最後に使者に投げかけた。


“もし、大王が、今の領土ではどうしても不足だというのなら、

さっさとガンジス川を渡ったらよいだろう。

そこには彼の家来たちを養うのに十分な土地があるのだから。”

 

この対話の仔細は、すぐにアレキサンダー大王に伝えられた。


王はますます、ダンダミスに会いたいという願いを強くした。

何も武器を持たない老人、しかし、世界を制覇しようとしている

大王に屈するどころか、恐れさえいだいていない賢者に

ぜひ会いたいと思ったのだ。


そこで、彼のところに赴こうとしないこの賢者の代わりに、

バラモンの行者たちを招き問答を試みようとした。

 

ヨガナンダ師の言葉では以下のようにこの状況が語られている。


アレキサンダーは、哲学上の質問に対して、吉に富んだ答え

をすることで評判のバラモンの行者たちを、大勢、タキシラに

招いた。


この時の問答の模様を、ブルタータは次のように記している。

問題を造ったのはアレキサンダー自身である。


①    生者と死者はどちらがその数が多いか?

~ 答え)生者である。なんとなれば死者は存在しないから


②    動物は海と陸とどちらに多くいるか?

~答え)陸である。なんとなれば、海は陸の一部だから。


③    野獣の中で最も賢いものは?

~答え)それは人間にまだ知られていないもの、なぜならば、

人間は未知な存在を最も恐れるから。


④    昼と夜とちらが先にあったのか?

~答え)昼が一日先である。

(この答えにはさすがにアレキサンダーも驚いた顔を見せた。

バラモンは平然と言葉を付け加えた)

~不可解な問いには不可解な答えが必要である。


⑤    人に愛されるためにどうすれば一番良いか?

~答え)偉大な力を持っていても、人に恐れを抱かせないものは

愛される。


⑥    人間はどうしたら神になれるか?

~答え)人間のできない事をすることによって


⑦    生と死とどちらが強いか?

~答え)生。なんとなれば、生は多くの悪を生み出すから。

 

こうして大王は行者たちと接する機会を得て、最終的に一人の

ヨギを師と認めることができた。


そのヨギの名前はカルヤーナと呼ばれ、印度ガンジス川を

超えずに、ペルシャに、その闘いの矛先を向けた大王とともに

ペルシャに渡った。


優れたヨギは自分の命の尽きる時を知る。

カルヤーナも、例外ではなく、自ら肉体を離れる時を予言し、

その日にマケドニア軍の面前で火葬用の薪を燃やした。


そして平然とその中に座ると、運命のままに、老いた体を

燃やし尽くしていった。

身動きせず、恐怖や苦痛を見せず炎の中で生身の肉体を

火葬している様子は、アレキサンダー大王や多くの回りで

様子をみる外国人には、印象的だったようだ。


カルヤーナは火葬される前にアレキサンダーに こう告げた。

“あなたにはやがて、バビロンでお目にかかりましょう。”

 

これは予言となる。

大王はペルシャを引き上げて、一年後にバビロンで命尽きる

ことをヨギは知っていたのだろうか。

その言葉どおりに、一年後、バビロンで肉体を脱いだ大王の魂が、

師であるカルヤーナと再会するであろうことをこのとき、

カルヤーナは知っていたのに違いない。

 

 

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