私がインドに行っている間に母は緊急手術入院
2015・4・23
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私がインドに行く前、試験的に2日間夫は母と、暮らして
くれましたが、母は何十回となく私の居場所を 夫に
聞いたということでした。
これは、試験的にケアマネさんの助言から、私が不在でも
母と夫が生活できるか、という、試験的試みでした。
インドに旅立つ前の1日半は、私はあえて、母と離れていましたが、
夫に母は、ヤスヨはどこへ行ったの?と聞き続けていた様子でした
****
そしてインドに立つ数時間前の、深夜、
夫は初めて、母の今まで知られざる側面を見ることになりました。
夫、自ら、”お母さんに、付き添うから、最後のインド旅行に
なると思うから、今回は、行っていらっしゃい”と言ってくれた
夫も、その母の行動で、明日からの’介護’の二文字の重さを知る
ことになったのです。
母は夫にいつもの通り、恭代はどこにいるのか聞きました。
”どこにいるの?”
”このビルの中にいるの?”
”え、そうなの?もうじき来るの?(…数分後に、夫に対して)
この嘘つき!来ないじゃない!”
投げつけ始めたそうです。
これにはさすがの夫も驚きました。
階下の部屋で、数時間後に出発の最後の、旅の準備をしていた私に、
夫から携帯メールが入りました。
”お母さんがパニック状態だから、すぐ上に上がってきて!!”
時計を見ると、夜10時過ぎでした。
”ヤスヨがいなくなる。”
そして
”たぶん、私を避けている、もう帰ってこないかもしれない”
という 母の、不安と、思い込みが、このとき頂点に達していたの
でしょう。
翌朝、私が、インドに立った後も、
”ほんとうに帰ってくるの?”
”何故、手紙をよこさないの?”
”電話もないの?”と、寄り添う夫に質問攻め。
私は、実際には、ほとんど毎日、日本時間の夕食後を見計らって
国際電話はいれてました。夫は、母に言いました。
”昨日、インドから電話 あったじゃないですか・・”・
と夫の決まりきった答え。
”え、そう?、…覚えていない。” と母。
こんな会話の繰り返しが ケアから帰ってきた直後
から、深夜、寝るまで、続いたあとに、最後は決まって
母は怒り始めるのです。
”(娘が)家に帰ってきても、うちにいれない!
もう親子の縁をきる!” とわめき、夫には グサリと
胸に突き刺すような、極め付きの言葉を浴びせたといいます。
”ここは私の家よ! あなたは乗っ取ろうとしているんでしょ!
出て行ってちょうだい!!”・・
冷静に、それまで、母に対処している夫も、この最後の言葉
には、認知症という病気から出ているとはいえ、聞き捨てならず、
言い返す言葉もなく、・・・ただ傷つく思いだったと言います。
母の、認知症の症状が全開すると、夜間は本当に長いのです。
寝付くまでが、長いのです。
寝付いても、すぐ、目を覚まして、要求を始めました。
そして、母は肋骨を骨折したものの、歩行には差し障りがありません
でしたから、どこへでもふらふらと、家の中を退屈になると、
歩き始め、カンガエもなく思いついたことを思いついたときにする・・・
すると、突然、怒りだす。。。の繰り返し。
とうとう、夫は不眠症になりました。
私が帰国して、母を夜中、夫が、観る必要がなくなっても夫の
不眠症は後遺症のように続いていました。
目を離せない・・・・それは、夕方5時から翌朝9時、ケアに
行くまで続きます。
ある深夜、母は、お茶を飲もうと台所に入り、ガスコンロの火
をつけ消し忘れ、朝までつけっ放しだったとか・・・
どんなに気をつけていても、ふっとした隙に、そんな事が
起こってしまうもの‥火事にならずに良かったというものの
ますます、夫の緊張は高まっていきました。
或るときは 深夜、布団の中に母がいないので家中探した夫。
母の姿がなく、徘徊が始まったのかと思いきや、母は、寒い
2月の夜気に当たりながら、テラスに佇んでいたそうです。
粗相して、汚してしまった下着を脱いで、干そうとしていた
ようだ・・・と夫は言っていましたが、下半身 何も身に着けず、
寒い中、ベランダで、立っている母を見て、慌てて、介護用パンツ
とズボンをはかせた夫でした。
”何が起きるかわからない。”こうした小さな事件を通して
夫の夜の緊張感は、本当に、半端ではなかったと思います。
夫の心身の疲れはマックス状態でした。
特に、デーケアのない日曜日は、母は夫に、一日中、深夜を含めて
つじつまの合わない話を取り留めなくして、夫に質問をし、
その答えに腹をたて、いらついて、行動も不安定になっていく
母は、頻尿症状があり、15分に一度”トイレ”と言われ、外に
連れ出して気を紛らわせてあげたくても、トイレには一緒に
入れないので、母と、自宅に籠ることが多かったようでした。
ところが、こうした最中、事件が起きました。
母の転倒です。
転倒前日の深夜も、玄関の鍵がかかっているかどうか、心配
になった母は、ふらふらと寝室から出て、玄関の段差に躓いて
頭をどこかに強く、打ち付けたというのです。
そして、その翌日の夜 もっと、大きな転倒をしました。
お腹がすいたという母に、夫が台所に、たって、背中を母に向けている
その少しの間に、母は転びました。
そして、大腿骨を骨折、手術を要する入院となった転倒~もしかしたら、
脳卒中?脳梗塞?の可能性もあるという状況で~を起こしたの
でした。
“ねえ、一緒にお茶を飲みましょう。
一人じゃ寂しいからここに来てちょうだい”
夫は眠気の中、母の要求に応えようとしたのでしょう。
お茶をいれに台所に立ったその矢先、ドスンという音がして
母が倒れていました。
それは、夫が母との共同生活9日めの晩でした。
母は 転倒し、病院に運ばれ 入院の運びとなりました。
奇しくも2月、救急車で胸骨が折れたときに運ばれたときと同じ
病院でした。
手術もあり、一ヶ月は入院生活になると思うと医師に言われ、
夫は“正直お母さんに悪いけど、自分の心身が少し解放されて
ほっとした”と本音を漏らしました。
その知らせをデリーで受けた私も 母の骨折はショックで
したが、夫の気持ちを考えると、同感でした。
ババジの洞窟へ行く・・ 2015・4・20
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前置き)
勿論、まだ 現在進行形で
結果は出ていないのかも
しれません。
母の認知症と全面的に
向き合ってひと月。
その間、私を救ってくれた
言葉が”有難う””愛しています”・・・
唯心所現という仏教の真理を
ご紹介していながら自分で
実践できなければ絵に描いた餅・・
自分の心を整理して見つめ直して、
やっと一つの山場を過ぎる事が
できました。
夫には感謝してもしつくせません。
何故 母の介護を 引き受けてくれたの?
インドに立つ前に聞くと
”この階段を登らなければ次の
ステップに行けないと自分の魂が
言っているから。。。
お母さんのためのようで自分の
ためかもしれない。”
”たった、2週間限定だから
できるんだよ。”
この言葉で夫に母を任せることは
大丈夫と何となく納得できました。
それから起こったいろいろな事、
心の流れと惑いや憂鬱と心配、
私は実のところ、胸骨を骨折して
町田の自宅で母を介護していた
20日間の疲労がたまっていた
のか、デリー到着後、1週間は
自宅の部屋でごろごろして
いました。
どこにも行かず、印度人の親友
たちにも連絡せず、とにかく
ぼーっと過ごしていました。
サントシさんは私がインド生活
をしていた頃からのお手伝い
さんですが、私が帰印したときは、
毎日世話に来てくれています。
一日目、デリーに着いた私を見て、
“どうしたのですか?げっそり痩せて、
すっかり頬がこけて、やつれてしまって
・・・”と痛々しそうに私を見つめ
ました。
今回の目的は休養・・・でもただ、
一つ ありました。
ヒマラヤのふもと、そう、ババジが
クリヤヨガを現代に広めようとして
前世の弟子だったラヒリマハサヤ師
に声をかけ 呼び止め、案内した、
あの洞窟にぜひ、今回 行って
みたかったのです。
その洞窟で 前世で、マハサヤ師は
師匠だったババジと共に瞑想し、
修行した所でした。
今世で 市井の社会人として結婚し
働いていた、マハサヤ師は
すっかりその過去を忘れていた
のでした。
ババジは 当時、ヒマラヤを
散策していていた、マハサヤ師
を呼び止め二人が前世で、ともに
生活していた、洞窟に案内します。
そこで、過去生で使っていた毛布を
見たとき、突然、自分の前世を
想いだしたマハサヤ師にババジは、
この愛弟子の最後のカルマをとる
ために、この場所に私がお前を
呼んだのだと言いました。
マハサヤ師をヒマラヤから流れる
冷たい川の水に数時間浸るように
命じて心身を浄化させました。
そして、マハサヤ師の最後の欲望、
宮殿の中を観てみたい、という
カルマを満たし、放つために
ババジは、あの、“幻の宮殿”を
その洞窟あたりにエーテル化させて
現実化させたのでした。
さらに、これからの時代、クリヤヨガ
を、一般のレベルの人達に伝える使命
を、マハサヤ師にこの洞窟で告げるの
です。
今度 デリーに行ったらそこへ行こうと
密かに願っていました。
着いた2月下旬から滞在中の3月上旬、
デリーは異常気象でした。
雹(ひょう)が降るほど寒かったり、
雨季ではないのに、スコールのような
雨が降ったり、おかげで私の部屋の
窓わくから雨水がしみこみ小さな
滝のように、壁一面から水が
流れ、ベッドの下まで洪水後の
ように水が溜まってしまった
ほどでした。
3月6日には 初夏を迎える
春の祭典 ホーリーが始まると
いうのに、ぐずついた日が続いて
いました。
サントシさんに 到着して
数日後、この、洞窟行のプラン
を伝えました。
すると、信仰には厚い彼女は、
すぐ、興味を持ってくれました。
女性一人では泊まれないアシュラム
に、宿泊を予定していたので一緒
に行く人も見つけなければ
なりません。ヒマラヤに行くの
には、信頼おけるハイヤーの車の
調達が必要です。
体調も悪く、状態が整っていない
まま、予定がたたないまま、
時間だけが過ぎて行きました。
3月2日朝4時ごろでしたが、
時期に似合わない、蚊のチーン
と耳沢襟な音で目がさめました。
そして、何故か、“明日たとう。”
と 決めました。
その朝、仕事に来たサントシさんに
“明日行きたいのだけど一緒にどう?”
と聞くと、“主人と家族に相談して
・・”と“OK”の返事をもらい、
即座に、車を手配して、翌日朝
5時にデリーを出発しました。
4月3日 大雨の早朝4時半、
10時間以上かけて 車を走らせ、
目的地に到着しました。
アシュラムがその洞窟から車で
1時間ほどの距離にあり、
そこで泊まることにしました。
今まで幾度となく宿泊している
外国での宿泊施設には、必ず
パスポートの提示が必要という
常識が 慌てて準備を整える中、
なぜか頭から抜けていました。
当然、現地では、“パスポートが
なければ宿泊できません。”と
宿泊を拒否されました。
“なぜ持ってこなかったのですか?”
私も、何故だろう?と思いました。
たぶん、このアシュラム自体が
私にとって、外国にある宿泊施設
という観念がなかったからでしょう。
ホテルの予約もしておらず、
道中、ハイヤーの中で到着数時間前
に電話して
“今晩、泊まれますか?”と聞く
ほどの無茶ブリでした。
むしろ、ババジの招待であの
洞窟に行けるのだから、
泊まれない道理がないと
心の奥底で確信していた
としか言いようがありません。
結局、デリーの息子に電話して、
自宅においてきたパスポートの
顔写真部分をPDFでその
アシュラムのパソコンに
送ってもらい、この問題は
解決しました。
翌日はカラッと晴れて
ハイヤーで1時間ほど徒歩で
さらに1時間かけてババジの
洞くつを訪れることができました。
誰もおらず、神秘的な時間を
超越した空間で一人静かな時間
を過ごしました。
そういえば、一昨年もこの時期
はインドのガンジス川の
アシュラムにいました。
忘れもしない、4月1日、その時は
日本に残してきた、愛犬のチュチュ
が、突然、心臓発作でなくなり
ました。
しかも、携帯電話で連絡できない
場所でしたので、その事実を知った
のは数日後でした。
今回も4月3日 ヒマラヤに着いた
その日、母が夜11時に転び
大腿骨骨折して、翌朝、病院に
運ばれていることを知る由も
ありませんでした。
宿泊先になっている、このアシュラム
では瞑想や共同活動時間は
携帯電話を切っていました。
母の入院・手術のことは、デリーへの
帰路、ハイヤーの中で4月5日
知りました。
後から聞くと、毎晩、母は夫を
深夜、何度も、起こしていた
そうです。その夜も “おなかが
すいたからラーメンつくる”と、
母が台所に立とうとしたので
夫が慌てて “ころびますよ。
僕ば冷蔵庫を調べてみます。”
と体を起こして立ち上がり、
台所の冷蔵庫を開けようと、
母に背中を見せたとき、
後ろでドスンという音がして、
母が転倒していたそうです。
頭を打った様子もなく、
そのまま 布団に寝かせたら
寝てしまったということで
命に特別の危険がないと判断。
翌朝 妹が来て、救急車を呼び、
病院へ運んだということでした。
続く・・・・
私が留守中 夫が母の介護を決心した意図 2015・4・17
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ただ今 母のために、開けた”茶の香取屋”は休業中です。
今週 火曜日から秀真輪読会 と アートマセラピー施術は
始まりましたがお茶屋さんはいつ再開店できるか・・・?
茶の香取やを休業しているのは、母が倒れて店に出れなくなり
もともと母の精神的リハビリになるという、励みもあって
開けていたので、その開けておく理由がなくなってしまった
からです。
去年11月、サロンを初めて2か月過ぎ軌道に乗ってきた2月上旬。
ちょうど 結びの会 のワークショップ当日、2月7日土曜日の
朝のことでした。
自宅から今日の会の準備もあり早めに、母の住む彦田ビルへ
着きました。
店を開ける11時前に母に昼食を届けに上階の母の部屋を尋ね
ました。
呼びかけても返事がなく、中に入ると、足の踏み場のない
散らかった部屋に母が倒れていました。
認知症になって 以前は几帳面だった母の8畳の部屋は
数年前のチラシ広告、汚れた下着、裁縫箱 トイレットペーパー
などなどが散乱して足の踏み場がないほど。
掘りごたつの中にはゴキブリの死骸も時には見つかるほどの
凄惨さ。
週2度 ケアマネさんのご紹介でホームヘルパーさんが掃除に来て
くれるものの、母の部屋には、彼女も入ることは許されません
でした。
だから、誰も、母の部屋の物を片づけることができなかったのです。
その理由は、好意で片づければ、
‘~が無くなった、盗まれた’と大騒ぎされて犯人扱いされ、
派遣先に抗議の電話を 連日かけ続けるのが常でしたので・・・
それは娘の私とて同じでした。
或るとき、散らかしてあるテーブル、に母の字でノートの切れ端に
走り書きがありました。
“ヤスヨの魂胆がわかった。私を町田の自宅に呼んでくれるのも
いない間にここにきて、物色するためだった・・ “ と書かれて
いました。それを見た私は愕然としました。
“一人は寂しい、こうして、一緒にいられて、有り難い・有り難い”
と私の前ではよく口にしていた母が書いた言葉とは、信じられ
ませんでした。
喜んでくれるのが嬉しくて、私の自宅で食事したり、
父の墓参りに出かけたり週に一度は車で自宅にきて
一緒に過ごす時の 嬉しそうな笑顔が思い出されました。
でも、筆跡は確かに、母の字でした。
そのメモを読んだときに、
“所詮病気だから” と納得することもできず、
母の本心はどこにあるのだろう?~と
いう疑問とともに、母の部屋との関わり合いをもたないよう
にしようという心境にさせられました。
このような調子でしたから、ホームヘルパーさんは
数年の間に何人も変わりました。
綺麗に片づければ、それが見つからないときに、
“あなたは、物を取った”と糾弾(きゅうだん)され、頭ごなし
に怒鳴られて、母のヘルパーを拒否する方たちが続出したためです。
今のヘルパーさんも前任者達の話を聞いて、母の部屋に足を
踏み入れることを躊躇してました。
そういうわけで、普段は、私は、母の家に上がることも
なければ”泥棒”扱いにされる機会も少なかろうと、いつも、玄関先
で母と応対していました。
2月7日朝、この日は、玄関先で声掛けしても返答なく、
不思議に思い母の部屋を覗いたら”痛い!痛い~”と
うめきながら 母は、畳の上で、うつ伏せになっていました。
下半身は何も身に着けておらず、そばには、母の糞尿が
寝具や畳を汚していました。
起こそうとしたとき、”気持ち悪い、吐き気がする”
といって、母は、吐きました。
とっさに”これは危険だ!頭を打った可能性がある”と思い、
救急車を呼びました。
10分足らずでかけつけてくれた救急隊員は “意識があるか、
おばあちゃん!”と耳元で聞き、うなずく母にほっとした様子で、
受け入れ先の救急病院を探してくれました。
吐いたという事実はあまり重要視されず、胸骨が痛む様子でした
ので、O整形病院に運ばれました。
そこでの検査では胸骨2本骨折、医師の判断では“自然につくのを
待つしかないですね”ということ。
“吐いたのですが、大丈夫ですか?”
と私が不穏に想い打診すると、
“もし、また吐くようでしたら、
脳神経科のある病院で見てもらって
ください。
ここではないので、とりあえず
ご帰宅願いたい” との返事。
かくして、家に帰ろうと病院を出たところで 母は、大量の
体液(黄色い胆汁のような)を吐いたため、再び、救急車で
脳神経科のある総合病院に、運ばれました。
検査結果は“特に血栓のつまりもなく、MRIを見る限りは
支障はないようです。” と医師。
“でも、なぜ、吐いたか調べた方
が良いので内科のある病院の
紹介状を書きましょう”と この日、三回目の救急車が
用意されました。
三度目の病院では徹底的に内科の検査、それも2度にわたり
血液検査と精密検査を受けた母の結果は
“すべて内臓の働きは良好です。問題ありません。”
と言われましたが、移動が続き、休みなしで、肋骨が折れている
衰弱している母を “一日だけ入院させてもらえたら” という
こちらの要望を伝えると、理由を聴かれ
この状況では、自宅までの階段は登れないと答えると、
“歩けない? 家の外階段を登れないから・・?
でしたら、どこか近場のホテルでも探してください。
ここは緊急病院ですので次の方が詰まっていますので・・”
ということで帰宅しました。、
その日は、朝から夜11時まで食べず飲まずの しかも、
ふらついて腰の定まらない、胸骨骨折の母を何とか、
3階の自宅(外階段)まで支えて登らせることができた
のは、母の生命力と見えない守護の力の賜物だった
かもしれません。
当然、母は一人での生活は無理なうえに、これまでの
ように デーサービスを受けられる状況でもなく
”ともに住み介護する”ことにして、回復を待ちました。
脳神経科検査のデータでは”何も問題はない”ということ
でも、その晩から、よだれがでてきているのに気づき
ました。
口もややへの字に曲がり、脳梗塞をした後のように、
足の運びが力が抜けてもつれる状況。
移動には車いすが必需でした。
そういえば、3年前にS国立病院の脳外科でMRIを
とってもらったときは脳血栓が見られ、
“いつ、クモマッカや脳梗塞に
なってもおかしくない状況”と言われたのを思い出しました。
ですので、今回 その血栓が破れたのではないかと推測
しました。
“胸骨骨折”の際、ただの転倒ではなく、軽い脳梗塞を
起こしたのではないかと・・・。
自宅では セラピーを行い、2週間後には町田から
相模原のデーサービスまで車で、通えるようになるまで
体力が回復しました、
ただ、夜間、頻尿が続き、30分に一度トイレに行く状態。
こちらも寝ることがままならず、付き添いが必要なので、
不眠になり、体に応えました。
さらに、娘が物色しに私(母)の家に行っているという
”妄想”が抜けきらず、私の姿が見えないと、
“ヤスヨは相模原に行っているんでしょ。”と聞き、
”コートもなくなってしまったし。” の質問が数分に
一度口から登り、”コートは相模原にありますよ。
ヤスヨは今~しているから相模原に行っていません。“
と夫が答えるという会話が、幾度となく繰り返されました。
さて、私は、2月下旬からインドへ行く予定になっていたので、
母の介護が必要ならその切符を、キャンセルする覚悟はありました。
夫に相談すると、“今、行かないとまたいついけるか、わからない
だろうから・・・
2週間なら、御母さんをデーサービスに朝送って、夕方
帰ってきたら外から弁当でも買って、一緒に食べるから
行ってらっしゃい”と 快く介護を引き受けてくれましたが、
不安は残りました。
ケアマネさんにその話を伝えると、“え? 本当にご主人一人
で大丈夫ですか?”と 危ぶまれ、夫とケアマネさんの事務所で
この件につき話し合いをしました。
その結果、従来通り、ケアには相模原から送迎をしていただき、
日曜日を除く毎日、朝9時から夕方5時まで、お世話になること。
朝と夜間は夫が家にいて、母とともに住むこと。
ということになりました。
“奥さんが行かれる2日前ぐらいから、ご主人一人でとりあえず、
御母さんとご一緒してみて
ください。もし、難しければ、奥さんが日本にいなくなってでは
大変ですので・・”
と ケアマネさんに提案されて、
同意してくれた夫でした。
インドは征服できず、一人のヨギに心を征服させられた大王 2015・4.14
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インド古代の偉大な王として知られる、アショカ王と祖父、
チャンドラグプタ大王は、後世に名をとどめている。
ヨガナンダ師は”あるヨギの自叙伝”の中で、南インドに
訪問した際 王たちの石碑に訪れ、次のような感想を述べている。
“アレキサンダー大王のインド遠征には、ギリシャの歴史家や学
者たちが一緒に着いてきたが、彼らによって、多くの興味ある物語
が詳細に記録されている。
J・W・マクリンドルによって訳されたアリアン、ディオドロス、
ブルタータ、地理学者・ストラボ等による物語は、古代のインドに
一条の光を投ずるものである。
インド侵攻に失敗したアレキサンダー大王の最も称賛すべき業績は、
彼はインドの哲学やヨギや聖者たちに深い関心を寄せ、時折、
彼らを招いて熱心に交流を求めたことである。
王の軍隊が北部インドのタキシラに到着したとき、王はタキシラの
偉大な行者ダンダミスを呼び寄せようとして、ディオゲネス学派
の弟子であるオネシクリトスを使いにやった“
そしてそのヨギ ダンダミスに、に大王の使いは言う。
“偉大なるゼウスの御子にして、天下万民の支配者である
アレキサンダー大王の呼びかけに応じなければ、お前の首はない”
すると、この偉大な行者は、次のように答えたと言う;
“アレキサンダーがゼウスの息子ならば、私も同じゼウスの
息子である。
帰って大王に伝えたまえ。
至高の王である神は、不遜な悪の創始者ではなく、光の創造者
であり、生命や水や人間の心身の創造者でもある。
神は殺戮を憎み、闘いを仕掛けるようなことは決してなさらぬ。
早晩、死ぬ身のアレキサンダーは決して神ではない。
自分の内なる国土の支配者(須田注:心身の支配者)にも
なれない男が、どうして世界の支配者になれるだろう。
彼はまだ、行きながらに黄泉(よみ)の国へ行ったことも
ないし、この地球の息を遥かに超えた、あの大空の太陽の軌道
に着いても何も知らない“
さらに続けて
“わたしにとって、必要で真に価値あるものは、雨露をしのいで
くれる木々と、日々の食糧を提供してくれる草木と、喉の渇き
をいやしてくれる水だけだ。
凡人たちが後生大事に蓄えている、財産等というものは、
悩みや悲しみを引き起こすだけで、結局は実の破滅を
招くのがおちだ。
ただ私は、森の落ち葉を褥とし、見張りをすべき何物も
持たないから、いつでも安心して眠ることができる。
もし私が何か人の欲しがるようなものを持っていたら、
それなりの用心もしなければならない。
たとえアレキサンダーが、私の首をきったとしても、私の魂まで
殺すことはできない。
私の首はもはや悪態をつくこともなく、体はちぎれた頃ものように
地上に残るだろうが、私の実体はそこにはない。
私は霊となって、神のみもとは昇って行く。
アレキサンダーはせいぜい、富を求め、師を恐れる連中を
あのような脅しで脅迫するがよかろう。
たが、われわれバラモンに対しては、彼の武器な何の役にも
立たないと思え。
我々は金も要らなければ、死も怖くない。
だから、大王にこう伝えるがよい。
もし、あなたのほうで何かダンダミスから欲しいものがあるのなら、
あなたが彼の元へ足を運びなさいと。“
当時アレキサンダー大王は最北部において、マケドニア軍から
頑強な反撃をくらい、これ以上の進撃を辞めるべきだと言う
内部の声が出始めていた。
インドの行者は、それを知ってか知らずか次のような言葉を
最後に使者に投げかけた。
“もし、大王が、今の領土ではどうしても不足だというのなら、
さっさとガンジス川を渡ったらよいだろう。
そこには彼の家来たちを養うのに十分な土地があるのだから。”
この対話の仔細は、すぐにアレキサンダー大王に伝えられた。
王はますます、ダンダミスに会いたいという願いを強くした。
何も武器を持たない老人、しかし、世界を制覇しようとしている
大王に屈するどころか、恐れさえいだいていない賢者に
ぜひ会いたいと思ったのだ。
そこで、彼のところに赴こうとしないこの賢者の代わりに、
バラモンの行者たちを招き問答を試みようとした。
ヨガナンダ師の言葉では以下のようにこの状況が語られている。
“アレキサンダーは、哲学上の質問に対して、吉に富んだ答え
をすることで評判のバラモンの行者たちを、大勢、タキシラに
招いた。
この時の問答の模様を、ブルタータは次のように記している。
問題を造ったのはアレキサンダー自身である。
① 生者と死者はどちらがその数が多いか?
~ 答え)生者である。なんとなれば死者は存在しないから
② 動物は海と陸とどちらに多くいるか?
~答え)陸である。なんとなれば、海は陸の一部だから。
③ 野獣の中で最も賢いものは?
~答え)それは人間にまだ知られていないもの、なぜならば、
人間は未知な存在を最も恐れるから。
④ 昼と夜とちらが先にあったのか?
~答え)昼が一日先である。
(この答えにはさすがにアレキサンダーも驚いた顔を見せた。
バラモンは平然と言葉を付け加えた)
~不可解な問いには不可解な答えが必要である。
⑤ 人に愛されるためにどうすれば一番良いか?
~答え)偉大な力を持っていても、人に恐れを抱かせないものは
愛される。
⑥ 人間はどうしたら神になれるか?
~答え)人間のできない事をすることによって
⑦ 生と死とどちらが強いか?
~答え)生。なんとなれば、生は多くの悪を生み出すから。
こうして大王は行者たちと接する機会を得て、最終的に一人の
ヨギを師と認めることができた。
そのヨギの名前はカルヤーナと呼ばれ、印度ガンジス川を
超えずに、ペルシャに、その闘いの矛先を向けた大王とともに
ペルシャに渡った。
優れたヨギは自分の命の尽きる時を知る。
カルヤーナも、例外ではなく、自ら肉体を離れる時を予言し、
その日にマケドニア軍の面前で火葬用の薪を燃やした。
そして平然とその中に座ると、運命のままに、老いた体を
燃やし尽くしていった。
身動きせず、恐怖や苦痛を見せず炎の中で生身の肉体を
火葬している様子は、アレキサンダー大王や多くの回りで
様子をみる外国人には、印象的だったようだ。
カルヤーナは火葬される前にアレキサンダーに こう告げた。
“あなたにはやがて、バビロンでお目にかかりましょう。”
これは予言となる。
大王はペルシャを引き上げて、一年後にバビロンで命尽きる
ことをヨギは知っていたのだろうか。
その言葉どおりに、一年後、バビロンで肉体を脱いだ大王の魂が、
師であるカルヤーナと再会するであろうことをこのとき、
カルヤーナは知っていたのに違いない。