自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

印度人間模様

2012年12月31日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

インド的処世術   12月31日             

 

 

バンガロールの喧騒

 私が訪れた12月4日、デリーは冬の始めを迎えていた。

夜になると、懐かしい、たき火風景がみられた。

路上で 寒い夜は蒔木をくべ、火を起こす。

毛糸の帽子をかぶり、ウールのマントをかけた男たちが 

手をかざして、暖を取っている風景は 20年前の昔も今も、

変わらない。


私の住んでいるところは、デリーの南のはずれに位置する。

サーケットという高級住宅街をさらに、5分ほど、車で南方角

に走ったところにある。

 

20年前、インドに来た当時は、日本人の住む街、いわゆる

高級住宅街といわれる、パンチシーラ区域や、GK区域に

住んでいた。

息子が高校を出て、大学(イギリス)に入学したときに、

居を今のローカルな場所に移した。

日本人の友達をたまに、自宅に案内することがある。 

車はサーケットを越えて、いわゆる、ごみごみした、 

街並みに入ると、大概の知人はこうつぶやく。

“こんなところに住んでいるの?” と。 

 

そんなところに何故、住む気になったか?

私がインドに慣れたからというわけではない。

やはり、心して、身を守るだけの知恵は必要だ。

それでも、インドの田舎町に出てくるような、ローカルな

場所が好きなのは、庶民のたくましさと素朴さ、したたかさと、

やさしさ、そして活気の中に身を置くと 

どこか、インドにいるんだという実感を感じられるからだと思う。

彼ら、本来のインド人の持つ生命力は、整然とした住宅街を

歩いていても、あまり、感じられないのだ。

ホテルのフランス料理を食べるより、居酒屋の鍋をつついた方が、

ットできる~そんな味わいに似ている。

 

実際、日常生活、自分が困ったとき、助けてくれた人たちは、

こうした、身近な人たちだった。

ラジャ(諸侯の王様)、アーティスト、外交官、軍や警察の幹部、

銀行マン、TVアナンサー、国営テレビの重鎮などなど、

多くの方たちとの親交をいただいき、有意義な時間も

過ごさせていただいた。


知的場面では、刺激をいただき、印度社会の中流層以上の

方達の生活も垣間見て興味深かった。

しかし日常生活のドタバタ劇の中では、やはり、

助っ人は近所の人たちだった。


家の鍵を忘れた、台所の棚が落ちた、チュチュチャチャの

面倒が見れない、

(ドッグホテルはないので)、水が無い、ガスがきれた、

電話がつながらない、などなど、日常の当たり前の支障時に 

駆けつけ 助けてくれた。

 

インドの金持ちはとことん金持ちだ。

ラジャスタンの国際的観光にある、有名な城の城主。 

王様の経営する、湖上ホテルは、5つ星のホテルにもなって

いるから、印度旅行した人は ガイドブックでご存知かもしれない。

そこの王様から、御人的にご招待をいただき、伺ったことがある。 

当時、アートマセラピーの、クライアント(印度人)と一緒だった。

その方は王様の古いご友人でもあった。

 

王様の経営する、湖上のホテルではなく、ご自宅用に使われている

古城に留めていただいた。

3人でのお食事の席。 大きなテーブル、壁には10人程の

召使いが並び、王様が用事あるたびにテーブルをたたく。 


叩く音にどこか違いがあるのだろうか?

それぞれの音で異なる、給仕人が サット王様のそばに来て、

御用をお伺いする。

王様はいろいろな話題を食卓の席で、お話しになったが、

印象深い話がある。


それは、王様の前生についてだった。 

その日、王様専用のシバ神の寺に皆で参拝をした。

王様自ら、祭司のように、私たちを案内してくださった。

その寺の、”お坊さん”が、前世の姿だったことをご自分でも、

記憶している~と語られた。

敬虔な僧侶が次の生で、城の城主として、転生する。 

面白い話だと思った。

洗面所は金(ゴールド)で装飾されていた。 

迷路のような廊下を抜けて、あてがわれた寝室は

ホテルのスイートのように広々とし、快適であった。

別れるとき、”自分にもアートマセラピーを所望したい”と

言われた。

其の後、デリーにいらした折など、お食事を共にする機会は

あったが、知人の手前、それ以上の深入りは避けた。

 

インドの貧乏人は、とことん貧しい。

でも、貧しいなりに、心があった。 心を感じ、心に触れあえた。

彼らの付き合い方に、損得勘定が、無いとはいえない。

何らかの形の施し、援助や金銭的助けを期待していない

とはいえない。

仏教国でもそうであるが、富める人から施しを受けるのは当然と 

貧者は思っている節もあるようだ。 

なぜなら、富める人が、自分の財産の一部を放出することで、

功徳を積むことになる、その手助けをしている~と貧者は言う。 


それも一理ある。 

施す方も、快く、施しさせてもらえば、物質への執着の踏ん切りに

一役かうこともあるだろう。

 

とはいっても、いまだに、道路の交差点に、乞食さんたちが 

たむろして、車の窓越に

“オーマダム。バッチョ ブックラグラヒヘ・”

(子供たちがお腹を空かしているんですよ)

“カナケリエ、クチュデド”

(ごはんを買うお金を少々、わけてください)

と、だみ声でまとわりつかれることは、今も昔も変わらない。 

“金くださいよ。子供が腹をすかしている。” 

と言いながら、車窓をどんどん叩く。 


運転手は”窓ガラスがこわれるよ”とでも言いたげに、

睨みつけるのだが、効き目はない。


どりあえず、私は、車の中で、目を伏せたまま、無感動を

装うことにしている。

こんな場面にたびたび遭遇していると、

”だんだん、慣れてしまうのも 怖いもんですね” と

日本から来た友人も言う、

 

続く~

印度社会はどんどん車社会になっています。 

渋滞時の大変さ、バンコクの渋滞を思い起こします 

 

 

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音楽の師と教え

2012年12月30日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

12月30日  集中力と心の洞察

 

師が教えてくださったこと。

インド古典音楽の真髄のみでなく、 ”思いやり” ということ。

音楽の心は愛であること。

今でも、師の穏やかな、言葉がよみがえる。

”Fatima,you do not know 'Love'?"

ファティマ(私のモスリム名) お前は愛を知らないのか?

この言葉の裏には次のような背景があった。

 

当時、師は、コンサートに若手のタブラ奏者を起用していた。 

印度一番、つまり、世界一、自他ともに認められているタブラ奏者、

ザキール・フセイン師 とコンサートをアメリカやインド、世界中で、開く 

私のグル(師)だった。

ところが、その日のリサイタルは、経験もそこそこの

若手と一緒だった。

(シタール独奏は タブラ奏者とともに行われる)

ついつい、名うてのタブラ奏者と比較して、師に、

その腕の甘さを指摘した。

その時の言葉が、上の返答だった。

”もっと、寛容に見てあげなさい。 

彼らも一生懸命なのだから” … と返答する代わりに、

”ファティマ(と呼ばれていました)は、愛をしらないのか?”

という、言葉を私に投げかけられたのだ。


グルの愛情を悟った。 

安易に、批評することのむずかしさをつくづく感じた。

 

マタジ(奥様)が教えてくださったこと。

”教養あるインド人のモデレートという観念。 出すぎず、控えめ過ぎず、

立場をわきまえること。”

奥様は賢明な方だった。 

常に師を理解し、愛し、子供たちをいつくしみ、そして、

私たち弟子たちにも、心を注いでくださった。

出すぎず、それでいて、内助の功を発揮して、家庭を切り盛りしながらも、

とても華やかな美しい方だった。

中東でコンサートしたとき、ホテルのチェックインで 

印度からのモデル一向と鉢合わせをした。


奥様も、モデルの一人と フロントで、間違えられて、違う、

部屋の鍵を渡されたと、グルジー(師匠)が楽しそうに私に

語って話してくださった。

 

そしてお二人が教えてくださったこと。

”音楽というもの、芸術(真実)を伝えるとき、弟子に対しては、

自分の持てる物すべて余すことなく、無償で与えること。

与えても、決して、弟子に、期待することなかれ”

という 徹底した姿勢だった。

 

お二人から、”日本で こうしてほしい” というような、

一切の頼まれごとをされたことがない。

印度の音楽関係者の中にいると、常であった、

”いつか、日本でコンサートしたいのだけど” とか、

”日本に行ったら便宜図ってほしい” 

などという、依頼や頼みごとは、一切、グルジーの口からは

出たことが無かった。

 

常に、独立心を維持し、勿論協力を惜しまない方達は 周りに、

いらしたが、弟子達に媚びることなく

実力で、世界に羽ばたいていかれた。 

そして、私達には、ご自分の音楽を無償で、余すところなく、

与えてくださった。

 

私を”ベータ”と呼ばれた。 ”娘よ” という意味である。 

”ジータラ・べタ” この祝福を、何千回 師から受けただろう。

師への挨拶は、つま先へ右手で軽く触れ 頭を下げる拝礼である。

そのたびに、師は、こう言われた。 ”ジータラ、ベタ”・・・” 

ウルドゥ語であろう。

”God Bless you"  つまり、 "神から祝福を、娘よ”という意味である。

 

人生、中盤に差し掛かって、印度に行った。

それまで、シタールに触れたことも無い、ましてや、

インド古典音楽など、聞いたことも無かった私に、親バトが

小鳩に餌を与えるように、シタールの真髄を砕いて、丁寧に、

噛んで含め、教えて下さった。 


それから、10年後、デリー・ハビタットセンターやカマー二という、

プロの音楽家が演奏する所で演奏会を開くまでに

外人の弟子が成長することは 誰も予測していなかっただろう。 

 

デリー大学大学院の芸術学部で理論を勉強するように示唆されたのも、

師であった。


”ファティマは外国人だから、’印度人の血’でシタールを弾くことに

限界がある。 

頭できちんと、印度音楽の概論と理論が、理解できることも、

シタール奏者になる大きな助けになるだろう。” 

印度古典芸術が神への奉納から始まったこと。

古典芸術論、美学、 音楽のヴェーダ理論、 印度音楽の歴史と背景、

各種ラーガの法則とリズム、そして、哲学、それらを頭でも

修得するようにというのが 師の薦めであった。


目の前で当時の大学芸術学部古典音楽学科の学部長 

デブ・チョードリ師に、電話をかけて、父上の時からのお付き合い

あり、入学試験の詳細などを細かく聞いてくださった、


”もし、一点の違いで不合格になるようだったら、合格の枠に

入れてやってほしい” 

などと、個人的人脈のメリットを多少 加味して、”よろしく” と 

言われて、受話器を置いた。


こうした、師の想いもあり、私は、デリー大学・大学院で 

シロマニ(音楽専門大学課程)2年、

M.A(Master of Art)2年、M.PHIL(Master of philosophy)2年、

そして、Ph。D(博士課程)4年, 計10年の研究生活を終えること

ができた。 

この、長い過程の音楽探究の道、その第一歩が グルジーの一言でも 

あったのだ。

 

そもそも、ヴィラヤット・カーン巨匠(ガエキアングを生み出した

シタール奏者)の後継者であるご長男から、シタールを 直接、

教えていただくことなど、夢のまた夢のようなことだった。


主人が特派員として、インドに転勤となり、前任者のご自宅に

ご挨拶に伺ったとき、シタールを初めて目にした。

前任者の奥様が当時、デリー大学院を出た、グルジーの弟子から、

習っていたのだ。 


”シタールに恋した” と私は、その日、宿泊先のタージホテルに

戻り、主人に語った。 

一目ぼれだった。 

心が無性に惹かれた。


早速、シタールの先生を、奥様から紹介してもらい、翌週から、

レッスンを受ける手筈を整えた。

その先生はB先生といい、グルジーの内弟子の一人だった。

”どうせなら、グルジーの前で演奏できるように、頑張ったらいい” 

そう B先生は言われた。


B先生とともに、グルジーの御宅へ、内弟子たちの 稽古風景を

見に伺い、師への紹介もしていただいた。

師を丸く囲んで、行われていた、1時間弱のセッション。


それは、それは、舞い上がるほど、甘美なシタールの音色と

旋律の世界であった。

こうして、シタールに心を奪われた私は、師の御宅へ伺い、

B先生や内弟子たちのレッスンの見学を許可され、輪の方端に

座らせていただくことになった。

 

あるとき、師匠(グル)が内弟子の一人に、先週教えたフレーズ

を弾くよう、命じた。

ところが、その出来栄えは、満足のいくものではなく、師は次々と

弟子に弾かせた。


私の隣に座っている内弟子は、下を向いていた。 

師と私の目が合った。 

”Do you  play?"

”弾いてみるかね?” と何気に、私に師は聞いた。 


震える手で、シタールを触った。 弾けた。 

人知れず、自宅で練習していた。 

当時から 一日3時間の練習を始めていた。 

グルは表情を変えず、目だけを見開いた。


”ご覧。 彼女はこれだけ、弾いている”

その日を境に、私は、内弟子とともに、練習を許されるようになり、

それから数か月後、晴れて内弟子にさせていただいた。 


内弟子や奥様の立ち会いのもと、お菓子と花、を前にして、

グルの前に座った。

グルの口にお菓子を一口切って入れ、グルの足を洗い、

グルの足にひれ伏した。

そして、グルは、私の右手付け根に、祝福と弟子になった印の

紅い糸を巻いてくださった。 

これが師弟関係の正式な入門儀式だった。


こうした、グルとの出会いが、ブログを書いていると、まざまざと、

昨日のことのように思い出す。

20年も前の話である。

 

グルが教えてくださったことをまた一つ思い出した。

”シタールを手にしたら、ほかのことは何も考えず、全神経を音色

に集中すること”

そして、心が乱れているときは集中ができないのだから、

シタールは持たないこと。

グルの前で、シタールの一弦を震わせただけで、

”今日はシタールを置きなさい”

と言われたこともあった。 

”心は今どこにある?” と言われたこともあった。

グルは、心を見抜く達人でもあった。

  

今現在、日本に拠点を移した。

師から、いただいたものが大きすぎて、私は、中途半端な気持ちで

シタールを触ることすらできない。

 

私より、お若いお二人であった。

でも、はるかに成熟した精神の強さと独立した魂の持ち主

であった。

とりあえず、音楽から離れている私ではあるが、今でも、

お二人とグルの音楽に 心からの敬意を、そして、家族の一員

として、迎え入れていただいたことに対して、心からの感謝

を捧げ続けている。

 

シタールは一種の瞑想の手段でもあった。 

”音楽と離れて、もったいない”と言う方もいる。 

だが、シタールの本質と、心を見つめる集中力は、

私にとって同質なものであり、

シタールのチューニングと

体と心の調律も、同様の共通性を見出している。       

 

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私の音楽の師

2012年12月29日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

12月29日              家族だから~の意味  

 

インド人の言う家族の意味について・・・

昨日のブログで少し触れたところだ。

筆者自身、そう、言われたことは15年の滞在期間、思い出しても2度しかなかった。

2つのファミリーから、家族として認められたことになる。

今に至って、ようやくその価値と意味が理解できるようになった。

当時は ”家族だから” の言葉の重さは、推し量ることができても、

ピンとくることはなかったかもしれない。

 

S氏は、インドと日本の間の架け橋として、銀行マンとして

活躍されたお一人だろう。

印度・ニューデリーに、東京銀行第一号支店を創設したときの

メンバーでもある。


東京三菱UFG銀行と名前を変えたこの銀行も、

支店をインドに増やすことの許可がインド政府から最近 

降りたばかりだということで 活気づいていた。 

久しぶりに尋ねたが、まだまだ知り合いも多く働いていた。

旧知のスタッフも出世して、チャイを出してくれた。

 

S氏は、50年間の日印関係の歴史を、ずっと見てこられた。

歴代の日本大使館の大使や外交官たちとも、親しくしてこられた。

S氏こそ、私の学生時代のいわゆる、責任保証人であった。

ヴィザを取得するとき、インド人保証人の名前をFRRO

(外国人インド滞在登録機関)に登録しなければならない。 

自分が息子と印度・二人生活になったとき、自分の滞在のための、

学生ヴィザ、また、研究員ヴィザ取得のため、

10年以上、S氏は快く、保証人を引き受けてくださった。

 

あるとき、知り合いの日本人女性が妊娠した。 婚外妊娠であった。

日本に帰るべきか、どうするべきか?

恋人の想いを推し量りかねて、彼女は悩んでいた。

私は、S氏に相談すべく、彼女と一緒に、ご自宅を訪れた。

ヴィザや、その他、適切な助言をいただけるはずだと思った。

S氏は静かに、表情も変えずに、彼女の話を聞いた。

そして、助言を始めた。 

その最後にS氏はこう付け加えた。

 

”Suda(須田)は私の家族の一員だ。 

Sudaの友人である貴女に手を差し伸べたい。

もし、生まれてくる子供の養育が難しいと思ったら、私に任せなさい。

私があなたに代わって、養育してあげることを、約束する”

 

その言葉は、彼女にとって、青天の霹靂の言葉だったに違いない。

日本の家族ですら、そのような覚悟のある言葉を、彼女にかけて

くれないことを承知していた。

それなのに、全く 血縁関係のない、S氏から、このような言葉

を聴くことは予想していなかっただろう。

彼女の目から涙があふれた。


それは、その深い言葉と心に、真から感謝して出てくる涙であった。

”ありがとうございます。 そこまでご心配していただけるなんて・・・ ”

それ以上は言葉にならなかった。

 彼女はそれから、その恋人と結婚して、生まれた坊やを日本で

育てている。 


 2番目の私の家族は、私のシタールの師であった。

最近 ラヴィシャンカール師が 亡くなられた。

その、ラヴィシャンカール師の次に、紫綬褒章にあたる勲章を

与えられたヴィラヤット・カーン師のご長男にあたる。

もっとも、ヴィラヤット・カーン師は、ラヴィ師が先に、

名誉勲章を受けられた事がお気に召さず、

”今さら、遅すぎる”と新聞記者に話し、

”ラヴィ・シャンカールの後にもらうのなら、自分は辞退する”

と言って、その勲章授与を拒み、新聞の種になった。

しかし、時の首相から 官庁関係者の住む、デリーの一等地に

土地と家を与えられ、当時、師の母上が住んでいらした。 

母上からも、師の主催するパーティーなどでお会いし、

ご自宅にもお呼ばれして、かわいがっていただいた。

 

師は、私がインド在中、UCLAの教授として、アメリカでも

活躍され、シタールと卓越した歌唱力で、グラミー賞候補にも

なられた。 

その師のもとで、14年 内弟子として お仕えしながら、

シタールの心を、教えていただいた。


”師の影を踏まず”~まさに、そのような、厳しい、でもインドでは

当たり前な 師弟制度(グル・シシャ・パランパラ)の中で、

幅広く様々な事を学ばせていただいた。


私より年若い奥様をマタジ(お母様)と呼ばせていただき、

そして、お二人のお子様、ともども、家族の一員として

受け入れていただいたことは 大きな後ろ盾として、また、

心の柱として、長いインド生活の日々の文字通りの拠り所でも

あったことは間違いない

 

続く~

 

 

   

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印度人の気質

2012年12月28日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

印度 雑感 補足 12月28日 (金曜日)   

                        

  

母さん、僕にもわけてよ。

 

何故インドが好きなのか?とよく聞かれる。

インドは、好きな人、嫌いな人、はっきり分かれる国だという。

一度 はまると、何度も足を運ぶことになる。

一度 うんざりすると、成田空港で、インド人の顔さえ、

見ることが 疎ましく感じるといった人もいる。

 

その答えの代わりに今日のお話しをさせていただく。

12月15日の”インド雑感”のところで書いたお話しの補足でもある。

 

 写真3    写真4

 

デリーでも最も歴史的で中心部に位置する、

高級店が軒を連ねるビルの3階の喫茶店

大木の枝は ビルの3階にまで、届いていた

私はそこにある喫茶店のテラスでお茶と軽食を頼んだ。

カップルのように、皆、なごやかに、アフタヌーン・ティー

を楽しんでいた。

そこに やおら、木々の間から猿が飛び降りてきた。

 

客席の間を闊歩したり、きょろきょろ物見遊山的に

楽しんでいるかのようだった。

ところが、図に乗った母ざるは、一つのテーブルめがけて、

飛び乗った。(写真3)

女子大生の歓談しているテーブルだった。


女子大生たちは 突然の珍客に、驚いて、悲鳴を上げて

テーブルを離れた。

この写真には、よく写っていないが、舶来の煙草の箱が

置いてあった。 

母ざるは、テーブルにある、水をコップから飲み、煙草を

口にしたが、まずいとわかって、砂糖のツボに手を

突っ込んだ。


ザラメ砂糖なので、容易に 手を突っ込みながら、

中身を取り出している。

砂糖入れの周りには、猿の手から零れ落ちた砂糖が

散乱していた。

次に、その場に落ち着いて腰をおろした母猿は、

子ザルを呼んだ。(写真4)

子ザルは母親のそばで、これもまた、怖いもの知らずに

振る舞う。

 

そばの客席に座っていた客たちは、 それなりに、そのテーブル

から離れて、親子の様子を面白そうに見守っていた。

こういう内容で12月15日のブログの話を進めたと思う。

 

さて、この話を、インド人の友人に聞かせた。

彼女は、“猿もしぶといけど、人間もしぶといのよね。”

答えた。 

この答えは 予想外だった。

”しぶとい”という意味はどういうことか?


砂糖を元の場所に戻して平然と何事もなかったように、

蓋をしている、

店員のことをいうのか?

猿を相手に、悠然と、そのままテラスでお茶の飲んでい

た客人をいうのか?

よくわからないが、とにかく ”しぶとい” の言葉は、

インドの人を言い表すには、 納得いく表現だった。

 

日本の友達にも 同じ話を、聞かせた。

“え?それで砂糖は、ツボにまた、しまわれて!… 

知らないお客さんはその砂糖を使ったんですかね?”

“店員は、客に謝ったりしないんですか!”

反応がこれだけ、違うのが面白かった。

もし、日本だったら?

そう思うと余計、いろいろな想像が湧いてきた。

 

インド人とは、こういう気質であるということで この猿事件

を再びあげた。

まとめてみると、

* こせこせしていない。~ 私のように、テラスから店内に

入る客はいなかった。


* 大まかであり、しかし、数学的計算は緻密である。~ 

お勘定の時点では、きっと、被害分は支払わないだろう。


* 人生儚い夢であることを厳しい生活の中で熟知しているので、

感情に一時的に流されても、 相手を許すことも知っている 


~ 嫌な顔をするより、猿と一緒に楽しむ余裕があるのか

衛生的、非衛生的という観念は日本人よりはるかに少ない。


~ こぼれた砂糖を拾ってもとに戻していても、誰も何も感じ 

ないらしい。         

一度 家族(のように、ファミリーの一員)として受け入れると、

親身になってくれる。

~ もし、猿が襲ってきそうになったら身を挺して守って

くれそう。

 

もっとも これとは別の顔を持ったインドの人も多いだろう。 

 上記の最後の文脈にある、“家族として認める” ということ。


この言葉は良く使われるらしい。 親しい人間関係を指すとき、

良く使われる。

彼女は”ファミリーだから”、というように。 


概して、この表現は、日本の友人たちにはピンとこないようだ。

もっとも、日本語で、”彼女は家族的つきあいだから”という

言い回しも見当たらない。

 

”家族、家族って 彼らは、貴方の事言っているけど、

どのくらい、彼らと仲が良いの?”と聞かれたこともある。

家族なら、たとえば、損得を抜きに、助けてくれるという

意味合いもある。

家族なら、もしかしたら、許される範囲が広いということもある。

家族なら、信頼関係が造られているという場合もある。

 

だから、本来、他人同士でも 平気で“自分のお兄さん。

お姉さん。”と 紹介してくる場合が多い。

時々、血のつながった兄弟姉妹と思っていると、

”家族”の一員のように、お互い認め合っている関係という

場合もある。

 

ただし、家族だと認めると、とことん面倒をみてくれる。

まだ、自分は”とことん”まで見てもらったことはないが、

その布石は知っている。

そのエピソードは次回に回して、お話ししたい。

インド人の懐(ふところ)の深さを感じてもらえるかどうか

・・・わからないところではあるが・・・・

 

今、テーブルにこぼれた水を飲んでいるの、・・・


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@デリー(B夫人、師を呼ぶ)

2012年12月27日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 幽体で現れた師

  

拙宅の文字通りのコージーコーナーです。ここでブログを書きました・・・・ 

26日からの続き・・・・12月18日の手記から~  

(夫人書記原稿、名刺には”霊気マスター”とあります。)

 

ピンクの花、それはハスの花だった。 

固く蕾んだ、まだ開花する前の花。 

私のハートのチャクラの象徴だった。 

これから、開いていく~期待と

希望が湧いてきた。

ヒーリングを受けながら私は幸せだった。

私(B夫人)自身、ヒーリングの師

として多くの人と接してきた。

多くの人も癒してきた。 

ただ、不思議なことに、

自分を癒すことができなかった。

人には効果的な私の霊気諸法も、

なぜか自分には効き目がなかった。

Suda(須田のこと)は”そういうことは、

多々あるものです”という。

それでも、Sudaは私のことを

”一般的な人ではない。 あなたは特別です” 

といった。

自分の中に、大きなエネルギーが湧いて

くるのを感じた。

体の動きが変わってきた。 

機敏になってきた。 

ベッドに上がるときも、一瞬で可能になった。

Sudaも言う。

”数日前、セッション開始一日目、ベッドに

乗るのも、難儀だったのにねえ”

 

12月18日

今朝主人にsudaのところへ電話をかけてもらった。 

いつ、来てもらえるか聞くためだ。

Sudaはその電話で何か誤解したようだ。 

私はこの手記を書いていた。 

それで夫に電話をかけてもらった。

Sudaは

”あなたの事なのだから、自分でお電話された方が

良かった。”

と話して気分を害したようだが、とかく、

ヒーラーは神経質になるものだ。

 

今日のヒーリングが始まる前、

Sは私の師にダルシャン(聖者と謁見すること)

したいと希望した。

幽体で呼び出すことができると前に話したからだ。

私は祈り、謁見(ダルシャン)を請うた。 

グルは二人いらした。 

私の現在の師と、その師の師、である。

Nityanand Baba、そして、

Karuna Baba のお二人だった。

Sudaは 体にヴァイブレーションを感じるといい、

お二人の前に膝まづいて、頭を垂れ、

謁見(ダルシャン)をした。

 

今日のセッション中、私の腹、両足の膝を

結んだ、三角形の輝いた白い光を見た。

これが何を意味するのかわからない。 

この4日間私は ベッドに横たわると、

まるで麻酔薬を打たれたようにぐっすり眠れた。

 

しかし、この夜はそうはいかなかった。

気分が悪く吐き気を催し、背中や手足に

痛みが走った。

思わず、息子を起こした。 

心配をかけさせた。 

自分ではわかっていたのに、”きっと、

これは良くなる前兆だ”って。

でも、時々、ほんとうに、悪くなって、

自分が死んでしまうのではないかと、

今までのように感じてしまう。

 

ここでとりあえず、手記は終わっています。

筆者が翌日、セラピーセッションをして、

その吐き気の夜のことを、聞きました。

しかし、本人の予想どおり、体と心ははるかに、

軽くなっており、

”良くなる前兆”を信じて自分を信じて、

良かったと思いました。

B夫人には、帰国するまでその後2度ほど、

セラピーセッションを持ちました。

また、首にギブスのような硬い固定バンドをまいていた、

B夫人の夫、B氏に、少し手当をさせてもらいました。

こうして、Bご夫妻は、明るい笑顔を取り戻されたか

のようです。

帰国する日 12月23日の昼、たまたま、車を洗っていた、

息子の会社の同僚、Hさんが、私に報告してくれました。

”あんなに、いつも苦虫をつぶしていたようなB夫人が、

今日、息子さんの運転する車でどこかへ行きましたよ。 

あんなにニコニコ笑って乗っているのをみたことがないほど、

楽しそうな様子でしたよ”

 

それを聞いて、うれしくなりました。

自分の可能性を信じる。

きっと良くなると信じる。

それは、他者からの影響によるのではなく、

自己の生命力が開花するからと信じられる。

そうして、希望が湧いてくるのです。

そうそう、こんな笑い話を最期のセッションの時しました。

”ねえ、私、最近、鏡をみると、不思議なことがあるの” 

とB夫人。

”それがね、私の顔にだぶって、とても若いころの

私の顔が映るけど、心霊現象?”

と質問。 

私が、答えます。

”それは、あなたが若くなったというだけのこと。 

老けた顔は消えて、体と心が元通りになって、

本来のあなたが現れたから。” と 言うと、 

”私の今の顔?”と当たり前のことを思い出したように

つぶやくB夫人。 

とても面白い会話だったとみえて、二人で、

大笑いしたことがありました。

ほんとうです。

今までは、痛みと苦しみ、悲しみで顔の皺ばかり

目立っていた、B夫人が、何十年前かの現役

女優だった頃をほうふつをさせるかのように、

とても、生き生きと、笑顔が戻ったのです。

だから、鏡を見るのが怖くなくなり、

楽しみになったとさえ、彼女は言います。

 

アメリカに在住の長男が インドの母に

電話をかけてきたそうです。

セラピーの半ばごろでした。 

それでも、母親の声の波動に変化を感じ

こう聞いたそうです。

”お母さん、どうしたの? 

今日のお母さんはとても楽しそう。 

いままでとは、全然違うねえ。何があったの?” 

そして、私とのセッションを伝え、

”日本に行きたいの。Sが今度こちらに

来たとき、日本に行くからね”

と話したとか・・・・

小さな、でも、とても大きな変化はB夫人の

人生を変えていくでしょう。

そして、私にとっても、大きな経験を積ませて

いただいたと思える、

今回のセッションの結果でした。

 

 

        

 

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