身体の持つ智慧に任せるということ 2019・10・28
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私たちの頭、いいかえれば、知性は”情報”を得て”分析”して、
”データ”を見て、”標準値”を比べて、これまでの例から、
どのように病に対処すべきか結論づける。
ところが、そうしたデータや標準値を創った専門家は、
“体全体の有機的つながり”、や、“関連性”、や“気の存在と
気の影響”や、症状の必要性などということは、ほとんど
考慮していない。
昨日、私がセラピーをさせていただいたYさんは、
アートマセラピーの初体験者だった。
整体に何年か通ったが体の根本的改善ができないと思い、
来られた。
要所要所にセラピーで気をいれると、その個所からはるか
離れた体の部位に変化を感じ、Yさんは、それを表現して、
“なんだか腸が引き連れている”、とか “頬っぺたが痛い” とか
感じながら、そうした反応を口にした。
そのたびに、私は、“ひきつれ”感はむしろ、”縮こまっていた
細胞”が、 ”丸まって寝ていた猫が体全体で背伸び”するように、
”伸びて開いていく” 瞬間ですから、ひきつれではなく、むしろ、
”伸びの始まりですよ“と説明する。
“痛い”というのも同様で、細胞の動きに敏感な人で、私たちの
細胞分子が、”動く”ことに不信感を持っている人ほど、それを
”痛み”として感じるようだ。
そのたびに、私は、”それは痛みではなく、これもまた、縮んだ
風船が空気をいれるとき、表面が膨張するように、細胞が膨張
するので、その動きが痛みに感じているだけですよ”と説明する。
面白い現象にこんなことがあった。
Yさんは、施術中、右の鼻が詰まってきた~と気にしている。
“大丈夫ですよ。今、通りますから”といって、その関連ある
部位に気を流すと、“あ、本当だ、すーとした”という。
また、数分後、“右の鼻、さっきみたいに詰まってきた
のだけれど”という。
この繰り返しを数回したあと、右の鼻は完全にすっきりと通った。
なぜ?
それは先に挙げた、体の有機的つながり、体のそれぞれの部位と
の関連性、気の存在とその影響、鼻づまりという一種の症状の
連鎖性と必要性、がそこにあるからだ。
普通の場合、ほとんど、鼻が詰まったといっては、薬屋さんで
売っているスプレーを鼻孔内に、シュツと出して(大体
メンソーレ系のスッキリしたクールなガスだが)みたり、
咳が出れば、咳止めシロップを飲んだり、と敏速に対応する
ようだが、ここは、一つ、体の叡智に心の耳を傾けて
いただきたい~と私は思う。
”体の叡智”とは、理性や頭脳の判断では解決が付かない答えを、
体だけが知っている。それを、さしている。
たとえば、授乳する母親なら体験することがある。
生まれたての赤子に、これがあなたの食事です~と説明する前に、
母親の乳房に吸い寄せられるように、顔を寄せてその方法を
教えてもいないのに、上手に乳を吸い込むさまなどは
感動の一瞬だ。
その母乳でどうして、赤子の血と肉がつくられ、免疫システム
に貢献して、成長していくのか?
当たり前すぎて考えることもないのだが、考えれば不思議だ。
赤ちゃんの頭が知っているのはなく、体が知っている
としかいいようがない。
もし、その母乳に不純なもの、たとえば、脚気の毒素が微量でも、
含まれていれば、赤ちゃんは必ず、それを吐く。
周りの人はそれを見て、”赤ちゃんが吐いたから消化器系が弱って
いるのか?”と心配するが、むしろ、吐かないで中毒してしまう
ほうが怖いから、ここでも、赤ちゃんの体は自動的にそれを
対外に排出することを知っているということになる。
母体は、妊娠して出産が近づくにつれて、体が赤ちゃんの栄養素
を創りそれをためて用意するように、母体そのものにも変化が
起きる。
つまり、私たちが生きている~ということは、この私たちの
頭では理解できない体の智慧によって生かされている~のだ。
誰でも目にゴミがはいったとき、自然と涙が出てきて、
そのごみを排出してくれるのを体験しているだろう。
気管支に食べ物のカスが入りかけても、むせたり、咳をして
自然と気管支の中にはいらないよう、体が守ってくれる。
私たちの頭で考えたり、活用する知識は、意識上のことだが、
むしろ無意識の中に、こうした私たちの頭でコントロール
できない体の知識があり、それが無意識の中で活用されて
いることを考えると、“自然治癒力”というのも、そういう
”体の叡智”であるということが理解していただけるかと思う。
自然治癒力は大生命の大きな体へのギフトだ。
すると、ここで、大生命とは?と疑問を覚える人が出てくる。
生命とか大生命とか、この漠然とした言葉に、医学界は
ほぼ反応しないからだ。
ある人によれば、生命という言葉はむしろ、哲学のなかに
しか存在しないという。
医学とか科学の世界では、まだ、生命の不可思議さに関して、
メスがいれられていないといってもよいのだろう。
最後に整体の神様といわれた野口晴哉氏の言葉(*1)
をつけ添えておきたい。
“人間は自分の生命を完全に生ききろうとする力を持っている。
知識がなくても、ちゃんと味わえば、必要なものは旨い。
必要のないものは旨くない。必要なことは快い。
必要でないことは嫌な感じがする、体に悪いことは
触りたくもないような感じがする。
このように、すべて体の感じで決めていけばいいのですが、
この簡単なことが難しい人がいる。“
その難しいのは、人の体の叡智の声に鈍感だからなのだが、
体の叡智に目覚めるためにはどうしたらよいのだろう。
これは整体のみならず、アートマセラピーでもほかの施術
でも同様の目的を持っているということがいえるだろう。
つまり、野口の言葉を借りれば、
“たとえ、下痢がさっと止まっても、その人が下剤を愉快に
思わなかったり、もっと食物を用心するようになったのでは
その目的が果たせたといえない。
熱を出したとき、整体(スダ注:施術)で熱が下がっても、
次に熱がでたとき、また、整体(スダ注:施術)してくれ、
直してくれというようでは、自分の体の機構を理解していない。
実際は、熱が出ないような体は生きてはいけない。
予防注射をして、弱い子供は37度5分程度しか出ないが、
丈夫な子供は39度から40度でる子もいる。
風邪をひいても、さっと高い熱がでれば、さっと風邪は
経過するが、低い熱のうちはいつまでも続く。
それは体の反撥力が鈍いためだ。”
“だから、そういう発熱自体が、体の正常を保つ働きだという
自覚さえできていれば、いくら熱が出ても平気でいられる。
それを慌てて、また熱を抑えてくれと来るなどというのは、
その人の熱が下がった時にそういう健康維持の能力を
自覚させなかったということなのです。”
つまり、整体でも気功の施術でもアートマセラピーでも、
“健康維持の能力の自覚”、つまり、“自然治癒力と生命の発動力”、
あるいは、“体の持っている本来の智慧”を認識させない限りは、
ただそうした施術に頼ることだけで、本来の自分の力を
眠らせたままにしておくということになる。
本来の、施術の目的が達成されていないということでもある。
そのことを踏まえて、野口氏ははっきりとこういう。
“整体指導(スダ注;あらゆる健康目的の施術)というのは、
その人の持っている力を自覚させ、その次、そうなったとき
には、自分で治せるようにしなくてはならない。
自分でそういう意味を知って、それに耐えられる人間をつくり、
風邪をひいたら、その経過を楽しめるような人間を
つくらなければならないのです”
*1~“整体指導の目的”昭和44年整体指導法初等講習会より