自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

吐くだけ吐いて! 好転する兆しだから…(愛犬のセラピー)

2016年09月10日 | ペットロスの癒し

 


鳩、猫、犬たちへのアートマセラピーのお話

**************************** 2016・9・10

インド時代、最初のクライアントは、野生の鳩だった。 

小鳩でまだ飛べず、首の骨が奇形で前を見ず、

常に180°近い後ろをみていたから、餌はついばめず、

歩くときも前に進めず、くるくる回ってしまう

ばかりだった。 


ひと月のセラピーで 飛んで行った。

野良ネコの娘も いた。

私の家の中で生まれ、母離れするころ、去勢(メス)

手術をさせた。


ところが、手術した部位が膿んで、膿が出て、食欲

はなく、数週間後には、がりがりに痩せ衰えてヨロヨロ

と歩くのがやっとだった。


膿んだ箇所からは、絶えず、膿が出ていたせいか、

異臭をただよわし、 兄弟猫すら彼女が近づくと 

文字通り、逆毛をたてて 少し離れた

場所へ移動して避ける始末だった。


確かに、その、膿の臭さが死臭のようだった。


私は、言霊を唱えながら、手をあて、気を流し、食事も
とらず、金魚鉢の水だけしか飲めない彼女に、必死に、
セラピーを、時には涙ながらに、施す毎日が続いた。

ついに一月後、彼女は 目に見えて回復のペースが
速くなり、腹の膿が止まった。

向けてただれていた箇所には、新しい皮膚が出てきて、
ついに、屋外に出ることができた。

隣の家の屋根は、自分の母親(野良猫)のテリトリー
であったが、母親を追い払うがごとく、元気に追いかけまわ
している彼女を見て、心から安堵した。


次のクライアントは 最愛のヒマラヤ生まれの、

愛犬チャチャだった。

インド生まれで、インド育ち、そして、私が母親の

介護のため、インドを引き払い、帰国した折、一緒に

連れてきたのだ。 


外でしか尿をしない犬に私が躾けてしまったので、

家で尿を我慢しているうちに、膀胱が肥大し、ヘルニア

になってしまい、町医者の誤診も禍して、尿毒症に

なってしまったのは、彼が7歳のときだった。


川崎市の最新式設備のそろった病院の集中室に入ることに

なった。

集中室で、私は、医師の許可をとり、酸素マスクをしている
彼に、寄り添い、4時間、施術した。

医師が驚いた。

その後の検査結果が、山を通り抜けて死の危険からひとまず、
抜けたことへの驚きだった。

退院になった。

その後のことは、このブログに詳しく書いてあるので、
ご覧いただけたら幸いだ。

集中室で、医師から”数時間の命だろう”と宣告を受けた
彼が、自宅で1週間以上、生き延び、歩き、食べ、最後
まで意識をもって、私の膝の上で 私を見つめながら、
天命を全うした

 

彼らのセラピーを通して学んだこと;

結論からいえば、薬に頼ることなしに、人間と同様、

気を整え、順気を盛んに体内に回すことで、本来の

生命力を刺激し、自らの力で回復をはかることが

可能だということ。


たとえば、最初の鳩の場合****

一週間、私は必要以外の外出は控え、そばにいて、

ひえや粟など、割りばしの先を水平に削って、親の嘴

のようにして、その小鳩の口に入れ、体力をつけさせた。


同時に、手当(セラピー)は一日、数時間に及び、根気よく、

続けた。


その効果は、一進一退で、もう駄目かもしれないとあきらめ

かけたことも 何度かあった。


が、結果的には、はじめに書いたように、ベランダから飛んで
去って行った。

この鳩の体験のおかげで、一つのことを学んだ。

それは、良くなる前兆には必ず”悪くなった”と見える症状が
あらわれることだった。 

たとえれば、夜明け前に、一番、外が暗く感じるように、

それを通り越すと、飛躍的に、回復するということだった。

が、それを超えるためには、忍耐と信念が必要だということも

体験した。

鳩は 結局、完治して、ついに、ベランダから飛んでいった

のだから。 

 

野良猫の子供は、前にも書いたように、涙ながらに手を

置きながら、エネルギーを送り続ける日々が続いた。


食事は全く受け付けなく、ひと月がたった。

その間、口にしたのは、唯一、金魚鉢の苔のはえた、

活性化している水だけだった。


そして、膿が体内から、じわじわと、できったところ

で、新しい皮が覆いはじめ、やっと、改善を感じられ、

劇的な回復をみることができた。


数週間しないうちに、体も肥え、親猫を縄張り争いで

追い払い、屋根の上で走り回って、ケンカをしている姿

をみたときはすっかり、元通りになった彼女の確認を

して、安堵した。(先に書いた内容の重複)


最後の、愛犬チャチャの場合はもっとも、心に残る

ケースだった


重複するが、結果的に、私の膝の上で目をみつめあって

天国にいった彼だったが、彼のインドから日本への

飛行義務として受けた、多くの予防接種や化学的薬剤の

投与が免疫システムに与える影響などを知った。

 



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読売平和賞を受賞した永瀬先生の平和への執念    (2)

2016年09月05日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

永瀬先生奥様の最期の最高の愛念という薬

2016・9・5

*点滴, 草の葉, 草, 自然, ドロップ水の, 雨滴, 牧草地, 緑, マクロ

2006年 カンチャナブリのクワイ河を見下ろす河のほとりに

先生(永瀬氏のこと、以後先生と略)の銅像が建立された。

先生が設立したクワイ河平和基金の援助で社会に活躍する、

多くの留学生や奨学生たちの志で建てられた。

先生の銅像の除幕式のための132回目の渡泰にあたり、 

奥様は肝臓病で倒れてしまった。

それまで常に一緒に傍らに寄り添い、先生の活動を誰よりも

応援し支えてきた奥様のいない初めての旅になった。

 

先生は式典で関係者に感謝しつつも、さびしそうに、つぶやく: 

“うちのおばさんがおらんのが、一番つらい。”

 

翌年、2007年11月の慰霊の旅、133回目タイへの旅立ち、

永瀬先生は90歳になっていた。 この旅から帰ってきて初めて

周囲の人に弱音を聞いた。

もうタイ国には二度と行かないからね。 こっちでおとなくして、

いやもう、体がもたん、体がつらいですよ。”

 

翌年春、タイ人の元留学生たちが倉敷を訪れて、奥様の見舞いをしながら、

もう一度、ご夫婦でタイに来てほしいと懇願した。 

永瀬先生はその後押しでもう行くまいと思っていた旅に思いを馳せ、

彼らに応える:

できれば(妻を) 連れていきたいから・・・”“いつがええかな?”

 

留学生の代表が嬉しそうに答える:

“いつでもいいです。”

 

こうして、2008年6月134回目のタイ慰霊の旅の実現となった。

しかし、奥様は皆の期待に副えなかった。 

出発前の血液検査の結果が悪くドクターストップがかかったからだ。

奥様の言葉がスクリーンに流れる:

“もし、帰ってきてから(私が)死んだいうようなことがあったときに、

主人が‘わしが困るけん、おっておれ’と言うんじゃ”

 

一人でタイに到着、泰緬鉄道に乗り込んだ先生。表情は暗い。

体がきつい。奥様は傍らにいない。

ついに目的地に着かないまま、激しい振動が体に応えたのだろうか。 

途中下車して車に乗り換えた。

こうして終えた旅の最後の日。

スクリーンにクワイ河にかかった大きな虹が映る。 

それは先生がハードな予定をこなし、翌日はカンチャナブリを去る

という日だった。

 

“ほんとに今まで何度も(134回)来たけど、こんな虹が出たのは初めて!

最後の旅として本当に私はよかった”

 

と先生は虹を見上げて、感慨深くつぶやく。 続けて

“素晴らしい!” “天国への橋じゃ”・・・

 

帰国して翌日、奥様にその報告をする先生。

“あんなにきれいな虹が天国に向かってなあ、パーッと出た。 

写真撮ってきたけどな。後で見せてあげる。 

クワイ河で虹が出たのは初めて。 きれいだった。” 

 

すると、奥様は、“それなのに、私を連れて行かずに・・・

今回は一緒にいこうと思って一生懸命自分でも体の調子を見ながらなあ” 

周囲にもその決意を語った。

今回は行けなかったけど、必ず、次は私も一緒に行きますよ と

 

奥様は進んで手術を受けた。それは、肝臓病で点滴が必須だった奥様がもし、

タイの田舎でたおれても、点滴を受けるためのポートを胸に埋め込む手術だった。

それは死をかけた旅でもあったようだ。スクリーンに映る奥様のベッドに

横たわった様子はどうみても、旅行に、しかも海外旅行に行くような元気の

ある姿とはとても言えない。

 

タイに行けそうですか?” という質問に 

気分は変わらん。行こうと思うとるし”、“死にとうはないけど、

死んでも・・・” と答えた。

 

担当医師は 旅を薦めなかった。 が、奥様自身が一番よく知っていらした。

“来年いうたら、私が元気がねえけん、今の元気なうちが自分で一番ええと

思うとるけん。”

 

いよいよ旅立ち。 広島空港から車いすで旅だつ奥様の姿と表情は 

重篤な病人のようだった。

これから数日間バンコクからカンチャナブリに行き、そこから車で片道

4時間以上のミャンマーの国境まで日帰りする。

戻って、平和基金の催す式典やパーティーにカンチャナブリで出るという

多忙でハードな予定をこなせる体ではとてもないように見えた。

 

タイについて お二人が、真っ先に向かったのが1986年 永瀬先生が

建立したクワイ河平和寺院。

二つの結婚指輪がその金色の銅像の頭の部分に溶けて入っているとのこと。

 

次に永瀬先生の銅像を見に河のほとりにたつ二人。奥様はにこやかに見上げて

“同じね”と 先生の等身大で 表情もよく掘り込まれた銅像を評し、付け加えた。

 

“お父さん、永久にここにおりなさい”

この銅像に先生の魂が自由になったとき、戻ってくるようにと示唆するかのように。

 

これは現実になる。 

それから数年とたたない内に、永瀬先生と奥様の遺骨はこの銅像の下から、

川に流されたのだ。

 

翌日は連合軍の墓地の慰霊。この墓地は先生が慰霊の旅を始めるきっかけと

なった場所だった。

昭和39年に、元連合軍の戦没者の骨を拾い集めたのだ。 

そして、その骨はこの墓地に埋葬された。

翌日は 奥様のお兄様が戦われたというミャンマー国境まで往復8時間

以上の日帰りの旅に出る。こうして すべての予定をこなしてお二人は

帰国されたのだった。

 

映画の圧巻な場面がここから続く。自然治癒力的観方での話である。

帰国してからの奥様が変わった。 

元気だったころの面影が御顔に 日が刺すように照らすのである。

そんな奥様に帰宅直後の会話の中で、先生も不思議そうに奥様のお顔を眺め、

話しかける。

“ものすごく、元気になった。ああいうことがあるんじゃな。

気持ちのせいじゃな。”

 

気持ちのせいじゃな・・・ 先生ご自身、終戦後は身心ともにボロボロだった

という。病がちで、いくつもの持病をかかえていた。

が、ライフワークとして 慰霊と和解の人生に全力を傾け始めてから、

いつの間にか 体質が変わり、135回、92歳まで現役でハードな旅の予定を

こなす健康を得た。

 

奥様にしてみても、死を目前に意識しての旅だったに違いない。

私が行かねば、もう、この人(先生)はタイに行かないだろう、だから、今回は

最後の旅、絶対、一緒に行く。

 

その決意どおり、カンチャナブリで奥様は責任を果たされた。

先生の最後の旅を完結するための役割を果たそうという

愛に突き動かされたのだろう。

 

奥様のとびっきり明るい、旅立ち前の、むくみが取れたスッキリしたお顔に

広がる満面の笑みが 数秒スクリーンにアップで拡がった。

容態が急変したのは、それからひと月後。 

その笑顔の日から三か月後、奥様は安らかにこの世を去ったのだ。

慰安室での柩(ひつぎ)の中の奥様が映し出されている。 

遠目からはっきりとその表情がわかる。

美しく、荘厳なお顔だ。

葬儀の場面では 先生が何度も柩に顔をうずめて、奥様のお顔を愛撫された。

そして ”何度でもキスしてやりたい。お世話になりました。“

と言いながら 柩の中の愛する奥様の傍らから離れようとされないのが

印象的だった。

 

奥様は最後の135回目のタイへの慰霊の旅の際、こうした問答を残している。

何が一番タイで楽しみですか?”

の質問に、“別に楽しいことはないん 義務のように思うてしよるじゃけん。

日本の恥じゃが。それを感じ取るんじゃけん、しようがねえ。

国が感じないようなことを感じとんじゃけん。”

 

先生の同志として一生を終えられた奥様を追うように、それから2年後

2011年6月先生も永眠された。

93歳の生涯だった。 亡くなるひと月前、先生のご自宅にお邪魔して一緒に

寿司を食べた。 

その時に、先生が夫に頼んだ言葉があった。

“須田君、ぜひ、レオ・ローリング元捕虜の絵を、もう一度世に出してくれや。” 

 

ローリング氏はイギリス本国の画家だった。

捕虜になっている間、自然染料を自ら造り、多くの絵を描き残して、

隠していた。それが “対面鉄道の奴隷たち”というタイトルで1980年に 

永瀬先生の翻訳で出版された。

初めてこれを手にしたとき、おどろおどろしい生々しい拷問や虐待、骨と皮に

なった捕虜たちの姿が 衝撃的でなかなか読み進められなかった事を記憶

している。

 

この本の絵の部分をもう一度まとめなおして、編集して出版してほしいという

先生の願い、それは、何を意図していたのだろうか?~と時々問う。

あの拷問、人を人として扱わないことに何も感じられなかった時代と軍人たちの

メンタリティーこそ、誰の心にも多かれ少なかれひそむ、影の心の一片であること、

それを自覚し、一人一人が、そのマイナスの心を全滅させない限り、本当の意味で

地球上から戦争がなくならないこと 誰よりも人間の尊厳について考えたであろう

先生の 私たちへの最後のメッセージのような気がした。

 

影とは有り難い。 影があるから光を求められる。 

私たちは 健康に普通の生活を当たり前に送っているが、何か災害や不幸にみまわれて、

失ったものを気が付くのが常である。

だからこそ、今 安穏な生活を甘受しているこの瞬間に、感謝し、油断せずに

自分の心の影を光に変えていこうとする間断ない意識を向けていくことが、

必要なのだとつくづく感じる。

 

 

* ”クワイ河に虹をかけた男” 満田康弘監督 上映時間 約2時間 

東中野西口から徒歩2分 ”ぼれぼれ東中野”(tel:03-3371-0082)

で 9月16日まで上映中

 

 

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