自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

木内鶴彦氏の疑問“病気っていったい、何だろう?”

2017年08月29日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 病気が治ったということは細胞がどうなること?

2017・8・29

***************************************************

シリーズで インドの準聖典 ギータの中からのヨガの様々な

スタイルを挙げている途中であるが、少し、息抜きのつもりで、

木内鶴彦氏(注2参照)の自然治癒力の持論をご紹介したい。

 著書(*1)から引用する(引用部分、青文字);

 

“私のように物理を学んだ人間は、何事も原因があって、結果が

あるものだと思っています。 


ですから、物理的な原因を突き止め、それを改善しない限りは、

病気という結果を退治することはできないと思っていたのです。


医学でもそういうことは当然明らかになっていると思い込んで

いたのです。 

ところが、私の予想に反して医師の方々は、明確な答えを出して

くれませんでした。 


私は質問の内容をちょっと、変えてみました。

‘お医者様は薬を処方されますが、薬が体の中でどういう反応を

起こして細胞がどう変化したことをもって、病気が治ったとする

のですか?’ 

この質問にも、答えてくれる医師はいませんでした。”

 

木内氏は、今の医療現場では、対症療法が精いっぱいであることを、

知りあいの医師たちの話を通じて納得した。


生命体の成分を解析して、その成分を精密に分析し、生命体を

構成しているたんぱく質とその栄養になるものを、ビーカーに入れて

撹拌すれば、生命体が発症するかといえば、あり得ない。


木内氏は考えた。

そこに何が加われば、生命誕生の可能性が出てくるのかと。

その答えは、“太古の地球で生命発生の場となった、水’”が必須であると。


その理由は以下のように述べている;

 

“タンパク質は水に溶けたときに、初めてイオン化します。 

そしてイオン化することによって、ひきつけあったり重なったりして、

化学反応を起こし、生命体が誕生するのです。


生命体は、たえず、化学反応を行っています。 

化学反応の結果、生まれるのは熱エネルギーと不純物です。 

熱エネルギーは生命体の維持に使われ、不純物は不要なものなので、

体外に排出されるのですが、この不純物を運び出してくれるのも、

また、水なのです。“

 

水に溶けイオン化したたんぱく質が化学反応することで、生命体が

誕生し、生命体自身の中で、化学変化を起こし存続するための

エネルギーを得て、不純物となった不要物を体外に捨てる、


この循環を、“生命体”の一つの定義としてとらえている。

循環が正常ならば、生命体としての健康を維持できるわけで、

病気になるということは、生命体の循環に何らかの支障が出てきた

時と、木内氏は言う。

 

“生命体は細胞の集まりです。 

生命を維持するために、それぞれの細胞に栄養素を運ばなければ

なりません。


もちろん、各細胞で出た不純物も排出されなければなりません。

しかし、生命体の中に入ってくるのは栄養素ばかりではありません。


ウイルスや有毒な成分が食べ物に紛れて、入ってくることもあります。 

それらを退治するために、生命体は、酵素やキラー細胞といった

自衛手段を持っています。”

 

ここで自然治癒力の働きの一環についても木内氏は述べている。


“生命体の自衛手段”という呼び方をしている。

それでも過度なストレスや、その他要因で、生命体の循環作用が

滞ることがある。


その時、病気に人はなるのだと、木内氏は次のように解説している;


“不純物や分解しきれなかった毒素が体内に溜まっていくと、

体内の水分は汚れて、飽和状態になってしまいます。


汚れで飽和状態になった水が、体の中を流れていては、栄養素を

運ぶことも、新たに生まれた不純物を運び出すこともできなくなり、

死を招くことになります。


細胞の栄養不良とたまった不純物、これが病気を生み出している

原因ではないかと私は考えたのです。“

 

ここでは、“体内の水分”という表現をしているが 実際は 血液を

指すのだと思う。

よく、高血圧の人は、血液をサラサラにする薬を飲んで、起こりえる病を

予防する方法がとられているようだが、血液が綺麗であるということは、

健康の第一条件であることは東洋医学でも言われていることだ。


さらに、木内氏はサプリメントの効果についても、疑問を投げかける。


“病気になったとき栄養素が不足しているからと、やたらとビタミン剤や

サプリメントを飲む人がいますが、あまり効果は期待できないでしょう。 


なぜなら、体内の水分が汚れで飽和状態になっているのに、

どんどん栄養素をつぎ込んでも必要な細胞にまで運ばれないからです。”

 

それ以外の理由としては、サプリメントはいろいろな名前で呼ばれて

いる製品でも、いったん体内に入ると、咀嚼され、分解され、

原型そのままの形で体の栄養素になるわけではないので、あまり

効果ないという意見に賛同している。


体は、自然の食物内のサプリメント的栄養素しか、実際は吸収しない

という説もあり、気休めとしてとる分なら、精神的補強という意味で

効用がみられると私自身は思う。


木内氏は病気になった人限定で、サプリメントの無効果を述べているが、

健康な人が摂取する場合はなおさら、サプリメントの栄養学的効用の

科学的統計は難しいように思う。

心理学的効用がある程度 効果に加担していると考えるからだ。

 

最後に木内氏は、薬の副作用について一言述べている:


“薬も体内で化学変化を起こすものだということです。 


化学的変化が起こる以上、熱エネルギーと不純物は必ず出ます。

そうすると、この薬によってうまれた 不純物が、今度は別のところで、

滞り、細胞に悪い影響を及ぼすことになります。

これがいわゆる、薬の副作用だと考えられます。”

 

木内氏はご自身の深い研究体験からこのように結論づけられた。

一つの参考意見として、ご紹介したいと思った。

 

 

注1)『生き方は星空が教えてくれる』 サンマーク出版、2003年4月

注2)木内鶴彦氏の略歴[編集]

1990年3月16日 - チェルニス・木内・中村彗星(1990b)発見。

1990年7月16日 - 土屋・木内彗星(1990i)発見。

1991年1月7日 - メトカーフ・ブリューイントン彗星発見。

1992年9月27日 - スイフト・タットル彗星再発見。

1993年 - 北海道の北見観測所で円舘金と渡辺和郎が発見した

小惑星 (5481) が「木内」(Kiuchi) と命名される。

1997年 - TBS「いのちの響」に出演

2001年 - 6月公開の映画 STEREO FUTURE 

(製作・配給=東北新社 監督:中野裕之)

     に出演

2004年 - 長野県北佐久郡望月町(現長野県佐久市)に、

北八ヶ岳第一天文台を開設。

2010年 - 「東久邇宮文化褒賞」受賞 彗星探査,環境保護活動、

炭素化炉システム、太古の水の開発が評価された

 雨, シャワー, 嵐, ウェット, 水, 湖, 海, 川, 池, アウトドア

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ギータの中のヨガ④ Dhyana Yogaha (後半)

2017年08月24日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

瞑想を通じて神と一体になるヨガ(後半)2017.8.24

****************************************

 

少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、いいかえると、

神と一体になるための方法を クリシュナの言葉を借りて、

これからシリーズで、お伝えできればと願う。

ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する 

’Indwelling Entity',つまり、”内在する普遍の資質”、別名アートマ 

のことである。

誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達は

自覚していない。

自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。

苦労を苦労と思わず、喜びの波に有頂天になることもなく、

淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が

生まれて、変化というより、変容するに違いない。 

自然治癒力、病気の意義や病気の真の原因も、自ずから、

納得していただけると思う。

ディワリ, 祭り, インド, 伝統的な, ヒンドゥー教, ディーパバリ, 文化

 先回はユクタ(スピリチュアル意識を深く実践できる人)に触れたところで

終わっていた。 

ギータ6章では、瞑想の道を説く前の前振りとして、内なる神と結ばれる心持に

なる心得として、五感のセンセーションから解放された本当の自己になること

(感覚に左右されやすい自分のマスターになること)、結果を求めず、

そのプロセス(経過)においても、自分の野心や野望を重ねないこと、

常に自己の内なる神を意識しながら、中庸な生活の道を歩み、平穏な心持ちで

生活することが ユクタであると、クリシュナはアルジュナに説いた。

 

そのための方法に瞑想を挙げている。

具体的にクリシュナはその方法を以下のように語っている:

“The person who wants to embrace divinity, must, always in the 

privacy of solitude,

install himself with the Indweller.

聖なる資質を見出したい人は、常に一人の個人的な空間の中で内なる神を

心に反映させるべきである。

 

He must control his body and mind, must be without desires and 

possessive tendencies. In a clean place, he prepares a stable seat 

for himself that is neither too high nor too low and covers it with grass, 

animal-skin and a piece of cloth.

その人は、欲望や物質的所有願望を排除していき、身心を制御する。

(そのために)清潔な場所に、草や動物の皮、布などで地面を覆い、

高くも低くもない安定した座り場所を確保する。(須田注:瞑想のための場所)

 

Seated on that, controlling the impulses of the mind and senses and 

directing them to the Indweller, he must practice the purification of 

his mind. 

そこに座し、心と感覚を落ち着かせ、内なる神に心と感覚を向け、心を浄化

せしめる練習を行う。

 

Keeping his body, head and neck erect, stable and motionless, 

without cognizing external objects, with eyes focused on the tip of 

the nose facilitating one-pointed mental vision, without fear of any 

sort, with a controlled and peaceful mind, practicing celibacy, 

keeping Me as the goal and thinking of Me, he becomes spiritually 

skillful and competent.

体と頭と首は直立に伸ばし、外部に気をとられることなく 

動かさず、じっと静かに保つ。

目は鼻の先に視線を集中させると、心に集中して、ヴィジョンを

抱きやすい。 

微塵も恐怖の心を抱かず、安穏としたコントロールされた

気持ちで、欲望をいだかず、’私”を最終目標に置き、

’私’の事を念じることで、スピリチュアル性を獲得し瞑想は深まり、

上手くいくだろう“

 (6-10 to 14)

 

”私”のことに集中せよ~とは、クリシュナ自身をさしているように

思う。 

同時に、心の内なる神の資質である本来の自分は、宇宙維持の神、

ヴィシュヌ神のアヴァター(生まれ変わり)であるクリシュナに

通じることでもあるので、それに想念を全面的に瞑想中は向けなさいと

言っているのだろう。

アルジュナにこれを語った時、現実に生きている人間の姿をもった

クリシュナを思い浮かべ、瞑想中、心に座すクリシュナに、

集中想念を送ることは、きっと、漠然とした内なる神という存在より、

具体的で効果的だったのに違いない。

私の尊敬する、プッタパルティの故サイババ師は、仏教、キリスト教、

イスラム教、拝火教、ヒンズー教、すべての宗教が崇める神は、

結局は一つの宇宙神であるゆえ、

どの神の姿を思い浮かべ瞑想しても、かまわないと教えた。

この神のみに集中せよ~と限定すれば、神に限界を与えることになり

’普遍な神’という宇宙神の影像と一致しなくなるだろう。

 

現代人の私たちは、クリシュナの代わりに 仏陀やキリスト あるいは

その人が信仰する神様を瞑想中、思念の焦点とすることが、

理にかなっているのだと思う。

 

ここで大切なことは、私たちの奥深いところの内在する‘神’と同じDNAを

持つ自分の神性を自覚すること、それによって、ひきだすこと、それが、

言葉をかえれば、’master myself’ ということであり、自分を統御して、

あるいは、コントロールして、引き出された自分という意味でもあるだろう。

 

日本には仏教の座禅という形で、インド古代の瞑想は伝わり、

現代に根付いているので、日本人にとっては 座禅を組むとか瞑想する 

とかいう習慣はなじみ薄いものではない。

が、キリスト教圏内やイスラム教圏内にとっては、祈りの時間外に、

瞑想するという習慣はないように思う。

しかし、これらの瞑想による精神的安定効果は、実際の医療現場で

ヨーロッパやアメリカで、臨床心理学で応用され、成功を果たしている。

今、流行りのマインドフルネス という方法も、瞑想から来ているのは

注目したい。

果たして、瞑想して何がどのように、変わっていくとクリシュナは

教えているのだろう?

 

クリシュナはそのことを次のように言う:

“With his mind immersed in the practice of focusing on the Indweller, 

he experiences the unity among the apparent diversities.

瞑想の中に心の焦点を常に内在する本我(神我)に合わせる努力を

するものは、現象的多様性に在って、統一的な体験を得る。

 

He sees the same Indweller appearing as himself and all the things 

around as well. 

身の回りすべての中に、彼自身の内在する神が、顕現していることを

知るのである。

 

He, who sees Me everywhere and sees all things in Me, is never lost 

to Me, nor am I lost to him.

そのように、すべからく万物に“我”(神)がいることを見て知る者は、

“我”もまた、その人を見失うことはない。

 

This spiritual aspirant who is established in the experience of unity 

in the apparent diversities, worshipping Me present in all beings, 

gets established in Me at all times regardless of whatever actions

 he undertakes.

このように、スピリチュアルな大望を抱くものは、生きとし生ける者に存在

する”我“を崇拝し、現象の多様性の中に統一性を確立して、常に、彼が何を

なしていても、”我“とともに行動するのである。

 

My dear Arjuna! That spiritual aspirant who always keeps himself 

with the Indweller and experiences both pleasure and misery to be 

the same, is the most exalted-so it has been ascertained!

愛するアルジュナよ! スピリチュアルな大志を抱くものは、不幸の中でも、

喜びの中でも、同じく、内在する神とともにあるがゆえに、最も格調高い、

そのことはすでに確認されていることだ”

(6-29 to 32)

 

瞑想の目的も方法も、宗教や宗派によって異なることだろう。 

クリシュナはここに一つの指針を与えているようだ。

つまり、その目的は、心を落ち着けることや無我の境地を試みることだけでは

なく、瞑想する人の心の内奥を深く深く掘り下げ、究極に座している、

本来のその人の魂~神と同質の大我に焦点を当てるということだ。 

それが 瞑想の大きな目的で、それをたゆまず、修練するうちに、

現実生活の中に少しずつ変化が訪れるという。 

 

Indwellerを見続けている人は、現象の波の中に、喜びや悲しみの波の中に、

一転のゆるぎない、心の碇(いかり)を下すことができ、波に

翻弄されるように見えるときでも、流されない自己を体験し得るというのだ。 

それはまた、現象に現れる万物や万象に神の存在を感じるということでもある。 

だからこそ、私たちには不幸に見える事柄も幸せに見える事柄もそれに 

一喜一憂して心を動揺させるほどのこともなく、すべての事項の裏には

私たちの知らない、見えない、感じない、神の恩寵と愛が常にそこに

存在しているということも知りえるというのだろう。

 

この章の最後にクリシュナは、興味深いことを語る。

それは、今生で霊性が高いか否かというのは 前世でどのように

生きてきたかが影響しているという。

“His spiritual maturity at re-birth is at the level attained in the

 previous body.

 輪廻して得たスピリチュアルな成熟度は前生で得たレヴェルでもある。

 前世で獲得した分の 精神的スピリチュアル的成熟度はすでに

生まれながらにその人に備わっているという。

さらに、

 He then strives to progress further in efforts to embrace the Indweller.

彼は内なる神と一体化するための努力をさらに続け進化していくだろう。

 

Unconsciously, he is impelled by the practices undertaken 

by the previous body.

無意識にも、彼はかつて生きてきた時と同様の修練を今世でも自分に

課している。

 

Even a sincere enquirer of the knowledge about the Indweller 

transcends the bondage of actions originating in the Vedas.

 内在する神に関する真摯な知識の取得者でさえ、ヴェーダに基づいて

行動の規制(しがらみ)を乗り越えている。

 

(須田注; 瞑想実践しない、知識者ですら、行動のしがらみ、つまり、

カルマを超越することが可能だという。)であるのなら、なおさら、

瞑想するものは、神の栄光を勝ち取るだろうと、クリシュナは言う。

 

 The committed spiritual practitioner who practices embracing the 

Indweller with perseverance, gets purified of sins, progresses 

step by step to fulfillment many births and attains the most exalted

 and glorious state of the Indweller.

 スピリチュアルな熟練者は不屈な努力で内在する神と一体になろうと、

修練し、罪を清め、一歩一歩、その時の転生を大切に努力を重ね、

最高の栄光ある神との一体を成し遂げるのである”

 (6-40 to 45)

 

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ギータの中のヨガ④ Dhyana Yogaha (前半)

2017年08月19日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

瞑想を通じて神と一体になるヨガ ~(前半)中庸な道

*****************************2017.8.19

前回よりの続きです)


ギータ6章でのクリシュナとアルジュナの会話が、今日のテーマである、

クリシュナは、瞑想を通じて神と一体感を味わうことについて語る。

6章1-2でクリシュナはアルジュナにこう語っている:

“神性と一体化することが、俗世間から離れることだと言われてきている。

プロセス(経過中)での 自己の思惑や欲望を犠牲にせずして、

その目的に達することはできない。“

続けて

“It is said that for the seeker of freedom, 

doing action is the means for progress.

 Purification of the mind is the means as the progresses 

to embrace the Indweller and becomes skilled at it. 

He starts embracing the Indweller when he doesn’t 

attach himself to the sense-objects or actions, 

and renounces all possessive desires and resultant resolutions. 

(6-3-4)”

 

自由を求める人にとって、行動することは進歩することだと言われている。

心を浄化することが、神を心に抱くための向上手段であり、

それを確実に助ける。

五感の刺激対象に無頓着になり、五感の刺激のための行動に束縛されず、

持てる欲望を捨てられたとき、彼は内なる神と一体感を味わい始める

 

五感の欲望や刺激に執着なくいられる、そうした魂の進化はどのように

達成できるのだろう?

クリシュナは そうした理想に程遠い状態の自分をダメだと決めつけるな

という。

自分こそが、最高の友であり、敵にもなるからだ。

自分という敵に勝った時の自分は、最高の友となる。 

その反対も真なりである。

その事を以下のように、表現している。

“He, who has not mastered himself, becomes his own friend. 

He, who has not mastered himself, becomes his own enemy 

and plays the role of an opponent to himself” (6-5,6)

 

上記青文字の言葉の中の、

”He, who has mastered himself” という表現は、自分自身の主になる

ことで、(小我の)自分に勝った人といういみだが、

サンスクリット語の原語に近い英訳であるはずなので、

この一行をもう少し深く読んでみたい。

 

Master、マスターするという意味は、例えば、外国語を使いこなせるように

なったときなどに、使われているが、目的語が、自分であったとき、

つまり、’自分をマスターする’というとき、の意味はどのような状態を

指すのだろう。

クリシュナは具体的にその状態をこう述べる;

“He, who has mastered himself, stays peaceful and undisturbed 

while contacting the opposing sensations of cold and heat and 

remains unperturbed by honor and humiliation. “ 

つまり、

”自己をマスターした人は、平穏な心持で、対極的な感覚的刺激、たとえば、

冷たさや熱さ、などに煩わされず、名誉や屈辱に心を踊らされないように

なる。“

 

平穏な心持とは、平和な平常心を常に保っていられること。 

対極的な刺激とは私たちが日常生活で“感じることすべて一般”が

対象になるだろう。

好き嫌いの感覚を起こさせる事柄や現象や人や物、に対する自分の気持ちは

常に自分の感覚器官からくる刺激となって、心の波を作り出す。

綺麗-汚い、美味しい―まずい、愉快-不愉快、嬉しい-悲しい、など、

感覚によってもたらされる情報に心が引っ張られると、平常心とか穏やかな

心持というのは維持が難しいということだろう。

 

それは難しいことだが サンスクリット語でいう “ユクタ(yukuta)”

を心がければ、可能だとさらにクリシュナは説く;

“This peace is not available to the one who eats excessively or

 to the one who starves, to the one who sleeps excessively or 

to the one who abstains from sleep. 

The skilled spiritual practitioners(yukuta) who practice 

moderation in food, living, action and sleep are able to 

embrace the Indweller without difficulty.” (6-16,17)

 

訳)心の平安は過剰に食べる人や飢えている人は得難いし、

過剰に睡眠をとる人や不眠症の人にも得難い。

スピリチュアルな行動に長けている人(ユクタ)は、程よく食事し、生活し、

行動し、睡眠をとり、困難なく、内心に存在する、絶対者を心に抱くことが

可能となる。“

 

古代インドでも、日常生活での”~過ぎない”ようにという、

注意を 敢えてクリシュナがアルジュナに語って聞かせるほど、

ほどほどの調和のとれた、’程よく’ の生活は 当たり前であるからこそ、

案外難しかったのかもしれない。

 

(前半終わり、次回、後半に続く~)

 

クリシュナと恋人ラダのモチーフ。横笛を吹き、牛飼い女たちと踊りながら、その中の一人

最愛のラダと愛を育むクリシュナの有名なモチーフ 

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ギータの中のヨガ③ Sanyasa Yogaha

2017年08月14日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

Embracing Divinity through Renunciation : 世俗を捨てて神性を抱くヨガ

2017・8・14

*******************************************

 少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、いいかえると、

 神と一体になるための方法を クリシュナの言葉を借りて、これからシリーズで、

 お伝えできればと願う。

 ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

 クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する ’Indwelling Entity',

 つまり、”内在する普遍の資質”、別名アートマ のことである。

 誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達は自覚していない。

 自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。苦労を苦労と思わず、

 喜びの波に有頂天になることもなく、淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が

 生まれて、変化というより、変容するに違いない。 自然治癒力、病気の本質や

その原因も、自ずから、納得していただけると思う。

 

 

その話(前回)を聞いたアルジュナはクリシュナにこんな質問を投げかける

(5章-1)

“Krishna! 

You praise both giving up action and embracing action. 

Among these of two, which is superior? “

訳)クリシュナ!

あなたは行動をあきらめること、そして、行動をすること、双方の意義を

たたえているが、実際、どちらが勝っているのでしょうか?“

 

クリシュナは現実的にこう答える:

“Among these two, doing action is better than not doing it.

He, who neither hates nor desires is to be understood 

as an eternal renunciant. Having freed himself from the 

attraction of the opposites, he very easily frees himself 

from the bondage of action. It is the amateurs, not the scholars, 

who describe knowledge and action as different. 

He, who establishes himself firmly in any one of these two, 

gets the benefit of both. 

The final state of awareness attained by the enquirers of knowledge 

is attained by the practitioners of selfless action as also.  

Knowledge is the same as embracing divinity in action. 

He, who realizes this, has indeed realized.  

Without doing action and embracing divinity while doing so, 

it is very difficult to give up the awareness ‘I’m the doer.’

But embracing action as divinity itself and becoming skilled 

at this embrace, one rises to the awareness of Brahman promptly.”

 (5-2 to 5-6)

訳)行動する方が行動しないより勝る。

憎しみも欲望もなくなったものは世捨て人と理解されよう。

また、自分に向き合う魅惑的対象(誘惑)に左右されなければ

行動の束縛からも解き放たれる。

また、知識と行動とは別物だというものは素人(神の智慧において)

学者(熟知者)ではない。

知識か行動か、どちらかにおいて、自己をしっかりと確立したものは

双方の恩恵を受け取ることができる。

つまり、真理の知識を積み重ね、最終的に悟った人は 同時に、

無我の行動の実践者になるのである。

真理に至る知識とは、行動するうえで神性を意識しているということだ。

それを悟ったものは、まこと解脱を実践できる。

行動しているとき、同時に、神性を心に抱いていないと、

‘行動を起こしている者(行為者)は私である’ という考えをなかなか

捨てることは難しい。(須田注:行動していても、私を媒体に神が

この行為を為している~という考え方が、神を心に抱いている人の考え方)

しかし、行動は神性からなされているという考えを抱き、

それに徹することができたとき、人は即ブラフマン(宇宙神)の

智慧の高みに到達できるだろう。

 

 上のクリシュナの言葉で大切な要点をピックアップしてみると~

 

①    知識において、行動するときにおいて、神と自己の関係をしっかりと

把握したものは、双方の恩恵を受け取ることができる。

つまり、真理の知識を積み重ね、最終的に悟った人は 同時に、

無我の行動の実践者となり、解脱することができる。

 ******

 

ここでクリシュナが言う所の、知識とは、受験のために暗記したり

するような教科書に書かれている知識ではない。

サンスクリット語の言語では その知識を、ヴィディヤ と呼ぶ。

そういえば、タイ国に仏教とともに、サンスクリット語が伝わり、

タイでは、現在でも、大学をウイッタヤアライというが、もともと 

大学 で教えた事は、真理のための知識で、その場所を、勉強する

最高教育学府という意味でこのようにサンスクリット語がそのまま、

使われたのだろう。

 

②    神性の働きが基にあり、(自分は)行動しているという考えに

徹すること。

そのような行動の積み重ねで、人は即ブラフマン(宇宙神)の智慧の高みに

到達できるだろう。

 ***

自分が行動をする、が、その行動の成し手は、自分の小さなエゴではなく、

この自分を生かしている、大きな生命の力、そしてその意思、つまり,

神性が自分を使って行動している~と理解できたときは、

その人は最高の智慧(ブラフマンの智慧)を獲得できるという。

この理想的な意識を再び、繰り返して説明しているのが以下の

クリシュナの言葉である。

With mind purified and focused on divinity, with body and senses 

well controlled, he does his actions attaching himself

 to the one spirit that motivates him and all beings. 

Although he undertakes actions, he is not touched by them. 

The wise, mentally holding on to the Indweller and d

oing actions like seeing, hearing, touching, smelling, 

eating, moving about, dreaming and breathing must think 

‘I’m not the doer.’(5-7~8)

訳)心を澄ませ、自分の内奥にある、神性に焦点を合わし、

身体と感覚器官を その自分のコントロール下 において、

生きとし生けるものを生かしている宇宙の心に自分の行動の動機

を置く人。

その人は、行動していても、それに影響されることはない。

賢者というものは、気持ちは常に内なる神に全託して、見たり、聞いたり、

触れたり、嗅いだり、味わったり、動き回り、夢見たり、息をしたりして

いるが、‘私(小我)が、行為者ではない’ と考えている。

***

内なる自分の本質、Indweller を常に意識しながら行動する人は

自分が主体となってする行為ですら、’自分がなしているのではない’と

認識している。 では、誰の行為か?といえば、冒頭のクリシュナ

の言葉にあるように、Indweller の行為であると考える。

このことは、上のクリシュナの言葉の中の、

’he does his actions attaching himself to the one spirit that

 motivates him and all beings.’という言い回しに込められて

いるのだろう。

 さらに、続けてクリシュナはそのことを強調して以下のように

述べている:

 

People who do their actions embracing the Indweller purify 

their mental impulses. 

Whatever actions they do with their body, mind, 

intelligence or the senses, they do without attachment 

to the actions, results or to the feeling ‘I’m the doer.’

He, who practices the discipline of doing action as selfless 

sacrifice and who discards the desire for results from his actions, 

attains peace progressively as his discipline progresses. 

On the other hand, the person without this discipline is 

impelled by desire for the results of action and gets bound 

by action. (5-11,12)

訳)内なる神への意識を抱いて行動するものは、自然と心が清まる。

肉体的、心的、知的、感覚的な いずれの行動をとる際でも、

自分が行為者であるという思いはなく、行いや結果に対し何も執着

を持たない。

無我で、犠牲的行為を自制的に行い、その行為の代償に得る結果を

放棄する人は、修行の進展にあった、心の安寧を徐々に得ていく。 

一方、こうした自己修養に無頓着なら、欲望に促されるまま、

行為の結果を求め、その行為に縛られることになる。

 

精神的、スピリチュアルな行動だけが神の目から見て、心の安寧に

つながる、

無我の犠牲的行為ではないらしい。

肉体的な行動、つまり、本能的、生きるために必要な行動、

感覚的な行動、つまり、五感感覚が察知した刺激や情報に反応して

行動する行為、それらでさえ、無私で犠牲的行動となりえるという。

どういうことだろう?

Indweller と呼ばれる、誰の心にも座している、神性の自分を意識

して行動すれば、どんな行為も、ある意味、神に捧げる行為となる

のだろう。

犠牲というのは、自分の小さな意識、エゴ意識を犠牲として捧げること

かもしれない、。

行為の結果を求めて行為するのでなければ、その行為は”エゴ”の自分では

なく、”神性の自分が行為者” であるという意識に達するのだろう。

”肉体的、心的、知的、感覚的” の日常生活 一つ一つの行為すべてに、

それは当てはまるのだろう。

 

この章で、クリシュナは、世俗を捨てて神と一体になるヨガ 

を教えている。

それは決して、家族や仕事を捨てて、洞窟や森の隠者の生活を

勧めているのではなく、エゴ意識、自分がしている という

意識を犠牲に神に捧げ、すべての行為は神のために、あるいは、

神自身が 行っているのだという

意識で行うことを指しているのだ。

だから、誰でも今から、この場所で、実践できるヨガでもある。

何を捨てるのか?

小さな自分、エゴ意識を行為の主体者とするのではなく、それを捨てて、

大きな自我、大我、つまり、神性に帰結して、行為する心持を抱け

ということなのだろう。

 


 

 

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ギータの中のヨガ② Saankhya Yogaha”

2017年08月09日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

アートマの本質を知ることによって内在する神性と合一する

*****************************************2017/8/09

少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、

いいかえると、神と一体になるための方法を クリシュナ

の言葉を借りて、これからシリーズで、 お伝えできればと

願う。 

ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する 

’Indwelling Entity',つまり、”内在する普遍の資質”、別名

アートマ のことである。


 誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達

は自覚していない。

自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。

苦労を苦労と思わず、喜びの波に有頂天になることもなく、

淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が生まれて、変化

というより、変容するに違いない。 

自然治癒力、病気の本質やその原因も、自ずから、納得して

いただけると思う。

 蓮の花, 孤立しました, Pngスイレン, 孤立しました, 花, 黄色の紫色

今日のクリシュナの言葉はギータの2章にある。 

 

背景として、アルジュナが戦闘の場に出陣するに及んで、

敵方に属している、自分の親類や師匠などに歯向かい、刃

を向けることに、心が萎えていくのである。

クリシュナはそこで、アートマ という 心の主体的主

あるじ)、人間の神聖なる本性、内在する神 について

語り、結局、殺し殺されという行為ですら、敵陣の人たち

のアートマを破壊することはできないのだから、心を消沈

させる意味はないと教え諭す。 

それでも、闘うとしたら、ダルマ(正義)を後世の人たちに

身をもって示すという使命で行うだけだと、付け加えている。


何頁にも上る、2章に書かれたクリシュナの言葉の中から、

ヨガ~神との合一に関しての言葉を選んでここにご紹介したい。

 

 Look, my dear son of Kunthi! The senses touch the 

sense-objects, as per their nature. These sensory contacts 

give rise to the feelings of cold, heat, pleasure, misery etc. 

These feelings come and go, appear and disappear. 

They are transitory. 

My dear Bhaaratha! Develop fortitude. 

 Bear them, unconcerned! 

Arujuna, you are a man of excellences! Remember, he 

whom the pleasures and miseries of life do not disturb 

and  whose intelligence is firmly established in the

 constancy among the changes – only he can be blissful 

always. 

That which is not (the “seen”), can never be; that which is 

(the “seer”), can never not be. Those who have understood 

the Truth, experience the finality of these two observations. “ 

(2-14,15,16) 

訳)クンティの息子よ!(アルジュナの事)

感覚器官はそれぞれの性質によって、外部の対象の情報を

与える。

寒い、暑い、喜び、悲しみ、などの感覚はやってきては

消えていく。

常に変化している。

だから、アルジュナよ、不屈の精神を養え。感情・感覚に

左右されるな。

お前にはそれができるのだ。

覚えておくがよい。喜びや悲しみに流されない者は、そうした

変化の中で絶えず知性をゆるぎない状況に置いている、

ただただ、彼は、そうして、至福を味わうことができるのだ。

認識されないことは成立することはなく、認識する人は

そうならないということはない。

真理を理解したものは、この二つのものの観方の結末を体験

することができる。“

 

’不屈の精神’とは、困難に負けないとか、根期強く努力前進

していくという意味とは異なり、五感感覚の対象に、微動だ

せず、心の平安を揺るがされないための、自分の最も内なる

本性に対してのゆるぎない信念をさしている。


それは 信じる、ということ、固い信念をさし、こうで

あると信じたことに対して、移り変わる世の中の現象に

影響を受けることなく、その信念を貫き通すということに

通じる。

 

“That which is not (the “seen”), can never be; that 

which is(the “seer”), can never not be.” 


と上のクリシュナの言葉の最後の節に出てくる言葉。

これは、禅問答のような言葉だ。 

See という言葉がキーワードだと思うが、これは単純

に見るというより、認識する(I see~わかった)という

ニュアンスだろう。 

つまり、the seen とは、認識されていること、その前に

notが付いているから、’認識されないこと’となる。 


認識するというのは、物事が成就するために’心の目で見る’

という意味がある。

だから、心の目できちんと見ていないことは、それが実現

することは難しいということだろう。


反対に、the seer 、つまり、認識する人 にとっては、

その人が認識したことは’そうならないということは無い’、

つまり、現実化する~ということだ


言い換えれば、認識を続けること、それと、信念を貫く

とは、ほとんど同義語かもしれない。

認識してはっきりと心の目でそれを見続けることが、実現の

一歩だからだ。 

そうすることによって、不動の心は造られ、どんな周りの

状況にも左右されずに、自分の思う所を現実に引き出すと

いう真理をクリシュナはアルジュナに教えた。

 

 次に、

“This indwelling entity the Atoma, neither kills nor gets

 killed. 

This entity never takes birth and never dies. It is never

 absent. 

Therefore, it is not something that makes its presence felt 

out of a sometime-absent situation. It has no birth, 

undergoes no change, is ancient and is always present. 

It is not killed when the body is killed. 

Purtha! 

He who knows this entity to be Indestructible, permanent, 

without birth and changeless, tell me, whom will be kill or 

who will he takes to be the killer? The indweller discards

 old, used-up clothes and don’s new clothes. Weapons do 

not destroy this entity. Fire does not burn this. Water does

 not wet this. 

Wind does not dry it. 

This entity cannot be cut, burnt, wetted or dried. 

 It is Indestructible, always present everywhere without 

movement and is well established. It is beyond the ability 

of the senses to perceive and of the mind to capture.

 It cannot be changed in anyway whatsoever.  

Therefore, understand it as such.

Do not be disheartened.”(2-17 to 2-25)

 

訳 心に住む神性、アートマは殺すことも殺される

こともない。

アートマは生まれたり死んだりすることはない。

存在しないということが無いのだ。つまり、ある時は

そこに在り、ある時は、そこに居ないということがない。

古代から現代にいたるまで、生まれることなく、変化

することなく存在している。

肉体が殺されても、アートマは殺されない。

変化することのない永久不滅の実在、それがアートマの

資質だとしたら、だれが一体殺し、誰が殺されるのか? 


内在するこの資質(アートマ)は古い服のように捨てられたり

しない。

武器でアートマを破壊できず、火で焼き尽くされたり、水に

ぬれたり、風に乾いたりするようなものではない。

傷つくことなく、自然の力に影響されることなく、あらゆる

ところに実在し、移動せずとも、よく秩序を保ち、人間の五感

を超えていて、心(mind)でとらえることはできない。

そういうものだと知るがよい。

ゆえに、心を落ち込ませることもなかろう。“

 

ここで初めて、アートマ という単語が出てくる。

簡単な比喩で、アートマの普遍性をクリシュナは

アルジュナに説く。

死と生の狭間(はざま)に置かれて、理不尽な殺戮を

余儀なくされていると感じている、不安げなアルジュナ

に対し、自分自身のアートマを自覚せよと、クリシュナ

は言う。


それは時を超えて、ただ“存在”している唯一の実体で

あることを、様々な角度で語り、アルジュナに理解を

求める。

 

ギータで描かれる クンティ家とその敵,ドリタラシタラ

(Dhritharashtra)家 の闘いは、この地球上の対照的価値観、

つまり、二元性の世界(二つの価値観のある世界)の象徴

である。 

アルジュナの属す、クンティ家は スピリチュアルな存在

として象徴的に暗示され、敵方は物質的な存在として

暗示される。

だから、双方の闘いは、聖と俗的象徴の闘い、あるいは、

神に従順な心と、それに相反する心の闘い、と言えるだろう。


賢者はこの闘いは、現代の私たちの心の中で毎秒起きて

いるものでもあると教える。 

それは、毎瞬、繰り広げられている、私たち一人ひとり

の心の中の、アートマと小さなエゴ(自我)の葛藤’こそが、

ギータの世界で象徴的に描かれているという。


第二章で説かれた、ヨガの名前は、サンキャ ヨガ。

アートマとは何か、理解すること、アートマの実在を自分

の心にも、闘う相手の心にも、見出すこと、感情に左右され

ない、アートマを見据える不屈な信念を養うことで、

神の心と一体になることが可能である、とする、ヨガ行為の

別名でもある。

 

スイレン, 孤立しました, 花, 黄色の紫色ロータス, 花, スイレン, ピンク

 

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