自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

カーディナルは見ていた!(i改訂版)

2012年08月31日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

カーディナルは見ていた!

カーディナルは見ていた!

 

僕はカーディナル。 

良く見てね、巣作りしているでしょ?

ほらほら、あの夫婦が歩いているよ。

ニンジンの芽食べちゃったんだよ。”悪かったナア”なんて、

反省しているかって?

とんでもないよ。

”今度は子供たちも連れてこなくちゃ”なんて話し合っているんだよ。

なんでも きゅうりが、まだ残っているみたい。 

ほらほら、やって来ただろ?

5人家族だよ。 

微笑ましいなんて言っているのは君だけだよ。

またマダムが肩を落とすんだろうなあ。

丹精こめて育てた野菜、食卓に上る前にみんな

食い荒らされてしまうのだからね。

 僕はカーディナル。 

台所の上に巣をつくって、

住まわせてもらっている居候だよ。

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認知症の理不尽な物腰への、対処の難しさ

2012年08月31日 | 介護と自然治癒力

読者のかたのご意見に賛成                

 

お母さん、私がお母さんを悲しませること、そんなことがする

はずないじゃない。 

お母さんは幼い頃、いつも、小さな私にとても優しくして

くれたよね。

そんなお母さんを、どうして、悲しませることができる。 

わかった。 ・・・ わかった。・・

でもそれ以上そんな事を言って、私を責めるなら・・

ごめんね。私、電話、切るよ。”

といって、以前、母が電話の途中、何かに切れて、プツンと

受話器を置いたように、母の理不尽な言葉とヒステリック

な口調で聞いていられなくなって、私の方から、電話の

途中で受話器を置くのである。

するとその日は 何故かそのことで二度とかかってこない。

以前だったら、話合って、説明をして、一度納得したように

見えた母は、再度電話をかけてきて、同じ質問をする。

こちらの答えに、また、頭に血が上ったように、母の感情

エスカレートして、興奮が妄想を膨らませ、電話のベル

は鳴り続けたものだった。

 

これは母のケースにだけあてはまるのかもしれない。

ある意味、特殊なのかもしれない。

かし、最近の母は変わった。

今の母は、一人ぼっちになりたくない

言い換えれば、娘から嫌われたくない、だから、娘が

不愉快なことは言わない方がいい~と、頭で理性が動くだけ

の余裕があるという事かもしれない

でも、私はそれだけだと思っていない。母とともに、時々

一緒に、食事に誘う妹にいつもいう言葉がある。

それは、妹が私に、”いくら言ってもわからないわよ” 

というスタンスをとる時の、わずかな私の抵抗でもある。

何度でも、噛んで含ませるように母に説明。

先ほどの電話のケースのように、納得してもらっても、結局、

妄想のとりこになる母をみて、私の母に対するスタンスは、

やや、”楽天的だと思う” と妹の反応が返ってくるのが 

今のところ常だが・・・



私の妹にわかってもらいたいスタンスとは次の妹への言葉

のものである。

”魂は誰にでもあるの。魂と肉体が分離している(感情の

コントロールが効かないで訳が分からなくなる)ように見えて

も、必ず、魂から吐く言葉は 相手の魂につながるの。

きっと、お母さんの魂もいつか私たちの真心がとどいたとき、

優しくなるのよ。”と私は、妹にはなすのだ。

では、いつ、私の真心が本物になるのか?


母に上から目線でものを言ったり、”やれやれ” と 内心、

ため息をつきつつ、困った子ちゃんに対するような返答や、

”そうね。そうしましょう。” と言いつつ、相手がそれを

忘れてしまうのを’待つ’式の その場しのぎ的な受け答えで

接する中には、決して真心は、伝わらないだろう。

 だから、心掛けていることがある。

一日のうち一つでいい。優しさと温もりを与えてくれた母

というその人に、そのお返しをさせていただける、という

気持ちをもって、本当の優しさで 自分の心を相手に投げかけるこ

とができるかどうか?



その意味では ゆうこさんの 修行 という心持に、自分を

重ね合わせる。

ずれにしも、私たちの魂の道場の場であるということである。

今、置かれている場所と与えられる体験がすべて 道場の中の

修行に過ぎない・・

という点で、ゆうこさんのご意見に賛成です。

 

 

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ヨ ギ と 深 呼 吸 (2)

2012年08月31日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

仙人と道 (2) ・・・ 深呼吸の効用(1)からの続き

 

プラーナを確実に100%の効率で取っていれば、食べ物

でさえ必要のない 

仙人の身体になりえるとも言われている。

事実、インドには そのような ヨギと呼ばれる人がまだ、

現存している。

その中でも、マスターと呼ばれる方達は、プラーナを摂取

する達人でもある。

彼らは、自分の体の波動体(エネルギー)を自由に変え、

コントロールすることができる。

 

必要な時には、肉体という ”荒い粒子の身体” から、もっと、

精妙波動で構成されている、

”幽体”に変化させて、空間や時間という物理的束縛に煩わされ

ず、遠方にいる弟子の前に出現することもある。

そのヨギがなぜ、ほとんど、食物を口にせずに、生命を維持

できるかと言えば、空気中にある、

エーテルの中から、プラーナを取り込んでいるからだという。

”仙人が霞を食べて生きている” という日本の故事にも 

匹敵する話 かもしれない。

 

身近なところでは、“あるヨギの自叙伝” の中に、

ヨガナンダ師がごく普通の一婦人を訪れて、インタヴュー

を試みている。

この女性は ”老齢で恥ずかしがり屋のふつうのおばさんで

ある”と描写されているが、 実は、ある時期から一切 

飲まず食わずで生きている人であった。

その詳細は興味ある方は実際の本で確認いただければ

幸いである。

 

かいつまんでお話しすると、何も食べないでいい方法を

聖者から 彼女は教えてもらった。

しかし、その方法を他人に話すことは口止めされている。

でも、空気の中から 生きるための糧 を取り入れる方法

知っているとだけ答える。

若いときから、一切、固形物も飲み物もとっていないため、

当然、排泄物は全く無いという。

その生きる糧が、プラーナ” と呼ばれる、一種のエネルギー

である。

このプラーナを 一般のわれわれが十分に 体に取り入れる

ためには 深呼吸 が一番効果的なのだ。

 

へその下にある、丹田に深く静かに吸った息を 少しずつ、

落として、その丹田に 5秒から30秒の範囲で、息を溜める。 

呼吸が停止している状態である。それから、静かに吐ききる。

このような 深呼吸を、普段でも何度か日常生活 の中で、

試みるだけでも、身体も心持ちも変わってくるだろう。

 

ヨガ をインドの体操のように思っている方がいる。

実際は 呼吸法である。呼吸は、生きていくための 重要な

基本的動作であるとともに、 実は無意識に、”生と死

を繰り返しているのだ。 

生きるためには吸う、そして、古いものを 掃出すため

に吐く。古いものはに、新しいエネルギーを取り入れて、

生きる。 

取り入れるのを永遠にストップすれば、肉体は壊疽していく

いかにプラーナを取り込むかが、ヨガの焦点であったこと、

その理由は、オールマイティーの力と 如何に、一体化

できるか。それが、呼吸の方法にかかっていたということ

でもあった。

 

古今東西、求道者達が、呼吸法を取り入れて、自己の内面

を深く掘り下げる瞑想を行う。

日本では、禅の世界つながっていく。

さらに、日本文化にみられる、道(どう)と名のつく教え、

武道、柔道、合気道、茶道、などの中呼吸法が、生かされ、

間合い”という言葉になり、間合いの使い方が、イコール、

それぞれの”道”の極意 の一つとなっていることも、

見逃せない。 

                                                     


 自然治癒力セラピー協会オリジナル:無断転載お断り

 

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ヨ ギ と 深 呼 吸 (1)

2012年08月31日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

深呼吸の効用 (1)

 

深呼吸が今脚光を浴びてきている。

というのも、太極拳やヨガ、また、痩せる事を目的とした

健康体操でも どのように呼吸するかが重要なポイントだ。

医療の現場でも、内田医師は、深呼吸の体に与える影響を

考えて、適切な指導をすることで、効果を上げている。

以下引用文である。

 (P.39)

深呼吸をすれば 冠動脈の貧血が豊血となり、乏血は充血

となって、冠不全が冠完全結局、狭心症が広心症に復す

ことになる。 

心のゆとりが無いときに、狭心症の発作が起きるともいえる

のです。

心にゆとりがないと、意外に深呼は忘れられます。

 

(P.40)ある老婦人の冠不全は食前食後とトイレに行ったとき

に一回ずつ、一日合計11回の深呼吸をしてもらったところ、

服薬してもよくならなかった心電図の異常が、間もなく改善

されたこともあります。(以上引用)

 

そもそも、呼吸は何のためにするのか?

肉体保持のために、酸素をとるためともいえよう。

しかし、酸素をとっていれば、肉体は動くのであろうか?

死体に酸素をいれても意味はない。

死にかけた身体に酸素をいくら入れても、他の要因でなくなる

ことは多い。

酸素だけとれば身体が維持できるわけではない。

 

酸素の中には生かす力(ヨガ的に表現すれば、宇宙の中にある

プラーナ) が含まれている。

実はこのプラーナを身体にとりこむことにヨガのポーズの

真の意義がある。 

(続く・・・・)

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宗教とオカルト(2)

2012年08月29日 | 協会ホームページ

当協会の立場 

8月29日     宗教とオカルト No.2

*****************************                        

宗教とオカルト(1)からの続編****

 

早速で 唐突 だが、フェースブックに 投稿した 

お答えをコピーする。

昨日は ”この協会の宗教は何か?” という、ご質問を

個人的にいただいたからだ。

 

この協会の宗教は無い。 

宗教と無関係というのは、無神論者の集まりということ

でもない。

宗教という言葉は宗教団体と混乱して使われやすい。 

宗教団体はある神様を信仰して集まった信者の集合体である。

ある神様というのはあくまで特定の神様だ。

特定の神様がなく、各自が各自の信ずる神や仏を胸の内に

秘めて集まった集合体は宗教団体といわない。

その意味でこの協会(自然治癒力セラピー協会)は宗教

とは無関係である。

 

神 という概念は 曖昧 である。   

”人を想えば相手も想う” というキャッチフレーズが 

最近の24時間テレビに 大きく映し出されていた。

相手の 幸せを 願い、相手の笑顔を心に浮かべ、元気で

いるかしら と、想いを馳せれば、その想念が相手に

届くのだと思う。 

 

愛の一つの表れの行為だ。 

神は愛なりという言葉がある。もし、”人を想えば、相手も

想う”という意味合いを心にとどめ、 愛の心をもって、

家族・友人に思いを馳せていれば、愛の神 を信仰して

いる人が、愛の道につながる日常行為 と、何も変わりはない。

言葉は 最大公約数 だと思う。 

その公約数をもって、仔細の意味合いを議論する事は時には、

重箱の隅をつつくことなりかねない。 

 

インド時代、自宅で 時々、パーティーを開いた。 

大半がヒンズー教信者だが、モスリムもシーク教徒も

キリスト教徒もいる。 

モスリムのイマーム(先導者)が ヒンズー教徒と親しげに、

話をしている光景は珍しくない。

”宗教が違う人たちが集まりますが違和感ありませんか?”と

お誘いする前に伺う。

すると、彼らが決まっていう言葉がある。

それは、”パーニーはパーニーだよ”という喩。  

パーニーとは水のことだ。 

水は呼び方が変わっていても、本質には世界中変わりが

ないのだ。  

生きとし生けるものが無くてはならない、天からの贈り物、

私たちの体の60%を構成している要素。

 

それと同様、神様をいろいろな名前で人は呼ぶが、この自然

を生かし、摂理をもって宇宙が動いているのは、何らかの 

”自然の意思”、”宇宙の意思”があるからで、その”意思”を 

それぞれが、それぞれの名前であがめているだけだと言う。 

’所変われば品変わる’ ではないが、土地条件や歴史的背景、

国民性などの条件が違えば神の概念は少しずつ変わり 

呼ばれ方も変わるが 本質は一つであるというのだ。

 

”無神論者” というジャンルもある。 

しかし、きちんと 統一された調和ある日々を、その方たちが

送っているとすればその ”リズムの裏”には 何かが

あるのだろう。 

だから、無神論者の友人が ”私は神を信じない。

ただ、自分を信じるだけだ。” 

と語ったとき、素晴らしいと思った。

自分を信じられることは、自分に内在する資質を信じて

いるということだ。 

自分に内在する精神的・知能的な力、自分の信念にたいして、

信頼しているということはある意味、信じる存在を持って

いることだ。

神を信じると言いながら、自分を信じられない人達と比べ

たら、どうなのだろう。

 

”人は神なり、神は人なり” と 神道ではいう。

自分を心から信じられれば、これもまた、視点を変えれば、

神を信じている ということになるのだろう

 

 

 

 この絵のように、人が祈るとき、それは 世界中 共通です。 

同じように手を合わせて、心は、大いなる力に加護を願い、

守られている感謝で畏敬の念で、首(こうべ)を垂れるという

その姿です






。 

 

 

      

 

                    

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