自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

自然治癒力を高める言葉・・・”あげる”

2024年01月28日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

頭の細胞の一つ一つは、身体の細胞の数千万個にそれぞれ
繫がっていますから・・・*2024年1月28日
*************************

今日のタイトルは、あげる・・
漢字はいろいろあります。
”上げる”“挙げる””揚げる”などなど・・・

自然治癒力をあげるためには、その意識を心に、まず、“揚げる”ことから
始まります。
この漢字は、かかげるという意味です。
たとえば、旗を揚げる というように・・

自分自身の健康のために、自然治癒力という旗を、心にかかげるわけです。
言い換えれば、意識をそこに置くことです。

自然治癒力という言葉に意識を置き始めると、自然と、何かが少しずつ
生活の中で変化していきます。

たとえば、食生活・・睡眠のとり方・・薬の選び方・・等々

次に大切なのが、”上げる”心持です。
”Give &Take” の前者が、上げるという意味です。

これは、精神的健康=身体的健康のために、一番必要な、要素です。
精神的に健康でいるというのは、安心感や安定感、波風がない平和な心持
でいることです。

英語でいうと、”ease" です。 
よく、”take it easy"というと、”まあ、そんなに心配しないで、安心して”
みたいな意味合いで使われます。

一方、病気は英語では”Disease”、この言葉は、”dis"という接頭語が
easeの頭について、easeではないという意味です。

つまり、心が安心から離れると、不安や不安定になって、それが身体の細胞
へ影響を及ぼし、病とあらわれるわけです。

その理由は 心と身体の波動は、一体だからです。
まず、不安になると、頭の神経が影響受けます。

一夜にして、白髪になった・・という話は誇張ではなく、とてつもない
ショックで黒髪が白髪になるのに、一晩あれば、足りるほど、心と身体は
影響しあっているということです。

頭の細胞が、こうして、ショックを受けると、その一つ一つが、身体の
数千万の細胞とつながっているため、身体中が”ショック”というメンタルな
地震で揺るがされ、萎縮したり、健全な姿を取り乱す形になり、それが、
免疫力などの自然治癒力に影響を与え、病になりやすい状態をつくります。

さて、そのくらい、ease、つまり、安心安定の境地が、自然治癒力と
健康のために必要だということです。

そのために、“上げる”心が、安定感の大元です。
その背景はこうです。

概ね、私たちの心は、誰かに依存しながら生きているので、相手への
期待値が、与えることより、勝っていることが多いものです。

たとえば、”ラインしたけど、まだ返事が無いわ” 
”私はあの人に誕生日のお祝いをしたのに、なにも、言ってこない” 
”これだけ、世話しているはずなのに、自分が頼んだことに快く承諾して
くれない”・・・
などなど、家庭でも職場でも、こうした想いを、経験されたことはないで
しょうか?

これらが相手への期待感の現れの言葉です。皆、期待どおりに(自分の意図
どおりに)ならないことへの不満です。

私は こうした心持になることは、度々、あります。
自分の体験が原因になっているときもあるし、大衆的意識、常識的意識という、
三次元空間を覆っているこの、80%の人々の当たり前の意識を受けている時も
あります。
そのときに、”上げる”という言葉を思い出します。

ギヴの習慣がもし、きちんとついていれば、上の、文句めいた言葉は出て
こないはずだからです。
原点に戻ろうと努力します。

与えることが、普通。 相手に期待して何かして上げたことが換えってくる
ことは、考えない。
そういうメンタル的習慣です。

離婚が増加しています。その原因は、”もうお互いに、得られるものがないから”
という理由が多いと、聞きます。
得られなければ、意味がない・・というのは、”もらう”ことがあたりまえで、
”与えること”は二の次という価値観からくるのでしょう。

これの真逆な生き方が ”あげる”を指針にすることです。
与えるだけで、喜びを感じられるようになるでしょう。
相手が喜んでくれるからです。
それの返却は必要ありません。というより、それは、期待しません。

相手に期待するということは、その相手に”頼って”いることです。
いいかえれば、生き方の基本姿勢が、外部の環境・条件に頼っている 
ということでもあります

そういうときは、”~のせいで、こんなになった”とか、”~が悪いから、
私は不幸だ”とか、周りの条件や相手の態度に、その原因をなぞりたく
なります。

それを”与える”人生に方向転換するだけで、自分の”安定(ease)"な心が、
保たれます。
外部の事情には、自分の感情は、ほとんど、影響されなくなります。

そのときこそ、身体も健康になっていきます。
ストレスが無くなるから、そして、自然治癒力は最大力を発揮できるからです。

ジャンピングのような結論ですが、その理由はこうです。

自然治癒力は、自分の生命力を最大に信じてこそ、その最大力を発現します。

普段、意識していなくても、十分に自然治癒力は働いてますが、不調の時
にどうするか?
薬はどの程度とるか?
どのような医療措置をとるか?

あるいは、自然治癒力を活用して、自分の身体が、この不調をバネにして、
治ったときに、もっと、健康に復活して、細胞が、若くいられるように
なるか?
というときのお話ではあります。

自分自身だけに頼ること・・これが、私の自然治癒力を発揮するときの
心得の第一です。(それは、諸事情から万人にお勧めするわけではありません)

つまり、周りの環境・条件(薬の摂取を含めて)に頼らないというもの
です。

常日頃、”与える”ことに自分の生き方を置く努力をしていれば、そういう
にも、自然と、身体の求めるものと 心の信念が一致しやすく、自然治癒力
発揮の方法につながるでしょう。

与える人生か? 取る人生か? どちらのバランスを高めるか?
それは、自分自身の調教次第です。

調教できるのは、自分の中のアートマ【神性・仏性】の力です。
誰にでもそれは、備わっています。その人の、本質だからです。

自分の本質に頼る事ほど、心強いものはありません。
裏切られることもなく、この弱い肉体的 感覚的 自分(エゴ)を理解
し、慈しんでくれる存在、無我の愛を注いでくれた親の愛と重なります。

与えるだけ・・それこそ、アートマの本質、だからです。









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(1/25の記事)今生で業を消して、大往生しましょう。(改訂版2月9日)

2024年01月25日 | 健康のための心の波動


カルマ・・を解消する意義
******************************* 2024年1月25日
前書き)1月25日のこちらも、今日、改めて、書き直しましたので
よろしくお願いいたします。
*******************
前回の記事の続きです。
死んで持ち越すものは、背負っている”カルマ”・・というお話でした。

カルマって何?
日本人には、業(ごう)と言った方が、分かりやすいかもしれません。
”業が深い”と よく使われるけど、具体的には、”何が” 深いの?と
いう疑問です。

業(カルマ)の一つの定義があります。
業(カルマ)は、’想念’と、’言葉’と、’行動’が、対象者との間に、
わだかまりや不調和の念を引き起こして、今生で解決しないまま、次の
生に繰り越された確執の念。

その念には、強い感情(悔しさ・悲しみ・嫉妬・憎悪などのマイナスの
念)押されていて、この世に生まれ変わってきていても、深く潜在意識
に刻印されているため、再び、当事者同士が引き合う要因となります。
しかも、身近な関係に生まれ変わりやすく、再び、その因縁で、悪循環
が繰り返されていきます。

こういうことがありませんか?
たとえば、同じことをAさんに注意されてもなんとも感じなくても、
Bさんに言われると、素直になれず、どこか抵抗を感じて、反発さえ感じる
場合です。

これは、過去生の’私とBさん”の間に、”何か”が、いまだに、尾を引いて
いる状態かもしれません。

その”何か”を、清算しないまま放置しておいたので、今生で会ったとき、
だけが潜在意識の中で、記憶している その当時のことが、ちょっとした
Bさんの言葉尻にひっかかって、現在意識(顕在意識)に抵抗感をいだかせて
いるわけです。

一方、自分は、Bさんに抵抗を持ち、言葉にひっかかっても、Bさんは、
何も私の態度に、ひっかかりを持っていないケースがあります。

それは、Bさんが、すでに、当時の確執を解消しているからといえそうです。
カルマは、解消さえしてしまえば、わだかまりも解放され、雲散霧消して、
その後の人生に尾をひかなくすることが可能です。

それでは、Bさんは、どのようにして、前生の確執や わだかまりを取り
除いて、新しい生まれ変わりの人生に、業(ごう)のお荷物を一つ、少なく
してこれたのか?
その背景を考えてみましょう。

業(カルマ)の種というのは、人との間に、何か軋轢(あつれき)が生じた
ときに造られます。
たとえば、Bさんが自分に、仲間の前で、罵倒し、自分の尊厳が傷つけられた
と感じ、Bさんに対し、感情的な言葉で罵りの言葉を口にしてしまった私。

その場を離れた私も、Bさんも、思い出すと割り切れない、嫌な後味で
心に苦痛を感じます。
その後、こうした体験を、どのようにとらえるのか?
それが、カルマとして自分の肩に背負う重さが異なってくるようです。

簡単に三つの方法が考えられます;

①悔しい悲しい想いを、受け止めるだけで、自分自身の中に吸収して、
其の後は、その人と距離を置き、あまり接触しないようにしたり、会っても、
何もなかったかのようにふるまう

②くやしさは忘れられず、倍返しならぬ、仕返しを、相手に想念や、行動で、
行う

③自分にも非があったことを認め、二人の間のマイナスの想念を、プラスの
想念に変えて、わだかまりを浄化させる
*****************
一つ一つを、詳細に見てみましょう。

①の場合、相手と離れて 相手を無視していても、離れられない関係性が一つ
あります。
それは、まだ、その確執をきちんと見つめず、しまい込んでいるだけの自分
との’付き合い’は、一生つきまとうでしょう。

つまり、隠している確執は、何かの拍子に出てきて、それと、片時も離れずに、
向き合っていなければならない”自分”に、違う痛みを感じるでしょう。

結局、カルマの種は、抱えられたままになって、次の生に持ち越される可能性
が高いようです。

②の仕返しをする場合、その時は、気が晴れるかもしれませんが、結局、
相手はさらに、強いマイナス感情を自分に抱くため、それを受けて、自分の
カルマも、倍増してしまいます。
報復というのは、結局、カルマの解消にはなりません。

③の方法は、次の生に、カルマを持ち越さない唯一の方法です。
難しいけど、毎日、続ければ、必ず、効果が出てきます。
それは、感情が伴わなくてもよいから、とにかく、相手に感謝と愛の念の
波動を送る事です。

”あなたが今、怒っているのは(あるいは、私を怒らせているのは)私が
まいた種が原因です。
感情的な言葉を口に出してあなたの心を傷つけたことを、謝ります。
ごめんなさい、赦してください。
そして、私も、あなたが私に取った行動を許します。
過去は過去、すでに、カルマは消えました。
私の本性=アートマにおいて、貴方を愛します。
あなたは、本当はとても良い人なのを知っています。
あなたの中の最高のあなたを、私は見つめながら、あなたを愛します。
ありがとう”

ひたすら、相手の笑顔を瞼の裏に思い浮かべて、光の中に覆われている
相手の姿を見続け、言葉に出すわけです。

カルマの種は、本当に 心がすっきり晴れやかになるまで、設定を変え、
演出されて、何度でも、その人の人生舞台に、衣装を変えた相手とともに
異なる筋書きのもと、人生芝居に登場してきます。

これが、’カルマの種は、あの世に持ち越し’・・という意味です。

だからこそ、今現在、心にわだかまりがあるのならば、それを、今、対処
して浄化しておけば、次の生に負う荷物を最小限にできるわけで、大往生
しやすく、来世のためにも、良いというわけです
付け加えるのなら、サンスクリット語でいう、モクシェとは、もう、輪廻
しなくてよい(生まれ変わりがない)ことをいいますが、これこそ、輪廻の
原因となる、カルマの種が全部、なくなったときに、可能になるわけです。










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マツコさんが言う”自分なんか愛せないわ”

2024年01月20日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)


嫌いな自分、失敗した自分を 赦し、カルマ(業)を消す
2024年1月20日
**********************************

昨年のTVで、マツコ・デラックスさんと、テレビに顔を
出したことのない女性歌手との間で、対談がありました。

今日のタイトルは、その中の言葉です。

”自分を嫌でしようがない”・・・
自己嫌悪のことですよね。
それは、繊細で、やさしく、理想が高いゆえでも
あるのでしょう。

自分の醜さ(精神的な意味でマイナスの部分)を
嫌悪する・・・ほうが自己陶酔するより、むしろ、
好感的に受け入れられるようです。

きっと、多くの人がこの感覚に、慣れているから
かもしれません。

具体的には、弱い自分自身を、ジャッジ(価値判断)
して、欲望に振り回されたり、
利己的な、自分のエゴ意識に、苦々しさを感じます。

時には、自分への怒りとなり、落ち込むことになります。

私自身も、つい最近まで、そうでした。
無性に、不安定になり、自信も失いました。

過去の未熟な自分の、家族や知人への振舞いを、思い出し、
反省後悔することが多くなると、
”バカは死ななきゃ直らない’
という古い、何かの言いまわしを思い出して、一生かけても
自分改造は難しいのだろうと、ため息をついたものです。

一方では、人間の本性は、神とつながっている完全円満
な実相であることを”知って”いる自分もいて、こうした
自己否定観に落ち込んだときは、自分の書いた過去の
ブログを読むことで、気持ちを立て直すこともありました。

ところが、最近、あることで、次の祈り(意宣り)を
知りました。

それによって、そうした自己否定をされた自分を、
愛する大切さも知りました。

自己否定が、何度も、繰り返されると、潜在意識の中
積もります。

すると、自己否定の対象の自分から、結局、抜け出せ
ないどころか、想いが現実に現れるという、言霊法則
から、昔の自分の”マイナス”の殻をより強固に
していくことが分かったのです。

それを防ぐためには、蛹(さなぎ)が蝶になるように、
変容させることが必要だということもわかりました。

そうでなければ、どうなるのでしょう・・・

次の生に、持ち越しされてしまいます・・・
憎しみや、悲しみ、苦しみや、嫉妬の感情は、残念ながら、
業(ごう)として浄化しておかない限り、次の生への、
要らないお土産包みになってしまいます。

人が生きとおしの魂であることは、誰でも
(このブログを読んでくださる方たちは)ご存じです。

魂が、肉体衣を脱ぎ捨てて、次の旅(死)に旅立つとき、
何も持たずに逝くというわけではありません。

今の生で造った、”業(カルマ)”と、自分の
”アイデンティティー”(”性格の特性”)は、一緒にあの世に、
持ち越しです。

そうだとしたら、カルマは軽いほうが良いし、’性格”も
変容させて、すっきりした顔で旅立ちたいと思いました。

回りくどい前置きが長くなりました。

以上、お話した理由から、
次の のりと(祈り=意宣り)を、静かな気持ちで、
声をだして読んでみてくださいませんか?

これを毎日、寝る前や起きたとき、など、まだ、
日常のしがらみの忙しさに心が振り回される前に、
唱えられると、本当に、活力が違います。

一定期間にこれを唱えていると、自分の潜在意識が
変容せざる得ません。
アートマ意識(本当のあなたの強いご自身)の自覚が、
自然と整ってくるためです。

”私は、貴方(嫌な自分)を愛します。
私は、貴方に寄り添っています。

貴方は、私にいつでも頼ってください。
私はいつも、貴方に寄り添っているのです。
私は、無私の愛で、いつも、貴方を包んでいます。

私は、無条件で、貴方のお世話をしています。
あなたは、誰も他の人に期待する必要はありません。
私があなたの期待に応えます。

いつでも、どこでも、あなたを一番理解し、愛しています。

昔の失敗は、あれは、ほんの間違いでした。
もう、忘れましょう。
もう、今に尾を引くこともありません。
誰にでもあることです。

今のあなたは、愛されています。
大切に思われています。
あなたの一番の身近で、貴方を一番知っている’私’に・・・”

ここでいう”私”は、”アートマ意識”の私です。
アートマ意識は、宇宙意識とつながっています。
宇宙意識は、すべてを 生かそうとする善意で愛の
塊です。

第三の眼に象徴される、誰でも持つ、神聖な眼をもった、
”私自身”のことです。

自己嫌悪をなくせば、自己を愛せる感覚を思い出せば、
自然と、他者への愛が芽生えます。

言い換えれば 自分を愛することなく、他者を愛する
ことは、あり得ません。
自分を愛せたとき、自然と、相手との確執や、問題も、
溶けていくようです。

私たちは つながっているのですから・・・





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ヴァカバッド・ギータ聖典から(3)

2024年01月14日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

’人生は闘いだよ’   2024年1月14日(日曜日)

***********************
前書き)
自然治癒力とヨガとの関係は、治癒力を発揮するためのスピリチュアルな
原理ということでしょう。
今 ご紹介しているクリシュナのお話も、ヨガのいくつかの原型がそこに
登場しています。
今日から、少しそれに触れていきたいと思います。
*******************

ご紹介している、ギータに描かれるお話は、クンティ家と
その敵,ドリタラシタラ(Dhritharashtra)家の闘いでもあります。

これは、インド古代の歴史のお話でもあり、現代にも通用する
象徴的なお話ともいわれています。

というのは、現代の社会をみても、戦争や内紛が絶えず、勢力の闘いが
絶えないこと・・・だけでなく、私たちの心の中にも、勢力(信念)の葛藤
があることは、数千年前も今も、変りはないでしょう。

それが、このギータのお話の、アルジュナとクリシュナの時代の闘いと
とても、共通しているというわけです。

精神的な闘いの中では、本当の敵は、自分自身かもしれません。
自分の中には、本当にたくさんの’自分’がいて、それぞれが、別の顔をもち、
何かの課題にあたったとき、それを、どう対処していくかは、やはり、自分自身で
決めていくわけしかない・・・その時に必要な、スピリチュアルなヒントが 
ヴァカバッド・ギータのクリシュナの言葉と共に、描かれているといえそうです。

私たちの心が、迷い混乱するとき、正しい答えを探そうとします。
私たちの生きている世界には、”絶対的真実”が、もし、あるとしても、多様な
価値観の中に埋もれていて、なかなか見いだせないから、人は納得がいく、解決法
をすぐ、見出しえないのかもしれません。
”人生は闘いだよ”という人がいます。

それは物質的な闘いであると同時に、心の葛藤や悩み・苦しみの打開に、人は闘い
続けているということでもあるかもしれません。

そのジレンマが、ギータの中で、アルジュナの迷いに見られます。

彼は、親戚の仲間や、自分の師に歯向かい、武器をもって、戦うという行為と、
そうした行いの意義を、”大義”の中に見つけられず、苦しむのです。

ところで、クリシュナが味方に付いたアルジュナの属する、クンティ家は 
スピリチュアルな存在として暗示されています。

一方、親類にもあたる敵方ドリタラシタラ家は 物質的な象徴として描かれています。

だから、双方の闘いは、’聖と俗的象徴’の闘い’と言えます。
’神に従順な心と、それに相反する心の闘い’、とも言えるでしょう。

インドの賢者は、この闘いは、現代の私たちの心の中で毎秒起きている闘いでも
ある教えています。

ここで’神’といっても、特定の’神’ではなく、人によっては、’宇宙の意思’とか、
’最高の善’とか、’大いなる人智を越えた力’とか、’Super Consciousness とか
さまざまな呼び方があるでしょう。

スピリチュアルに興味のある人や 精神的理想を追う人にとっては、自分の心
の葛藤や価値観同士の格闘が、毎瞬、私たち一人ひとりの心の中に繰り広げられ
ている自覚があることでしょう。
私にとっては、’アートマと自我の葛藤’といえます。

ところで、ヴァカバッド・ギータの第二章で説かれた、ヨガ(教え)の軸は、
”サンキャ・ヨガ”といわれます。
具体的には、自分の本質である、”アートマとは何か”を理解すること、
アートマを自分にも、闘う相手にも、見出すこと、
感情に左右されない、アートマを見据える不屈な信念を養うことなどの
大切さを、クリシュナはアルジュナに説いています。

それによって、神の心と一体になることが可能であるヨガの行法
になるというのです。"サンキャ・ヨガ”と呼ばれるヨガの行法です。

次回から、少し、具体的にお話させていただきたいと思います。





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不名誉の長生きより、名誉ある死を・・

2024年01月10日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

“赤穂浪士とアルジュナの軍” 
*******************
前書き)
昨年12月18日の記事からの続きとなります。
ここでのお話は、ヴァカバッド・ギータの中にあります。
ギータには、世界最古の哲学といわれるヴェーダ哲学の真髄がクリシュナ
(当時の王族であり、ヴィシュヌ神の化身とされる)の言葉に 詰まってます。

これから、御紹介するところは、ギータの2章です。 
 背景からお話いたしましょう。
ここは、戦場です。
親戚同士の闘いが控え、緊張するアルジュナがいます。
彼は総大将にもかかわらず、これから繰り広げられる、親類縁者の殺傷を
想うだけで、士気がなえていくのでした。
そこで、自分のチャリオット(騎馬車)に同乗するクリシュナ(神)との、
会話が繰り広げられます。

敵陣には、自分の親類や師匠などの面々の顔が見えます。 
彼らに、刃を向けることに ますます罪悪感がつのっていく、アルジュナでした。
すでに、アルジュナ心は萎えて、戦う意欲を失っていきました。
***********
話は一転しますが、日本では、赤穂有浪士の敵討ちの話が、歌舞伎や舞台で
いまだに演じられているのはなぜか?
今日ご紹介するお話は、そのヒントにつながるような気がいたします。

さて、話を戻して、アルジュナは、敵陣にいる、尊敬する人たちに弓矢を向ける
ことに、心を痛め、クリシュナにこう、質問します。

”クリシュナ、教えて下さい。
かにしてBhishma Dhronaといった、自分が敬愛してきた人たちに
弓を射ることができるのでしょう? 

物乞いの人生の方が、よっぽど尊敬する師を殺すより良いほどだ。
師を殺め、そのあとに得る世俗的喜びは結局、その血で台無しになるのです。

歓びなど、考えることすらできない。
彼らが、われわれを負かすのか?
われわれが、彼らに勝つのか?

どちらが良いかなどわからない。
が、生きていてほしくないDhritharashtra家の兄弟たちは今、目の前に闘おうと
立ちはだかっている。

クリシュナよ、師に対する同情と、何が正義かわからない私の心は、あなたに
頭を垂れます。
あなたの意見に従います。
あなたの弟子として私を受け入れ、私を導いてください。

確信の持てる、確固たる善き行いを教えてください。
天使の住む世界、敵のいない豊穣な世界を治めたとしても、今の悲しみと不幸を
もたらしている感情と、心の問題を解決することはできないでしょう。”
248節)

その言葉に応えて、クリシュナは言います。
 
“まるで誇らしげな学者のような語り口だ、アルジュナ。
しかし、汝は、悲しむべきでない事を悲しんでいる。

真理を学ぶ者たちにとって、生きとし者へも、死んだ者へも、悲しみはない。
そのわけは我も汝もいかなる支配者たちも、’死ぬ(non-existent)’
いうことがないからだ。

ご覧。
この肉体の中に、子供時代、壮年期、老年期に至るまで一貫して、人生を
楽しむ“居住者(in-dweller” が存在しているのを。

肉体が滅したら、その居住者は古びた体を棄てて、他の体に移り住む。 
だから、智慧者は身体の変化やその経過に煩わされることはあり得ない。”
21113節)

さらに クリシュナはアルジュナに向かって、言葉を続けます:

Kunthiの息子、アルジュナよ。
感覚器官は自然な働きとして、感覚で判る対象体に、触れる。
感覚は触れたことで、冷たさ、熱さ、喜び、悲しみなどの感情をもたらす。

この感情は、来ては行き、顕れては消える。
移りゆくものだ。

アルジュナよ、不屈の精神を抱け、そして耐えなさい。
アルジュナよ、汝は優れた者だ。

覚えておくが良い、
人生の喜びやみじめさが汝を煩わせ、心を占めることはない。
優れた者は智慧を生かし、変化の中に恒常性を見出す。

そういう者だけが、常に幸せにみちた者といえる。 
真理を理解したものは、見られる側と、見る側の二つの見方の結末を
体験するのだ。”(2141516

 

次に、クリシュナは、意気消沈しているアルジュナに兵士の徳を説き、
この闘いが世の中のために、大いなる意味があることを諭すのでした。

swa-dharma(人類幸福のための行い)の観点からしても、何も傷つく
必要はないのだよ。
なぜなら、軍人は社会の秩序と平和を守ることほど、大事なことはないからだ。

好運な軍人だけが、そのような天に通じる道を開くような闘いに、参戦できる。
この闘いこそ、賞賛に値するもの、それに参戦しないことは軍人の責務を
放棄し、罪をつくることにもなるだろう。

汝のような誉ある人間にとって汚名をつけられることは死より始末の悪い
ものではないか?

素晴らしい軍馬車の兵士たちは 汝が恐れから闘わないのだと考えるだろう。
過去のそんな汚点を残せば、人の噂話の種になるだろう。
敵軍は汝のヘッピリコシを嘲笑し、卑劣な罵倒を浴びせるだろう。 
それ以上に胸の痛むものがあるのか?

もし、この闘いで敗れ殺されても天国に到達する。
勝てば、この世を支配し現世を楽しむ。 
さあ、立ち上がって、闘いに挑む決意を今こそなせ“23137

赤穂浪士との関係?
紫色で書いた上の数行をもう一度、ご覧ください。
この言葉は、そのまま、赤穂浪士たちへの、言葉のようです。
つまり、赤穂浪士たちは、主君のために、大義名分を果たし、汚名を
後世に残さず、吉良上野介の主君への慇懃無礼な態度を、世の中に知らしめ
忠実忠誠な、武士魂の名誉を得たわけです・・・

これこそ、クリシュナのいう、名誉ある死です。
それをもって、武士の何たるかを、世に示したことは当時の武家社会の人々
の心を、打ったのだろう・・と思います。

そして、潔い散り方、死への恐れより、汚名のまま恥をさらした浪士として
生きるよりは・・討ち入りをする・・という大石内蔵助の総指揮官としての
覚悟が、アルジュナの闘いに挑む覚悟と、似ているのかもしれません。


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