自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ユング、曼荼羅について語る

2013年08月31日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 

チャクラと曼荼羅~浄土への祈り     平成25年8月31日

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 インド 曼荼羅 壁紙 無料 に対する画像結果

曼荼羅は密教にとって、重要なもの。

その思想を示す図案であり、長い歴史をもつ。

普遍的真理の象徴的縮図とも、いえるだろう。

すべて万物が同一生命によって生かされ 同時に、それぞれの個性が光り輝き、

しかも大調和の世界を顕わしているといえる。

 

曼荼羅の歴史は、密教が生まれる以前から始まる。

インドでヴェーダ哲学が認識された頃、紀元前 数世紀 からすでに、聖なる

力をもつ図案として、一般的に、活用されていたようだ。

それから 仏教が生まれ、チベット密教にも取り入れられ、さらに弘法大師が

日本で真言密教を開き、曼荼羅が 知られるようになった。

                          

 曼荼羅は何のために使われていたのだろうか?

その昔、立体的な曼荼羅も存在し、建築様式の中に取り入れられたりして、

印度にはその遺跡がみられる。

現在では 平面的な図柄の中で表されている。

 

菩提心論 に 次の言葉が見られる。

真言法の中にのみ、即身成仏するがゆえに是 三摩地(さんまじ)の

法を説く。 諸教の中にけっして書かせず

 

真言法というのは真言宗でいうところの行である。

どのような行かといえば、マントラを唱え、手に印(いん)を

結んで観想する。

この身がそのまま、仏であるという 自己の実相の境地に達することを

目標におく。

 

瞑想三昧になって、内在する実相心全細胞隅々に念を凝らして観ずる

その際、曼荼羅は、その瞑想時に活用されてきた。

 曼荼羅も含めて 密教観想においては、仏教の発生地印度に古来より伝わる、

ヨガ的な生命力(プラーナ)の考え方の影響は否めない。

だから、この瞑想時の特徴はチャクラの活性化といえるだろう。

 

密教瞑想法においては、太陽神経叢、心臓神経叢~ハートチャクラ

甲状腺 ~ 喉のチャクラ への働きかけが 活発に、行われる。

インド 曼荼羅 壁紙 無料 に対する画像結果                     

ハートのチャクラの二つの神経叢への活性化は消化器系と循環器系に効用

をあらわし、甲状腺の喉のチャクラは 新陳代謝の働きを促進させる。

その結果、心身一如の原理から、体の健全化にともない、

心の働きの明晰化つながる。                

たとえば、前頭葉・松果体・間脳への刺激ともに、創造力や直観力

を増すことになる。

 

心身共に調和のとれたとき、神の道()~自律神経が整い、それが結局 

実相の顕現、つまり、即身成仏 という 仏教の理想境地に達成できる

いう考え方がある。

集合的無意識の中心にあるのが、この理想境地であるとユングは述べている。

 

C・G・ユング著 ”東洋的瞑想の真理“ の中で曼荼羅 について次のように

語っている。

“無意識の研究によって、その存在が確認せられている もろもろの神話的

モチーフはそれ自身としては多元的な構造を持っているが、

この多元的構造の極まるところは重点を中心部に置いた体系であり、

これこそが集合的無意識の中心、ないしは 本質をなしている。

 

近代心理学が掲げた成果とヨーガによる認識とのあいだのこの注意すべき

一致から、私は、この中心的象徴の呼び名として、門を意味するサンスクリット

の用語、マンダラ という言葉を用いた“

(人間心理と宗教 C・G・ユング 浜川枝訳

日本経文社)

 

マンダラを集合的無意識と捉えているユングはその無意識の中心に置かれる

価値大きさについてはここでは触れていない。

曼荼羅の意識図のその中心に座すところの”意識と真実” こそ、

曼荼羅の真髄、空(くう)観、でもあるだろう。

 

その中心(空)に、意識を凝らして観想していきつくところが 

即身成仏にほかならない。

その 空 から 自分という生命意識が分化し、さまざまな他の表現生命

とつながり、その繋がりが、宇宙的な大円をなし、空 に 中心帰一すれば、

すべての存在は 壱 なり~  という、理念がここにみられると思う。

大切なことは ユングが 真理への門 と名付けた曼荼羅は、お寺の一角に

飾られていても、それを実践するのは 今この生かされている場以外の

どこでも無いということかもしれない。

 

いうなれば、曼荼羅は私たちの魂の中にすでに書かれているアートマ世界

の縮図でもある。

                                                                                                           

            

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6人の敵とは~何を犠牲に?

2013年08月29日 | 健康と直結する”一元論”について

サイババ師の講義から~人間らしさ  平成25年8月29日

****************************************

 


南インド、プッタパルティの大学での、サイババ師の講義続編です。

学生諸君

私たちが吸い込む空気は吐き出さなくてはなりません。

そうしないと、肺は損傷をうけます。同じように、あなたが学ぶ知識と 

働いて稼いだ代金は社会の利益のために 用いられなくてはなりません。

 

そうでないと、それは足元の土のように、無価値なものとなります。

あなたは自分の知識と儲けに援助してくれた社会に負債を返すべきです。

これが真のセバ(奉仕)です。

須田注: セバは梵語である。日本語の世話するの

      本来の語源がこのセバであるあという説もある。

 

この種の犠牲精神は現代の学生に著しく欠けています。

金を儲けて貯める事・・この種の一方交通が彼らの人生理想のように見え

ます。

貴方がたの多くは 水泳を知っています。

水泳の動作で、水を 後ろに押しやらない限り、

前進できなことは、皆も良く知っているはずです。

これでもわかるように、犠牲なしでは人生の前進はできません。

貴方がたは自分の金ばかりでなく、自分の悪い性質をも犠牲にせねば

なりません。

悪い性質を断念することは、真の犠牲、または放棄です。

 あなたの妻子や富と財産を放棄することは

大きな犠牲ではありません。

それは あなたの悪い傾向を断ち切ることよりも易しいことなのです。                

学生諸君!

真の人間として生きることは 人間の偉大な責務です。

人が動物のように、生きるのは、人間という身分への 一つの汚点です。

人間の中の真の人間らしさは

アリシャッドヴァルガ (6人の敵)によって押しつぶされそうに

なっています。

この6人の敵とは、

カーマ [性欲) クローダ(怒り)ローハ(貪欲)モーハ(錯覚)

マーダ(誇り)マーツアリア(嫉妬)です。

 

月は 月面のカラー(十六分の一)を 十六全部発現したときだけ、

その涼しい輝く光を 完全に地上に投げることができます。

他方、人間がその輝きを社会に投ずることができるのは、

十六の悪い性質から抜け出たときに限られます。

 

この十六の悪い性質とは、

六つの内部の敵 アリシャッドヴァルガ と、

八種類のマーダ(誇り)そして、ラジャス(激性・落ち着きのなさ)

と タマス(鈍性・不活発)です。 

また、ボクトリトヴァ(享受者意識)ルトリトヴァ(行為者意識)

放棄せねばなりません。(*1)

補足:(*1)

享受者意識 とは、受け取る者行為者意識 とは、与える者の意識

をそれぞれさしている。何故 これを放棄するべきかというのなら、真に与える権威は

絶対者~神(我々の中にある無限力)にあるのであり、”私”(小我意識)が、

何かを与え、受け取ると思うならばアハムカーラ(小我)の助長になるからだろう。

須田)

 

すべては ブラフマン”=サルヴァム・ブラフマン(神)

という 信念をもって、良い行動をなし、それを神に捧げるならば、

その人は神の恩寵と彼に必要な援助を得ることでしょう。(*2)

補足(*2)~神にささげる行為という意味は

お供え物をするという意味ではない。

信念をもち、良心に即した行動を結果を求めず、誠心誠意 行うことで、結果的に、

神への一番の贈り物になる。

それが、”神に捧げる” という表現されている。

結果は後からついてくるもので

結果を求めて、行為をするべきではないということであろう。。(須田)

                

学生諸君!

あなたがた 独身者は、人生の邸宅の基礎にあたります。

家庭を持っている人の生活は、壁 に

隠遁者 の生活は 屋根 に喩えられます。

基礎がぐらついていると、邸宅全体が崩壊します。

それゆえ、あなたがたは 善い性質を伸ばさねばなりません。

 その性質がなければ、あなたがたにも、社会にも平和がありません。

不幸にも、現代人は社会を無視して、自分と自分の家族のことだけを

考えています。

社会がないとしたら、あなたはどこにいますか?

また、あなたの家族はどこにいますか?

この種の狭い、利己主義がいわゆる、帰依者と呼ばれる人々の間にも

はびこっています。

帰依者は 自分自身と自分の仕事について考え、考えるとすれば、次に、

神と神の仕事を考えます。

人間が平安または至福を楽しむことが

できないのは、この種の自己中心主義のためです

人生のための カウラヴァ兄弟の方式(ギータの中で クリシュナ神と

相反して闘った一族)は、まず、”自分、次に世間、それから、神”

でした。

そのために、彼らは自分の命をふくめて何もかも失ってしまたのです。

その逆に、バーンダヴァ兄弟の方式はまず、神、次に世間、それから

自分でした。

そのため、彼らは、勝利をおさめました。

私たちの歴史には、そのような実例がいくらでもあり、エゴを殺すことが

第一に必要であることを示しています。

 

学生諸君!

誇りと霊性は シーソーの反対側にあることを認識しなさい。

誇りが上にいけば、霊性は下がります。

 

その反対にもなります。

人間が自分自身を忘れるのは

ただ、アハムカーラ(小我意識)によるものです。

最大で真の束縛は、自己の本当の自分の真実の姿を忘れることです

自分の真実を認めることが 本当の サクシャットカーラ

(実相顕現)です。

あなたの人生態度に何の変化もなければジャパ(神の名の念唱)、瞑想、

ヨガ、カルマヨガ、セヴァ(奉仕活動)のような 総ての霊性修行は 

何の役にも立ちません。

変わるべきなのは、人間の心 です。

人格の変化は衣服の変化よりも重要です。

 

あなたが忘れてはならない三つの事があります。

それは、 

サティア(真理の理解)ダルマ(道義の実行)、ニャーヤ(正義の実行

です。

私たちの先祖は日常の生活でこの

三原則を忠実に守りました。 

ところが現代ではこれらの価値はインド自体でも

無視されていて他の国々では言うまでもありません。

 

印度の文化と伝統の将来の擁護者として、

貴方がたは学んだことを実践することにより、

これらの価値を回復してください。

貴方の国、文化 宗教 への愛を培いなさい。

しかし、どのような理由があっても

他の国々、他の文化、他の宗教他の国民を 憎んだり、批判しては

なりません。

偏狭な心を捨て、広い心を養いなさい。

 

ヴェーダの吟唱、

”ローカー サマスター ・スキノー・バヴァントゥ”

(全世界が平安に満ちていますように)

に従って、常に全世界の幸福のために祈りなさい。

        

   

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現代の怪談:丹田(たんでん)で回避

2013年08月27日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 怨念を祓うチャクラの効用 平成25年8月27日

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先日、病院に勤めている知人から聞いた残暑に

ふさわしい 寒気が走る話がある。

病院で患者さんが亡くなった場合、時たま、

亡くなった部屋で奇妙なことが

起こる場合があるという。

それは、水場、たとえば、トイレで何か

異常な物音がしたり、シャワーの水音が

聞こえたり、部屋の前を通ると誰もいないはず

の部屋の中で、話声がしたり

・・・・

もっと、驚いたことには、ナースステーション

に緊急コールが

その部屋から 入るときがあるという。

 

機械の故障のときも、まれにあるが、

ほとんどは、誰かが悪戯をしない限りは

押されるはずがない信号がナースステーション

に点滅する。

しかも、その部屋にいた患者さんが亡くなり

まだ、日の浅い部屋だという。

その患者さんは、病状が急転して、

急遽した場合や、見舞い家族が ほとんどいない場合、

或いは、亡くなった知らせを聞いても、

弔いの身内の少なかった故人に多いという。

まだ、故人が、自分が死んだ ということを

はっきり自覚しきれず、傷みを

感じ続けているかのようだ~と友人は、語る。

  

これに似た話で、実際に戦争で負傷して

手足いずれかを切断した人が、何かの拍子で 

実際はない、手足に痛みを覚えて訴えることが

あるという。

 

これらのケースはどう 理解したらよいのだろう?

心が、在る と認めた物に関しては、その思い入れ

の念が強ければ、その想いが具象化する

ということがいえるだろう。

仮想妊娠で、自分で妊娠したと思い込むと腹が

大きくなったり、ホルモンバランスが変化

したりするのと似ている。         

 

もう一つの考え方としては人間(動物も含めて)は 

肉体以外にアストラル体といわれる表層を持っている。

そのアストラル体次元の事象が五官で捕えられた

とも解釈できるかもしれない。

これは、心霊的用語のように考えられるが、

現象の肉体とは無縁ではない。                                           

 

たとえば、ヨガで使うチャクラという言葉、

これは、もともとはアストラル体の神霊的エネルギー

のセンターを指す。

それらのエネルギー(プラーナ)の通り道は

東洋医学でいうところの神経叢や経絡と対応していて、

西洋医学でも 自律神経系統や神経系統と

対比する考え方も研究されてきている。

 

asant .G.Rele医学博士は、その著

The Mysterious Kundalini”の中で

以下のように 西洋医学的立場から、

神経叢と身体の位置づけの関係を明確にしている                                                  

 

たとえば、

仙骨神経叢にある第一チャクラは 仙骨

摂護腺神経叢の第二チャクラ は 下腹部

咽頭神経叢の第五チャクラ は 交感神経の咽頭神経

さらに第七チャクラは 大脳にあたるとしているが

これらのポイントは ヨガのみならず、

西洋医学の観点からも重要な器官と連結して

いると理解できるだろう。

 

ところで、怪談噺に登場する、主人公たちは皆、

悲しみ 苦しみ 恨み、嫉妬、怒りなどの

感情が怨念となり、成仏できずに、この世に

漂うとされている。

                   

生前、もし、少し意識して、あるポイントに気を

つけていると、情念の解消が行われ得たかもしれない。

死という 大浄化の中で 怨念は、清算

されることが可能だったかもしれない。               

あるポイントとは、丹田 である。

 

シャーンディルズ・ウパニシャッドの中で、

“へその中央に置いて一切の疾病根治する”と

記されている。

 

日本語でも 何か意識を集中するとき、

“ハラに力をいれて”“ハラで深呼吸して”と 

言うが、その”ハラ”とは

この丹田の場所を示しているのだと思う。

 

丹田は 通常へその 指一本下にあるとされ、

ここに気を集中することは心を落ち着かせる

ための、瞑想のポイントでもある。        

ヨーガスートラでは マニプーラチャクラといわれ、

“ここに精神集中することで、身体の組織を知り得る”

と言われている。

 

さらに、神秘学の研究家 クロード・ブラグドン

Claude Bragdon)は、

このセンターを制御したヨガ行者は 

悲しみと病気を取り除くことができる変革の力を持ち、

心身の病は癒される“ とその著“Yoga for You”

で書いている。

 

総合していえることは、丹田の位置する場所は

太陽神経叢が脳せき髄軸と左右交感神経節状策

との結合地点であると考えられる。

整えられた呼吸によって、神経集中により、

消化作用を活発化して、

健康を助け、気を静め、喜怒哀楽にたいし

平穏な心を保つことを可能にさせると

言えるだろう。 

 

日頃から 呼吸を腹式呼吸に意識し、

丹田に息をためることで、ゆるやかな呼吸法が

身に着けば、上記のような効果が期待できるだろう。

かつ、怪談噺の陰鬱な想念とクロスすることは

ほぼ半永久的にないはずだ。

 

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サイババ師がヴェーダ哲学、徳性を講話する

2013年08月25日 | 健康と直結する”一元論”について

眞實と正義の定義   平成25年8月25日

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南インドのバンガロールから 車で3時間半走らせた小さな 

プッタパルティの村に、サイババ師は生まれ、そこから基本的に

離れることなく一生を過ごされた。

 

1990年の夏、自ら創設した大学の生徒たちに 数日間にわたり、

ヴェーダ哲学の夏期講習会が開かれた。


その、実録講話記録が私の手元にある。

師は、ヴェーダについて、印度人の学生たちに、ご自身の詩 

を カルナタカ語で、歌うように、唱えてから、本題に 

はいるのが常だった。


以下 講話実録から、ご紹介したい。紫色の出だしの

詩編は、師が、ゆるやかに、音調を整え、詠った部分である。

   

”高山の天をも 摩する頂きに見えるものは、神の偉大さと 

荘厳さと 壮大さである。


遠い森林と 広大な砂漠にあなたが見出すものは、

神の至高の静寂と平安である。


太陽と月と大空の無数の銀河系に発見するものは、

神の栄光と美しい輝きである。


地上を 彩る村、町、都会の住民に反映しているのは、

神の愛と創造性である。


この宇宙であなたが、巡り合うすべての美しいものは

あらゆる美の源泉である、聖なる主を思わせる

捧げものである。”

 

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以下、講義部分)

カルナタカ州の詩人、マランマ は、神の遍在する 美 を

次のコトバで単純に、しかも、魅力的に表現しました。


”ハスの花は湖の飾り。家は村の飾り。月は空の飾り”


世界に あなたが観る美しいものは、すべて、あらゆる

美の唯一の根源である 聖なる主の反映でしかありません。 


それ故にこそ、 ウパニシャッド[須田注:ヴェーダの中のカテゴリー)

は 神をサッティヤム、シヴァム、スンダラム(真善美)

と説明しました。


人間の飾りは マーナヴァターム(人間の神性)です。

このマーナヴァタームは 人間社会に不可欠です。

その人が 高名な学者であっても、優れた科学者

あっても、偉大な政治家であっても、真の人間性

の開発は、すべての人にとって、最も大事なものです。

 

社会、州、国家、の発展は、マーナヴァダーム すなわち 

人間の 精神的位階の発達に比例します。

すなわち、真の人間性が失われるならば、社会と国の

名誉も失われるでしょう。

 

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人間の名誉は、その徳性 と 誠実さによって、決まります。

人間性を育てることは今日の学生にとって、もっとも

不可欠のものです。


人間的価値は 霊的な環境において、進歩し栄えるものです。

種子を 土に植えて、規則的に灌水すると、種子は発芽して、

良い実を結ぶ木に生長します。

その代り、種子をブリキ缶に入れておいて、水をやるのなら、

それは 腐って死ぬだけです。


同じように、徳性と高潔さ は 人間の心に栄えることが

できます。

徳性は人格と行動の成です。

徳性は、人間をより高いレベルに向上させます。


太古から、インドはその霊的な富を、世界の他の国々

と分かち合い、世界中に、徳性と高潔のメッセージ

を広めていきました。

徳性と高潔のみが、真の真実永遠の社(やしろ)です。

徳性が存在しなければ、人類は破滅するでしょう。

 

今日 我が国 と世界の最高の必要は、道義 を

求めています。

あらゆる、場所、あらゆる状況において、道義を守る

ことはきわめて必要です

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 徳性は 諸感覚の統御 によって、達成されます。

自分自身を統御できる人だけが 他の人たちを統御できます

 

自己規制ができないものが、どうして、他人に規律を

強いることができるでしょうか。

自分の言葉と行動の間に 調和ある場合のみ、人間は

自分の人生で偉大なことを成就できるのです。

 

人が、自分の説教することを実践するのなら、

その人は ふつうの人間ではなく、マハトマ(偉人)

である。

人があることをいい、別のことを行うのならその人は 

人間ではなく、動物に過ぎない。

 

現代社会では、言葉と行為のあいだに、一致がありません。

コトバと行為の間に調和があるなら、それはサッティヤム

(真実です。


想念と言葉と行動の間に調和があるのなら、それは

リタム(正義)と言われます。

フリー画像 背景 に対する画像結果

 

今日の学生は 感覚のコントロールが何たるか知りません。

これは サミヤマ(自己制御)です。

人間だけが このサミヤマを行うことができます。


人間は感覚を野放しにすることによって、その神性を失って

います。

感覚器官の制御 はサンスクリットで ダマム 

呼ばれています。

ダマムを達成した人は ダーンタ と呼ばれます。


私たちが、今の世界に必要としているのはダントゥル、

すなわち、感覚器官を制御している人々であって、

ヴェーダントゥル、すなわち ヴェーダに精通している

人ではありません。

 

こんにち、ヴェーダンタ哲学は雄弁と、誇示に限られて

います。

ヴェーダンタの実践は衰微しています。

それゆえ、アーナンダ[至福)が、稀にしか味わえないのも

不思議でありません。

 


 

 

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神アレルギー(エディ夫人の見解から)

2013年08月21日 | 健康と直結する”一元論”について

transform の意味  平成25年8月21日

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自然風景無料写真 に対する画像結果

 

形而上的療法を明確に説明するにあたり、

エディ夫人は次のような辛辣なコメントを 

紹介している。

 

”医師会に敬意を表して、わたしは フィラデルフィア

の有名な治療医学の教師、ベンジャミン・ラッシュ博士

の言葉を好意的に引用する。


彼は次のように引用したのである。

 

”ヒポクラテスが、最初に天地万物に自分の名をつけ、

あとで それを病む人々にばらまいたことは、どれほど

の悪戯であったか、はかり知らない。’

 

ハーバード大学教授、ベンジャミン・ウオーターハウス

博士は彼自ら 学識者によるいかさま療治には、嫌気が

射している 明言した。


イギリスの王、ウィリアム四世の外科医、ジェームズ・

ジョンソン博士は次のように言った。

  

”私は、長年にわたる観察と熟慮に基づいて、

私の良心的意見を述べるが、もし、この地球上に 

一人の内科医 外科医 薬剤師 助産医 化学者 薬種商 

あるいは 薬剤もなかったら、病気も死亡率も 

ずっと少ないに違いない。’

 

ロンドンの博学な教授、メーソン・グッド博士は

次のように言った:

”人体組織に及ぼす医学の影響は、最高に不確かなものである。


ただいえることは、それが 戦争と疫病と飢餓をすべて

合わせたものよりさらに多くの人命を破壊してきたことである。’

 

ペンシルべニア大学医学研究所 並びに、臨床医学の

教授,チャップマン博士は、発表した論文の中で述べている:

 

”われわれの科学の記録を調べて、いろいろの場合に

私たちが押し付けられている、無数の仮説に全く

ウンザリする。


これ以上に、人の想像が誇示されているところはない、


そして、人の発明がこれほど、豊富に展示されている

のであるから、もし、これほどの不合理、矛盾、虚偽

充ちた不面目な意見を帳消しにされて、

なお、あまりあるのでなければ、それは、私たちの虚栄心を

 満足させたことであろう。

  

対立する医学上の学説を、一致させることは、私たちの

周囲に流れる気体を配置したり、自然の中で固定し、

反発する相容れない性質のものを和解させるのと

同じほどに、実行不可能な仕事である。


困惑した、曲折多い、私たちの生涯は ホーマーの

サイクロポスが 洞穴の中で手さぐりしているのに、

似ている。”と。”(162~3)

 

現代の医療は、エディ夫人の時代とは比較にならない

ほど発達を遂げている。


実証的証拠のない、これらの意見は、一方的で、

偏った意見として多くの読者がとらえるかもしれない。


ただ 現代と、エディ夫人の時代の間に、変わっていない

ものが 唯一あるとしたら、それは エディ夫人の

提唱する形而上的癒しの論理 かもしれない。

 

これは、今も昔も、私たちが精神的アプロ―チで病を

克服したとき働く力だと思う。


エディ夫人の形而上的癒し には 私たちが神の似姿

をもってして生まれてきたのだから、不完全さは

そこにはないという徹底した信念がある。

 

現代人に、神という、概念は、なくても、社会生活を

送ることができる。

多くの人たちは、神を自分とはあまり縁のない、

特定の宗教界の概念と認識しているだろう。


神 は、はるか遠くに押しやられて、一日のうち、

株価や為替のレートを気にしても神を気にすることは、

まず、無いだろう。

 

その場合、神 を枠の中に制限して考えているから、

あるいは、日常の枠から外に考えているから、

遠くの存在に感じるのだろう。


前者の場合は、神を、特定枠に修めている。

~教の神、~教団の神、というように。組織の中にだけ、

神はいると思っている人たち。


後者の場合は、神は すべてに偏在しているエネルギー

だということを、知らないひとたち。


エネルギーは波動でもある。

神の、その波動に包まれると、幸せ感につつまれたり、

誰かにやさしい言葉をかけたくなったり、

穏やかな心で 勇気が湧いてくる。


私たちの日常生活の、プラスのエネルギーの源でも

あるかもしれない。

 

それゆえに、形而上的癒しが可能になる。


コトバ、想念、波動 が変われば、それがすべてに波動

として影響を与えるから、顕れている、現象も変わる。

体も変わる。

病の状況も変わる。


それを、神の奇蹟 という人もいるが実際は、

その人自身の中の 愛や調和 の 波動が真実の言葉(神) 

の波動 と共鳴しただけに過ぎない。

 

エディ夫人も そのことを著書で繰り返し、述べている。

たとえば;

 ”The erring human mind is inharmonous in itself.

From It arises the inharmonious body.

To ignore God as of thrusting Him aside in 

times of bodily trouble, and waiting for the

hour of strength in which to acknowledge Him,

we should learn that He can do all things for us

in sickness as in health." (166)

協会訳)

誤っている認識を持つ人は とかく、心が不調和である。

そこから、肉体的な不調和が生まれる。

体に 問題が或るときは 神 を脇に置いて無視し、

健康になったら、神を知ろうと その時を待っている。”

 

私たちは、一般に、あらゆる物質的療法手段を尽くして、

かなわないとなると、最期に神頼みをする。


しかし、その時点でその人は、物質的治療を第一義と

しているので、芯底、心から、神に祈りを捧げているか

といえば、そうとも言えない。

 

我々の神という言葉に対する抵抗感を、神へのアレルギー 

名付けてみた。


神という言葉自体に抵抗を感じ、神に祈る ことは、

弱い人間だけがする行為だと、考える人達。

あるいは、神を日常生活で、たびたび、口に出すことは、

狂信的な人と思う人たち。

神の資質が自分の生命に流れているということは

ァンタジーの世界という人たち。

 

こうして、神 という話題が出ただけで、このような

レッテルが貼られ、神アレルギーの人達は、聞く耳を閉ざす。

 

transformation という言葉をご存じだろうか。


日本語では適訳が思いつかない。

一般通念や観念を飛び越えて、非日常的 かつ、きわめて

自然な 新しい自己発見と、今の自分を飛び越えることを

意味した、スピリチュアル的な言葉として使う


蝉が何度も transform するように私たちも、実は 

人生、何度か、transform している。

 

そして、一番の大きな脱皮には真理の言葉 もしくは

神体験 が不可欠なのだと考えている。


真理の言葉(神)が自分の体の波動の中でとらえられた

とき、あるいは、心と体が一つであると体感認識した時、

トランスフォームが叶う。


そのとき、おのずから 病の人の、症状が変わっていく

現場に私は何度も遭遇している。


transform は、自己変革でもある。

神に対するアレルギーすら超越して、本来の自分への回帰・・・

現在進行形・・・今も、着々と、行われていることなのだ。

 

参考)

Science and Health With Key to the Scriptures

by Mary Baker Eddy

published by The First Church of Christ, Scientest,

in Boston, Massachusetts, U.S.A, 1982 edition

 

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