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【メモ 教皇ピオ十一世の回勅「クアス・プリマスQuas Primas」 日本語訳】

2006年03月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言


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 フェーグルティ(Voeglti)神父1925年12月11日に発表された回勅『クァス・プリマス Quas Primas』を注解していた 。・・・


教皇ピオ十一世の回勅「クアス・プリマスQuas Primas」 日本語訳
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/quasprimasjp.html


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3.観想的な哲学の学生(続き その5)

2006年03月01日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


3.観想的な哲学の学生(続き その5)


ウンブリア地方での休暇 --- 試練をうける召命


 勉強で疲れた頭は喜んで小さな休暇、特に復活祭の休暇を受け入れた。サン・ヴァレンティーノの田舎の家はアルプス登山練習者たちのコロニーとして開かれていた。前年マルセルはイタリア・アルプス登山クラブに登録しており 、すでにピッズート山に上っていた 。ところが今年は、マルセルは太古の巡礼者たちをまねて、徒歩で杖を片手にリュックを背負ってウンブリア地方の古いフランシスコ会修道院や小さな町の司祭館に泊まらせてもらいながら巡礼者の功徳に与ろうとしたようだった 。マルセルはこう語っている。


「私たちはこれらの小さな村々で夜を過ごし、司祭がそこで占めていた地位を見て素晴らしいと思いました。司祭は全てでした。裁判官、市長、皆をよく知り、全ての家族から喜んで受け入れる存在でした。司祭なしには何もされず、司祭は熱心に、素晴らしい献身的態度で、極めて清貧に生活しながら全ての仕事をしていました。フランスでは世俗精神があまりにも深く浸透してしまい、司祭は村においてほとんどよそ者であると考えられていますが、そのフランスから来た私には極めて大きい違いでした 。」


 若き神学生マルセルはアシジで自分の第2の守護の聖人の墓で熱心に祈った。彼はこの巡礼で全ての点において強められ、第3学期の最後の努力を払いきり1925年6月27日哲学博士号を "feliciter" (優秀)の評価で受けた 。


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【注】マルセル・ルフェーブルは、マルセル・フランソワ・マリ・ジョゼフという名前を受けていた。
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 その夏は、或る小教区司祭をその青年団のもとで手伝いながら、気分転換をすることができた 。マルセルは司祭たちの中には次のような司祭がいたのを見て極めて驚いた、と言う。


「激しい論争をし、厳しく辛く当たり、冷淡とほとんど断絶を呼び起こすような司祭たち。これを見て神学校時代私は召命をためらう程、私はこれに苦しんでいた。私は独り言を言っていた。もしもこのような条件で、反対意見ばかり聞かされる司祭館で生活しなければならないのなら、辛いことだ。」


 マルセル・ルフェーブルは全生涯の間の教訓を得た。「私たちは固い決心を立てなければならない。どんなことがあっても躓きの元となってはならない、と 。」

 


教会論のおもしろさ


 マルセル・ルフェーブルは1925年11月2日付けでグレゴリオ大学の神学専攻に進んだ 。ファブロ(Fabro)神父の基礎神学の授業中、マルセルは次のように講義をノートした。「非カトリックは教会に属していない。何故なら彼ら(成人)には、そうであると気が付いていない異端によって信仰の一致という社会的絆が "妨げられて" いるから」


 この講義が強調したことは、目に見える生ける教導権(ルターの唱えた「聖書のみ」に反対して)が存在すること、教皇教座から(ex cathedra)教皇が語るときの不可謬性、そして「教皇の通常不可謬性に参与する 」公会議の不可謬性であった。


 この教会論神学は、ベルト神父が素晴らしく表現しているように、「ローマ性の神学」言い換えると「神学的ローマ性」であった。ローマで学ぶ神学ということだけではなく「根本的にローマ的な神学」であった。ベルト神父によると、この神学の最初の命題は正しく「ローマ教皇は、キリスト教教義の不可謬の教師であるのみならず、神学をする教会の第一神学者である 」だ。


 何と幸せな時代であろうか! 教皇ピオ11世のさまざまな回勅は、デンヅィンガーに掲載された全ての言葉を養ってきたこのローマ神学によって、影一つなく、教会を照らし続けていた。神学校でのローマ愛熱は、ペトロの後継者の教えに対する熱烈な信心となった。マルセル・ルフェーブルもこの愛熱に取り憑かれていた。マルセルにとって教導権、あるいはローマ教導職への言及があれば、それだけで全ての議論は終了し、全ての逸脱から軌道修正するのに充分であった。

 


私たちの主イエズス・キリストの司祭職と王権


 若き神学生マルセルは神学の最初の講義を受けて晴れ晴れとしていた。しかし彼の霊魂は、グレゴリオ大学よりもフランス神学校のほうにもっと身を置いていた。サンタ・キアラではフェーグルティ(Voeglti)神父が私たちの主イエズス・キリストのペルソナについての情熱的な連続講話会をし、今年は1925年12月11日に発表された回勅『クァス・プリマス Quas Primas』を注解していた 。


 セリュル(フランスのピュイ・ド・ドーム県)の聖霊修道会小神学校(スコラスティカ部修練院)の元院長であったマルク・フェーグルティ神父は1909年以来、サンタ・キアラでの「霊的父」であった。神父は、「霊的父」として霊的講話と神学生たちの大部分の霊的指導を行っていた。マルセルも神父の霊的指導を受けていた一人である。


 講師フェーグルティ神父は、その低い声と信仰に満ちた精神とで「畏敬の念をおこさせて」いた。神父は「時として、たとえ彼が逆説的で、しばしば故意に極端で絶対の隅で記されたような考えを出す時でも、人々を魅了していた。何故なら彼は聖トマス・アクィナスの命題の友であったからだ 。」だが神父は、何という「言葉に言うことも出来ない程の柔和」、何という「賜物、知恵を伝え、イエズスとその教会の味わいを知らしめてくれる極めて優れた賜物 」であったことだろうか!


「彼の教えは単純であった。彼は私たちの主、王たるイエズス・キリストについてのみ語っていた。・・・彼は司祭職の完全性、極みまで推し進められた司祭職の論理、つまり私たちの主イエズス・キリストの統治のための司祭のいけにえということを教えていた。全てはこの観点から判断されていた 。」


 神父はよくこう言っていた。「私の愛する友らよ、私の力の及ぶ限り、私はあなたたちにお願いする。私たちの主イエズス・キリストを愛しなさい!」あるいは「私の愛する友らよ、あなたたちの心を全て込めて私たちの主イエズス・キリストを説教しなさい! 」


 12名の神学生たちが共同署名でした証言は次のようにある。この中にはアンリ・バレ、エミール・ロラン、ジョゼフ・トロシュなども含まれていた。


「私たちが私たちの主イエズス・キリストを、王、全ての中心、全ての問題の解決、糧、思想、生命、全てであると見ることを学んだのは、神父様のおかげである。・・・これこそ神父様が私たちに刻みつけようと望まれたことであり、この教えは私たちの内に刻まれたまま残るだろう! 」


 50年後、神父の数少ない忠実な弟子の一人であるマルセル・ルフェーブルも、「聖書の言葉から取られた、私たちの主イエズス・キリストが誰であるかを示す極めて単純な講話・・・私たちの全生涯の間、心に残った!」その講話によって、消し去ることのできない強い印象を刻みつけたことを証言している。


 これは神学生マルセルの念頭のテーマとさえなった。


「私たちの主イエズス・キリストがどなたであるか、私たちは黙想し、探究してもしきれないだろう。・・・イエズス・キリストこそが、私たちの思索のルールとなければならない。イエズス・キリストは私たちの聖性の原因であり、私たちの創造主である。何故なら天主の御言葉なしは、つまり御言葉である私たちの主イエズス・キリスト無しにはに何も、一切何もなされなかったからである。だから、私たちの全ての考え、私たちの全ての観想は、私たちの主イエズス・キリストのためにあるべきである。そしてこのことが、これが人生を変えてくれる! 」


 神学生としての自分の体験を語るとき、彼の口で言葉は不足する。フェーグルティ神父の神秘的な言葉は、キリストの神秘の味わいと深さへと、智慧と知性の精神をマルセルにおいて目覚めさせ、それと同時に、物事を超自然的なまなざしで見ることと、私たちの主イエズス・キリストの統治のために実際的に働く望みとをマルセルに与えてくれた。


(続く)


 


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