アヴェ・マリア!
人格(ペルソナ)の基本的諸権利ならびにその限界
◆ 社会的秩序においては、精神的自由に対応して[この自由の保持者である当の人から]義務の履行を求める権利ないし能力が存在します。人間が諸々の権利を持つのは、天主に対し、自分自身に対し、および隣人に対して、これらの権利に対応する義務を有するのにしたがってのことです。
--天主を敬う、という自然的義務に対応して、天主に礼拝行為を捧げる自然的権利が存在します。
--両親が自らの子息に対してもつ自然的な教育者としての役割に対応して、彼らが自らの子息を自身の宗教的・道徳的信念にしたがって教育する自然的権利が存在します。
◆ 人間が持つ諸々の主要な自然的権利は、一般に「基本的権利」と呼ばれるものです。ピオ12世教皇は1942年12月24日のラジオ・メッセージで、その中のいくつかを挙げています。
「誰であれ、平和の星が上り、社会の上にとどまることを願う者は、人間の始原以来、天主から付与されてきたところの尊厳を人間の人格(ペルソナ)に帰属させるため、自分の力の範囲で協力し、(中略)人間人格の基本的諸権利に対する敬意ならびに実践を推進しなければなりません。それら諸権利とは、以下に挙げるようなものです。
--身体的、知的、道徳的生命活動を維持、発展すること。とりわけ宗教的養成ないし教育を確保する権利。
--天主に対し、私的または公的な礼拝行為を捧げる権利。これには宗教的組織・団体による慈善活動も含まれる。
--原則として 婚姻をなし、その目的を成就 する権利。
--婚姻的および家庭的社会を形成する権利。
--家庭生活の維持に不可欠な手段として労働をなす権利。
--生活上の身分を自由に選ぶ権利。これは必然的に司祭ないしは修道者としての身分を選択する権利を含みます。
--適当な義務および社会的制限を念頭に置いた上で物質的財を利用する権利です。」
(Documents 1942 p.341 / PIN 803-4)
これらの基本的権利は、単に「消極的」権利(行動するのを妨げられない権利、ならびに自分の意志に反して行動するよう強制されない権利)たるにとどまらず、「積極的」権利(行動する権利)でもあります。これらは自然的権利であり、したがって奪うことのできない権利です。また、これらは市民の権利として認められなければなりません。
◆ しかしながら、人が次のような事柄に傾注する場合、自らの自然的権利を失うのかどうかという問いが残ります。
--客観的に見て誤り、または道徳的悪である事柄
--明示された神法にもとる事柄
実際、ヨハネ・パウロ2世教皇は、こう述べています。
「実際のところ、人間の諸権利は天主の諸々の永続的権利が尊重されるところでのみ効力を有します。そして前者の追求は、もしそれらが後者と無関係に、あるいはこれを犠牲にしてなされるならば、見せかけに過ぎず、効力と永続性に欠けたものとなります。」(ブラジルの司教たちに宛てた手紙 [1980年12月10日] Documentstion Catholique誌 1802号 15 fevrier 1981 p.152)
誤謬または道徳的悪に対する権利というものは存在するでしょうか。この問いに対する答えはこうです。ただ真理と善のみが権利を有し、誤りもしくは道徳的悪は決して権利を持ち得ません。
第2ヴァチカン公会議のとき、多くの人々はこれに対し次のように反論することが、洗練された知性のしるしであると考えました。「しかし、そもそも真理も誤謬も権利など持ってはいない。なぜなら、権利というものは人間の人格の中にその「主体」を見出すのであり、人格こそが当の権利を「持つ」または持たないのだから。」かかる見地に立つことにより、彼らは諸々の「客観的権利」を等閑に付し、「主観的権利」のみを問題にすることができると信じたのです。
「主観的権利」と「客観的権利」とを区別することは、実際できないことではありません。
--主観的権利とは、これが主体の中に根ざすかぎりにおいての、要求する能力であり、この際、当の能力がどのように用いられるかは考慮されません。例えば、天主に礼拝を捧げる権利がこれに該当し、この際、具体的にどのような礼拝行為を捧げるかは考慮の対象外となります。
--客観的権利とは、この反対に、当の権利の具体的対象となるところのものです。すなわち、この礼拝行為、この教育等々です。
結論として、客観的権利は剥奪し得るものであるのに対し、主観的権利は剥奪することのできない権利です。
その理由はこうです。主観的権利は、果たすべき義務ないしは、-もしこう言ってよければ-、能力(例えば意志)がその対象(例えば尊崇すべき天主あるいは教育すべき子供)に対してもつ超越的関係、すなわち何があろうと存続し続ける関係と義務とに基づいているからです。
反対に、客観的権利もしくは権利の具体的対象は、さまざまな存在者ならびに種々の目的の間に存する客観的秩序に立脚しています。したがって、人が自らの行為において当の秩序から逸脱してしまうならば、この権利は消滅してしまいます。それゆえ、ピオ12世教皇は次のように教えています。
「真理および道徳的法に相応しない事柄は、客観的な見地から言えば、存在し、喧伝および活動を行なういかなる権利も持っていません。」
(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)
ここでも、巧知に長ける者たちは超越的関係のみを取りあげ、客観的秩序(当の事柄が真理であるか、それとも誤りであるか)には覆いをかぶせようとしました。しかるに満足のいく解答は次のとおりです。誤謬ないし道徳的悪において、人間は確かに自らの主観的権利を保持しますが、客観的権利についてはこれをことごとく失ってしまいます。この結論は、すでに冒頭で述べたことと全く同じことを言っているに過ぎません。すなわち、権利を客観的権利として見た場合、「誤謬および道徳的悪は権利を持たず、ただ真理と善のみが権利を有している」、ということです。
したがって、人間は誤謬または道徳的悪に傾注する場合、自らが持つ種々の自然的(客観的)権利を喪失します。
殊に、ピオ12世教皇が「天主を礼拝する権利」(le droit au culte de Dieu) について、これを基本的権利として論じる場合、常に次の区別を前提としています。すなわち、天主に礼拝行為を捧げる主観的権利、および真の天主に真の礼拝行為を捧げる客観的権利との区別です。実際、ピオ12世教皇は複数の箇所でこの区別をまったく明白な仕方で成しています。
「人間の人格および侵すことのできない人間の諸権利―よりつまびらかに言えば個人ならびに家庭の有する諸々の権利―(この中には、天主への真の礼拝行為を捧げる完全な自由および両親が自分の子供たちを養育し、[ふさわしい]教育を受けさせる権利が含まれます)に対する尊敬は、「キリスト教的政治」がよって立つべき根本的原理の1つとなっています。このためにこそ、教会はカトリック信徒である両親が自らの信条に見合った学校に対する権利を徹底的に守り、擁護するのです。」(教皇ピオ12世 西ベルリンのキリスト教民主主義青年団への訓話[1957年3月28日] Documents 1957 p.129 / PIN 1252)
天主から与えられた実定法に悖(もと)る事柄に対する権利というものは存在するのでしょうか。天主から与えられた実定法にもとる事柄は、誤謬に他なりません。だとすれば、すでに先で解決された問題をどうして再度考察する必要があるでしょうか。しかるに、この問題をやはり取り上げざるを得ないのは、次に挙げる反論に答えるためです。
実際、聖トマス・アクィナスは天主から与えられた実定権は、諸々の客観的な自然権を解消しない、と教えています。(神学大全第2巻第2部第10問題10項)例えば、イスラム教徒の両親は、自分の子どもたちの自然的教育者であり続けます。
しかし、聖トマスのもちだす原理は無論、自然権が実定的神法に反するかたちで行使される場合には適用されません。したがって、三位一体、および贖罪のための[御言葉の]託身を否定するイスラム教を自らの子供に教えることは、イスラム教徒の両親の客観的自然権ではなく、単に事実上の非抑圧の(ないしは消極的寛容の)対象であるに過ぎません 。
同じことを、特定の教義をはっきりとしたかたちで拒絶し、真の宗教に相反する信条を表明する全ての宗教の教授ならびに実践について言わなければなりません。
その反対に、天主に対し、純粋な理性の光によって知りうるかぎりの、迷信的な誤りに染まらない自然的礼拝を捧げることのみを求める宗教の信奉者は、自分の宗教をふみおこなう客観的自然権を享受するでしょう。しかし、このような宗教はあくまで仮説的なものに過ぎません。
結論:
1.人間としての人格の基本的諸権利を客観的自然権として要求する場合、これらの権利は真理の外には存し得ないことを認める誠実さをもたなければいけません。
2.殊に、客観的権利としての「天主を礼拝する権利」は真の宗教の礼拝行為をその対象とし、その他一切の宗教は除外されます。
3.あらゆる宗教を攻撃する抑圧的政権に抵抗する場合は、教会は合法的に、天主に礼拝を捧げる人間の基本的権利を抽象的なかたちで求めることができます。なぜなら、この場合、当の無神論的政権によって攻撃されているのは、この権利の根元自体、すなわち主観的権利であるからです。
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