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カトリック教会はラテン語ミサに戻るのか

2007年02月28日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


【参考資料】2007年02月28日◎カトリック教会はラテン語ミサに戻るのか


◎カトリック教会はラテン語ミサに戻るのか


 【CJC=東京】教皇ベネディクト十六世が典礼改革に関する文書を発表する、との推測がバチカン(ローマ教皇庁)内外で交わされている中で、典礼秘蹟省局長のマルコム・ランジス大司教が、バチカンの内幕を伝える情報誌に、伝統的なラテン語ミサ(トリエント・ミサ)の制限を緩和する教皇文書の可能性について語った。ZENIT通信が報じた。

 教皇が「自発的に」(モツ・プロプリオ)文書を発表するとすれば、それは「教会にとって何が最善か」を決めるためのもので、「トリエント・ミサはルフェーヴル大司教の追随者だけのものであるわけではなくカトリック教会のメンバーとしての私たち自身の遺産の一部だ」と言う。マルセル・ルフェーブル司教が創設した聖ピオ十世会では、第二バチカン公会議で進められた改革の多くを否定、特にトリエント・ミサの順守を重視している。

 ランジス大司教は、第二バチカン公会議以後の典礼改革が、教会の霊的宣教的革新に関して期待された目的を達成していない、として「教会は空になった」と指摘している。

 トリエント・ミサに復帰するのか、それとも改革に止まるのか、との質問に、同大司教は「“二者択一”の態度は不必要に教会を分極化する。配慮と司牧的な関心によらなければならない。教皇が望まれるなら、両方が共存することもありえる。」

 『モツ・プロプリオ』が出されるならいつになるか、との質問にランジス大司教は「それを決めるのは教皇だ」と語った。□

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 スリランカ出身のランジット大司教様については、「典礼聖省の秘書ランジット(Albert Malcom Ranjith Patabendige Don)大司教について
 また、
 「新しいミサについて、典礼聖省の新しい事務総長ランジット大司教様のインタビュー

 などをご覧下さい。



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●トレント公会議(第19回公会議)決議文
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●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
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●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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宗教無差別主義について確認しておくべき点

2007年02月28日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!


 宗教無差別主義について確認しておくべき点


 宗教無差別主義は、今日における最も根本的な誤謬であるように思われます。そのため、ここで当の誤謬の概要を述べておくことが益となるでしょう。無論、この宗教無差別主義というものは、その明白さの度合いにこそ違いがあれ異端的な、種々異なった表現のもとに姿を現します。以下に、これらさまざまな言い回しを、誤謬の重大さが増す順にしたがって列記することができます。すなわち、語弊を招く言い回し、異端の気味がある言明、異端に近い誤謬、異端、そして最後に棄教と言う順序です。


「真の信仰の外に生きている人たちも永遠の救いに到ることができる。」

「他の宗教に留まりつづけている人たちの救いに関しても、大きな希望を抱くことができる」

「あらゆる宗教は、万人を照らす真理の光の一筋をもたらす」

「キリストが『道、かつ真理』であると言われるのは、ただ彼においてのみ十全なかたちでの宗教的生き方がみいだされるからである」

「人はたとえどんな宗教においてであれ、救われることができる」

「いかなる宗教も、宗教として、救いの神秘における何らかの意味に欠くものではない」

「カトリック教は救いの通常の手段である。その他諸々の宗教は救いの特別な手段である」

「全ての人は、どの宗教を信奉しているかを問わず、皆等しく救いに到る道にある」

「全ての宗教は真実なものである」

「私たち(キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒)は皆、同じ天主、すなわち同じ唯一の天主を信じている。

「私たち(キリスト教徒、ユダヤ教徒)は、共に救世主の到来を待望している」


 おそらく宗教無差別主義は、ごく多様な誤謬が、歴史的な要因となってきたものと思われます。


――啓蒙主義哲学の不可知論ならびに自然主義
――各人の理性を真と偽との唯一の判定者とする理知主義
――フリーメーソン、リベラリズム、ならびにフランス革命の標語「自由・平等・博愛」
――19世紀のロマン主義精神に根差す感情主義および自然主義の、救いに関する楽観的見方
――20世紀初頭の近代主義によって、さらには今日においても提唱される、あらゆる宗教における宗教的体験の真正さ
――今日広く通用している意味での、すなわちカトリック教会の境を越え、これと「何らかの意味で一致している」他の諸宗教を自らの領域に包含する超教会としての「神の民」の概念


 こういった歴史的な要因は、しかるに重要ではありません。なぜなら、宗教無差別主義がグレゴリオ16世やピオ9世、レオ13世、聖ピオ10世、ならびにピオ12世教皇によって排斥され、また遅かれ早かれ現今の言い回しにおいて排斥されるであろうのは、まさに宗教無差別主義それ自体において、また当時知られていた全ての言い回しにおいてだからです。


宗教無差別主義についての結論:


 ◆ 宗教無差別主義は、秘密結社がこの害毒を世界中に、また教会の内部および血管にまで広めて以来、諸教皇によって最も頻繁かつ継続的に排斥されてきた異端です。


 ◆ この異端の基盤には、真理の相対主義という哲学上の誤謬がひそんでいます。この教説にしたがえば、カトリックの真理ならびに教義はたしかに真実なものであるが、しかるに他の諸宗教にもそれぞれの真理を有しています。真理はもはや一つではなく、カトリック教は、唯一真の宗教ではなくなります。しかるに、教会にとってこれ以上致命的な毒は考えられません。なぜなら、この誤謬は教会に自ら自身について、また真理を絶対的かつ十全に余すところなく保有し、救霊のための普遍的使命を帯びている、という事実について疑念を抱かせるものだからです。


 ◆ 現在、宗教無差別主義の異端は真の意味での棄教となっています。なぜなら、この異端は主イエズス・キリストが唯一の天主、唯一の救い主であり、統治すべき唯一の者、それによって再生されるべき唯一の者、かつ洗礼によってその[神秘]体の一部となるべき唯一の者であることを否定するからです。事実、当の教説は他の諸宗教に「救いにおける価値」、「救いの神秘における一定の意味」を認めるのですが、それはイエズス・キリストに対してなされる甚だしい侮辱に他なりません。もし、ある者たちが誤った宗教の中にありながら救われるということが事実あり得るとしても、この救いはイエズス・キリストおよび真の教会から来たものであり、それ自体として聖霊[のはたらき]に対する抵抗かつ主イエズス・キリストに到るための障害に他ならない当の宗教によるものではありません。


 ◆ 宗教無差別主義は偽りのエキュメニズムおよび偽りの宗教的自由の基盤です。もし実際、あらゆる宗教が天主へと到るための道であるなら、宣教の精神をエキュメニカルな対話でもって代え、さらに見境なく全ての宗教の信奉者による自由な探求のあらゆるかたちの表明に市民権を与えなければならなくなります。

 


自由な探求についての結論


 ◆ 宗教に関する事柄における「自由な探求」は誤りに他なりません。

なぜなら、かかる探求は


 ――それ自体として非現実的であるからです。と言うのも、このような態度は実際上、権威ならびに教導者の必要性を暗黙に付し、否定するものだからです。


 ――自然主義の誤謬に染まっているからです。


 ――宗教無差別主義の異端ないしは棄教に毒されているからです。この異端は、あらゆる宗教が救いへと到る一つの道である、としています。


 ◆ したがって、この自由な探求という誤謬に基づいて、いかなる議論も打ち立てることはできません。が自由な探求を要求するやいなや、「信教の自由」は必然的に排斥に値するものと化します。


 ◆ さらに、この20世紀末において唱道されている「信教の自由」は、19世紀にさかんに唱えられた「良心と信教の自由」の基盤となった諸々の誤謬よりも一層危険な誤謬によって「歴史的に動因付けられている」ということは、以上見てきたことから明白です。後者、すなわち「良心と信教の自由」は、先に見たように19世紀当時の理知主義ならびに徹頭徹尾のリベラリズムによって動機付けられていました。しかし、真の棄教の明らかな兆候をことごとく示している自然主義およびとりわけ現今の宗教無差別主義に比べると、かかる誤謬は、あたかも些細なものであるかのように思われてしまいます。


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