Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か

2009年04月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、明日は聖木曜日ですね。

【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、を見てみましょう。


【新しい典礼と新しいいけにえ】

  カトリックの聖伝の教えによれば、人間は天主の本性に預かることができる存在として、天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた。人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される。しかし、人間は自由を濫用し、天主への従順を破り罪を犯したがゆえに、超自然の聖寵を失い、自然は傷ついた。

 罪は天主の怒りを呼び起こす。
 「淫行、汚れ、情欲、邪欲、偶像崇拝である肉欲、これらが天主の怒りを呼ぶ。」(コロサイ3:5-6)
 「かつては肉の望みのままに生活し、肉と不義の思いに従い、他の人々同じく本来は怒りの子であった。」(エフェゾ2:3)
 「人の虚しい言葉に騙されるな。不従順なものの上に天主の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である。」(エフェゾ5:6)

 天主はその御怒りを私たちがこの地上にいるうちから現す。
 「実に、天主の怒りは、真理を不正のとりことする人々の全ての不敬と不義に対して、天から現される。・・・」(ローマ1:18~)
 「異邦人を救うために宣教する私たちを妨げ、こうして、どこにいても自分たちの罪を満たしている。ここにおいて彼らの上に、天主の怒りは極みに及んだ。」(1テサロニケ2:16)

 天主は、ご自分の怒りを、苦しみを送ることによって現す。
 「おまえたちの先祖はそこで私を試み、私を試した、40年の間、私の業を見ていたのに。・・・私は怒りのうちに誓った、『彼らは私の休息に入るまい』と。」(ヘブライ3:9-11)

 天主の怒りは特に最後の審判の時に輝く。
 「天主の正しい裁きの現れる怒りの日に、自分のために怒りを積み重ねるである。・・・真理に従わず不義に従う反逆者のためには、怒りと憤りを返される。悪を行って生きるものにはすべて、・・・艱難と苦悶がある。」(ローマ2:5-9)
 「天主が私たちに怒りを向けられるのが不正だろうか。決してそうではない。」(ローマ3:5-6)
 「愛するものよ、自分で復讐するな。かえって天主の怒りに譲れ。」(ローマ12:19)
 「迫り来る怒りから私たちを救うイエズスが、天から来られるのを待ち望んでいる」(1テサロニケ1:10)

 この原罪と罪の状態から私たち人間を解放するのは、唯一私たちの主イエズス・キリストの十字架による購いである。

 何故なら、私たちの主イエズス・キリストだけが真の天主かつ真の人として流血のいけにえにより人間の罪の負債を支払うことができるからだ。何故なら、罪を犯すことによって、人間は天主の正義を犯し天主に償いの負債を負ったからである。

 キリストは、人類の身代わりに、人類の代理として天主の正義を宥めた。
「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死去された。・・・いまキリストの御血によって義とされた私たちは、なおさらに主によって天主の怒りから救われるのである。」(ローマ5:9)

「天主の贖いの奥義は、まず、その本性によって愛の奥義です。天のおん父に対するキリストの正義を果たす愛の奥義です。この正義に対して、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲は、人類の罪のために為されるべきであった溢れるばかりの無限の贖いを提示しています。「キリストは、愛と従順によって苦しみを受け、天主に対して、人類のすべての罪の償いとして要求されていたもの以上を天主にささげる」(神学大全Ⅲ・q・48a・2)。贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と天主なる贖い主の憐れみ深い愛の奥義です。私たちは罪を贖うために天主の正義を満足させることはできなかったのですが、ご自分のいとも尊き御血を流した結実である、測り知れない功徳の豊かさによって、天主と人との間の友好の契約を回復し、まったく完成することが出来たのです。天主と人間の間の友好の契約は、アダムの嘆かわしい罪によって、地上の楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきました。天主なる贖い主は私たちに対する燃える愛から、私たちの正当かつ完全な仲介者として、人類の義務および負債と天主の権利とを完全に調停なさいました。キリストは、天主の正義とその慈悲の間の絶妙な和解を成し遂げられた方なのです。ここにこそ、まさしく、私たちの救霊の奥義の絶対的超越性があるのです。」
(ピオ12世、1956年5月15日回勅『ハウリエーティス・アクヮス Haurietis aquas』)

 人間は、購い主キリストとともに、天主の栄光のために十字架を担うべきである。キリストは聖父の栄光のみを求め、自分を天主の栄光のために犠牲にした。人間も、救われるために、天主の栄光をのみ求め自分を犠牲とささげるべきである。





 第2バチカン公会議によれば、「天主の啓示」とは天主が超自然の玄義を人間に啓示することではない。そうではなく、天主の啓示とは「聖父を啓示しつつまた聖父によって啓示されたキリストが人間を人間自身に啓示し尽くすこと」である。"en révélant le Père et en étant révélé par lui, le Christ achève de révéler l’homme a lui-meme." (Henri de Lubac, Catholicisme - Gaudium et spes)

[愛の秘儀の啓示]

 キリストは聖父が人間を愛しているという愛の秘儀を啓示することによって、人間の崇高さを人間に啓示する。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。

 「『過ぎ越しの神秘』とは、天主のきわめがたい神秘を啓示する頂点にあるキリストである。」
(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 8. カトリック中央協議会日本語公式訳によると「復活秘義なるキリストこそ、きわめがたい神の神秘の頂点におられます。」)

 イエズス・キリストの十字架上での死は、私たちに対する天主の愛の単なる現れであり、天主の愛の啓示以外の何ものでもない。信じる者たちに明らかにされた「神秘」は、天主の愛の啓示であって、私たちの間に常に現存している現実である。

 全ての人の父である天主は、全ての人の救いを望んでおられる。愛そのもの、そしてその愛は御子キリストの「十字架の死」を通して(過ぎ越しの神秘)世に示された。その愛は代償(罪の償い)を求めない「無償の愛」でなければならない。

 「過ぎ越しの神秘」という概念により、天主の愛や、復活の新しい生を強調することができるようになる。『過ぎ越しの神秘』において、実に私たちの救いに関する全ては、天主の愛と憐れみから発し、天主のご自由なイニシアティヴという、生き生きとした無償の行為によってなされたこととして現れる。愛そのものである聖父なる天主は、その愛をキリストの十字架において啓示した(世に示した)。キリストの十字架は全人類の罪の償いというよりは、全ての人間を救う聖父の愛の啓示である。

[救いは、正義を満足させる償いではなく、償いを求めない愛によってもたらされた]

 過ぎ越しの神秘によれば、天主は不可変の完成された方であり、罪によって天主が傷つくことは無い。罪によって、人間だけが傷つく。天主は、人間を人間のためだけに創造した。天主は誰をも永遠の罰をもって罰することは無いだろう。

 人は罪を犯して自分或いは社会に損害を与えるけれども、天主に対していかなる損害も与えない。罪は天主の正義を傷つけない。ただ、罪が天主の愛を拒むことであるという意味において、天主の愛を傷つけるだけだ。

 「罪は、理性、真理、正しい良心に背く過ちです。また、神と隣人への真の愛の欠如で、これはあるものへのよこしまな愛着によります。罪は人間の本性を傷つけ、人間の連帯を損ないます。「永遠の法に背く言葉、行い、または望み」という罪の定義があります。」(『カトリック教会のカテキズム』#1849)

 「罪は天主に背くことです。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(詩編51:6)。罪はわたしたちへの神の愛にあらがい、わたしたちの心を神の愛から退けます。」(『カトリック教会のカテキズム』#1850)

 「天主の正義を満足させる」ことは、もはや天主のなす報復という次元を全く離れて、単なる治療的であるだけに過ぎない。

 「罪はさらに罪人自身ばかりでなく、神ならびに隣人との関係をも傷つけ弱める。赦しの秘跡は罪を赦すが、罪が引き起こしたすべての無秩序を修繕するわけではない。罪人は、罪から解放された後も、霊的健康を完全に回復しなければならない。だから、罪の何らかの償いをせねばならないのである。つまり、適当な方法で「弁償する」、言い換えれば「罪滅ぼし」をせねばならないのである。この弁償を「償い」と呼ぶ。」(『カトリック教会のカテキズム』#1459)

 「贖い」はもはやキリストによってなされた天主の正義を満足させることではなく、天主が人類にした永遠の契約の最終的な「啓示」となる。(この契約は罪によって決して破棄されることはなかった。)

 「真実、神の子とされる尊さへの永遠の選びの道に沿って歴史上キリストの十字架はまさに立っています。そのキリストは神のひとり子、「光よりの光、まことの神よりのまことの神」として神と人類、神と人間、一人ひとりの人と感嘆すべき契りへの最終のあかしをたてに来られたのでした。」
(ヨハネ・パウロ2世1980年11月30日回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 7.)

 「神の愛の深み・・・その愛とは、類例を見ない御子のいけにえをいとわず、人々に対する創造主かつ父であるお方の忠実を全うしようとするもの・・。このあがないは、全きものの絶対の充満である神の神性の究極、決定的な啓示である」
(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 7.)


[キリストではなく聖父が人間を救う、キリストは聖父の愛を示す道具]

 キリストの「贖い」の業とは、人々の罪に対し天主の正義を満足させることを目的とするのではなく、聖父の愛を完全に啓示することである。

 「贖いについてのキリスト教の信仰は、何よりもまず天主に対する信仰である。イエズス・キリストにおいて、すなわち聖父の固有の唯一の人となった御子において、「人々が天主と呼ぶ方」(つまり聖父)は、全ての人が信頼することの出来る唯一の真の救い主として自らを啓示し、自分を顕わにする」
(国際神学委員会, Quaestiones selectae de Deo Redemptore, 1994年12月8日、第4部第14番)


 キリストにおいて聖父の愛とその名前が私たちに啓示される。従って、イエズス・キリストとは、固有の意味でもはや「贖い主」ではなく、むしろ天主聖父が、そこにおいて救う場所である。


 「イエスとはヘブライ語で「神が救い給う」という意味である。お告げのときに、天使ガブリエルは、本質と使命を同時に表すこの名前を生まれるべきお方の名前として与えた(ルカ、1昭、31参照)。「神おひとりのほかに、一体だれが罪を赦すことができるだろうか」(マルコ、2章、7)であるならば、人となった御ひとり子、つまりイエスにおいて、「自分の民を罪から救うのは」(マテオ、1章、21)神ご自身である。イエスにおいて、神は人類の救いの全歴史をこのように完結されるのである。・・・イエスという名は、神の名そのものが御子の人格に現存することを、つまり全人類を決定的に罪から解放するために人となった方の中にあることを意味する(使徒行録、5章、41;ヨハネの手紙、三、7参照)。イエスとは神的な名前で、人を救う唯一の名であり、(ヨハネ、3章、18;使徒行録、2章、21参照)、今より後すべての人がそれを呼び求めることができる。なぜならば、ご託身によってイエスがすべての人間と結び付き、その結果「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」(使徒行録、4章、12。また使徒行録、9章、14;ヤコボ、2章、7参照)からである。」(『カトリック教会のカテキズム』#430, 432)


[キリストの十字架ではなく、復活が人間を救う]

 「贖い」の主要な行為はもはやキリストの死ではない。過ぎ越しの神秘によれば、十字架よりも、キリストの復活、御昇天こそが「贖い」のもっと重要な行為となる。復活は啓示の充満であって、この啓示のためにキリストは人となったからである。十字架は復活への過ぎこしていく通過点に過ぎない。キリストの神秘の中心は復活である。

 「キリストが3日目に復活させられたことは・・・、悪に支配されている世界の中のいつくしみ深い愛の全啓示を全うするしるしとなります。・・・キリストは復活のうちに、御父が御子に向けられる愛と、御子を通して全ての人に向けられる愛を明らかにされたのでした。神は死者の神ではなく、生きているものの神である。復活をもってキリストはいつくしみ深い愛の神を現されました。」
(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』 Dives in miseridordia, 8.)


 過ぎ越しの神秘によれば、人間は、復活したキリストとともに、人間の崇高な栄光のために、天主によってもたらされた復活を喜ぶべきである。天主は人間の栄光を求め、ご自分を人間の栄光のために犠牲にした。復活したキリストは、人間の栄光を求め自分を犠牲とした天主を世に示している。

 繰り返せば「『過ぎ越しの神秘』とは、天主のきわめがたい神秘を啓示する頂点にあるキリストである。」(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』 Dives in miseridordia, 8.)



【典礼】

 人間は、自分を犠牲にして罪を償いつつ、天主に栄光を帰す債務を負う。

 「1740 この天主であり、私たちの主は、十字架の祭壇で、死を通して、一度、聖父なる天主に自分をささげようとしていた。彼らに [そこで] 永遠の贖いを成すためであった。しかしまた、主の司祭職は死によって消去られるべきではなかったので(ヘブレオ7・24、27)、「渡される夜」(1コリント11・13)最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に、(人間の本性が要求するとおりの)目に見えるいけにえを、すなわち、それによって十字架上で一度血を流して遂行されるべきであるかのいけにえが再現され、且つその記憶が世の終りまで永続し、またその救いの力が私たちによって毎日犯される諸々の罪の赦しに適応されるいけにえを残すために、主は自らが「メルキセデクの位による永遠の司祭」(詩編109・4)として立てられていることを宣言して、自分の御体と御血とをパンとブドウ酒の形色のもとに聖父なる天主に捧げ、更には、同じものの象徴の下に、(その時主が新約の司祭として制定した)使徒たちに、彼らが拝領するように与え、そして、同じ使徒たちと彼らの司祭職における後継者たちに「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)というこの言葉で、それを捧げるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。・・・

 1743(940) ミサにおいて行われるこの天主的ないけにえにおいて、十字架の祭壇で「御血を流して自分自身を一度捧げた」(ヘブレオ9・14, 27)その同じキリストが含まれ、御血を流さずに屠られているので、聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、このいけにえは真に贖罪のためであり(第3条)、このいけにえを通して、贖罪となる、それはもし私たちが真心と正しい信仰、畏敬の念と痛悔をもっているなら、砕かれて悔悛しつつ天主に、「近づいて、適切な時に慈悲を受け、恩恵を見出すようになる」(ヘブレオ4・16)ためである、と。実に、この捧げものによってなだめられた主は、悔悛の聖寵とたまものとを与え、たとえ巨大な犯罪と罪でさえも赦し給う。いけにえは同一であり、あの時御自分を十字架の上で捧げた同じ方が今司祭の役務によってささげている。捧げられ方だけが異なる。この(流血の)捧げものの結実は、この無血の捧げものを通して非常に豊かに受けることができる。しかし、この後者の捧げもの(ミサ)を通して前者のいけにえが如何なる仕方であれ廃止されるのではない(第4条)。そのため、生きている信者たちの罪や罰または罪の償いのためまたはその他の必要のためだけでなく、使徒たちの伝承に相応しく従えば、キリストにおいて亡くなったがまだ完全に清められていない霊魂のためにも捧げられる(第3条)。」
(トリエント公会議)

 旧典礼では、私たちが「聖名の尊まれんことを」と祈り、天主の本性や実体に何かが加えられることではなく、天主の外的栄光がいや増さんことを祈る。すなわち、天国の諸天使諸聖人のように彼らに習って、私たちが言葉と行いとをもって天主に従属することを祈る。
(トレント公会議の公教要理)



 第2バチカン公会議の典礼に関する憲章の目的は、典礼の形式や言葉を換えるだけに止まらず、むしろ信者たちの養成と司牧的実践を呼び起こし、典礼がそれらの頂点であり源であることを目指すものである。何故なら、現在に至るまで典礼において導入された変更、また今後導入されなければならない改変は、この目的のために秩序づけられているからである。ところで、典礼の周囲へと秩序づけられているこの司牧的活動の力は、典礼生活によって「過ぎ越しの神秘」と呼ばれているところにある。」(1964年9月26日の宣言「Inter oecumenici」5, 6番)

 「(第二バチカン公会議後の典礼改革の)第一の原理は、教会の典礼における「過ぎ越しの神秘」の現実化である。」(ヨハネ・パウロ2世、1988年12月4日 « Vicesimus quintus annus », ヨハネ・パウロ2世、第2バチカン公会議の「典礼憲章」の発布25周年 Documentation Catholique 1985, 4 juin 1989, p. 519)

 過ぎ越しの神秘によれば、天主は、ご自分を犠牲にしても人間を栄光化する債務を負う。感謝の祭儀では、会衆が集まるや否や、キリストはそこに現存される。新しいミサでは、人間の手による労働の実りをささげることにより、人間の労働に栄光を帰し、貧困と暴政(エジプトの奴隷状態)から開放され自由となったことを感謝する。

「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
(新しいミサの総則7)


 「ミサは司祭だけがささげるものではなく、信者全体がささげる」(『カトリック教会の教え』197ページ) のであって、叙階の秘跡を受けた司祭は単なる司会者にすぎない。


 新しい神学においては、主体が信者であり、会衆が「感謝の祭儀」に集い、「過越の秘義」を生き生きと感じること、主の復活を体験することが大切となる。 信仰はますます、センチメンタルになっていく。

 新しい神学によれば、ミサは、主の十字架から復活への過越の記念であって、復活したキリストとの出会いが体験される場である。

 「イエス・キリストは、ユダヤ人の旧約の過越祭を、ご自分の死から命への過越、すなわち十字架から復活への過越を記念する祭儀へと変容させて、新しい過越祭を制定しました。感謝の祭儀とも呼ばれる新しい過越祭は、同時に神の国が完成される時の栄光の教会の過越をも先取りするものです。イエス・キリストは最後の晩餐において新約の過越祭を制定し・・・ました。・・・教会はミサにおいて、『主イエスの死と復活の記念』を行います。『記念(アナムネシス)』とは、キリストの死と復活の神秘が『今、ここで』現在化されることを意味します。」(『カトリック教会の教え』191ページ)

 「ミサは人々を新約の恵みにあずからせる『記念』の祭儀であることが明らかになってきます。」(『カトリック教会の教え』193ページ)

 「わたしたちは復活されたキリストとさまざまなしかたで出会うことが出来ます。つまり、二人、三人がキリストの名によって集まるところに(マタイ18:20参照)、また、貧しい人、病人、囚人のうちに(マタイ25:31-46参照)、ご自分が制定された諸秘跡のうちに、ミサの司会者のうちにキリストと出会うことが出来ます。特に聖体の秘跡においてわたしたちは、実際に神であり人であるイエス・キリストに出会うのです。」(『カトリック教会の教え』192ページ)

 「聖体の秘跡の記念を挙行する祭儀は、普通『ミサ』と呼ばれます。・・・ミサは、わたしたちがイエス・キリストの死と復活を記念し、その復活の恵みにあずからせていただく、喜びに満ちた感謝の祭儀だからです。ミサはまた『主の晩餐』『聖餐式』とも呼ばれます。それはミサが、最後の晩餐に起源をもち、神の国が完成される時に行われる羔の婚宴の前表、先触れでもある聖なる会食だからです。キリスト者は使徒の時代から、主の日である日曜日に集まり、主の復活を祝う感謝の祭儀を挙行することを大切にしてきました。」(『カトリック教会の教え』197-198ページ)

 新典礼では、私たちが「聖名の尊まれんことを」と祈るとき、一つの賛美、一つの感謝の意味で、神と人間とどちらにも関係のある願い、望み、期待として祈る。つまり、み名が聖とされますようにと願うことで、私たちが、私たちのために、私たちから、私たちのうちに聖とされるという条件によってのみ成就する。天主の光栄は、私たちの光栄に従属し条件付けられている。
(参照:カトリック教会のカテキズムによる「主の祈り」Ⅰ み名が聖とされますように 2807)


天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
 聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
 聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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