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第二バチカン公会議は、教会を新しくどのように自己定義したのか?【2】他宗教に対して

2009年04月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して、
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察していくなかで、既に【1】この世に対してについては二回にわたって考察しました。

 そこで、今回は、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。


【教会と他宗教】

 主観的ヒューマニズムは、「聖書のみ」「聖書の自由解釈」というモットーとともにプロテスタント主義を生み出した。プロテスタント的自由解釈と個人の良心の自由の高揚は、教会の教導権を放棄させ、プロテスタント諸派をモザイクのようにバラバラにしていった。
 十九世紀、二十世紀になると、プロテスタント諸派は、無数に分派を繰り返して信憑性を失っていくことを自覚した。プロテスタントの信憑性を確保し、カトリックの一致へと惹きつけられるプロテスタントを引き留めるために、統合の必要性を感じた。そこで生まれたのが「エキュメニズム」運動であった。「エキュメニズム」とは「普遍」という意味であり、すでにローマの教会によって使われてしまっている「カトリック」という言葉の変わりに、それと似たような意味の言葉として「エキュメニカル」が選ばれた。

 1925年、ストックホルムで、「生活と実践に関する世界キリスト教会議」(1925, Universal Christian Conference on Life and Work)が 「教理は分裂をもたらすが、奉仕は一つにする」を標題として開催された。
 1927年、ロザンヌで、「信仰と職制世界会議」(1927, World Conf. on Faith and Order) が開催され、キリストの教会がどうして多くの教会を含むのかが考察された。
 1937年、エジンバラの会合で、教会とこの世とが区別されるかが議論された。
 1948年、世界教会協議会 WCC(World Church Council)が創立される。アムステルダム会議が1948年8月22日から9月4日まで開かれ、44か国、145 教会から351 人の代議員が出席した。

 カトリック教会の一致から離れていったプロテスタント教会諸派が再一致をどれだけ探していたかは理解できる。しかし、「自由解釈」と「ローマの教導権の拒否」とを原理とした、個々の教派の教理のアイデンティティーを残したままの連合を探すに留まっていた。

 カトリック教会はこれに参加することは出来ない。何故なら、聖伝によれば、非カトリックの宗教は宗教として真理ではないからだ。極めて少数の非カトリックの個人は、通常のやり方を越えた特別な仕方で(たとえば望みの洗礼)、カトリック教会に属しているかもしれない。

 カトリック教会は、常にキリストの教会はカトリック教会である、キリスト教会とカトリック教会とは等号の記号で結ばれること、全く同一であることを常に教えていた。最近ではピオ十二世が「ミスティチ・コルボリス」でそう教えた。

 しかしながら、第二バチカン公会議の新しいヒューマニズムは、「キリストは托身(=受肉)によって自分自身を全ての人間と一致させた」ので、個人の大多数が、彼らのの善意(と想定されている)によって「教会」に属していると言いだした。

 第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストの十字架による贖いもなく、この贖いを適応することもなく、イエズス・キリストの御托身(=受肉)という事実により、ipso facto 自動的に、全ての人々をキリスト化させキリストと一致させる力を持っている。「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。」(『現代世界憲章』22)

 第二バチカン公会議によれば、キリストが全ての善意の人と一致しているのは例外ではなく普通である。何故なら、キリストは人間がより人間らしくなるために来たのであるから、より人間らしいということは、洗礼を受けて目に見える教会の中に入らなくても、既にキリスト者であるということを意味するからだ。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。

 では、第二バチカン公会議は、【A】どうやって非カトリックの諸派を「キリストの教会」の中に取り込もうとしたのか? しかも、【B】カトリック教会の外見上のアイデンティティーを保たせながら? 


【A】どうやって非カトリックの諸派を「キリストの教会」の中に取り込もうとしたのか?

【答え:教会の要素】
 エキュメニズムへのドアを開くキー・ワード「教会の要素」
 カトリックの聖伝は、カトリック教会の外にあるものは「カトリック教の残骸」であると教えてきた。たとえそれが真理を知るための源泉(例えば聖書)であったとしても、聖寵を得るための源泉(幾つかの秘跡)であったとしても、この残骸は、個人に対しては極めて希にでも霊魂を救うことがあるかもしれない。

 第二バチカン公会議はこの個人に対する議論を非カトリック諸派に適応させようとした。「残骸」では軽蔑の意味が含まれるから「要素」と呼んだ。有効な司祭職と聖体があるところを「個々の教会(particular churches)」と呼んだ。

 そのような残骸は、カトリック教会の廃墟の跡である。カトリック教会の外では働いていない。何故なら、真理の残骸(例えば、聖書)は、カトリック信仰或いは教導権がなければ、これを正しく理解することが出来ないからだ。聖寵の残骸(例えば御聖体)は、その実りを与えることが出来ない(聖トマス・アクィナス「神学大全」第三部 第八二問 第七項を見よ)からだ。また位階制度の残骸(司祭職、司教職)は、横領され、単に質料的なものであり、裁治権を一切持たない。従って、昔からの聖伝によれば、それらは死んだ「残骸」に過ぎない。だから聖アウグスティノは、カトリック教会の外では、或る程度は、教会の中にある善が見いだされる、しかしそれらは、カトリック教会の外では救いには役に立たない、と言う。

 しかし第二バチカン公会議は、それら死んだ残骸を、生ける「要素」であると変えて呼んでしまった。

『教会憲章』8(教会の神的、人的要素)
「・・・この教会は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。」

 「エキュメニズムに関する教令」15、東方の離教教会について
「したがって、これらの個々の教会における主の聖体祭儀によって、神の教会が建てられ、成長し、また共同司式によってそれらの教会の交わりが示される。・・・これらの教会は分かれてはいるが、真の秘跡、特に使徒継承の力によって司祭職と聖体を持ち、それらによって今なお緊密にわれわれと結ばれている。」


 「エキュメニズムに関する教令」3、プロテスタント共同体について
「・・・キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・ 信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。・・・
 キリスト教の聖なる行事も、われわれから分かれた兄弟のもとで少なからず行なわれている。それらはそれぞれの教会や教団の異なった状態による種々のしかたで、疑いもなく恩恵の生命を実際に生み出すことができ、救いの交わりへの戸を開くにふさわしいものと言うべきものである。
 われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」


ヨハネ・パウロ二世、『ウト・ウヌム・シント』(1995年5月25日)
その他のキリスト教共同体において、これらの(=聖化と真理の)諸要素が見いだされ、キリストの一つの教会はそれらにおいて効果的に現存する


教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
「使徒継承と有効な聖体祭義という最も緊密な絆によってこれと結ばれている諸教会も真の個別教会である 。それゆえ、これらの諸教会の中にもキリストの教会が現存し、活動している。」
「有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は 、固有な意味で教会ではない。しかしながら、これらの教会の中で洗礼を受けた者は洗礼によってキリストに組み込まれており、それゆえ教会とは不完全であるが、ある交わりの中にいる。実際に洗礼はそれ自体、十全的な信仰告白と聖体秘義と教会における充満的な交わりによる、キリストにおける命の完成への指向性をもつものである。」

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
その目に見える境の外にあるのはただ "教会の要素" であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」

 従って、第二バチカン公会議によれば、カトリック教会の外にも、その他のキリスト教といわれる共同体において「教会の要素」があるために、不完全の仕方で「キリストの教会」が延長していることになっている

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
「キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、その充満としてはただカトリック教会の中にだけ存在し続けるということである。他方、「その境界の外にも」、つまりカトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団の中にも「聖化と真理の数多くの要素が存在する」ということである。」

教会に関する教義の幾つかの観点に関する質疑応答(2007年6月29日)
第二の質問に対する回答:「・・・ カトリックの教義に従えば、キリストの教会が、カトリック教会と充満的に交わりにまだない諸教会や教団において現存し働いているということを正しく断言することができる。それはそれらにおいて現存する、聖化の要素と真理とのためである。」

『カトリック教会のカテキズム』
819 更に、「聖化と真理の多くの要素」は、カトリック教会の目に見える教会の外に見出される。「天主様の書かれた御言葉、聖寵の命、信仰、希望、愛徳、聖霊の他の内的賜物、さらに目に見える要素」が。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」

【B】カトリック教会の外見上のアイデンティティーをどうやって保たせるのか? 

【答え:subsistit in(の内に存する)】

 昔からの聖伝によれば、キリストの教会とはカトリック教会のことである。カトリック教会、イコール、キリストの教会である。

 しかし第二バチカン公会議は、キリストの教会の中にカトリック教会とその他キリスト教諸派を含めさせようとした。

 キリストの教会がカトリック教会よりも大きくカトリック教会を含み、同時にキリストの教会がカトリック教会と同一であり得るにはどうしたらよいか? そのために、次の手続きをするのだと思われる。
【B-1】まず、全ての宗教団体がキリストの教会に属するとする。
【B-2】次に、カトリック教会はその他全ての「諸教会」のなかで優先的地位を占める、とする。
【B-3】最後に、キリストの教会は、カトリック教会の内に存する(subsistit in)、とする。


【B-1】全ての宗教団体がキリストの教会に属するとするには、次の理由をつけると思われる。
(1)イエズス・キリストは御言葉の秘跡であるのと同じように、教会はイエズス・キリストの効果的なしるしである。
(2)全ての本当の宗教団体は、御言葉の効果的なしるしである。
(3)従って、全ての宗教団体は、教会に属する。

【B-2】カトリック教会はその他全ての「諸教会」のなかで優先的地位を占めるとするには、次の理由を付けると思われる。
 天主は全ての人間に現存するが、特にキリストにおいて現存するのと同じように、御言葉は全ての諸教会に現存するが、特にカトリック教会において現存する。

【B-3】キリストの教会は、カトリック教会の内に存する(subsistit in)とするには、次の理由を付けると思われる。
 天主の御言葉は、天主の本性においてあるが人間本性においてもあるのと同じように、キリストの教会は、カトリック教会の内に存する。


【聖伝からの反論】

【B-1】に対して:
 教会はイエズス・キリストの効果的なしるしだから「秘跡」である、といのは、「秘跡」とはしるしであるという知識からのこじつけに由来したもので、現実に「秘跡」だからという議論ではない。カトリック教会は、常に七つの秘跡だけを教えてきた。

【B-2】に対して:
 天主は全ての人間に、創造主として存在を与えるものとして現存するが、キリストにおいては天主のペルソナと本性とにおいて現存する。何故ならキリストは真の天主であるからである。
 御言葉は、確かに創造主として、すなわち存在を与えるものとして全ての諸教会に現存するが、これは、どのような動植物にも鉱物に対しても同じである。しかしながら、カトリック教会においては、御言葉は御自分の神秘体の頭として現存する。

【B-3】に対して:
 天主の御言葉のペルソナは天主の本性においてあるが人間本性においてもある、これは天主の本性と人間の本性という二つの本性が天主のペルソナにおいて位格的結合(Hypstatic Union)をしたからである。しかし、この位格的結合は、天主の第二のペルソナが御托身をしたときの唯一のケースである。
 更に、天主のペルソナと天主の本性とは、存在論的に別の現実である。だからこそ天主のペルソナが天主の本性においてある、と言うことが出来る。しかし、「キリストの教会」も「カトリック教会」も同じ存在論的立場にある二つの団体である。従って、キリストの教会がカトリック教会の内に存する、ということを、天主の御言葉が天主の本性においてあるが人間本性においてもあるということと同じだと言うことは出来ない。

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