アヴェ・マリア!
1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。私に自由な時間が与えられず、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。
その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話 その2
<>和訳者補足
【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】
(続き)
私たちを裏切りつつある人々と一緒にいるかいないかということについては、少しも躊躇するには及びません。柵の向こう側の隣の庭をすばらしいと見たがる人は何時もいます。彼らは味方を、つまりまさに戦場で抵抗している味方を見る事をせずに、敵の方を眺めるわけです。
「寛大でなければならない」とか、「思いやりを持たなければ」そして「分裂を回避しなければならない」と彼らは言っています。「何れにせよ、このような方々も正当なミサを捧げていますから、言われている程の悪人ではありません」などと。
そうではあっても、やはり彼らは私たちを裏切っています。彼らはカトリック教会を破壊する人々、そして近代主義と自由主義の思想を持った人々に手を貸しています。しかもカトリック教会から排斥されたこれらの思想の持ち主に手を貸しているのです。つまり彼らは悪魔の仕事をしているのです。
聖主の君臨と霊魂たちの救いの為に以前私たちと一緒になって働いていた人々が、今度はこんなことを言い出すのです。
「おお、正当なミサを認めてくれさえすれば、ローマに手を貸す事は可能ですし、問題はありません。」 しかし、私たちはこれがどんなことになるか眼にしています。彼らは行き詰っています。誰も近代主義者に手を貸すと同時に、聖伝を守りたいと望む事など出来ないのです。できません。その様なことは出来ません。
聖伝に連れ戻し、聖伝に改心させる為に、彼らと接触しつづける、はい、いわばこれが本来のエキュメニズムです。ですが、結局は分裂を起こしたと殆ど後悔したとか、彼らと上手く話し合いたいというかという印象を与える事は出来ません。彼らは、私たちが死体のような聖伝主義者だとか、死体のように硬直しているなどと言っています。彼らによれば、私たちは生きた聖伝ではなく、「活気も喜びもない」陰気な聖伝なのだそうです。信じられません。考えられません。こういう人々とどのような関係を持つというのでしょうか?
これは、一部の一般信徒方との問題を生み出しています。彼らは、非常に心優しく、私たちに賛同して下さり、四司教の聖別に賛成してはいますが、それと同時に、以前一緒だった人々で、四司教の聖別を受け入れず今では私たちに反対している人々ともはや一緒ではないことを、ある種の心に秘めた後悔をしています。「それは残念だ、私たちは分裂している、彼らと会って一杯やって、彼らに手を差し伸べよう」と。
これは裏切りというものです。このような人々は、機会さえあれば、私たちから離れた人々と一緒になって私たちから立ち去ることでしょう。そこで人々は何を望んでいるのか、決断する必要があります。
何故なら、こういう事が全ヨーロッパのキリスト教世界を滅ぼしてしまったからです。それはフランスの教会のみならず、ドイツやスイスなどの教会も滅ぼしました。フランス革命の定着を許したのはこれです。つまり、自由主義者たちですが、彼らがカトリックの原理を持たない人々に手を差し伸べた事にあります。
私たちはカトリック教会の破壊と、聖主の社会的君臨の崩壊にも協力したいのか、あるいは、私たちは聖主イエズス・キリストの君臨の為に働く決心が固まっているのか、決断する必要があります。
私たちと働こうとして一緒に来たいと思う全ての人々がいれば、天主に感謝!、私たちは彼らを一人残らず歓迎致しますし、彼らが以前どのような人々であったとしても、どちらから来たとしても、問題はありません。ただし、彼らがリベラルな人々と仲良くし、その人々と協力する為に、私たちとは別の道を行くなどと言わせないようにしてください。
全十九世紀にわたって、カトリック教徒たちはこのシラブスという文書に関して、賛成、反対、賛成、反対と文字通り引き裂かれました。特に、シャンボール伯(le comte de Chambord:フランス、ブルボン家最後の王位継承候補だったが、三色旗の承認を拒絶したが為に、王位に就く事が出来なかった)を皆さんは思い出してください。彼は、旗を変えたという理由で、フランスの1870年革命の後に、フランス王となることを拒絶したと批判されたます。しかし、これは一般に言われているような旗の問題ではありませんでした。シャンボール伯はフランス革命の原理に従う事を拒絶したのです。彼は言いました:「革命のための合法的な王となる事には、私は絶対に同意致しません。」そして彼は正しかったのです。何故なら、「議会による王」となること、そしてそうすることによって革命の原理を受け入れるという条件で、彼は国とフランス議会から王となることを投票されて認められていただろうからです。「お断りします。私が王となるべきならば、革命以前の我が祖先がそうだったような王となるつもりです。」と彼は言いました。
彼の言う通りです。私たちは選ばなければなりません。シャンボール泊は、教皇と一緒に、革命以前の原理を、つまりカトリックの原理、反革命の原理を選択したのです。そして私たちもまた反革命である事を選びましたし、シラブスに従い、近代主義の誤謬に反対して、カトリックの真理にいる事とそれを守る事を選択しました。
【注:シャンボール伯は、フランス、ブルボン家最後の王位継承候補だったが、王となるためには、フランス国旗(百合の旗)を棄てて三色の革命旗を受け入れるよう要求され、それを拒絶して、革命議会の下での王位に就く事を拒否した。】
カトリック教会とリベラルな近代主義者との間のこの戦いは、第二バチカン公会議についての戦いとなっています。単純にそうです。午後の二時に正午を探し求めてはいけません。さらにこのことは遙か遠くまで結論が導き出されます。第二バチカンの公文書と教会当局が第二バチカン公会議に与えた解釈を分析すればするほど、エキュメニズム、信教の自由、司教団体性、ある種の自由主義という、幾つかの誤りや表面的な誤謬の問題に留まらず、これは精神の堕落(une perversion de l’esprit)の問題だということ、主観主義という近代哲学に基礎を置く完全に新しい哲学の問題であることに気づきます。
ドイツ人神学者が出版したばかりの本【Theologische Weg Johannes Pauls II zum Weltgebetstag der Religionen in Assisi, Johannes Doermann】があります。それは皆さんが手にする事が出来るようフランス語に訳される事を期待しているのですが、それはこの点について大変参考になります。この本は教皇様【=ヨハネ・パウロ二世】の思想を批評しています。特に、単なる一司教として、彼がバチカンで指導された黙想会における教皇の思想を批評しているのです。教皇の思想の中では、全てが始めから最後まで主観主義的だと彼は見事に説明しています。この本を読んだ後、教皇様の演説を再び読み直すと、彼の思想とは確かに主観主義的だとよく分かります。それはカトリック的な外観を持っているにも関わらず、カトリックではありません。教皇様が、天主、そして聖主について持つ思想は、彼の意識の深奥部から来ているのであって、彼がその知性によって従っている客観的天啓から来ているのではありません。彼は天主の概念を築いているのです。彼は最近、ある--- 考えられない! ---文書の中で、三位一体の概念はかなり後になってからしか生れなかった、何故なら人間の内的心理が三位一体とは何かを作り上げて辿り着く事が出来なければならなかったからだ、と言いました。つまり三位一体という概念は天啓から来るのではなく、意識の深奥部から来ているということです。<つまり我々の認識主観の状態に関わらず永遠に実在する三位一体を否定し、単に人間の認識主観の産物である概念にまで貶めた。>これは天啓、信仰、そして哲学に対する全く異なった発想であり、全くの倒錯です。どうやってそこから抜け出るのでしょうか?私には皆目見当もつきませんが、何れにせよ、これは事実です。そしてこのドイツ人神学者はそれを証明しています。これは本当に恐るべきことです。
これは些細な間違いではありません。私たちは、デカルトやカント、それから革命を準備した近代哲学者たち全ての系譜にまで遡る哲学の全潮流を前にしているのです。
これは1989年6月2日のオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に公表されたエキュメニズムに関する、ノルウェーでの教皇様の言葉から引用したものです:
「北欧諸国への私の訪問は、全てのキリスト教徒の一致を促進する事であるエキュメニズムという事業に対するカトリック教会の関心の確認であります。二十五年前、第二バチカン公会議はカトリック教会に対するこの挑戦<エキュメニズムに対する要求>が切迫している事を明確に強調致しました。私の前任者たちは、神性なる泉でありエキュメニカル<キリスト教会一致>運動の保証である聖霊の恵みに粘り強い注意を払ってこの目標を達成せんと努めたのです。教皇在位期間の初めから、私はエキュメニズムを司牧活動上の心遣いと致しました。」
はっきりしています。
また教皇様が他にも多くエキュメニズム関連の演説を休みなくしておられるのも、彼がギリシャ正教徒の代表団や、全ての宗教とありとあらゆる宗派の代表団を何時も迎え入れているからです。
ですが、このエキュメニズムはカトリック教会を少しも進歩させなかったと言う事が出来ます。これは他宗教者たちを改宗させる努力はせずに、彼らを誤謬に留まるよう元気付ける事以外何もしませんでした。そこで言われる事は、全てちんぷんかんぷんです。例えば、「交わり(la communion)」だとか、「近づき」だとか、「私たちはすぐに完璧な共同体の中にいることを望む」だとか、「私たちは近く一致の秘蹟に於いて交わる事が出来ると確かに希望する」とか、その他も同様です。しかし彼らは前進などしません。前進する事などあり得ないのです。
これもオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に掲載されていたことで、国連の人権委員会に向けたカザロリ枢機卿による話です(1989年2月):
「皆様のところに参上するようにとの私に対する御招きに大いなる喜びを以ってお答えし、皆様に聖座からの激励をもたらす為に、私は、良心に基づいた思想と行動との基本的自由、即ち信教の自由の特定の観点について、少しお話しする時間を頂きたいと思います。皆さんには私の気持ちがお分かりになるでしょう。」(一大司教<カザロリ枢機卿>の口からこの様な事を耳にするとは!)「ヨハネ・パウロ二世は昨年、世界平和の日(la Journée mondiale de la paix)に向けたメッセージの中で、信教の自由は、人権という建物において、角の親石であると断言する事を躊躇いませんでした。カトリック教会とその最高牧者は、特に後者は人権をその説教の最大のテーマとされたのですが、次のことを想起させる事を忘れませんでした。つまり、人間によって、また人間の為にこそ作られた世界に於ける...」(カザロリ枢機卿が言われたのですよ!)「...社会の全組織は、それが人間的次元を中心的な関心事とする程度に応じてのみ意味を持つ、と。」(天主について、つまり人間に於ける天主の意義については言及されていません。恐るべきことです。これは異教です。キリスト教ではありません)。それから彼は続けます:「各々の人間及び全人類、これこそが聖座の関心事であり、これは間違いなく皆様の関心事でもあるのです。」
これ以上、することなどありません!私たちはこういう人たちと何もする事など出来ません。彼らと共有するものを私たちは何も持っていないからです。
(続く)
1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。私に自由な時間が与えられず、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。
その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話 その2
<>和訳者補足
【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】
(続き)
私たちを裏切りつつある人々と一緒にいるかいないかということについては、少しも躊躇するには及びません。柵の向こう側の隣の庭をすばらしいと見たがる人は何時もいます。彼らは味方を、つまりまさに戦場で抵抗している味方を見る事をせずに、敵の方を眺めるわけです。
「寛大でなければならない」とか、「思いやりを持たなければ」そして「分裂を回避しなければならない」と彼らは言っています。「何れにせよ、このような方々も正当なミサを捧げていますから、言われている程の悪人ではありません」などと。
そうではあっても、やはり彼らは私たちを裏切っています。彼らはカトリック教会を破壊する人々、そして近代主義と自由主義の思想を持った人々に手を貸しています。しかもカトリック教会から排斥されたこれらの思想の持ち主に手を貸しているのです。つまり彼らは悪魔の仕事をしているのです。
聖主の君臨と霊魂たちの救いの為に以前私たちと一緒になって働いていた人々が、今度はこんなことを言い出すのです。
「おお、正当なミサを認めてくれさえすれば、ローマに手を貸す事は可能ですし、問題はありません。」 しかし、私たちはこれがどんなことになるか眼にしています。彼らは行き詰っています。誰も近代主義者に手を貸すと同時に、聖伝を守りたいと望む事など出来ないのです。できません。その様なことは出来ません。
聖伝に連れ戻し、聖伝に改心させる為に、彼らと接触しつづける、はい、いわばこれが本来のエキュメニズムです。ですが、結局は分裂を起こしたと殆ど後悔したとか、彼らと上手く話し合いたいというかという印象を与える事は出来ません。彼らは、私たちが死体のような聖伝主義者だとか、死体のように硬直しているなどと言っています。彼らによれば、私たちは生きた聖伝ではなく、「活気も喜びもない」陰気な聖伝なのだそうです。信じられません。考えられません。こういう人々とどのような関係を持つというのでしょうか?
これは、一部の一般信徒方との問題を生み出しています。彼らは、非常に心優しく、私たちに賛同して下さり、四司教の聖別に賛成してはいますが、それと同時に、以前一緒だった人々で、四司教の聖別を受け入れず今では私たちに反対している人々ともはや一緒ではないことを、ある種の心に秘めた後悔をしています。「それは残念だ、私たちは分裂している、彼らと会って一杯やって、彼らに手を差し伸べよう」と。
これは裏切りというものです。このような人々は、機会さえあれば、私たちから離れた人々と一緒になって私たちから立ち去ることでしょう。そこで人々は何を望んでいるのか、決断する必要があります。
何故なら、こういう事が全ヨーロッパのキリスト教世界を滅ぼしてしまったからです。それはフランスの教会のみならず、ドイツやスイスなどの教会も滅ぼしました。フランス革命の定着を許したのはこれです。つまり、自由主義者たちですが、彼らがカトリックの原理を持たない人々に手を差し伸べた事にあります。
私たちはカトリック教会の破壊と、聖主の社会的君臨の崩壊にも協力したいのか、あるいは、私たちは聖主イエズス・キリストの君臨の為に働く決心が固まっているのか、決断する必要があります。
私たちと働こうとして一緒に来たいと思う全ての人々がいれば、天主に感謝!、私たちは彼らを一人残らず歓迎致しますし、彼らが以前どのような人々であったとしても、どちらから来たとしても、問題はありません。ただし、彼らがリベラルな人々と仲良くし、その人々と協力する為に、私たちとは別の道を行くなどと言わせないようにしてください。
全十九世紀にわたって、カトリック教徒たちはこのシラブスという文書に関して、賛成、反対、賛成、反対と文字通り引き裂かれました。特に、シャンボール伯(le comte de Chambord:フランス、ブルボン家最後の王位継承候補だったが、三色旗の承認を拒絶したが為に、王位に就く事が出来なかった)を皆さんは思い出してください。彼は、旗を変えたという理由で、フランスの1870年革命の後に、フランス王となることを拒絶したと批判されたます。しかし、これは一般に言われているような旗の問題ではありませんでした。シャンボール伯はフランス革命の原理に従う事を拒絶したのです。彼は言いました:「革命のための合法的な王となる事には、私は絶対に同意致しません。」そして彼は正しかったのです。何故なら、「議会による王」となること、そしてそうすることによって革命の原理を受け入れるという条件で、彼は国とフランス議会から王となることを投票されて認められていただろうからです。「お断りします。私が王となるべきならば、革命以前の我が祖先がそうだったような王となるつもりです。」と彼は言いました。
彼の言う通りです。私たちは選ばなければなりません。シャンボール泊は、教皇と一緒に、革命以前の原理を、つまりカトリックの原理、反革命の原理を選択したのです。そして私たちもまた反革命である事を選びましたし、シラブスに従い、近代主義の誤謬に反対して、カトリックの真理にいる事とそれを守る事を選択しました。
【注:シャンボール伯は、フランス、ブルボン家最後の王位継承候補だったが、王となるためには、フランス国旗(百合の旗)を棄てて三色の革命旗を受け入れるよう要求され、それを拒絶して、革命議会の下での王位に就く事を拒否した。】
カトリック教会とリベラルな近代主義者との間のこの戦いは、第二バチカン公会議についての戦いとなっています。単純にそうです。午後の二時に正午を探し求めてはいけません。さらにこのことは遙か遠くまで結論が導き出されます。第二バチカンの公文書と教会当局が第二バチカン公会議に与えた解釈を分析すればするほど、エキュメニズム、信教の自由、司教団体性、ある種の自由主義という、幾つかの誤りや表面的な誤謬の問題に留まらず、これは精神の堕落(une perversion de l’esprit)の問題だということ、主観主義という近代哲学に基礎を置く完全に新しい哲学の問題であることに気づきます。
ドイツ人神学者が出版したばかりの本【Theologische Weg Johannes Pauls II zum Weltgebetstag der Religionen in Assisi, Johannes Doermann】があります。それは皆さんが手にする事が出来るようフランス語に訳される事を期待しているのですが、それはこの点について大変参考になります。この本は教皇様【=ヨハネ・パウロ二世】の思想を批評しています。特に、単なる一司教として、彼がバチカンで指導された黙想会における教皇の思想を批評しているのです。教皇の思想の中では、全てが始めから最後まで主観主義的だと彼は見事に説明しています。この本を読んだ後、教皇様の演説を再び読み直すと、彼の思想とは確かに主観主義的だとよく分かります。それはカトリック的な外観を持っているにも関わらず、カトリックではありません。教皇様が、天主、そして聖主について持つ思想は、彼の意識の深奥部から来ているのであって、彼がその知性によって従っている客観的天啓から来ているのではありません。彼は天主の概念を築いているのです。彼は最近、ある--- 考えられない! ---文書の中で、三位一体の概念はかなり後になってからしか生れなかった、何故なら人間の内的心理が三位一体とは何かを作り上げて辿り着く事が出来なければならなかったからだ、と言いました。つまり三位一体という概念は天啓から来るのではなく、意識の深奥部から来ているということです。<つまり我々の認識主観の状態に関わらず永遠に実在する三位一体を否定し、単に人間の認識主観の産物である概念にまで貶めた。>これは天啓、信仰、そして哲学に対する全く異なった発想であり、全くの倒錯です。どうやってそこから抜け出るのでしょうか?私には皆目見当もつきませんが、何れにせよ、これは事実です。そしてこのドイツ人神学者はそれを証明しています。これは本当に恐るべきことです。
これは些細な間違いではありません。私たちは、デカルトやカント、それから革命を準備した近代哲学者たち全ての系譜にまで遡る哲学の全潮流を前にしているのです。
これは1989年6月2日のオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に公表されたエキュメニズムに関する、ノルウェーでの教皇様の言葉から引用したものです:
「北欧諸国への私の訪問は、全てのキリスト教徒の一致を促進する事であるエキュメニズムという事業に対するカトリック教会の関心の確認であります。二十五年前、第二バチカン公会議はカトリック教会に対するこの挑戦<エキュメニズムに対する要求>が切迫している事を明確に強調致しました。私の前任者たちは、神性なる泉でありエキュメニカル<キリスト教会一致>運動の保証である聖霊の恵みに粘り強い注意を払ってこの目標を達成せんと努めたのです。教皇在位期間の初めから、私はエキュメニズムを司牧活動上の心遣いと致しました。」
はっきりしています。
また教皇様が他にも多くエキュメニズム関連の演説を休みなくしておられるのも、彼がギリシャ正教徒の代表団や、全ての宗教とありとあらゆる宗派の代表団を何時も迎え入れているからです。
ですが、このエキュメニズムはカトリック教会を少しも進歩させなかったと言う事が出来ます。これは他宗教者たちを改宗させる努力はせずに、彼らを誤謬に留まるよう元気付ける事以外何もしませんでした。そこで言われる事は、全てちんぷんかんぷんです。例えば、「交わり(la communion)」だとか、「近づき」だとか、「私たちはすぐに完璧な共同体の中にいることを望む」だとか、「私たちは近く一致の秘蹟に於いて交わる事が出来ると確かに希望する」とか、その他も同様です。しかし彼らは前進などしません。前進する事などあり得ないのです。
これもオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に掲載されていたことで、国連の人権委員会に向けたカザロリ枢機卿による話です(1989年2月):
「皆様のところに参上するようにとの私に対する御招きに大いなる喜びを以ってお答えし、皆様に聖座からの激励をもたらす為に、私は、良心に基づいた思想と行動との基本的自由、即ち信教の自由の特定の観点について、少しお話しする時間を頂きたいと思います。皆さんには私の気持ちがお分かりになるでしょう。」(一大司教<カザロリ枢機卿>の口からこの様な事を耳にするとは!)「ヨハネ・パウロ二世は昨年、世界平和の日(la Journée mondiale de la paix)に向けたメッセージの中で、信教の自由は、人権という建物において、角の親石であると断言する事を躊躇いませんでした。カトリック教会とその最高牧者は、特に後者は人権をその説教の最大のテーマとされたのですが、次のことを想起させる事を忘れませんでした。つまり、人間によって、また人間の為にこそ作られた世界に於ける...」(カザロリ枢機卿が言われたのですよ!)「...社会の全組織は、それが人間的次元を中心的な関心事とする程度に応じてのみ意味を持つ、と。」(天主について、つまり人間に於ける天主の意義については言及されていません。恐るべきことです。これは異教です。キリスト教ではありません)。それから彼は続けます:「各々の人間及び全人類、これこそが聖座の関心事であり、これは間違いなく皆様の関心事でもあるのです。」
これ以上、することなどありません!私たちはこういう人たちと何もする事など出来ません。彼らと共有するものを私たちは何も持っていないからです。
(続く)