Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

1990年9月6日、ルフェーブル大司教様が司祭たちにした講話 その2

2012年07月04日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。私に自由な時間が与えられず、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話 その2

<>和訳者補足

【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】

(続き)

 私たちを裏切りつつある人々と一緒にいるかいないかということについては、少しも躊躇するには及びません。柵の向こう側の隣の庭をすばらしいと見たがる人は何時もいます。彼らは味方を、つまりまさに戦場で抵抗している味方を見る事をせずに、敵の方を眺めるわけです。

 「寛大でなければならない」とか、「思いやりを持たなければ」そして「分裂を回避しなければならない」と彼らは言っています。「何れにせよ、このような方々も正当なミサを捧げていますから、言われている程の悪人ではありません」などと。

 そうではあっても、やはり彼らは私たちを裏切っています。彼らはカトリック教会を破壊する人々、そして近代主義と自由主義の思想を持った人々に手を貸しています。しかもカトリック教会から排斥されたこれらの思想の持ち主に手を貸しているのです。つまり彼らは悪魔の仕事をしているのです。

 聖主の君臨と霊魂たちの救いの為に以前私たちと一緒になって働いていた人々が、今度はこんなことを言い出すのです。
「おお、正当なミサを認めてくれさえすれば、ローマに手を貸す事は可能ですし、問題はありません。」 しかし、私たちはこれがどんなことになるか眼にしています。彼らは行き詰っています。誰も近代主義者に手を貸すと同時に、聖伝を守りたいと望む事など出来ないのです。できません。その様なことは出来ません。

 聖伝に連れ戻し、聖伝に改心させる為に、彼らと接触しつづける、はい、いわばこれが本来のエキュメニズムです。ですが、結局は分裂を起こしたと殆ど後悔したとか、彼らと上手く話し合いたいというかという印象を与える事は出来ません。彼らは、私たちが死体のような聖伝主義者だとか、死体のように硬直しているなどと言っています。彼らによれば、私たちは生きた聖伝ではなく、「活気も喜びもない」陰気な聖伝なのだそうです。信じられません。考えられません。こういう人々とどのような関係を持つというのでしょうか?

 これは、一部の一般信徒方との問題を生み出しています。彼らは、非常に心優しく、私たちに賛同して下さり、四司教の聖別に賛成してはいますが、それと同時に、以前一緒だった人々で、四司教の聖別を受け入れず今では私たちに反対している人々ともはや一緒ではないことを、ある種の心に秘めた後悔をしています。「それは残念だ、私たちは分裂している、彼らと会って一杯やって、彼らに手を差し伸べよう」と。

 これは裏切りというものです。このような人々は、機会さえあれば、私たちから離れた人々と一緒になって私たちから立ち去ることでしょう。そこで人々は何を望んでいるのか、決断する必要があります。

 何故なら、こういう事が全ヨーロッパのキリスト教世界を滅ぼしてしまったからです。それはフランスの教会のみならず、ドイツやスイスなどの教会も滅ぼしました。フランス革命の定着を許したのはこれです。つまり、自由主義者たちですが、彼らがカトリックの原理を持たない人々に手を差し伸べた事にあります。

 私たちはカトリック教会の破壊と、聖主の社会的君臨の崩壊にも協力したいのか、あるいは、私たちは聖主イエズス・キリストの君臨の為に働く決心が固まっているのか、決断する必要があります。

 私たちと働こうとして一緒に来たいと思う全ての人々がいれば、天主に感謝!、私たちは彼らを一人残らず歓迎致しますし、彼らが以前どのような人々であったとしても、どちらから来たとしても、問題はありません。ただし、彼らがリベラルな人々と仲良くし、その人々と協力する為に、私たちとは別の道を行くなどと言わせないようにしてください。

 全十九世紀にわたって、カトリック教徒たちはこのシラブスという文書に関して、賛成、反対、賛成、反対と文字通り引き裂かれました。特に、シャンボール伯(le comte de Chambord:フランス、ブルボン家最後の王位継承候補だったが、三色旗の承認を拒絶したが為に、王位に就く事が出来なかった)を皆さんは思い出してください。彼は、旗を変えたという理由で、フランスの1870年革命の後に、フランス王となることを拒絶したと批判されたます。しかし、これは一般に言われているような旗の問題ではありませんでした。シャンボール伯はフランス革命の原理に従う事を拒絶したのです。彼は言いました:「革命のための合法的な王となる事には、私は絶対に同意致しません。」そして彼は正しかったのです。何故なら、「議会による王」となること、そしてそうすることによって革命の原理を受け入れるという条件で、彼は国とフランス議会から王となることを投票されて認められていただろうからです。「お断りします。私が王となるべきならば、革命以前の我が祖先がそうだったような王となるつもりです。」と彼は言いました。

 彼の言う通りです。私たちは選ばなければなりません。シャンボール泊は、教皇と一緒に、革命以前の原理を、つまりカトリックの原理、反革命の原理を選択したのです。そして私たちもまた反革命である事を選びましたし、シラブスに従い、近代主義の誤謬に反対して、カトリックの真理にいる事とそれを守る事を選択しました。

【注:シャンボール伯は、フランス、ブルボン家最後の王位継承候補だったが、王となるためには、フランス国旗(百合の旗)を棄てて三色の革命旗を受け入れるよう要求され、それを拒絶して、革命議会の下での王位に就く事を拒否した。】

 カトリック教会とリベラルな近代主義者との間のこの戦いは、第二バチカン公会議についての戦いとなっています。単純にそうです。午後の二時に正午を探し求めてはいけません。さらにこのことは遙か遠くまで結論が導き出されます。第二バチカンの公文書と教会当局が第二バチカン公会議に与えた解釈を分析すればするほど、エキュメニズム、信教の自由、司教団体性、ある種の自由主義という、幾つかの誤りや表面的な誤謬の問題に留まらず、これは精神の堕落(une perversion de l’esprit)の問題だということ、主観主義という近代哲学に基礎を置く完全に新しい哲学の問題であることに気づきます。

 ドイツ人神学者が出版したばかりの本【Theologische Weg Johannes Pauls II zum Weltgebetstag der Religionen in Assisi, Johannes Doermann】があります。それは皆さんが手にする事が出来るようフランス語に訳される事を期待しているのですが、それはこの点について大変参考になります。この本は教皇様【=ヨハネ・パウロ二世】の思想を批評しています。特に、単なる一司教として、彼がバチカンで指導された黙想会における教皇の思想を批評しているのです。教皇の思想の中では、全てが始めから最後まで主観主義的だと彼は見事に説明しています。この本を読んだ後、教皇様の演説を再び読み直すと、彼の思想とは確かに主観主義的だとよく分かります。それはカトリック的な外観を持っているにも関わらず、カトリックではありません。教皇様が、天主、そして聖主について持つ思想は、彼の意識の深奥部から来ているのであって、彼がその知性によって従っている客観的天啓から来ているのではありません。彼は天主の概念を築いているのです。彼は最近、ある--- 考えられない! ---文書の中で、三位一体の概念はかなり後になってからしか生れなかった、何故なら人間の内的心理が三位一体とは何かを作り上げて辿り着く事が出来なければならなかったからだ、と言いました。つまり三位一体という概念は天啓から来るのではなく、意識の深奥部から来ているということです。<つまり我々の認識主観の状態に関わらず永遠に実在する三位一体を否定し、単に人間の認識主観の産物である概念にまで貶めた。>これは天啓、信仰、そして哲学に対する全く異なった発想であり、全くの倒錯です。どうやってそこから抜け出るのでしょうか?私には皆目見当もつきませんが、何れにせよ、これは事実です。そしてこのドイツ人神学者はそれを証明しています。これは本当に恐るべきことです。

 これは些細な間違いではありません。私たちは、デカルトやカント、それから革命を準備した近代哲学者たち全ての系譜にまで遡る哲学の全潮流を前にしているのです。

 これは1989年6月2日のオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に公表されたエキュメニズムに関する、ノルウェーでの教皇様の言葉から引用したものです:

「北欧諸国への私の訪問は、全てのキリスト教徒の一致を促進する事であるエキュメニズムという事業に対するカトリック教会の関心の確認であります。二十五年前、第二バチカン公会議はカトリック教会に対するこの挑戦<エキュメニズムに対する要求>が切迫している事を明確に強調致しました。私の前任者たちは、神性なる泉でありエキュメニカル<キリスト教会一致>運動の保証である聖霊の恵みに粘り強い注意を払ってこの目標を達成せんと努めたのです。教皇在位期間の初めから、私はエキュメニズムを司牧活動上の心遣いと致しました。」
 はっきりしています。

 また教皇様が他にも多くエキュメニズム関連の演説を休みなくしておられるのも、彼がギリシャ正教徒の代表団や、全ての宗教とありとあらゆる宗派の代表団を何時も迎え入れているからです。

 ですが、このエキュメニズムはカトリック教会を少しも進歩させなかったと言う事が出来ます。これは他宗教者たちを改宗させる努力はせずに、彼らを誤謬に留まるよう元気付ける事以外何もしませんでした。そこで言われる事は、全てちんぷんかんぷんです。例えば、「交わり(la communion)」だとか、「近づき」だとか、「私たちはすぐに完璧な共同体の中にいることを望む」だとか、「私たちは近く一致の秘蹟に於いて交わる事が出来ると確かに希望する」とか、その他も同様です。しかし彼らは前進などしません。前進する事などあり得ないのです。

 これもオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に掲載されていたことで、国連の人権委員会に向けたカザロリ枢機卿による話です(1989年2月):
「皆様のところに参上するようにとの私に対する御招きに大いなる喜びを以ってお答えし、皆様に聖座からの激励をもたらす為に、私は、良心に基づいた思想と行動との基本的自由、即ち信教の自由の特定の観点について、少しお話しする時間を頂きたいと思います。皆さんには私の気持ちがお分かりになるでしょう。」(一大司教<カザロリ枢機卿>の口からこの様な事を耳にするとは!)「ヨハネ・パウロ二世は昨年、世界平和の日(la Journée mondiale de la paix)に向けたメッセージの中で、信教の自由は、人権という建物において、角の親石であると断言する事を躊躇いませんでした。カトリック教会とその最高牧者は、特に後者は人権をその説教の最大のテーマとされたのですが、次のことを想起させる事を忘れませんでした。つまり、人間によって、また人間の為にこそ作られた世界に於ける...」(カザロリ枢機卿が言われたのですよ!)「...社会の全組織は、それが人間的次元を中心的な関心事とする程度に応じてのみ意味を持つ、と。」(天主について、つまり人間に於ける天主の意義については言及されていません。恐るべきことです。これは異教です。キリスト教ではありません)。それから彼は続けます:「各々の人間及び全人類、これこそが聖座の関心事であり、これは間違いなく皆様の関心事でもあるのです。」

 これ以上、することなどありません!私たちはこういう人たちと何もする事など出来ません。彼らと共有するものを私たちは何も持っていないからです。

(続く)


ティシエ・ド・マルレ司教様のインタビュー "正常でないのは、近代主義のローマの状態だ"

2012年07月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

アヴェ・マリア!

 イロイロからマニラの修道院に戻ってきました。さて、ティシエ・ド・マルレ司教様のインタビューを日本語に訳して下さった方があります。参考資料として愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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【参考資料】ティシエ・ド・マルレ司教 "正常でないのは、近代主義のローマの状態だ"

 ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教は、一九八八年、マルセル・ルフェーブル大司教が聖別した、聖ピオ十世会の四司教の一人である。ティシエ司教は八名の新司祭(六名は聖ピオ十世会、二名は聖伝のベネディクト会)と、十三人の助祭(すべて聖ピオ十世会)を、ウィノナの聖ピオ十世会の神学校において、六月十五日金曜日に叙階予定である。その後、六月十七日から二十四日にかけて三度の堅信式を主宰する予定である。

 主として政治関連の記事を取り上げるフランスの定期刊行雑誌リヴァロル(Rivarol)誌は、今日[六月十三日]、ティシエ司教への次のようなインタビューを発表した。インタビュー自体は六月初旬に行われた。

 このインタビューで、ティシエ・ド・マルレ司教が表明した意見と、フェレー司教が最近のインタビューや説教で表明した意見との間には、見過ごしにできない広くて深い溝がある。

リヴァロル誌: 聖ピオ十世会の、「公式の教会」内への「復帰」が眼前に迫っていると、広く語られています。これは一体何なのでしょうか?

ティシエ・ド・マルレ司教: 「復帰」、この言葉は間違いです。聖ピオ十世会は決して教会を離れたことがありません。当会は教会の中心におります。正真正銘の信仰の教えがある場所に教会は存在します。聖ピオ十世会を「公認化する」というこの計画には、私は興味がありません。私たちはそのことを求めておりません、そして教会はそのことを求めておりません。私たちは逆らいのしるしとして、すでに頂点におり、そのことが何人もの気高い霊魂たちを惹きつけ、大勢の若い司祭たちを惹きつけるのです。私たちが(教会内で)のけ者にされた状態にあるにも関わらずです。公会議後の世界では一致のために、私たちの灯火を升(ます)の下に隠しておくことを望む人がいるかも知れません。私たちに提案されている属人区というオプス・デイに類似した身分は、平和状態のためのものです。しかし、私たちは現在、教会内において戦闘状態にあります。「戦闘を合法化する」ことを望むのは矛盾することになるでしょう。

リヴァロル誌 : ですが、聖ピオ十世会の一部の方々は、属人区の提案は実際には良い事であると思っています。この「不正常な」状況をあなたは気になさらないのですか?

ティシエ司教: 不正常なのは、私たちではありません。正常でないのは、ローマの状態です。近代主義のローマ、王たるキリストを否認した自由主義のローマのほうです。第二ヴァチカン公会議直前に至るまで、すべての教皇たちがあらかじめ断罪した(誤謬を支持する)ローマです。その一方で、現在のローマに加わった修道会らの経験がすべてを物語っています。カンポスと善き牧者会を含んだかつての聖伝派の修道会は、一つまた一つと、第二ヴァチカン公会議を受け入れる事を強いられました。カンポスのリファン(Rifan)司教がどうなってしまったか、私たちは知っています。リファン司教は今や新しいミサを立てることになんの異議も唱えず、管轄下の司祭たちに第二バチカン公会議を批判することを禁じてしまったのです!

リヴァロル誌: ローマはベネディクト十六世とともに変わったのだと信じる人たちに、あなたはなんとおっしゃいますか?

ティシエ司教: ベネディクト十六世は確かに、聖伝に友好的ないくつかの意思表示をなさいました。特に、聖伝のミサは決して廃止されたことはなかったと宣言したことで、次に、ルフェーブル大司教様による私たちの司教聖別に続く、私たちに対する宣言、いわゆる「破門」を取り消したことで、です。この二つの前向きな意思表示のため、ベネディクト十六世に対し司教団から手厳しい批判が浴びせられました。ですがベネディクト十六世は、教皇である一方で近代主義者であり続けています。二〇〇五年十二月二十二日の[継続と改革の解釈学に関する]自己の行動原理的な訓話は、信仰の諸真理は時代ごとの有力な思想に一致して進化すると宣言しているのです。好意的な意思表示にも関わらず、公会議という球体の中に私たちを一体化させようとする教皇様の本当のご意志は、第二ヴァチカン公会議へと私たちを導く以外のなにものでもあり得ません。教皇様ご自身、二〇〇五年八月に、フェレー司教様にそのことをおっしゃったのです。そして、不正に公表された教皇様ご自身の内密の覚え書きが、そのことを最近確認しています。

【注:ここで述べられていることは、Vatileaks 事件で流出した、教皇ベネディクト十六世のものとされている秘密メモのこと。最近出版された『ベネディクト十六世聖下、教皇様の秘密文書』("Sua Santità. Le carte segrete di Benedetto XVI" by Gianluigi Nuzzi, Edito da Chiarelettere, 2012)pp 207-208 において、「聖ピオ十世会の将来の承認のために、教皇聖下は必要不可欠な条件として何も求めない」"Per un futuro riconoscimento della Fraternità San Pio X il Santo Padre non intende prescindere da una condizione indispensabile"を、ベネディクト十六世自身が次のように訂正したという秘密メモが流出してしまった。「聖ピオ十世会の将来の承認のために、必要不可欠な条件は、第二バチカン公会議とヨハネ二十三世、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世、そしてベネディクト十六世自身の教導権を完全に認めることである。」"Per un futuro riconoscimento della Fraternità San Pio X è condizione indispensabile il pieno riconoscimento del Concilio Vaticano II e del Magistero dei Papi Giovanni XXIII, Paolo VI, Giovanni Paolo I, Giovanni Paolo II e dello stesso Benedetto XVI."】


リヴァロル誌: しかし、こう考える人々もいます。ベネディクト十六世はカトリックのバイエルン出身ですし、彼らが「青年時代からの深い敬虔さ」だと知っているかのような姿を見せましたし、それが信頼を呼び起こすのだと。これに対してあなたはどのようにお答えになりますか?

ティシエ司教: 教皇様がよい方だというのは本当です。親切で、礼儀正しく、思いやりのある方、思慮深い方です。しかし、生まれつきの権威をお持ちで、断固とした決意の人です。彼はその個人的活力で、教会内の道徳に関する問題をいくつも解決してきました。例えば、あちらこちらの聖職者修道会における道徳問題をです。が、教皇様は公会議に染まっています。聖ピオ十世会問題を解決する事が、ご自分の教皇職の主な仕事の一つだとおっしゃる時、教皇様は問題の本質がどこにあるのか、わかっておられません。取り違えておられます。私たちのいわゆる「離教」に問題があるのだと理解しておられます。さて、問題は、聖ピオ十世会が引き起こしているのではありません。それはローマの問題です。新しい近代主義のローマ、もはや永遠のローマではなくなってしまったローマ、上智と真理の教師ではなくなってしまい、第二ヴァチカン公会議以来、誤謬の源となってしまったローマが引き起こしている問題なのです。そして、今日もそのままであり続けています。ですから、この危機の解決は、ローマからのみ来ることが可能なのです。ベネディクト十六世の次の教皇様からです。

リヴァロル誌: では、ベネディクト十六世との不一致、聖ピオ十世会の多くの人々があり得ないことだとみなしていますが、これをどのように解決なさるのでしょうか?

ティシエ司教: 真理に抵抗する人々にとって聖ピオ十世会が「躓きの石」であるのは本当です。そしてこのことは、教会にとってよいことです。私たちが「復帰した」なら、まさにこの事実によって、私たちは公会議の目の上のこぶであることを、イエズス・キリストにおける信仰の喪失、イエズスの神性、その王国における信仰の喪失に対する生ける叱責であることを、やめてしまうでしょう。

リヴァロル誌: 司教閣下、ですが、あなたは二人の同僚と連名で、ベネディクト十六世との純粋に実務的な合意を拒むようフェレー司教閣下に手紙を書かれました。この拒絶の理由はなんでしょうか?


ティシエ司教: 書簡の公表は、私たちに責任のない無分別な行為によるものです。私たちが純粋に実務的な合意(purely practical agreement)を拒否するのは、教義的な疑問が基本にあるからです。信仰は合法性に優先します。私たちは信仰の問題が解決されないまま、合法化を受け入れることはできません。私たちが今、近代主義に染まっているローマ高位聖職者たちに無条件に従うことは、いずれ不従順にならざるを得ない自分たちを晒すことになります。そして、その中になんの良い事があるでしょう? ルフェーブル大司教様は一九八四年から言っておられました。「権力者に自分たちを打ち砕くあらゆる力があるなら、誰も自分自身をその権力下には置かないものだ」これは賢いやり方だと私は信じています。私たちが、外交的なうまい言い逃れを全くせずに、はっきりと私たちの信仰を断言し、結果的に公会議の誤謬を拒絶する文書を作成するのがよいと思います。この声明は、まず初めに、教皇ベネディクト十六世に対して公に真理を述べるという利点があるでょう。教皇様こそが、誰よりも最初に真理を知る権利を持つ方だからです。次に闘争的で、かつ曖昧でない信仰告白の周囲に、聖伝のカトリック信者たちの一致を復興させるという利点があります。

リヴァロル誌: 提案された属人区の身分は、信仰のための戦いを放棄するかもしれないというあらゆる危険に関して、【それらの危険から守られるように】あなた方に充分な保証を与えるだろうと言う人たちがいますね。

ティシエ司教: それは正しくありません。属人区の計画によれば、教区司教の許可なしに新しい修道院を建てるための自由がありませんし、加えて、私たちが最近創立した修道院はすべて、この同じ司教によって承認されなければならないでしょう。従って、この提案によって、私たちはほとんど全てが近代主義の司教らに不必要なまでに支配されるようになるのです。

リヴァロル誌 : あなた方がまず第一に解決されることを見るのを望むこの信仰の問題を、私たちに詳しく説明していただけますか?

ティシエ司教: もちろんです。この問題とは、ルフェーブル大司教様がよく言っておられたように、信仰の教義を自由主義の誤謬と和解させようという、第二ヴァチカン公会議による企てです。ベネディクト十六世ご自身もこのことを言っておられ、一九八四年十一月に、ヴィットリオ・メッソーリとのインタビューで、このように宣言しておられます。「一九六〇年代の(つまり公会議の)問題は、自由主義文化の二百年の間の、最も成熟した価値を獲得することであった。自由主義文化の数々は教会の外で始まったものの、ひとたび清められ修正されるや、世俗を見つめる教会のヴィジョンの内にその場所を見いだすという価値を有している。そしてはそのことは成し遂げられた」これが公会議の業です。つまり、あり得ない和解のことです。「光と闇の間になんの和解があり得るだろう?」と使徒は言います。「キリストとベリアルの間になんの同意があるだろう?」(コリント後 六章十五節) この和解の象徴的な現れは、信教の自由に関する宣言です。キリストの真理と、全世界に及ぶキリストの社会的王権の場所の代わりに、公会議は人間を、人間の良心と自由を据えました。これが一九八〇年代にコロンボ枢機卿によって承認された、有名な「パラダイム(理論的枠組み)の変化」です。人となられた天主の礼拝の代わりに、天主になろうとする人を礼拝するということなのです(参照、一九六五年十二月七日、パウロ六世による公会議の閉幕における挨拶)。これはカトリック教ではない新しい宗教です。私たちはこの新しい宗教へのいかなる妥協も、いかなる堕落の危険を犯すことも、いかなるうわべだけの和解さえも望みません。そして私たちのいわゆる「正常化」が私たちに与えようとしているのは、この見せかけの和解なのです。マリアのけがれなき御心が、その信仰においてもけがれなきお方が、私たちをカトリック信仰のうちにお守り下さいますように。

【英語訳】Bishop Tissier de Mallerais: "The irregularity is that of Rome, a Modernist Rome." (from Rorate Caeli)

【参考】この記事については、http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/2fc30e8f1d70389152807250d8382b96のコメント欄にも記載があります。


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アヴェ・マリア・インマクラータ!
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