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【質問】「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」とはどういうことなのでしょうか?

2012年07月05日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は御質問に答えることをお許しください。御質問については、少し私が編集しました。

【質問】聖ピオ十世会の総長であるフェレー司教様は、最近のインタビューの中で次のように仰いました。
フェレー司教: 実際そのような考えに影響される人はいるかも知れません。しかし、今に始まったことではありません。その数は多くはないと思いますが、彼らは害悪、特に間違った噂を広めることで害をもたらし得ます。しかし、私たちの中での主な懸念は、何が起こるかわからない、罠をしかけてくるかも知れないという恐れとともに、ローマ権威者たちへの信頼を疑う気持ちがあるということです。個人的には、そういうことはないと確信しています。が、兄弟会としてはローマに不信感を抱いています。あまりに多くの失望を味わったからです。罠かも知れないと疑ってかかる人々の理由はこれです。私たちの敵が、この申し出を罠として利用するつもりかも知れないというのは正しいのですが、教皇様は、本当にこの教会法上の承認を望んでおり、罠として私たちにそのことを申し出たのではありません。
【フランス語】

 小野田神父様、神父様のブログ中には、いつも気になる記述があります。
「聖座を信頼できないから」「・・・という経緯により、バチカンは信用できないので」「ローマ当局に対する不信感」「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」など。

 聖伝とは言いますが、ペトロの座への信頼も、カトリック教会がながらく必死に保存してきた大切な聖伝のひとつです。ピオ十世会は、何番手かの聖伝は守りますが、より大切な聖伝を守ろうとしません。

 ベネディクト十六世は、正当な教皇様なのでしょう?もしもそうなら、イエズス・キリストはベネディクト十六世の口を通して今でも語り続けているのではないでしょうか?もしも教皇様が聖ピオ十世会に関して正当な、良い望みを示すなら、どうしてそれを拒むことが出来るでしょうか?

【お返事】
 ご質問をありがとうございます。

 最初に、現代の教会の問題は、第二バチカン公会議にある、ということを言わなければなりません。聖ピオ十世会は、現在の教会の危機の原因が、第二バチカン公会議の公式文書そのものにある、第二バチカン公会議によってカトリック信仰の純粋性が濁ってしまったことにあると考えます。従って、カトリック教会が健康を取り戻すために、第二バチカン公会議の毒を早く吐き出すことが出来るようにすることが必要です。

 聖ピオ十世会が「聖座を信頼できないから」「・・・という経緯により、バチカンは信用できないので」「ローマ当局に対する不信感」「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」などは「聖ピオ十世会をして第二バチカン公会議の毒を飲み込ませようとしているのではないか、という不信、疑い、またそうさせようとする罠」のことを意味しています。

 聖ピオ十世会は、カトリック信仰の純粋性を守るために、カトリックとして留まろうとするがために、今あるような立場に置かされてしまいました。

 聖伝のミサは、法によって禁止されていないにもかかわらず、法に反して実際上禁止されてきました。

 カトリック教会法典に反して、聖ピオ十世会は「廃止」されました。

 カトリック教会法典に反して、聖ピオ十世会の4名の司教たちは「破門」されました。

 今まで教会当局は、カトリック教会法典の文字とその目的に反して、カトリック聖伝を迫害してきました。だから聖ピオ十世会はそのような第二バチカン公会議のローマを信頼することが出来なくなってしまったのです。「ローマに不信感を抱いています。あまりに多くの失望を味わったからです。」(フェレー司教)

 マカベオ兄弟達は、安息日の掟を「破って」までも、エルサレムの神殿を守るために闘いました。
 私たちの主イエズス・キリストは、安息日の掟を「破って」も、病の人々を癒しました。
 ルフェーブル大司教様は、緊急の状態のために、聖伝の信仰と歴代の教皇様の教えに従順であるために、見かけ上「不従順」を犯してカトリック信仰を守りました。救霊のために司教を聖別しました。

 19世紀のカトリック教会は、ピオ九世のシラブスに賛成か反対かで分断されました。シラブスは、フランス革命の精神を排斥しており、当時の多くのカトリックは歴代の教皇様の教えに従い、シラブスを支持しました。一部のみがシラブスに反対し、革命精神を取りました。

 第二バチカン公会議では、ラッツィンガー枢機卿(当時)の言うように、カトリックの教えにフランス革命の精神を合体させようとしました。第二バチカン公会議は「反シラブス」(ラッツィンガー枢機卿)だったのです。歴代の教皇様の教えに従おうとする人々は、ルフェーブル大司教と共に、シラブスを支持し、反シラブス(=第二バチカン公会議)を拒否しました。

 現代、カトリック教会は大きな危機を体験しています。それは信仰の喪失、背教の危機です。聖伝のカトリック信仰は、全てを天主であり王たるキリストにおいて復興させようとしますが、第二バチカン公会議は、人間の尊厳と良心の自由とにおいて全てを築こうとしています。

 聖ピオ十世会は、典礼だけのことにこだわっているのではありません。聖伝のミサの背後にあるカトリック信仰にこだわっているのです。新しいミサの背後にある新しいエキュメニカルな人間中心の「神学」を拒否しているのです。

 私たち聖ピオ十世会は、天主の御助けによって、歴代の教皇様の教え続けてきたカトリックの信仰を守りたいと願っています。全教会法と従順とは、この使徒継承のカトリック信仰を守るために存在しています。

 さて、御質問の答えですが、何故「不信感」があるのかは、2つの理由があります。

 第1は、ベネディクト十六世の思想と神学のためです。

 第2は、過去に聖伝の共同体に起きたことのためです。

***


 現在、聖ピオ十世会の「正常化」“regularization,”の話が持ち上がっています。(「正常化」とはどういうことかと言うと、聖ピオ十世会はカトリックの一部ですが、聖伝のミサや聖伝の信仰が不当に排斥され、迫害され、禁止されてきたので、聖ピオ十世会が今まで行ってきたのは、言わば緊急状態の「応急手当」だったのですが、それらの「応急手当」は確かに必要なものであったし、これからも必要なので、これからもそれらの活動をし続けることが出来るように「応急手当」を「正式な病院として組織化」する、という話です。)そして、この「正常化」の条件として、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議も新しいミサも受け入れる必要が無い、と非公式に伝えられています。

 もちろん、ティシエ・ド・マルレ司教様と共に言わなければならないのは、イレギュラーな状況にいるのは、聖ピオ十世会ではなく、他宗教とのエキュメニズムや人間の尊厳の原理という第二バチカン公会議の原理によって動いているローマ当局の方です。歴代の教皇様が排斥してきたことを、実践している「公会議の教会」の方です。(「公会議の教会」とは、パウロ六世の命を受けて、パウロ六世の名前でルフェーブル大司教に手紙を書いてきたベネリ司教が言った言葉(1976年6月25日)で「公会議の教会への正真正銘な忠実さ」(genuine fidelity to the Conciliar Church)を訴えて使った言葉です。)

 確かに、教会当局が聖ピオ十世会が確かにカトリックであると公式に発言することは正義であり、それを求めるのは聖ピオ十世会にとっての当然の権利です。しかし、そのような発言がなかったとしても、聖ピオ十世会はカトリック教会の一部であり、聖ピオ十世会は一度もカトリック教会を離れたこともありません。それどころが、カトリック教会の最も大切な中心地に位置しています。

 ルフェーブル大司教は、聖ピオ十世会が「公会議の教会」をカトリックにする為に、「公会議の教会」のシステムの中に入らなければならないと考えるのは、それは全くの幻覚だと言います。何故なら、長上たちを作り上げるのは配下の者ではなく、長上たちが配下の者を作り上げるからです。


 さて、話をベネディクト十六世に戻すと、教皇様が聖ピオ十世会の活動にお墨付きを与えたい、聖ピオ十世会が現在の教会の危機からカトリック教会を救うために教皇様を助けることを教皇様が望んでいる、だから、聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を受け入れる必要はない、と非公式的に伝えられています。この聖ピオ十世会の活動の「公認」は、聖ピオ十世会をして第二バチカン公会議を飲み込ませる罠ではない、と言うわけです。

 ベネディクト十六世は、私たちの正当な教皇様ですが、しかし、それと同時に第二バチカン公会議を信じている人間です。

 例えば、ラッツィンガー枢機卿の1986年の著書『カトリック神学の原理』(Principles of Catholic Theology)の中で、次のように書いています。(Maria Mater tua est!さんの訳を参考にしました。)

「【現代世界憲章】全体は、言うなれば(信教の自由と世界の諸宗教に関する文書と合わせて)ピオ九世によるシラブスの改訂版、つまり一種の反シラブスなのです . . . ですからこの文書は反シラブスとして役立ち、それ自体として、フランス革命の1789年に開かれた新しい時代と公教会との正式な和解の試みを代表しているのだとここでは言うことで満足しましょう。」(381ページ)

 ラッツィンガー枢機卿は同書で「ピオ九世と聖ピオ十世の下で、公教会によって取られた立場の偏った見解」と語り、シラブスは「教会と国家間の時代遅れな関係」を代表していると主張します。

 有名な『信仰について』というメッソーリとの対話の本(1984年)の中で、はっきりとこう言っています。
「第二バチカン公会議が教会と世界との関わりの見直しを望んだのにはそれなりの理由があった。事実、たとえ教会外に生じたとしても、それが正しくふるいにかけられれば、教会のビジョンの中に受け入れられる諸価値も存在する。このいく年かにこの任務は実施された。それにしても、教会と世界という二つの現実が葛藤無しに出会い、さらにはためらうことなく一体化すると考えるものは、教会も世界も知ってはいないことになろう。」(日本語訳49ページ)
 この「教会外に生まれた」二世紀にわたるリベラルな文化を、この世に関する教会のビジョンの中に合体させようとすること、その不可能な和解が第二バチカン公会議によってなされた、というのです。しかし「光と闇との間にどのような和解があり得るのでしょうか?」「キリストとベリアルとにどのような同意があり得るでしょうか?」(コリント後書6:15)

 『カトリック神学の原理』の中で、ラッツィンガー枢機卿は「シラブスへの如何なる帰還もあり得ない」(191ページ)とはっきり言っています。では、ベネディクト十六世にとって、第二バチカン公会議は過去と断絶しているのでしょうか? ベネディクト十六世は、第二バチカン公会議はシラブスと矛盾している反シラブスであるが、これは「不連続と断絶による解釈」ではなく、「改革による解釈」をしなければならない、と言います(2005年12月22日の訓話)。つまり、その時代その時代の思潮に従って信仰の真理は進化する、という解釈です。


 ところで、他の全てのカトリックが第二バチカン公会議を信じなければならないのに、ただ聖ピオ十世会だけが第二バチカン公会議を受け入れる義務から免れることが出来るのでしょうか?

 ベネディクト十六世は2009年に全世界の司教たちに、エクレジア・デイ委員会の下に入ってきた「聖伝」の修道会らについて、次のように書きました。

「私自身、1988年以降、以前はローマから離れていた複数の共同体が戻ってきたおかげで、これらの共同体の内的雰囲気が変化したこと、偉大で広大な共通の教会へと戻ってきたことが、一方的な立場を越えさせ、頑なな態度は和らげ、続いて全体にとって肯定的な勢力としてそこから姿を現したということを見てきました。」

 ティシエ・ド・マルレ司教様の証言によれば、2005年8月ローマでベネディクト十六世がフェレー司教様と面会したとき、教皇様は聖ピオ十世会総長に、聖ピオ十世会を第二バチカン公会議へと引導するという意向を伝えています。

 最近出版された『ベネディクト十六世聖下、教皇様の秘密文書』("Sua Santità. Le carte segrete di Benedetto XVI" by Gianluigi Nuzzi, Edito da Chiarelettere, 2012)pp 207-208 には、次の文章
「聖ピオ十世会の将来の承認のために、教皇聖下は必要不可欠な条件として何も求めない」
"Per un futuro riconoscimento della Fraternità San Pio X il Santo Padre non intende prescindere da una condizione indispensabile"
を、ベネディクト十六世自身が次のように訂正したという秘密メモが流出してしまっています。
「聖ピオ十世会の将来の承認のために、必要不可欠な条件は、第二バチカン公会議とヨハネ二十三世、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世、そしてベネディクト十六世自身の教導権を完全に認めることである」
"Per un futuro riconoscimento della Fraternità San Pio X è condizione indispensabile il pieno riconoscimento del Concilio Vaticano II e del Magistero dei Papi Giovanni XXIII, Paolo VI, Giovanni Paolo I, Giovanni Paolo II e dello stesso Benedetto XVI."

 『カトリック神学の原理』には次のようにあります。「もしも私たちが教会を救わなければならないのなら、第二バチカン公会議は私たちが引き返さなければならない間違った道だったのだろうか? そうだと言う人々の声はますます大きくなり、彼らに従う人々はますます多数になっています。最近数年のもっとも顕著な現象の中で、聖伝主義者のグループの数が増加していることを挙げなければなりません。彼らの中では、敬虔さと神秘の感覚とを求める望みが満たされているのです。私たちはこれらの運動を矮小化しないように注意しなければなりません。疑いもなく、彼らは、セクト的な熱心を代表しており、これはカトリック性の反対(アンチテーゼ)です。私たちは彼らに対して、堅く抵抗してしすぎることはありません。」(page 389)

 実際、エクレジア・デイ委員会の傘下に入ったとたん、今まで第二バチカン公会議に反対していたような人々は、次々とこれを受け入れざるを得ない立場に置かれてしまいました。

 ジョン・ヴェナリ氏は、1994年、或る司祭がエクレジア・デイ委員会の事務所で、新しく「正常化した」(エクレジア・デイの傘下に入った)セイヴィンチオ・フェレール会(Society of Saint Vincent Ferrer)が「今や第二バチカン公会議の信教の自由を擁護する記事を書いている」と自慢しているのを見ています。


 ル・バルーのベネディクト会の修道士も、「正常化」の後に、第二バチカン公会議の信教の自由や新しい公教要理を擁護さえし始めました。ル・バルーの修道院長ドン・ジェラールや聖ペトロ会は、彼ら曰く、何も妥協することなく旧典礼とふるい公教要理を守ることが出来るように特権を得た、と言っていました。しかし、ルフェーブル大司教はこう言います。「彼らが何も手放すことがなかったというのは、正しくありません。彼らは【近代主義の】ローマに反対する可能性を手放してしまったのです。彼らは、もはや何も言うことが出来なくなりました。彼らに対して特典が与えられたのですから、彼らはただ口を閉ざさなければなりません。公会議の教会の誤りを告発することは、彼らには今や不可能です。少しずつ彼らは、正にラッツィンガー枢機卿によって要求された信仰宣言によって、【公会議の誤りを】支持するようになります。ドン・ジェラールは、自分の修道院の修道士が書いた信教の自由についての小冊子を発行し、それを信教の自由を正当化しようとする最中だと思います。」

【Monseigneur Lefebvre : Quand ils disent qu'ils n'ont rien lâché, c'est faux. Ils ont lâché la possibilité de contrer Rome. Ils ne peuvent plus rien dire. Ils doivent se taire étant données les faveurs qui leur ont été accordées. II leur est maintenant impossible de dénoncer les erreurs de l'Eglise conciliaire. Tout doucement ils adhèrent, ne serait-ce que par la profession de foi qui est demandée par le cardinal Ratzinger. Je crois que Dom Gérard est en passe de faire paraître un petit livre rédigé par l'un de ses moines, sur la liberté religieuse et qui va essayer de la justifier.】

 ブラジルのカンポスでも「正常化」の後に、第二バチカン公会議を受け入れることになりました。カンポスのリファン司教は、新しいミサを捧げることに反対しなくなり、第二バチカン公会議を批判することを司祭たちに禁止するようになりました。

 「良き牧者会」(Institute of Good Shepherd)でも、同じことが起こりました。

 エクレジア・デイ委員会の秘書、モンシニョール・グイド・ポッゾ(Guido Pozzo)は、良き牧者会(IBP)の長であるフィリップ・ラゲリ(Philippe Laguérie)神父に、2012年3月23日付けで、この修道会の教会法による訪問(canonical visitation)の結果として公式の勧告を伝えました。この訪問は、良き牧者会の認可の時にローマによって定められた5年の試験期間の終わりになされたものでした。
 良き牧者会は、2006年9月に、ローマと同意に達した元聖ピオ十世会の会員たちによって創立され、創立のメンバーには、フィリップ・ラゲリ(Philippe Laguérie)神父、ポール・オラニエ(Paul Aulagnier)神父、また、ギヨーム・ド・タヌアルヌ(Guillaume de Tanouarn)神父などがいます。

 創立の際には、良き牧者会は、第二バチカン公会議以前の典礼書を「排他的に使用」するという特権を得ていました。「排他的な使用」とは、同修道会は聖伝のミサだけを執行し、新しいミサを排除する、という意味です。しかしその5年後、ローマのエクレジア・デイ委員会から、原理原則として新しい典礼を排除することを公式に禁止され、聖伝のミサを、「排他的」に捧げるのではなく、単純に「会に固有の典礼様式」とするべきである、と命じられました。

 フランスのクルタラン(Courtalain)にある神学校での司祭養成については、委員会は「良き牧者会は、その学習過程に、第二バチカン公会議と最近・現在の教皇たちの教導権を導入すること」を求めました。それも「単なる第二バチカン公会議を批判するばかりではなく、しかもそれがたとえ「真面目で建設的な」やり方でなされようとも、教師の努力は、継続に於ける刷新の解釈法を強調しつつ、同時にカトリック教会の公教要理nよって説明されたカトリック教理の完全さを維持することを求めつつ、教会の【第二バチカン公会議を含める】全遺産の伝達に焦点を置かなければならない」とエクレジア・デイ委員会は主張します。

 更に、エクレジア・デイ委員会は、良き牧者会が司教区の司教らと協力することを提案し「司教が、全司教区の善のために同会の特定のカリスマを歓迎しそれを評価すること、また同時に、同会の司祭らが、司教区の教会の生活において交わりの精神を持って実際に同調することが大切である」と言います。

 以下は、参考資料で、モンシニョール・ポッゾからの良き牧者会への公式の勧告の英語訳です。

Letter from the Secretary of the Ecclesia Dei Commission
To the Institute of the Good Shepherd in France

March 23, 2012

Conclusions of the Canonical Visit
To the Institute of the Good Shepherd

Generally speaking, it is necessary to develop the founding charisma of the Institute by thinking more on the future than on the past. To prepare for the next General Chapter, it will be useful to meditate on Christ as Pastor.

Anyone who wants to develop the characteristics of a society of apostolic life must avoid any form of individualism. For this, it would be good to enter into contact with other societies of apostolic life capable of helping in this meditation on communitarian life.

The question of the practice of the extraordinary form [of the Mass], such as it is formulated in the Bylaws, must be delineated in the spirit of Summorum Pontificum. It would be suitable to simply define this form as the “rite proper” to the Institute without speaking of “exclusivity.”

The founders of Institute of Good Shepherd Fr. Philippe Laguerie, left, and Fr. Paul Aulagnier with Card. Hoyos Regarding the Seminary of Courtalan, the evaluation is positive, but it would be suitable to include the teaching of the present day Popes and of Vatican II. The pastoral formation should be made under the light of Pastores dabo vobis and the doctrinal formation should include a careful study of the Catechism of the Catholic Church.

To resolve the question of the establishment of the seminary [in other places], unless it is just an extension of the Courtalan seminary itself, the French Conference of Bishops can be asked to suggest the names of the dioceses where it can be installed.

Rather than maintaining a critique of Vatican Council II, even a “serious and constructive” one, the efforts of your teachers must point out the transmission of the integrity of the patrimony of the Church, insisting on the hermeneutics of renewal in its continuity and using as support the integrity of Catholic doctrine expounded by the Catechism of the Catholic Church.

To improve the functioning of the Council and to prepare for the General Chapter, it would be suitable to ask the advice of a canonist. The names of Rev. Fathers Pocquet de Haut-Jussé and Le Bot, OP are suggested. A monthly meeting of the Council seems opportune.

It is desirable to carefully discern the vocations coming from Brazil, as well as to reflect upon the reception of the Institute priests in the different dioceses. It is important that the Bishop accepts and valorizes the special charisma of the Institute for the good of the whole diocese and, at the same time, that the priests of the Institute, with a spirit of communion, insert themselves in the ensemble of the ecclesial life of the Diocese.

The creation of an economic Council will help St. Eloi parish to better conform juridically with the other parishes of the Archdiocese of Bordeaux.

The Angelus school in the Diocese of Bourges must pay more attention to the General Superior. We recommend that it seek to acquire diocesan recognition.

Monsignor Guido Pozzo


 ルフェーブル大司教:「ローマでラッツィンガー枢機卿様とした話し合いの間、私たちが合意に向かって進もうとしている時に、彼は私に教えてくれました。もしパリの聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会に於ける旧典礼使用に許可が与えられたら、新しいミサもなければならないでしょう、と。それは明らかです。彼らの心の状態<新しいミサを押し付けようとすること>をくっきり見せてくれました。彼らが、新しいミサを諦める可能性などありません。その反対です。それは分かりきっています。ですから、譲歩に見えなくもないものも、実際には、私たちを出来るだけ大人数の信徒たちから引き離す為の策略なのです。これが展望であって、その中で彼らは常にもっともっと聖伝に譲歩して与えようとするでしょう、それどころかきわめて遠いとことまで譲歩さえするでしょう。それが策略以外の何ものでもなく、公会議派の司教や近代主義のローマの掌中に身を委ねる事は危険であると、私たちは断固信徒たちに納得させる必要があります。それは私たちの信徒を脅かしている最大の危険なのです。二十年間も、私たちが公会議の誤謬を避けようと努めて来たとすれば、それは、まさか、これらの誤謬を表明する人々の掌中に私たちの身を委ねる為ではありませんでした。」


 はい、ベネディクト十六世は、正当な教皇様です。

 イエズス・キリストはベネディクト十六世の口を通して今でも語り続けることができます。

 しかし、もしも教皇様が、聖ピオ十世会に対して、すこしづつ第二バチカン公会議についての批判を止めるように政治的に動きかけているのなら、私たちはカトリックの信仰をまず明らかにするように働きかけるべきではないでしょうか?それが2006年の聖ピオ十世会の総会での宣言でした。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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