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1990年9月6日、フェーブル大司教様の講話 その3

2012年07月06日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話 その3

<>和訳者補足

【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】

 それから私たちの有名なラッツィンガー枢機卿が、第二バチカンは反シラブスだったと発言しました。この発言を今頃きまり悪く感じているのは、私たちがそれについて度々引用して批判するからです。

 そこで、彼は1990年6月27日の弁明を見いだしたわけです。皆さんは、教導権と神学者との関係を説明する重要な文書をローマが発行した事を御存知です。彼らはほとんど至る所に散在する困難【神学者たちの言いたい放題の荒唐無稽な発言】からどうして抜け出したらよいか分からないものですから、彼らに過度な非難をすることを避けつつ神学者たちの過ちを直そうとしています。それは厖大なページ数となっていて、その中に完全に迷宮に入ってしまいます。

 この文書の推薦文の中で、ラッツィンガー枢機卿は、前世紀以降の教皇たちが絶えず主張して来た事柄と逆の事を言い得る可能性についての考えを表明しています。

 枢機卿は言います。「この文書は、恐らく今回初めて次にように明らかに断定する。(確かにその通りだと思います)。つまり、問題それ自体についての決定的発言とはなり得ないが、この問題に対する実質的停止地であり(抜け目ない言い方ですよ!)、何よりも司牧的賢明さの表現、一種の暫定措置でしかない、教導権による幾つかの判断が存在する、と。」(聖座の公式の決定的判断が、今では暫定措置となっています!)
「その中核はそのまま留まるが、時代の情勢が影響を及ぼした、それが持つ個別の観点は、後世の修正を必要としうる。このことについては、前世紀の教皇たちの宣言、つまり、信教の自由に関する諸々の宣言(よく聞いて下さい!)、また、前世紀初頭の反近代主義(こんなことまで言います!)を指摘することが可能だ。特に、同時代に出された聖書委員会の判断が挙げられる。」(これは、彼にとって理解が出来ないのです。)

 枢機卿によれば、以上は、脇に捨てることが出来る、教導権がなした三つの判断です。暫定的な判断なのですから。これを変えることができるのです。
このことについては、後世の修正を必要としうる前世紀の教皇たちの宣言を指摘することが可能だ。「諸々の反近代主義的判断は大いに役立ってはくれたにせよ、個々の限界内で、それが存在した時代に司牧的な奉仕をしたのに対して、現在これらの判断は時代遅れとなっている。」(近代主義のページはめくられています。もう終わりだ、もう近代主義については話す必要がない、と。)

 枢機卿が、第二バチカン公会議を反シラブスと言ったり、教皇による様々な判断を過去の教導権に対立させたりしていることを、彼に対して批判がありましたが、彼はその非難を次のように説明してすり抜けています。つまり「その中核はそのまま留まるが、時代の情勢が影響を及ぼした、それが持つ個別の観点は、後世の修正を必要としうる」と。(しかし、中核とは何でしょうか?全く分かりません!)こうやって、彼は上手く切り抜けています、信じられません。

 クワンタ・クーラ や、パッシェンディ、そして一連の聖書委員会による判断などの否認を正当化するこの種の人々をどうして信頼して欲しいなどというのでしょうか。

 私たちは、第二バチカン公会議前までの教皇たちや、その時代の大半の司教方と共に、私たちの主イエズス・キリストの君臨と霊魂たちの救いを目的とした、カトリック教会の、言い換えればクワンタ・クーラ やパッシェンディの継承者となるか、或いは、カトリック教会とその教義の断絶という代償を払ってまでも、革命的世界政府に於いて奉仕者たる地位を獲得する事を目的に、真の棄教に基づく人権の原理を認めようと努力している人々の継承者となるかのどちらかです。

 何故なら、これが究極の基礎にある問題だからです。

 人権や信教の自由、民主主義、それから人間の平等に賛成すると大々的に主張するならば、彼らは世界政府に於いて極めて良い地位を、革命的世界政府の奉仕者の地位を受けるでしょう。


 私が皆さんにこれらの事をお話するのは、私たちの戦いを、それに先立って起きた歴史的文脈に結び付ける必要があるように思えるからです。と言いますのは、多くの殉教者の血が流された、非常に耐え難く、とても骨の折れるこの戦いは、第二バチカン公会議と共に始まったわけではないからです。カトリック教会と国家の分離や、追い払われた修道士及び修道女たち、さらにカトリック教会の全財産の没収などは、私たちいるエコンのみならず、スイス全土やドイツ、そしてイタリアでも本物の迫害となりました。教皇に対して憎むべき厭わしいものが戦いを挑み、教皇領が占領され、そこから追放されバチカン内に追いやられたりしました。それでは、教皇たちの教えに逆らって、カトリック教会と私たちの主イエズス・キリストの権利を守る為に、つまり霊魂たちを守る為に、彼らが声を上げて下さった抗議に加わりもしないで、私たちはこの迫害者たち全員と一緒にいるというのでしょうか?

 私が思うに、私たちは自分たちの力ではない基盤と力を持っています。厳密に言いますと、それは私たちの戦いではなく、カトリック教会により継続されている私たちの主イエズス・キリストの戦いなのです。私たちには躊躇う事が許されません。つまりカトリック教会と共にいるか、カトリック教会に逆らうかという事つまり「公会議の教会」に賛成するか、のどちらかです。「公会議の教会」は、カトリック教会とは関係が無いか、或いは、カトリック教会とはますます少なく関係を有しています。

 以前、教皇様が人権についてお話された時、教皇は人間の義務についてしばしば触れることから始めました。現在そういう事はありません。全ては人間の為であり、全ては人間によると言っています。

(続く)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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