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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話1 「マリア様、一体あなたはどなたですか」

2015年05月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田巡礼で、シュテーリン神父様がなさった最初の霊的講話をご紹介いたします。

 聖マキシミリアノ・コルベの熱烈なファンであり、コルベ神父様の研究家であるシュテーリン神父様のお話は、いつ聞いてもとても興味深いものです。

 秋田巡礼に参加することが出来なかった方々に、是非お読みになっていただきたいと思います。天主イエズス・キリストは、聖母マリアについてどのように考えているか、どのように取り扱っているか、どのような模範をのこしたかについて、説明されます。

 秋田巡礼に全部参加することが出来ず、これを聞くことが出来なかった方々も、これをお読みになると、筋が通ってきます。

 秋田巡礼に行かれた方々も、これをもう一度読み返すと、さらに聖母マリアさまについて黙想が深まることでしょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年5月2日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話1
「マリア様、一体あなたはどなたですか。一体あなたは誰ですか。」



同時通訳:小野田圭志神父

 この秋田の巡礼の為に、素晴らしく印刷されたしおりの中に、緒言の中に、巡礼の挨拶の、巡礼へのお招きの言葉があります。それをもう少し詳しく説明したいと思います。

 それをまとめると、マリア様は私たちに何を求めているか、私たちがどのようにある事を求めているか、という事です。つまり、子供である事、奴隷である事、騎士である事を求めています。

 もしも、子供という事は何か、という事を理解しようとするならば、母とは何かを理解しなければなりません。私たちはよく、天主の御母、とか、私たちの御母、と、口にはします。しかし、一体それが何を意味しているか、という事を深く考えた事があるでしょうか。

 私たちは自分の事を、マリア様のしもべ、とか、マリア様の奴隷とさえも言います。つまりこの事は、マリア様は、私たちの女王様、つまり元后である、という事です。

 マキシミリアノ・マリア・コルベ神父様が仰ったように、私たちがマリア様のしもべである、マリア様の兵士である、騎士である、という事は何を意味するかというと、マリア様は、私たちというキリスト教の軍隊の最高司令官であり、指揮者である、という事です。これらの言葉は私たちに非常に重要な言葉で、私たちの全生涯を変えてしまう程の力があります。もしも私たちが、マリア様へのお祈りの中で、私たちがマリア様を呼ぶその言葉の意味を理解できていなければ、全ての意味が失われてしまいます。

 では、マリア様の役割とは、私たちの救霊におけるマリア様の仕事とは、マリア様が天主様から受けた職務とは一体何かを、知らなければなりません。ですからこの最初のお話は、「マリア様、一体あなたはどなたですか。一体あなたは誰ですか。」と、いう事について黙想しましょう。

 まず、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールによれば、「マリア様は、天主様と比べたら、全く無に等しい。なぜならば、天主様の目の前では、全ての被造物は、全く無であるからです。しかし、その天主様が、この何も無であるかのような被造物を、マリア様を選んで、そのマリア様を高める事を望まれたならば、この無に等しい被造物のマリア様が、偉大な方となるのです。」

 旧約聖書では既に、この天主の御計画について書かれています。天主様は、ちょうど建設家がその設計図をもって、プランがあって、それに基づいて何かを造るように、天主様も何かのプランに基づいて、全宇宙を創造しました。天主様は、全宇宙を創るその前から、最も、被造物の中でも最も美しい被造物の事を、既に描いていました。皆さんが何か素晴らしい偉大な業をしようとする時には、完璧な概念というのでしょうか、何かすごいアイディアというものがあるじゃないですか、このラテン語では、この何か素晴らしいコンセプトが生まれた、何か素晴らしいアイディアがある、という時には、「conceptio」と言いますが、そのマリア様という偉大なconceptioが、つまり、無原罪の御孕り、というのもつまり、「Immaculata Conceptio」と、言いますが、その考えが、その事があったのです。

 天主様が、この世を贖い、救おうとされたその時には、マリア様には更にもっと素晴らしい役割が与えられていました。もちろん天主様は、たった一つの言葉で、たった一つの考えだけで、全世界を創造しました。ですから、ただ天主様がほんの一言、ハッと言えば、全ての人々を罪から救い、霊魂を救う事もできました。ところが、天主様がこの世を救おうとしたそのやり方はそうではなくて、そのどのようにやろうとした、という事は考えれば考えるほど、全く素晴らしいものです。全ての聖人たちと共に私たちも、口を大きく開けて、目を大きく開けて、「ええ!?天主様はそんな事を考えられたのか!信じられない!」と、言わなければなりません。

 考えてもみて下さい。天主様は、御自身が私たちを救う為に、天からこの地に降りてこられた、という事です。天主様は全く全てで、私たちは何でもありません。無限の天主が、この世に来る為に、無限に小さくならなければなりません。これが、天主イエズス・キリスト様の玄義・神秘です。天主が人となった、という事です。

 天主様が人となった。では、その天主が人となった、という事はつまり、王の王、主の主が、すごい御稜威の中で、皆が天主様の前で平伏して、「あぁ!畏れ多い」と言っているのでしょうか。たとえば、水戸黄門の印籠を見せられて、皆が「あぁ!」と平伏しているように、天主は「控え控え!畏れよ!さぁ!」と、言っているのでしょうか。そうではありません。

 天主様が人となった、という事でも、誰も知りませんでした。天主は本当に小さな国の、その小さな寒村の、その小さな所で、お生まれになりました。
天主様は人となって、御自分を、若い女性のご胎内に、自らを隠されました。ちょうど牢獄に閉じ込められたかのように、イエズス様は、天主様は、人となって、マリア様のご胎内に9ヶ月の間、ずっと閉じ込められていました。

 この天主様がお生まれになったその時には、ベトレヘムでお生まれになった時には、本当に可愛い赤ちゃんとしてお生まれになって、どんなにどの人でも、一握り一潰してしまうほど、かよわい赤ちゃんとして生まれて来ました。天主様は、貧しい者の最も貧しい者として、生まれる事を望まれました。考えてもみて下さい、天主様は、全てのものを所有している、最も豊かな、最も力ある方ですけれども、お生まれになった時には、全く何も持たずに、後には、枕する所さえもない、と言われるほど貧しくなられました。

 この地上に33年間貧しく生活されましたが、何をされたのでしょうか。もちろん、この世を救う為に来ました。ですから、イエズス様は全生涯をかけて、この全ての国に行って、福音を宣教する事ができたはずです。真理について語り、道を示し、霊魂を救うのです。その33年間、自分でどのように生活するか、自分で決定する事もできるはずです。一体どこに行って、どうやって、何をしているか、自分が判断する事もできるのです。

 ところが、これもまた驚くべき、私たちの想像を超える事が起こっています。主の主、全ての物事の所有者、王の王が、小さな子供となって、自分の被造物に完璧に依存して、自分自身の意志さえも放棄してしまったのです。この天主は、人となった天主は、御自分の人生の90%の間、つまり30年間、自分の思う事をやらずに、ヨゼフ様の命令のまま、マリア様の考えのままに、全てを行いました。イエズス・キリストは、本当の意味で、マリア様とヨゼフ様の奴隷のようになりました。

 では、奴隷というのは一体何でしょうか。奴隷というのは、自分の主人の、つまり自分に命令を下す人に全てを委ねて、それに従う、依存するものです。イエズス様は、ヨゼフ様とマリア様に全て依存して、それの命令に従った奴隷でした。

 イエズス様が、この地上に来たというその目的は、私たちを罪から解放して、天国を開いて、私たち全てを天国へ連れて行く為に来ました。そして、その福音を伝える為には3年間しか使いませんでした。ですから私たちも、「その3年間だけは自分の思い通りにしただろう。」と、言うかもしれません。しかし、この3年間さえも、自分の思い通りにやったのではなくて、天にまします御父の意志のみを、そして、地上における自分の母親の意志を遂行したのでした。

 例えば、イエズス様の最初に行った奇跡を見て下さい。イエズス様は、そんな奇跡を行おう、という気持ちもありませんでした、それをする考えもありませんでした。イエズス様は言います、「私の時はまだ来ていない。」しかし、マリア様が懇願する事が分かったので、最初の奇跡をしました。

 後に、イエズス様が十字架の上で御自身を御父に捧げて、御血を流されて、私たちを罪の鎖から解き放ち、罪という癩病をきれいに治す、という時に、一人でやろうとは思いませんでした。十字架の足下には、マリア様がいました。イエズス様は、マリア様も自分の苦しみと同じ苦しみを受ける事を望まれました。聖アウグスティヌスによれば、「イエズス様は、御自分の肉体で受けたその苦しみと同じ苦しみを、マリア様の汚れ無き御心に感じる事を、苦しむ事を、望まれた。」と、言います。

 ですからここに、天主様が人間の救いを遂行する為に定めた、天主様の掟、天主様の法律、法というのが見えてきます。イエズス様は、マリア様なしには決しておられない、という事です。マリア様なしには何もしない、という事です。マリア様のおかげで、マリア様を通して、天主は人となりました。もしも万が一、マリア様が、天使から受けたお告げを拒んだならば、私たちは天国へ行く道が全て閉ざされていました。

 天主様の御旨はこれでした、『全世界の救いが、マリア様に全て依存している。』という事です。

 もちろん、イエズス様だけが、私たちを救います。私たちを地獄から解放して、天国へと導いて下さる方で、私たちの罪を赦して下さる方です。しかし、この唯一の救い主であるイエズス様が、私たちの救いの為に、マリア様が必ず必要な手段として有る事を望まれたのです。マリア様の役割というのは、私たちは決して誇張する事はできません。

 「神父様、あんまりマリア様の事を大袈裟に言うと、プロテスタントの人達が何か言いますよ。」と、言うかもしれません。「神父様さっき言ったじゃないですか、天主様は天主で、マリア様は何にもない、無だ、と。神父様はもうほとんど、マリア様を女神かのように、何かオーバーに言っていませんか?」

 いいえ、違います。私は、私がやっているのではなくて、天主様がそう決めた事を、私は皆さんに言っているだけです。天主様が、この私たちと同じ被造物である人間を、その最も高い崇高な地位に上げられた、という事を、私たちが見て喜ばなければなりません。でも、天主がそれを決定したのならば、それを望んだのならば、私たちは、その事を心に深く刻み込まなければなりません。

 イエズス様はお一人で、誰からの協力も受けずに、この全世界を、私たちを救う事ができました。しかし、それを御望みになりませんでした。そして、イエズス様が望んだのは、自分の救いの業を、いつも、どこでも、御自分の御母と共にする、という事なのです。それを決定しました。マリア様は、イエズス様がこの地上に来る事を可能にしました。ですから私たちは、マリア様を通して、イエズス様はこの地上に来られた、とはっきり言う事ができます。

 でも、この事だけで、マリア様の特権を全て語り尽くす事は、全く不十分です。イエズス様は全生涯において、全てマリア様に依存する事を望まれた、と私は申しました。では一体なぜ、90%の、もうほとんどの全生涯を、そうやってマリア様に依存して生活する事を望んだのでしょうか。イエズス様は、その他に何の特別な事もしませんでした。30年間、ヨゼフ様の仕事の、そのちょっとした工場でちょっとしたお手伝いをして、マリア様の言うままにした、それだけです。30年。

 イエズス様は言います、「私は、あなた達に模範を与えた。それは、あなた達が私の真似をする事ができるように」と。
私たちが真似る事ができる、どのような模範を、イエズス様は示したでしょうか。

 それは、イエズス様が全くマリア様に依存していた、という事です。この事を、私たちはマリア様に奉献、と言います。そして、もう一度言いますと、イエズス様は、自分の意志を、自分のやりたい事を一切しませんでした。イエズス様のした事は、マリア様の望みのままでした。そして、イエズス様は私たちに命令しています、「私は、お前たちに模範を与えた。私のしたことをしろ。」イエズス様が、マリア様に従順であったように、お前たちも従順であれ。と、言っています。

 私は、何人かのプロテスタントの牧師さん達に、マリア様の話をした事があります。「神父様、ちょっとやっぱりオーバーですよ。いつもマリア様、マリア様、マリア様、マリア様、ちょっとだけイエズス様。それじゃないですか。」そしてですから、そのプロテスタントの牧師さん達に、今皆さんにお話したと同じ事を言いました。それで、聖書のちょっとした引用を一緒に合わせて見せて差し出しました。

 「私がしたようにお前たちがするように、私は模範を示した。」
そして、30年間のイエズス様の御生涯をまとめた一節、「erat subditus eis. 彼《イエズス》は、彼ら《ヨゼフとマリア》に、従順であった。」

 すると、この2つを見せると、プロテスタントの2人は目を大きく開けて、口を大きく開けて、ぽかりとしていました。そして、この牧師さん達同士で顔を合わせて、(顔を見合わせる仕草)。そして、その講話の後でプロテスタントの牧師さん達は、一緒にロザリオを大きな声で唱え始めたそうです。そして、プロテスタントの牧師さん達が言うには、「あぁ、私たちは本当に馬鹿だった!この私たちから、本当のお母さん、マリア様を奪い取ったルターの後を、そのまま継いだのは全く愚かだった!」と言っています。

 マリア様は、イエズス様の付き添い人として、助け手として、いつもイエズス様の傍にいて、十字架の足下に佇み、イエズス様から特別な使命を受けました。
イエズス様はマリア様に言います、「汝の子を見よ。」

 この時に、イエズス様はマリア様をして荘厳に、マリア様は単なるイエズス様の御母だけではなく、全ての私たちの母である、という事を任命したのです。

 皆さんは言うかもしれません、「あぁ、もちろんマリア様は、イエズス様のお母様ですけれども、また私たちのお母さんかもしれませんけれども、でも同じではありません。」

 でも、教会の教えを知っていますか?私たちは、こうマリア様に聞きます、「おお、インマクラータよ。あなたは一体どなたですか?」

「あなたは天主の御母です。ですからあなたは天地の元后です。御身は全ての被造物の最も高貴な方で、天使たちよりも更に高貴な方です。御身は、イエズス様、新しい第二のアダムであるイエズス様と共に、第二のエヴァとなった方です。」

 聖パウロはイエズス様の事を、「新しいアダム」と、言います。ちょうど、全人類が古いアダムから肉的に生まれたように、新しく贖われた、救われるべき人類は、新しいアダム、イエズス・キリストから来なければなりません。ちょうど、古いアダムが全人類の父となる為には、一人ではなく、必ずエヴァがいたように、エヴァと共に全人類の父であったように、新しいアダムであるイエズス・キリスト様は、マリア様と共に初めて、新しい人類の、贖われた人類の父となるのです。

 でも、新しいエヴァ、新しい人類の母となるエヴァ、とはどのような意味か分かりますか?新しいエヴァというのは、古いエヴァとは全く正反対です。エヴァというのは、全て生きる者の母です。ところがエヴァは、サタンの声を聞いてそれを信じたが為に、全ての命を失いました。エヴァはその後、霊的死の、霊的な死滅の母となりました。ところが、マリア様が十字架の下に佇んだ、そして、その信じられないほどの巨大な苦しみを捧げ、信じられないほど巨大な御子の苦しみと共に、捧げたのです。私たちの最悪の敵、最悪の悪から私たちを、イエズス・キリストとマリア様は、共に、救って下さったのです。

 イエズス様はサタンに打ち勝ち、マリア様はサタンの頭を踏み砕く。イエズス様は全宇宙の王となり、マリア様は全ての存在の元后となります。イエズス様は、私たちを罪の鎖から解き放つ、贖った贖い主となり、マリア様は、共に贖う共贖者となりました。イエズス様は、天主と人間との中間者としての橋渡しとして、司祭となります。イエズス様は、天の門をもう一度開き、天と地をもう一度、一つに一致させます。イエズス様は、私たちと御父との仲介者となります。マリア様は、イエズスと私たちとの間の仲介者となります。そして、私たちが全宇宙で全世界の存在で見出す事のできる、全ての霊的な特権と権能と能力を、マリア様が一つに、マリア様の御手の元に集められている事になります。

 皆さん、全ての、何億何兆という天使たちを全て集めて下さい。この天使というのも、数限りなくと思われるほど居て、そのほんの一部の最初の一部が、守護の天使たちです。この守護の天使たちの数というのは、この世から生まれてくる、生まれた、アダムとエヴァから始まって、この最後の人類の全てにも分配しても、まだ有り余るほどの数がある、守護の天使が一部います。その天使たちには、9の階級があります。その全ての何兆何京のものすごい数の天使たちを、全て集めて、もう諸聖人の数限りない全ての聖人たちを集めて下さい。そして、この全ての天使たちを集めて、全ての諸聖人たちを、殉教者、童貞女、全て集めると、こうした山ができます。

 ところが、それと比べると、マリア様は、その頂上を見る事ができない、極めて高い、ものすごい山脈を造っています。

 ここに、黙示録の12章に書いてあります。その黙示録12章には、全てのこの悪の勢力が一致してあります。竜とか二頭の獣とか。それらが全世界を支配しています。この悪の勢力の下に、全民族、全ての言語、全ての人々がそれに従っていた、と。そして、信じられない程ものすごい巨大な、この悪の勢力があります。
そして、このものすごい勢力の前に立ちはだかっているのが、一人の女性です。それは、太陽をまとった女性です。その足元には月があり、頭には12の星の冠があります。マリア様です。私たちの母であり元后であるマリア様。

 そして、この偉大なる天主の御母は、皆さんのお母様です。そのお母様ですけれど、どこか遠い国の何か偉い宮殿に住んでいる、どこかもう分からない様などこかのお母さんではなくて、イエズス様が十字架の上で、「汝の子を見よ。」と、仰り、イエズス様はこのヨハネを指した時に、ヨハネの間に皆さんの顔を全て思い出して、「お前の子を見よ。」と、言いました。
皆さん、十字架の足下に立って、この事を感じて下さい。イエズス様は、皆さんの顔をまじまじと見て、目を見つめて、「汝の母を見よ。」と、言っているのです。

 皆さん、マリア様がそれを受けた時には、ただリップサービスで、ただ半分だけ受けた、という事はありません。全てをそのまま文字通りに受けます。そマリア様はこの使命を受けた時に、その使命を最後まで遂行します。イエズス様はこれを望んでいます。私たち一人一人が、本当にマリア様の子供になる事を望んでいます。

 イエズス様はマリア様にこう命じたのです、このマリア様が、私たち一人一人を、ちょうどマリア様がイエズス様を愛したとそれと同じように、私たちを子供として愛する事を。

 それが、マリア様にどれほどの事を、どれほどの犠牲を要求するか、ちょっと考えた事がありますか?自分の愛する御子イエズス・キリストを、死に追いやった子を、自分の子供として受けるという事が、どういう事を意味するか分かりますか?

 マリア様は全生涯を、イエズス様の為だけに生きていました。全てをイエズス様の為に、全てをイエズス様だけにしました。マリア様にとって、第2などというものはありません、全てをもう、イエズス様。そして、イエズス様の事をマリア様がどれほど愛しておられたか、という事を私たちは決して理解する事ができません。そのイエズス様はマリア様に、それと同じ愛を以って、皆さんと私を愛するように、マリア様に命じた、という事です。

 これは、マリア様はイエズス様を取られた代わりに、私たちが与えられるとは、何という恐るべき犠牲だったでしょうか。マリア様が、そのイエズス様の御望みを拒否すると思いますか?マリア様が、イエズス様の御望みを半分だけ受けて、残りは拒否したと思いますか?私たちはもしかしたら、何か嫌な事があったら、あぁ、まあ、まあやってみましょう、と言うかもしれません。しかし、マリア様は全てそれを文字通りに受けて、文字通りにしています。ですから、私たちにどれほどの素晴らしい母がいるか、と考えて下さい。

 そして、グリニョン・ド・モンフォールは言っています、「世界に存在する、全ての最高の母親を、全て集めて下さい。そして、この全ての最高の愛に満ちた母親を、全て全て全て全て集めて、その母親がただ一人の、全ての愛を込めて、一人の子供だけを愛した、と考えて下さい。」聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「私は、こう宣言する。その全ての母親の最高の愛を、全て集めて、一人の子供を愛したよりも、マリア様は私たちの事を、もっと愛する。」

 皆さん、驚かなければなりません。どうしてこんな事ができるのか、やりすぎだ、もうありえない、もう信じるにはとても信じきる事ができない。でも信じなければなりません、信じなければなりません。今までよく振り返ってみると、マリア様に対して、あるべき態度をとってきていなかった、という事が分かります。「マリア様、マリア様が私の御母だという事は信じていましたが、でもそこまで、お母様だったのですか。」

 マリア様は、天地の元后です。天の母だからといって、極めて幸せで無限の幸せをもって、罪人である私たちを眺める必要など一つもありません。ところが、天からマリア様のものすごい愛を込めて、各瞬間、瞬間、私たちを愛の眼で眺めて、愛の眼でご覧になって、私たちの世話をして下さっています。そして、いつも、どの瞬間も、絶えず私たちの良き母としていらっしゃる事をお望みになるのです。

 明日、母親とは何か、母親の仕事とは何か、という事について話をします。皆さんお母さんがここに沢山いるので、母親の仕事は何かよく知っているはずです。でも、マリア様が私たちのその母、そこまでの母とは、私たちは今まで考えた事もありませんでした。私は、絶えざる御助けの聖母の、マリア様のノベナを毎日のようにする事ができます。でも、私たちが今毎日唱えているお祈りの意味する、その何を意味しているかを、今まで分かりませんでした。

 ちょっと考えて下さい、マリア様が、絶えざる御助けの聖母、絶えざる、絶える事のない、聖母だという事を。私たちは、「あの、何か助けましょうか?あの、必要な事がありますか?」もちろん、時々必要な事があるかもしれません。マリア様は、「私たちを助けたくて助けたくてたまらない。」と言って、そして、ただ助けたいと思っているだけではなくて、助ける全ての手段を、もうありとあらゆる手段をもっていて、「さあ、さあ、さあ。」と待っています。それも、86400秒、24時間、全て、いつも。

 これこそが、私たちが学ばなければならない事です。マリア様がなさる事は全て、皆さん一人一人の個人的なものの為に全て、なさって下さっています。

 この事によって確信しなければなりません。目を覚まして下さい。いいですか、明日皆さんマリア様の御像の前に行って跪きます。マリア様が流した涙の一滴一滴は皆さん、一粒一粒が、皆さんと私の為です。マリア様がおしゃべりになったルルドとか、ファチマとか、秋田とかの、一つ一つの言葉が、皆さんと私の為の言葉です。

 ですから、今日のこの最初の講話の結論として、マリア様に私たちは、「私たちがいつも唱えているこの祈り、この私たちがいつもマリア様に言っているこの言葉の深い意味を、私はまだ理解できていません。」と、言わなければなりません。「イエズス様、私の眼を開かして下さい。私は眼は開いていますけれども、何も見えない。眼の見えない人と同じです。私は眼は開いているのですけれども、実は何も見ていないかの様です。」「私は信じているとは言いますけれども、でも本当に深くは信じていません。」「私は、マリア様、私の母、御母、我が元后よ、とお祈りはしますが、でも、その意味する所は分かっていません。」「マリア様、私を理解させて下さい、それは何を意味するか。御身が、私の本当の母である意味を理解させて下さい。御身は、いつも、どこでも、私がどのような境遇にあっても、何があっても、御身は私の母である、という事を理解させて下さい。」

 明日、マリア様が私たちの母である、私の母である、という事が一体何を意味するか、詳しくすすめます。そして、マリア様が母である、という事が分かった後に、じゃあ、マリア様の子供とは一体何なのか、分からなければなりません。

 時間が来ました、ここでお祈りをします。ご清聴ありがとうございます。

 

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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