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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2015年聖ピオ十世会の秋田巡礼 SSPX Japan Akita Pilgrimage のアンケートの集計の結果

2015年05月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年聖ピオ十世会の秋田巡礼のアンケートの集計の結果が出来ました。





 来年の巡礼がよりよく行われるために参考にいたします。アンケートにお答えになって下さった巡礼者の方々に心から感謝します。

 この集計の仕事をなさって下さった方にも深い感謝を申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話5 「ファチマでの最後のヴィジョン」

2015年05月27日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2015年5月4日、秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話その5をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話5




同時通訳:小野田圭志神父

 今、皆さんの手元にお配りしたのは、ファチマでの最後のヴィジョンの有名な絵です。





 今から皆さんにご説明しようと思っている事は、とても重要なことです。この絵を見ると、マリア様の果たす役割、私たちの救霊における役割というのが、どのように重要な事であるかが分かるからです。この絵をよくご覧になって下さい。


 1917年、マリア様はファチマで、3人の子供たちにお現われになりました。そして7月13日にはマリア様は、「この地上に、私の【汚れ無き御心に対する信心】を確立させる為にもう一度やって来る。そして、ロシアを私の汚れ無き御心に奉献する事を頼みに、もう一度やって来る。」と、言われました。1925年、そして1926年に、お言葉の通りマリア様は、もう一度シスタールチアに、その時シスタールチアは修練女でしたが、やって来ました。そしてその時に、【聖母の汚れ無き御心に対する信心】とは何か、そして、初土の信心について説明されました。

 そして1929年6月13日、夜の11時から12時の間に、トゥイという所で、マリア様はお現われになります。ここでマリア様は、ロシアを聖母の汚れ無き御心に奉献する事をお願いします。ところで、このトゥイでの御出現で最もビックリする事は、ロシアの奉献についてとは関係ないように見える、三位一体のヴィジョンを見たからです。

 シスタールチアはこのように語っています。シスターは一人で、お御堂で夜中にお祈りしていましたが、突然、教会は明るくなりました。そしてこれは、超自然の光によって明るくなり、祭壇の上には光輝く十字架が、天井にまで届くような十字架が現れました。これが、このような感じで十字架が現れました。そして、その十字架の上には、更に光輝く人間が現れました。そしてこの人の胸のあたりには、光に輝くハトが見えました。そして十字架には、また別の人が、十字架に釘付けさせられていました。そして腰のあたりにはカリスが現れ、そしてカリスの上にはホスチアが宙に浮かび、そして胸からは御血が、そのカリスに流れ出ていました。そして、この胸からの御血はまずホスチアに流れ、そのホスチアからカリスに流れていました。そして、右側の手の下には、マリア様が、ご自分の手に汚れ無き御心をお持ちになりながら立っていました。

 シスタールチアが正確に言うには、「これはファチマのマリア様であって、手には汚れ無き御心を持っていた。その左の手で、御心を持っておられた。その御心には、剣もバラの花も無く、その代わりに茨の冠によって冠せられている御心が見えます。そしてこの御心には、愛の炎が燃えていたのですけれども、その左側には大きな文字で、クリスタルのようにきれいにハッキリと、水のような文字で、このような言葉が書かれていました。“恩寵、聖寵と憐れみ。お恵みと憐れみ”私はすぐに、至聖三位一体の玄義が、私に示されたのだと理解しました。」そしてその後に、マリア様が、ロシアを奉献する、という事をシスターは思い出します。

 天主様は、このファチマの秘密の最終の事を、このヴィジョンによって私たちに示そうとしている、という事を理解する事はとても大切です。ここに描かれている事は、このヴィジョンは、この巡礼の最初から私が説明しようとした事を、的確に表現しています。この絵について、何度も何度も頻繁に黙想して下さい。もしも黙想できない、という時には、ただ眺めているだけで結構です。

 上からまず御父を見て下さい。私は今から絵を説明します。全ては御父から来ます。ですから天主様御父は、始めであり、一番上にいます。手は両手を大きく広げています。父は、御父は手を広げて全てのものを与え、そして全てのものは父から来ます。父は、御父は御子をこの世に送ります。父はこの世をそれほども愛したので、御子を最後容赦せず、そして御子をこの世に送ったほど、この世を愛された。御父は私たちの命と、超自然の命の起源です。

 天主御父が御子をこの世に送りますが、その目的は贖いの業の達成です。これを見るとよく分かるように、十字架は全ての場所を占めています。この祭壇の所から天井まで、全て十字架です。何故かというと、十字架こそが、天主が私たちをどれほど愛しているか、という事を教える啓示であるからです。十字架のイエズス・キリストを通して、私たちに聖寵と、そして憐れみが与えられています。そして聖心から流れる全ての御血と全ての聖寵は、全て御聖体とカリスに収め、集められています。これが、御聖体の神秘です。

 皆さんが与る聖伝のミサでは、この玄義が、これが全て、本当に目の前に実現します。イエズス様の受けた御傷を、十字架に付けられたイエズス様を、黙想して黙想して、し尽くす事ができません。イエズス様の開かれた聖心。イエズス様は今どこをご覧になっているのでしょうか?イエズス様は、マリア様の方をご覧になっています。またカリスもご覧になっています。

 聖グリニョン・ド・モンフォールによれば、「イエズス様の救霊の、贖いの業の継続と言うのは、一つは十字架の像、十字架像、もう一つはロザリオ、この二つにある。」と、言います。




 聖ヨハネ・ボスコのビジョンによれば、「教会は将来、大きな困難を二つの柱によって救われるだろう。一つは大きな柱であって、その上には御聖体が、もう一つは小さな柱で、その上にはマリア様が。」




 御父と御子の間には、ハトの姿が見えますが、これは光のハトで、これは聖霊を表しています。これが聖霊の第二のミッション、第二の派遣の事です。そしてこの聖霊、この絵では上手く描かれてませんけれども、聖霊は光をこう照らして、この御子の十字架の贖いの業を照らし出しています。聖霊の働き、ミッションというのは、この御子の贖いの業を照らし出して、そして全ての人がそれを見る事ができ、理解する事ができ、受け入れる事ができるように助ける事です。そしてこれが、この聖霊のミッションによって、天主が光であり、恵みであり、力である、という事をこのように照らし出します。ここに天主様の事業、大事業“gesta Dei”が表われています。

 「天主よ、御身は私の為に、何を、どのような、どれほどの事をされたのでしょうか。」「私は、お前に全て、私の持てるものを全て与えた。私はお前に、我が御子を上げた。そして聖霊も与えた。」そして、イエズス様は言葉を続けます、「私は、私自身、私がそれである全てを与え、私の持てるもの全て与えた。私の全生涯と、私の全ての血を、お前に与えた。血をほんの少しではなく、私の体を流れる全血潮を、お前の救いの為に捧げ尽くした。そして私はお前の為に、お前と世の終わりまで留まる事ができるように、一緒に居る事ができるような、聖体の秘跡、という秘跡をも作り出した。そしてそれによって私はお前と共に、直接に、本当に、現実に、肉体的に、お前と共にいる。」

 では、この贖いの業の全ては、私たちの所にどのように到達するのでしょうか?私たちの代表はシスタールチアで、このちょっと真っ黒で見えないのですが、下の、台の下の方に跪いているのが、私たちです。私たちと三位一体との間には何があるのでしょうか?マリア様です。ルチアとそして三位一体の間には、マリア様がいます。つまり天主の大事業“gesta Dei”は、マリア様を通して“per Immaculatam”、という事です。

 天主様の御自分を与えるこの大事業は、全て一つの所に集められています。それが『マリア様の汚れ無き御心』です。ですから、今からこの汚れ無き御心について見てみましょう。

 このマリア様の御心の光を見ると、それは聖霊の光と全く同じであります。聖霊はマリア様の汚れ無き御心を染み透り、そしてそのマリア様の汚れ無き御心を照らし出しています。マリア様の汚れ無き御心には、天主様の愛が全体が、私たちに対する天主様の愛の全体が、留まっています、充満しています。この御心、心臓というのは何でしょうか?御心とか心臓というのは、目に見えるマリア様の内的な全存在の象徴です。このマリア様の御心は、聖霊に満たされたマリア様の霊魂の表現です。このマリア様の御心は、天主の知恵に満たされた、マリア様の知性の表現です。また第三にマリア様の御心は、愛に満たされた、マリア様の意志の、目に見える表現です。ちょうど第二のエヴァとして、第二のアダムの足下に、一人で立っておられた、その事がこの絵には非常に上手く表れています。新しいアダムと新しいエヴァは、本当に近く親しく、近しく二人隣り合っています。そしてこの二人は、二人で、新しい贖われた人類を産み出すのです。

 伝統的によれば、マリア様の御心は、バラの花とか、或いは剣で貫かれていて、というような形で描かれるのですけれども、このファチマのマリア様では、別の描かれ方をしています。伝統的にはマリア様の御心は、その祭服にあるように、バラの花とか剣が描かれています。でもここでは、イエズス様と同じ様な、茨の冠を冠せられています。このような御心は、普通はイエズス様の御心を表す為に使われています。

 では、これは一体何を意味しているのでしょうか?これは何を意味するかというと、イエズス様の受けた全ての苦しみ、受難、ご苦難、そのイエズス様の御心の受けた全て、その御苦しみは、全くマリア様の受けた苦しみと同じである、という事です。これは、マリア様が『共贖者』である、という事を表しています。イエズス様は、物理的に目に見える、肉体的な茨の冠を冠せられましたが、マリア様は心に於いて、その冠を冠せられました。イエズス様が御身体によって受けた全ての苦しみと全く同じものを、マリア様は御心で感じ取っていました。

 また、特別的な例外的なポイントは、マリア様はご自分の御心を自分の手で持っております。何故かというと、マリア様はこの心を、私たちに与えようと思っているからです。何故かというとマリア様は、私たちに子供として、ご自分は母として、私たちに持てる全てを与えよう、と手に持っているからです。

 よく見て下さい。この御心は子供に対する愛に燃え盛っています。そしてこのカルワリオに於いては、マリア様はその何千何万という陣痛の苦しみを通して、私たちを超自然の命に産み出したからです。そしてマリア様は、今までなかったほど、更に私たちにご自分の御心を与えよう、と思っています。この御心には、マリア様の汚れ無き御心には、天主様がマリア様に与えた全てが詰まっています。例え皆さんが何も持てるものがなかったとしても、この御心があれば全てがあります。例え、この世の事業で全てを持っていたとしても、このマリア様の汚れ無き御心を持ってなければ、何も持ってません。そしてこのマリア様は、この汚れ無き御心を持ちつつ、私たちに与えようとして、この私たちの世界に触れています。

 マリア様を通して、天主様がマリア様に与えた全てのものを、私たちは得る事ができます。マリア様を通して、天主の巨大な愛を受ける事ができます。マリア様を通して、道、真理、命、すなわちイエズス・キリストを受ける事ができます。マリア様を通して、回心と聖化のお恵みを受ける事ができます。マリア様の御心こそが、全ての、全く全てのお恵みの中継者であり仲介者である、という事のシンボルです。このやり方によってマリア様は完璧に、私たちの母であり、元后であり、女王である、という事が分かります。そしてマリア様は更に、全てのあまねく聖寵の仲介者であります。これをよく見ると、方向性があって、三位一体からマリア様を通してルチアに、そしてルチアつまり私たちにへと、伝えられています。

 ではルチアから、三位一体への方向性はどうでしょうか?最初は天主様が行為します。そうしなければ誰も救われる事はできません。もしも、天主様からの働きかけがこうあるならば、私たちからの応えがなければなりません。コルベ神父様によれば、「天主様からの何か働きがあれば、それに対する反応がなければなりません。」天主は与え、私たちはそれにお礼をします、与え、そのお返しがあります。天主は、天からこの地に、私に御恵みを下さったので、そのお恵みと共に、私はそれを天にまた返します。天主様が私たちに与えたその手段を通して、私たちも天主へと返して行かなければなりません。マリア様を通して私たちの方にやって来ました。贖いの大事業は、マリア様を通して与えられました。聖霊が私たちの心に導かれたのは、マリア様を通してです。ですから、天主の元に行くのは、マリア様を通してです。“Per Mariam ad Deum.”マリア様を通して、イエズスに行かなければなりません。

 6月13日マリア様は何と仰ったでしょうか?マリア様はこう仰いました、「私の汚れ無き御心は、あなたの避難所となるでしょう。そして、天にあなたを導く道となるでしょう。」

 このような天主の巨大な愛の表われを、私たちが目前とした時に、何をするべきでしょうか?マリア様は、この世を私たちの方を見ています。一つの左の手では、私たちにご自分の御心を与えようと持っていますが、右の手では、私たちにロザリオを与えようと持っています。そして手を、私たちの方に右手を差し伸べています。ですからこれは、私たちがそのマリア様の手を、差し伸べられた手を掴んで、そしてマリア様に自分を与えるしかありません。私たちは、ですから応えなければなりません。この応えとは、つまり一つです、「はい、マリア様。私は、あなたの子供でありたい。私は、あなたの奴隷でありたい。」と、応える事です。

 これは、「マリア様に対する奉献」と、名前が付けられています。奉献というのは実は、その一番大切な要素というのは、この皆さんの本に書かれて印刷されているお祈りの、その文字の羅列ではありません。この奉献の祈りは、奉献とは何か、奉献の心構えはどういう事か、という事を上手く表現されていて、この上手い言い方で私たちの心を確かに表しています。しかし、奉献の最も大切な要素としてその中核をなすものは、私たちの意志です、意志の行為です。言ってみるならそれは、私が結ぶ契約の、私がサインに印鑑を押したその契約の行為です。ちょうど、マキシミリアノ・コルベによれば、「小切手を切った時に、この金額を書かずにサインをして、さあ、あなたが金額を書いて下さい。」

 そしてこの契約というのは、金輪際、全ての瞬間、全くあなたのものであって、あなたに依存して、あなたの所有物としてであり、そしてもうあなたの子供ではないような瞬間、奴隷ではないような瞬間はない、という事を宣言するのです。ですからファチマでは、マリア様の汚れ無き御心に対する奉献がどれほど重要であるか、という事を仰るのです。ロシアの奉献、或いは世界の奉献、或いは私たち個人個人がマリア様に対してする奉献についてです。

 第一の応えは、私たちがマリア様に手を挙げて奉献する事ですが、第二の応えとしては、回心です。子供を見て下さい、お母さんは手を持って、もう迷子にならないように、ずっと持っています。そしてその所では、子供はお母さんの手を持ったまま、こうキョロキョロしていると、お友達が周りにいるじゃないですか。友達が、「おい、何とかちゃん!遊ぼ遊ぼ!あっちに行こ!おもしろいゲームがあるよ!行こ行こ!」

 マリア様の手を持っていない、お母さんの手を持っていない時にはそのまま、「おお!行こう!」と言って、行っちゃったんですけれども、そしてそのお友達と遊んでいる間に、転んで傷を付けて、倒れて、怪我だらけになりました。しかし今では、お母さんの手を持っていますから、奉献されていますから、ですからマリア様は私の手を持っています。友達がいます。「お母さん、友達、お母さん」(子供は友達の方に行こうとするけれども、お母さんが手を持っているので動けない)ですから、ここで回心があります。この回心というのは、ちょうどベルトコンベアのように、このコンベルテというのがあって、日本語でもこの回は回転の回を使いますけれども、この被造物から天主様へと、変化が、向きの変化があります。子供は、「お~い、こっちで遊ぼうぜ~!おもしろいよ~おかしいよ~!お~い!来~い!」と、言いますけれども、マリア様はこの子供の手をグッと持って、回心があります。これをマリア様が私たちにしてくれます。

 マリア様は、こっちを見てなさい、という時には、子供をこっちこっちこっちと向けるので、子供は「(泣きながら)うぅ~、お母さんお母さんお母さん。」と、正しい方向に向けて下さいます。聖母は最高のお母さんですので、私たちがやるような方法ではなく、優しく、優しく、私たちの向きを変えて下さいます。

 私は、実はアフリカで宣教師として長年働いていました。そして、復活祭の時にはたくさんの洗礼式があって、私はその時の復活祭の時には56名洗礼を授けました。56名の成人の大人の洗礼式です。長い長いセレモニーがあります。1時間30分1人につきかかります。それについてのおもしろい話が実はあるのですけれども、あまりにも長いので言う事ができないのです。そしてアフリカでは、「ちゃんと行儀正しくしなければならない。」と、教えられなければなりません。もう56名洗礼式をしなければならないので、25名くらい洗礼式をすると、もう疲れてきてしまって、「ちゃんとやって下さい。」と、言うのもめんどくさくなります。その時に来たのが、30歳くらいになる非常にこの繊細な女性の方が、洗礼式にやって来ました。そしてその洗礼式、洗礼を受ける、という事に非常に感動してその彼女は、洗礼の洗礼台がこうやってやって来ました。こうやって感動してやって来ました。

 彼女はオロオロして、どうやっていいか分かりませんでした。私はもう何十名も洗礼式をしてとても疲れていました。だから「ちょっとこうやって下さい。ちょっと倒して下さい。」と、それで、私は何も考えずに、「こうやって下さい。」と言って、こう女性の頭をグイッと掴んで、その顔をグッと向けて、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて…」と、水を注ぎました。すると、ちょうど私の修道院長がやって来て、私がやっている事を見ました、「お前、戦争でもやってるのか。司祭として、司祭のように行動して下さい。ドイツ兵のようにやってはいけません。」

 洗礼が終わって、この受洗者を見ると、涙を流して泣いていました。マリア様が私たちの顔を掴んで、回心させる時には、もっと優しくして下さいますので、心配しないで下さい。

 この「回心」というのは、ファチマのメッセージで非常に大切な言葉のキーワードです。

 第三の役割は、私たちをして償いを果たさせる事です。私たちがマリア様の手を持って、そして回心すればするほど、私たちはますますマリア様の中に入っていきます。そして、マリア様の中に入れば入るほど、天主様の愛に満たされます。そして、その愛に満たされた私たちは、「あぁ、このイエズス様をお慰めしたい。」と、いう愛の行為に促されます。そして、「私たちの為に、それほどの涙を流されたマリア様を慰めたい。」と、思います。ここで、私たちは秋田に居ます。

 時間が来ましたので、また10分休憩を取ります。また戻って来て下さい、戻らない人もいます。笑


聖ピオ十世会 ボホル島での巡礼 SSPX Philippines Bohol Pilgrimage 2015

2015年05月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会フィリピンでは、ボホル島で毎年巡礼を行っております。今年の巡礼の様子の動画が出来ましたので、ご紹介します。





天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話4「無原罪のマリア様の、私たちの救霊に於ける役割」

2015年05月27日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田巡礼でシュテーリン神父様がなさった霊的講話その4をご紹介いたします。ここで、シュテーリン神父様は、原点に戻って「インマクラータよ、無原罪の御方よ、あなたは一体どなたですか」に戻って、天主の第二のペルソナであるイエズス・キリストは、ご自分の贖いの事業をいつもマリア様と共に行うことを望んでいること、また、聖霊は、マリア様を通して、霊魂を動かそうとしていることを説明します。私たちは、聖霊の息吹を全て受けなければならないこと、そのために、私たちはマリア様を通して聖霊に心を開かなければならないことを教えてくれます。

どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話4




同時通訳:小野田圭志神父様

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 聖霊来たり給え、信者の心に充ち給え、▲主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。
主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。▲地の表は新たにならん。
祈願、聖霊の光をもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊を以ってわれらに正しき事を悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。われらの主キリストによりて、願い奉る。▲アーメン。
めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御体内の御子イエズスも祝せられたもう。▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
至聖なるイエズスの聖心▲われらを憐れみ給え。
聖マリアの汚れ無き御心▲われらのために祈り給え。
聖ヨゼフ▲われらのために祈り給え。
聖モニカ▲われらのために祈り給え。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 私たちの考察、つまり私たちの母であり、そして元后であり、女王であり、そして私たちの総指揮官であるマリア様について、もっとその考察を深める為には、最初の原点に戻らなければなりません。つまり、「おお、インマクラータよ、無原罪の御方よ、あなたは一体どなたですか」という問いです。

 インマクラータの、つまり無原罪のマリア様の、私たちの救霊に於ける役割をよく理解する為には、天主の第二のペルソナが、つまりイエズス・キリストが、いつもマリア様と共にその救霊の事業を行い、マリア様と共に在し、そして全てをマリア様と共に行う、という事を為し、それが御自分の意志であったという事を理解しなければなりません。

 イエズス様は、イエズス・キリストは、御自分の御母としてマリア様を選びました。そしてこの世に、マリア様を通して来る事を、御望みになりました。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様を通して、私たちを統治し、そしてマリア様を通して、私たちを指導して導きたい。と、願っている。」と、言います。単にイエズス・キリストの母、天主の御母、また私たちの母のみならず、それだけではなく、イエズス・キリストの助け手として、新しいエヴァとして、新しいアダムのすぐ隣にいる助け手としてのエヴァとして、新しいエヴァとして二人が共に、新しい贖われた人類を、つまり教会を、私たちを、産み出す事になるのです。

 天主御父は、この世を救う為に、贖う為に、御子を送りました。それは、贖いの業を達成する為です。この事を私たちは、御子の派遣、と言います。御子がこの世に送られた事です。これが天主様のジェスタ、天主様の行いで、天主様のなされた事です。つまり、無に等しい私たちを、「天主の子」という、ものすごい高みまで高める、御子を派遣する事により高める、というそのジェスタです、その行いです。この天主様の大事業、ジェスタは、聖マキシミリアノ・コルベによると、「インマクラータ、無原罪のマリア様を通してなされた。この事業が達成させられた。」と、言います。「Gesta Dei per Immaculatam.“天主の大事業は、無原罪のマリア様を通してなされた。”」

 でも、これで天主様のなさった事が終わったわけではありません、もっとあります。天主様は御子をこの世に送り、贖いの事業をしたのみならず、天主御父と御子と共に、聖霊をこの世に送り、第二の派遣が、第二の発出がありました。つまり、この事をよく理解出来ると、三位一体、聖父・聖子・聖霊その三つのペルソナが全て、この無に等しい、全く塵芥のような私たちの救霊の為に、全力をかけて私たちを救って下さろう、贖って下さろうとしている事が分かります。

 ですから、この事を知ると私たちは本当に、驚愕しなければ、ビックリして仰天驚いて、全くもう言葉を失うほどショックを受けるほどにならなければなりません。無限の全能の天主が、愛の大海原である、ものすごい無限の天主様が、全くの塵にすぎない、塵よりももっと汚い、小さな存在である私たちを、その高みまで上げて下さろう、敵であった、天主を侮辱して敵であった私たちを、天主の子供として下さるという事を、今一生懸命されている、という事を見て、これで驚かないでいる事ができるでしょうか。

 よく理解して下さい。天主御父が、愛する御一人子、第二のペルソナを、人としてこの世に送り、そして天主御子は人となって、私たちの贖いの為に生まれ、そして人として30年間、謙遜の生活をして、3年間、御足で聖地を歩き、福音を告げ、そして奇跡を行い、そして遂には十字架に於いて、血を流して命を全て捧げて、そして復活して、私たちの贖いをされた、それで十分ではないでしょうか?

 この答えは、イエズス様御自身が、昨日の聖福音の中で言っています、「私が父の元に行く事は良い事である。何故なら、私が行けば、父と私とはお前たちに、慰め主、パラクリトゥスとして、聖霊を送る事ができるからだ。」

 では、私たちの救いに於いて、聖霊の役割とは何でしょうか?私たちが、「聖霊来たり給え」と、「Veni Creator」と、お祈りをする時に、その中で、「Altissimi donum Dei」という一節が出ます。これは、「天主のいと高き、極めて高い、贈り物」と、いう意味です。聖パウロによれば、「天主の愛が、聖霊を通して、私たちに与えられた。その聖霊は、私たちに与えられている。」と、言います。

 私たちは、この聖パウロの言う、「天主の愛」と、いう事について、実はほんの少しも分かっていません。天主御父は御子を愛し、御子は天主御父を愛し、そしてその愛の交流が聖霊である。つまり聖三位一体のこの存在というのは、つまり愛の存在であって、天主は愛であって、その愛の他には何も存在していない、という事です。

 では今から、イエズス・キリスト様の役割と聖霊の役割が、どのように私たちの救いに関わってあるかを説明します。非常に大切です。そして皆さんまず第一に、この自分たちが、聖霊についての専門家であり、聖霊についてよく知っている、聖霊の事をカリスマを受けた、というカリスマ運動をやっている人達の主張している事が、どれほど邪悪であって、間違っていて、もう破滅的であるかという事を理解して下さい。

 そしてこのイエズス様と聖霊との役割、本当の役割を理解すると、プロテスタントが主張しているような何かカトリックに対する反論が、全く無効である事がよく分かります。

 イエズス様はこの地上に来られて、「私は、道であり、真理であり、命である。」と、宣言されました。イエズス様は、私たちに真理を教えて下さる方であって、そのイエズス様の教える真理とは、福音の真理であります。聖なる福音の、良い訪れの福音です。イエズス様が私たちに教える福音とは、イエズス様が私たちの為に苦しまれ、そして十字架の上で血を流され、そして贖い、そして復活され、罪から私たちを解放された、という事です。

 イエズス様は言います、「私は道である。」この道であるという事は、ここを通して行くものであり、イエズス様が私たちの指導者で導き手であり、そしてその先頭に立って行く王であり、私たちはその後を従う者である、そしてイエズス様は悪に対して戦い、そしてその目的地まで私たちを連れて行く、その道です。これがイエズス様の仕事です。イエズス様は、これを33年間この地上で行い、そして更には、教会を通してこの仕事を続けています。

 このイエズス様の命が、この世の終わりまで続く事ができるように、イエズス様はミサの聖なる生贄を制定され、そしてミサが行われる度に、イエズス様の生贄が再現させられます、又この私たちの前で現存します。そしてイエズス様は、御自分の聖心を常に開いておられ、そしてその聖心からは天主様の聖寵が流れて、これは、イエズス様の私たちに対する贈り物であって、これは七つの運河となり、七つの秘跡となって、私たちにお恵みを与えます。

 そして、イエズス様は、「私は命である。」と、言いますが、天主の命を私たちに上げそして与え、私たちを聖化する力を与えます。「munus sanctificationis.“聖化の権能”」これは、カトリック教会だけを通して、カトリック教会だけに与えられた権能です。

 イエズス様は全ての真理を教え、そしてそれを教会に委ねました。これを「信仰の遺産」と言います。そしてこの信仰の遺産を受けた教会は、“教える権能”を持っています。そして教会は更に、人々を天国に導く為に、人々を統治する、“統治の権能”も受けました。これが、イエズス様が使徒を通して、教会に与えた権威です。

 昔の教皇様の写真等をご覧になると、教皇様が三重の冠を冠っておられて、三つの冠が重なっているティアラというのですか、これは、教会の持つ三つの、三重の権能を表しています。

 そして皆さんが教会の中で、カトリック教会で、カトリック司祭に出会い、カトリック司祭を通してのみ、ミサを捧げる、という事はつまり、天地の仲介者であるイエズス・キリストと出会う、という事です。ですから、ミサに与る時に、「あ、神父様の髪の毛がちょっとおかしいなあ。」とか、「耳が何か大きい。」とかそういう、「他の神父様は鼻が大きい。」などと、そういう所に関心を持ってはいけません。この道具を通してイエズス・キリストを見なければなりません。

 またイエズス様は司祭に、非常に重大な、重い職務を与えたので、その事も考えなければなりません。もしも司祭が、イエズス様から与えられた職務を果たさなかったら、何かしない事があったら、それはイエズス様に対する裏切りであって、それなりの覚悟をしなければなりません。これがイエズス様の救いの業です。

 そして、イエズス様は、33年間なさって成し遂げられたこの御業を、ミサの33分の間に皆さんに与えようとしています。でもこれでは十分ではないのです。何故十分ではないかというと、見て下さい、全世界から全世界へカトリック司祭は派遣されて、そしてイエズス・キリストの御業を続けようと今、一生懸命働いています、ミサをしています。そして、イエズス・キリストの仕事が全世界に亘るように、日本にまで宣教として司祭が来ていますが、しかし、世の人々は何もそれに応えていません。ですから、この司祭のミッションを遂行する為に、そしてそれが成功する為には、もう一つ別のミッションが、もう一つ別の派遣が必要なのです。これが、聖霊のミッションの役割です。

 聖霊は世界に行って、人々の心の中に染み通り、そして罪に、罪の生活をしている人々の心に触れるのです。皆さんと私は、ある日突然目が覚めて、「あぁ、今こんな生活をして良いのだろうか。こんな、このような事をして一日を終わらせて良いのだろうか。これで本当に良いのだろうか。真理とは何なのか、イエズス・キリストとは何か、と思って、信仰を持ったのではないでしょうか。」これが、聖霊の働きです。

 では、例をとります。今から2000年前、ちょうど聖金曜日で、私たちは今皆カルワリオの丘に居て、私たちの周りは皆ユダヤ人で、そして過ぎこし祭を祝おうとしています。そして、ある時突然、この皆群衆が、私たちの周りにいた大群衆が、「十字架に付けろ!!十字架に付けろ!!」と、叫び出すではないですか。ですから私たちは、「あれ?何だろうこれは?」と言って、周りをキョロキョロと見ます。そしてこう周りを見ると、皆がこう騒いで、「十字架に付けろ!」と、言っているのは、向こうにいる一人の人を指して、「十字架に付けろ!!十字架に付けろ!!」と、言っているではないですか。それで、「あれ?誰だろうなあ?」と見ると、それはもう全身傷だらけで、顔だか、傷だか、どこが目だかよく分からないような、血だらけの、傷だらけの人が立っているではないですか。「あれ?何でだろう?」そこで、隣にいる人に、「あれ誰?誰?誰?」と、聞きます。すると、「バカお前知らないのか。あれはねえ、この世で一番悪い奴だよ!ほら、十字架に付けろ!と、言え、言え!さあさあ!さあ、一万円やるから、さあ騒げ!さあ叫べ!」すると、お金をもらって、「あ、あ、そう、じゃあ十字架に付けろー。十字架に付けろー。」と、叫び出します。

 その数時間後、私はその十字架につけろと叫んだその人が、十字架に本当につけられて亡くなるのを見ます。すると見て下さい。今まで本当に明るかった空は、真っ暗になるじゃないですか。人々は皆、恐れおののいています。すると皆恐れおののいて、家にこう帰って行きます。皆さんは、「えぇ、これは一体ちょっと…。」と言って、そこに留まっています。そして皆さんは、他の人が皆帰ってもまだそこに残って、十字架の方に、「ちょっと見てみよう。」と思って、見て行くと、その十字架の下には、そのお母さんが立っていて、そして弟子も立っています。そして、その十字架につけられたその隣には、二人の盗賊が、やっぱり十字架に付けられて、その内の一人が、「あなたが、天の王国に行った時、私を思い出して下さい。」という言葉を言うのを聞きます。そして皆さんは、その心の底から、その光景を見て、感動を受けて、「あぁ、そうだ、これだ。」そしてその心が揺れ動かされるのを思います。そして他の人々は皆家に帰っちゃうのですけれども、皆さんだけは、その感動を受けて、それを見て、「あぁ。」光を見ます、光を受けます。この光を与えたのは、感動させたのは、心に触れたのは、聖霊なのです。

 イエズス様の贖いの事業というのは、客観的なものです。事実です。起こったという事です。もう出来事なのです。それを皆が信じようが信じまいが、受け入れようが受け入れまいが、起こってしまった事なのです。つまり、イエズス様は真理を教えて、イエズス様は私たちの為に十字架に付けられて亡くなって、そして、そのまま厳然としてその事実が残っています。

 ところが、聖霊の役割というのは、私たちの心を動かす事です。この内面を動かす事です。主観的な役割があります。つまりどういう事かというと、私たちの心を開いて、開かせて、そして目を開かせて、イエズス・キリストのなさったその客観的な事実を受け入れさせて、そして心で、それに関心を持ってその方に向かって、それを理解して、それを受け入れる。そしてそのイエズス様の流された御血を、私の方に受ける、それを浴びる。それを私たちに内面的に動かしてくれるのが、聖霊の役割です。

 そして、イエズス様の贖いの客観的な事実の出来事を、2000年の後も世の終わりまで続けるのが、カトリックの司祭です。司祭が、その司祭の職務を果たしながら、イエズス様のなさった事業を客観的に続けていきます。

 ところが、心の内面から動かすミッションを続ける方がいます。聖霊の働きを2000年間、そして世の終わりまでずっと続ける道具があります。それが、聖霊の花嫁である、聖霊の淨配であるマリア様で、汚れ無きインマクラータです。

 ですから聖霊は、マリア様を存在のその最初の瞬間から選び、選択したのです。聖霊は、マリア様が天主の御母となり、そしてイエズス様の贖いの事業を、主観的に内面から続ける道具として使われる事である、という事をよく知っていたので、聖霊はマリア様を、罪の汚れの無いものとして、自分の花嫁として、汚れ無きインマクラータとして受胎させて、「無原罪の御孕り」を達成させたのです。大天使聖ガブリエルがマリア様に挨拶された時に、何と言ったか知っていますか?「聖寵に充ち満てる御方よ挨拶します、Ave! gratia plena」と言いました。

 聖寵に充ち満てる、gratia plenaというのはどういう事かというと、その聖寵の充満を、聖寵の全てを、完璧な全てを持って生まれて来たという事です。

 先程この話の最初に、天主の最高の賜物、と言います、天主から私たちに与えられた最高の贈り物、プレゼントであると言いましたが、つまり聖霊は私たちに、天主の愛の充満と、その命の充満を、贈り物として賜物として送って下さったのです。聖霊を送って下さったのです。そして聖霊はこの賜物、愛の充満の恵みの充満を、私たちの心に浸透させ、全てを与えようとしています。聖霊は私たちに、自分の全て持てるものを、全て充満を与えよう与えよう、とするのですけれども、実は全ての人が全てを受けるわけではなくて、ただその全てを受けた人が、ほんの一人しかいません。何故かというとその方は、聖霊からの贈り物を拒む事が一つも無く、心を全て開いて、聖霊の与えるものを、全て完全に受け入れた方であるからです。そして、そのような広い純粋な愛の心は、この世に一つしかありませんでした。この霊魂は、この巨大な無限の愛の全部を、全くためらう事なく拒否する事なく全てを受けよう、と望んだ方が一人、一瞬たりとも拒む事も無く受けた事が一人おります。

 あの私たちの場合には、聖霊が、(コンコンとノックをして)「あの、入ってもいいですか?」と言うと、(ドアから少し顔を出して断る仕草)。何故かというと、私たちは自分の事でいっぱいなので、聖霊に入ってもらうと困る、と思っているからです。私たちの心には天主様の場所がありません。自分の罪でいっぱいです。私たちは、天主の真理から現実から目をそらして、「シッシッ。」と、言います。ですから聖霊は、その中に入る為に一生懸命、「入れてくれないか、入れてくれないか」と、一生懸命です。私たちはちょっと開けても、あんまり入ってこないようにこう(ドアを開めようと)やっているんですけれども、聖霊は、入ろう、入ろう入ろう、としています。

 でもこの御方は、聖霊がノックすると、ドアをパァーッと開いて、「さあ、さあ来て下さい。全てを下さい。」と、開いて言った方がいます。この方が無原罪のマリア様です。ですから聖霊は、マリア様に全く一致してしまっているのです。ですから、教父は既にマリア様の事を、「聖霊の神殿」と、呼んでいます。また、「聖霊の淨配」とも呼んでいます。マリア様は聖霊と全く一致して、あたかも一であるか、一つであるかのようにもうなっているので、もうこの聖霊の神殿とか淨配とかいう言葉でも、それでも足りません。マリア様のお考えの一つも、言葉の一つも、行為の一つも、聖霊からの一致によって為されていないものは一つもありませんでした。ですから、マリア様の事は、聖霊が目に見えてこの世に現存している、その目に見える現存、と。もちろん、マリア様は天主様ではありません。もちろん、聖霊はマリア様とは別の御方です。しかし、マリア様と聖霊は余りにも一致してしまって、聖霊はマリア様の中に余りにも完璧に浸透してしまって、マリア様は御自分のものは全く一つもなかったので、あたかも聖霊がいるかのようでした。

 また別の、それと反対の極もあります。それは、悪魔に取り憑かれた人です。それはこの人は悪魔に憑依されていると、口を通して悪魔の言葉を話し、行為をして悪魔のやる事を行います。そして、悪魔はそのような人の中に浸透して、その人を占領してしまいます。そして、悪魔がそのような事をやるのとは、もっと別の、もっと良い素晴らしいやり方で、そしてマリア様はそれと全く同意して、聖霊はマリア様の中に完璧に染み透るのです。

 聖霊の役割というのが何か、というのは先程申しましたけれども、それは私たちの心に染み透って、そして心に影響を与えて、心に触ってそれに触れて、そしてそれを動かして、イエズス様のなさった客観的な贖いの業へと、それを連れて行く事です。ところで聖霊は、この霊魂に触れて、霊魂をイエズス様へと連れて行く、という事を、常に、いつも、必ず、マリア様を通してなさいます。それを通してなさらない事は、決してありません。

 三つの例を挙げます。1492年、アメリカ大陸は発見されました。そして、その直後すぐに、宣教師たちがアメリカ大陸に派遣されて、そこに住むインディオたちを回心させようと一生懸命働きました。1516年、エルナン・コルテスはメキシコを征服します。もちろん、エルナン・コルテスはたくさんの宣教師を連れて来て、そのメキシコに住む多くのインディアンたちを改宗させようと、一生懸命頑張りました。もちろん宣教師たちは心から働いて、一生懸命昼なく夜なく働きました。綺麗な教会を建てました。ナワトル語も勉強して、非常に難しい言葉で、勉強して、そしてミサを捧げ、生贄を捧げ、そして真理を語り、福音を宣教し、もうメキシコ全土に行って、一生懸命インディアンの為に働きました。しかし、その間16年の間、誰も、ほとんど回心する人はいませんでした。無に等しかったです。もちろん、たくさんの理由もあったかもしれません。私はその歴史家として、たくさんの理由を挙げる事ができます。でもその宣教師たちは、一生懸命働いているにも関わらず誰も回心しない、という事で、絶望の淵にいました。

 1531年12月9日、ホワンディエゴという、回心したほんの少数のうちの一人が、ある朝、教会に行こうとして歩いていました。その時にグァダルーペのマリア様が、朝ホワンディエゴにお現われになりました。そして第三回目の御出現の時には、ホワンディエゴの着ていたマントの上に、ご自分の姿を写しました。一年の間に、何百万というメキシコ人たちが回心しました。そしてその後、全メキシコが回心しました。そして20年後には、全アメリカ大陸が回心しました。

 聖霊はマリア様を通して働いて、そのマリア様を通して、メキシコ人たちの心に触れて、そしてメキシコ人たちがそれに全く動かされて、そしてカトリックになりたい、と思って洗礼を受けました。

 第二の例です。ラビの子供であり、フランス人の国籍のあるユダヤ人、アルフォンソ・ラティスボンというユダヤ人がいます。その兄弟はカトリックに回心して、司祭になりました。その兄弟であったアルフォンソ・ラティスボンは、それに驚きます。兄弟がカトリックになった、そしてカトリックに対して憎しみを持ちます。そしてアルフォンソはヨーロッパに旅行し、ローマに行って、綺麗な祭壇、教会や、綺麗な建築物を見ますけれども、何も興味を示しません。そして最後に、小さな教会に、薄暗い教会に行きます。するとその教会には、不思議のメダイのマリア様が描かれた絵がある教会に行って、光が射されました。そのマリア様を見て、アルフォンソは回心します。そして遂には司祭になって、そして罪人の回心の為の修道会を創ります。

 第三の例です。日本です。16世紀に、カトリックの信仰が日本に伝えられます。それから大きな迫害があって、何万もの殉教者が出ます。250年の間、司祭も無ければ、教会も無ければ、何も残りませんでした。教皇様は、日本にはもうカトリックが残っていないと思っていました。そして19世紀に、宣教師が長崎に教会を建てます。すると突然人々がやって来て、250年の間、人々は信仰を守り続けました。それは、ロザリオのおかげです。聖霊はマリア様を通して、250年の間信仰を保存し、守らせる事に成功しています。このような事は全く例外的で、他にはない話です。

 私はこのような例を、まだ一年間ずっとこの12月31日までずっと、毎日のようにずっと話し続ける事ができます。そしてそれを見ると、聖霊はマリア様を通して、そして必ずマリア様を通して私たちの心に触れて、イエズス様との親しい関係を作るように導いて下さる、と言う事がはっきりします。

 ですから皆さん、この皆さん、このハリウッドの映画とかね、ボリウッドの映画とかヤリウッドの映画とかを見ているよりは、聖霊が歴史を通して、事実的に歴史的な史実として、救霊の為に何をしたか、という事を知る事は非常に重要な事です。

 では10分休憩をしますので、どうぞ休んで下さい。また10分後にお話をします。



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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