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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年1月6-9日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年01月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

改めて新年のおよろこびを申し上げます。ファチマ100周年である2017年が祝福に満たされた年となりますように!

ことしから聖ピオ十世会日本ではミサの終わり司祭の退堂の際には毎回「ファチマのアヴェ・マリア」をテーマソングのように歌います。月によっては、日本語のみならずポルトガル語やフランス語や英語でも挑戦することも考えています。

今回のミサでは、ローマの習慣に従って、クリスマスと御公現とに恒例の幼きイエズスさまの接吻の礼拝がありました。

次回は、大阪では1月20日、21日、東京では1月22日で、踏み絵への接吻による償いの式があります。

 1月21日には、聖ピオ十世会総長補佐のフルーガー神父様が来日され、東京では午後5時半からミサがある予定です。

 1月22日には、午前10時半からはフルーガー神父様司式によるミサ聖祭、午後には霊的講話の会があります。

 1月23日(月)の午前7時からは、東京でフルーガー神父様のミサ
 1月24日(火)の午後6時からは、大阪でフルーガー神父様のミサ
 1月25日(水)の午前11時からは、大阪でフルーガー神父様のミサ
が予定されています。

愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖家族の祝日おめでとうございます。
御ミサの報告をお送りいたします。

1月6日(初金) 主の御公現 の祝日の御ミサには16名が、
翌7日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサには17名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

ご公現の御ミサの後には幼いイエズス様の御像への接吻式があり、その後、2017年初めての御聖体降福式がありました。
幼きイエズス様への接吻はどうしてか顔がにやけてしまう程に嬉しく、十字架への接吻と少し違う感覚です。
私たちが近寄りやすいように幼子のお姿をされているというお話は全くその通りだと思います。

御聖体降福式ではこの一年を余すところなく御聖体のイエズス様にお捧げ出来た事は大きな御恵みでした。
ファチマの聖母ご出現の100周年にあたる今年、気を引き締めて毎日毎日を大切に祈りと犠牲をマリア様にお捧げできるように、お力を願いました。

ご公現の御ミサのお説教はクリスマスとご公現の違いを黙想しました。
どちらもプレゼントをされた日ですが、クリスマスは聖父から聖子イエズス様を人間にプレゼントして下さった日で、
ご公現は三人の博士が、イエズス様にプレゼントをした日です。
三人の博士は純粋な愛のかたどりである黄金、天主へとまっすぐに上る祈りをあらわす乳香、私達の苦しみと犠牲をさす没薬を捧げました。
私たちも三人の博士のように信仰の星に導かれてイエズス様のところへ来て、イエズス様を天主と認め、礼拝しなければならないのです。

私の捧げものは不純物の混じった黄金であり、まっすぐ上らず下でくすぶっている祈りであり、取るに足らないような犠牲であるけれども、不完全な捧げものの変わりに
今日のこの日の御ミサで聖子イエズ ス様をマリア様を通して聖父にお捧げることが出来ることを感謝します。

土曜日の御ミサの後の公教要理では聖書が『聖霊の息吹』によって書かれたこと、『無謬』である事を勉強しました。

もっと沢山のかたが本物の信仰の星に導かれて聖伝のミサにたどり着かれることを願います。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

前回の公教要理のレポートを書かせて頂きます!

《分かったところ》

聖書には重大な特徴が2つある。

1.聖書は聖霊の息吹(Inspiratio, θεοπνευστία)を受けて、旧約・新約全て書かれている。
2.聖書には間違いがない。(無謬,Inerrantia)

それを詳しく見ていくと、
1.聖書は聖霊の息吹を受けて書かれている理由…カトリック教会という教導権が、「天主の書かれた御言葉」と教えている。
〈例〉・聖クレメンテ(ローマ教皇)
  ・フィレンツェの公会議(1441年)
  ・トリエント公会議(1545~63年)
  ・第一バチカン公会議(1870年)

天主が第1の著者(人間を道具として書いた)。

ティモティオ第二(3:16)…Divinitus Inspiratus

「聖霊の息吹」というのは、人間が「書こう」という意思を持って、聖霊に導かれて書いている。
×口述筆記
×脱魂状態
×ヴィジョン(黙示録などは別)、声
×単なる教会認可
×単に誤らないように

2.聖書には間違いがない。
・原文には誤りが無いが、翻訳をする人間が間違うことは有り得る。
・科学の本や日記の本として書かれていない。

《分からなかったこと》

何故カトリック教会は非常に初期の時から、聖書が「この書物は聖霊の息吹によって書かれたものだ。この書物には誤りが無い」と断言することができたのでしょうか?何か判断の基準とかはあったのでしょうか?
何か根本的な質問ですみません(>_<)>

デオ・グラチアス!

【お返事】

カトリック教会が、非常に初期の時から「この書物は聖霊の息吹によって書かれたものだ。従ってこの書物には誤りが無い」と断言することができたのは、天主からの特別の啓示があったからです。
例えば、聖ペトロは啓示を見て、旧約の食べてはいけないという律法を廃止させたことがあります。それと同じように、使徒たちは天主の権威を持って、安息日を土曜日から日曜日に変更したことがあります。
聖パウロは、イエズス・キリストの特別の啓示を受けましたし、聖ヨハネも、特別の啓示を受けました。
公的啓示は、最後の使徒が死ぬ時に閉じられました。
しかし、使徒たちは天主の権威を持って、あるときには天主からの特別の介入や啓示によって、真理を啓示されていました。聖書に関する真理も同様です。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供1人)
女: 27人(内、子供3人)
計: 47人(内、子供4人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この度も日本でのミッション、ありがとうございました! 毎月2回、遠くフィリピンから足を運んで、日本のために御ミサを捧げてくださる神父様に深く感謝いたします。

東京の御ミサでは、今回も初めて聖ピオ十世会にいらして久しぶりに聖伝の御ミサに与ったという方がいたしたので、本当に嬉しいです。
もっともっと多くの方が聖伝の御ミサとその教えとに出会うことができますように。お祈りいたします。

1月8日、聖家族の祝日の御ミサの感想と、午後の要理のお話のまとめをお送り致します。

<御ミサ>

これだ!と分かったこと

今回は、集祷文「主、イエズス・キリストよ、御身は、いいつくしがたい聖徳を行い、マリアとヨゼフとに服従して、家庭を聖別し給うた」や聖体拝領誦「イエズスは、かれらとともにナザレトに下り、かれらに服従し給うた」のお祈りから、また、お説教をお聞きして「従順」がいかに大切な徳であるかが分かりました。
特に神父様がお説教でお話しくださった
「イエズス様ご自身から見れば被造物である名も無い大工のヨゼフ様とそしてやはり被造物であるマリア様に従順に生活なさったイエズス様
司祭の聖変化の望みとその言葉にいつも従順であるイエズス様、私たちが御聖体を受けようとの思いに従順なイエズス様」という言葉から、よい黙想をすることができ、唯一有るものでいらっしゃる天主様のなさる無である私たちに対する限りない従順、まさに「従順の生贄」と呼ぶにふさわしい従順に感動いたしました。
また、神父様が、「司祭の聖変化の望みとその言葉にいつも従順であることに、まさにここに御ミサの頂点があります」と仰ったのが印象的でした。
御ミサの頂点は、聖変化と十字架の生贄は、従順と愛と謙遜と全ての徳の頂点であるように思われました。
今は御聖体の内に隠れられ、この世にいらした33年間の内30年間の長い間をマリア様とヨゼフ様に従順に隠れて生活なさり、また、その徳の全ては世の求めるものとは正反対なので隠れたように見え、本当に天主様は「かくれたる王」(昇階誦)でいらっしゃると感じます。

御ミサの聖福音では、なぜ「彼らは、彼が語り給うたことを悟らなかった。」(ルカ2:50) と書かれているかが分からなかったのですが、マリア様はその時には全てを悟らなかったけれども、その後もそのことを「全て心に納め」ていらしたので、御受難の時、十字架の元ではもう何の質問もせず佇んでいらしたのだ、と教えていただいて分かりました。丁寧に教えていただき、ありがとうございます!

人類の最大の苦しみであった十字架の元で深い深い悲しみの内にありながら、なおも天主様の言葉を思い起こして静かに十字架の元に佇んでおられたのですから、マリア様はどれほど深い観想のうちにイエズス様のお言葉を捉えられたのか、そしてそれに対する従順がどれほど素晴らしかったのだろうか、と考えました。やはりマリア様は天主様のお母様でいらっしゃる方だと改めて感動いたします。マリア様のご謙遜、従順、観想、天主様のお言葉を深くお考えになる姿勢を見習わねばならないと思いました。

今回の御ミサで聖家族の生活をよく見ると、「愛徳」と「従順」から生まれるお互いへの尊敬の気持ちや心遣いが聖家族の態度全てに現れているように感じます。ヨゼフ様を家長として、いかなる困難のうちにありながらも、夫婦・父母と子・両親と子という天主様の制定なさった家庭の秩序に基づいた生活をしていらしたのだな、と分かりました。そして何よりも、その態度とそこから生まれた空気がとても美しく感じられましたので、こちらも平和な気持ちになりました。聖霊の賜物を主題とした公共要理の時間に、究極の原因(天主)に遡って物事を判断すること、つまり全てを秩序付けることが平和である、と教えていただいたことを思い出しました。私はこの平和について今までは公教会の権威を頂点とした全世界的な、非常にこの世的な平和、という観点からしか捉えていなかったのですが、聖家族の生活を思うと、この平和は個人においてはもちろん、またどのような集団においても、つまり家庭でも会社などの集団にあっても実践し得るものであることに気付くことができました。デオグラチアス! カトリック教会のみがもたらす真の平和の美しさにただただ感動するばかりです・・・。

そして、現代の初頭にあってこの御ミサを制定なさったレオ十三世教皇様のご意図をほんの少しだけでも理解することができたかな、できていたらいいな、と思っております。

また、御ミサでは、神父様が2017年をファティマ100周年の記念としてマリア様の汚れなき御心に奉献するように、とおっしゃったことが印象的でした。天主様に2017年を全てよりよくお捧げすることができますように! と年明けに初めて与った御ミサでお祈りできましたので、とても幸福です。この御ミサでの気持ちを忘れずに、聖母マリア様と共に天主様へ日々の祈りと犠牲をお捧げすることができますように!

<公教要理>
午後の公教要理の時間には、聖書について教えていただきました。
・聖書はカトリック教会が天主イエズス様から受けた教導権に基づいて定めた書物であること
・聖書はその一字一句まで、神感によって、聖霊のいぶきによって、書かれたこと
・神感とは、口述筆記や教会認可を受けることを指すのではなく、真の著者は天主であるが、人間を道具とし個々の道具の特徴を使って書いたことを指すこと
・天主は人間を道具として、その特徴を生かしながら聖書を書き、聖書は天主と人との合作であるいうことができること
・聖書は原典のみ無謬であること(しかし、聖ピオ十世教皇様の指示により行われた調査によって、聖ヒエロニモの訳したラテン語聖書はほぼ誤りなく訳されていることが分かった)
・聖書が神感を受けて書かれ、無謬であることは多くの公会議によって承認されてきたこと(フィレンツェ公会議、トリエント公会議、第一バチカン公会議など)
・「教導権があってこその聖書」なので、聖書「のみ」のプロテスタント教会は誤っていること
・残念ながら、第二バチカン公会議による文章≪Dei Verlum≫「啓示憲章」11 の中の曖昧な表現によって、聖書の無謬に疑問が投げかけらてしまったこと
を教えていただきました。 聖書が神感を受けて書かれたことは、本当に感動的なことだと思いました。

取り急ぎ御ミサの感想のみお送りいたします。
+In Mary Immaculate,

【お返事】
いつも、素晴らしいレポートをありがとうございます。
第二バチカン公会議の「啓示憲章」11の問題のラテン語は、次の通りです。
inde Scripturae libri veritatem, quam Deus nostrae salutis causa Litteris Sacris consignari voluit, firmiter, fideliter et sine errore docere profitendi sunt (21).

和田幹男訳による日本語は次の通りです。
「したがって聖書は、 神がわたしたちの救いのために聖なる書に書きとめられることを望んだ真理を 確固として誤りなく教えるものと言わなければならない。」

カトリック教会の聖伝によると、聖書はどのようなことがらについても(救霊に関することも歴史に関することも)無謬であると教えています。

しかし、第二バチカン公会議は、私たちの救いのために(nostrae salutis causa)ということばを挿入させたので「私たちの救いのための真理」という限定された意味に取られる危険性があります。

言い換えると、
「天主がわたしたちの救いのために聖なる書に書きとめられることを望んだ真理」
という文章は、曖昧なので誤解を招く危険があるということです。

別の言葉で言うと、
「聖書に書かれた全ては真理であって、その全てが記録されたのは私たちの救いのためである」という意味の代わりに、
「天主が、聖書に記録されることを望んだのは、私たちの救いのための真理だけである」と読めるということです。

【報告】
アヴェ マリア インマクラータ!

トマス小野田神父様

1月の最初の御ミサのご報告をさせていただきます。
「イエズスは彼らとともに下りそしてナザレに来て彼らに従った」・・・レオ13世教皇様は カトリックの家庭のためにご公現の祝日の次の主日に聖家庭の祝日とお定めになられたとのこと、そのことが何を意味するのかをお話しくださった神父様のお説教を黙想してみました。

日本中のカトリック教会では 既に12月中に聖家族の祝日のミサを立てられたと思うのに、元々の聖伝において一月に入ってご公現の祝日の次の主日に置かれたということには、どのような意味があるのだろうかと思っていました。

神父様は 養父聖ヨゼフ(と御母聖マリア)に従って従順にナザレに隠れて住まわれたように、このミサの中で司祭の言葉に従って従順に祭壇の上に降りてこられるということが この聖家族の祝日の典礼の中に隠されている神秘であると教えてくださったように思います。すべての創り主である天主様ご自身でもあるイエズス様が 一人の司祭の言葉に従順に従われてこの被造物の世界である地上にきてくださる そしてわたしたちの中に来て私たちに従うというのがミサの現実なのだというお話に 驚きました。イエズス様の従順に感謝をしなければならないし、このミサがもっと大切にされなければと思いました。これまでたいして驚きも感謝もなく当たり前のように御ミサに与っていたことを反省しました。

また、私も従順ということの徳を大切にして実行に努めなければと思いました。イエズス様は司祭に囚われ人の如く従うものとなられ司祭のいうがままになるようになられるのです。そしてご聖体拝領によって私の中に来られてからはこの汚いところにおられるのです。神父様の「私たちに従おうと来られるイエズス様のお望みの通りになさってください。」との勧めを守り、イエズス様を無視するのではなく今イエズス様は何をのぞまれているのかをよく考えることが大切だとわかりました。またイエズス様のお住まいに少しでもふさわしいところであるように努めなければと思いました。

お説教のなかで イエズス様は地上のナザレの地に来られて聖家族と30年住まわれそれから天のエルサレムに戻られ今は聖家族は天のエルサレムに住まわれています、とお話しくださいました。それは、私もイエズス様・マリア様・ヨセフ様とともにこの地上で隠れた(霊的)生活をしたのち天国の聖家族のもとへ行くことができるという希望を持つことができるためでもあると知りました。その希望をもって イエズス様・マリア様・ヨセフ様に真剣にいつも祈ろうと思いました。聖家族の祝日の意味にそのような天国への道を進むための大切な秘訣が隠されていることを教えていただいて嬉しく思います。聖家族の祝日の御ミサは とても意味深いと思いました。

また私たちが 望むなら イエズス様はこのみすぼらしい霊魂の内にもおいでくださるとこの日もお話しくださいました。あまりにひどいみすぼらしさなので、ご聖体拝領の直前には汚れなきマリア様の御心に来ていただくよういつも願ってどうかそこへいらしてくださいとお願いするのが精いっぱいでしたが、クリスマスの御ミサでのご報告を大阪の方が「ヨセフ様にも来ていただいてご聖体拝領をいたします」と教えてくださいまして、神父様のお返事でもそのことをお勧めになられて、この聖家族の祝日のミサに示されていることと素晴らしくつながっているように感じられました。ありがとうございます。

そして イエズス様がお望みになられるような生活をすることをできますように日々お祈りしようと思います。 隠れて住まわれるイエズス様が聖家族の生活をまもってくだされたように私の家族もみなカトリックの家族としての生活ができますようにと お祈りをしようと思います。



それから、今日は前回に引き続き 小さなイエズス様のご像への接吻をさせて頂く行事がありました。今回は前と違うことを感じさせていただきました。それは次のようなことです。

以前 赤ちゃんのお姿で来られたのは私たちに愛されたいからですと 神父様がお説教の時にお話しくださいました時、ぴんと来なくて、イエズス様がどのようなお姿であろうと愛すべきお方であるはずだわと思いました。その(クリスマス)のときはご像に接吻しても何も特別な感じはしませんでした。それでしたので今回の御ミサの最後にもう一度 神父様が抱かれていらっしゃる赤ちゃんのイエズス様の御像の可愛らしい御指に接吻させていただいたときに、心の中で喜びを感じて少し驚きました。喜びが内から勝手に溢れて出て 喜びのために笑みで自分の表情が変化するのが自分でもはっきりわかり 不思議でした。神父様の腕の中に抱かれている赤ちゃんのイエズス様は 本当にご自分からは何もおできにならなくて、ご礼拝をするために私たちの方で近づいて行って腰をかがめ顔を近づける必要がありました。喜びをもって みんな一人ずつお捧げする礼拝をずっと眺めていました。

それからその夜になってからのことですが、就寝した私が 心身がすっかり静まり眠りに入れそうと思ったとたん、可愛らしい幼子のイエズス様が暗闇のなかで私の心の目にはっきりと浮かび出ていらっしゃいました。神父様に抱かれたイエズス様が 人間の霊魂をどれほど愛していることか 人間の霊魂によって愛されたいという思いがどれほど大きなものであるか 教えてくださいました。小さな無力な幼子のイエズス様から 計り知れない愛が伝わってまいったからです。ミサの中と神父さまの腕の中からイエズス様が伝えたかったのは 「神が人間に愛されたいとどれほど望んでいるかということだ」と 胸に迫ってまいりました。ちょうど読んでいた(霊的読書の)本には「霊魂に対する神の愛」がいったいどれほどの強さであるかということに触れていることも思い出されました。

神父様が、御父がどれほどの愛で私たちを愛してくださっているかとお話しくださったからかもしれません。私は神の愛が良くわかっていないと嘆いたからかもしれません。御父は私の声をお聴きくださり、無限の愛・広大な愛は目で見ることも感じることも悟ることもできないけれど、小さな可愛らしい幼児の愛は誰の目にも見えるように愛されることが容易なことだと実感させてくださったのでしょうか。



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