アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月25日(主)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。
今日は、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の聖なる夜です。皆さんに喜びをお伝え申し上げます。
ちょうど羊飼いたちが寝ずの番をしていて外にいた時に、天使の大群を見て、天使が救い主を告げたように、今日私たちは朝課を寝ずに歌って、この真夜中に天主様から送られた司祭の喜びの声を聞きます、「今日、救い主は私たちの中に生まれた。喜べ、天のいと高き所には天主に栄光あれ、地には善意の人に平和あれ」と。
羊飼いのような皆さんたちに、私たちの為にお生まれになった救い主の御降誕の神秘の黙想をする事を提案します。
公教会の習慣に従えば伝統に従えば、私たち司祭はこの日に3つのミサをする事ができます。この3つのミサは、3つのイエズス様の御降誕を記念して捧げられるものです。この真夜中のミサを1つ取るだけでも、それを詳しく見ると実は、イエズス様の3つの御降誕の神秘が深く入っています。
今日は、この今捧げているこのミサを黙想しながら、イエズス様の3つの御降誕について考えてみましょう。
この御降誕の3つの3重のイエズス様のお生まれについて黙想した後に、一体その核心は何なのか、一体私たちにとって何が重要なのか、
その核心の前にその一番のメッセージの前に、私たちはただただ、感謝と讃美と、私たちの為に生まれるイエズス様に愛を申し上げる決心を立てる事にしましょう。
今日のミサをよくご覧になると、入祭誦では、天主御父の言葉が私たちの耳に響きました。「主は言った、全能の天主御父はこう言った、『私はお前を今日、永遠の今日に於いて、お前を生んだ』。」
福音を見ると、マリア様はその「初子を生んで、そして布でくるんでおられた。」
天主としての、天主御父からの永遠に生まれる御子の誕生。そして肉に於ける、人間の本性に於ける御誕生の、この2つが語られます。
ちょうど集祷文では、「私たちが光を、今日この夜、天主の光によって照らされた。」「信仰の光によって照らされた私たちが、やはり永遠の栄光の光において、天主を喜ぶ事ができますように」と祈っていますけれども、このまさに信仰の光を以て私たちは、今日肉として生まれた人間として生まれたイエズス様が、真の天主の御子であると知り、そしてこれは遂に、私たちが天の栄光を受ける為の準備として与えられる、という事が語られます。
するとここに、3つの段階がある事にお気付きになると思います。
第1の生まれは、イエズス様が天主の御言葉が、永遠の天主御父の知恵として、天主の御言葉として、始めもなく終わりもなく、永遠に生まれ給うその神秘を語っています。
「イエズス様は、天主御父のその実体の栄光である、その輝きである」と聖パウロは言っていますけれども、今日羊飼いたちを照らした天使たちの輝きや、この教会を照らす色々な光も、天主様の輝く光と比べれば全く色褪せてしまいます。この世のどんな素晴らしい光も、天使たちの光でさえも、栄光の天主のうちにあるそのイエズス様の輝きにおいては、全く影のようなものです。この天主御父から生まれる真の光である、光からの光、天主よりの天主、真の天主よりの真の天主、イエズス・キリスト様の第1の誕生を、入祭誦で歌いました。そして書簡書と福音の間でも、この「天主としての御誕生」が語られます。
ちょうどそのサンドイッチになるように書簡と福音では、「イエズス様が人間としての御誕生である」という事を、「人間としてお生まれになった。この天主の御子が、救い主として私たちの為に人間としてお生まれになった。この今お生まれになった方は、今日お生まれになった方は、まさにこの栄光の御子である」という事を教会は言おうとしています。
聖パウロは実はこの事をよく知っていました。何故かという聖パウロはイエズス様を、イエズス様の神秘体を迫害していた者でした、その時は暗闇に留まっていた者でしたが、ある時ダマスコへの道の途中で、光に輝やかれたイエズス様を見て、「サウロ、何故お前は私を迫害するのか?」そして光を受けて、大回心をしました。そのパウロが、「イエズス様が肉として生まれた」という事を私たちに言っています。「このここに於いて、主の憐れみが私たちに現れた。天主の愛が私たちに現れた」と言います。
では一体、この2つの御誕生は一体、私たちとどんな関係があるのでしょうか?
それは第3の誕生にかかわっているのです。
第1の誕生は、光が創られる前の、この世の地上の光が創られる前の、天と地が創られる前の、創られない光が輝いた時のものでした。まだこの地上が光で輝かない、いわば天主の神秘における永遠の夜の間の誕生でした。
それと同じように、イエズス様が御誕生になった今日も、真夜中でした。イエズス様が実は贖いの業をなしたのも、十字架の上で確かに昼間でしたけれども、その時太陽は暗み、あたかも世界は夜のようになりました、暗闇が覆いました。イエズス様が天主が、イスラエルの人たちを旧約の時代にエジプトから脱出させた時も、やはり夜でした。御聖体を制定する時も、やはり夕方でした。イエズス様が御復活の時も、夜中まだ日が昇る前の事でした。
今日の夜、私たちの救いの為に、私たちの霊魂に於いてお生まれになろうとされています。
イエズス様の第3の御誕生というのは、3重の誕生というのは実は、天主御子としての誕生も、今、今日2000年前にお生まれになったこの誕生も、実は「私たちの霊魂に於いてお生まれになりたい」、その為のものでした。私たちの霊魂に於いて、天主御父が一体どのような方であるか、御子のみが知っています、その御父がどれほどの愛であるかという事を私たちに示す為に、この貧しい私たちの住まいに来ようと、お生まれになろうと、今日、来ようと、されました。
今日お生まれになった小さな赤ちゃん、イエズス・キリストは、本当の平和の王であります。マリア様が一生懸命準備されたであろうナザレトの家ではなくて、御摂理によって、貧しい動物たちの間にお生まれになったという事は、あたかもこの私たちのような貧しい霊魂でも、私たちの心にまぐさ桶として、今日生まれたいと思った、その謙遜な愛の現れではなくて何でしょうか。
ですから、聖福音の中で「肉としてお生まれになった」という事が語られたその後に、祭壇の上でイエズス様は私たちの為にパンとなって、あたかも“ベトレヘム「パンの家」”でお生まれなったように、祭壇の上にパンの姿でお現われになります。そして私たちの霊魂の中に御聖体拝領で来ようとされます。
教会はその時に、この歌をこの詩編を唱えさせます、「御身の聖なる者たちの輝きにおいて、私はお前を生んだ。この夜明けの星が昇る前に、お前を生んだ。」ちょうどこれは、御子が御父の中に永遠の昔からお生まれになると同時に、「実は今日この聖なる夜に、救いの贖いの夜において、永遠の昔からお前たちの事を考えていた。お前の事を考えていた。永遠の昔からお前の事を愛していた。永遠の昔からお前の事を心の中に思っていた、計画していた。そして永遠の昔からお前のことを創ろうと思っていた。そして永遠の昔から今日この夜、お前の霊魂の中にもう一度生まれようと思っていた。お前の霊魂をまぐさ桶として今日行く。聖なる輝きにおいて、夜明けの星が昇る前から既に私は、お前の事を心に於いて生んだ。今日私はお前の心の中に生まれる」と、教会は私たちの霊魂と重ねて歌っています。
私たちは天主の子供として生まれる事ができたという事を、洗礼の水を受けて、子供として養子となったという事を何と感謝しなければならないのでしょうか。天主は私たちの事をこれほども愛しておられます。目に見えない天主の愛が、今日目に見える形となって現われました。天主が、この全世界の創り主である天主が、私たちの為に幼子となって、まぐさ桶に於いてお生まれになっておられます。天主の愛が人となってお生まれになりました。この幼きイエズスを見ると、私たちはどうして天主を愛さずにいられるでしょうか。
どうぞ愛する兄弟の皆さん、どうぞイエズス様の方に近寄って来て下さい。是非来て下さい。イエズス様を礼拝致しましょう。イエズス様を抱きしめて下さい。イエズス様に愛の接吻を捧げて下さい。天主は私たちの事をこれほども愛しておられます。御一人子を下さるほどまで愛しておられます。天のいと高き所には栄光がありますように。私たちは天主の愛を信じました。
願わくは、私たちの信仰が天主の御助けによってますます深まりますように、増加しますように。天主の栄光の事を考えれば、私たちは本当に汚い、塵、芥、ごみのような、泥のような存在です。しかし私たちを愛するが為に、その泥となって、塵、芥の姿をとった、この奴隷の姿をとった天主に、私たちは感謝致しましょう。
今日、この人となった天主、私たちの為にお生まれになる天主、愛の天主、その証拠を突きつけられて、そして御聖体を拝領しながら、私たちの心に来られる天主イエズス・キリストの前に、私たちは心から感謝と、讃美と、愛で礼拝致しましょう。
マリア様にお願い致しましょう。マリア様が私たちの心を、マリア様の心を以てイエズス様を受け、イエズス様を愛し返す事ができるように助けて下さいますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月25日(主)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月25日(主日)主の御降誕 真夜中のミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。
今日は、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の聖なる夜です。皆さんに喜びをお伝え申し上げます。
ちょうど羊飼いたちが寝ずの番をしていて外にいた時に、天使の大群を見て、天使が救い主を告げたように、今日私たちは朝課を寝ずに歌って、この真夜中に天主様から送られた司祭の喜びの声を聞きます、「今日、救い主は私たちの中に生まれた。喜べ、天のいと高き所には天主に栄光あれ、地には善意の人に平和あれ」と。
羊飼いのような皆さんたちに、私たちの為にお生まれになった救い主の御降誕の神秘の黙想をする事を提案します。
公教会の習慣に従えば伝統に従えば、私たち司祭はこの日に3つのミサをする事ができます。この3つのミサは、3つのイエズス様の御降誕を記念して捧げられるものです。この真夜中のミサを1つ取るだけでも、それを詳しく見ると実は、イエズス様の3つの御降誕の神秘が深く入っています。
今日は、この今捧げているこのミサを黙想しながら、イエズス様の3つの御降誕について考えてみましょう。
この御降誕の3つの3重のイエズス様のお生まれについて黙想した後に、一体その核心は何なのか、一体私たちにとって何が重要なのか、
その核心の前にその一番のメッセージの前に、私たちはただただ、感謝と讃美と、私たちの為に生まれるイエズス様に愛を申し上げる決心を立てる事にしましょう。
今日のミサをよくご覧になると、入祭誦では、天主御父の言葉が私たちの耳に響きました。「主は言った、全能の天主御父はこう言った、『私はお前を今日、永遠の今日に於いて、お前を生んだ』。」
福音を見ると、マリア様はその「初子を生んで、そして布でくるんでおられた。」
天主としての、天主御父からの永遠に生まれる御子の誕生。そして肉に於ける、人間の本性に於ける御誕生の、この2つが語られます。
ちょうど集祷文では、「私たちが光を、今日この夜、天主の光によって照らされた。」「信仰の光によって照らされた私たちが、やはり永遠の栄光の光において、天主を喜ぶ事ができますように」と祈っていますけれども、このまさに信仰の光を以て私たちは、今日肉として生まれた人間として生まれたイエズス様が、真の天主の御子であると知り、そしてこれは遂に、私たちが天の栄光を受ける為の準備として与えられる、という事が語られます。
するとここに、3つの段階がある事にお気付きになると思います。
第1の生まれは、イエズス様が天主の御言葉が、永遠の天主御父の知恵として、天主の御言葉として、始めもなく終わりもなく、永遠に生まれ給うその神秘を語っています。
「イエズス様は、天主御父のその実体の栄光である、その輝きである」と聖パウロは言っていますけれども、今日羊飼いたちを照らした天使たちの輝きや、この教会を照らす色々な光も、天主様の輝く光と比べれば全く色褪せてしまいます。この世のどんな素晴らしい光も、天使たちの光でさえも、栄光の天主のうちにあるそのイエズス様の輝きにおいては、全く影のようなものです。この天主御父から生まれる真の光である、光からの光、天主よりの天主、真の天主よりの真の天主、イエズス・キリスト様の第1の誕生を、入祭誦で歌いました。そして書簡書と福音の間でも、この「天主としての御誕生」が語られます。
ちょうどそのサンドイッチになるように書簡と福音では、「イエズス様が人間としての御誕生である」という事を、「人間としてお生まれになった。この天主の御子が、救い主として私たちの為に人間としてお生まれになった。この今お生まれになった方は、今日お生まれになった方は、まさにこの栄光の御子である」という事を教会は言おうとしています。
聖パウロは実はこの事をよく知っていました。何故かという聖パウロはイエズス様を、イエズス様の神秘体を迫害していた者でした、その時は暗闇に留まっていた者でしたが、ある時ダマスコへの道の途中で、光に輝やかれたイエズス様を見て、「サウロ、何故お前は私を迫害するのか?」そして光を受けて、大回心をしました。そのパウロが、「イエズス様が肉として生まれた」という事を私たちに言っています。「このここに於いて、主の憐れみが私たちに現れた。天主の愛が私たちに現れた」と言います。
では一体、この2つの御誕生は一体、私たちとどんな関係があるのでしょうか?
それは第3の誕生にかかわっているのです。
第1の誕生は、光が創られる前の、この世の地上の光が創られる前の、天と地が創られる前の、創られない光が輝いた時のものでした。まだこの地上が光で輝かない、いわば天主の神秘における永遠の夜の間の誕生でした。
それと同じように、イエズス様が御誕生になった今日も、真夜中でした。イエズス様が実は贖いの業をなしたのも、十字架の上で確かに昼間でしたけれども、その時太陽は暗み、あたかも世界は夜のようになりました、暗闇が覆いました。イエズス様が天主が、イスラエルの人たちを旧約の時代にエジプトから脱出させた時も、やはり夜でした。御聖体を制定する時も、やはり夕方でした。イエズス様が御復活の時も、夜中まだ日が昇る前の事でした。
今日の夜、私たちの救いの為に、私たちの霊魂に於いてお生まれになろうとされています。
イエズス様の第3の御誕生というのは、3重の誕生というのは実は、天主御子としての誕生も、今、今日2000年前にお生まれになったこの誕生も、実は「私たちの霊魂に於いてお生まれになりたい」、その為のものでした。私たちの霊魂に於いて、天主御父が一体どのような方であるか、御子のみが知っています、その御父がどれほどの愛であるかという事を私たちに示す為に、この貧しい私たちの住まいに来ようと、お生まれになろうと、今日、来ようと、されました。
今日お生まれになった小さな赤ちゃん、イエズス・キリストは、本当の平和の王であります。マリア様が一生懸命準備されたであろうナザレトの家ではなくて、御摂理によって、貧しい動物たちの間にお生まれになったという事は、あたかもこの私たちのような貧しい霊魂でも、私たちの心にまぐさ桶として、今日生まれたいと思った、その謙遜な愛の現れではなくて何でしょうか。
ですから、聖福音の中で「肉としてお生まれになった」という事が語られたその後に、祭壇の上でイエズス様は私たちの為にパンとなって、あたかも“ベトレヘム「パンの家」”でお生まれなったように、祭壇の上にパンの姿でお現われになります。そして私たちの霊魂の中に御聖体拝領で来ようとされます。
教会はその時に、この歌をこの詩編を唱えさせます、「御身の聖なる者たちの輝きにおいて、私はお前を生んだ。この夜明けの星が昇る前に、お前を生んだ。」ちょうどこれは、御子が御父の中に永遠の昔からお生まれになると同時に、「実は今日この聖なる夜に、救いの贖いの夜において、永遠の昔からお前たちの事を考えていた。お前の事を考えていた。永遠の昔からお前の事を愛していた。永遠の昔からお前の事を心の中に思っていた、計画していた。そして永遠の昔からお前のことを創ろうと思っていた。そして永遠の昔から今日この夜、お前の霊魂の中にもう一度生まれようと思っていた。お前の霊魂をまぐさ桶として今日行く。聖なる輝きにおいて、夜明けの星が昇る前から既に私は、お前の事を心に於いて生んだ。今日私はお前の心の中に生まれる」と、教会は私たちの霊魂と重ねて歌っています。
私たちは天主の子供として生まれる事ができたという事を、洗礼の水を受けて、子供として養子となったという事を何と感謝しなければならないのでしょうか。天主は私たちの事をこれほども愛しておられます。目に見えない天主の愛が、今日目に見える形となって現われました。天主が、この全世界の創り主である天主が、私たちの為に幼子となって、まぐさ桶に於いてお生まれになっておられます。天主の愛が人となってお生まれになりました。この幼きイエズスを見ると、私たちはどうして天主を愛さずにいられるでしょうか。
どうぞ愛する兄弟の皆さん、どうぞイエズス様の方に近寄って来て下さい。是非来て下さい。イエズス様を礼拝致しましょう。イエズス様を抱きしめて下さい。イエズス様に愛の接吻を捧げて下さい。天主は私たちの事をこれほども愛しておられます。御一人子を下さるほどまで愛しておられます。天のいと高き所には栄光がありますように。私たちは天主の愛を信じました。
願わくは、私たちの信仰が天主の御助けによってますます深まりますように、増加しますように。天主の栄光の事を考えれば、私たちは本当に汚い、塵、芥、ごみのような、泥のような存在です。しかし私たちを愛するが為に、その泥となって、塵、芥の姿をとった、この奴隷の姿をとった天主に、私たちは感謝致しましょう。
今日、この人となった天主、私たちの為にお生まれになる天主、愛の天主、その証拠を突きつけられて、そして御聖体を拝領しながら、私たちの心に来られる天主イエズス・キリストの前に、私たちは心から感謝と、讃美と、愛で礼拝致しましょう。
マリア様にお願い致しましょう。マリア様が私たちの心を、マリア様の心を以てイエズス様を受け、イエズス様を愛し返す事ができるように助けて下さいますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。