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秋田巡礼-霊的講話【10】-2016年5月7日シュテーリン神父様「あわれみの御母の御業(聖母への祈りと、聖母との一致の望み)」

2017年05月13日 | お説教・霊的講話
2016年5月7日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話10
「あわれみの御母の御業(聖母への祈りと、聖母との一致の望み)」

同時通訳:小野田圭志神父


今朝は非常に難しい任務が任されています、皆さんを眠らせないという、起こしておくという(^^;)。皆さんが聖ペトロの黙想に入ったとしても、それは恐れません。Zzzと始めないで下さい(^^;)。

天主の憐れみの御母はその御心に、私たちの為に与える準備ができている多くの宝を持って待っておられる、という事を黙想しました。

私たちの中に天主様の特別の賜物、光と命の全てのお恵みを注ぐ為に準備が必要で、その前にマリア様は掃除と洗濯の仕事をされます。私たちの目の前には、たとえ私たちがどれほど汚くて、もうどれほどもう絶望的なほど汚れていても、決してがっかり落胆せずに、そのチャーミングに私たちをきれいにして下さる母がいます。この忍耐深いマリア様は私たちをますますきれいにして、ますます戦いの準備をするように準備して下さいます。私は何の恵みを持っていないにもかかわらず、マリア様は全ての恵みを持って、その恵みから私に下さろう下さろうとしておられます。

私がする本当に僅かな些細な事でも、マリア様はそれを、「あぁ、よくやったね!」と評価してくれて、それを大切に思って下さいます。

射祷というのは一体何でしょうか?全く無に等しい祈りです、「マリア様、お母様」と言うのは一体どれほどの価値があるとでも言うのでしょうか、無のように思えます。「イエズス、マリア、ヨゼフ、我御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」これは一体どれほどの価値があるでしょうか。でもマリア様は、たったそれを一言云っただけでもたくさんのお恵みを私たちに与えて、霊魂を回心させ、そして聖人にさせます。「霊的戦い」というのは恐るべきもの、非常に難しいもののように思えますけれども、このようなやり方で非常に簡単になります。

見て下さい、この多くの悪魔の大群が私たちの方にやって来て、こう私たちを押し潰そうとして、ものすごい軍隊を以て来て「ウオォーッ!」とやって来るのを見ると、私はそれを見ると、「あぁ、もうだめだ!もうこれでやられてしまう、助けて欲しい!」となってしまうではないでしょうか。

よくカトリックの信者さんたちはこう自分で勝手に想像して、悪魔たちがこう恐ろしい形相をして立っている所を、「私は悪魔払いだ!あぁ、悪魔払いだ!」と言って戦おうとしているのを想像します。でも悪魔と遊ぶのは大変危険です。

ある人は特別なカギ括弧付きの「霊性」を持っていて、いつも悪魔払いの祈りをしては、またしては、祈りをしては、またしては、という人もいます。このような人たちはどこにでも悪魔の姿を見て、そしてちょっとでも誘惑があると、「あぁ、悪魔が人となってやって来た!」と思い込んでしまいます。これは間違った霊性です。もちろん悪魔は存在しますし、それは恐ろしい霊の敵です。しかし間違っているのは、「私」の力で「私」のやり方で「私」がこの悪魔を打ちのめすのではないのです。

もしもこの悪魔がいつも自分の事を考え、もしも私たちがいつも悪魔の事を考えているとしたら、悪魔はその事を喜ぶでしょう。いつもこの「悪魔と対峙しよう、対峙しよう」と思っていたとしたら、喜ぶでしょう。

このようなカトリックにとっては、悪魔は右に、悪魔は左に、悪魔は前に、悪魔は後ろに、悪魔は上に、悪魔は下に、悪魔は中に、とどこにも見ています。そのような人たちにとってカトリック生活とは、悪魔はあそこ、悪魔は下、悪魔は左、とくるくる回るものです。悪魔はその時喜びます。何故かというと、このような人を打ち負かすのは非常に簡単だからです。本当にそのような人には悪魔は攻撃を仕掛けます。

もしも皆さんが、「自分」の力と「自分」の祈りと「自分」の霊性においてその悪魔と戦ってやろうと思えば、悪魔は「あぁ」、赤子の手をひねるようにコロッと倒してしまいます。

もしもこの危険だけを見ているとしたら、私たちは本当に恐れなければなりません。何故かというと、私たちには原罪の傷を負っているので、一人ではとても誘惑に打ち勝つ事ができないからです。

私たちの子供、青年、青少年は、ポルノに囲まれています。そしていつもどんな時でも「大罪を犯すように」と招待が、招きが、どこでもあります。恐ろしい事です。どこに助けがあるでしょうか?「自分でこれらの全ての悪に戦っていて、俺は巨人のように戦う」のですか?それは無理です。

しかしマリア様は、この悪魔の頭を踏み砕きます。マリア様は、たとえものすごい悪魔の大群が私たちを誘惑して、私たちを罪で飲み込もうとしても、マリア様が一言云えば、それはあっという間に消えてしまいます、「出て行け!」

私たちはたった1つする事があります、これだけで良いのです、「マリア様と一緒にいる事」です。もしも皆さんがこの世俗の、この不潔な、不純の、この罪に交じれた外界に居る時に、或いは大学で勉強する時に、或いはそのような人たちと交わる時に、マリア様と常に居なければなりません。「私の汚れなき御心があなたの避難所となるでしょう。」

「避難所」というのは、「絶対安全な所」であって、「どんな危険も無い」という事です。子供がお母さんに言うように、本当に小さな呼び掛けを、「お母さん」と言うだけで、マリア様はいつでもどこでも、常に、絶えざる御助けを私たちに下さいます、「絶えざる御助けの聖母」です。

昨日私たちは黙想しました、もう、もうこれで罪の中にドロドロと染まってしまって、もうこれで誰も助けてくれないで、もうどうしようもない、というような泥沼な状態でも、マリア様は助けて下さいます。

皆さんは戦いに負けました。悪魔は皆さんの心に深く剣を刺して、もうこの皆さんの命を奪ってしまいました。ちょうど皆さんはもう半死半生で、もう息絶えだえにもうドサリと地面の上に倒れて、もう生きるか死ぬかの所を、ちょうどイエズス様が通りかけ、良きサマリア人として通りかけるかのようです。そのような時には唯一つ、「お母さん!」と呼びかけるだけで大丈夫です。マリア様がワッと走って来て、皆さんを助けて下さいます。

そのマリア様がいらっしゃれば、そのたとえその最後の最後の瞬間でも、「駄目だ!」と悪魔に言う事ができるようになるので、その時に私たちは勝利を得る事ができます。常に私たちを襲って来る攻撃に対して、マリア様の現存だけ、マリア様と一緒にいるという事だけが、いつも常なる勝利を与える事ができます。

マリア様のご謙遜だけが、天主様の憐れみの全てを引き寄せました。そして皆さんのご謙遜がマリア様の憐れみを引き寄せます。皆さんの持っている謙遜というのは、私一人の為です、私だけではどうしても勝てません。「でもマリア様、あなたが一緒にいらっしゃるならば勝てます。マリア様、助けて下さい。」

でもマリア様はもっと下さいます。ただ単に戦いを遂行する力だけではありません。良き母というのは、ただ子供の服が汚れたからきれにするだけではありません。皆さん考えて下さい。皆さんはもう泥のドロドロの汚れた臭い服を着て、もう服には穴だらけでもうボロボロで、そういう姿でマリア様の所にやって来て、「お母さん」と来るのです。するとマリア様はそれをきれいに直してくれて 、きれいに仕上げてくれて、もう良い匂いでいっぱいにしてくれます。

でもそしたら皆さんは何と言いますか?「お母さん、ありがとう。でもお腹減った。」で、マリア様は「何ですって?お前の為に一生懸命洗濯してやったんだよ、何?それで十分じゃないの?まだお腹も減ってるの?何か食べるの?」もちろんお母さんというのは洗うだけではなくて、ご飯も作りますし、養いますし、勉強も教えますし、教育も与えますし、ちゃんと躾る、これが良きお母さんです。

良きお母さんというのは皆さんご存知の通り、「自分の心に持っている全ての良いものを、全て子供に与えたい。」これが良きお母さんです。マリア様は御心にある最も良いもの、つまり信仰と、希望と、永遠の愛を、皆さんに分かち与えたいと思っています。マリア様がちょうど天主様の御前でそうやって行動されているように、そして隣人に対してそうやって対応するように、それと同じ事を私たちがするようにと教育したいと思っています。

マリア様は天主様の御前でどうだったのでしょうか?そして私たちは天主様の前でどうあるべきでしょうか? これは、「天主様が下さった全ての憐れみに感謝して、そしてそれの恩を感じる」という事です。

他者については隣人たち対しては、イエズス様の仰ったように、「憐れみ深くあれ。」それは私たちが憐れみを受ける為であるからです。

ではマリア様に対する完全な奉献というのは何でしょうか?これは聖グリニョン・ド・モンフォールに従ったやり方ですけれども、もう皆さんなさったかもしれませんし、なさるかもしれません。

私たちは天主へと戻らなければなりません。もしもそれが戻らなければ、地獄に行くという事です。天主の元に戻るには、この短い人生しか残ってありません。毎日善徳を実践しなければなりません。毎日全ての心を尽くし、全ての霊魂を尽くし、全ての力を尽くして天主を愛さなければなりません。そして隣人を我が身の如く愛さなければなりません。毎日、私たちは誘惑に対して打ち勝たなければなりません。

しかし地獄への道は広く、誰もが通って、そして誰もが簡単に行く事ができます。しかし天国に行く道は狭く、険しく、そして斜面で上に登らなければなりません、最高の高さまで登らなければなりません。

私の天主への道、戻る道は何と惨めである事でしょうか。どれほどたくさん私たちは天主様を愛した事でしょうか。私は1日時を過ごして、天主の事を考えただろうか?全く忘れてしまったのではないだろうか?そしてお祈りをする時に、天主様と接触してお祈りをする時に、もう退屈で、その天主の事など考えていない。神父様が天主様について御説教すると、いつも時計を見て、「なんだ長いなぁ」と思ってばかりいるのではないでしょうか。

私は洗礼の時に荘厳に天主様に約束して、「悪魔と、悪魔の業と、その栄華を全て捨てる!」と約束したにもかかわらず、悪魔が最初にちょっと誘惑しただけで、コロリと誘惑に負けて罪を犯してしまったではないでしょうか。この世の楽しみ、喜びは何と私たちの心に響いて、これが私たちを誘惑して、天主様の至聖なる宗教の事は退屈に思える事でしょうか。

多くの人はミサが終わる前にもう既に教会の外にいます。しかし映画館で、映画の終わりの前に映画館の外にいる人は一人もいません。大ごちそうの前できれいな食卓では、最後のおいしいデザートが来る前に外に行く人がどこにいますか。それを見ると、私たちはどれほど惨めで、助けを必要としているかが分かります。

これが毎日、いつも、毎瞬間、インマクラータ無原罪のマリア様が私たちに下さるお恵みです。私たちが行くべきゴール、目的地というのはどれほど美しい所かをマリア様はよく知っているのです。この地上での生活は何と馬鹿ばかしくて何と短いものでしょうか、今朝黙想した通り。マリア様はこう仰っています、こう考えています、「あぁ、私の胸にはイエズス・キリストが、そして至聖なる三位一体が、最も大切なものがある。これを是非伝えたい、与えたい。」

マリア様はこの事を私たちに理解してもらいたいと思っています。つまり、「イエズス様の為にした小さな努力、小さな犠牲、小さな仕事は、私たちの永久の永遠のものすごい冠となって、報いとなって与えられる」と「準備しているものである」という事を。

皆さんはいつも一人ぼっちだと思っているので、本当に悲しくて、寂しくて、苦しんでいます。昨日の子供の女の子のようです。でもマリア様は皆さんにこうやって教えています 、「あなたは一人ではないのですよ。あなたの守護の天使はいつも一緒にいるのですよ。守護の聖人もちゃんといますよ。あなたの周りにいつもあなたの事を愛している天使たちと聖人たちがいつもいるのですよ。霊的には私がいつもこのあなたの事をじっと見守っていて、愛の目で見守って、いつも一緒にいますよ。」言い換えると、マリア様は私たちの信仰を、単なる死んだ文字ではなく、生きた、生き生きとした信仰へと導いてくれるのです。

私たちは皆口では心ではこう言います、「Credo in unum Deum…」などと。でも頻繁にこれは単なる理論であって、文字だけであって、口先だけです。このクレドを歌い終わってお祈りを終わって外に行くと、あたかも天主を信じていないかのように、信仰が止まってしまったかのように、存在し終えたかのように生活しているのではないでしょうか。

私はあたかも異教徒のように生活しています。イエズス様は私の胸にいるのですけれども、私はイエズス様をもう全く忘れてしまって、全く打ち捨ててしまって、もうほっぽらかしてしまって、私の隣人たち、救わなければならない霊魂たち、ただその霊魂を、「救わなければならないその隣人」ではなくて、「私の邪魔だ」「何かこのうるさい」と「出て行け」としか考えていないのです。

私たちは病気や苦しみや、困難に囲まれている、その辛い、ダメだ、という事しか見ていません。私たちはそうして押し潰されてしまっています。でももしも私たちに少しでも信仰があれば、「あぁ主よ、これを御身を愛するが為に、この十字架を担います」と言う事ができるようになります。「この痛み、これで霊魂を救う事ができます。あぁ、やった!」と。もしもそうでなければいつも、「あぁ、もう本当嫌だ嫌だ嫌だ!」もう顔もギーッとやって、もう腐ったトマトや腐った卵のように、「もうどうしようもない」という顔をしています。

でもマリア様と共にいればいるほど、私たちにマリア様は生ける信仰を与えてくれます。そうすると私たちの愛が成長する事ができるようになります。私たちは真理を生きる事になりますし、私たちの命の意味を生きる事になります。

ファチマで仰ったように、こういうやり方によってマリア様は私たちを天国まで導いて下さいます。私たちはこうカリスのように口を大きくますます開けて、マリア様からの恵みをたくさん受けるようにすればするほど、マリア様は私たちに洪水を、光と喜びと恵みの洪水を与えて下さいます。

もしも私たちが天主の光の生ける水によって満たされたいと思うならば、マリア様に倣わなければなりません。

まず第1に、マリア様に祈って下さい。

お祈りといっても、長い長い長い長いお祈りというよりは、もっと生ける愛に満ちた、「マリア様、お母様、愛しています。助けて下さい。マリア様、憐れみ給え」という祈りです。

でも今からはそれよりももう一歩進んで下さい。マリア様に倣って下さい、マリア様の真似をして下さい。子供はお母さんの事を色々真似します。お母さんが砂糖と塩を入れてかき混ぜると、子供も砂糖と塩を入れてかき混ぜます。マリア様がなさっている事を見て、そして子供もそれをします。そのお恵みを受ける為にはまず祈らなければなりません。

皆さんには皆さんの祈りのスタイルがあると思います。多くの人々は、長い多くのお祈りをすればするほど良いのだ、というスタイルを持っています。「神父様、昨日はロザリオを27環やりました。」多くの場合、人々はその量に数量に関心を持ちます。そして大きな声でお祈りすればするほど、そして自分をたくさん表現すれば表現するほど良い祈りだと考えています。でもマリア様を真似する祈りが一番だ、という事を考えて下さい。

マリア様の祈りとは、マリア様と天主との関係の祈りでした。聖アウグスティヌスによる祈りの定義は、「祈りというのは、心を上にあげる事」です。祈りというのは口先だけでの事ではありません、態度です。これがマリア様の全生涯における態度でした。ですからイエズス様は、「常に祈れ」と言ったのです。それは口先だけで24時間祈れという事ではありません。マリア様のやり方のお祈りを真似すれば、私たちにも全ての恵みがマリア様に与えられたように与えられます。

でもマリア様のお祈りというのは、私が普通やるようなお祈りではありません。でも私たちはよく、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。マリア様、私はあれが必要で、これが欲しくて、あれもやって下さい、あれは絶対にやって下さい、あれも欲しくて、あれは本当に必要です」とお祈りします。マリア様はお祈りする時に、礼拝から始まります。礼拝というのは、天主をその三位一体においてその御稜威において礼拝する事です。天主の前で時を得て、時間を使って、その天主の御稜威を見て、そしてそれを、それに感嘆してそれを賛美する。一言言葉を口を開く前に、まず跪いて霊的に跪いて、その例えば御影などを見て、そのそれをよく眺めて下さい。「その天主様は、天主の御稜威の絶対の王であるにもかかわらず、このような小さな赤子となって私たちの為に、また私の為に人間となって苦しまれた」などという事をよく見て考えて下さい。この時間をとる事ができれば、恵みがたくさん与えられます。

マリア様は何と仰るでしょうか。マリア様は3つの言葉を、有名な言葉を言っただけです。マリア様はいつも、天使に対して答えたのと同じ事をいつも繰り返し繰り返し繰り返し祈っていました。それは3つの言葉で、「見よ、我ここにあり。」「仰せの如く我になれかし。」それから「我が霊魂は主を崇め奉る。」


次にはマリア様は、「天主と1つになりたい、一致したい」という特別の渇きです。

マリア様の御心にあるものは全て皆さんに与えたいと思っています。マリア様は、イエズス様の心と皆さんがいつも一致している事を望んでいます。そして聖心からの多くの恵みを受ける事を望んでいます。イエズス様の聖心は私たちに大きく開かれています。ですからマリア様は、このイエズス様の聖心へと私たちをずっと連れて行って連れて行って、ここまで導きたいのです。そしてイエズス様とは一体何なのか、誰なのか、聖心とは一体何なのかを教えたいと思っています。

ご覧下さい、天主の憐れみを受けたいと思うならば、マリア様と共にいつも一緒にいなければなりません。言うのは簡単です。雑念があまり無い限り、マリア様と一緒にいるのはロザリオの時などは簡単です。第5玄義を唱えながら、「えっと、一体自分は何をやっていたんだろうか」と思う事があるもしれません、雑念の為に。お祈りをする時は簡単かもしれませんが、皆さんの全生活、日常生活においてもマリア様と一緒にいて下さい。例えばお休みの時にも、或いは台所で料理をしている時にも、或いは特にコンピュータースクリーンの前で。特に皆さんの最も大切な道具をおもちゃを手の中に入れている時には、そのマリア様と特に一緒にいて下さい、そのおもちゃは「携帯」と言われています。携帯やスマートフォンはマリア様と共にだけ使って下さい。「What’s up!次のニュース!テキスト、テキスト、テキスト、送信。」例えばスマートフォンや携帯にマリア様の御影などをまずスクリーンに置いて、待ち受けに置いて、「あぁマリア様、マリア様がお望みの事、マリア様が仰りたいという事だけを書かせて下さい」と言って返事をして下さい。これは本当に簡単で単純で、誰でもできる事ですけれども、悪魔はこれができないように全てを尽くしてこれを妨害します。

この私たちの生活の中でマリア様が入る為に、悪魔が出て行かなければならないというのですけれども、悪魔はこうやって出て行こうとするのは望みません。しかしマリア様を必要とする、最も一番大切に必要とする時があります、時間があります。この時の為にいつも皆さんはお祈りしています。この人生において最も大切な時、最も大切な瞬間というのは2つあります。「今」、また「臨終の時」です。

「昨日」はもうどこかに行ってしまいました。「明日」はまだ来ていません。今、皆さんは寝ています。今、天主様を愛して、そして何か仕事をする事ができます。今、悪魔は皆さんを攻撃して、今やっている事を妨害しようとする事もできます。もしも悪魔が恐ろしい形相をやって恐ろしい武器を持って、「ワァァーッ!」とやって皆さんを攻撃しようとする時、「ストップ!明日来て下さい。」もしもそれができないならば、今、防ぐ事ができないならば、悪魔は皆さんをそのまま死へと追いやるでしょう。

そして死の「臨終の時」です。それも言っていいならば「今」の事です。死というのは個人的な審判の時です。誰もその日はその時は知りません。しかし善には報いを、私たちのした悪にはその罰を、裁き主は与えます。天主様は誰にでもチャンスを与えたいと思っています。イエズス様はマリア様に特別の力を与えて、マリア様が全ての霊魂一人ひとり各々に救いの為の恵みを与えるチャンスを、憐れみのチャンスを与えるのを御望みです。「我らの臨終の時、」これこそ最も大切な決定的な時です。皆さんが臨終の時に、その死の時にどこに立っているかによって、永遠が決まってしまうからです。教会はこう教えています、「この瞬間こそ、私たち誰もが恐れのあまり恐れおののかなければならない時である」と。

「私は死の瞬間、どうやって天主の前に立つ事ができるだろうか。一体誰が終わりまで忠実を守る事ができると保証する事ができるだろうか。私の全く目もつけてられないような弱さを忘れてしまっただろうか。悪魔はどれほど巧妙で、その私たちをいとも簡単に倒してしまう事ができるだろうか。多くの人々は突然死んでしまって、その死の準備をする間もなかった。私には一体何が起こるだろうか。」

天主は、憐れみの御母がその私の死の時には、最高の最大の憐れみの母となる事を望んでおられます。教会はいつも、私たちの死の瞬間におけるマリア様の特別の役割について教えています。教会はマリア様の事を、「天の門」と賛美します。「死せる者の希望」とか。ですから私たちの数かぞえきれないほど多くの生前に言ったこの「めでたし」は、この「今も臨終の時も祈り給え」と言うのです。「その時に御身の御胎内の御子イエズスを私たちに示して下さい」と。

もしもその時に、いつも常に生涯の間マリア様の子供であったならば、何と幸せでしょうか。マリア様はその時に特別のやり方でご自分の子供の方にやって来ます、そして助けます。そして私たちが想像していた以上に、思ったよりもはるかに効果的に私たちを助けてくるのですけれども、1つだけ条件があります。それは、「生涯、私たちがマリア様と共に一緒にいる事」です。だからこの特別のマリア様の御約束があります、「もしも私たちが忠実に茶色のスカプラリオをいつも身に付けているならば、マリア様は地獄の火から私たちを守って下さる」と。初土曜日の、今日は初土曜日ですけれども、そのマリア様の1つの約束はこれです、「私は救霊の為に全ての必要なお恵みを持って、臨終の時にあなたの傍にいます」と。

皆さんと私の死がどのようなものか、今からちょっと言います。どのように、そしていつ、どこで、という事は言いませんが、この事については天主様だけが知っています。でも本質的にはこの事が分かります、まず「死の苦悩」です。これは皆さんが今まで経験した事がない、また最悪の、最も耐える事ができないと思われるほどの苦悩が死の時にやって来ます。たとえ外見的には平和に亡くなったという風に思われたとしても、霊魂の奥底では全く別の事が起こっています。悪魔はまさに、この死のその瞬間を待ちに待ち構えていたのです。

今悪魔はこの負けたとしても、それほど重要ではありません。もしも或る人が罪人が回心して、天主に回心して、そして20年間聖なる生活を送った、これは悪魔にとっては大きな打撃ではありません。ただ罪人がもしも死の瞬間、天主の方に立ち戻ってしまった、そうした時には悪魔は決定的な敗北が決まるので、それこそ恐れているのです。

悪魔はまず皆さんに、皆さんの犯した全ての罪を恐ろ恐ろしく目の前に見せて、そして皆さんのなさった最も下らない、つまらない、この馬鹿ばかしい事を見せて、「こんなお前は愚かな事をした。」そして私たちを絶望の淵へと導こうとします。悪魔は全て口を開いて、皆さんの霊魂をこの地獄の淵へと引きずり込もう、引きずり込もうと一生懸命戦いを挑みます。その最後のその死の瞬間には、皆さんのご両親、皆さんの大親友、皆さんの特別の親友、皆さんのもう無二の親友、皆さんのもう分かちがたい友達も、また友達と食べたおいしい料理も、そして皆さんが使った楽しい時も、何の役にも立ちません。

皆さんがもしもこの生きている間に、お金とか、銀行口座にいくら貯まっているかとか、或いは力のある有力な友人とか、或いは有力な親戚とか、或いはこう自分のやっているビジネスとか、何かそういう権力とか、力とか、そういう事に依り頼んだとしたら、死の瞬間全く用を成しません。

でも残念ながらカトリック信者でさえも、この世の物に依り頼んでいます。今カトリック信者がその死の老後の為に何をやっているか知っていますか?老後の生活の為にたくさんのお金を貯蓄して、それからたくさんの薬も溜め込んで、それから美しく肌をきれいにして、髪も染めて、そして力も名誉もためて、それで老後に備える、と。

それよりももっと大切なのは、今秋田でこの事を習うのですけれども、「マリア様の子供として常に留まっている。」これこそが最高の準備です。これは誰もそれを受けるに値する事ができない程の特別のお恵みを持って、マリアの子供にマリア様はやって来て、それを助けます。これが「堅忍の徳」です。堅忍の徳というのは、終わりまで耐え忍ぶ力であって、これはマリア様がイエズス様から勝ち取った特別の恵みです。

最後の瞬間悪魔が、皆さんは自分のものだ、「俺がもらう権利がある!」と言う時が来ます、「この子は1,570回大罪を犯した。小罪275,000回。生涯の間、天主の現存の前に現存に生きた、1時間。私の大罪の状態であった時間、23時間。この子は私のものだ。」その時には皆さんは、「それは嘘だ!間違っている!誤解だ!」と言う事はできません、それは本当です。

その最後の瞬間、どうぞマリア様の元に身を投げ出して下さい。「“Salve Regina”憐れみの御母、私の希望!」その時にマリア様は、私たちがそう言ったその瞬間、マリア様は悪魔に向かって、「出て行け!」と言います。

そして天主様はもっと素晴らしい真理をこの私たちに見せます。これは聖ベルナルドの言葉です、それは「天主様が私たちに何を、どのようなものであれ与えようとするならば、必ずマリア様を通して全てを与える」という事です。その時こそが大勝利の時です。私の霊魂における最後の、決定的に悪魔の頭が踏み砕かれる時です。永久に、この死にかけている子供たちの霊魂を救うのです。これが有名な言葉、「マリアの子は決して滅びない。」

「私たちの生涯の間、いつも、常に、マリア様の隣に、マリア様の傍にいるという事が大切か」という事です。この点について聖マキシミリアノ・コルベの奉献の祈りの最後の部分をお読み下さい、「あなたが入るところはどこでも、御身は回心とそして聖化のお恵みを勝ち取ります」と。「御身の手を通して、イエズス様の聖心の全ての恵みは私たちにやって来る」と。

では少し休息を入れます。皆さん、強い濃いコーヒーを飲んで下さい(*^^*)。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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