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秋田巡礼-霊的講話【12】-2016年5月7日シュテーリン神父様「あわれみの御母の御業(憐れみの道具の謙遜)」

2017年05月16日 | お説教・霊的講話
2016年5月7日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話12
「あわれみの御母の御業(憐れみの道具の謙遜)」

同時通訳:小野田圭志神父


マリア様の憐れみの激流の大河は霊魂たちに流れ込むのですけれども、それは道具を通して伝わります。マリア様の無限の光とお恵みの激流は、私たちが小さな射祷をマリア様の道具としてする時に、その射祷を通して流れます。

ここで特に、「憐れみ」と「謙遜」の2つの関連を見ます。

では一体、聖マキシミリアノ・コルベや幼きイエズスの聖テレジア、或いは小さなジャシンタちゃんが何でそれほどの効果を、それほどの活躍をしたのでしょうか?このような霊魂たちは特別の才能に恵まれていたわけではありません。この霊魂たちは私たちの生活と同じような、本当にもう謙遜な生活をしていました。彼らの霊魂を他の霊魂たちと区別したものは、そして彼らが効果的で有効なお恵みの運河となる事ができたのは、彼らの深い「謙遜」でした。

こうして連鎖反応を見ます。全てのお恵みがイエズス様から来ます。イエズス様の天主様の無限のお恵み、その愛とその宝を、無である私たちに与えるのです。そしてこのお恵みを全て受け取るのは、「自分が全く無であり、無であり、無であり、何でもない」という事をよく知っていたその霊魂です。自分を無とした、空っぽにした霊魂です。

この霊魂がマリア様で、憐れみの御母となる霊魂でした。最初は天主様だけが持っていたそのお恵みを、次にはマリア様がそれを全て受け取ります。マリア様はこの持っている宝物を、そのご自分の子供たち全てに与えたいと思っています。マリア様に自分を開いて、「それを受けたい」受ける準備ができればできるほど、それを受ける事ができます。その為には私たちの「無」である事を認識しなければなりません。私たち自身ではなく、マリア様の方に目を向けなければなりません。

その時、天主の憐れみが私たちの中に来ます。でも皆さんでは止まってしまいません。マリア様がイエズス様の御力によってそのお恵みを全てマリア様に与えて、そのお恵みを全て私たちに与えようとする時、マリア様は私たちを招いて「あぁ、子よ、これを受けて、そして他の人々にも伝えなさい」と言います。このこれが無原罪の聖母の騎士の役割です。しばらく前に皆さんが受けた回心の恵みを、他の方にも伝えるという役割です。簡単です。

ある時、トマス小野田君は東大でマリア様がいきなり突然、回心と聖化の恵みを与えてくれました。トマス小野田君は、「はい、受け入れます。」そしてその彼は受けたお恵みを他の人にも与えようとします。その時に素晴らしい大ママがいらっしゃいました。大ママは大きなお恵みを受けました。そしてそのお恵みは子供たちに与えられました。子供たちは孫に。

その連鎖反応が分かりますか?皆さんはこの連鎖反応の中間にいます。最初の原因はイエズス様です。第2の道具はマリア様です。それからこの鎖がずっと繋がって皆さんの所にやって来ました。皆さんからまた続かなければなりません。もしもこのお恵みがあれば、この全世界が別の見方から見る事ができます。

最初にこう言いました、「おぉ天主よ、全ての御業は憐れみと真理である」と。留まる事なく休む事なく中断する事なく、イエズス様の聖心から光と、愛と、そして憐れみが流れ出るのです。この滝のような流れは、1つの心にそれが流れ着きます。それが汚れなきマリア様の御心です。そのマリア様の御心が全世界に流れ出ます。ちょうど川のように、ちょうど川が止まる事がないように、流れ出るのです。

その流れがある日、皆さんの所に到着しました。でも皆さんの門は扉は閉ざされていました。ですからその中には入らずに横を通って行きます。でも、それでも水は流れに流れ、また流れて来ます。そして水はちょっと穴が開いているのが分かりました。そのちょっとした隙間からじわじわと中にスーッと入って来ます。そういうわけで、マリア様は小さな「牛」のような人に回心の恵みを与えました。或いは小さなトマス君。

世の終わりに最後の審判の時に、イエズス様の聖心から来る大きな津波のような大激流がこの霊魂に、もう回心しようと色々な所から入り込んでいるのを理解できるでしょう。

皆さんはローマ・カトリック信徒です。皆さんは聖なるローマ・カトリック教会の一員です。特に堅振の秘跡によって皆さんは、キリストの兵士となりました。洗礼を受けた時に皆さんは、天主様の全ての宝を受ける権利を受けました。堅振を受けた時にイエズス・キリスト様から、「他の霊魂たちも助ける」という特別の任務を受けました。

一人ひとり全てのカトリック信者は、「イエズス・キリストの御国の発展の為に働く」という義務を負っています。皆さんはこの世界を聖化して、回心させて聖化させるという義務の一部を負っています。もしもこれをしていないなら、死んだ体の一部です。たとえ全く死にきっていなかったとしても、怠惰な一部です。

王国に勤める王の軍隊の兵士の義務とは何でしょうか?その兵士がもしも王の軍隊の勝利の為に何も関心も持たないとしたら、どういう兵士でしょうか? エキュメニズムの現代の恐ろしさ、そのおどろおどろしさを見て下さい。

イエズス様はこの地上に、御自分の御国を立てる為に来ました。永遠の地獄から霊魂を救う為に来ました。無限の憐れみの洪水を、この霊魂たちに与える為に来ました。「唯一の天主、三位一体が在す」という1つの真理を教える為に来ました。そしてこの救いの為に必要な全ての真理を教える為に来ました。使徒たちを通して、公式の正式の厳格な命令を与えました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。そして三位一体の名によって洗礼を授けよ。そして天主の憐れみを授けよ」と。

2000年間の間、聖なる宣教者たち、司祭たち、或いは修道者たちは、或いは家族の家長、或いは母親がその言葉を聞いて、その多くの霊魂をその救いの道へと導きました。

長崎でそれを見ました。イエズス様の憐れみが日本に到達したというしるしです。そしてその福音がなされてその最初の世代に、100万人もの何十万人もの何百万人もの霊魂が殉教して、それが最初の実りです。「真の信仰と天主の憐れみを否定するよりは、むしろ死んだほうがマシだ」と。

現代は、「あなたはプロテスタントですか?おぉ、問題ありません。」「イスラムですか?あぁ、モハメッドは良い奴でした。」「仏教ですか?仏陀はちょっと太ってたけど、でも良い顔をしています。」

一体何でしょうか?

私はアジアで働いていますけれども、マキシミリアノ・コルベは多くの霊魂たちが、出来るだけ多くの霊魂が回心するように、カトリックに来るように一生懸命働いたけれども、今では、「何でもOK、 OK、OKだ」と言っています。一体何でしょうか?

50年の間、イエズス様の命令に従って、罪の暗闇、偽りの暗闇に居る人々を光の中に戻そうと一生懸命働く宣教師たちは、罰を受けています。そしてそのような司祭たちが小さな修道院で黙想会を開く事さえも禁止されています、「あの人たちは聖伝を守っている!」と。

イエズス様もマリア様も、「霊魂を救いたい、霊魂を救う為に助けて欲しい」と言っているにもかかわらず、この世の人たちは全ての色んなその他雑多の事に関心を持っているのですけれども、「霊魂を救って、イエズス様とマリア様の言う事の通りにする」という事だけは無関心です。50年間の間、「カトリック教会の最も大切な使命という事は何か」という事をカトリック教会の人々が何か知っていないのです。

フィリピンは、これはピオ十二世が言われたのですけれども、「ロザリオの王国だ。正しいカトリックの王国だ」と言われました。でもフィリピン、そのフィリピンでさえも今見る限り、プロテスタントとか、エホバの証人とか、モルモン教とかそういうようなセクトがたくさん今、働いています。

マリア様は泣いています。でも皆は、「OK、OK、」と言っています。ですから私たちは、マリア様やイエズス様の事を真剣に考えなければなりません。

また、マリア様の道具となって、マリア様の望みに従うという別の偉大な動機があります。この動機というのは、「天主様の命令」です。天主の掟によれば、「全てを尽くして、全ての霊魂を尽くし、天主を愛し、自分の如く隣人を愛せ」です。

イエズス様はこの点を強調します、「私はあなたたちに新しい掟を与える。私がお前たちを愛したように、お前たちは互いに愛し合え。」

ではイエズス様は私たちをどのように愛されたでしょうか?イエズス様は私たちのポケットをお金で満たすだけで愛したのですか?イエズス様はちょうど京都の人々がやっているように、この地上で面白おかしく過ごすという事だけをやったのですか?

愛徳、隣人への愛というのは、この隣人にキスをして、それで何か面白おかしい時を過ごす事ではありません。もしも皆さんが愛する母で、子供の事を本当に愛しているのならば、本当に子供の善を考えているのなら、子供の為に何を求めますか?それは、子供が本当に幸せである事を望みます、子供が幸せである事を望みます。もしも子供が幸せでなければ、お母さんも幸せではありません。

どの国でも、例えば新年とか何かの時には、「幸運を祈ります」とか「良い事がありますように」と祈ります。ポーランド語では「wszystkiego najlepszego」と言います。もしも誰かに、「全ての最高の善を祈ります」という事はどういう事でしょうか?

もしも幸せで喜びを求めるとしたら、永遠に、本当に幸せでありたいと思います。私には94歳の母がいます。でもその母の事を愛するのをやめる事はできません。ですからもしも誰かがですね 「3年と2ヶ月と24日愛します」とは言いません。愛というのはその限度を知りません。

ですからもし本当に良い事をベストを祈るならば、私たちは何かこの終わってしまうようなベストとか最高の良い事を祈るというのは有り得ません。しかしこの地上では全ての事に終わりがあります。これがイエズス様が仰った命令です、「私が愛したように、互いに愛し合え。」

イエズス様は私たちがその、かの幸せを得る為に全てをしました。もちろん私たちはイエズス様がなさったような十字架の死に至るまでの最高のいけにえを、犠牲を捧げる事はできません。しかしイエズス様がこう公式に、「私は新しい掟をお前たちに与える」と命令したなら、私たちはこの掟を守らなければなりません。これは私たちが永遠に、いつも、いつも、いつも幸せである為であって、地獄に落ちない為の掟です。このこれこそが隣人愛の本質です。

その他の事は、たとえば食べ物をあげるとか、宿を与えるとか、或いは教育するとか、或いはその他全ての事は、この「救霊」という最高の善に関わりがある限りにおいてのみ、価値があります。

では質問します。皆さんはこの意味において、本当に隣人を愛した事がありますか?イエズス様が愛したように、隣人を愛した事がありますか?これを言うのは本当に嫌ですけれども、しかし本当の事を言います。ほとんどのこの地上の人々に関して、私は全くそれについて無関心でした。

私たちの主イエズス・キリストは彼らの為に、十字架の上で亡くなりました。明日皆さんが飛行場で、或いは駅で見る全ての人、こう歩いている全ての人々の為にイエズス様は亡くなりました。マリア様はこの人々のお母さんで、その人々を救う事ができる全ての宝を自分の手に持っています。

では、私は?私にとってそのような人は全く関係がありません。存在しているとも思いません。ただ1、2、3人と数えるしかありません。或いは邪魔者でしかないかもしれません。ちょうどうるさい蚊のように。或いは怪物のように。もしも隣人愛のこの新しい掟を守らなければ、私たちは天国に行く事ができません。ではどうしたら良いのでしょうか?

ではもう1つ質問します。では何故天主様は皆さんに私たちに、この掟を与えたのでしょうか?なぜ皆さんはこの才能とか、この技術とか、この知識を、或いはこの事のお恵みを頂いたのでしょうか?

多くの人々はほとんどの人々は、そのように受けた才能を自分の快楽の為に、自分の利益の為だけに使っています。お金持ちになったり、良い地位に就いたり、それを利用してますます有名になったりする為だけです。多くの人々は自分の為だけにお金を稼ぎます。虚栄、それから傲慢、そしてちょっとした面白おかしい快楽。この為にだけに天主様は彼らに才能を与えたのでしょうか?

私たちはしばしばそれを天主様から受けたとさえも思いませんが、しかし実は全ては天主様は特別の意味があって、ある目的の為に与えたのです。

もちろん私たちが受けた才能は、私たちが生き延びる為に、生きる為に必要なものを得る為の収入の為にも与えられました。もしもお父さんで、一生懸命働いたその給料を全部小野田神父に与えないで下さい、そうしたら家族は食べていけません。天主様が私たちに才能を与えたのは、もっと高い目的の為です。それは私たちが、しばらくした後には腐ってしまうような実りではなくて果実ではなくて、永久に価値のある果実を実りをもたらす為です。

では私たちの人生で、本当に価値があって、非常にその永遠の価値があるのは何でしょうか?自分の面白おかしい事の為だけにやった事ではありません。映画を面白おかしく何時間も何時間も見たとしても、その後で何が残るでしょうか?何も残りません。もちろん時々、一生懸命働いた後には時々は、レクリエーションとか休みが必要です。リラックスをしなければなりません。はい、その時には笑ったり楽しんだりするという事が一番の良いレクリエーションです。

もちろんその為に健全な笑いを与える映画を見る事もできます。でもこのYouTubeのたくさんのビデオとかそういう動画は、私たちの為すべき一番の大切な時間を奪ってしまいます。天主様が私たちの為に、隣人の霊魂の救いの為に下さった時間を、それを盗んでしまう事になります。日々、何週間も、何ヶ月もの間、私たちはそれによって、天主の為にも隣人の霊魂の為にも何もする事ができない事があります。

私たちは恐れなければなりません、「私は自分の才能を乱用して、天主様から頂いた時間を盗んでしまった。私は天主の為に、或いは隣人の救いの為に時間を使うという事以外の全ての事をしていますが、これだけはしていません。」

では、「永久に続く価値のあるもの」というのは、人生において何でしょうか?

「私の永遠の救いと、隣人の永遠の救いの為にした事」だけが、永遠の価値を持っています。

私たちの周りにいる隣人たちの霊魂の永遠の救い、という事を考えた事がありますか?このホテルで働いて下さっている方々の霊魂の救いについてお祈りしましたか?ヨーロッパからポーランドからアジアに来る時に旅行した時に多くの人々を見ましたが、コルベ神父様の中にはただ1つ、「どうやったらこの霊魂をマリア様の方に連れて行く事ができるか」という事だけを考えていました。

少なくともこの隣人やこの家族のメンバーについては、愛しているといえるかもしれません。でも多くの場合、両親が子供たちにやっているいわゆるカギ括弧付きの「愛」というのは、彼らが欲しいと言うお菓子を与えたり、彼らが欲しいと言っているおもちゃを買ったりという事ですが、それは本当の愛ではありません。

私にその事がよく起こりました。私はよく飛行機に乗ります。時々マリア様は、「この空港にいる多くの人々の為にお祈りしなさい」と言ってくれます。このような良い考えが起こると本当に嬉しいです。

でもある時にはもう本当に疲れて、年を取った牛のようにボーっとして飛行場で何もせずにいます、グターッと。そしてその時に私の隣にいる人が大きな声でグーゴーと言うと、「何だこの人、うるさいなぁ」と思うだけです。

もしも人の事を「何だあの人は、傲慢な人だ」と思ったり、そしてこの何か本を読もうとすると、このいきなりアナウンスメントがあって「今から気流の悪い所を通過しますので、どうぞ安全ベルトをお締め下さい」と色んな言葉で翻訳もあって、その間うるさくてお祈りも本を読む事もできない。そしてその周りの人の、「うるさいなぁ」とか「邪魔だなぁ」という事だけを考えて、その霊魂の救霊については全く考えない時があります。

でもこれは最大の愛の掟で、これは天主様から、イエズス様から命じられた掟なのです。もしもこれを無視したらこれをしなかったら、聖人になる事はできません。もしもこれを実践しなければ、私は地獄に行ってしまいます。そこでこのような弱い私は、助けを求めなければなりません。何故ならこれを、何年も何年も同じ失敗を繰り返して、何も変わる事がないからです。

そこで無原罪の聖母の騎士会を発見しました。それでマリア様が私の所にやって来て、「隣人を愛する事がどうやったらできるか」という事を教えてくれました。マリア様は私に「信仰」と、そしてその「信仰の美しさ」、また「マリア様の美しさ」を、色々な事を教えてくれました、理解させてくれました。マリア様は私が「マリア様の道具になるように」と招いてくれました、それは私の隣人の救霊の為に。

もしも私が努力するなら、少しずつ隣人を見る目が、見方が変わってきます。ますますマリア様が見るような観点で見る事ができるようになります。マリア様は、「他の人たちを救いたいのだけれども、しかし滅びの道を今行きつつある霊魂」として映っているのが分かります。この彼らがやっているその相応しくない態度の為に、怒ったり、腹を立てたり、イライラしたりする代わりに、「あぁ、彼らの為にお祈りしよう」という風になります。

少しずつこの私の周りの世界が変わってきます。私が今戦場に居るという事が理解できます。私が軍隊に属しているという事が理解できます。実はこの軍隊は小さくて弱々しい軍隊だという事が。ところでその敵側には敵陣にはものすごい軍隊が居て、この小さなマリア様の軍隊をもう押し潰してしまおうとしているのが分かります。でも「この霊魂を獲得したい」と思います。

これが、無原罪の聖母の騎士がどうやって働くか、という事を示しています。マリア様が皆さんに望んでいるのは、運河となる事です。マリア様と霊魂を繋ぐ運河となる事です。ちょっとした努力をするなら、それだけでマリア様は特別のたくさんのお恵みをこの霊魂に働きかける事ができます。

では働き始めましょう。隣人を愛し始めましょう。皆さん銃をとって下さい、そして敵の敵陣の方に向かって下さい、「撃ち始め!」そしてこのお祈りの弾丸がババーッ!と敵を撃ちつけます、「イエズス・マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」これは贖宥が付いている祈りです。もちろんヨゼフを付ける事もできます。でももうちょっと短ければもっと弾丸が飛ぶでしょう。もしもマリア様に、「あぁマリア様、この人は髪が長くて、鼻が高くて、口がこうで、髭が生えていて、背がこうで」と色々描写して、「この霊魂を救って下さい」と言うと、ちょっと描写が多すぎます。

マリア様と霊魂の間の橋をかけなければなりません。どこでも、どのような状況でもです。台所でおいしい料理を作りながらでもできます。
「イエズス様、愛しています。」
「マリア様、霊魂を救って下さい。」
「御身は地の塩です。」
もしも皆さんがお仕事中であれば、或いは仕事から帰宅する時、或いは出勤の時に。

例えば運転しています。ブー!赤信号。「遅刻してしまう!何でこんな赤信号が長いんだ!何でこんな、遅刻!遅刻!」

運転しているといきなり誰かが脇から割り込んで来て、ブゥーン!「何だこのバカヤロー!」

ほんの15分運転する間に、ある人は30回も怒ります。そして怒って運転手はいろんな事をします。

でも運転して、赤信号で後ろでブー!ブー!ブー!ブー!と鳴っても、「イエズス・マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」そうすれば平和が心にいつも留まっています。でも怒れば怒るほど、皆さん年を取って病気になります。

もしも夜、不眠で寝る事ができないという時に、「あぁ、眠りたいのに眠れない!」と怒るかもしれません。

でも眠れないならこれを使って、「イエズス・マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え」とずっと唱える事ができるじゃないですか。100回言って下さい、夜の間に。100名の霊魂を救う事ができます。そしてまたその間に休む事ができます。100回いく前にもう眠りこけているかもしれません。何故かというと、本当は小さくないのですけれども、本当にこういう小さな事で私たちの人生を変える事ができるからです。

マキシミリアノ・コルベはですからこのような人々の「会」を作って「軍隊」として、いつも自分たちが軍隊に属している事を覚えているように、団体を組織しました。
ですから、「おい、あなた、お前兵士だぞ。兵士だ、頑張れ!」と励ましました。

この方々が明日、騎士になります。でもこのここで何をするでしょうか?このこれからどうやってするか、という具体的な例を与えたのです。

なぜ小野田神父はさっきお知らせを終わる事ができなかったのですか?
何故なら「黙想会に来なければいけません」と言いたかったからです。

或いは私は皆さんにこのニュースレターをEメールで送っていますけれども、何の目的なのでしょうか?私はその他に仕事がないので面白半分だけでそれをやっていると思いますか?目的があります。それは皆さんに、「皆さんがマリア様の騎士であって、道具であって、マリア様は皆さんの行動に、祈りに、それに期待している、それに全てが懸かっている」という事を思い出させる為です。それが皆さんの生活を変えます。

そうするとマリア様の目でこの世を見る事になります。今までやった事がない事を今から始めて、そして皆さんますます憐れみ深くなるでしょう。

何故ならば皆さんは、無限の天主の、無限の憐れみの道具となるからです。この道具によって霊魂たちは変わります。

「1つの霊魂を、永遠に救う」という事を考えて下さい。コルベ神父様はわざわざはるばる日本にやってきて、こう手紙を書いています、「もし日本に来て、たった1人でも日本の霊魂を救う事ができたら、それだけでもわざわざ日本に来た価値がある」と。第二次世界大戦の後のカトリック信者の3分の1は、コルベ神父様の影響下で回心しました。この長崎の小さなミッションセンターの家からの影響です。このコルベ神父様のブラザー、修道士たちは何をやったのでしょうか?私たちがやっている事と同じです。ただ、「マリア様が皆さんを待っていますよ」という事を言うだけでした。

もしも日本の方がカトリック信者になったら、「聖母の騎士になりませんか?」と招いたのです。これが私たちの使命です。

隣人愛の事を考えて下さい。私の為だけのいわば秘跡の機械、自動販売機で満足しないで下さい。多くのカトリック信者は、「カトリック信仰生活というのは、秘跡の自動販売機だ」と考えています、「他の霊魂が地獄に行こうが、それは彼らの問題だ。俺には自分のその秘跡を受けているから大丈夫だ。」でも、もしも隣人の事に気をかけないならば、たとえ自分だけが秘跡を受けていたとしても、その秘跡を受けたにもかかわらず、霊魂を失ってしまうかもしれません。

では皆さんは何をしなければならないでしょうか?

まず、「道具になりたい」と望まなければなりません。これは意志の問題です。

多くの人々は皆さんの内の多くはもうそう仰いました、そう発言しました。そしてある人々は明日そう言うでしょう、「おぉインマクラータよ、無原罪の聖母よ、我が母よ、我が元后よ。御身を通して、天主の全ての憐れみは私の元に来ました。私はあなたのものです。私の小さな手を取って下さい。御身なしに私は救霊ができません。更に御身がお望みなのですから、御身の御手における良き道具として下さい。私を使って下さい。御身に約束された事を思い出して下さい、『サタンの頭を踏み砕く。全世界の異端を打ち砕く。』最もひどい人々を回心に導いて下さい。すなわちユダヤ人、それからフリーメーソンなど。」

この奉献の祈りはいつでもどこでも唱える事ができます。頻繁に唱えて下さい。何故なら、「あぁ、これらはもう約束した事だから」と思い出すからです。この意思がまず第1に必要です。

もしも皆さんの中で、「修道会に入りたい」という女性の若い方がいらっしゃるかもしれません。そうしたら、「あぁ、もしかしたら行きたいかな~…」と思って、「行く!」という意思を持たなければ、行く事は絶対できません。

第2は、「隣人を、マリア様の目を通して見る」という事です。

「マリア様、私は御身の敵でした。御身の御子を殺してしまいました。でもイエズス様は私を愛して下さいました。御身は私を愛して下さいました。私が敵であったにもかかわらず。私の所から顔を背けませんでした。私の霊魂に染み通る事ができるまで、ずっと憐れみの水を注ぎ続けて下さいました。私の功徳、私の才能ではなく、御身の憐れみによって、ただ御身の憐れみによってのみ、私は今の私であります。少し前私がそうであったように、彼らは今そうです。罪人で、異端者で、異教徒です。御身は私の回心の為にあれほどまでに忍耐強く、それほどまでに優しかったのです。どうぞその同じ忍耐を彼らの為に使って下さい。御身は私の愛する母ですから、友の友は私の友です。ですから御身がなさっているように、私も彼らを愛したいと思います。御身が愛している人々を、私も愛したいと思います。御身が回心させたいと思っている人々を、私も回心させたいと思います。」

すると皆さんは彼らの為に何をしますか?その時にどれほどの価値が射祷にあるという事を分かりますか?

私がいつも言う例をもう1回挙げます。皆さんはお医者さんで、皆さんのおかげで人類の命を寿命を20年間引き延ばす薬を発見しました。皆さんは祖国の英雄です。皆さんの薬を「欲しい」と言って行列を作って買う人はもう終わりがありません。20年間も更に長生きできる薬を発見した、そんな物はかつて無かったのですから。

でも、「永遠の命の為に働く」という事が、どれほどの価値があるか分かりますか?もしもそれがなければ、ある人は恐ろしい地獄の火に焼かれて、恐ろしい拷問を受けながら、永久に終わりなく、いつまでも、いつまでも、いつまでも地獄の火に苦しまなければならない。そこを救う事ができる、その価値が分かりますか?

皆さんがほんのちょっとしたお祈りをこの霊魂の為になさると、それがマリア様と霊魂が繋がる橋となって、そのお祈りのおかげでこの霊魂の最後の最後の瞬間に、マリア様が回心のお恵みを与えるのです。その人生の最後の瞬間、最後の最後に、回心の痛悔の念を起こす事ができて、回心のお恵みを受ける事ができます。そのおかげで地獄の火を免れる事ができます。そして長い煉獄の後には、終わる事のない幸せが待っています。

もしも天国で、その方のお祈りのおかげで私が永遠に救われた、という方が天国でお目にかかるとしたら、その方に感謝して、永遠にその方に感謝して、感謝して、感謝し尽くす事でしょう。永遠にその人を自分よりも愛する事でしょう。皆さんのお祈りで、10人、或いは100人、或いは1000人、或いは1万人、或いは100万人の霊魂が救われたとしたら、この霊魂たちは最後の審判の時に立ち上がって、その皆さんの所に本当に感謝して拍手喝采をする事でしょう。

この地上で、永遠の救霊の為にしたというほど、永遠の感謝に値する行為はありません。この全ては、「イエズス・マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」このたった1つの射祷にかかっているのです。全ては憐れみです。

でも祈るだけでは十分ではありません。マリア様は子供たちを救いたいのですけれども、マリア様がその子供たちを救ったその最大の手段は、ご自分の「苦しみ」でした。イエズス様も、その苦しみを通して霊魂たちを救ったからです。もしもイエズス様とマリア様の使徒職が苦しむ事によってなされたのならば、イエズス様とマリア様の使徒も、騎士も、しもべも、やはり苦しみを避けて通る事はできません。でも苦しみというのは皆さんがいつも持っているものです。別にそれを作り上げる必要はありません。

最初の苦しみは、朝起きる時から始まります。朝起きる時のこの体の疲れとか、或いは病気、或いは毎日の屈辱や試練、或いは恐れ、1日の間に苦しまなければならない機会がたくさんあります。反乱を起こしたりとか、「何だ、この野郎!」と憤ったり、短気を起こしたり、或いは絶望したり、もう憂鬱になったりする代わりに、「こういう機会は、私の愛を示す最大の機会となる。」

皆さんは台所でおいしい料理を作っていますが、頭痛がします。
「あぁ、頭が痛い。頭痛が頭痛が…」
「うるさいなぁ!頭が痛いんだから!」
「頭が痛いから料理もできないし、もうこの世で一番惨めな者は私だ!頭が痛い、何もできない、もうだめだ!」
皆さんがこうやってサーカスをしている間に頭痛が消えてなくなると思いますか?いや、そのまま頭痛は残ります。ですから翌日も頭痛のまま朝起きる事になります。

でも、もしも騎士としたならば、「あぁ、頭痛がする。あぁ、でもイエズス様は茨の冠を被せられた。私の為にそう苦しまれた。頭痛がするけれども、イエズス様と一緒だ。御身に捧げます。捧げます。ですからこの頭痛がしたので嬉しいのです。お捧げする事ができるのです。イエズス様の苦しみとマリア様の苦しみの事を考える事ができるので、痛んで嬉しいのです。イエズス、この頭痛を捧げます、愛しています。イエズス様、大好きです。」
そしたら旦那さんがやって来て、「おぉ妻よ、お前今日は元気か!?」昔は、「うるさいなぁ!黙っていてよ、頭痛がするんだから!」と言っていたのに、でも、“あぁ、私の夫は今日は仕事があって、きっと仕事でたくさん仕事が色んな苦しい事があるだろう。”「大丈夫よ。」

たとえ皆さんが、「あぁ、頭痛がある!」と言って皆に知らせてもう涙を流したとしても、やっぱり頭痛はそのままあります。ですから、「大丈夫だ。何故ならば、この頭痛があっても心は大丈夫だから。」

もしも1つの祈りで霊魂を1つ救う事ができるなら、この苦しみをイエズス様に捧げる事によって、100の霊魂を救う事ができるでしょう。マリア様は、「祈り、犠牲を捧げなさい」と仰いました。聖コルベ神父様はいつも、「祈りと犠牲が、霊魂を救う為の非常に偉大な武器であって、勝利の武器である」と言います。

でも皆さんは霊魂の救いの為に隣人の為に、もっと自分の才能を使いたいと思っています。もしも自分の人生を霊魂の救いの為に使う事ができるというなら、その為に色んな事を考え付きます。「霊魂の為に特別な事をやりたい。」
例えばチラシを、「マリア様のチラシを皆に配りたい」とか。
或いは「不思議なメダイを皆に配る」とか。
或いは「知っている人にマリア様の事を話す」とか。
例えばクリスマスケーキをプレゼントする代わりに、「クリスマスケーキだけでなくて、マリア様の本も一緒にケーキと与える、一緒に付ける」とか。

もしも皆さんの中にお金がお持ちならば、皆さん知っていますか、聖伝の教会がどうやって建ったか。これは奇特な方々が、お金を持っている方が、聖ピオ十聖会に寄付して、それが建っているのです。

ですからそのマリア様の為に、何か利用する事ができます。ジェネラル・サントス・シティという町がフィリピンのミンダナオにありますが、そこには聖ピオ十世会の小さなチャペルがあって、60人ぐらいしか入る事ができませんでした。

無原罪の聖母の騎士が、ちょっとお金のある人が寄付をしました。フランスとドイツからです、寄付が来ました。今では800名が入る大きな教会が建てられました。今ではたくさんの霊魂が来る事ができます。今では霊性のセンターになっています。

皆さんがそれぞれの才能が与えられています。その才能を使って下さい、マリア様の為に使って下さい。マリア様にちょっとでも小指の先でも差し出せば、マリア様はそれを全て取って下さいます。

こうやって皆さんはこの巡礼で、「マリア様が憐れみの御母である」という事を黙想しました。今この最後のこのお話をしたのは、マリア様が「憐れみの御母」だというのは、ただ名前だけの美しいタイトル、称号だけに過ぎないというのではないからです。私の心の深くを触る現実であるからです。もしもこの事を真面目に受け取るならば、私の人生は変わります。

では終課を唱えます。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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