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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年12月2日(初土) 説教  「ダヴィドの竪琴が奏でるマニフィカト」

2018年03月02日 | お説教・霊的講話
2017年12月2日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年12月2日、初土曜日です。今日は同時に聖ヴィヴィアナというローマの殉教者の祝日でもあります。

このミサの後にいつもは公教要理がありますが、今日は特別に、明日は待降節の第1主日です、それで待降節に入るので、ベネディクト十六世教皇様の呼びかけによって世界中で始まった、「生まれようとする命を守る為の祈りの集いというのを開いてほしい」という呼びかけに従って、私たちもこのミサの直後に御聖体を顕示して、御聖体の前で、生まれようとするお母さんのお腹の中にいる赤ちゃんたちを守って下さるように、イエズス様にお願いしようと思っています。日本から子供を皆殺しにしようとする戦争が終わりますように、子供たちが安全に安心して生まれますように、命が尊重されますように、イエズス様に特にお願いしたいと思っています。そして多くの堕胎の罪の償いとして、このお祈りを捧げたいと思います。

大阪では特にたくさんのミサがこれから捧げられます。主日は来たる10日と17日と24日、主日には夕方に、そしてクリスマスには朝の10時からミサがあります。どうぞいらして下さい。そして10日からクリスマスの日までは毎日、この御聖堂で一応ほぼ夕方の18時からミサがあります。少しだけ土曜とか例外がありますが、ほぼそうなっております、どうぞいらしてください。

レネー神父様が新しく来年の2月付けで、学校の校長先生として任命されたので、その私たちの為にして下さった多くのお恵みを感謝する為に、霊的花束もお願いしています。どうぞたくさんのお祈りをお願いします。



「我が霊魂は主を崇め、我が精神は救い主なる主に喜び踊る。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂に初土曜日がやって来ました。初土は私たちにとってとても最も大切な日です、なぜかというと、5回の初土の信心をすれば、私たちの救霊が約束されているからです。

この今日は特に典礼暦の最後の日で、教会はこの前の主日に世の終わりを黙想させましたけれども、「まさにその時に、世の終わりには、今までなかったような艱難が来るだろう。しかしその時には選ばれた少数の人々のおかけで、もしかしたら選ばれた人さえも救われる事ができないような、もしもこのままいったら生き残る人がいないような難しい時期にも、選ばれた人のおかげで犠牲のおかげで、短くされる。ほんのちょっとで済む」とイエズス様が予言されています。

秋田のマリア様も、「もしもこの世に罪がこのまま続くならば、天主は恐ろしい罰を、恐ろしい時代をこの世に起こる事を許される。その時はノエの洪水の時代にもなかったようなもっと恐ろしいものが待っている。」マリア様は101回涙を流されて、私たちに訴えています。

でも少数の選ばれた霊魂たちのおかげで、この恐ろしい時代もほんの少しで許される事ができます。特にこの恐ろしい時代がたとえあったとしても、それがほんのちょっとで済む事ができるように、私たちは招かれています。特に聖母の汚れなき御心に対する信心をする事によって、その苦しい難しい時代をほんのちょっとで済む事ができるように致しましょう。そればかりでなく、私たちの救霊さえも保証されています。聖母の汚れなき御心の中に深く入る事に致しましょう。

聖ヨハネ・ユードは、「マリア様の御心はソロモンの神殿だ」と言います。もっと正確には、「ソロモンの神殿はマリア様の汚れなき御心の前兆である。本当のソロモンの神殿はマリア様だ。」

確かにイエズス様は御自分の事を、天主の神殿であって、「この神殿を壊してみろ。私は三日で建て直す」と言いました。

イエズス様こそまさにエルサレムの神殿でありますけれども、「そのイエズス様を御胎内に宿した、そのイエズス様の御言葉をいつも心に思い起こしていたマリア様の御心こそ、エルサレムのソロモンの神殿である」と。

あるいは聖ヨハネ・ユードは、「そのソロモンの神殿のその玉座は、王の玉座はまさにマリア様の御心である。天主の玉座、これこそがマリア様の御心である」と言っています。そこにおいて主が座られ、主が在し給うその玉座。

マリア様は100年前の6月に、同じような事を言いました、「もしも私の汚れなき御心に対する信心を行う者がいれば、その霊魂は救いを約束するのみならず、その霊魂は天主にとって非常に貴重なものとなって、大切なものとなって、私の手によって主の玉座に飾られる花のようになるだろう」と。

「主の玉座」というのは、聖ヨハネ・ユードによると、「マリア様の汚れなき御心である。」

聖ヨハネ・ユードは更に、「旧約時代にあったダヴィドの竪琴は、それを使って主を讃美したその竪琴、きれいな音を奏でた、そして病さえも癒したその竪琴、主を讃美する為に最高の音を、音色の調和の音を出したその竪琴こそが、マリア様の汚れなき御心の前兆である」と言います。「なぜかというと、マリア様は聖霊に満たされて、その竪琴の色々な金属の線が、それは全てマリア様の聖徳、聖なる徳を表している。ですからその徳が奏でられる時に、多くのすばらしい音をたてる。そしてマリア様が歌った、マリア様の奏でたその最高の歌がマニフィカトだ」と言います。

昨日も私たちはマニフィカトの、マリア様が聖霊に満たされて、「我が霊魂は主を崇め奉る」という事を黙想しましたけれども、まさにマリア様は天主様に感謝の祈りを、感謝の歌を歌いました。マリア様に与えられた全てのお恵みと、人類に与えられた全てのお恵みを感謝して、「我が霊魂は主を崇め奉る。主を偉大なものとする。」

人類に与えられた最高の恵みとは何なのでしょうか?私たちが今ここに存在しているという創造のお恵みもそうです。私たちがタダで頂いたこの命、健康もそうです。それと同時に更に、贖いのお恵みも頂きました。イエズス様が人となられたというお恵みも頂きました。そのお恵みを、特に御託身のお恵みをマリア様は讃美します、「我が霊魂は主を崇め奉る。」マリア様はこうやって私たちに贖いのお恵みを、天主が私たちに下さるお恵みをどうやっていつも感謝しなければならないか、という事を教えています。

残念ながらこの世には、感謝をする事を知らない人がたくさんいます、「主はこれをしてくれない、俺は一体何の悪い事したのか。」「こんなにお祈りをしているのに、こんなにやっているのに、何も聞いてくれない」と不平をだらだらと言う人々もいます、残念ながら。そして主に対して、主の全能を冒瀆したり、主のお恵みを感謝しないばかりか、せっかくのお恵みをも無にするような汚い言葉を使う人もいます。

それにひきかえマリア様は全てのお恵みを、喜びも、悲しみも、幸運も、不幸な辛い思いも、全て感謝致します。全て心から感謝します。マリア様はただ単に、自分の霊魂だけで感謝するのみならず、全人類を代表して、全ての心と合わせて、特にマリア様の汚れなき御心と一致した霊魂たちと合わせて感謝しています。私たちがマリア様の良き子供たちが受けた、そして全人類が受けた恵みをマリア様が代表して感謝しておられます。御摂理によって私たちが受ける全ての事を、マリア様が感謝して下さっております。

なぜかというと、こうする事によってマリア様は私たちをも、私たちも、マリア様と一緒に感謝をする事ができるようにされているからです、招いているからです。ですから私たちもマリア様と共に、このマニフィカトを、「我が霊魂は主を崇め奉る」という事をマリア様と共によく唱えなければなりません、感謝の祈りとして捧げなければなりません。

叙階式の時や、あるいは修道者の誓願式、あるいは何か教会のお祈りの時には、そのミサの時に最後に、あるいは堅信の秘跡の時にはよく最後に、ミサの最後にマニフィカトを歌います。なぜかというと、天主聖父は私たちにイエズス様をお与えになりました、イエズス様は私たちのものです。イエズス様を私たちのものにすると同時に、イエズス様と共に全てのものを私たちに下さいました。イエズス様の霊魂も、そして同時にイエズス様の霊魂と一致しているマリア様の霊魂も私たちに下さいました。ですからイエズス様とマリア様の名前によって私たちが、この同じマニフィカトを、最高の感謝の歌としてマニフィカトを歌う事ができるようになっているからです。

マリア様は言葉を続けて言います、「私の精神は、救い主である主によって喜び」マリア様の御心こそ、汚れなき御心こそ喜びに満ちあふれている、これほど喜びに満ちあふれている霊魂はありません。マリア様の汚れなき御心も、霊魂も、精神も、全てのマリア様の御人生全ての間に渡って、喜びに満ちあふれていました。想像も及ばないほどの、とてつもない大きな喜びに満ちあふれていました。特にマリア様が御告げを受けて、イエズス様をご胎内に宿された時のお喜びはどれほどだった事でしょうか。あるいは被昇天で、肉体も霊魂と共に天に上げられて、主とまみえるその喜びはどれほどだった事でしょうか。

この世の中には、この現世的な喜びであっても、我を忘れてしまうほど喜ぶという時があります。ある人は、自分の応援している日本のサッカーのチームがワールドカップで勝った、シュートをしたとしたら、とても喜んだ。あるいはある人は、どこかのコンサートに行って歌手と会った、握手した。ある人は、宝くじが当たったら、「あ!」思いがけない1等が当たった。私たちはそのような事があったらどれほど喜ぶ事でしょうか。あるいは喜びのあまり気を失ってしまったり、命を失ってしまう人もいるかもしれません。

マリア様の喜びは、これらの喜びをはるかに超える喜びでした。天主の御母、救い主をこの世にもたらす事ができるという喜びでした。もしかしたらイエズス様がご胎内にいてマリア様を助けて下さらなかったらならば、マリア様はその喜びのあまり、霊魂は天に上げられてしまっていたかもしれません。

アルスの聖ヴィアンネー神父様は、「司祭がもしもミサが何であるかをよく理解したら、喜びのあまりきっと司祭はそのまま死んでしまうだろう。」

マリア様の霊魂は喜びにあふれていました、「我が精神は救い主である主において喜ぶ、喜び踊る。」マリア様はただの喜びではなく、「救い主である天主において喜ぶ」と仰いました。

おそらくマリア様は、ご自分の汚れなき御宿りの神秘をご存知だったに違いありません。すでに救い主である天主は、マリア様を汚れなき者として、その最初の瞬間から、罪の汚れを知らずに守って下さった。何という特権を頂いたのであろうか、それを喜び踊る。ご胎内の御子はすでにその贖いの御業を、マリア様に特別の仕方で適用させて下さった。救い主において我が精神は喜び踊る。罪の汚れから守られて、悪魔のサタンの頭を蛇の頭を踏み砕く事ができた。マリア様はその天主からの特別の恵みと、特別の祝福に充ち満ちあふれているが故に、それを頂いたが故に、マリア様は喜び踊っておられました。

なぜかというと、なぜそれほどのお恵みを受けたかというと、主はそのマリア様のご謙遜を、マリア様の小さい事をご覧になって、それを良しとされたからであると。マリア様の御謙遜が故に、主はこれほどの恵み下さったという事をマリア様は喜んでおられます、「我が精神は、救い主である主に喜び踊る。」

聖ヨハネ・ユードは、「この『精神』、『我が精神』というのは何であろうか?」と自問自答します。そして過去の教父たちや教会博士たちの書き物を読んで研究した結果、こう言います、「イエズス様も同じような表現を使った事がある。十字架の上で最後に、『聖父よ、我が精神を御手に委ね奉る。』我が精神。そこでこの『我が精神』というのは、イエズス様と一致している全ての霊魂たちの事だろう。その霊魂たちを『聖父に委ね奉る』と。そこでマリア様も、『我が精神は救い主である主によって喜び踊る』という事も、『マリア様と一致している全ての霊魂たちの名によって、喜び踊る』とマリア様は表現しているのだろう。」

天主が私たちに下さろうとするお恵みを受ける準備ができている全ての霊魂、マリア様を愛し、マリア様と一致している、マリア様に倣おうとしている全ての霊魂たち、これらの精神においてマリア様はそれらを代表して、「我が精神は、救い主である天主に喜び踊る」と。

ですから私たちも、マリア様において喜びに満たされる多くの理由があります。聖霊に満たされて奏でたマリア様のマニフィカトを、私たちはこれを黙想して、黙想して、ますます深めていく事に致しましょう。

今日この御ミサの後に、御聖体の前で15分間マリア様の初土の信心をする時に、特にもしも皆さんよろしければ、マリア様の御訪問の、エリザベト御訪問の玄義を黙想する事を提案したいと思っています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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