2018年3月4日(主日)四旬節第3主日のミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
“Christus dilexit nos, et tradidit semetipsum pro nobis oblationem, et hostiam.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。聖伝のミサ、伝統的なカトリックのミサにいらっしゃる事を歓迎します。
なぜ、日本でこのカトリックの行事が行われているのでしょうか?「カトリック」というのは、この語源は「普遍」という意味です。全世界のための普遍的なという意味だからです。
日本では長い、およそ500年に渡るカトリック教会の伝統が生きています。多くの、数多くの何十万という殉教者を生み出して、日本中が殉教者の血によって染められた国です。
日本では7代にも渡って250年の間、迫害の中をカトリックの信仰を守ってきた、というカトリックの世界中の人々が知っている事実もあります。そして私たちはこの同じ信仰を持っている、という事を大変光栄に思い、嬉しく思っています。
なぜ聖伝のミサを、伝統的なミサをしているのでしょうか?この皆さんが今与っているミサは、2000年の歴史があります。
このミサは、聖ペトロ、初代ローマ教皇、イエズス・キリストの愛弟子、第1の弟子がローマで捧げたミサ、捧げ続けていたミサ、ローマの殉教者たちが与っていたミサ、聖アウグスチノ、聖アンブロジオなどが捧げていたミサです。あるいはフランスの聖ルイ9世王様が与っていたミサ。アルスの聖司祭が与っていたミサ、聖フランシスコ・ザヴェリオが捧げていた、そして日本でも500年前に捧げたミサに、皆さんが今与っています。
これは私たちがカトリック教会が最も大切にして、最も深く愛してきた、そして最も天主の心に適う礼拝の仕方を、皆さんが今与っているという事です。聖伝のミサは、その保証です。
このミサはラテン語で捧げられています。ラテン語というのは、十字架の上に書かれた3つの聖なる言葉の1つです。実はこのミサはラテン語のみならず、3つの言葉で捧げられています。ラテン語とギリシャ語とヘブライ語です。このラテン語は、時間と場所を超越して、世界の全ての人が同じミサに与かる事ができるという、バベルの塔の解決策です。
今日ここにいらっしゃる皆さんは、日本の国の方以外の、あるいは母国語として色々な言葉を話す方々が集まっていますけれども、ラテン語のミサで1つに、時と場所を超えて、国境を超えて1つになる事ができます。
では一体、ミサとは何なのでしょうか?今日この四旬節第3主日のミサで、まさに教会は「ミサとは何か」という事を説明しているように思えます。そこで、「ミサとは何か」という事を黙想する事を提案します。
ミサというのは何なのでしょうか?ミサとは、私たち罪人に対して、天主の愛がもたらした愛の最高の実りです。天主の永遠の御知恵、全てこの宇宙を創って、動植物を創って、銀河を創って、高い山々を創って、深い海を創って、海に泳ぐ魚たちや、空に飛ぶ鳥たちをデザインして、人間を創った、その天主の最高の知恵をもっても、これ以上私たちを愛する事ができないほどのものがミサです。
天主は全能の力をもって、宇宙の全ての美と善を創りました。しかしこの全能の力をもってしても、これ以上私たちを愛する事ができないほどのものをしました。これがミサです。天主の最高の力をもって愛の発明をした、これが皆さんが今与っていらっしゃるミサです。
では、ミサとは一体何なのでしょうか?ミサというのは、私たちの主イエズス・キリストが、十字架の上で御自分を捧げられた、私たちの罪の償いとして捧げられた、その同じいけにえの再現なのです。時と場所を超えて、このミサが捧げられる時に、全くそのカルワリオの十字架で行われた事と同じ効果が、その現実が、今この目の前で現れるのです。そしてそれと全く同じ恵みと、祝別と、祝福と、そして全ての天主からの力と、慰めと、助けを私たちが得ることができます、これがミサです。
私たちを助ける為に、私たちを慰める為に、私たちに力を与える為に、私たちの罪を許す為に、日々の糧となる為に、全能の愛である天主は、このミサを選定しました。
使徒聖ヨハネはこう言います、その書簡にこう書きました、「おぉ、小さな子供たちよ、言葉やあるいは舌だけでなく、行いと真実をもって愛し合おう。」
イエズス・キリストは、言葉やセンチメンタルな感情だけではなく、本当に御自分の血を流して、現実に私たちを極みまで愛して下さいました。その結果がミサです。
人類は天主の愛によって創造されました、無から創られました。その贈り物としてこの全世界が与えられました。私たちはアダムとエヴァの先祖において、原初の義において創られました。つまり私たちは、もしも全てがうまくいけば、苦しみもなければ、病もなければ、死もなければ、悩みもない、地上の至福の福楽で生活した後に、永遠の福楽天国に行く事が天主の計画でした。私たちの喜びと幸福だけを望んで、主は私たちを創造されました。
しかし、天主の御姿に似せて創られた人間を妬み、憎んで、私たちの内にある天主の像を破壊してしまおうと思った、私たちの敵、悪魔、サタンは、堕落した天使たちは、私たちを誘なって、そして私たちよりも強かった彼らは、私たちの先祖、原祖アダムとエヴァを罪に引きずり込んでしまいました。
アダムとエヴァは自らそうと知りながら、自由意志を持って、天主に逆らいました。天主によらず、自分の力によって天主の如くなろうと、神々のようになろうと思いました。そして罪を犯して、天主に反乱しました、「私は従わない!嫌だ!私は思い通りに生きる。」
この人間の状態を回復する手段は最早ありませんでした。人間は自分の力で天主の下さった元の状態に立ち戻る事はできませんでした。全くの無力でした。天主は私たちをそのままほっぽり出しておく事もできました。人間の知能の全てを使っても、罪によって天主から離れ去ってしまったという事がどれほどの損失であるか、という事を理解しつくす事ができません。把握しきれません。人間の言葉では言葉では、その恐ろしさを表現し尽くす事がません。全ての善の源から離れてしまう、永遠に切り離されてしまう。何という絶望、何という不幸でしょうか。
天主はそれによっていささかの不幸もあり得ませんでした。永遠の昔から、至福の天主には変わる事がありません。しかし、あたかも私たちがご自分の最も大切な宝であるかのように、私たちの救いを望まれました。天主聖父は御自分の最愛の聖子を、私たちの為に人となるように、この地上に送られました。
最愛の聖子は、私たちの為に人間として、第2のアダムとして、第2の贖われた人類の頭として生まれるべく、幼子として生まれる事を望まれました。罪の償いを私たちに代わって果たすことを望まれて、お生まれになりました。極めて貧しい馬小屋の中で、真冬に、人々から捨てられて、王の王が。
私たちの主は、30年間、父親と母親の元で、マリア様とヨゼフ様の元で、大工として働きました。一言、「光あれ!」と言って光を創造して、全宇宙を御言葉によって創ったその天主が、労働に身を任せて、額に汗を流して、全く知られない村の、ナザレトの村で働きました。天主はもしかしたらそのせっかく作った物を、イエズス・キリストが作った物に対して、正当な代価が払われなかったのかもしれません。あるいはあまりにも貧しいので、村の人たちが「おぉ、かわいそうだ。恵んであげるよ」言ったかもしれません。全能の天主がお貰いをする。何という屈辱でしょうか。私たちの罪の償いの為に、私たちを愛するがあまりに、この苦しみを御捧げになりました。
そればかりではありません。イエズス・キリストは、私たちの主は、人となった天主は、私たちを救う為に、御自分の命さえも与えようと望まれました。人類の歴史の中で、最も真っ暗で、暗黒のその時、イエズス・キリストの命を奪おうと企んでいたその暗闇の時、聖木曜日、私たちの主は最後の晩餐を行って、このミサを制定しました。そしてパンを御自分の体に変えて、ブドウ酒を御自分の尊き御血に変えて、私たちの為に与えられ、そして「これを私の記念として行え」と命じられました。同時にカトリックの司祭を制定しました。
そしてこのミサが今でも続けられています。愛の極みの天主の傑作です。このミサは、十字架のいけにえの再現です。最後の晩餐では、その十字架の苦しみと受難が先取りされました。
その翌日、聖金曜日には、全く罪のなかった天主の聖子イエズス・キリストは、罪がなかったにも関わらず、死刑の宣告を受け、十字架を担がれました。ポンシオ・ピラトは、「この男には何の罪も見出さない」と3回言ったにもかかわらず、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、頭から足まで体は全身傷だらけでした。更にその上に重い十字架を担ぎ、カルワリオの上まで引き続き、そして十字架に釘付けにせられて、3時間の苦しみの後に、御自分の命と御血を全て天主聖父に、私たちの罪の贖いの為に捧げられました。それが今皆さんが集まっているミサです。これが皆さんの目の前に現れる、現実となる儀式です。
ミサでは、イエズス・キリストの流血はありません。しかし捧げる司祭は、イエズス・キリストです。カトリックの司祭はイエズス・キリストに自分の手と唇を与えて、イエズス・キリストの司祭職を執行します。捧げられるいけにえも、イエズス・キリストです。なぜならパンとブドウ酒は、イエズス・キリストの、本当の、真の、御体と御血であるからです。流血はありませんが、奇跡的に御体と御血が分離する事によって、天主の子羊が屠られた事を意味します。
ミサというのは、天主が、三位一体の天主が私たちに下さった最高の宝物であって、人間が捧げる事ができる最高のお祈りなのです。このミサを捧げる事によって、この全世界に普遍のカトリック教会がいる全ての地域に、お恵みと祝福が与えられます。ミサに与かれば与るほど、特別のお恵みが与えられます。
ですから今日このミサに、皆さんが出席なさっている事を本当に嬉しく思い、皆さんに感謝します。なぜかというと、皆さんがミサに与る事によってこのお恵みが、皆さんと皆さんのお友達や、全てに家族に行き渡る、広がり渡るからです。
では最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は私たちに、このイエズス様をお与え下さいました。マリア様はその十字架の下で、御子、自分の子供が捧げられているのを目の当たりにしました。お母様の心にとってどれほど、自分の子供が苦しむのを見るのは辛かった事でしょうか。しかし私たちを愛するが為に、これを捧げて下さいました。
「マリア様、どうぞこのミサにマリア様と一緒に与らせて下さい。マリア様の心でこのミサを拝聴する事ができるように助けて下さい。マリア様と共にイエズス様を天主聖父に捧げる事ができるように、お恵みを祈って下さい。マリア様、私の家族と、友人たちと、周りの方々の為にお祈り下さい。ミサのお恵みが、私たちに全てに広がりますように。」
“Christus dilexit nos, et tradidit semetipsum pro nobis oblationem, et hostiam.”
「キリストは、御自分を私たちの為にいけにえとして御捧げになった。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。