Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年3月4日(主)  四旬節第3主日 「伝統的なカトリックのミサとは何か」

2018年03月27日 | お説教・霊的講話
2018年3月4日(主日)四旬節第3主日のミサ
小野田神父 説教


“Christus dilexit nos, et tradidit semetipsum pro nobis oblationem, et hostiam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。聖伝のミサ、伝統的なカトリックのミサにいらっしゃる事を歓迎します。

なぜ、日本でこのカトリックの行事が行われているのでしょうか?「カトリック」というのは、この語源は「普遍」という意味です。全世界のための普遍的なという意味だからです。

日本では長い、およそ500年に渡るカトリック教会の伝統が生きています。多くの、数多くの何十万という殉教者を生み出して、日本中が殉教者の血によって染められた国です。

日本では7代にも渡って250年の間、迫害の中をカトリックの信仰を守ってきた、というカトリックの世界中の人々が知っている事実もあります。そして私たちはこの同じ信仰を持っている、という事を大変光栄に思い、嬉しく思っています。

なぜ聖伝のミサを、伝統的なミサをしているのでしょうか?この皆さんが今与っているミサは、2000年の歴史があります。

このミサは、聖ペトロ、初代ローマ教皇、イエズス・キリストの愛弟子、第1の弟子がローマで捧げたミサ、捧げ続けていたミサ、ローマの殉教者たちが与っていたミサ、聖アウグスチノ、聖アンブロジオなどが捧げていたミサです。あるいはフランスの聖ルイ9世王様が与っていたミサ。アルスの聖司祭が与っていたミサ、聖フランシスコ・ザヴェリオが捧げていた、そして日本でも500年前に捧げたミサに、皆さんが今与っています。

これは私たちがカトリック教会が最も大切にして、最も深く愛してきた、そして最も天主の心に適う礼拝の仕方を、皆さんが今与っているという事です。聖伝のミサは、その保証です。

このミサはラテン語で捧げられています。ラテン語というのは、十字架の上に書かれた3つの聖なる言葉の1つです。実はこのミサはラテン語のみならず、3つの言葉で捧げられています。ラテン語とギリシャ語とヘブライ語です。このラテン語は、時間と場所を超越して、世界の全ての人が同じミサに与かる事ができるという、バベルの塔の解決策です。

今日ここにいらっしゃる皆さんは、日本の国の方以外の、あるいは母国語として色々な言葉を話す方々が集まっていますけれども、ラテン語のミサで1つに、時と場所を超えて、国境を超えて1つになる事ができます。

では一体、ミサとは何なのでしょうか?今日この四旬節第3主日のミサで、まさに教会は「ミサとは何か」という事を説明しているように思えます。そこで、「ミサとは何か」という事を黙想する事を提案します。

ミサというのは何なのでしょうか?ミサとは、私たち罪人に対して、天主の愛がもたらした愛の最高の実りです。天主の永遠の御知恵、全てこの宇宙を創って、動植物を創って、銀河を創って、高い山々を創って、深い海を創って、海に泳ぐ魚たちや、空に飛ぶ鳥たちをデザインして、人間を創った、その天主の最高の知恵をもっても、これ以上私たちを愛する事ができないほどのものがミサです。

天主は全能の力をもって、宇宙の全ての美と善を創りました。しかしこの全能の力をもってしても、これ以上私たちを愛する事ができないほどのものをしました。これがミサです。天主の最高の力をもって愛の発明をした、これが皆さんが今与っていらっしゃるミサです。

では、ミサとは一体何なのでしょうか?ミサというのは、私たちの主イエズス・キリストが、十字架の上で御自分を捧げられた、私たちの罪の償いとして捧げられた、その同じいけにえの再現なのです。時と場所を超えて、このミサが捧げられる時に、全くそのカルワリオの十字架で行われた事と同じ効果が、その現実が、今この目の前で現れるのです。そしてそれと全く同じ恵みと、祝別と、祝福と、そして全ての天主からの力と、慰めと、助けを私たちが得ることができます、これがミサです。

私たちを助ける為に、私たちを慰める為に、私たちに力を与える為に、私たちの罪を許す為に、日々の糧となる為に、全能の愛である天主は、このミサを選定しました。

使徒聖ヨハネはこう言います、その書簡にこう書きました、「おぉ、小さな子供たちよ、言葉やあるいは舌だけでなく、行いと真実をもって愛し合おう。」

イエズス・キリストは、言葉やセンチメンタルな感情だけではなく、本当に御自分の血を流して、現実に私たちを極みまで愛して下さいました。その結果がミサです。

人類は天主の愛によって創造されました、無から創られました。その贈り物としてこの全世界が与えられました。私たちはアダムとエヴァの先祖において、原初の義において創られました。つまり私たちは、もしも全てがうまくいけば、苦しみもなければ、病もなければ、死もなければ、悩みもない、地上の至福の福楽で生活した後に、永遠の福楽天国に行く事が天主の計画でした。私たちの喜びと幸福だけを望んで、主は私たちを創造されました。

しかし、天主の御姿に似せて創られた人間を妬み、憎んで、私たちの内にある天主の像を破壊してしまおうと思った、私たちの敵、悪魔、サタンは、堕落した天使たちは、私たちを誘なって、そして私たちよりも強かった彼らは、私たちの先祖、原祖アダムとエヴァを罪に引きずり込んでしまいました。

アダムとエヴァは自らそうと知りながら、自由意志を持って、天主に逆らいました。天主によらず、自分の力によって天主の如くなろうと、神々のようになろうと思いました。そして罪を犯して、天主に反乱しました、「私は従わない!嫌だ!私は思い通りに生きる。」

この人間の状態を回復する手段は最早ありませんでした。人間は自分の力で天主の下さった元の状態に立ち戻る事はできませんでした。全くの無力でした。天主は私たちをそのままほっぽり出しておく事もできました。人間の知能の全てを使っても、罪によって天主から離れ去ってしまったという事がどれほどの損失であるか、という事を理解しつくす事ができません。把握しきれません。人間の言葉では言葉では、その恐ろしさを表現し尽くす事がません。全ての善の源から離れてしまう、永遠に切り離されてしまう。何という絶望、何という不幸でしょうか。

天主はそれによっていささかの不幸もあり得ませんでした。永遠の昔から、至福の天主には変わる事がありません。しかし、あたかも私たちがご自分の最も大切な宝であるかのように、私たちの救いを望まれました。天主聖父は御自分の最愛の聖子を、私たちの為に人となるように、この地上に送られました。

最愛の聖子は、私たちの為に人間として、第2のアダムとして、第2の贖われた人類の頭として生まれるべく、幼子として生まれる事を望まれました。罪の償いを私たちに代わって果たすことを望まれて、お生まれになりました。極めて貧しい馬小屋の中で、真冬に、人々から捨てられて、王の王が。

私たちの主は、30年間、父親と母親の元で、マリア様とヨゼフ様の元で、大工として働きました。一言、「光あれ!」と言って光を創造して、全宇宙を御言葉によって創ったその天主が、労働に身を任せて、額に汗を流して、全く知られない村の、ナザレトの村で働きました。天主はもしかしたらそのせっかく作った物を、イエズス・キリストが作った物に対して、正当な代価が払われなかったのかもしれません。あるいはあまりにも貧しいので、村の人たちが「おぉ、かわいそうだ。恵んであげるよ」言ったかもしれません。全能の天主がお貰いをする。何という屈辱でしょうか。私たちの罪の償いの為に、私たちを愛するがあまりに、この苦しみを御捧げになりました。

そればかりではありません。イエズス・キリストは、私たちの主は、人となった天主は、私たちを救う為に、御自分の命さえも与えようと望まれました。人類の歴史の中で、最も真っ暗で、暗黒のその時、イエズス・キリストの命を奪おうと企んでいたその暗闇の時、聖木曜日、私たちの主は最後の晩餐を行って、このミサを制定しました。そしてパンを御自分の体に変えて、ブドウ酒を御自分の尊き御血に変えて、私たちの為に与えられ、そして「これを私の記念として行え」と命じられました。同時にカトリックの司祭を制定しました。

そしてこのミサが今でも続けられています。愛の極みの天主の傑作です。このミサは、十字架のいけにえの再現です。最後の晩餐では、その十字架の苦しみと受難が先取りされました。

その翌日、聖金曜日には、全く罪のなかった天主の聖子イエズス・キリストは、罪がなかったにも関わらず、死刑の宣告を受け、十字架を担がれました。ポンシオ・ピラトは、「この男には何の罪も見出さない」と3回言ったにもかかわらず、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、頭から足まで体は全身傷だらけでした。更にその上に重い十字架を担ぎ、カルワリオの上まで引き続き、そして十字架に釘付けにせられて、3時間の苦しみの後に、御自分の命と御血を全て天主聖父に、私たちの罪の贖いの為に捧げられました。それが今皆さんが集まっているミサです。これが皆さんの目の前に現れる、現実となる儀式です。

ミサでは、イエズス・キリストの流血はありません。しかし捧げる司祭は、イエズス・キリストです。カトリックの司祭はイエズス・キリストに自分の手と唇を与えて、イエズス・キリストの司祭職を執行します。捧げられるいけにえも、イエズス・キリストです。なぜならパンとブドウ酒は、イエズス・キリストの、本当の、真の、御体と御血であるからです。流血はありませんが、奇跡的に御体と御血が分離する事によって、天主の子羊が屠られた事を意味します。

ミサというのは、天主が、三位一体の天主が私たちに下さった最高の宝物であって、人間が捧げる事ができる最高のお祈りなのです。このミサを捧げる事によって、この全世界に普遍のカトリック教会がいる全ての地域に、お恵みと祝福が与えられます。ミサに与かれば与るほど、特別のお恵みが与えられます。

ですから今日このミサに、皆さんが出席なさっている事を本当に嬉しく思い、皆さんに感謝します。なぜかというと、皆さんがミサに与る事によってこのお恵みが、皆さんと皆さんのお友達や、全てに家族に行き渡る、広がり渡るからです。

では最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は私たちに、このイエズス様をお与え下さいました。マリア様はその十字架の下で、御子、自分の子供が捧げられているのを目の当たりにしました。お母様の心にとってどれほど、自分の子供が苦しむのを見るのは辛かった事でしょうか。しかし私たちを愛するが為に、これを捧げて下さいました。

「マリア様、どうぞこのミサにマリア様と一緒に与らせて下さい。マリア様の心でこのミサを拝聴する事ができるように助けて下さい。マリア様と共にイエズス様を天主聖父に捧げる事ができるように、お恵みを祈って下さい。マリア様、私の家族と、友人たちと、周りの方々の為にお祈り下さい。ミサのお恵みが、私たちに全てに広がりますように。」

“Christus dilexit nos, et tradidit semetipsum pro nobis oblationem, et hostiam.”
「キリストは、御自分を私たちの為にいけにえとして御捧げになった。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月18日(主)  四旬節第1主日 「待ちに待った四旬節」

2018年03月27日 | お説教・霊的講話
2018年2月18日(主日)四旬節第1主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は四旬節第1主日のミサを行っております。今日この御ミサの後に、いつもの通り感謝のお祈りを致しましょう。その後には、灰の水曜日の灰の式を受ける事ができなかった方の為に、灰の式を行いたいと思います。この式の間にはグレゴリオ聖歌が歌われて、最後に式で祈られる祈りもあります。

その後に、四旬節をよく過ごす為にも、また今日本と世界での平和が非常に脅かされているので、特に韓国の事が非常に心配ですので、また中国にいるカトリック信者の方々為にも、御聖体降福式をしたいと思っております。どうぞ皆さんできるだけ与って、イエズス様に特に平和の為にお祈り下さい。

その後には14時30分頃から、公教要理の続きをしたいと思っています。
今回は3月の初土曜日の黙想のテーマとして、イエズス様のゲッセマニの園にての玄義を、ロザリオの苦しみの玄義の第1玄義を、黙想する事を提案します。そして16時からは晩課があります。

次のミサは3月4日です、ここであります。どうぞたくさんのお友達を連れていらして下さい。


“Ecce nunc tempus acceptabile, ecce nunc dies salutis.”
「見よ、救いの日がやって来た。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂に四旬節がやって来ました。私たちが待ちに待った四旬節です。遂にイエズス様に、私たちの日常の犠牲をイエズス様と共に捧げる事ができます。そしてそれが特別の価値を持つようにお恵みが与えられる時です。受け入れられる時がやって来ました。私たちの惨めな貧しいものでも快く受け入れて下さる時が来ました。

そこで今日は教会の典礼の精神に従って、四旬節は何で今日こういうミサになっているのか?たとえば今日、指定巡礼教会は聖ヨハネ ラテラノ大聖堂、至聖救世主大聖堂であって、そしてなぜ詩篇90をそんなに何回も何回も、入祭誦でも昇階誦でも、また詠誦でも、そして聖体拝領でもこんなに歌うのか?等を黙想して、第1に四旬節の精神をもう一度確認します。

その次に、では四旬節の精神に従って、その結果私たちは何をしなければならないのか?「断食をしなければならない」と言います。

最後に、私たちは四旬節の遷善の決心を立てる事に致しましょう。

教会は私たちを霊的に、指定巡礼教会という、特別に指定された教会に行列で霊的に行く事を望んでいます。今日の指定された教会は、ローマの最も重要な至聖救世主大聖堂、別名はラテラノ大聖堂、洗者聖ヨハネの大聖堂です。なぜかというと、四旬節というのは私たちにとって、霊的に、内的な生まれ変わりの、新たになる時であるからです。

ちょうど洗者聖ヨハネが砂漠に行って、荒れ野に行って、ライオンのように獅子のように叫んだのを思い出します、「悔悛せよ、悔悛せよ!」「もしも悔悛しなければ、私たちは救われない!」と。私たちも洗者聖ヨハネの呼びかけに従って、荒れ野に行こうとします。ちょうどイエズス様も荒れ野に、40日間の断食をする為に行かれました。洗者聖ヨハネの大聖堂が救世主の大聖堂とも呼ばれているのは、この意味があります。

私たちはこの四旬節の時に、今までおろそかにしがちだった霊魂の世話をしなければなりません。私たちはいつも体の健康については気を使ってきましたが、ともすると霊魂の事は忘れがちでした。ですから霊的な生活にもう一度目を向けようとさせます。ですから私たちは、この世の喧騒から離れて、霊的に砂漠に荒れ野に参りましょう。霊的にイエズス様と共に荒れ野に参りましょう。何を求めて行くのでしょうか?「内的な天主様の命」を求めて行きます。

ところで、私たちはこの荒れ野に行ったイエズス様を、「あぁ、イエズス様は荒れ野に行って、40日間の断食をされた」というのをただ傍観者として見ているのではありません。ちょっとテレビのスイッチを入れると、「あぁ、イエズス様が砂漠で何かやっておられるなぁ。お祈りをしておられるなぁ。次のスイッチ」ではありません。私たちはイエズス様と一緒に行かなければなりません。イエズス様と一緒に40日間霊的な生活を送らなければなりません。今の流行りの言葉で言うと、「行こうぜ、四旬節。」

そしてもしも私たちがイエズス様と一緒に荒れ野に行って、40日間の霊的な生活をして初めて、私たちは表彰台に立つ事ができます。初めてイエズス様と共にアレルヤの、復活祭の時にアレルヤの歌を歌う事ができます。私たちはその時に初めて、イエズス様と共に王冠の、復活の深い喜びを味わう事ができます。ですから私たちにとって一番中核なのは、「イエズス様と共に荒れ野に行く」という事です。「天主様の命を求めて行く」という事です。それは復活の準備の為です。

もしも私たちが復活祭の喜びの深い喜びに入る事を望んだならば、その勝利を得たいと思うのであれば、条件があるのです、「イエズス様と共に行く」という事、そして「イエズス様と共に、私たちの自然の、肉体的な、古い、欲望だらけの邪欲の古い人間に死ななければならない。私たちの罪とその機会を皆、十字架に付けなければならない」という事です。この2つがあって初めて私たちは、イエズス様と共に復活祭の時に、新しい生活を聖徳の生活を始める事ができるのです。イエズス様のように新しい人を生きる事ができます。イエズス・キリストの命を生きる事ができるようになります。

ところで教会は、その為に3つの事を、3つの種類の人々に気を配っています。1つは、これから洗礼を受けようという人々の為です。もう1つはこれから、罪を犯した、大きな罪を犯したが為に、教会からいわば破門されたかのようになってしまって、御聖体を受ける事ができないような人々、罪を償わなければならない人々の事です。もう1つは私たち一般信徒で、そしてその3種類の人々が、「復活祭の時に、大きな復活の勝利の喜びを得る事ができるように」と気を使っています。

洗礼を受けたいという求道者の人の為には、「この間、洗礼の水に浸る事を黙想するように」教えています。痛悔をしなければならない人にとっては、「涙の水に、涙に浸かる事を、痛悔の涙に浸る事」を勧めています。そして一般の信徒たちには、「御聖体とイエズス様の御血に浸かって、イエズス様の御受難を黙想する事」を招いています。

この3つの種類の人々を全て教会が思っている、という事を見ると、やはり集祷文の意味がよく分かります。40日間のこの修行をもって、天主様は教会を全て潔めようとされている、という事だからです。ここでも四旬節の中核が分かります、核心が分かります、「私たちは四旬節を一人でするのではなくて、イエズス様と共に、教会の神秘的なキリストの神秘体の一員としてする」という事です。そして「私たち全部が、教会が全て潔められる」という事です。

ですから第2の点は、イエズス様と共に荒れ野に行って、そして断食をしなければなりません。イエズス様は仰いました。「ヨハネは断食をしていたけれども、あなたは断食をしていないではないか。なぜだ。」「なぜならば、花婿がいる時に、花婿の友達は断食をするだろうか。花婿と一緒に食べる。しかし花婿が取り去られる時が来るだろう。その時は花婿の為に断食する。」まさに今からイエズス様が御受難によって取り去られようとする事を黙想する私たちにとって、断食の良い機会です。イエズス様は普通はお食事をされていますけれども、公生活の始めに40日間断食をされました。それは私たちの断食を聖化する為です。私たちに模範を見せる為です、どのようにされるか。

聖伝によれば、40日間の断食をしていましたが、しかし現代では非常に規律が緩和されて、私たちのしなければならない義務は、灰の水曜日の大斎と聖金曜日の2回になってしまいました。しかし私たちは、確かに食べる断食はそんなにできないかもしれないですけれども、しかし罪の断食をする事ができます。

例えば、私たちが「本当は甘いおやつを食べたい。でも今は食べる時間じゃない。だからそれはお捧げしよう」とか、あるいは「本当は宿題をしなければならない、あるいはこの仕事をしなければならないんだけれども、何かインターネットでオリンピックのニュースがある。」あるいは「誰がメダルを取ったのだろうか。」あるいはもしかしたらそれよりも、もしかしたら私たちが本当なら見てはいけない、あるいは聞いてはいけない、あるいは手にしてはいけないようなものが、私たちの前に来るかもしれない。その時に私たちは、「それは食べない、それはしない」という罪の断食をしなければなりません。そこに私たちの最もしなければならない核心があります。

イエズス様は40日の間、ただ断食しただけではありませんでした。お祈りをしました。ですからこの40日間の間、復活祭まではたくさんのお祈りをなさって下さい。イエズス様はゲッセマニの園にで弟子たちに言いました、「あなたたちは私の為に、たった1時間も祈る事ができなかったのか。私の霊魂は死するばかりに悲しい」と。イエズス様は私たちに仰る事でしょう、「どうぞ私の為に祈ってほしい。私と共に祈って欲しい」と。40日間。イエズス様は私たちの為に苦しまれようとしているのですから、私たちもイエズス様に、少しのちょっとした犠牲を捧げなければなりません。

では一体どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

先ほど、教会の規律が非常に緩和されて、私たちはたった2回しか大小斎を捧げる義務がなくなってしまったと申しましたけれども、しかし残念な事に、この「四旬節」というものも、もしかしたら多くのカトリック信者にとっても、或いは私たちにとっても、名前だけになってしまっているかもしれません。四旬節というと、「あぁ、何か嫌だな」とお思うようになってしまうかもしれません。四旬節というと、「何かやろう」と思いながらも、結局何もやらなかった、と毎年過ごしていたかもません。あるいはもしかしたら、「灰を頭に付けるだけで良いのだ。」あるいは「ちょっとだけお祈りすれば良いのだ」というだけで、四旬節の事は全く忘れて過ごしている人も、他の日々と同じ生活を、あるいは他の人々とカトリック信仰を持っていない人と全く同じ生活をしている人もいるかもしれません。私たちは少なくともそういう方々に代わって、そういう方々の為にも、その分も、特に熱心にお捧げする事に致しましょう。

「あぁ神父様、どうもそれほどの事はできるようにもありません。」そこでイエズス様は教会は、詩篇の90を私たちに何度も何度も歌わせようとしています。この詩編の90は、悪魔がイエズス様を誘う為に引用した、その一部を引用しました。しかしそれは教会は、祓魔式をするかのように、「本当の使い方はこうだ」と私たちに教えるかのように、私たちに歌わせます。この詩編は信頼の歌です。特に詠誦の最後をご覧下さい、「私は彼の言う事を、祈りを聞き入れるだろう。彼を救うだろう。そして彼に栄光を与えるだろう。そして1日中、つまり永遠の間、彼を満たすだろう。そして彼に救いを示すだろう。なぜかというとたった1つ、“Invocabit”私の名を呼んだから。その為におまえを救う事を私はしよう、と天主様は約束しています。

そして今日、皆さん御聖体拝領する時に、その事が本当に起こります。なぜかというと、イエズス様こそ私たちを守る翼であって、私たちを守る糧であるからです。悪魔から守って下さる方であるからです。私たちは一人で四旬節をするのではないからです。ですから今日聖体拝領の時に、聖歌隊はこの詩編の90のそこの部分を、「天主は翼となって私たちを守ってくれる。天主の真理は糧となって守って下さる」という事を歌っています。

ですからどうぞイエズス様と共に荒れ野に参りましょう。霊的に荒れ野に参りましょう。そして最後にマリア様にもお願い致しましょう。マリア様は、マリア様こそイエズス様との40日間の断食を、ご自分でイエズス様と共に霊的になさったモデルであるからです。

“Ecce nunc tempus acceptabile, ecce nunc dies salutis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月17日(土)  灰の水曜日の後の土曜日 「主がガリレア湖の水上を歩かれた奇蹟の意味とは」

2018年03月27日 | お説教・霊的講話
2018年2月17日(土)灰の水曜日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月17日、灰の水曜日の後の土曜日のミサです。今日のこのミサの後に、いつものように感謝のお祈りを致します。その直後に、昨日灰を受ける事ができなかった、あるいは灰の水曜日に灰を受ける事ができなかった方の為に、灰の式を行いたいと思います。

その後には聖時間を行います。それは御聖体降福式と共に御聖体を顕示して、そして特にこの四旬節を良く過ごす事ができますように、また特に日本と世界に平和が守られますように、朝鮮半島で多くの人々の命の奪われる事がありませんように、あるいは共産主義の手が南にまで及びませんように、中国のカトリック信者の方の為にも、ぜひお祈りをお願いします。

ミサの直後に聖時間を、聖時間の時に特に一緒に、3月の初土曜日の為の準備として、イエズス様の15の玄義の内の1つを黙想する事に致しましょう。特に練習として、ゲッセマニの園での第1玄義を黙想する事を提案します。

次のミサは1週間の後の25日、2月25日の夕方18時からワリエ神父様がここでミサをして下さいます。



「安心せよ、私である。恐れるな。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四旬節の第1主日の直前の土曜日で、教会はぜひ私たちに、この四旬節を良くできるように色々と準備をしてきました。そし今日スタートラインを切った私たちに、終わりまでちゃんと走る事ができるように、私たちに励ましの声援をエールを送っています。

では一体どういう風に私たちを励ましているのでしょうか?3つあります。1つは今日の書簡、第2は今日の福音、第3は今日の指定巡礼教会、この3つで私たちが最後まで行き着く事ができるように、と応援しています。私たちが金メダルを取る事ができるように。
ですから、私たちがどうやって教会から応援を受けているのかを黙想する事にしましょう。

準備の段階で私たちは、「四旬節の間には、祈りと断食と、そして施しをするように」と言われました。そしてこの3つの、祈りと断食と施しは、愛徳を持って、イエズス様に対する愛を持ってやらなければなりません。断食が例えば美容の為であったり、あるいは施しが自分の名誉の為であったり、あるいは祈りが見せびらかしの為であったら、それは効果がないと教えています。

ところで、この高い私たちの目標の前に、もしかすると私たちは、「いや、私はとても力が足りないから、そこまではできない」という風に挫けてしまうのではないかと思った教会は、母なる教会は、まず書簡で「そう心配するな」と、「光が与えられる」とまず励ましています。

「光」この光とは何かというと、「天主の命」の事であって、「私たちの霊魂がちょうど天主様のいらっしゃる楽園のようになる。この私たちの霊魂には多くの花が咲き、善徳と聖徳の花が咲き、それから良い善業の実りが実るだろう」というイメージを出しています。そうした時に私たちは、「廃墟を建て直す者と言われるだろう」とか「壁を立てる者と言われるだろう」と言っています。「ただ私たちが避けなければならないのは、罪である。天主様が私たちに光を与えてくれるので、心配するな。」

第2の今日の福音は一体何でしょうか?第2は、ちょうど使徒たちがガレリア湖で船を漕いでいます。夜中でした。考えてもみて下さい。真っ暗闇です。電気はありませんし、LEDもありません、ライターもありません。あるのは星影だけです。イエズス様といえば、陸にいました。しかも風は反対側に吹いています。本当はゲネサレトの方に行きたいのだけれども、そっちの方から風が吹いてくるので、一生懸命漕いでも漕いでも漕いでも進みません、進歩がありません。努力しても努力しても、全ての努力は無駄であるかのようです。反対があまりにも強いからです。

イエズス様は一体何かというと、陸で弟子たちの為にお祈りをしています。ところがイエズス様は、弟子たちが一生懸命努力をしている事を知っていました。それで聖書の言葉によると、日本語の訳では夜明けの3時でしたが、聖書には、「夜の第4時」イエズス様は海の上を歩いて、弟子たちの近くを通って、彼らの近くを通り過ぎようとしました。薄暗くてあまりよく姿が見えなかったのですけれども、幽霊かと思ったほどでした。

するとイエズス様は近寄って来て、彼らに言いました、「安心せよ、“Confidite”私だ、何も恐れる必要はない。」そしてイエズス様はこの船に乗るのです。イエズス様が船に乗ると、その途端にあっという間に、今まであった反対がピタリと止まります。凪になって、そして安全に向こう岸まで着く事ができました。夜明けです。多くの多くの人たちがイエズス様の後を慕って、病人や病の人を運んで来て、皆が治されます。奇跡が起こります。

「これは私たちの四旬節のまさに姿である」と教会は言っているのです。なぜかというと、聖書の表現によると、「海」というのは、いつもゆらゆらと変わっている「この世界」の事を意味しています。「陸」というのは、いつも変わらないので、「天国や聖人」の事を意味しています、「天主」の事を意味しています。今日ボートに乗っているのは私たちです。使徒たちと一緒に小舟に乗って、この世を渡ろうと、天国まで行こうとしています。ちょうどこの小舟に乗って、四旬節の40日の断食を果たそうとしています。復活の岸まで行こうとしていますが、私たちにとって多くの誘惑があります。

教会は3つの敵を、私たちの救霊の敵を挙げています。1つは「肉」、私たちの利己主義、私たちの思い通りにしたい欲望。第2は「世間」、世間体、この世、財産、権力。最後に「悪魔」です。この三重の風が、私たちに吹き荒れて来るので、私たちは四旬節の間一生懸命断食や、あるいは施しや、あるいは祈りのオールを漕ぐのですけれども、進歩の兆しはありません。

夜の第4時、ちょうど四旬節の40日の断食を意味しているかのようではありませんか。イエズス様が、これまでイエズス様はこの私たちが四旬節の間ずっと、天から私たちの為に祈っていて下さっているようです。しかし遂に、「このままではだめだ」と思うその瞬間に、イエズス様は私たちの所にやって来ます。そして私たちの船に乗って下さいます、「心配するな。安心せよ。私だ、恐れるな。」しかもイエズス様は今日、皆さんを日本の各地から呼んで、そしてもう既に私たちの小さな霊魂のボートに乗りたいと思って、ミサの御聖体拝領の時には、私たちの心にやって来られます、「私だ、安心せよ。心配するな。四旬節の間は乗り切る事ができる。一緒にボートに乗ってあげよう。」イエズス様が使徒たちの船に乗った途端、反対の風がピタリと止まりました。

明日四旬節の第1主日では、教会はイエズス様が40日間断食をされて、最後に悪魔と戦う場面を見せます。イエズス様は言いました、弟子たちが一生懸命悪魔を払おうとしても、何も祈りの効果がない時には、「この種の悪魔は、祈りと断食でなければ追い払う事ができない。」ですからこの「祈りと断食には特別な力がある」という事をイエズス様は私たちに教えています。

また、「なぜ洗者聖ヨハネはいつも断食していたのに、あなたは断食しないのか?」「花婿の友達は、花婿がいる時に断食をするだろうか。花婿と一緒に祝うだろう。しかし花婿が取り去られたら、彼らは断食するだろう。」私たちはイエズス様の為に、イエズス様と共に、断食をしなければなりません。ヨハネは生涯断食しましたが、イエズス様は時々断食しました。そうする事によってカトリック信者たちに、「私たちの生活の基準は、いつも断食ではなくて、時々断食。イエズス様の為に、イエズス様と共にする断食である」という事を教えています。そして私たちに40日間の模範を見せて、「イエズス様と一緒に断食するように」と、それを聖化を、それを聖として下さいました。

もしも私たちがイエズス様と共に、イエズス様を私たちの霊魂に乗って頂いて、四旬節の間動くならば、反対の風は私たちを妨害するのがピタリと止まるでしょう。イエズス様はその模範を見せて下さったからです。

ところで最後の点は指定巡礼教会です。では一体聖トゥリフォンの教会とは一体何なのでしょうか?

実は秘密があるのです。聖トゥリフォンの教会というのは、実は今では無くなってしまいました。これはローマ皇帝デチウスの時に殉教した、祝日が11月10日の殉教者なのですけれども、この殉教者の聖遺物が奇跡を起こす事で非常に有名でした。そこで教会は、「断食によって、私たちの肉体も、そして霊魂も癒されるように。40日の私たちの聖なる修行が終わったその時には、見違えるようになっているように。癒された体と復活された体となるように」という事を望んでいます。

そこで聖トゥリフォンの教会に私たちを霊的に呼んで、そして集祷文では、「心も体も癒されますように」と祈って、そして福音書では最後に、「ゲネサレトの陸に浜辺に到着した時には、多くの人々が癒された。」これは聖トゥリフォンのイメージとぴったりと重なるものです。

今ではどうなってしまったかというと、18世紀にこの教会が破壊されてしまった時に、その聖遺物はその近くにあった聖アウグスティノ教会に移動されました。そこでそのそこの教会で、聖モニカの聖遺物を保存していた聖モニカのチャペルに聖トゥリフォンの聖遺物も移動して、今でも奇跡が起こっている、とあります。

ですから今日、このミサでこの3つの点を私たちによって、「さあ、40日の修業はどうだ。40日間の大小斎を一生懸命やるように」と励ましています。

ところで現代の規定によれば、私たちは40日間の断食をする義務は無くなってしまいました。灰の水曜日と聖金曜日だけになってしまいました。聖ピオ十世会の会員は、全ての四旬節の金曜日にも、あと四季の祭日にも大小斎を捧げますが、しかしそれは一般の方にとっては義務ではなくなってしまいました。しかし霊的に私たちは断食をする事ができます。断食をするのは、まず罪からと、罪の機会から私たちを遠ざけなければなりません、断食しなければなりません。

マリア様に、私たちが一体どのようなものを断食しなければならないか、それの教えて頂くように今日お願い致しましょう。聖トゥリフォンの御取り次ぎによって私たちの霊魂が癒されますように。

またイエズス様が今通り過ぎようとしていますから、「さぁイエズス様、どうぞ通り過ぎないで下さい。私の霊魂に来て下さい」と叫んで御聖体拝領する事に致しましょう。

「安心せよ、私である。心配するな。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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