2017年11月12日(主日)聖霊降臨後第23主日のミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年11月12日、聖霊降臨後第23主日のミサを捧げています。
今日この御ミサの後で、14時からいつものように公教要理を提案したいと思います。今日はマリア様の御告げについて黙想しましょう。
公教要理の後には、また来週の主日にも歌う固有の聖歌を練習、特にアレルヤと奉献文offertoriumの練習を、有名な歌ですので提案したいと思っています。
16時からは晚課があります。
12月の最初のミサの事で、12月3日のミサですが、午後の13時からロザリオ、13時30分からミサの予定です。非常に不便な時間帯となってしまうかもしれませんが、どうぞご理解をお願い致します。
「もしもこの方の御服にでも触ったならば、私は治るだろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖霊降臨後第23週、今日から典礼の固有文が、特にグレゴリオ聖歌が、書簡と福音書を除いて、これから最終の主日まで同じものが歌われます。
このこうする事によって、教会は一体何を私たちに訴えようとしているのでしょうか?一体カトリックの典礼の、今から私たちに与えたいと思っているメッセージの一番の重大な内容は何なのでしょうか?それを今日は、その教会の精神に従って黙想する事を提案します。
その黙想の結果、私たちは一体この精神にピタリと当てはまるモデルはどこにあるだろうかという事に、どうしても考えが及んでしまいます。その第2点には、そのこの典礼の全ての点にピタリピタリと当たるある方を思い、
最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。
今日の典礼の核心は、「イエズス様が最後に、時の終わりに、私たちを生ける者と死せる者とを裁く為に戻られる、その時には私たちの元に戻られる時には、私たちに特に選ばれた者たちに平和を、永遠の平和を、永遠の至福を与える為にやって来る」という事を私たちに教えようと思っています。「主の到来はすぐ近くだ。その時には私たちにとって、もはや恐るべき日ではなくて、喜びのハッピーな主の御到来のお戻りの時期とならなければならない。」その為に教会は私たちを準備させようとしています。
特にこの教会が注意を向けようとしているのは、死者の復活です。ですから今日福音の中で、病気を持った女性が治り、イエズス様の服に触っただけで治り、第2に、イエズス様がヤイロの会堂の司の招きで、娘が亡くなったというのを呼ばれて、「来て下さい」と言われて素直にそのまま行って、娘の為に葬儀をしている人たちに、笛を吹いたり色々儀式をやっている人たちに、「下がりなさい。この子は寝ているだけだ。死んではいない。」皆はイエズス様の事を笑うのですけれども、彼女の手を取って甦えらせました。これはもちろん教会が、イエズス様が私たちのもとにやって来る時に、「今は死んだお墓の中に入っている人たちが、もう一度イエズス様の手から取られるように甦える。彼らたちはただ寝ているだけだ。もう一度起きる時が来る」という事を教えようと思っています。
それのみならず、長い間病を受けていたこの夫人が、12年間の病を受けていた夫人が、イエズス様の服に触っただけで良くなったという事は、罪の結果である苦しみ、悲しみ、病なども、イエズス様によって癒される。罪自体によって死んでいる霊魂も、イエズス様が霊的に復活して下さる事ができる、という事も表しています。
ではこの霊的に復活する為に、病が癒される為にはどうしたら良いのでしょうか?教会は私たちに2回も同じ言葉を繰り返させます、「深い淵の中から主に呼びかけ」と。イエズス様の復活をよく準備する為に、イエズス様の到来をよく準備する為に、それによる復活を準備する為に、聖パウロの言葉を私たちに聞かせます、「キリストの真似をしている私の真似をしなさい。十字架の敵ではなく、十字架の友となれ」と。
なぜかというと、「霊魂において病に苦しむ人、霊魂において死んでいる人は、肉の奴隷となっている。彼らの礼拝する神々は自分の腹だ、自分の肉体であり、快楽だ。彼らはキリストの十字架を避けている、憎んでいる。自分よりも高いものは権威はないと考えている。自分こそが神であると考えている、誤解している。」
ちょうどつい最近、恐ろしい自殺幇助の罪の人が捕まったそうですけれども、それを見るとまさに、自分よりも上の天主、この生命の与え主というものを何も考えていない世界がここにあるのではないか、と思われてなりませんでした。聖ピオ十世教皇様も約100年前に言います、「現代にはぺストがある、人類は病にかかっている。その病というのは、自分自身を人間を、天主の玉座に据えるという病である。不信の、天主を拒否するという病であり、その為に人類は奈落の底に駆け寄ろうとしている」と警告していました。
そこで聖パウロは私たちに、「そうではなくてキリストの十字架の敵ではなくて、その友となるように。十字架の足元にふもとに行くように。自分の十字架を日々取って歩くように」と勧めます。「私たちはこの地上において旅人として、あたかも外国人であるかのように、よそ者であるかのように、いつも天国を眺めて、十字架を取って歩くように。なぜならば、そうすると私たちの惨めな体も、その病や罪の結果において苦しむこの体も、イエズス・キリストの栄光の体と同じように変えられる時が来るから、いつも主を待ち望むように」と勧めます。「ある日イエズス・キリストが来られる時に、すべての死者は墓からよみがえり、裁きを受ける為によみがえるだろう」と。ただしパウロと共に一緒に働いた戦った、この彼らの為には特別にパウロは名前を挙げて、彼らに感謝を示しています。なぜかというと、「彼らの名前は、命の本の中に書かれているからだ」と。
第2の点は、このような考察をすると最後に、教会は御聖体拝領の時にすでに、「お祈りをした時にすでに受けたように、受けたように信じろ、そうすれば叶えられる」と言っていて、イエズス様を私たちが御聖体拝領で受けた時にこの祈りを祈らせます。イエズス様は私たちにすでに、私たちの心を癒すものとして、私たちの霊魂と心をキリスト化するものとして、ミサですでに来られるのですから。
ところでこのような考察をした後に、どうしても色々な全てのところでピタリピタリと合う方がどうしても浮かんできます。キリストの、キリストに一番良く倣った方はどなたでしょうか?
それは古の時から蛇のかしらを踵で踏んで、罪の汚れのないある御方です。その方こそが罪の汚れなさにおいて、キリストに全く学んだ似通ったものとなりました。十字架の敵ではなく十字架の友となった方は、十字架の下にいつも留まった方は一体どなたでしょうか?それは汚れなき御心を、貫かれた心を持ったマリア様でした。イエズス様と共に救霊の為に戦って、イエズス様の聖心の中に最も一番に命の本に書かれていなければならない方とはどなたでしょうか?マリア様に他なりません。
大体「命の本に書かれる」というのは、もちろんこれはそのような本があるというわけではなくて、これは天主の知識の中にあるという事であって、なぜそのような比喩を使っているのかパウロは使うのか、あるいは聖書は使うのかというと、これは特別な使命に召された人であるからです。例えば軍人に召集されたという時には、例えば共に書かれたという意味で“conscription”されたと言いますが、それと同じように、「キリスト様の為に戦った。戦いに呼ばれて、それと共に栄誉を受ける人」という意味で、「命の書に書かれた人」です。まさにマリア様です。
この福音書に出てくる女性は、「もしもイエズス様の服に触っただけでも私は治る」と思って近寄って治りましたが、イエズス様の服のみならずイエズス様がそこから全てを頂いた、その胎内におられた方はどなたでしょうか?服よりももっと緊密な存在というのはマリア様です。あるいはイエズス様が手を取った、その手を取って生かしたのですけれども、イエズス様はマリア様の胎内にいる時からすでにマリア様によって運ばれて、洗者聖ヨハネを聖化しています。罪を赦し、最初の霊的な奇跡を行っています。
この今日のミサをよく見ると、平和の考えというのはマリア様の事であり、もしも私たちがマリア様を通してイエズス様に求めるならば、もうこれはすでに叶えられなければならない、と思わなければならない事だと分かります。
では今日の黙想の後に、何を遷善の決心として取ったら良いでしょうか?
特に聖母の汚れなき御心に対する信心をもう一度よくやる遷善の決心を立てましょう。私たちの究極の目的は天国であり、その為に私たちがここに存在しています。その為に一番、私たちがたとえ罪の病やあるいは罪によって死んでしまったとしても、私たちを生かして天国へと導く方はマリア様です。
その為にマリア様は100年前にファチマに来られました。今ちょうど今年、ボルシェビキ革命の100周年、ルターの宗教革命の500周年など、あるいはフリーメーソンのロッジ300周年などを祝っていますが、十字架の敵ではなく私たちは、マリア様を通して十字架の友となりましょう。聖母の汚れなき御心の信心を特によく捧げる事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。