2018年2月11日(主日)五旬節の主日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年2月11日、五旬節の主日のミサをしております。
2つの主日のお知らせがあります。来たる水曜日、2月14日は灰の水曜日です。四旬節が始まります。この日は成人の20歳以上59歳までの健康な男女の信者は、大小斎を守らなければなりません。1日に1回ご飯を食べて、そして肉を食べないという事です。
聖伝によれば、昔はこの灰の水曜日から40日間大小斎を捧げていました。主日を除いて復活祭まで捧げていましたが、現代では非常にそれが緩和されて、40日間の代わりに2日だけ、灰の水曜日とそして聖金曜日だけになりました。どうぞこのチャンスを逃さないようにお捧げ下さい。
明日は9時30分からミサがあります。特に明日はミサの直後に、日本の平和の為に、また朝鮮半島が共産主義の支配の下に陥ってしまわないように、特別に聖時間を設けたいと思っています。
「ダヴィドの子イエズスよ、私を憐れんで下さい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は五旬祭の主日で、四旬節へのスタートラインがもうそこに見えていて、2月14日はすでに「位置について、よーいドン!」で、四旬節の犠牲を祈りを始めなければなりません。
最後のウォーミングアップとして、3週間続いた七旬節・六旬節の最後の準備の、最高潮に達しています。
そこで今日は、どうやって教会は私たちに四旬節の準備をウォーミングアップをさせて、今日一体どんな事を、どうゆう風にさせて四旬節の準備をするのを望んでいるかを黙想する事を提案します。
今日の主人公は、皆さんです。この前は2月2日は皆さんはシメオンでしたが、今日は道端に座っている盲目の乞食です。
今日は皆さんがこの彼なのです。そして教会はこの盲目の乞食にスポットライトを当てて、「さぁ、これが皆さんですよ。彼がやったようになさりなさい」と示しています。そこで3つの段階があります。
1つは、その為にこの道端に座っていた、この盲目の人と同じような境遇だった人を何人か、2つのグループをみせます、1人は聖ペトロです、もう1つは十二使徒です。そしてこの今日の主人公、私たちが出てきます。
そして教会はその後で御聖体拝領の時に、「しかし、私たちの望みは決して無駄にはならない。私たちは全て満たされる」という事を約束して、御聖体拝領をさせて、そして「さぁ、スタートに立つように、四旬節を張りきるように」と応援しています。
今日はその事を、どのようになっているか見てみます。
まず第1に出てくるのは、聖ペトロです。私たちを霊的に指定巡礼教会、聖ペトロ大聖堂に連れて行きます。聖ペトロのお墓の元に、殉教したそのペトロのお墓の元に行って、「ここでお祈りをするように」と招きます。聖ペトロこそ新約聖書の、新約の教えの基礎となる、イエズス・キリストがその御自分の教会をお建てになったその基礎の巌です。この基礎の巌の上に私たちの四旬節を建てるように、と求めています。
ところでこの四旬節の基礎となる聖ペトロは、私たちに何を教えているでしょうか?
実は聖ペトロは、ガリレアという田舎に住む漁夫でした、お魚の漁師でした。田舎の「おじさん」でした。すみません言葉が悪いのですけれども。しかしイエズス様がペトロを選びました。そしてご自分の畑で働くようにと呼び出しを受けました。
特別の光を受けて、イエズス様から教えを受けたにもかかわらず、このペトロはイエズス様を否みます、3度否みます、「この人を知らない」「関係ない」「何の話か分からない、俺は関係ない。」そしてイエズス様がそのようなペトロをご覧になります。聖木曜日でした。イエズス様がペトロをご覧になった時に、ペトロはイエズス様の眼差しを見て、痛悔の苦い苦い涙を流します。そして聖ペトロは以後、死ぬまで涙を流し続けます、「イエズス様を否んでしまった」と。
このペトロに復活したイエズス様が現れて、たった1つだけ、同じ事を1つの質問を3回します。聖ペトロはその事を決して忘れる事ができません。そしてこれはペトロに、「ヨナの子シモン、ペトロ、お前は私の事を愛しているか。」「主よ、御身は全て御存知です。あなたは私が愛しているという事を御存知です。」「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」「主よ、確かに私はあなたを裏切ってしまったけれども、あなたは御存知です。私は御身を愛しています。」3回同じ事を聞きます。そして聖ペトロは回心しました。イエズス・キリストに対する愛を告白しました。そしてこの愛の上に、イエズス様は教会を建てようとします。
私たちを聖ペトロの元に連れて行った教会は、「この上に四旬節を送るように」と求めています。
ところが聖ペトロは、自分の口ではなく、自分の兄弟である同じくローマで殉教したパウロの口を通して、同じ事を言うように言います、「もしも天主に対する愛がなければ、たとえ断食をしても、たとえ持っている物を全て献金しても、奉献しても、たとえ私がこの身を焼かれるほど殉教の精神を持ったとしても、主に対する愛の為でなかったら、何の利益もない。」
「
四旬節の全ての私たちの祈りと犠牲とその全ての行為は、イエズス・キリストに対する愛に基づかなければならない。『さぁ、四旬節が始まるけれども、あなたは私の事を愛しているか』とイエズス様は私たちに問うている。」
これをぺトロはパウロの口を通して、今日書簡の中で語りかけています、「信仰は天国に行ってしまえば無くなってしまう。希望も天国に行ってしまえば無くなってしまう。しかし愛だけが永遠に残る。愛は、天主を愛して愛しすぎる事はない。四旬節もこの愛がなければ全く意味がない。」
第2は何かというと、それは十二使徒です。
遂に四旬節が始まろうとするという事は、つまりイエズス様の御受難の黙想が始まるという事です。イエズス様は何でそんなに苦しまなければならなかったのか、イエズス様は私たちを愛するが為に、これほど愛しているが為に、これほど苦しんでいる。しかし私たちはそのイエズス様の愛をどれほど理解しているでしょうか。
イエズス様はそこで、今日福音の中で、まず「さぁ、」エルサレムに行って、最後に3回目に行って、弟子たちに自分の受難と復活の予告をします、予言をします。しかし弟子たちはその事を理解できませんでした。盲目でした。何の事かさっぱり分かりませんでした。
私たちももしかしたらそうかも知れません。イエズス様が私たちはどれほど愛して下さっているか、という事に対して、実は分かっているようで理解していないのかもしれません。
イエズス様が一生懸命、「あぁ」皆さんが寒いだろうからといって、手袋を一生懸命夜なべして編んでくれたにもかかわらず、「何だこの色は、毛糸の手袋は嫌だ、毛皮の方が良い。こんなのは使えないよ。何だこれは、形が悪い、デザインが悪い」
イエズス様が私たちに贈る愛のしるし、色々な御摂理の愛のしるしは、私たちにとってイエズス様の愛として受け入れてきたのでしょうか。それとも聖ぺトロのように、「知らない、いらない」あるいはイエズス・キリストの愛を疑ったり、あるいはイエズス・キリストの御摂理に文句を言ったり、あるいはイエズス・キリストからのお恵みを、受けたお恵みをどれほど多く無駄にしてきた事でしょうか。
五旬節の主日では、教会は私たちに召命の話を聞かせました。道端でぶらぶらしていた人が、「お前、私のブドウ畑で働け。お前なんで1日中こんなに無駄にしているのか。」「お前なんでこんな所でぶらぶらしているのか、さぁお前も働け。」そして私たちも、1人では何もできず、何の事かよく分からずに道に座っていた、盲目の乞食のようでした。
しかし今日は周りの人が、特に神父様が「あぁ、2月14日だよ。四旬節だ。」と言っています。
「これは何の話だろうか?イエズス様の御受難?え?誰が通っているのですか?誰がいらっしゃるのですか?」
「イエズス・キリストが、2月14日から私たちの元にいらっしゃる。イエズス・キリストがもしもここで通ったらもう帰って来ない、一度通り過ぎたらもう戻って来る事はない。今しかチャンスがない。」
この乞食は「え?イエズス様が来た?」と聞いて、叫びに叫びました、「ダヴィドの子、憐れみ給え!」
ちょうど目が開かれていなかった使徒たちからすぐに、第3の私たちへとスポットライトが当たります。
私たちは今日、「四旬節が近い。イエズス・キリスト様が御恵みを持っていらして下さっている」という話を聞いています。
私たちはまだ何の事かよく分かりません。イエズス様がどれほど私たちを愛しておられるか、という事もよく分かりませんし、この苦しみの意味もよく分かりませんが、しかしイエズス様に多くの信頼をもって祈ります。
「ダヴィドの子よ、私を憐れんで下さい!憐んで下さい!」
「黙れ!」
「あぁ!ダヴィドの子よ!」誰も止める事ができません。そして
教会は皆さんに私たちに「同じようにこの四旬節にはイエズス様が通るから、もしもこのチャンスを逃したら、もう一生盲目のまま残るかもしれない。さぁ、恐れずに祈れ。恐れずに犠牲を捧げよ。この機会を逃すな」と招いています。
そこで私たちも同じように、「主よ、憐んで下さい!」と祈り犠牲を捧げなければなりません。私たちがするのはそれです。愛に基づいてしなければなりません。
この乞食を見て、イエズス様はこの乞食を自分の元に呼び寄せます、「何をしてもらいたいのか?」
「見えるようにして下さい。」
するとイエズス様は光を与えます。
私たちもイエズス様の元に近寄らなければなりません。教会はこの私たちをイエズス様の元に近寄るように招いています。イエズス様は私たちに聞きます、「何が欲しいのか?」
どうぞ仰って下さい、「光を下さい、イエズス・キリストあなたご自身を下さい。御身はどうしてそのように苦しまれたのか、その意味を教えて下さい。イエズス様、御身はどれほど私たちの事を私の事を愛しているのか、それが分かるようにして下さい。そして私が御身を愛する事ができるように、光を下さい。」
この私たちの叫びは復活祭まで続きます。復活祭の時には、イエズス様は私たちに、復活の火を灯して下さいます。私たちに光を与えて見えるようにしてくれます。
その時に私たちは、なぜイエズス様がこれほど苦しまれたのか、理解する事でしょう。私たちに永遠の命を与える為です。復活を与える為、天主の光を与える為だと。
その時に私たちは全て満たされる事でしょう。最後に教会は、御聖体拝領の時に、聖歌隊をして私たちの耳に何度もこの歌を聞かせます、「彼らは食べて満足した、満たされた。そしてこの彼らの希望は決して無駄ではなかった。」
私たちは道に座っている、何も分からない盲目の乞食です。今日は特に、今年はルルドのマリア様の祝日でもあります。ルルドのマリア様は仰いました。まさに四旬節の言葉を仰いました、「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」
聖ベルナデッタにこう言います、「私はあなたに、この地上では幸せを幸福を約束しません。しかし来世では約束します。」
私たちもマリア様のお言葉を聞いて、ぜひ良い四旬節の決心を立てる事に致しましょう。既に皆さんはもう良い決心を立てていると少し聞きました、車の中で。どうぞ寛大な決心を立てて下さい。今日のこの乞食のように、イエズス様にひたすらに祈りと犠牲を捧げて下さい。
“Jesu, fili David, miserere mei.”
「ダヴィドの子イエズスよ、私を憐れんで下さい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。