Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年2月16日(金)  灰の水曜日の後の金曜日 「四旬節の模範」

2018年03月26日 | お説教・霊的講話
2018年2月16日(金)灰の水曜日の後の金曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月16日、灰の水曜日の後の金曜日のミサをしています。今日この御ミサの後には、いつもの通り感謝のお祈りをしますが、その後に灰の式をしたいと思っています。どうぞ皆さん灰を受けて下さい。この灰を受ける式は、私たちが天主の御前で罪を犯し、無であるという事、特にアダムとエヴァが最初に罪を犯した時に言われた宣告の言葉を、私たちはもう一度教会によって聞かされます、「お前は塵であって、塵に帰るものだ。その事を覚えよ。」アダムとエヴァの最初の灰の水曜日を私たちがもう一度思い出します。その後に、できれば終課の祈りを唱えましょう。

明日は10時30分からミサがありますが、特に公教要理の代わりに、御聖体降福式をして、特に中国にいるカトリック信徒の為に、ぜひ特別の御憐れみを乞い願いたいと思っています。また韓国の為にもお祈り下さい。韓国が南ベトナムのようにならない為にも、ぜひ共産主義による統一と征服が行なわれない為にも、ぜひお祈りをお願い致します。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は灰の水曜日の後の金曜日で、教会は聖ヨハネとパウロ殉教者の指定巡礼教会に私たちを連れて行きます。一体なぜなのでしょうか?四旬節とどういう関係があるのでしょうか?それを黙想する事を提案します。

教会が望む四旬節の模範を、聖ヨハネとパウロが私たちに示してくれているという事を黙想した後に、

私たちも遷善の決心を立てる事に致しましょう。

では第1に、なぜ私たちは聖ヨハネとパウロの殉教者の指定巡礼教会に霊的に行くのでしょうか?なぜかというと、この2人の殉教者聖人たちは、非常にローマで有名な愛徳の聖人だったからです。特に大きな自分たちの持っていた財産を、貧しい人たちに施しました。そして自分たちの家を教会として開放していました。それは、「自分たちが遂には、天主様の家に受け入れられる事ができるように」との意向でした。

このような教会の事を古代では助祭の、「助祭職の教会」と言われていました。なぜかというと、助祭というのは使徒たちの制定によって、「貧しい人たちを助ける」という特別の使命を持っていたからです、食べ物を配ったり。使徒たちが、「私たちが天主の御言葉を脇に置いて、食べ物を配って良いだろうか。これらを助祭に任せよう」と助祭を決めたからです。殉教者聖ヨハネとパウロはこの愛徳の奉仕の義務をよく行なっていました。

ところで四旬節には教会は、私たちに3つの愛徳の業を行うように、と勧めています。1つは「祈り」です。もう1つは「断食」です。そしてもう1つは「施し」なのです。特に今日聖ヨハネとパウロの模範によって、私たちにこの「施し」の事を教えようとしています。

書簡では私たちに、断食をどのように行うべきか、という事を教えています、「断食は、私たちが天主による愛によって行なわれなければならない。特に霊的に罪からの断食を行わなければならない。私たちの生活を改めるという事が目的だ」という事を教ようとしていますが、特に教会はそれと共に、断食を補完する施しについても目を向けさせようとしています。

ですから、この施しというのはどのようになさるかという事を、聖福音でもう一度言います、「施しというのは、私たちは純粋に愛によってなされなければならない。この愛というのは、敵さえも愛するという愛によって、天主を愛するが為に、私たちのエゴイズムではなく利己主義ではなく、隣人愛を施すこの愛によって施さなければならない。私たちの見栄の為でもなく、私たちの何らかの利益の為ではなく、純粋な天主への愛によって、憐れみによってなさなければならない。」

聖ヨハネとパウロはこの事を知っていました。そこで昇階誦でも、「私は1つの事だけを天主に望む。それは、天主の家にいつも居る事だ。」つまり聖ヨハネとパウロがやったように、自分の家を与えても、それをしてでも望んだ事は、「天主の家に行く」という事でした、「天国に行く」という事でした。そして天主が、「天主聖父が完壁であるように、自分も完全でありたい」と思ったのでした。

では私たちは今日、四旬節のスタートラインをすでに切った私たちは、どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

教会の声に従って私たちは、全ての事を愛に基づいて、イエズス・キリストへの愛によって為す事に致しましょう。私たちが祈りをするのも、断食をするのも、施しをするのも、利己主義のエゴイズムではなくて、自分の為ではなく、イエズス・キリストへの愛の為に、その決心を立てましょう。その今日の模範が聖ヨハネとパウロです。そして私たちのとっての模範はマリア様です。マリア様のその全御生涯がこれでした、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」「私の願いではなく、主の御旨がなされますように。仰せの如く我になれかし。」主の御旨、主を愛するが為に。この主を愛する四旬節となる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月12日(月)  証聖者童貞聖マリアの僕の会の七創立者のミサ 「世界に本当の平和をもたらす方法」

2018年03月26日 | お説教・霊的講話
2018年2月12日(月)証聖者童貞聖マリアの僕の会の七創立者のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月12日、7人の聖母のしもべの会の創立者の祝日を祝っています。

今日この御ミサが終わった後には、御聖体降福式、聖時間を捧げたいと思っています。特に世界の平和、日本の平和と、朝鮮半島での平和の為にお祈りをお願いします。

韓国が共産主義の手の元に入ってしまわないように、お祈りをお願い致します。また中国大陸にいるカトリック信者の人々の為にも、お祈りをお願い致します。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、ついに明後日からは四旬節が始まります。灰の水曜日です。その灰の水曜日の前に教会は、天主様の御摂理によって、7人の聖母のしもべの会の創立者の祝日を祝うように、その模範に倣うようにと私たちを招いているようです。

そこでぜひ、この今日祝っている祝日の聖人はどのような人なのかを見て、

実は、このような聖人たちが現代必要だ、という事を黙想し、

最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

7人の聖母のしもべとはどういう人たちかというと、13世紀のフィレンツェという豊かな、そしてとても富に満ちたところに生きていた人々です。今でもフィレンツェといえばドミニコ会の聖マルコ教会があったり、フラ・アンジェリコの絵画があったりしてとても有名で、とても裕福な都市でした。

しかし13世紀には、フェデリコ2世というトップが教会に対して攻撃を始め、そして貴族たちが相互に互いに争い合っていました。そして非常に残酷に殺し合ったり、分裂したり、そしてその風紀は非常に乱れていました。

そのような時に、1233年、御昇天の大祝日に、マリア様が7人の貴族の兄弟たちに現れて、1人1人に現れて、そして「より完璧な生活を送るように」と招きました。

7人の貴族たちは兄弟たちで、非常に高貴な生まれで、富も莫大な富を持っていました、権力もありました。しかしこのマリア様の特別な御旨を知ると、その富も名声も力も全て捨てて、「マリア様に従う」と言いました。

教皇様にその事を言うと、教皇様はその事を、「そうするように」と言って下さいました。そこで、ただより大きな、より完璧な生活をする、という目的で、7人の兄弟たちが兄弟愛に従って、清貧と苦行の生活を始めました。その始める日は9月8日、マリア様の誕生日から、という事になりました。

隠遁生活をして、祈りと特にイエズス様の御受難を黙想するように、そしてそれと共にマリア様の七つの悲しみを苦しみを、十字架の下に佇むマリア様の御悲しみを黙想するその団体ができました。

その兄弟たちがある時、通りすぎる時、子供たちが「マリア様のしもべたちだ!」と叫んだのです。その中にはその内の子供の中には、4ヶ月になる聖フィリッポ・ベニティオもいました。この「聖母マリア様のしもべ」という名前がそのまま残りました。

次にマリア様が聖金曜日にお現れになって、「修道服はこのようにしなさい」というご自分の望みをお知らせになって、そして教皇イノチェンテ四世によって正式に修道会として創立されました。

この聖母のしもべ修道会は特に、マリア様の御苦しみ御悲しみを黙想する、マリア様をお慰めする、という事を非常に大切に、特にその事を黙想する事をしました。マリア様の御悲しみを黙想すれば黙想するほど、その修道会はますます会員を増やし、フランスやドイツやポーランドなどにもその修道会を増やし、多くの人々を回心に導きました。

特にフィレンツェでは、この兄弟たちがマリア様の元で、富も名声も捨てて、苦行と祈りの生活に入るのを見て、貴族たちも戦いをやめて、そして街に平和が戻ってきました。

ちょうど現代の社会はまさにこれのようです。人々が自分の富と権力とを求めて、ある者は独裁者になろうとし、ある者はその独裁の権力を保持しようとますます人民を圧迫したり、世界の平和を脅かそうとしたりしています。このような時にちょうどマリア様は、それらに打ち勝つ方法は、世界に本当の平和をもたらす方法は、「私たちの祈りであって、苦行である。聖なる生活である」という事を今日お知らせになっているかのようです。

特に四旬節の始まる前には、「この7人の貴族たちの生活を見倣うように」と、目の前に模範を示しているかのようです。このそのままでいれば何の不便もない生活を送る事ができたこの貴族たちは、より高度な目的の為に、「マリア様に仕える」という目的の為に、そしてフィレンツェと世界の平和と人々の福利の為に、天主への光栄の為に、全てを捨てて祈りと苦行の生活に入ったのでした。

私たちも、私たちはその全てを捨ててこの7人の創立者のような事はできませんけれども、しかし少なくとも、マリア様の御悲しみを黙想する、祈りを捧げる、ちょっとした犠牲を捧げる、という事はできそうです。

今日は四旬節の始まる2日前です。特に良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。7人の創立者の御取り次ぎによって、マリア様の御取り次ぎによって、私たちが今年の四旬節こそ、特に平和がこれほど現実に脅かされている現代、今年の四旬節こそ、何かをしなければ本当に戦争が勃発してしまったり、あるいは多くの人々の何百万人という人々がボートピープルになってしまったり、難民になったり、あるいは命が失われてしまう危険があるこの四旬節を、聖なるものとして過ごす事ができますように、良い決心を立てる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月11日(主)  五旬節の主日「今日は私たちは道端に座っている盲目の乞食です。」

2018年03月26日 | お説教・霊的講話
2018年2月11日(主日)五旬節の主日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月11日、五旬節の主日のミサをしております。

2つの主日のお知らせがあります。来たる水曜日、2月14日は灰の水曜日です。四旬節が始まります。この日は成人の20歳以上59歳までの健康な男女の信者は、大小斎を守らなければなりません。1日に1回ご飯を食べて、そして肉を食べないという事です。

聖伝によれば、昔はこの灰の水曜日から40日間大小斎を捧げていました。主日を除いて復活祭まで捧げていましたが、現代では非常にそれが緩和されて、40日間の代わりに2日だけ、灰の水曜日とそして聖金曜日だけになりました。どうぞこのチャンスを逃さないようにお捧げ下さい。

明日は9時30分からミサがあります。特に明日はミサの直後に、日本の平和の為に、また朝鮮半島が共産主義の支配の下に陥ってしまわないように、特別に聖時間を設けたいと思っています。


「ダヴィドの子イエズスよ、私を憐れんで下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は五旬祭の主日で、四旬節へのスタートラインがもうそこに見えていて、2月14日はすでに「位置について、よーいドン!」で、四旬節の犠牲を祈りを始めなければなりません。

最後のウォーミングアップとして、3週間続いた七旬節・六旬節の最後の準備の、最高潮に達しています。

そこで今日は、どうやって教会は私たちに四旬節の準備をウォーミングアップをさせて、今日一体どんな事を、どうゆう風にさせて四旬節の準備をするのを望んでいるかを黙想する事を提案します。

今日の主人公は、皆さんです。この前は2月2日は皆さんはシメオンでしたが、今日は道端に座っている盲目の乞食です。

今日は皆さんがこの彼なのです。そして教会はこの盲目の乞食にスポットライトを当てて、「さぁ、これが皆さんですよ。彼がやったようになさりなさい」と示しています。そこで3つの段階があります。

1つは、その為にこの道端に座っていた、この盲目の人と同じような境遇だった人を何人か、2つのグループをみせます、1人は聖ペトロです、もう1つは十二使徒です。そしてこの今日の主人公、私たちが出てきます。

そして教会はその後で御聖体拝領の時に、「しかし、私たちの望みは決して無駄にはならない。私たちは全て満たされる」という事を約束して、御聖体拝領をさせて、そして「さぁ、スタートに立つように、四旬節を張りきるように」と応援しています。

今日はその事を、どのようになっているか見てみます。

まず第1に出てくるのは、聖ペトロです。私たちを霊的に指定巡礼教会、聖ペトロ大聖堂に連れて行きます。聖ペトロのお墓の元に、殉教したそのペトロのお墓の元に行って、「ここでお祈りをするように」と招きます。聖ペトロこそ新約聖書の、新約の教えの基礎となる、イエズス・キリストがその御自分の教会をお建てになったその基礎の巌です。この基礎の巌の上に私たちの四旬節を建てるように、と求めています。

ところでこの四旬節の基礎となる聖ペトロは、私たちに何を教えているでしょうか?

実は聖ペトロは、ガリレアという田舎に住む漁夫でした、お魚の漁師でした。田舎の「おじさん」でした。すみません言葉が悪いのですけれども。しかしイエズス様がペトロを選びました。そしてご自分の畑で働くようにと呼び出しを受けました。

特別の光を受けて、イエズス様から教えを受けたにもかかわらず、このペトロはイエズス様を否みます、3度否みます、「この人を知らない」「関係ない」「何の話か分からない、俺は関係ない。」そしてイエズス様がそのようなペトロをご覧になります。聖木曜日でした。イエズス様がペトロをご覧になった時に、ペトロはイエズス様の眼差しを見て、痛悔の苦い苦い涙を流します。そして聖ペトロは以後、死ぬまで涙を流し続けます、「イエズス様を否んでしまった」と。

このペトロに復活したイエズス様が現れて、たった1つだけ、同じ事を1つの質問を3回します。聖ペトロはその事を決して忘れる事ができません。そしてこれはペトロに、「ヨナの子シモン、ペトロ、お前は私の事を愛しているか。」「主よ、御身は全て御存知です。あなたは私が愛しているという事を御存知です。」「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」「主よ、確かに私はあなたを裏切ってしまったけれども、あなたは御存知です。私は御身を愛しています。」3回同じ事を聞きます。そして聖ペトロは回心しました。イエズス・キリストに対する愛を告白しました。そしてこの愛の上に、イエズス様は教会を建てようとします。

私たちを聖ペトロの元に連れて行った教会は、「この上に四旬節を送るように」と求めています。

ところが聖ペトロは、自分の口ではなく、自分の兄弟である同じくローマで殉教したパウロの口を通して、同じ事を言うように言います、「もしも天主に対する愛がなければ、たとえ断食をしても、たとえ持っている物を全て献金しても、奉献しても、たとえ私がこの身を焼かれるほど殉教の精神を持ったとしても、主に対する愛の為でなかったら、何の利益もない。」

四旬節の全ての私たちの祈りと犠牲とその全ての行為は、イエズス・キリストに対する愛に基づかなければならない。『さぁ、四旬節が始まるけれども、あなたは私の事を愛しているか』とイエズス様は私たちに問うている。

これをぺトロはパウロの口を通して、今日書簡の中で語りかけています、「信仰は天国に行ってしまえば無くなってしまう。希望も天国に行ってしまえば無くなってしまう。しかし愛だけが永遠に残る。愛は、天主を愛して愛しすぎる事はない。四旬節もこの愛がなければ全く意味がない。」

第2は何かというと、それは十二使徒です。

遂に四旬節が始まろうとするという事は、つまりイエズス様の御受難の黙想が始まるという事です。イエズス様は何でそんなに苦しまなければならなかったのか、イエズス様は私たちを愛するが為に、これほど愛しているが為に、これほど苦しんでいる。しかし私たちはそのイエズス様の愛をどれほど理解しているでしょうか。

イエズス様はそこで、今日福音の中で、まず「さぁ、」エルサレムに行って、最後に3回目に行って、弟子たちに自分の受難と復活の予告をします、予言をします。しかし弟子たちはその事を理解できませんでした。盲目でした。何の事かさっぱり分かりませんでした。

私たちももしかしたらそうかも知れません。イエズス様が私たちはどれほど愛して下さっているか、という事に対して、実は分かっているようで理解していないのかもしれません。

イエズス様が一生懸命、「あぁ」皆さんが寒いだろうからといって、手袋を一生懸命夜なべして編んでくれたにもかかわらず、「何だこの色は、毛糸の手袋は嫌だ、毛皮の方が良い。こんなのは使えないよ。何だこれは、形が悪い、デザインが悪い」

イエズス様が私たちに贈る愛のしるし、色々な御摂理の愛のしるしは、私たちにとってイエズス様の愛として受け入れてきたのでしょうか。それとも聖ぺトロのように、「知らない、いらない」あるいはイエズス・キリストの愛を疑ったり、あるいはイエズス・キリストの御摂理に文句を言ったり、あるいはイエズス・キリストからのお恵みを、受けたお恵みをどれほど多く無駄にしてきた事でしょうか。

五旬節の主日では、教会は私たちに召命の話を聞かせました。道端でぶらぶらしていた人が、「お前、私のブドウ畑で働け。お前なんで1日中こんなに無駄にしているのか。」「お前なんでこんな所でぶらぶらしているのか、さぁお前も働け。」そして私たちも、1人では何もできず、何の事かよく分からずに道に座っていた、盲目の乞食のようでした。

しかし今日は周りの人が、特に神父様が「あぁ、2月14日だよ。四旬節だ。」と言っています。

「これは何の話だろうか?イエズス様の御受難?え?誰が通っているのですか?誰がいらっしゃるのですか?」

「イエズス・キリストが、2月14日から私たちの元にいらっしゃる。イエズス・キリストがもしもここで通ったらもう帰って来ない、一度通り過ぎたらもう戻って来る事はない。今しかチャンスがない。」

この乞食は「え?イエズス様が来た?」と聞いて、叫びに叫びました、「ダヴィドの子、憐れみ給え!」

ちょうど目が開かれていなかった使徒たちからすぐに、第3の私たちへとスポットライトが当たります。

私たちは今日、「四旬節が近い。イエズス・キリスト様が御恵みを持っていらして下さっている」という話を聞いています。

私たちはまだ何の事かよく分かりません。イエズス様がどれほど私たちを愛しておられるか、という事もよく分かりませんし、この苦しみの意味もよく分かりませんが、しかしイエズス様に多くの信頼をもって祈ります。

「ダヴィドの子よ、私を憐れんで下さい!憐んで下さい!」
「黙れ!」

「あぁ!ダヴィドの子よ!」誰も止める事ができません。そして教会は皆さんに私たちに「同じようにこの四旬節にはイエズス様が通るから、もしもこのチャンスを逃したら、もう一生盲目のまま残るかもしれない。さぁ、恐れずに祈れ。恐れずに犠牲を捧げよ。この機会を逃すな」と招いています。

そこで私たちも同じように、「主よ、憐んで下さい!」と祈り犠牲を捧げなければなりません。私たちがするのはそれです。愛に基づいてしなければなりません。

この乞食を見て、イエズス様はこの乞食を自分の元に呼び寄せます、「何をしてもらいたいのか?」
「見えるようにして下さい。」
するとイエズス様は光を与えます。

私たちもイエズス様の元に近寄らなければなりません。教会はこの私たちをイエズス様の元に近寄るように招いています。イエズス様は私たちに聞きます、「何が欲しいのか?」

どうぞ仰って下さい、「光を下さい、イエズス・キリストあなたご自身を下さい。御身はどうしてそのように苦しまれたのか、その意味を教えて下さい。イエズス様、御身はどれほど私たちの事を私の事を愛しているのか、それが分かるようにして下さい。そして私が御身を愛する事ができるように、光を下さい。」

この私たちの叫びは復活祭まで続きます。復活祭の時には、イエズス様は私たちに、復活の火を灯して下さいます。私たちに光を与えて見えるようにしてくれます。

その時に私たちは、なぜイエズス様がこれほど苦しまれたのか、理解する事でしょう。私たちに永遠の命を与える為です。復活を与える為、天主の光を与える為だと。

その時に私たちは全て満たされる事でしょう。最後に教会は、御聖体拝領の時に、聖歌隊をして私たちの耳に何度もこの歌を聞かせます、「彼らは食べて満足した、満たされた。そしてこの彼らの希望は決して無駄ではなかった。」

私たちは道に座っている、何も分からない盲目の乞食です。今日は特に、今年はルルドのマリア様の祝日でもあります。ルルドのマリア様は仰いました。まさに四旬節の言葉を仰いました、「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」

聖ベルナデッタにこう言います、「私はあなたに、この地上では幸せを幸福を約束しません。しかし来世では約束します。」

私たちもマリア様のお言葉を聞いて、ぜひ良い四旬節の決心を立てる事に致しましょう。既に皆さんはもう良い決心を立てていると少し聞きました、車の中で。どうぞ寛大な決心を立てて下さい。今日のこの乞食のように、イエズス様にひたすらに祈りと犠牲を捧げて下さい。

“Jesu, fili David, miserere mei.”
「ダヴィドの子イエズスよ、私を憐れんで下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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