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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2016年聖母小黙想会【18】 8月15日聖母被昇天説教「マリア様の避難所に入り、マリア様の道を通るには具体的にどうするか?」

2019年02月12日 | お説教・霊的講話
2016年8月15日(月)聖母黙想会 童貞聖マリアの被昇天の大祝日のミサ
小野田神父 説教



“Mulier amicta sole, et luna sub pedibus ejus, et in capite ejus corona stellarum duodecim.”
「太陽の服を着た婦人が現れた。その足には月があり、頭には12の星があった。」


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母黙想会の参加者の皆さん、そして愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の被昇天の祝日においてこの聖母黙想会を終わるのは、とても意義が深いと思います。

そこで、マリア様の被昇天を黙想して、マリア様が一体どのような方であるのか、私たちの元后、天地の元后であり、私たちの母である、という事を黙想して、では私たちは一体何をしなければならないか、という遷善の決心を立てる事にしましょう。

今日入祭文では、聖ヨハネが黙示録でこう書いています、「太陽を纏(まと)った婦人が現れた。天に偉大なしるしが現れた。」教父たちは、特に聖ベルナルドなどは、「この黙示録のこの婦人は、マリア様だ。マリア様の被昇天だ」と言っています。

「太陽を纏った」という事は、イエズス様の天主の性質をまさにその纏った、という事であって、天主の御母という事を表しています。栄光に満ちた方であり、もう天主イエズス・キリストのすぐ、そのすぐ側に居る、という事です。

「月を踏んでいる」というのは、このいつも変わっているこの世を支配している、という事で、マリア様です。マリア様は予言された通り、アダムとエヴァに予言された通り、この月を踏み、そして蛇の頭を踏み砕く御方です。

マリア様が「12の星の冠を被っている」という事は、聖ベルナルドによると、「全ての階級の女王である、天と地の女王であるという事だ」と言います。「なぜならば、天の9つの階級と、地上のこの3つの階級の頭であるから。なぜかというと、この地上には、活動する人々と、観想する人と、指導する人がいるから。」あるいは聖トマス・アクイナスによれば、「博士の冠であり、童貞の冠であり、殉教者の冠である」と言うかもしれません。

昇階誦では、この「マリア様に、新しい歌を歌え。このマリア様に讃美をせよ。新しい天と地が創られたのであるから、新しい歌を歌わなければならない、新しい讃美を歌わなければならない」とします。天使たちが、人類よりも遥かに数多い、数千万、数億、数兆のおびただしい天使たちが、9つの階級の天使たちが、声をあげて心から讃美して、その前に額ずいています。跪き、マリア様を天使の元后として讃美しています。

それどころか、この地上のありとあらゆる聖人たち、大聖人、聖女、博士、教皇、聖なる修道者たち、殉教者たちが揃って、マリア様を讃美しています。マリア様と共に、マリア様の内に、生活してきた人々でした。殉教者はどれほど、このマリア様の慰めの声に助けられた事でしょうか。博士たちはどれほど、マリア様からイエズス様についてのインスピレーションを受けた事でしょうか。教皇様たちはどれほど、マリア様の助けをもって教会を指導してきた事でしょうか。多くの聖人たちはマリア様を讃美しています。

三位一体は極めて喜んでいます。なぜかというと、三位一体の大傑作であるからです。聖父の愛する娘、聖子の愛する御母、聖霊の浄い浄配。三位一体は今日、非常に大きな喜びと、満足と、光栄に満ちて、マリア様のこの偉大な祝日を祝っています。

マリア様はこのまさに、これ以上人類が持つ事ができないような、最高の尊厳と、威厳と、御稜威と、栄光と、権威とに満ちて、今日天で、高らかに被昇天を祝っています。これが天地の元后である、肉体も共に最初にイエズス様の栄光に入ったマリア様、最初の被造物マリア様の、ものすごい栄光と光栄の凱旋の記念です。

でも、そのようなマリア様を私たちが見ると、もしかしたら恐れおののいて目を伏せてしまって、平伏してしまって、もうその栄光のあまりにも素晴らしさに、打ちひしがれてしまうかもしれません。でも私たちはそのような素晴らしいマリア様に敢えて近付きます。なぜかというと、このマリア様は、「私たちの愛する最も緊密な母親でありたい」と思っているからです。マリア様は私たちを子供として、自分の愛する本当の子供として、私たちにそうある事を望んでいるからです。

マリア様が天主の御母となった、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と言ったその瞬間、天主の御母となったその直後、一体何をしたでしょうか?すぐに、一番この世から軽蔑されていたような、卑しい石女の老人、聖エリザベトの方まで、走って行きました、急いで行きました。山路を越えて、奉仕する為に行きました、助ける為に行きました。そしてマリア様が一番最初になさった言葉は、イエズス様を運んで、そのイエズス様の力を伝えて、その聖エリザベトの胎内にいた洗者聖ヨハネの罪を赦し、聖化し、そしてイエズスに似た者と、イエズスの先駆者とした事でした。

マリア様の態度はこれです。その天主の御母となったその最初に、一番小さな者に駆け寄ったとしたら、天の元后となったマリア様は、天地の元后であるマリア様は、凱旋したマリア様は、一番最初に何をするかというと、この地上に残されている愛する子供たちの為にとりなし、私たちの世話をし、私たちを保護し、私たちを助けたい、といつもジッと愛の眼をもって見守っているという事です。

もしもマリア様が、その全ての権威と権力を栄光をお持ちであるとしたら、マリア様は「これを全て、私たちの為に使いたい」と思っています。「私たちを助ける為に、私たちがますますイエズス・キリストのようになる為に使いたい」と思っています。その事をマリア様は洗者聖ヨハネにやって最初にやって、これからもこうする、と見せました。

そればかりではありません。マリア様はイエズス様の御母となり、その後、苦しみを分かち合った方でした。母親というのは、子供の苦しみをいつも同情し、子供と一緒に苦しむ方ではないでしょうか。マリア様は私たちと同じ苦しみを味わいました。30年間の貧しいナザレトの生活、イエズス様と共の生活、エジプトへの逃亡生活、祈りと労働の生活、マリア様はそれを私たちと共に体験されました。マリア様の御生涯はきらびやかな宮廷での生活では決してありませんでした。

そればかりではありません。イエズス様の公生活の3年間、マリア様はどれほど苦しまれた事でしょうか。イエズス様に対してなされる讒言、屈辱、冒瀆、疑いの言葉、非難の言葉、全てマリア様はそれを聞いて、イエズス様のその受ける苦しみを共に分かち合いました。全てこれは将来、私たちの為でした。

では、私たちはそのような母であるマリア様、私たちを愛してやまないマリア様、私たちと同じ苦しみを耐え忍んだマリア様に対して、どうすれば良いでしょうか?どんな事をしなければならないのでしょうか?

マリア様は、私たちがイエズス様に近付く事ができるように、それだけを考えています。私たちがイエズス・キリストのようになる事だけを望んでいます。イエズス・キリストと同じ栄光を、マリア様が今受けたその天の栄光と同じ栄光を私たちが受ける事を、イエズス・キリスト化する事を望んでいます。そしてその為にマリア様は、自分の御心を大きく開いて、「私の方に来なさい。私はあなたたちの拠り所ですよ。避難所ですよ。私が守ってあげましょう」と、御心を開いています。「私がイエズス・キリストへの、天の栄光への道を示してあげましょう」と言っています。

ファチマで、今から100年前にファチマでマリア様はこう仰いました、1917年6月13日、「私の御心は、罪人たちにとっての避難所となるでしょう。私の御心への信心を実践する人にとっての避難所となるでしょう。そして天国に通じる道となるでしょう。」

マリア様は待っておられます。私たちがマリア様の避難所に入り、マリア様の道を通って行く事を待っています。

では、具体的にどうやったらこの避難所に入り、どうやったらこの道を通る事ができるのでしょうか?マリア様は既に100年前に私たちに教えてくれました。

8月15日この今日から9ヶ月間、9ヶ月のノベナを始めるのはどうでしょうか?来年の5月13日まで、そのノベナによって私たちがますますマリア様の御心に深く入りますように、マリア様の道を通りますように。これはどうしたら良いのでしょうか?

第1に提案するのは、聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちに示したように、「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為に生活する」という事です。シュテーリン神父様が詳しく説明して下さったように、この4つの事はつまり、マリア様の汚れなき御心の信心を実践する、という事です。全て、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、私たちの祈りと犠牲を捧げる、という事です。

なぜかというと、「マリア様を通して」する、という事はどういう事かというと、「マリア様に従順である」という事です。
「マリア様、一体御身は、私が今何をする事をお望みですか?マリア様、マリア様の御旨は何ですか?私の自我ではなく、マリア様の御旨を果たさせて下さい。マリア様、私がどのように考えて、どのように行動する事をお望みですか?」と、マリア様の意向を果たそうとする事です。

マリア様は、私たちが祈り、犠牲を、特にイエズス様の為に捧げる事をお望みです。日常のこの全ての生活を、マリア様と共に生活する事をお望みです。

では、「マリア様と共に」生活するというのはどういう事でしょうか?「マリア様がなさるような事を、私たちも真似してする」という事です。
「もしもマリア様が私の今いる立場にいらしたら、何を考えるだろうか?どのように仰るだろうか?どのように行動するだろうか?」という事を黙想して、マリア様と共に、マリア様の助けを以ってそうする事です。マリア様の心の持ちように真似する事です。マリア様が持っていた平和の、愛徳の心の中に入って、それを真似する事です。
「マリア様が、マリア様であったらこう考えていただろう。この平和を保っていただろう。この良心の清さを保っていただろう。」

「マリア様に内に」するというのは、「全て、マリア様の精神の中で、マリア様の考えの中で行動する」という事です。1日がマリア様と一つになって生活する、という事です。

「全ては聖母マリア様の為に。」
マキシミリアノ・コルベ神父様の伝記を私たちは読みましたけれども、「全てマリア様の為に、無原罪の聖母の栄光と、霊魂の救いの為に、マリア様の母である御旨が果たされるように」とそれだけを望んでいました。

今日から9ヶ月間、来年の2017年5月13日ファチマの日まで、9ヶ月間のノベナを、この「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為に、全て、1日の全ての瞬間を捧げる」という事を提案します。

第2は、もっと具体的に、私たちは初土の信心を致しましょう。特に大阪では初土の信心がする事ができるようになっています。マリア様の汚れなき御心に捧げられた御聖堂を持っています。このような初土のできる御聖堂は、世界中でもそんなに多くありません。聖ピオ十世会が色々な所に行っていますけれども、初土のミサを捧げる事ができるのは限られています。どうぞこの9ヶ月の間、このノベナを心してする事に致しましょう。マリア様の汚れなき御心をお慰めする事に致しましょう。

第3にそして最後には、この初土だけではなく、初土の精神で毎日過ごす事に致しましょう。特に今日から、フェレー司教様はロザリオの十字軍を起動させました、「今日から1年と1週間、来年の8月22日の聖母の汚れなき御心の日まで、1200万環のロザリオと5000万回の小さな犠牲を、マリア様の汚れなき御心に捧げよう。」

「私たちはマリア様が何とかしてくれるからいいんだ。ファチマのマリア様が天の元后であるから、もう勝手に力を尽くしてやってくれれば、私たちは何もしなくていい、傍観していればいい、ただ批判していればいい」というわけでありません。私たちはマリア様の道具とならなければなりません。これがコルベ神父様が私たちに招いている事です、「聖母の道具として、マリア様を助ける」という事です。

マリア様は私たちを必要としています。私たちの祈りと犠牲を必要としています。8月19日、マリア様はこう仰いました、1917年8月19日、「多くの霊魂は、地獄に落ちている。なぜならば、誰も彼らの為に、祈りと犠牲を捧げる者がいないからだ。」マリア様は非常に悲しそうでした。マリア様は祈りと犠牲を捧げる者を必要としています。

そこでフェレー司教様は5つの意向を立てました。「マリア様の汚れなき御心に対する信心が確立しますように」「マリア様の御心の凱旋が1日も早く来ますように」そして「マリア様の御心にロシアが奉献されますように」そして「この意向の為に私たちがロザリオと、家庭の奉献や自己の奉献をして犠牲をするように」そして最後に、「聖ピオ十世会と、聖伝を守る全ての修道会が守られますように、マリア様から特別の保護を受けますように、導かれますように」という意向です。

どうぞこの今日から始まるロザリオの十字軍に、どうぞ寛大に参加なさって下さい。マリア様の汚れなき御心をお慰めする為に、その凱旋が早まりますように、どうぞマリア様にご協力下さい。このミサの後にはすぐに聖体降福式があって、そこにおいて私たちは、マリア様に対する奉献を更新する事に致しましょう。

「太陽を纏った婦人が現れた。足には月を踏み、そして頭には12の星の冠を被っていた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


教皇ピオ十一世回勅「モルタリウム・アニモス Mortalium animos」 真実の宗教の一致について 1928年1月6日

2019年02月12日 | カトリックとは
回勅「モルタリウム・アニモス Mortalium animos」

真実の宗教の一致について

教皇ピオ十一世 1928年1月6日

教皇ピオ十一世は、尊敬すべき兄弟たちに挨拶と使徒的祝福を送ります。

1 いつかは必ず死ななければならない人間の心は人類の共通善を求め、私たち全てを互いに緊密に結びつけようとし、人類兄弟の絆を強めたい、また拡張させたいと切望していますが、このような望みに今日ほど駆られたことはかつてありませんでした。

 世界はいまだ、平和の実りを完全に享受しているわけではありません。その反対に、さまざまなところでは新旧の反目がまだ、反乱や対立という形で吹き出ています。このようないざこざは、諸国の平静な繁栄に影響を及ぼしています。そのため、これを平定するには、これらの諸国の政府責任者が、協力して積極的に良い意志を持って努力するしか、為すすべもありません。従って現代は人類の一致がもはや疑問視されなくなっており、特に人類の普遍の家族関係を考慮し、全ての国々が日々互いにより緊密な関係を結ばなければならないと言う望みが遍く広がったのを、理解するのは容易なことです。

2 同じような動機で、私たちの主イエズス・キリストによって発布された新法に関連することにおいても、何らかの努力が払われています。

 ある人達は「宗教的感覚を完全に失ってしまった人は極めてまれである」と確信しています。そして、この確信を基礎に、諸民族を、その宗教の違いにもかかわらず、宗教生活の共通の基礎として認められる幾つかの教義を兄弟的に認めあうまでもって行くことが、容易にできるという希望を養っているようです。ですから、彼らはかなり多くの聴衆者が出入りする会合、集会、講演会などを開いています。彼らは全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、更に不幸なことにキリストから離れ苦々しくそして頑固にキリストの神性とその使命を否定するものまでもその公演に招待しています。

 このような骨折りにたいして、カトリック信者はいかなる賛同をも与えてはなりません。何故かというと、彼らの活動が“全ての宗教は、たとえ形は違っていても、全て等しく、私たちを天主に導き、私たちをして天主の力の前に尊敬を持って屈めさせる自然の生まれつきの感情を表している”という意味で“どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである”という、間違った考えに基づいているからです。

 彼らは、ただ単に誤謬のうちに迷い込んでいるだけではありません。この誤りを支持しつつ、彼らは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒んでいるのです。そうして彼らは、[どんな宗教でも同じだという]宗教に関する誤った考えを持ち、少しずつ[真の宗教に関する問題よりも、この地上のことを重視する]超自然否定主義(naturalism)そして、[真の宗教も、真の天主もないのだという]無神論へと歩んでいます。ですから、このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[すなわちカトリック教]を全く打ち捨てることであるということは完全に明らかです。

3 しかしながら、それが全てのキリスト者の一致を促進させることとなりますと、より簡単に多くの霊魂たちは、この達成すべき目標の素晴らしさに魅せられて、誤った道に引きずり込まれてしまいます。

 よく耳にすることですが、『全てキリストの聖名を呼び求めるものが、相互の非難をやめて、互いの愛によって遂に一致するのが正しく、更に義務ではないか? もし誰かが、キリストを愛していると言いながらも、主が御父に願った、ご自分の弟子らが一つであるように(ヨハネ17:21)とのキリストご自身の願いを実現させるため、全ての力を尽くして追求せずに、どうしてキリストを愛するなどとあえて主張できるのか。キリストは、ご自分の弟子らが、その他の人々から相互の愛の印によって印され区別されることを願われたではないか。主曰く“全ての人々は、もしあなたたちが互いに愛するなら、これによってあなたたちがわたしの弟子であると知るだろう”(ヨハネ13:35)と。願わくは、全てのキリスト者が一つであるように。何故なら、現代、日々、一層ひどく不敬虔の毒は広がり、福音の壊滅を準備しているからだ。そのさなかに、この一致によって、この不敬虔の毒を、より一層効果的に排斥できるではないか』と。

 これや、これと似たようなことを、[教派に偏らず、福音の教えを純粋に伝えると主張する]『汎キリスト者』と呼ばれる人々が常に教えています。ところで、このような人々が数少なくまれでバラバラな個人に過ぎない、と思うのは大間違いです。彼らは、信仰の真理に関していろいろな人々がいるにもかかわらず、完全な組織を幾つも作り、非カトリック者が指導する会をあらゆるところに創立しています。この事業はさまざまなところで好感を得、更に、多くのカトリック信者の好感さえも勝ち取る程に活発に活動しています。何故なら、この事業が、私たちの母なる聖なる公教会の願いに沿った一致を実現できるという、見かけ上の希望を提示しているからです。確かに、公教会は道に迷った自分の子らを、自分の胸元に呼び戻し連れ戻したいということをひたすら願っています。しかし、これらの美しく魅惑的な言葉の下に、間違いなく、最も危険でカトリック信仰の基盤をそこから覆す誤謬が滑り込んでいます。

4 私の持つ使徒継承の責務は、主の羊の群れを迷わしに来る、かの危険な誤謬を禁止することです。そのため、尊敬する兄弟たちよ、私は自分の責務を良心に従って果たすため、このような悪を予防するようにと、諸君の熱心に呼びかけます。私は、諸君の書物により、また言葉により、それぞれが信者たちに私がこれから説明する原理と理由を容易に理解させることができると確信しています。カトリック信者は、諸君の努力により、「キリスト者という名を自称する全ての人々を、まぜこぜの一致であろうと、一つの体にまとめることを目指す事業」に対して、一体どの様な見解と、どの様な行動をとったらよいか、を知ることができるでしょう。

5 全てのものの作り主である天主は、私たちが天主を知り、天主に仕えるために、私たちを創造されました。私たちの存在の原理であるが為に、天主は私たちが天主に仕えるのを要求する絶対の権利があります。天主はなさろうと思えば、人の心に刻み込んだ自然法だけを、人間を創造した時に規範として人に与え、そしてその後に、通常の摂理によって自然法が発展するようにすることができました。

 しかしながら、天主は、人間が遵守すべき幾つかの実定法の掟を、自然法に添えるのがより良いと判断されました。そして、時代の流れの中、即ちこの世の始まりからイエズス・キリストの御到来とその御説教まで、天主ご自身が、人間に“全ての理性的存在がその創造主に対して負うところの義務”について教えられたのです。『その昔天主は私たちの祖先に、預言者たちにいくたびもいろいろな方法で語られたが、この最後の時において御子を通して我らに語られた。』(ヘブレオ1:1)

 そこから、この天主の啓示のうえに基礎を置く宗教の他に真の宗教は無いということになります。この天主からの啓示は、この世の初めから与えられ、旧約の律法の下に続けられ、キリスト・イエズス自身が、新法においてそれを完成させたのです。しかし、天主が語られたその時より(これは歴史が証明するところですが)、人間が、天主の語られる時に彼を信じ、天主が命ずる時には彼に従う絶対の義務を持つことは明らかです。そして、私たちはこの2つの義務を良く果たすことが出来るのです。何故なら、天主の栄光と私たち自身の救霊とのために働くために、天主の御独り子は地上にその教会を創立されたからです。

 ところで、キリスト者と自称する者たちは一つの教会が、そして唯一の教会がキリストによって立てられたことを信じない人は一人もいない、と思います。

6 しかし、その次に、教会の創始者の意志によれば、その教会の本性は何なのかと彼らに尋ねると彼らやもはや同意を見ません。

 例えば、彼らの多くは、キリストの教会が目に見えるものであるべきこと、信者たちの唯一の目に見える形の団体となること、一つの教導権と唯一の統治のもとに唯一の同じ教えを全てが口にすることを否定しています。彼らによれば、反対に、目に見える教会とは、外でもなく「時としては互いに矛盾さえする、さまざまな教えに従うさまざまなキリスト者の共同体の連合」でしかないのです。

 私たちの主イエズス・キリストは、しかしながら、ご自分の教会を完全な社会として創立されました。即ち、教会はその本性からして、外的(物理的)性質を備え、私たちの感覚が感じることのできるもの、唯一の頭の指導の下に、教えと説教により、天の聖寵の源である秘跡を執行することにより、将来に全人類の救いを与えるという目的を持っています(ヨハネ3:5,6:48-59,20:22、マテオ18:18)。それゆえ、主は教会を一つの王国(マテオ13)、一つの家(マテオ16:18)、一つの檻(ヨハネ10:16)、一つの群れ(ヨハネ21:14-17)にたとえられました。

 従って、教会の創立者の死の後、更に、御教えを広めるようにと命を受けたその最初の弟子たちの死の後、かくも素晴らしく創立された教会は滅びることも消滅することもできませんでした。何故なら、教会は時と場所を越えて全ての人を救いへと導くようにとの命令を受けたからでした。『行って全ての国に教えよ(マテオ28:20)』と。教会は、この使命を永久に遂行する際に、『見よ、わたしは毎日世の終わりまでおまえたちと共にいる』(マテオ28:20)と言うこの荘厳な約束の力により、キリストご自身から、その絶え間無い助けを受けるのです。それにもかかわらず、教会が、衰えたり座礁したりすることができたでしょうか。

 ですから、キリストの教会が、今日なお、今まで通り存在するのみならず、この教会は、常に使徒の時代の教会と同一のままでいることは必然です。

 もしそうでないなら、(これは認めることができませんが)わたしたちの主イエズス・キリストはそのご計画を果たすことができなかったか、あるいは地獄の門も教会に打ち勝つことは無いだろう(マテオ16:18)と断言したのは間違いだった、と言わざるを得なくなります。

7 この全ての問題の基礎にある、そして、私が上述したようにキリスト教の諸教会を連合させるための非カトリック者の多くの活動と努力が出てくる、その誤謬を示し、それに反論する時が来ました。

 この計画の作者らは、キリストのこの御言葉を引用するのを常とします。『全てが一つになるように。一つの群れ、一つの牧者となるだろう』(ヨハネ17:21,10:16)と。

 あたかも彼らによれば、キリスト・イエズスの祈りと長いが今に至るまで死文書となっていたかのように、彼らは「唯一の真の教会の性質である信仰と統治の一致が、今に至るまでほとんど存在したことも無く今も存在していない」ということを、「本当のことを言えば、それを願い、時としては共通の意志の疎通により実現できるのだが、しかし、それはやはり一種のユートピアとして考えるべきである」ということを支持しています。

 彼らは加えてこういうのです。『教会はそれ自体その本性からして分かれている。即ち、教会は、教義のうえでいくらかの共通点を持ちながらも、その他の点でそれぞれ異なる更に細分化された多くの教会、又は、個別の共同体によって構成されている。そしてそれぞれの教会は、同じ権利を享受する。特に使徒の時代から最初の幾つかの公会議までは、教会は一つであり唯一だった。そこで、たとえ最も古くからの論争であれ、教義の違いであれ、今日までこれらの教会を分裂し続けているものは、忘れ取り去らねばならない。更に別の教義上の真理とともに、共通の信仰の確かな基準を提示し、築き上げなければならない。この信仰宣言において、彼らは自分たちが知る以上に、互いが兄弟であると感じるようになるだろう。更に、さまざまな教会や共同体が、一度、全世界的な一種の連邦を結べば不敬虔の進歩に対抗して力強く勝利を勝ち取るとるために戦うことができるようになるだろう。…』

8 これが、尊敬する兄弟たちよ、皆が繰り返し説くところです。しかし中には、『プロテスタント主義が、慰めになり有益な、いくらかの教義あるいは何らかの外的儀式をあまりにも良く考えもせずに、捨ててしまったが、ローマ教会はそれをまだ保持している』と説き、譲歩する者たちもいます。

 実のところ彼らは、この(ローマ)教会自身が、福音に反するというよりも、むしろ『福音に幾らかそぐわない幾つかの教えを付け加え、信者にそれを信じるように押し付けたので、初代の宗教から迷い腐敗した』とあわてて言い足しています。

 彼らはそれらの付け加えられた教えとしていろいろある中で、特に、ペトロとローマ司教座に於けるその後継者たちに帰せられた裁治権の首位性を挙げています。彼らのうちで僅かに少数はローマ司教に名誉上の首位を、あるいは裁治権か権威の権能を幾らか譲歩することに同意はします。しかし、この首位権は神権に基づくものではなく、『信者たちのなんらかの同意から得られたところである』とします。他の者たちは、『雑種の』と呼べる彼らの集まりが、ローマ教皇その人によって司られることを願いさえします。

 しかし、キリスト・イエズスにおいて兄弟的な交わりをしきりに説く非カトリックの多くは、イエズス・キリストの代理者が教えを説く時には、それに従おうともせず、彼が命じる時、それに従順たろうともしません。しかし彼らは喜んでローマ教会と同じレベルで、同輩の者として話し合おうとするでしょう。しかし、現実には、彼らがもしそうしたとしたら全く疑いもなく彼らは、彼らを今でもキリストの唯一の群れの外に迷わせ放浪させているまさにその誤りを放棄しなくても大丈夫だという考えを持ってしか、いかなる同意をも結ばないでしょう。

 この条件の下では、使徒座はいかなる口実の下であろうとこれらの集いに参加することができず、いかなる犠牲を払ってまでもカトリック信者は、その賛同あるいは行動によってこれらに好意を与えることができないことは一目瞭然です。

9 そうする(=誤謬を持ったままでの一致に賛同する)ことによって、カトリック信者は、或る一つの偽りの宗教に、キリストの唯一の教会に全くよそ者である宗教に、権威を与えることになるってしまうでしょう。

 私は真理が、特に、啓示された真理が、この様に疑問視されるがままになるのを黙認することができるでしょうか。いえ、私がそうすることは邪悪の極みでしょう。

 実に、これは、啓示された真理を守ることに関わるのです。全ての国々が、福音の信仰について教えを受けるために、キリスト・イエズスはその使徒たちを遣わされたました。それは、まさしく、全ての国々へとであったのですから、また、彼らのほんの僅かな誤謬さえも恐れ給い、主は、聖霊が全ての真理を彼らに教えるように望まれたのですから、その頭また守護者として天主ご自信をもつ教会に於いて、使徒たちのこの教えが、完全に既に消えうせたり、幾らかの大きな変更を受けたということは、認められ得ることなのでしょうか。更に、私たちのあがない主の明らかな宣言に基づいて、もし福音が使徒の時代だけでなく更に全ての時代に関わるものだとしますと、信仰の対象が、時と共にいろいろの意見、更にさまざまな矛盾までも、今日黙認され得るほどに、かくも曖昧で不確かなものになってしまったと言うことを認め得るでしょうか。もしそうであるとすれば、聖霊が使徒たちのうえに降臨したこと、この同じ聖霊が教会に絶えずおられること、イエズス・キリストご自身のご説教が、数世紀も前からその全ての有効性その全ての福祉を失ったということを支持しなければならなくなります。これは明らかに冒涜的な断言です。

 それだけではありません。天主の御独り子は、その使者に全ての国々に教えよと命じ、他方で『天主によってあらかじめ立てられた証人』(使徒10:41)を信じる義務を全ての人に負わせられました。主はこのみ言葉によってその掟を裁可されました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は排斥される」(マルコ16:16)と。ところで、キリストのこの2重の掟は、即ち永遠の救いを得るための教える掟と、信じる掟は、もし教会が福音の教えを完璧にかつ公に示し、かつ、この教えの公示において、教会が全ての誤りから免れている、とした時に初めて守りかつ理解することができるのです。

 この地上のどこかに真理の遺産が存在することを信じてはいる迷ったものがまだいるかも知りませんが、彼らがそれを発見しそれに溶け込むために、人生がようやく足りるか足りないかの長い勉強と議論の労苦がそれの追求のために必要でしょう。従って、無限に良い天主が予言者とその独り子によってただ僅かに、年老いた少数の人々だけに啓示を示したに過ぎず、人々をその生涯の長きにわたって導くことのできる信仰と教えと道徳律とを与えようとは夢想だにしなかったということになってしまいます。

10 諸教会を連合させようともくろむこれらの汎キリスト教徒は、全てのキリスト者間の愛徳を発展させるという崇高な計画を遂行しているかのように見えます。

 しかし、信仰を犠牲にしてまでの愛徳の増加をどうして想像できるでしょうか。愛徳の使徒である聖ヨハネ自身が、その福音の中で言わばイエズスの聖心の秘密を明かすのですが、そして、互いに愛し合いなさいと新しい掟を信徒たちに絶えず繰り返すこの使徒が、キリストの教えを完全にそして純粋に宣言しない者たちとの全ての関係を一切断て、と言うことを知らない者はいません。

『もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来るものがあれば、その人を家にいれず挨拶もするな。(2ヨハネ10)』

11 従って、愛徳の土台は真摯で完全な信仰ですから、信仰の一致こそがキリストの弟子たちを一つに結ぶ第一の絆でなければなりません。

 そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。

 私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか。

 例えば、或る者たちは、聖伝は啓示の正真正銘の源であると断言し、或る者たちはそれを否定しています。

 或る者は教会の位階制度は天主のみ旨によって、司教・司祭そして他の聖職者から成ると考えますが、他の者たちは位階制度は時代情勢やその時期により少しずつ導入されたと断言します。

 或る者は、全実体変化と呼ばれるパンとブドウ酒のいとも素晴らしいこの変化のお陰で、いとも聖なる聖体において、現実に現存するキリストを礼拝します。他の者たちはキリストの体は、信仰によってか、又は印と秘跡の力によってでしか、そこに現存しないと言います。前者は聖体の秘跡において犠牲と秘跡の本性を同時に認めますが、後者は最後の晩餐の思いであるいは記念以外の何物をも認めません。

 或る者は諸聖人、とりわけ母なる童貞女がキリストと共に天で君臨していると信じ、従って、彼らを呼び求め、彼らに祈り、彼らの聖画を敬うべきであると信じています。他者はこの崇敬は非合法であり、天主と人との唯一の仲介者であるキリストにふさわしい名誉に反していると言います。

12 教会の一致が、信仰の唯一の規範と、全てのキリスト者の同じ信仰によらねば生まれえませんのに、これらの意見の深い相違を目前にして、私たちはほとんど教会の一致を見ることができません。

 しかし、それ(意見の相違にも関わらず一致をもくろむこと)によって、人々は宗教をなおざりにする、即ち[どの宗教でも結局は一緒だとする]宗教無差別主義(indifferentism)、あるいは、近代主義(modernism)と呼ばれるものにたどり着くだろうと私たちは良く知っています。これらの誤謬に犯された不幸なものは、「教義上の真理は絶対ではなく、相対的、即ち、真理は時と場所のいろいろな要求に応じて、また霊魂のさまざまな必要に応じて適応しなければならない、何故かというと、教義上の真理は不変の啓示の中に含まれず、その本性からして人の生活に適応しなければならない」と言っています。

13 信仰上の教義に関して、全く許されない区別が、また存在します。それは、全ての人によって認められなければならない信仰箇条と、信者が同意してもしなくても自由に任されている信仰箇条とに分け、『基本的』信仰箇条と『非基本的』信仰箇条との区別を、信仰箇条の中に導入するのが良いと或るものが判断した区別です。

 ところで、信仰という超自然の徳の形相的対象は、啓示し給う天主の権威、この種の区別を全く受け付けることの無い権威です。[つまり、「何故信じるのか」と言うと、真理そのものであり、間違えることも、欺くこともあり得ない天主を信じるからです。言い換えると、信仰を信仰たらしめるその中核は、天主にあるのですから、天主の啓示することは全て区別なく信じなければならないのです。]

 ですから、キリストの真の弟子たちは全て、例えば、至聖なる聖三位の玄義を無原罪の御孕りの教義を信じるのと同じく信じ、私たちの主の御托身を信じるのと同じく、勿論[第1]バチカン公会議が宣言した意味でローマ教皇の不可謬の教導権を信じます。そしてこれらの真理は、いろいろな時代に、そしてつい最近にでさえ、教会によって荘厳に宣言され裁可されたという理由で、確かではないとか、信ずるに値しない、などということは一切無いのです。何故かと言うと、それは天主が全てそれを啓示されたではないでしょうか。

14 教会の教導権は、天主のご計画によって啓示された諸真理の遺産を、永久にそのまま守るために、そして、それに関する知識を人々に保証するために、この地上に確立され、ローマ教皇とそれと交わりのある全ての司教らによって毎日行使されます。

 そしてこの教導権は、更に、異端者たちの誤謬や攻撃にもっと効果的に反対するために、あるいは聖なる教えの或る点についてより明確に又はより詳しく説明するために必要な時はいつでも、信者たちの精神にそれらをより良く染みとおらせるために、勅令によって機会を得た荘厳な定義を下す使命をも含んでいます。この特別教導職を使ったとしても、それは天主が教会に遺産として預けた啓示の中に、少なくとも含蓄的に含まれていた諸真理の全てに、いかなる発明、いかなる付け足しをも、導入するのではありません。ただ、あるいは特別教導職は、その時まで或る人々にとっては不明瞭に見え得たことを宣言する、あるいは、以前には何らかの議論の対象たり得た或る点について、信ずるべきこととして信仰の義務を負わせるだけです。

15 尊敬する兄弟たちよ、それゆえこの使徒座がカトリック信者に、非カトリックの集いに参加することを決して許さなかったのが何故かが理解できただろうと思います。

 キリスト者の一致は、反乱分子がかつで自分たちの不幸にして捨て去ってしまった唯一の真なるキリストの教会に立ち戻るのを促すことによるほか得られません。即ち、誰によっても目に見えることのでき、人々の共通の救いのために主ご自身が創立されたごとくそのまま留まるように、その創立者の意志によってそう定められたキリストの唯一の本当の教会に立ち戻ることです。

 何故かというと、かつて歴史の流れの中で、キリストの神秘的な花嫁は一度も汚されたことが無く、将来にわたってそのようなことが決してないからです。

 このことを聖チプリアノがこう証言しています。『キリストの花嫁は辱められることができない。彼女は腐敗することがなく純粋である。彼女は一つの棲み家しか知らない。そして彼女の貞潔なる謹みにより、自分の唯一の円居の聖性を疵なく守る』と。この聖なる殉教者(聖チプリアノ)は『天主の恒常性の実りであり、天的秘跡によって固められたこの一致が、不和の意志の衝撃で崩れさる危険にさらされている』と言うことが想像できるだろうか、と正しくも全く驚いています。キリストの神秘体、即ち、教会は、物理的な肉体と同じように唯一であり均一であり、完全に節々がついています。従ってこの神秘体が互いに散らばり隔離している肢体によって作られ得ると言うことを主張することは、全く非論理であり笑い事です。従って、キリストの神秘体に一致してないものは誰であれその肢体たり得ず、その頭キリストにつながることもできません。

16 更に、このキリストの唯一の教会において、ペトロと、ペトロの合法的な後継者たちの権威と首位権を受け入れないもの、認めないもの、それに従わないものは、この教会の中に留まることは出来ません。フォティウス(820-891年、ギリシア離教の首謀者)と宗教改革者たちの誤謬にはまりこんでいる人たちの先任者たちは、霊魂の第一の牧者であるローマの司教に従わなかったではないですか。彼らの子供たちは、残念なことに父の家を離れてしまったのです。しかしながら、たとえ彼らが家を出ても、この家は地に落ち、永遠に滅びてしまったのではありません。何故なら、天主はこの家を支え給うからです。ですから、願わくは彼らが父の家に戻ってきますように。父は、使徒座に対した彼らがなした侮辱を全て忘れ、最高の愛に満ちた歓迎を持って彼らを受け入れるでしょう。もしも、彼らが常に口にするように、彼らが私と私の全ての群とに一致をしたいと望むのなら、何故、彼らは教会の中に、“全ての信者の母にして教師である”(第四ラテラン公会議)教会に、急いで戻ってこないのでしょうか?願わくは、彼らが真の礼拝の言葉を聞き入れますように。

「これ(カトリック教会)こそが真理の泉、これこそが信仰の家、これこそが天主の神殿、もし誰かがここに入らないのなら、あるいは、もし誰かがここから出ていくのなら、彼は命と救いの希望のよそ者となる。願わくは、誰も頑固な論争によって騙されないように。何故なら、ここに命と救いがあり、彼らの利益が、注意深く、熱心に心に秘めておかれない限り、彼らは永遠に破滅するだろう。」(Divin. Inst. IV, 30, 11-12)

17 ですから、この都市[ローマ]に建てられ、使徒の頭聖ペトロとパウロの血潮によって聖別された使徒座にこそ、そうです、“カトリック教会の基礎にして生みの親”であるこの聖座にこそ、離れた子供たちは戻って来なくてはならないのです。

 願わくは彼らが戻って来ることを。しかし、生ける天主の教会、真理の柱であり支えである教会が、信仰の完全性を犠牲にして誤謬を黙認するだろうという考えや期待などを持たずに、かえって反対に、教会の教導職とその統治とに自らを従えるという意向を持って帰って来るように。

 願わくは、私の多くの前任の教皇たちがついに見ることの出来なかったこの喜ばしい出来事が、私の身に起こりますように。忌まわしい諍いのために遠ざかってしまったこの子らについて、私は心から涙するのですが、願わくは、私が、この子らを私の父の心を持って抱き受け入れることができますように。

 私たちの天主にして救い主の意志は、全ての人々が救われ真理の知識へと到達することですが、願わくは、私たちが全力を尽くしてこれらの道を迷える霊魂たちを全て教会の一致へと連れ戻そうとするのをひれ伏して願う時、主が私たちの祈りを聞き給わんことを。

 これ以上重大なことの無いこの問題に関し、私は天主の聖寵の御母、全ての異端を打ち砕いたお方、キリスト信者の助け、聖なる童貞女マリアが、『全ての人々が“平和の絆において霊の一致に忠実に留まりつつ”(エフェゾ4:3)その天主なる御子のみ声を聞くことのできるそのかくも願わしい日』が一日も早く来るように私たちのためにとりなして下さるよう、人々が聖母の取り次ぎに馳せ寄せるよう、私は訴えそれを望みます。

18 尊敬すべき兄弟たちよ、あなた達はもうこの望みが、どれ程私にとって大切なものであるか知りました。そして、私は、私の子供たちも、カトリックの群に属する人々だけでなく、私たちから離れてしまった人々も、このことを知ってもらいたいと思います。

 もし彼らが謙遜に天からの光を乞うならば、イエズス・キリストの唯一の真の教会を認め、そこに入り、完全な愛徳において私たちとともに遂に一致するということは、疑いの余地がありません。

 尊敬すべき兄弟たちよ、このことが実現することを期待しつつ、そして、私の父としての善意の印として、私は、あなた達と、あなた達の聖職者や、信者の皆さんに、深い愛を込めて使徒的祝福を送ります。

ローマ、聖ペトロの傍らにて、1928年、教皇在位6年目、1月6日私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日において

教皇グレゴリオ十六世 回勅『ミラリ・ヴォス Mirari Vos』 -自由主義と宗教無差別主義について 1832年8月15日

2019年02月12日 | カトリックとは
回勅『ミラリ・ヴォス』

教皇 グレゴリオ十六世

-自由主義と宗教無差別主義について

1832年8月15日

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

Copyright (C) Society of Saint Pius X, 2001

All rights reserved

教皇グレゴリオ十六世 回勅

ミラリ・ヴォス

Mirari vos

自由主義と宗教無差別主義について

1832年8月15日

カトリック世界の全ての総大司教、首座大司教、大司教、司教たちに宛てて

1830年の革命によってこれを書くことが出来なかった

1.あなた達は驚いているとおもいます (Mirari vos arbitramur)、尊敬する兄弟たちよ、全教会の統治という重荷が弱い私に課せられてから、まだあなた方に教会の最古の時代からの習慣どおりに書状を送っていないという事に、きっと驚いておられるに違いありません。私があなた方に抱いている愛情を思えば、当然すでにそうしているのが至当なことのはずですから。事実、[就任して間もなく]私が最も強く望んだことは、私の心をいち早く示し、また私の精神の伝達を通じてあなた方が聖ペトロのペルソナにおいて私が受けた『兄弟たちの信仰を固めよ』という命令の声を聞くことが出来るようにするということでした。しかしながら、あなた方は教皇就任直後からどれほどの害悪と災いとが押し寄せてきたかをよく御存知です。また、私が言わば突然、嵐の只中に巻き込まれ主の右腕が奇跡的に救ってくださるたのでなければ、危うくのみ込まれてしまい敵方の恐るべき謀略の犠牲となるところだったと言うことを。

この革命から解放されたことを天主に感謝する

2.私はここでかくも多くの危機の陰惨なありさまを想起して、敵たちがもたらした悲しみを新たにしようとは思いません。[ただ]私はあらゆる慰めの与え主である御父に感謝いたします。主は不忠実なもの達を打ち散らし、私を迫り来る危険から救い出し、そして恐るべき嵐を静めてかくも大きな恐怖のあとに、やっと息をつくことが出来るようにしてくださいました。私はすぐさま「イスラエル」の受けた傷を癒すための計画をあなた方に知らせようとしたのですが、公共の秩序の復興についての配慮という重責にとらわれ、その望みを実現するのにまたしても手間取ってしまいました。

私は厳しい鞭をもって当たらざるを得なかった

3.今日までみなさんに手紙を送るのが遅れたもう一つの理由は、反旗を翻そうと再度試みた若干の派閥の不敵な挙動にあります。彼らの歯止めを欠いた憤激が弱まるどころか、長引く背徳と、私の父としての寛容さとによってますます悪意を含み、その度を強めるのを目の当たりにし、このような頑迷さに対しては、悲しみに心を砕かれながらも、天主から託された権威により、厳しい鞭をもって当たらざるを得ませんでした。その時から、―あなた方もよくお察しになるところでしょうが―私の労苦および精神的な気遣いは日毎に増していったのです。

私はこの聖母の祝日についに書き上げた

4.しかし、先に述べたのと同じ理由によって遅れを余儀なくされながらも、ラテラン大聖堂での教皇着位を果たして後、前任者たちの慣習としきたりに従い、ようやくあらゆる遅延[の原因]をひとまず横に置いて、あなた方尊敬すべき兄弟たちのもとに急ぎこの手紙を私のあなた方への思いのしるしとして送ります。この手紙は聖母の勝利と天国への凱旋を荘厳な祝祭をもって祝うこの喜びの日、すなわち8月15日に書かれました。最も激しい嵐の只中にあって私が体験した聖母の保護と力とが、あなた方に対する責務の遂行を助け、また天より、キリストの群れにとって最も有益な考えと手段とを私の心に注いでくださいますように。

今は暗黒の時代であり、世界中が腐敗している

5.深い嘆きと悲しみに沈んだ心で私はあなた方のもとに近づきます。あなた方の宗教に対する熱意と、それを取り囲む大きな危険によって心中に催された非常な憂慮をよく心得ているからです。なぜなら今はまさに、選びの子らを「麦の穂のようにふるいにかける」べく「闇の勢力」にゆだねられた時だからです。地はそこに住む者らによって汚され、真に悲嘆に沈み、やせ衰えてゆきます。なぜなら、人々は法を破り、正義をねじ曲げ、そして永遠の契約を解いてしまったからです。

不道徳と反乱が教会と世界を粉々にしている

6.尊敬すべき兄弟たちよ、私がここで話しているのはあなた方が自分の目で目撃している諸々の害悪のことであり、私たちが共に憂慮していることです。背徳、自己抑制を欠いた科学、際限なしの放縦は、熱情と横柄な精神とにみなぎり働いています。聖なる奥義をただ軽蔑するのみで、また天主に対する礼拝の威光を―――これは人の心が抗いまたは排除してしまうことの出来ない力ですが―――倒錯した人々は、弾劾・冒助Kおよび助K聖的な嘲笑の的としています。したがって、健全な教えは変えられ、あらゆる種類の誤謬が喧伝されてつまずきを生んでいます。聖なる祭儀、教会の儀礼および制度、最も聖なる規律といったものの中で、彼らの邪悪な舌が吐き出す恐れを知らぬ発言の対象となっていないものがあるでしょうか。ローマにおける私の教皇座、つまりキリストがその上に御自分の教会の礎を置かれた至福なる聖ペトロの座は甚だしく迫害され、そして一致の絆は日に日に弱められ、あるいは手荒に引き裂かれています。教会の天主に由来する権威は攻撃され、権利が剥奪されています。また教会は全く地上的な思惑の下に置かれ、そして不正な暴力により、恥ずべき隷属状態にいたるまで弱められ、諸国の軽蔑の的となっています。司教達に対する従順は完全に損なわれ、彼らの権利は踏みにじられています。大学や高等な研究機関は、数知れぬ新奇で法外な説であふれかえり、これらはもはや秘密裡に、ないし目立たない仕方ではなく、または公然とカトリック教会に対して恐るべき、不敬な戦いを挑んでいます。このようにして教師らの教えと模範とは青少年の心を変節させているのです。それゆえ宗教が被る災禍は甚だしく増し、最も恐るべき不道徳が勢いを得て広がっています。このように、宗教の聖なるる絆―――この絆のみが国々の福利に貢献し、権威の力と強さとを保つものなのですが――― が一旦軽蔑の念をもって打ち捨てられると、公の秩序は消滅し、主権は潰え、あらゆる正当な権力は迫り来る革命の脅威にさらされています。謀略をたくらむ組織が主として掘ったこの底なしの災苦の淵の中に、異端とセクトとは彼らが内に抱くあらゆる放縦、助K聖、冒助Kをまるで下水に流し込むかのように、吐き出しています。

主の群を安全な牧草地に導かなければならない

7.尊敬すべき兄弟たちよ、これらのこと、及びおそらくより重大なものかもしれませんが、ここで詳しく述べるにはあまりに数の多い他の事柄は、あなた方皆に周知の事実です。これらは、使徒の頭の座に着き、他の誰よりも天主の家に対する熱意によって喰い尽くされるべき私の心に、はげしく絶えることのない悲しみを生み苦渋で満たします。しかし、私が占めるまさにこの地位自体が、ただこれら数え切れない不幸災苦を嘆くばかりではなく、あらゆる手段を用いてその源泉を取り除くよう強いるので、私はあなた方の信仰の助けを願い、また天主の群れの救うために燃え立つあなた方の熱意に訴えます。尊敬すべき兄弟たちよ、あなた方の広く知られた徳と敬虔、秀でた賢慮とたゆまぬ注意深い配慮とが私の勇気を増し、そのように多くの災悪によって打ちひしがれた私の心に慰めの香油を注いでくれますように。森からきたイノシシがブドウ園を蹂躙するのを、また狼が主の群れを荒らすのを、声を上げて一致した努力によって防ぐのは私たちの責務です。そして私たちは、害となる草のおそれのない、健全な牧草をはぐくむ牧場へと羊たちを導かねばなりません。ですから尊敬すべき兄弟たちよ、困難災苦、幾多の迫り来る危険のさ中にあっても、私たちは決して自分たちの羊を見捨ててはならず、世話するものを無くした羊の横で致命的な居眠りに沈む羊飼いの無関心さと怖れとを抱くことがありませんように。したがって私たちは、共通の目的のために一致した心、いえ、と言うよりもむしろ天主の心をもって行動し、共通の敵に対して、また全ての人の救いのために私たちの警戒と努力とを一つにあわせることとしましょう。

教会には改革が必要ではない、単語の一つも変えてはならない。

教会に必要なのは聖ペトロの座に忠実であると言うことである

8.このことを完全に果たすためにあなた方は次のようにすべきです。あなた方の職務が義務付けるところに従って自分たち及び自分たちが信じている教理を省みること、あらゆる新奇なことは普遍的教会に害を及ぼすということ、また聖なる教皇アガトが警告するように『正式に定義されたことがらの何一つと言えど、削除されたり、変えられたり、あるいは増し加えられたりすることは許されず、また意味あるいは言葉上のいかなる変更も受け付けない』ということを絶えず思い起こすことです。このようにすれば、ペトロの座を基盤とした一致が強固で揺らぐことのないものとして保たれます。またさらに、そこから全ての地方教会へとカトリック的交わりの聖なる諸権利が流れ出る中心が同時に全ての者にとって、防御壁、避難所、難破から救う港、ならびに彼らを計り知れない善をもって富ませる宝庫となることでしょう。

したがって、あるいは聖座の権利を無に帰そうと画策する、あるいはそれが支え生命を与えているところの諸々の地方教会を、聖座から引き離そうと画策する者たちの大胆不敵な挙動を抑えるため、信徒らの心に聖座への信頼と尊敬の深い念を絶えず刻み込み、その耳に聖チプリアノの次の言葉を響かせるようにしてください。すなわち『教会の基であるペトロの座を打ち捨てる者が教会の中にいると信じるのは誤りである。』と。

教会は信仰の遺産を忠実に守らなければならないが、

これは教会の位階制度に従順であることによって果たされる

9.ですから、あなた方の尽力の目的かつ弛まぬ警戒の対象とするところは、天主を敬わぬ者らによるこの広大な謀略のさ中にあって、信仰の遺産を守り抜くことです。このような人たちが信仰の遺産を打ち散らし、滅ぼそうと結束するのを目の当たりにし、激しい悲しみを感ぜずにはいられません。信徒がそれをもって養われるべき健全な教義とはいかなるものかについての判断、および教会全体の統治と管理は、ローマ教皇にのみ属するということを皆が思い起こすようにしましょう。なぜなら、フィレンツェ公会議が明白に宣言したとおり、我らの主イエズス・キリストによって教皇には公教会を牧し、統治し、管理する全権能が託されているからです。特に司教たちについて言うと、彼らはペトロの座に不断の忠誠を示し、聖なる遺産を細心の注意をもって忠実に保ち、そして自らの力のおよぶかぎり天主の群れを養う義務があります。

司祭については、彼らは自分たちの司教に従属する者でなければならず、聖ヒェロニモの勧めにしたがって、彼らを自らの霊魂の父として敬わねばなりません。また司祭は、司教の許可なしに、自らにゆだねられた聖役に含まれるいかなるものを執り行うことも、また教え、説教をなす権能を自らのものとすることは初代からの教会の法規範により禁じられているという事実を決して忘れてはなりません。なぜなら司教にこそ信徒の世話が任され、その(信徒の)霊魂について主に報告をする立場にあるからです。ですから司祭たちはつまるところこの秩序をどのようにであれ乱そうとする者は、彼らの力の及ぶ範囲で教会の組織を揺しているのだということを確実で議論の余地のない事実として認めなければなりません。

教会の構造と規律とは守られなければならない

10.教会は荘厳に採可した規律によって聖なることがら、および信徒の行動がしかるべく規定され、また教会の諸々の権利およびその職務に伴う義務が定めます。しかし、教会が裁可した規律を、常軌を逸した言論の自由によって非難し、およびかかる規律が自然法の特定の原理にもとるとか、それ自体がはらんでいる不完全さにより、有効に機能し得ない、あるいはこれが国家の権威に服さねばならないなどと公言することは一つの犯罪であり、教会法に対して示すべき敬意をあからさまに欠くことです。

教皇だけが、直に適った変更をするか否かを判断しうる

11.更にトリエント公会議の教父たちの言葉を借りるならば、教会がキリストと使徒たちによって教え導かれたことは確実であり、また聖霊は日々の助力によって常に私たちに誤ることなく全ての真理を教えてくださるのですから、まるで教会がか弱さ、暗黒、あるいはその他これに類した変化を被り得たかのように、教会の存続と発展のためにその復興ないし再生が必要となったと主張することは愚鈍のきわみです。そしてこれらの大胆不敵な改革者たちが追い求めるのは、ただこうして単なる「人間の業」とされた制度の存在意義として新たな根拠付けを考え出すことのみとなります。こうして聖チプリアノが心から忌み嫌ったこと、すなわち全く天主的なものである教会を人間的なものと化するということを実現してしまうのです。このような計画を立てる者どもは、聖レオ教皇の証言に従って「教会法の適応が委ねられた」のは教皇だけにであると言うこと、そしてそれ以外の個人にではなく、教皇のみに「古くから伝わる規律について発言し」そして聖ジェラシオ教皇の言うように「教会の法令の重みをはかり、自分の前任者の規律を認定し、和らげ、相応しい調査の後に、時代の必要と教会の利益が要求する緩和を与えることが出来る」ということをよく考えなければなりません。

司祭の独身制について誰も攻撃してはならない

12.ここで私は私たちの宗教のために、聖職者の独身制に反対する者たちに対してあなた方がたゆまぬ熱意を燃やしてくださるよう呼びかけます。彼らは忌むべき同盟を結成し、日々異議をあおり立て、その手を広げてゆきます。かかる同盟は現代の最も厚顔無恥な哲学者たち、さらにはあろうことか聖職者階級をなげうった多くの者らをも交えて規模を増してゆきます。この中、特に後者は自分の身分と職分とを忘れ、魅惑的な情欲にほだされて、多くのところで諸侯に対して公にまた再三、この聖なる規律の箇条の廃止を請願するほどの身勝手ぶりを見せています。しかし、私はこのようなあさましい試みにこれ以上目を注ぎたくありません。ですから、私はあなた方に、かくも際立った重要性を有した制度である司祭の独身制を聖なる教会法の規則にもとづいて力のかぎり、これを完全に保護し、最も恥ずべき情念にかられた人々によって四方から浴びせられる攻撃の矢をはじき返す務めを、あなた方の宗教[に対する熱意]に全く信頼して委ねます。

婚姻の秘跡の不可解消性を擁護しなければならない

13. キリスト教徒達の結ぶ尊敬すべき結合を聖パウロは「イエズス・キリストと教会とにおける偉大な神秘」であると呼んでいますが、この婚姻の絆の聖性と不可解消性が、あまり正確ではない意見や様々な努力や行為によって傷つけられることのないように私たちの共同の注意が必要です。素晴らしい思い出をとどめる前任者のピオ7世は、ご自分のいろいろな手紙の中であなたたちに既に絶えずそのことを勧めていました。しかし同じ不穏な策略が常に新たにされています。「規定に従って一度結ばれた婚姻は解かれ得ないこと、天主はそのようにして結ばれた者達が常に結ばれたままでいる義務を負わせ給うこと、この絆は死による以外には解き放つことが出来ないこと」を人民は注意深く教えられなければなりません。彼らが婚姻が聖なることの一部と数えられ、従って教会に従属することであると言うことをよく記憶しますように。願わくは彼らがこのことに関して教会が制定した法を常に眼前に思い出しますように。又彼らが婚姻の契約の力と効力がそこによって立つところのことに敬虔に正確に従いますように。彼らが聖なる教会法の命令と公会議の規定とに反したいかなることも、どのような関係においても、認めることがないように警戒しますように。そして、彼らが婚姻は教会の規律に反して結ばれるとき、或いは天主が引き合いに出されないとき、或いは夫婦が秘蹟やそれの意味する神秘を夢にも思うことなくただ熱烈な情念だけによって結ばれるとき、それは不幸な結果になると言うことをよく納得しますように。

宗教無関心は霊魂に害を与える危険な誤謬である

14.さて、今私は現在教会を苦しめ、私の心を嘆かさずにはおかないもう1つ別の、そして最も「多くの実を結んでいる」諸悪の原因について話さなければなりません。それは「宗教無差別主義」、ないしは邪悪な人々の策略によりいたるところに広まっている破滅的な言説、すなわち「人はその生活が正義と誠実に適ったものであるならばどのような信仰を持っていたとしても永遠の救いを得ることができる」という見解です。しかしこれほど明白かつ判然とした問題について、あなた方司教たちの世話に任されている人々の間からこのように有害な誤謬を取り除くことはもちろん容易なことでありましょう。使徒パウロは私たちに「唯一の天主、一つの信仰、一つの洗礼」と述べてこのような考え方に警戒するよう促しています。したがって、あらゆる信条が至福の港へと容易に至らせると夢想する者は怖れにふるえ、私たちの救い主ご自身の次の証言を深く心に思いめぐらすように。すなわちキリストの側につかない者はキリストに反対する者であり、キリスト共に集めない者はまさにその事実によって甚だしく散らすのであるということ、したがってまた、彼らはカトリックの信仰を抱き、その全体を(何一つ)変えることなしに保つのでなければ疑いもなく彼らは永遠の滅びを招くということを。また聖ヒェロニモその人の次の言葉を心して聞くように。聖人は教会が3つに分かれてしまっている時代に生き、自分たちの側につけようと接近を試みる者たちに対していつもこう言って答えたのです。「誰であれ、ペトロの座に一致している者は私の仲間である」と。このように聖ヒェロニモを味方につけようとした者たちはまた「あなた自身も水によって再生されたのでしょう」と言って欺こうとしましたがこれも無駄に終わりました。なぜならそれに対して聖アウグスチヌスはこう明確に答えているからです。「切り落とされた枝はブドウの木の形をしている。しかし根を持っていないならその形は何の役に立つだろうか。」と。

良心の自由から生じることは、教会と国家の崩壊である

15.宗教無差別主義のこの毒を含んだ泉からは「すべての人に対して良心の自由が確立され、保証されるべきだ」という誤りかつ愚かなというよりむしろ突拍子もない原則が流れ出ます。これはきわめて伝染しやすい誤謬ですが、教会と国家を亡ぼすべく広がる無条件かつ無制限の言論の自由はこれを助長します。そしてこのような言論の自由が教会にとって有利なものであるかのように厚顔にも吹聴する者たちがいるのです。聖アウグスチヌスはこう言っています。「誤りの自由ほど人々の霊魂に確実な死をもたらすものがあるだろうか!」と。このように、人々を真理の道にとどめておくべき歯止めを彼らから取り除き、[原罪の結果]自然的に有している悪への傾きに、さらに拍車をかけて突き進むままに任せるならば、そこには、聖ヨハネが、太陽を暗ませる煙と地を荒らすイナゴの群れとがそこから立ち上るのを見た、かの深淵の穴が口を開いていると真実言うことができます。事実、ここから精神の不確かさとますますひどくなる青少年の堕落とが生まれ、又同じく、ここから人々の中に[教会の]聖なる権利およびこの上なく聖なる法規および事物への軽視が生じ、更にここから、一言で言うと国家を荒廃させる厭うべき災厄が出てくるのです。

なぜなら、経験に則して、また歴史上最も古い時代からの教訓に従えば富・権勢・栄華において抜きん出た幾多の都市国家がこのただ一つの悪によって滅んだからです。そしてこの悪とは制限なしの言論の自由・公の場での言論の放任・変化への熱狂的な望み他なりません。

報道の自由は誤謬の大洪水に全世界を巻き込んでいる

16.これにさらに付け加わるのが報道の自由ですが、これについてはいくら怖れても、怖れすぎるということはありません。しかしある人々はそれを方々で声高に、かつ熱心に要求し、いたる所に広げようとしています。尊敬すべき兄弟たちよ、圧倒せんばかりに押し寄せてくる真に恐るべき教説、驚嘆すべき誤謬の数々を目の当たりにして、私は身を震わせずにはおけません。これらの謬説は途方もなく多数の本、小冊子、その他の出版物によって広くかつ遠くまで広められ、サイズは小さくとも、その無法さのかげんはこの上なく大きく、地の面を覆うのろいの元となって、私の心を涙で満たしています。

報道の自由から得るかもしれない少しばかりの善は、

報道の自由から受ける損害を償いきれない

17.しかし、なんということでしょう。厚顔無恥にも、制限なしの言論の自由から流れ出るこの誤謬の洪水が、この邪悪の大海の中で真理と宗教とを擁護すべく出版されるいくつかの本によって充分に補われうると頑迷に主張する人がそれでもいるのです!熟慮の上で確実に悪いことであると分かっている大きな悪を、もしかすると何か善いことがそこから結果として出てくるという期待によって行うことは疑いもなく犯罪であり、しかもどんな種類の法律でも罰の対象となる犯罪です。一体、分別のある人で毒をあちこちに置き、あるいはそれを人前で売ったり、配って歩いたりすることが、いやそればかりではなく、それを飲んでしまった人をかろうじて死から救ったことのある治療薬が存在するという口実の下に、その毒をごくごくと飲むようなことを合法的とみとめる人がどこにいるでしょうか。

教会は害を与える書籍を焚書した

18.しかし、すでに使徒たちの時代から、悪書の抹消に関する教会の規律はこれとは非常に異なったものでした。聖書の記述によれば使徒たちは大量の本を公の場で焼いたのです。教会が常にこのような態度を取ってきたという事実の確認のためには、第5ラテラノ公会議において定められた関連する法規、および思い出深い私の前任者レオ10世教皇がその後すぐに出した規則を注意深く読めばよいでしょう。これらの規定は信仰の増進、および有益な諸学芸の伝播のために発明されたもの[即ち書物]が、その全く逆の実りをもたらし、信者の救霊の妨げとなることのないよう公布されたのでした。

教会は禁書目録によって悪書を排斥する

19.また、このこと[信仰の妨げとなる書物の出版]はトリエント公会議の教父たちがきわめて注意深く配慮した点であり、これほど甚だしい害悪を取り除くべく、悪い教えを含んだ本の禁書目録を準備するようにとのきわめて有益な法令が出されたのでした。思い出深いクレメンテ13世教皇は、危険な書物の出版禁止についての回勅の中で次のように述べています。『私たちは勇気をもって戦わねばなりません。奏すべき機会が現れるたびに私たちは勇気を出して戦い、全力を挙げてこれほどの数に上る有害な書物を根絶せねばなりません。腐敗を生む犯罪的要素が火で燃やし尽くされないかぎり、誤謬のもとは決してなくならないでしょう。』

教会は書籍を検閲する権利を持つ

20.聖なる使徒座があらゆる時代において疑わしい、あるいは危険な書物を排斥し、人々の手から取り上げるべくたえず熱心な配慮を持って務めてきたことを見るとき、本の検閲があまりにも面倒かつ抑圧的であるとしてこれを拒否するばかりでなく、検書が正義の原則に反するものであると恥じ気もなく公言し、教会にはそれを制定し、実施する権利がないと言う者たちの説がいかに聖なる使徒座に対して欺瞞に満ち、性急かつ中傷的であり、またキリスト教国家にとって大きな不幸をもたらすものであるかは明らかとなります。

君主の権威は守らなければならない

君主の権威は天主に由来する

21.また私の知り及んだところによると、公然と売られている書物を通して君主に対する忠誠と服従を損なう教説が広められ、いたるところで反乱の煽動者をたきつけています。人々がこういった教えに惑わされて正しい道から逸れてしまうことのないよう、かかる動きには慎重に警戒しなければなりません。使徒パウロの警告のとおり『天主から出ない権威はなく、それ故権威に背く者は天主の定めに背く。背く者は天主の裁きを招く』ことを皆が注意して考えるように。

君主を玉座からおろそうとする反乱的な革命は排斥される

22.したがって天主ならびに人間の法は、反乱と蜂起を恥ずべき狡猾な計略によって君主に対する忠誠を破壊し、王座から引きずりおろそうと企てる者らに対して立ち上がり、彼らを断罪します。

宗教に反しないことには全て、キリスト教徒は常に従順であった

23.まさしくこの故に初代のキリスト教徒は激しさをきわめる迫害のさ中にあって、なおも皇帝ならびに帝国によく仕えたのでした。彼らはこのことを[自らが抱く]宗教に反しないかぎり、全ての命令を厳格、かつ迅速に果たす忠実さのみならず、確固不抜な忠誠、および戦場での命を賭けた武勇によって示しました。聖アウグスチヌスは次のように述べています。『キリスト教徒の兵士は異教徒の皇帝たちに仕えたが、彼らがキリストの大義を攻撃するにいたっては、もはや天におられる支配者の他は認めなかった。彼らは永遠の主人と一時的な主人とを区別したのであるが、しかし永遠の主人のために、当の一時的な主人に仕えたのであった。』

テーベ軍団の指揮官であり、不屈の信仰をつらぬきとおして殉教者となった聖マウリチオもまたこの原則をよく理解していました。聖エウケリオの伝えるところによれば、聖人は皇帝に次のように答えました。『皇帝閣下、私たちは閣下に仕える兵士ですが、同時に天主の僕であることを臆することなく公言いたしております。さて、今閣下は私たちを生きるか死ぬかの窮地に追いやっておられますが、このことによって私たちは反乱をおこそうとは思いません。私たちは武器を手に持っていますが抵抗いたしません。それは、殺すよりも殺されることをよしとするからであります。』

たとえ国民の大多数がキリスト教徒であっても、自分の君主に従う

24.テルトゥリアヌスが伝えているように当時のキリスト教信徒は、もしそう望めば自分たちにあからさまに敵対する者らを駆逐するに充分なだけの数と兵力とを有していたことを考えるとき、古代キリスト教徒の君主に対する忠誠がどれほどのものであったかが察せられます。

『つい最近現れたと言うのに、私たちはどこにでも見かけられます。あなたの都市、あなたの島々、あなたの城塞、あなたの町々、あなたの衆議会、はては陣営の中にも、そして諸々の部族、十人組、宮廷、元老院、および公共の広場(フォールム)にいたるまで私たちのいない場所はありません。たとえ兵力において劣っていようとも、これほどた易く[殉教のために]殺戮されるのをゆるす私たちが、もし私たちが公言する信仰によって、死をもたらすよりもそれを被ることが良しとされているのでなかったなら、私たちが勇んで臨む用意のない戦いがあるでしょうか。これほどの数を誇る私たちがもし地球のどこか片隅に引き込もり、あなたたちの内から姿を消してしまったとしたら、これほど多くまたあらゆる階層にまたがる市民を失ってあなたの圧制は恥ずかしさに顔を赤らめたに違いありません。ただこの分離だけであなたへの充分な懲罰となったはずです。ぽつんと取り残されているのに気づき、あなたは怖れにとらわれるに違いありません。そうなれば、あなたは誰か命令を下してくれる人を求めたことでしょう。あなたのまわりには、市民よりも敵のほうが多くなったことでしょう。しかし実際は、キリスト教徒の数が多い分だけあなたの敵は少なくなっているのです。』

リベラル派は自由の名によって権威を犯罪的にも転覆させようとする

25.君主に対する忠実な服従を示すこれらの驚くべき事例はキリスト教のいとも聖なる戒律にその源を有しています。そしてこれらの事実はまた、自由を求める歯止めのない、気まぐれな情熱に燃え、主権を有する統治者のあらゆる権利を自由の名のもとに覆そうと全力を傾ける者たちの背徳と厭うべき反抗精神を誡めるものです。実際、人類の恥であり不名誉に他ならないウァルド派、ベグアルド派、ウィクリフ派といったべリアルの子らの常軌を逸した言動と悪辣な欲望は皆、かかる目的の実現に向けられていたのであり、このために使徒座からかくも度々、正当な断罪を受けたのでした。なぜなら、これらの狡猾な者たちは確かに、他でもないこの目的のために持てる全ての力を合わせたのであり、そしてそれをより容易にかつ速やかに達成するため、またルターと共にあらゆるものからの自由を勝ち得た喜びにひたるために、彼らは臆面もなく最も劣悪な犯罪をさえ犯すのです。

リベラル派はしかも教会と国家との分離を要求する

26.教会と国家の分離および教会位階と帝国との間の和合の断絶をかくも熱心に求める者たちの欲するところからは、宗教と国家権力双方にとっての良い結果は望み得ません。実際、放縦きわまる自由をかち得るためにはたらく者たちは何物にもまして、この和合を恐れています。しかるにかかる和合は教会と国家にとって常に有益かつ良い結果を生んできました。

秘密結社はこれらの自由のために戦ってきた

27.しかし、私の痛切な憂慮と払い切れない悲しみの元となっているこれらのことに、さらにある種の組織ならびに集会をつけ加えて述べねばなりません。それらの組織は規則を定めて一種の軍団を結成し、あらゆる種類の偽りの宗教ならびに礼拝を奉ずる者たちを含みます。こういった組織は、たしかに宗教に対する献身をよそおっていますが、実際それらの意図しているのは[伝統から離れた]新奇なことおよび反乱をいたるところに広げ、あらゆる種類の自由を主張し、聖なる[教会の]権力および[国家の]世俗的権力とに対して騒動をまき起こし、かつ最も聖なるものをも含め、全ての権力を否定することです。

司教達は、良い戦いを戦い、理性を信仰に従わせよ

28.悲しみに心を痛めながらも、風にお命じになり、凪にお戻しになる主に全く信頼して、私はこれらのことを書き送ります。尊敬する兄弟たちよ、それはあなた方が信仰の盾で身を固め、主の戦いを勇敢に戦いつづけることができるようにです。あなた方は、殊に天主の叡知に対して身をそそり上げようとする全ての高台(塔)に対して砦のように立ちはだからねばなりません。天主の霊の剣―――これは天主のみ言葉に他なりません―――を抜き、また正義に飢えかわく者たちが、あなた方からその望みを満たす機会を受け取ることができるようにしてください。主のぶどう園の勤勉な栽培者として選ばれたあなたたちは、任された土地から苦渋の根をすべて抜き取り、そして悪徳の種がみな摘み取られて諸徳の喜ばしい実りが円熟に育つよう、この唯一の目的のために一致して働いてください。

 特に神学や哲学的問題に取り組む者たちを父親の愛情をもって抱きしめ、彼らが自らの理性の能力にのみ頼って、天主を敬わぬ者らの後にしたがうことのないよう諭しなさい。また天主こそが真理の道における導き手であり、知恵ある者の知恵を完全なものと成す方であり、御自分のみことばによって御自分がどのような方であるかを知らされる、この天主御自身の導きによるのでなければ、天主を知ることは不可能であるという事実を彼らに思い起こさせるようにしてください。傲慢な者、と言うよりむしろ頭のおかしくなった者は、あらゆる人間の感覚を超える信仰の諸々の奥義を人間の尺度ではかろうとし、まさに人間の自然本性上の条件によって弱く、もろいものである理性に信頼を置くのです。

君主達は自分の王国を守り、信仰を守れ

29.そして願わくはキリストにおけるいとも親愛な子らである君主たちが宗教と国家との栄えのために、私が彼らに対して望むところのことを、彼らの権能と権威によって成し遂げてくれますように。そして、彼らに権威が与えられたのは、世を統治するためだけでなく、教会を支援し、保護するために特に与えられていることを、彼らがよく考えますように。また、教会の保護のためになされることは同時に彼ら自身の安寧および彼らが有する権威の維持のためになるということをよく思いめぐらしますように。いや、むしろ信仰のためとなることがらが彼らの王国のためとなることがらよりも、はるかに大切に感じられるべきことであると君主らが確信し、また聖レオ教皇の言うように、主の手によって彼らの王冠に信仰の冠がつけ加えて置かれることが彼らの最大の関心事となりますように。国々の父および守護者として立てられた彼らは、もしその太腿に王の王、主の主と書かれている天主に対して、敬虔さをともなって宗教が栄えることを自らの第一に配慮することとするなら、平和と豊かさに満ちた真のゆるぎない幸福を確保するでしょう。

全ての異端を滅ぼした聖母よ、我らを守り給え

30.しかるに、これらことがみな良く成し遂げられるためには、ただ一人で全ての異端を滅ぼし、また私たちの信頼の主要な対象である、いやむしろ私たちが信頼を心に抱くことの理由に他ならぬ童貞聖マリアに目を上げます。主の群れの今差し迫った危機に際して、聖母おん自らが私たちの熱意、私たちの企図、ならびに私たちの行動のいとも幸いな成功を祈ってくださいますように。

使徒の頭である聖ペトロと聖パウロよ、我らを守り給え

31.また私は、謙虚な祈りをもって使徒の頭である聖ペトロおよびその使徒職における伴侶聖パウロに、あなた方皆が揺るぎない壁のようになり、天主によって置かれた礎以外のいかなる礎も置くことのないように祈り願います。この励みに満ちた望みに支えられて、私は私たちの信仰の創始者にして完成者である[主]イエズス・キリストが艱難の中にあって私たちを慰めてくださることを確信しています。尊敬する兄弟たちよ、天からの助けの印として、あなた方およびあなた方の世話に任された羊たちに使徒的祝福を送ります。  

ローマ 聖母大聖堂の傍らにて 

私たちの主の御托身1832年 私の教皇登位2年目

8月15日 聖なる童貞女マリアの被昇天の荘厳な大祝日にて

聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)による七旬節の主日のミサの固有文 Proper of the Septuagesima Sunday [SSPX JAPAN]

2019年02月12日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
来たる2019年2月17日は、七旬節の主日(二級祝日 紫)です。聖伝のミサの固有文をご紹介します。

(指定巡礼聖堂。門外の聖ラウレンツィオ聖堂)
前の主日の典礼にもすでに現れていたが、人間的な弱さの感情は、本日のミサにおいて、いよいよ強調される。<入祭文>において、人間は、自分の苦しみと貧しさを嘆き、天主の助けを呼び、自分の助けであり解放者であり給う天主をたたえて歌う。<書簡>では、節制の徳を教え、<聖福音>では、主のぶどう畑に働くように勧める。いずれも、信仰と聖寵のお召しを受けるだけではなく、キリストの生活にならうことが、いかに重大であるかを反省させる。

Dominica in Septuagesima 七旬節の主日
II Classis 二級祝日
Statio ad S. Laurentium extra muros 門外の聖ラウレンツィオ聖堂
Ant. ad Introitum. Ps. 17, 5, 6 et 7. 入祭文 詩篇17ノ5-7
Circumdedérut me gémitus mortis, dolóres inférni circumdedérunt me : et in tribulatióne mea invocávi Dóminum, et exaudívit de templo sancto suo vocem meam. 死の苦悶は私を取り囲んだ。冥府(よみ)の苦しみが私を取り囲んだ。私の煩悶(はんもん)のうちに私は主を呼び求めた、すると主はその聖なる神殿で、私の[祈りの]声を聞き入れ給うた。
Ps. ibd., 2-3. 詩篇、17ノ2, 3
Díligam te, Dómine, fortitúdo mea : Dóminus firmaméntum meum, et refúgium meum, et liberátor meus.  主よ、私は御身を愛し奉る、わが力強さよ。主は私の固き支柱、私の避難所、私の解放者なり。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)
Circumdedérut me gémitus mortis, dolóres inférni circumdedérunt me : et in tribulatióne mea invocávi Dóminum, et exaudívit de templo sancto suo vocem meam. 死の苦悶は私を取り囲んだ。冥府(よみ)の苦しみが私を取り囲んだ。私の煩悶(はんもん)のうちに私は主を呼び求めた、すると主はその聖なる神殿で、私の[祈りの]声を聞き入れ給うた。
Non dicitur Glória in excélsis in Missis de Tempore ab hac Dominica usque ad Feriam IV Maioris Hebdomadæ inclusive, neque in Dominicis neque in Feriis. 【この主日から聖水曜日までを含めて、聖節の(de Tempore)の典礼のミサにおいては、主日も平日も、(つまり祝日をのぞいて)栄光誦をとなえない。】
Oratio. 集祷文
Preces pópuli tui, quǽsumus, Dómine, cleménter exáudi : ut, qui iuste pro peccátis nostris afflígimur, pro tui nóminis glória misericórditer liberémur. Per Dóminum nostrum. 願わくは、主よ、御民の祈りを、御寛仁をもって聞き入れ給え、我らの罪のために当然のことながら苦しむ我らが、御名の光栄のために憐れみ深く救い出されんことを。天主として、(…)
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corínthios. 使徒聖パウロの、コリント人への書簡の朗読
1 Cor. 9, 24-27 ; 10, 1-5. コリント前 9ノ24-27, 10ノ1-5
Fratres : Nescítis, quod ii, qui in stádio currunt, omnes quidem currunt, sed unus áccipit bravíum ? Sic cúrrite, ut comprehendátis. Omnis autem, qui in agóne conténdit, ab ómnibus se ábstinet : et illi quidem, ut corruptíbilem corónam accípiant ; nos autem incorrúptam. Ego ígitur sic curro, non quasi in incértum : sic pugno, non quasi áërem vérberans : sed castígo corpus meum, et in servitútem rédigo : ne forte, cum áliis prædicáverim, ipse réprobus effíciar. Nolo enim vos ignoráre, fratres, quóniam patres nostri omnes sub nube fuérunt, et omnes mare transiérunt, et omnes in Móyse baptizáti sunt in nube et in mari : et omnes eándem escam spiritálem manducavérunt, et omnes eúndem potum spiritálem bibérunt (bibébant autem de spiritáli, consequénte eos, petra : petra autem erat Christus) : sed non in plúribus eórum beneplácitum est Deo. 兄弟たちよ、競技場で走る人々は皆が走る、しかし一人だけが賞を受けることを、あなたたちは知らないのか。そのように賞を受けるために走れ。競技で戦う力士はみな、万事をひかえ慎む。彼らは朽ちる栄冠を受けるため[にそうするの]だが、私たちは朽ちない栄冠のためである。従って私はあてどなく走ることのないように走る。空を打たないように力技(りきぎ)する。私は自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは、他人にのべ伝えながら、自分は除名されることのないためである。兄弟たちよ、私は次のことを、あなたたちが無知であることを望まない。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通り、みな雲と海とのなかで、モイゼにおいて洗われた。みな、同じ霊的な食物を食べ、みな同じ霊的な飲み物を飲んだ。(かれらに従ってついてきた霊的な岩から飲んでいたが、その岩はキリストであった。)けれども、かれらのおおくは、天主のみこころをよろこばせなかった。
Graduale. Ps. 9, 10-11 et 19-20. 昇階誦 詩篇 9ノ10, 11, 19, 20
Adiútor in opportunitátibus, in tribulatióne : sperent in te, qui novérunt te : quóniam non derelínquis quæréntes te, Dómine, 主は、順境においても、逆境においても助け手[なる主]よ、御身を知った者らは、御身に希望せんことを。なぜなら、主よ、御身を求める者たちを、御身は見捨てないからである。
V/. Quóniam non in finem oblívio erit páuperis : patiéntia páuperum non períbit in ætérnum : exsúrge, Dómine, non præváleat homo. 何故なら、貧しい者を忘れることは終わりまでではないからなり。貧しい者らの忍耐は、永遠に滅びることはない。主よ、起き給え、人間が勝ち誇ることのないように。
Tractus. Ps. 129, 1-4. 詠誦 詩篇129ノ1-4
De profúndis clamávi ad te. Dómine : Dómine, exáudi vocem meam. 主よ、深き淵より、私は主に叫び奉った。主よ、私の呼び声を聞き入れ給え。
V/. Fiant aures tuæ intendéntes in oratiónem servi tui. 主の下僕の祈りに、御耳を傾け給わんことを。
V/. Si iniquitátes observáveris, Dómine : Dómine, quis sustinébit ? 主よ、もしも御身が不義を目にし給えば、主よ、誰が弁護しえよう。
V/. Quia apud te propitiátio est, et propter legem tuam sustínui te, Dómine. 御身のみもとには慈悲があり、主よ、主の掟のために、私は主に希望し奉った。
A Septuagesima usque ad Feriam III post Dominicam Quinquagesimæ inclusive, quando in Feriis resumitur Missa Dominicæ, non dicitur Tractus, sed tantum Graduale. 【七旬節から灰の水曜日までを含めて、平日に主日のミサをささげるときは、詠誦はとなえず、昇階誦だけをとなえる。】
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦
Matth. 20, 1-16. マテオ 20ノ1-16
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis parábolam hanc : Simile est regnum cælórum hómini patrifamílias, qui éxiit primo mane condúcere operários in víneam suam. Conventióne autem facta cum operáriis ex denário diúrno, misit eos in víneam suam. Et egréssus circa horam tértiam, vidit álios stantes in foro otiósos, et dixit illis : Ite et vos in víneam meam, et quod iustum fúerit, dabo vobis. Illi autem abiérunt. Iterum autem éxiit circa sextam et nonam horam : et fecit simíliter. Circa undécimam vero éxiit, et invénit álios stantes, et dicit illis : Quid hic statis tota die otiósi ? Dicunt ei : Quia nemo nos condúxit. Dicit illis : Ite et vos in víneam meam. Cum sero autem factum esset, dicit dóminus víneæ procuratóri suo : Voca operários, et redde illis mercédem, incípiens a novíssimis usque ad primos. Cum veníssent ergo qui circa undécimam horam vénerant, accepérunt síngulos denários. Veniéntes autem et primi, arbitráti sunt, quod plus essent acceptúri : accepérunt autem et ipsi síngulos denários. Et accipiéntes murmurábant advérsus patremfamílias, dicéntes : Hi novíssimi una hora fecérunt et pares illos nobis fecísti, qui portávimus pondus diéi et æstus. At ille respóndens uni eórum, dixit : Amíce, non facio tibi iniúriam : nonne ex denário convenísti mecum ? Tolle quod tuum est, et vade : volo autem et huic novíssimo dare sicut et tibi. Aut non licet mihi, quod volo, fácere ? an óculus tuus nequam est, quia ego bonus sum ? Sic erunt novíssimi primi, et primi novíssimi. Multi enim sunt vocáti, pauci vero elécti. そのとき、イエズスは弟子たちに、このたとえをおおせられた。 : 天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。主人は、一日一デナリオの約束で、はたらく人をぶどう畑におくった。また九時ごろ出てみると、仕事がなくて市場に立っている人たちを見たので、"あなたたちも、私のぶどう畑に行け、正当な賃金をやるから"というと、その人たちも行った。十二時ごろと、三時ごろとに出ていって、また同じようにした。五時ごろ、また出てみると、ほかにも立っている人がいたので、"どうして、一日中仕事もなく、ここに立っているのか?"ときくと、かれらは"だれもやとってくれないからです"と答えた。主人は、"あなたたちも、私のぶどう畑に行け"といった。日暮れになったので、ぶどう畑の主人は、会計係に、"はたらく人を呼んで、あとの人からはじめて、最初の人まで、賃金をはらえ"といいつけた。五時ごろやとわれた人がきて、一人一デナリオずつもらった。最初の人たちが来て、自分たちのほうは、もっと多いだろうと思っていたが、やはりかれらもー人一デナリオずつもらった。もらったとき、主人にむかって、"あの人たちは一時間はたらいただけなのに、あなたは、一日中労苦とあつさとをしのんだ私たちと、同じように待遇なさった"と不平をいった。すると、主人は、その一人に、"友よ、私は、あなたに不当なことをしたのではない。あなたは私と、一デナリオで契約したではないか。あなたのわけ前をもらって行け。私は、このあとの人にも、あなたと同じ賃金を与えようと思っている。私のものを、私の思うままにすることが、なぜいけないのか。それとも、私がよいから、あなたがねたんでいるのか?"と答えた。こういうふうに、あとの人が先になり、先の人があとになるであろう。召される者は多いが、選ばれる者は少ない。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 91, 2. 奉献文 詩篇 91ノ2
Bonum est confitéri Dómino, et psállere nómini tuo, Altíssime. いと高き御者よ、主を告白し、御身の御名に詩篇を歌うはよきかな。
Secreta. 密誦
Munéribus nostris, quǽsumus, Dómine, precibúsque suscéptis : et cæléstibus nos munda mystériis, et cleménter exáudi. Per Dóminum. 主よ、願わくは、われらの供え物と祈りとを受け入れ給い、天の奥義によってわれらを浄め、憐れみ深く[われらの祈りを]聞き入れ給え。天主として、(…)
Praefatio de sanctissima Trinitate 三位一体と主日との序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 30, 17-18. 聖体拝領誦 詩篇  30ノ17-18
Illúmina fáciem tuam super servum tuum, et salvum me fac in tua misericórdia : Dómine, non confúndar, quóniam invocávi te. 主の下僕の上に御顔を輝かし、御あわれみにおいて、私を救い給え。主よ、私は恥を受けないだろう、何故なら私は御身を呼び求めたからなり。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Fidéles tui, Deus, per tua dona firméntur : ut eadem et percipiéndo requírant, et quæréndo sine fine percípiant. Per Dóminum. 天主よ、御身の信者らが御身の賜物らによって強められんことを。彼らが、同じ賜物を受けつつそれを望み、望みつつ受けられんがためなり。天主として、(…)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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