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聖ピオ十世会とは?About the Society of Saint Pius X (SSPX)

2019年02月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会とは何か、ずばり、ご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


 聖ピオ十世会は、故マルセル・ルフェーブル大司教(1905-1991)によって創立され、教会法に則り、1970年11月1日付で正式に発足したカトリック教会内の修道会です。

 スイス、フリブールのシャリエール司教から正式な認可を得て、カトリック教会法典に則って創立されました。

 カトリック教会によって認可を受けた会憲にはこうあります。
「天主、至聖三位一体への偉大な愛は、聖ピオ十世会会員の心を燃え立たせるだろう。この愛徳は自然と童貞性と清貧を産み出し、信仰と準備のできている寛大な愛深い従順とを通して自分を常に与えるように常に促すほど大きなものでなければならない。」(VI De Sodalium Virtutibus, 1)

 聖ピオ十世会は、1970年に創立されて以来、2018年7月現在、司祭637名、修道士123名、修道女200名、奉献修道女79名、ケニアの宣教修道女19名を擁する国際的な司祭らの修道会となり、37ヵ国で常駐し、その他に35ヵ国にミッションを行い、72ヵ国で聖務を行っています。

 聖ピオ十世会の会憲にある通り、"聖ピオ十世会の目的は、司祭職であり、司祭職に関わる全てのことであり、司祭職に関すること以外の何ものでも無い。すなわち、私たちの主イエズス・キリストが「私の記念のために、これを行え」と言われたとき、私たちの主が望まれたままの司祭職である。"(II De Sodalitii Fine, 1)

"従って、聖ピオ十世会は、司祭生活を司祭の存在にとって本質的な理由であるところのものに方向付け、向かわせなければならない。司祭の存在理由とは、すなわちミサ聖祭であり、ミサが意味する全てのもの、ミサから流れる全てのもの、ミサを補足する全てと共にである。"(II De Sodalitii Fine, 2)

 この事業は、第一に私達の神学校で達成されます。聖ピオ十世会の神学校では、聖伝に従うカトリックの養成がなされています。

 聖ピオ十世会の司祭たちはまた、世界中にいる兄弟である司祭たちが聖伝のラテン語のミサを学んだり、必要に応じて助言を与えたり、司祭たちがカトリック教会の遺産を取り戻していくことを助けてもいます。

 神学生たちは、自分たちの養成期間が終わると、信徒たちのために使徒職に従事するよう各地の小修道院に派遣されます。

 聖ピオ十世会は、創立後半世紀を経て、そのほとんどの司祭たちが教会で働き、秘跡を執り行い、霊魂を導き、カトリック学校で教えています。 このようにして、聖ピオ十世会は真剣に、守護聖人である教皇聖ピオ十世のモットーを自分たちのものとしています。

「キリストにおいてあらゆるものを復興させる」 Instaurare omnia in Christo.


2019年1月6日(主) 主の御公現の大祝日のミサ説教 「御公現の玄義について」

2019年02月19日 | お説教・霊的講話
2019年1月6日(主日)主の御公現の大祝日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年1月6日、主の御公現の祝日です。

今日は色々なプログラムがあります。ミサの後には、いつものように感謝のお祈りをします。その次に、月の初めの主日、また年の最初の主日ですので、御聖体降福式を致しましょう、いつものように。

今年も毎月最初の主日には、御聖体降福式を致します。この為に私たちは多くの御恵みを受けてきました。この新しい新年、イエズス様が祝福して下さいますように、お祈り致しましょう。

その後に今度はクリスマスから御公現までしております、幼きイエズス様への接吻式があります。

それから今日は御公現のチョークを祝別する日でもありますので、チョークを祝別して皆さんにもお配りしたいと思っています。

それから14時から14時半まで、侍者の会の集いがあります。聖フランシスコ・ザビエル侍者の会の集いがあります。侍者として一緒にミサ答えをしたい、侍者の会に入ろうという方はどうぞ参加して下さい。今日は15時から晩課があります。第2晩課、御公現の晩課です。

明日は朝7時からミサがあります。

次の主日のミサは、1月20日です。


“Ecce advenit.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、今日の黙想の目標はテーマは、「御公現」という大祝日とその典礼文、非常に美しく出来ている、古来から伝えられたこの典礼を黙想する事によって、

⑴一体御公現とは、その典礼によって何を私たちに教えているのか?この御公現の玄義は一体何なのか?

⑵この御公現の玄義を、典礼はどのように私たちに伝えようとしているのか?その核心は何なのか?

⑶そしてでは典礼において私たちは、御公現において何をしなければならないのか?そしてでは何をするのか?

という事を黙想したいと思います。そして今日は、その御公現の玄義が一体典礼によってどのように表されていて、今日のミサをどのように理解して与るべきか、という事が理解できれば、私の黙想の提案が成功した事になります。


⑴まず第1に気が付く事は、入祭誦です。
司祭が祭壇の前に立ってミサを始めようとする時に、聖歌隊はこう歌います、“Ecce advenit”これは、「見よ、遂に到達した。遂にやって来た」という意味です。

この“advenit”という言葉は、“adventus”「到達する」つまり待降節と同じ語源の言葉で、「遂に待降節から、待ちに待っていたこの救い主の御到来と、そしてその神秘が完成した。」“advenit”いうのは、「到達した」という過去形であるからです。「遂に玄義が完結した。完成された。遂にやって来た」という事です。

何がやって来たかというと、“Dominator Dominus et regnum in manu ejus”という言葉が続きます。つまり、「主であり、全宇宙を支配している方、支配者、王の王、最高の主がやって来た」という事です。

日本では特に今年は、新しい天皇陛下の即位があったり、元号が変わったりします。そして10日間のお休みがあって、その時には私たちは喜びに満ちる事でしょう。たくさんご馳走も食べるかもしれません。迎賓館ではとても大きな晩餐会が開かれるかもしれません。外国の大切なお客様たちを呼んで、色々な晩餐式が開かれる事でしょう。

それと同じように、教会の、特にこの時には、「王がやって来た。本当の私たちの救い主がやって来た。この生まれた御方は真の王である」と宣言します。

そこで私たちも、この王の到来の為に、元号をも変えて、西暦2019年、そして大きな晩餐会を開かれます。

もちろん本当の晩餐会は天国で開かれるはずですけれども、私たちはその前取りとして、このミサが開かれています。

あるいは、待ちに待ったこの救い主は、典礼によれば、私たち人類の、霊魂の、人間の霊魂たちの花婿です。「花婿が遂に、花嫁と婚姻をする日が来た。そしてその婚姻の為の婚姻の大宴会が開かれる。花婿と花嫁が一つになる。一つの家族になって、一つの体になる。」

ですから、この婚姻の大宴会についても語られます。ミサの時には語られないのですけれども、朝課と晚課、15時から私たちが歌う晚課では、「カナの婚宴で水がワインに変わったのも、これも霊魂とキリストの婚姻の為だ。」あるいは、「3人の王が、東方の王たちが博士たちが贈り物をしたのも、やはりこの婚姻の贈り物だ」とさえ歌っています。

そのような事が分かると、「クリスマスであった事が、御公現節で完成させられている、完成させられた」という事が分かります。クリスマスは、私たちは「イエズス様が真の救い主であり、預言されたメシアの成就であり、唯一の救い主である」という事を黙想しました。しかも私たちを赦す為に、私たちを愛するが為に、とてつもない計り知れない愛を持ってやって来た喜びの日でした。

それにそれを完成させる今日、御公現節は、東方の博士たちはその愛を、愛を以って応えようとします。愛を以って、贈り物を持って、遠くの道のりをやって来ます。礼拝を捧げようとしてやって来ます。そして私たちも、この東方の王にならなければなりません。典礼では皆さんが主人公です。皆さんが東の国の博士たちになります。


⑵第2の点は、一体どうやって、典礼学者によると、「このミサの構造は非常に完璧な構造をしている」と言います。典型的なローマ典礼です。

1つは、「預言とその成就がある」という事がパラレルに語られるからです。なぜかというと、書簡では旧約の預言が読まれます。旧約の預言はイザヤの書から取られていますが、「東の国の博士たちがやって来る。らくだや動物たちに乗ってやって来て、サバやマディアンからやって来て、そして贈り物を贈る。エルサレムよ、輝け。光出されよ。光がお前から輝く。」この預言が語られて、そして福音ではその成就が語られます。実際に今から2000年前、イエズス様が御誕生になられた時に、本当にその通りになりました。

そして2000年後の今、私たちも福音の時に、博士たちと一緒に跪いて礼拝しました。これは「この私たちも、この典礼においては、東の国の博士たちである」という事を示しています。


⑶では、私たちが一体どのような役割を果たさなければならないのでしょうか?

私たちも、クリスマスの時にイエズス様から贈り物をもらったのみならず、今度は幼きイエズス様に、王であるイエズス様に、私たちの贈り物を捧げる番がやって来た、という事です。ではどんな贈り物を捧げたら良いのでしょうか?

それは一言で言うと、「私たち自身」です。人類は、「天主のようになる」という悪魔の誘いを受けて堕落しました。天主の敵となりました。不幸になりました。救い主を必要とする存在となりました。しかし私たちが主の道具として、主の御旨を果たす者となる時に、主に私たちを捧げる者となる時に、私たちはもう一度幸せへの、救い主を受ける事ができる道が開かれます。マリア様がそうでした。3人の博士がそうでした。そして私たちもそのように招かれています。私たち自身を奉献するという事です。

ですから、Offertoriumの時には、イエズス様が既に捧げられています。私たちの手本として、私たちもイエズス様のように捧げられなければならない。Offertoriumによれば、「博士たちが捧げた3つの贈り物は、実はイエズス様を意味していた」と言います。ですから私たちも、その自分自身を与えなければなりません。

では、いつ、そうしたら良いのでしょうか?

それが、御聖体拝領です。御聖体拝領の時に私たちはイエズス様を受けますが、それと同時に、自分をイエズス様に与え尽くす、という事をしなければなりません。私たちの純粋な、純金のような信心と愛を、イエズス様にお捧げ致しましょう。御聖体拝領の時に、私たちのこの一年の祈りを、またいけにえを犠牲を、乳香のようにお捧げ致しましょう。そしてイエズス様が亡くなる時には没薬を体に受けましたけれども、私たち自身がイエズス様を受ける時に、イエズス様を囲む没薬となりますように、決してイエズス様を腐敗させない者となりますように、イエズス様の精神を腐敗させない者となりますように、お祈り致しましょう。

ですから典礼では、皆さんが御聖体拝領する時にクライマックスとなります。どうぞ皆さんの愛と、祈りと、犠牲の心を以って、「イエズス様の道具となる、その御旨を果たしたい」という愛を以って近寄って下さい。

マリア様にお祈り致しましょう。どうぞこの御公現の神秘がますます理解する事ができますように、3人の博士たちは福音書によると、「マリアと共に居る子供を見出した」とあります。

「イエズス様を見出す事ができるように、マリア様、傍に居て下さい。マリア様、私たちがマリア様と共に居るイエズス様を礼拝する事ができるように、助けて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ 第17章 聖伝とは何か

2019年02月19日 | ルフェーブル大司教の言葉

教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ

ルフェーブル大司教の公開書簡 その17

第17章 聖伝とは何か

 今日でも過去においても、近代主義というものは実に内部から教会をむしばむものです。回勅『パッシェンディ』から、今日我々が経験している事柄に対応するいくつかの主要な点を再び引用してみましょう。

「教会の権威は、自らの目的が完全に霊的なものであることに鑑みて、公衆の眼前にその姿を飾るところの外的な壮麗さを脱ぎすてなければならない、と近代主義者らはいう。かかる主張を成すに当たって、彼らは、宗教は霊魂のためのものであるとは言え、ただ霊魂のためのみのものではなく、また権威に対して払われる敬意は、それを制定したキリストご自身に帰されることになる、という事実を忘れている。」

 パウロ六世が教皇冠を脱ぎ、司教たちが紫のスータンさらには黒いスータンをさえ着るのをやめ、司教の指輪も外し、司祭たちが仕事着や、いつも、わざとくだけたスタイルで現れるようになったのは、これら「新奇なことを語る者たち」の圧力のゆえです。すでに施行済みの一般的な改革や断固要求された改革の中には、近代主義改革者たちの「偏執狂的な」願望として聖ピオ十世が言及していない事柄などはありません。読者も次の文章を読めば、それらを理解するに違いありません。

「礼拝について彼らは、“外的な信心の数は減らされ、これ以上それが増えることのないように手段が講じられなければならない” と言います。・・・ 教会の統治機構が、今やことごとく民主主義を志向する現代人の意識に合致されねばならず、したがって聖職者の中でも低い階級に属する者たち、さらには一般信徒にさえも同機構において何がしかの役割が与えられるべきであること、また、過剰に一点集中している権威もまた、分権化されねばならないこと」を強く主張している。ローマ聖省、中でも特に図書検閲聖省ならびに検邪聖省も同様に改変されなければならない。・・・

 さらに一部の者は、プロテスタントの教師の教えに喜んで聞き入り、「聖職者の独身制の廃止」を望んでいる。」

 これらと全く同じ要求が現在提唱されており、その中に独創的なものは何一つないことに注目してください。キリスト教的思想と将来の司祭の要請に関し、ピオ十世の時代の改革者たちの意図は、「哲学史の単なる一章として種々の時代遅れの体系の中に位置づけられる」スコラ的哲学を放棄することでした。彼らは「“唯それのみが真でありかつ私たちの生きる時代に適合したものである現代哲学”が青少年に教えられるべきであり・・・ 合理的神学は現代哲学をその基礎とし、また実証神学は教義[発達]の歴史に基づいてなされるべきである」としています。

 この点で、近代主義者たちは、望んだ以上のものを得てきました。通称神学校なるものの中で、彼らは、聖トマス・アクィナスの代わりに人間学、精神分析学、およびマルクスを教えています。トマス主義の原則は、宇宙の摂理は説明できないことを自ら認める彼らのあいまいな理論のかたわらに退けられ、彼らはそのようにして不条理の哲学を唱道しています。現代のあるいい加減な考えの持ち主の司祭は、識者たちから注目され、性をすべての中心に置き、公式の集会で大胆にも次のように述べています。

「古代人の科学的仮説は全くばかげたものであり、聖トマスとオリゲネスは、そのようなたわごとに自分の学説の根拠を置いた。」

 その直後に彼は、非常識にも生命は「生物学上説明のつかない事実に基づく進化の連鎖」だと定義づけました。説明がつかないと、どうして彼に分かるのでしょうか。私に言わせるなら、司祭たる者が、それは天主によるという唯一の説明をどうして放棄できるのでしょうか。

 近代主義者たちが、天使的博士(聖トマス・アクィナスのこと)の原理、可能態と現実態の概念、また本質、実体、遇有、霊魂、身体などの概念に反して、自分たちの愚論を弁論しなければならないとしたら、彼らは無に帰すことになるでしょう。彼らはそのような概念を取り除くことにより、教会の神学を理解不可能なものとしているのです。そのために、教皇自発教令 『ドクトリス・アンジリチDoctoris Angelici』に「従って、聖なる規律を学ぶ学生たちは、天主が啓示し給うた教義が教導権によって提示されている、その言葉の意味さえ、もはや把握してはいない」とあるとおりです。スコラ哲学への攻撃は、教義を変え聖伝を攻撃したいと願う者にとって、必然のことなのです。

 しかし、聖伝とは一体何でしょうか。この語はしばしば誤って解釈されているように思えます。それは、仕事、家族、および市民生活において存在している「伝統・しきたり」と同一視されています。最後の一枚のタイルが敷かれたときに家の屋根に飾られる花束や、記念碑を公開するときのリボンカットなどのようなものと、です。私が述べているのはそうしたものとは異なります。聖伝とは、過去から受け継がれてきた習慣や、はっきりとした理由がないのに、単なる過去への忠義心から保たれてきた習慣から成り立っているのではありません。聖伝とは、「数世紀を経て教導職により伝えられてきた信仰の遺産」と定義されます。この遺産は、啓示により私たちに与えられたもの、つまり、使徒たちにゆだねられ、その後継者たちに確実に伝えられてきた「天主の言葉」なのです。

 しかし、今や彼らは、まるで私たちが使徒信条を与えられてはいないかのように、あるいは、私たちの主が真理をお授けになるため、一度限りいつも有効なように、この世に来たことなどあたかもなかったかのように、あらゆる人に探させ、求めさせようとします。そのように探すことで、何を見つけると言うのでしょうか。カトリック信者らは彼らによって「自分たちの確信を捨て」させられた後、彼らからそのような「もう一度問い直すこと」を押し付けられています。彼らは、次のことを思い出すべきです。つまり、啓示の遺産は、最後の使徒の死をもって終わった、ということです。それは完結したのであり、時の終わりに至るまで、それに触れることはできません。啓示は変更不可能なのです。第一バチカン公会議は、再度このことを明言しています。

「天主が啓示した信仰の教理は、人間の知能が完成するべき哲学的発見ではなく、キリストの花嫁(教会)に天主の遺産として委ねられたのであり、それは教会によって忠実に守られ、誤ることなく解釈されるためである。」

 しかし、聖母マリアが天主の御母であるとする教義は、431年、全実体変化の教義は1215年、教皇の無謬性の教義は1870年にしか遡らないではないか、と異議を唱える人もいるかもしれません。教義の進化はなかったのでしょうか? 全くありません。長い時の経過の中で定義されてきた教義は、啓示に含まれていたものです。教会はそれらをただ明確にしただけです。教皇ピオ12世が、1950年に聖母の被昇天の教義を定義した際、童貞聖マリアがその肉体とともに点に移されたという被昇天に関する真理が啓示の遺産に含まれていたこと、また最後の使徒の死以前に私たちに啓示されたテキストの中にすでにあったと述べました。私たちはこの点で、何であれ新しいものを持ち込むことはできませんし、たった一つの教義でも付け加えることはできません。しかし、存在しているものをかつてなく明快に、美しく、高尚に言い表すことならできるのです。

 これは極めて確実であり、私たちの前で日常的に繰り返される誤りを判断し、一切譲歩せずにそれらを退けるために、私たちが従うべき規定なのです。ボシュエが力強く書いているとおりです。

「キリスト教道徳の原理と教会の本質的な教義を説明するのが問題となるとき、全時代において、とりわけ古代において聖伝に出現していない事柄すべては、聖伝にないというその瞬間から、単に疑わしいのみならず、間違っており、排斥されるべきである。そしてこれが、教会の聖なる教父たち、そしてだれよりも教皇が、偽りの教義を排斥した際に従った根本原則である。何故ならローマ教会にとって、新奇な見解ほど忌まわしい事柄はないからである」。

 脅しつけられた忠実な信者たちに強要されている論点は、次のようなものです。「あなた方は過去にしがみついている。懐古趣味で、自分だけの時の中で生きている。」

 そう言われると、決まりが悪くなって、答えに窮するのです。しかし、実際のところ答えは簡単です。このことに関しては、過去も現在も未来もない、真理はすべての時代に属するのであり、不変だ、と言うべきなのです。

 彼らは聖伝を打ち崩すため、聖書と聖伝を対峙させますが、プロテスタント流の、福音書だけが重要な書であるとする主張をもってそうします。しかしながら、聖伝は福音書よりも前にあったのです。共観福音書は、ある人々が私たちに信じ込ませようとしているような遅い時期に書かれたのではありません。とはいえ、4人の福音史家が各々の書を完成させるまでに多年が経過していました。しかし、教会はそのときすでに存在していたのです。聖霊降臨が起こっていました。非常に多くの改宗者、実に3000人もの人々が、使徒たちが高間から出てきた聖霊降臨のその日その時に生み出されたのです。その時彼らは何を信じていたのでしょう。口頭伝承によらずして、啓示は一体どのようにして伝えられたというのでしょうか。誰も聖伝を聖書より軽んずることはできませんし、まして聖伝を退けることなどできません。

 しかし、こうした主張を受け入れて、彼らが霊感を受けた聖句に無限の敬意を抱いているとは思わないでください。彼らはそれが全体として霊感を受けていることに疑問を差しはさむことさえして、「福音書の中には、霊感を受けたものあるか。私たちの救いに必要な真理だけがそうだ」と言います。従って、奇跡や聖なる幼年期の記録、私たちの主の活動や振る舞いなどは、多かれ少なかれ伝説的な伝記部類に追いやられているのです。第二バチカン公会議において私たちは、「救いに必要な真理だけ」という言い回しについて論争しました。

 公会議中、福音書の歴史的な正真性を薄めることに賛成した司教たちもいて、新近代主義によりどれだけ聖職者が毒されているかが明らかになりました。カトリック信徒は欺かれることがないようにすべきです。全福音書は霊感を受けたものであり、それを書いた人々は、聖霊の影響下に知性が導かれていたのです。それゆえ、福音書は全体が天主のみ言葉、Verbum Dei なのです。選り好みをして「この部分は受け入れるが、あの部分は受け入れたくない」と言うことは今日許されてはいません。選択をすることは、その語のギリシャ語の由来からすると、異端者になるということです。

【第二バチカン公会議の『神の啓示に関する教義憲章』11番には「聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書に記録されることを望んだ真理を固く、忠実に、誤りなく教えるものと言わなければならない。」という一節がある。】

 福音書を私たちに伝えたのは聖伝であるというのは、事実以外の何ものでもなく、福音書の趣旨を私たちに説明することは、聖伝と教導権に属しているのです。もし私たちのためにだれも福音書を解き明かしてくれないとしたら、キリストの同じ言葉に関していくつか全く異なる解釈に到達することになるでしょう。そうなれば、結局私たちは、プロテスタントの勝手な解釈であるとか、単なる幻想へと人をいざなう今日のカリスマ運動の自由な「霊感」に行き着くことになってしまいます。

 教義に関する全ての公会議は、私たちに聖伝の厳密な表現、使徒たちが教えた事柄の厳密な表現を与えてきました。聖伝は変更を許さないものです。何人も、トレント公会議の教令を変更することはできません。理由は、教会の正式記録により記述され公にされたものであり、不可謬であるからです。ところが第二バチカン公会議では、教皇らはその不謬性を行使しようと望まなかったがゆえにその命題は不可謬とは限らないのです。したがって、「あなたは過去にしがみついており、トレント公会議に止まっている」などと誰も皆さんに言えないのです。なぜなら、トレント公会議は過去のものではないからです。聖伝は、時代を超越した性格を有し、あらゆる時代とあらゆる場所に当てはまるものだからです。

【参考資料】
聖ピオ十世「パッシェンディ」の内容と第二バチカン公会議後の改革

ルフェーブル大司教 公開書簡 「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ 全23章」

第1章. なぜ今カトリック者たちは、困惑しているのか。原因は、カトリック教会に侵入した新しい精神。それは教会の過去の教えと生命とを疑問視させる。
第2章. 私たちの宗教は変えられようとしている!
第3章. 典礼改革:ミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられている。非神聖化。聖なる物の喪失。
第4章. 永遠のミサと現代のミサ。典礼改革は意図的に犠牲を食事に変える。
第5章. 「それは昔の話ですよ!」
第6章. 洗礼と婚姻、悔悛と終油の秘蹟の新しい仕方
第7章. 新しい司祭職
第8章. 新しい公教要理
第9章. 現代の神学
第10章. エキュメニズム(キリスト教一致運動)
第11章. 信教の自由
第12章. 「同志」および「同伴者」たち
第13章. フランス革命のフリーメーソン的スローガン「自由・平等・博愛」は、第二バチカン公会議の「信教の自由、団体主義の平等、エキュメニズムの博愛」となった
第14章. 「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」(スーネンス枢機卿)
第15章. 教会と革命の結合:リベラル派は教会を革命と結婚・合体さようとし、歴代の教皇たちはこのリベラルなカトリック主義を排斥し続けてきた
第16章. 信仰を瓦解させる新近代主義
第17章. 聖伝とは何か:聖伝とは「数世紀を経て教導職により伝えられてきた信仰の遺産」と定義される
第18章. 本当の従順と偽物の従順:「従順」の名によって全聖伝に不従順であることは本物の従順ではない。
第19章. エコンの神学校とローマ
第20章. 永遠のミサ
第21章. 異端でもなく、離教でもなく
第22章. 家族で出来ること:家族という組織単位が破壊されつつある、離婚、同性愛カップル、出生率の低下、中絶
第23章. 「作り上げること」と「壊し尽くすこと」との闘い


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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