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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズスの御名の祝日(割礼と御公現との間の主日)二級祝日のテキストをご紹介いたします。

2020年01月08日 | カトリックとは

イエズスの御名の祝日(割礼と御公現との間の主日)二級祝日のテキストをご紹介いたします。

ミサ聖祭 イエズスの御名に対する信心は、早くから行われていたが、十五世紀になって、特にシエナの聖ベルナルディーノが、この祝日の使徒となった。インノチェンツィオ十三世教皇は、一七二一年に、この祝日を全教会の祝日とし、御公現後の第二祝日と定めた。聖ピオ十世教皇は、一九一三年、この祝日を繰り上げて、一月二日から五日までの間の主日と定めた。この間に主日がない年、あるいはより大いなる祝日がある年には、一月二日に行うようにと定めた。
密の流れる博士 Doctore Mellifluus というあだ名を受けた聖ベルナルドはこう言います。イエズスだけが "言うに甘し、聞くに楽し、思うに嬉し (口には蜜、耳には歌、心には喜び mel in ore, in aure melos, in corde iubilum)" と言っていました。
聖ベルナルド「油は光り、養い、塗る。火を保たせ、体に栄養を与え、痛みを和らげる。光となり、食べ物となり、薬となる。花婿の名前と同じであることをご覧なさい。説教すると光輝き、黙想すると養い、呼び求めると和らげ油が塗られる。Oleum enim lucet, pascit , et ungit. Fovet ignem , nutrit carnem , lenit dolorem : luae , cibus , medicina. Vide idem nunc et de Sponsi nomine : Lucet praedicatum, pascit recogitatum, invocatum lenit, et ungit.」
イエズスよ、天使の勲章よ
耳には甘い歌声
口には素晴らしき蜜
心には天の飲み物
Iesu, decus angélicum,
In aure dulce cánticum,
In ore mel miríficum,
In corde nectar cǽlicum


Dominica a die 2 ad diem 5 ianuarii occurrenti vel, si hæc defecerit, die 2 ianuarii 一月二日から五日までの間の主日あるいは一月二日
Sanctissimi Nominis Iesu イエズスの御名の祝日
II classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Phil. 2, 10-11. 入祭文 フィリッピ、2ノ10-11
In nómine Iesu omne genu flectátur, cæléstium, terréstrium et infernórum : et omnis lingua confiteátur, quia Dóminus Iesus Christus in glória est Dei Patris. イエズスの御名において、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、すべての膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の栄光をあがめ、「主イエズス・キリストは聖父なる天主の栄光にまします」と告白せんことを。
Ps. 8, 2. 詩篇、8ノ2
Dómine, Dóminus noster, quam admirábile est nomen tuum in univérsa terra ! 我らの天主なる主よ、御身の御名は、あらゆる地において、なんと感嘆すべきであるか!
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
In nómine Iesu omne genu flectátur, cæléstium, terréstrium et infernórum : et omnis lingua confiteátur, quia Dóminus Iesus Christus in glória est Dei Patris. イエズスの御名において、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、すべての膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の栄光をあがめ、「主イエズス・キリストは聖父なる天主の栄光にまします」と告白せんことを。
Oratio. 集祷文
Deus, qui unigénitum Fílium tuum constituísti humáni géneris Salvatórem, ei Iesum vocári iussísti : concéde propítius ; ut, cuius sanctum nomen venerámur in terris, eius quoque aspéctu perfruámur in cœlis. Per eúndem Dóminum. 御ひとり子を、人類の救い主と定め、イエズスと呼ばれることを命じ給うた天主よ、願わくは、御慈悲により、我らがこの世でその聖なる御名を尊び奉り、天においてその[御姿を]見奉るをも享受せんことを。その同じわれらの主(…)。
Léctio Actuum Apostolorum. 使徒行録の朗読
Act. 4, 8-12. 使徒行録、4ノ8-12
In diébus illis : Petrus, replétus Spíritu Sancto, dixit : Príncipes pópuli et senióres, audíte : Si nos hódie diiudicámur in benefácto hóminis infírmi, in quo iste salvus factus est, notum sit ómnibus vobis et omni plebi Israël : quia in nómine Dómini nostri Iesu Christi Nazaréni, quem vos crucifixístis, quem Deus suscitávit a mórtuis, in hoc iste astat coram vobis sanus. Hic est lapis, qui reprobátus est a vobis ædificántibus : qui factus est in caput ánguli : et non est in alio áliquo salus. Nec enim aliud nomen est sub cœlo datum homínibus, in quo opórteat nos salvos fíeri. そのとき、聖霊にみたされたペトロはいった。「ユダヤ人のかしらたち、長老たちよ、私たちが、一人の病人にたいして善業をおこなったことについて、どうしてかれを治したのかと、今日ただされているのですが、一同およびイスラエルの人々よ、次のことを知っていただきたい。あなたたちが十字架にかけ、天主が死者の中からよみがえらせたナザレトのイエズス・キリストのみ名によって、この人はなおって、あなたたちの前に立っているのです。家つくりのあなたたちに軽んじられたその石イエズスは角の親石とされました。救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした」。
Graduale. Ps. 105, 47. 昇階誦、詩篇、105ノ47
Salvos fac nos, Dómine, Deus noster, et cóngrega nos de natiónibus : ut confiteámur nómini sancto tuo, et gloriémur in glória tua. われらの天主なる主よ、われらを救い給え。われらを諸国の中より集め給え、御身の聖なる御名を告白し、御身の栄光において我らが栄光を受けんがためなり。
V/. Isai. 63, 16. Tu, Dómine, Pater noster et Redémptor noster : a sǽculo nomen tuum. V/. イザイア書、63ノ16, 主よ、われらの父、われらの救い主よ、御身の御名はとこしえ。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 144, 21. Laudem Dómini loquétur os meum, et benedícat omnis caro nomen sanctum eius. Allelúia.  アレルヤ、アレルヤ、 V/. 詩篇、144ノ21, 私の口は、主の称賛を告げ、すべての人は主の聖なる御名を祝さんことを、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Lucam. ルカによる聖福音の続誦
Luc. 2, 21. ルカ、2ノ21
In illo témpore : Postquam consummáti sunt dies octo, ut circumciderétur Puer : vocátum est nomen eius Iesus, quod vocátum est ab Angelo, priúsquam in útero conciperétur. そのとき、子どもに割礼を行う八日目になったので、胎内にやどる前に天使がつけたように、その子の名をイエズスとつけた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 85, 12 et 5. 奉献文 詩篇、85ノ12と5
Confitébor tibi, Dómine, Deus meus, in toto corde meo, et glorificábo nomen tuum in ætérnum : quóniam tu, Dómine, suávis et mitis es : et multæ misericórdiæ ómnibus invocántibus te, allelúia. 主よ、我が天主よ、私の心をつくして、私は御身を告白し、永遠に御身の御名に光栄を帰すだろう。何故なら主よ、御身は甘美にして柔和であり、御身を呼び求める全ての者らに多くの憐れみの方なり、アレルヤ。
Secreta. 密誦
Benedíctio tua, clementíssime Deus, qua omnis viget creatúra, sanctíficet, quǽsumus, hoc sacrifícium nostrum, quod ad glóriam nóminis Fílii tui, Dómini nostri Iesu Christi, offérimus tibi : ut maiestáti tuæ placére possit ad laudem, et nobis profícere ad salútem. Per eúndem Dóminum. いとも寛容なる天主よ、願わくは、すべての被造物を生かす御身の祝福が、御子なる主イエス・キリストの御名の光栄のために我らが御身にささげ奉るこのいけにえを聖とせんことを。そは、これが御身の御稜威に嘉せられ、その栄光のため、またわれらにとって救いのために役立つためなり。その同じわれらの主、イエズス・キリスト、天主として、(…)。
Præfatio de Nativitate, ratione Temporis. 御降誕の序誦
Vere dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper, et ubíque grátias ágere: Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus. Quia per incarnáti Verbi mystérium nova mentis nostræ óculis lux tuæ claritátis infúlsit: ut, dum visibíliter Deum cognóscimus, per hunc in invisibílium amórem rapiámur. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus, Sanctus, Sanctus... 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。なぜなら、託身した御言葉の玄義によって、われらの精神の目に、御身の輝きの新しい光が、輝き出でし故なり。そは、われらが目に見えるやり方で天主を識り奉る時、これによって見えざるものらの愛に心ひかれるためなり。ゆえに、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらはきわまりなく、主の御光栄の讃歌を歌い奉る。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、…
Ant. ad Communionem. Ps. 85, 9-10. 聖体拝領誦 詩篇、85ノ9-10
Omnes gentes, quascúmque fecísti, vénient et adorábunt coram te, Dómine, et glorificábunt nomen tuum : quóniam magnus es tu et fáciens mirabília : tu es Deus solus, allelúia. 主よ、主のつくり給うた全ての民は来て、御前に礼拝し、御身の御名をあがめ奉るであろう。なぜなら、御身は、偉大であり、素晴らしい御業を行う方なり、御身は唯一の天主だからである、アレルヤ。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Omnípotens ætérnæ Deus, qui creásti et redemísti nos, réspice propítius vota nostra : et sacrifícium salutáris hóstiæ, quod in honórem nóminis Fílii tui, Dómini nostri Iesu Christi, maiestáti tuæ obtúlimus, plácido et benígno vultu suscípere dignéris ; ut grátia tua nobis infúsa, sub glorióso nómine Iesu, ætérnæ prædestinatiónis titulo gaudeámus nómina nostra scripta esse in cælis. Per eúndem Dóminum. われらを創造し贖い給うた全能永遠の天主よ、願わくは、われらの願いをを御慈悲をもって見給え、御子なるわれらの主イエズス・キリストの御名の光栄のために、御身の御稜威に我らがささげた救いのホスチアのいけにえに、御慈悲と柔和の御顔で見給え。そは御身の聖寵が、われらに注がれ、イエズスの光栄ある御名のもとで、永遠のすくいに予定されたという称号によって、天にわれらの名が記されたことを我らが喜ばんがためなり。その同じわれらの主、(…)。

イエズス様が、貧しい馬小屋で、小さな赤ちゃんとなって、お生まれになった、一体それは、何の為に?

2020年01月08日 | お説教・霊的講話
2019年12月9日(月)待降節の平日(待降節第2主日)のミサ ミサの前のお話
聖ピオ十世会 小野田神父

今日は、待降節の第2主日と同じミサです。

イエズス様が、私たちの為に、貧しい馬小屋で、小さな赤ちゃんとなって、お生まれになった、一体それは、何の為に?

それは、天主聖父の御旨を果たす為。私たちを愛するがあまり、私たちに天主の命を与える為です。

私たちにとって大切なものは何か?という事を教える為に、お生まれになります。

イエズス様が私たちに教えてくれる事は、私たちの霊魂にある、最も高貴な、「天主の命」、それをきれいに守り、これを信じ、増やして、それを受け、そして「この地上の事は、イエズス様の目にとって、天主聖父の目にとって、あまり重要ではない」という事を私たちに教えようと、身を以て、私たちの目に見える形で、天から降られるイエズス様。

私たちも、イエズス様の御降誕を準備する御恵みを、私たちも乞い願いましょう。


マリア様の無原罪の御孕りの神秘を垣間見る:おおマリアよ、あなたは全く美しい!

2020年01月08日 | お説教・霊的講話
2019年12月8日(主日)聖母マリアの無原罪の御孕りの大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年12月8日、聖母の無原罪の御孕りの大祝日、そして待降節の第二主日です。

今日、月の最初の主日のミサですので、いつものように御聖体降福式を行ないたいと思っています。今日午後には16時頃から、グレゴリオ聖歌による第二晩課がありますが、その前に14時半から、クリスマスに向けてそのミサの練習を、聖歌の練習をしたいと思っています。できれば与っていって下さい。

12月のミサの詳しい日程については、皆さんのお手元のインフォメーションの紙に書かれてありますので、どうぞそれをご参照下さい。

2つほど、お祈りのお願いがあります。

1つは、来たるクリスマスに、大阪で一人の若い女性の方が「マリア・フィロメナ」という霊名で、洗礼を受けようと今、一生懸命準備をしています。大阪の教会にも何年も通っている方です。良い洗礼の準備をして、洗礼の御恵みを受ける事ができるように、お祈り下さい。日本では、この方がもしも洗礼を受ければ、15名になります。今年はたくさんの洗礼の御恵みがあって、本当に感謝しております。

もう1つのお祈りのお願いは、待降節に非常にふさわしいニュースです。聖ピオ十世会の日本の最初の修道院が、東京に、来年の8月15日にオープンするという予定です。今から9ヶ月ほど待たなければなりません。その為に、これが本当に実現する事ができますように、皆さんのたくさんのお祈りを必要としています。

司祭が少なくとも2人常駐し、それでそれ以降は、この曙町会館では、毎週主日がある予定です。そしてその修道院では、毎日ミサがある予定です。どれほど多くの御恵みが日本に注がれるか、本当に思っただけでも感謝でいっぱいです。

サマース神父様は、このグランドオープンのセレモニーを9月6日に、9月の最初の主日に、聖ピオ十世教皇の祝日の荘厳ミサをする事によって、その感謝の記念を行ないたい、と決定されました。このグランドオープンが多くの方に祝福されて、多くの方の臨席の元で行なわれる事ができますようにと願っています。

皆さんの心からのお祈りを、9ヶ月の、待降節のその待つ期間を、皆さんにお願いしたします。来年それまでは、できるだけここで主日にミサがあるように、計画を今練っております。

“Tota pulchra es O Maria.”
おおマリアよ、あなたは全く美しい!

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今から約150年前、1854年12月8日、今日、ピオ九世教皇様が、天主から伝えられた啓示の一部として、そして使徒たちから伝えられた真理として、かつてないほどそれに対して不安が起こっているので、はっきりと私たちに、「マリア様の無原罪の御孕り」のドグマを、「全ての洗礼を受けたキリスト教信者が、これを信じなければならない、啓示の一部である」という事を宣言なさいました。

その4年後、それをあたかも確認するかのように、ルルドのマッサビエルの洞窟で、ベルナデッタという、聖ベルナデッタという女性に女の子に、聖母が現れて、御自分の名前を明かし、この無原罪の御孕りのドグマの真実を証明しました、「私は、無原罪の御孕りです」と。

ルルドの最初の御出現は、2月11日で、日本の建国記念日でもあり、マリア様の無原罪の御孕りと日本は、非常に深く繋がっております。

そこで今日この大祝日に、私たちがマリア様の無原罪の御孕りの神秘を垣間見る事は、その中にできれば深く入る事ができれば、何という喜びでしょうか。

そこで今日、3つの事を提案します。

⑴1つは、人間にとって一番大切な、人間を最も高貴なものとするものは何か?

⑵第2に、では「無原罪の御孕り」というのは一体何だったのか?

⑶第3に、私たちは今日、その無原罪の御孕りの大祝日に、どのような遷善の決心を取らなければならないかを黙想致しましょう。


⑴ある有名な文章の中に、「人間にとって一番素晴らしい事は、自由である。善と悪を選ぶ自由であって、そして人間が全世界を被造物を支配すれば、それだけ天主に栄光が与えられるだろう」と書かれていますが、カトリックの教えは、それとは別の事を言っています。

人間にとって一番最も高貴な要素、人間を最も崇高なものとするものというのは、「自由」ではありません。人間を最も崇高で、尊厳のあるものとするものは、「人間の分際で、被造物の分際であるにも関わらず、天主の命にまで、その高みにまで上げられた」というその事にあります。

人間がいわば、天主と一つになる事ができる。天主のようになる事ができる。天主の命を、天主の、創造主の、至福の喜びを、私たちも共にする事ができる。ここにこそ、人間の最も高い尊厳があります。そしてこの高みに、皆さんと私は呼ばれています。

この、どれほど「天主の命に参与する」という事が、ものすごい出来事であるか、この全被造物をはるかに超越する、超えるものであるか、という事を、私たちは考えても考えても、想像しても想像しても、それをし尽くす事ができません。私たちの身分が、天使・大天使・ケルビム・セラフィムをさらに超えて、唯一の絶対の創造主、天主、善のそのものと、その中に、それに与る、それに参与する、それを私たちが受ける、それと同等になる、一体どれほどの事でしょうか。

身分の卑しい奴隷が、天皇陛下の身分を取ったとしても、それはほんの影にすぎません。「被造物が、天主になる。」ここにこそ、人間の最高の尊厳があります。

この特別な賜物を、天主様は全人類に与えようと思いました。そこで最初の私たちの先祖アダムとエヴァに、この大切な賜物を、完全な創造の美しさと、義と、美の真理において、それをお与えになりました。

ところがアダムとエヴァは、私たちの先祖は何をしたかと言うと、それをゴミ箱に捨ててしまいました。それを足蹴にして、そしてその結果、アダムとエヴァ、そして私たちは、それを失ってしまいました。

ところが、この最も貴重な、「天主の命に与る」という、「天主の本性に与る」という、ものすごい、私たちのとても手の届かないような事を、「もう一度、私たちに与えよう」と思われました。

どのようにして?

「天主が人間となる」その事によって。私たちが今度祝う、クリスマスのその神秘もそうでした。

既にアダムとエヴァが罪を犯した時に、天主は人類にこう予言しました、「蛇よ、私は、お前と女の間に、敵対を置く。絶対和解のできない対立を置く。そしてお前の子孫と女の子孫のこの間にも対立を置く。敵対を置く。彼女はお前の頭を踏み砕くだろう。」

既に天主は、どのようにこの人類を救おうか、という事を見通しておられました。


⑵第2のポイントは、ではそれは一体、今日の祝日とどういう関係があるのでしょうか?

まさにこの原初の予言が、マリア様の無原罪の御孕りによって成就しました。天主はちょうど私たちの、畳を見るように上から見て、この一畳が全人類の歴史だとすると、人間の全ての行ないを見ていて、イエズス様の、天主の御子の十字架のいけにえ、その償いをはるかに見通して、それをマリア様に既に適用させたのです。

そしてマリア様はその御受胎の、マリア様がそのお母様聖アンナの胎内に存在を始めるその最初の瞬間から、一切の悪魔・サタン・罪の汚れの支配を逃れて、その反対に、天主の聖寵の充満、満ち溢れ、光の満ち溢れを受けて、とても綺麗に美しい状態で、存在をし始めました。

時々私たちが山に登って、富士山から日の出が昇った、とても日本晴れで綺麗だ、青い空と輝く太陽と、そして紅葉と、美しい紅葉と、あるいは透き通った湖と、あるいは南国のサンゴのあるような綺麗な、あるいは北海道のまりもが浮くような綺麗な湖、あるいは星々が輝く青空、綺麗に咲く桜並木のあるいは美しい花々に、私たちがそのような大自然の美しさ、天主様が創ったその業を見ると、「あぁ、なんと素晴らしい事か!」その感動して、もう目に涙が浮かぶほどの事です。

ところが、自然のどのような美しさも、マリア様の霊魂の美しさから比べれば、本当の塵のようです。太陽の燦然とした輝きも、マリア様の霊魂の美しさには、その最初の美しさから比べれば、全く暗闇のようです。

マリア様の無原罪の御孕りの瞬間、天使・大天使・ケルビム・セラフィム・全ての9つの天の階級は、どれほどこの天主の創造の御業の美しさに、素晴らしさに、讃美と、感嘆と、脱魂のような、えも言えない感動をした事でしょうか。

旧約聖書には、あまりにも多くのマリア様を意味する表現があります、「あぁ、私の小鳩よ、さぁ私においで。」「私の愛する者よ、汚れの無い者よ、おぉ、あなたは全く美しい。」あるいはその他ゲデオンの皮衣、契約の櫃、全て、マリア様がどのようなものであるか、罪の無いものであるかを予言しておりました。

大天主聖ガブリエルもマリア様に仰います、「聖寵充ち満てる方よ、あなたに挨拶致します。」「めでたし、聖寵充ち満てるマリア。主、御身と共に在す。御身は女の内にて祝せられ給う。」

マリア様はその最初の瞬間から、天主のその霊魂の清さをますますいや増して、保っておられました。

では、このマリア様の生活はどのようだったでしょうか?

マリア様の生活は、だからといって辛い事がなかった、あるいは全てうまくいった、ではありませんでした。貧しさ、十字架、悪口、困難、迫害、誤解など、どれほど苦しい目に遭われたでしょうか。一体、罪の無い、その天主の御母に対して、なぜここまで?
マリア様はそれを受けながら、天主を愛する為に、それを忍耐しておられました。


⑶マリア様のこの無原罪の御孕りにおいて、では私たちはどのような決心を立てれば良いでしょうか?

第一に、是非、「私たちにもとてつもない御恵みが、私たちを最も高貴なものとする事ができる、聖寵の御恵みが与えられている」という事を知って下さい。私たちにとって最も大切なものです。天主の命。私たちは天主の本性に与るものとなっています。

罪によってこれを失ってしまう事ができます。マリア様はどのような事があっても、これを守り通しました。最初の瞬間から終わりまで、被昇天に至るまで。

ですから是非、今日マリア様にお祈り致しましょう。マリア様に倣って、この罪の汚れの無さ、最も大切なものを、私たちが守る事ができますように。

第二にそして最後に、マリア様の無原罪の御孕りは、ただマリア様のものだけではありませんでした。いえ、三位一体は、このマリア様を私たちに母親として、しかも優しい、理解のある、憐れみ深い私たちのお母さんとして、私たちに与える為に、このように、悪魔と一切関係のない、綺麗な、美しい、力のある方を下さいました。その為にこそ、この無原罪の御孕りがあります。

「マリア様という方が、私たちの母親である」という事を、ぜひ皆さん理解なさって下さい。私たちの母は、皇后陛下でも、あるいは全世界の帝王のお母様よりも、はるかに身分の高い方です。

「天主の御母」「無原罪の御孕り」こそが、私たちの母として与えられて、私たちの為にいつも祈っておられる、という事をぜひ今日知って下さい。

どのように辛い事があったとしても、悲しい事があったとしても、私たちには、「無原罪の御孕り」が母としていらっしゃいます。

“Tota pulchra es O Maria.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2019年12月7日(初土)御聖体降福式にて 喜びの玄義 第一玄義の黙想 御告と御托身

2020年01月08日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
あらためて新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

喜びの玄義 第一玄義黙想
2019年12月7日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

『喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん。』


マリア様の汚れなき御心に対して犯される侮辱を償う為に、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。

今日は特に、喜びの第一玄義、大天使聖ガブリエルがマリア様に、「天主の御母となる」という事を求める為に、天主三位一体から遣わされて、ナザレトにおられるマリア様の御元に、威光を以て、尊厳を以てお現れになり、挨拶され、マリア様の事を、「聖寵に充ち満てる御方」と言われた事を黙想する事を提案します。


無原罪の御孕りのその瞬間から、大天使聖ガブリエルの御告げを受けるまで、マリア様の霊魂は、どれほど聖寵の溢れを受け続けてきた事か。どれほど天主を愛し、また愛し、その御旨を果たしてきた事か。その最初の瞬間から、全ての行動、思い、言葉、天主を愛するが為に捧げられてきた事か。

その霊魂の美しさ、燃えるような天主への愛、御旨を果たしたいというその燃える心。そしてその為に両親を離れ、神殿に奉献され、天主の御元におられたマリア様。

童貞と貞潔を守り、そして御摂理に従って、聖ヨゼフと婚姻の約束をされたマリア様。

全てはこの瞬間の、この為の、御告げの瞬間に、「はい」と答える為の準備であり、人類の救霊の準備でありました。

マリア様、マリア様の霊魂はあまりにも清く、美しく、天主の聖寵の満ち溢れを受けておられます。あまりにも美しく、天主聖子は、この霊魂にこそ、御自分の母となる霊魂を見出しました。

「天主の母」。これほどの栄光、名誉、尊厳、有り得えません。マリア様の霊魂の浄さ、罪の無さ、天主への愛、天主の命、天主の本性にどれほど深く与っていたかが分かります。天主の母。

大天使聖ガブリエルの挨拶に、マリア様は答えます、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」

その瞬間、三位一体の第二のペルソナ、永遠の聖子が人となり給い、マリア様の御胎内に孕り始めました。

天主の御目にとって価値があるものは一体何か、人間にとって一番高貴な事は何であるかを、どうぞ分からせて下さい。この世の目が見る価値観と、天主の見るその価値観は、全く異なっています。

天主の本性、天主の命の高みに、深く与らせて下さい。マリア様はこの意味をよくご存知でした。

マリア様、マリア様のその美しい霊魂の輝きに、私たちは讃美し、感嘆し、誉め讃え、三位一体の偉大な業を誉め讃えます。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】