Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

新しい年を迎えてイエズスの聖心に対する感謝

2020年01月09日 | お説教・霊的講話

2020年1月3日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年、1月3日の初金曜日です。今日は新年の最初の御ミサですので、心から皆さんに、この御ミサに与っている皆さんに、御恵みの豊かな、イエズス様からのたくさんの溢れるばかりの御恵みが満ちた新年でありますように、そして聖徳に、イエズス様への深い知識に、そしてイエズス様を愛する心にますます深まる、成長する年となりますように、心からお祈り申し上げます。

この皆さんの、この御聖堂に与る皆さんのご家庭に、本当の意味の幸せと、本当の幸福と、決して揺るがない喜びと、イエズス様への愛に満ちた平和に満たされて、そしてこの一年、三位一体から、マリア様の御取次ぎによりて祝福された年となりますように、お祈り申し上げます。

今日初金曜日ですので、この御ミサの直後に、御聖体の前で、1時間の聖時間を捧げて、新年をイエズス様の聖心に奉献したいと思っています。

そして明日は初土曜日ですので、毎年やっておりますように、初土曜日の、特にマリア様の御心に捧げられた日本を、マリア様が是非祝福して下さるように、マリア様の汚れなき御心への信心にちなんで、聖母の汚れなき御心の行列を行ないたいと思っています。どうぞいらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、新年に集まったたくさんのお友達の皆さん、今日は新しい年を迎えて、「イエズス様に対する感謝」という事をテーマに黙想したいと思っています。

私たちは新年の挨拶に、「旧年中はとてもお世話になりました。ありがとうございます。今年もよろしくお願いします」と普通に言いますが、これを私たちが一番しなければならないのは誰であろうか?と考えた時に、これは、「私たちが一番多くの恵みを頂いた、その私たちに恵みを下さっている方である」と言わざるを得ません。

ではその方は誰かといえば、「三位一体の天主」であって、そして「私たちの為に人となった御言葉、イエズス・キリスト」です。

ですから今日は、
⑴イエズス様が私たちに下さった御恵みを少し垣間見て、

⑵第2に、このイエズス様になされるべき感謝が、今どのようになされているかを見てから、

⑶最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴聖トマス・アクィナスによると、「『感謝』というのは、その程度は、『善を受けた者』と『善をする方』によって、測り方が違う」と言います。「『善を受けた方』は『恩を受けた方』は、その恩を受けたその『量』によって、『どれほどのものを受けたか』によって、感謝のその度合いが違う」と。

「ところで、その『恩をした方』では、二つの事が考えられる」と言います。「例えばそのうちの一つは、恩を、その与えた恩のその『量』(これは恩を受けた人が見たのと同じ点ですけれども)、更に恩を与える方は、それがどれほど無償に与えられたのか、どれほど寛大な心で、どれほど善意から、どれほど親切から、無償で与えられたか、その『無償さ』が、その『寛大さ』によっても測られる」と。

そこで、私たちが受けた御恵みというのは、どれほどの「量」だったのでしょうか?そしてどれほどの「無償性」があったのでしょうか?

まず、御恵みを受けた「量」を考えると、とてつもないプレゼントを頂きました。まずそのプレゼントは、クリスマスから始まりました。

見て下さい。天主の御一人子が、永遠の御言葉が、私たちの為に人となって、全く与えられました。
“Puer natus est nobis, et filius datus est nobis.” 

私たちに全く与えられました。この私たちの、この生まれたイエズス・キリスト様は、真の天主、真の人、そして私たちの為に生まれてきました。私たちの為に、与えられる為に。

どのようにして与えられたかと言うと、この馬小屋で、貧しく生まれたこの赤ちゃんが、どのように生活されて、亡くなっていったかに見る事ができます。

天主の聖子がどのようにして私たちに与え尽くされたかというのは、十字架の上の、私たちの罪の償いとして、傷だらけで、御血潮を全て流し尽くして、全く私たちの為に、命さえも捧げ尽くされた、この姿に見て取れます。

それだけではありません。この幼き赤子は、更に私たちに御自分を与え尽くしました。その程度は私たちの想像を超えるものです。聖ヨハネは、「天主は、御一人子をこの世に与えるほど、この世を愛された」と言いますけれども、ただ貧しく生まれたのみならず、しかも十字架の上で死に至るまでこうやって亡くなられたのみならず、更には御聖体の形で、御聖体の見かけで、世の終わりまで御聖櫃の内に留まり、パンとして私たちに与え尽くされる、私たちの為に食されるまで、御自身を与え尽くされました。

この馬小屋・十字架・そして御聖櫃には、イエズス様の愛の究極が見て取られます。

どれほどの愛の「量」だったでしょうか?

私たちは到底それを測り尽くす事ができません。なぜかというと、天主、無限の愛である天主が、私たちに与えられたので、その愛の量は無限であるからです。

では、どれほどの「無償性」でこれが与えられたのでしょうか?

本当は、私たちは罪を犯したので、本当なら受けるべきものは、「罰」と、そして私たちに対する「怒り」でした。あるいは「呪い」が当然だったでしょう。天主の御旨に背いたわけですから。そして背き続けていたわけですから。

しかしそれにもかかわらず、このような私たちを憐れんで、全く無償に善を下さいました。そこでこの無償性は、この私たちの罪を赦そうと、罪人である私たちを赦そうというその無償性には、私たちの想像を超える、限りの無い大きな憐れみの無償性があります。

それによっても、私たちはどれほどイエズス様に感謝し、愛し、イエズス様に感謝をしなければならないかが分かります。なぜかと言うと、「感謝」の程度は、その受けた善の「量」と、その「無償性」によって測られるからです。


⑵第2のポイントは、この善を受けた私たちは、もちろん年賀状であるいは新年の挨拶で、「旧年中はお世話になりました」と友達には言いますけれども、ではイエズス様にはどのような態度を取るでしょうか?

残念ながら、イエズス様は多くの場合、感謝を受けていません。多くの場合、イエズス様の愛は認められてもいません。イエズス様のこの果てしのない愛は、無視されています。馬鹿にされています。軽蔑を受けています。冷たい心で取り扱われています。鼻にもかけられていません。イエズス様の愛は、ただ冷淡と無関心と侮辱と、時には冒瀆で返答されています。

「これはもしかしたら、プロテスタントとか離教の人たちの態度ではないでしょうか?神父様。なぜかと言うと、プロテスタントの人は、イエズス様の与えられたこの御聖体を認めていませんし、イエズス様の下さった7つの秘蹟を認めていませんし、イエズス様の…」

はい、確かにプロテスタントや、あるいは「キリストを知っている」と言いつつも、イエズス様の教えを完全に信じていない人々は、イエズス様に対する愛に冷淡で返答をしています。

しかし残念ながら、イエズス様から特別の愛を受けた、イエズス様からの特別の御恵みで、正しい信仰と正しい愛を知っているべきはずの者たちから、あるいはカトリックの信仰を受けた者からさえ、残念ながら、冷淡と、そして無関心を受けていらっしゃいます。

「新年にイエズス様に、感謝と礼拝を捧げよう」という霊魂が、この世の中にどれほどいるでしょうか?イエズス様にその去年1年間受けた御恵みを感謝して、そしてイエズス様にこれからも多くの御恵みをお願いする霊魂がいるでしょうか?

もちろんいるに決まっています。しかしどれほどそのような霊魂がいるでしょうか。

イエズス様のこの馬小屋に馳せ寄って、そして接吻をし、あるいは御聖体を敬虔に愛を以て拝領する霊魂が、どれほどいらっしゃるでしょうか。
イエズス様はその数の少なさを見て、どれほど悲しまれておられるでしょうか。


⑶第3には、私たちはでは一体、私たちの態度は一体どうあるべきでしょうか?

もしかしたら私たちは、イエズス様の聖心に対する愛を教えられながらも、あるいは知りながらも、もしかしたらそれに相応しい感謝と、それに相応しい礼拝や祈りが、もしかしたらできていなかったかもしれません。私たちに関心があったのは、イエズス様の愛を黙想するというよりは、あるいはこの世のニュースや、あるいはテレビや、映画や、コンピューターゲームや、あるいはインターネットや、あるいは食べ物や、その他娯楽がメインで、イエズス様の事はあまり、コロッと忘れて、あまり考えていなかったかもしれません。

ですから今年は是非、この初金、最初のイエズス様の聖心に捧げられた日に、イエズス様に感謝と讃美をお捧げ致しましょう。

そして今年は既に、この一年を、イエズス様の聖心にお捧げ致しましょう、「一年の全ての出来事、喜びも、悲しみも、皆イエズス様の為にお捧げします。」「私が今からこの一年する事は、する勉強も、宿題も、お父さんとお母さんのお手伝いも、それから兄弟に対する親切も、あるいは辛い事も、悲しい事も、喜びも、全てイエズス様にお捧げします」と致しましょう。

そして更に、イエズス様が本当ならば期待していらっしゃるべき感謝や讃美が、イエズス様は受ける事ができていないので、その代わりに、イエズス様をお慰めする為に、代わって、私たちの愛と感謝を2倍にも3倍にもして、イエズス様にこの一年を御捧げ致しましょう。

きっとこのような私たちを見て、「あぁ、本当の私の友がここにいる。本当の私の愛する子供らがここにいる」と、どれほど御喜びになる事でしょうか。「今年こそは、この子供たちに、私の為にこんなに愛してくれる子供らに、彼らに、たくさんの御恵みを与えよう。今年はこの子供たちに特別に、本当に良い聖なる一年であるように、特別に取り計らおう」と思って下さるに違いありません。イエズス様がますます御喜びになるに違いありません。

そのような年になりますように、ますますイエズス様に対する愛に燃え立つ一年に致しましょう。その為にも、マリア様に御助けを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


主の御公現(一月六日)一級祝日 [典礼色:白] の聖伝のミサのテキストをご紹介いたします

2020年01月09日 | カトリックとは

主の御公現(一月六日)一級祝日 典礼色:白の聖伝のミサのテキストをご紹介いたします。

ミサ聖祭(指定巡礼聖堂。聖ペトロ大聖堂)
四世紀末までに東方教会では、御降誕の大祝日の日に御公現を祝っていたが、五世紀に入ってから、ローマ公教会の習慣に従うようになった。そこでローマ公教会では、御公現の祝日を取り入れて、一月六日に祝うことに定めた。御公現は、人間の中に天主の御子が出現したこと、特に、キリストの天主性を表す出来事、すなわち、博士らの礼拝、鳩のような形で聖霊の下り給うたイエズス受洗のとき、カナにおける奇蹟、などを祝うのである。遠い東国から礼拝に来た博士たちの事件は、イエズスがこの世にもたらした救いこそ、万民のものであることを表している。
貧しい御誕生の有様であったが、しかしキリストは、王としてこの世に来給うた。<入祭文>イエズスの貧しさは、イエズスの王国がこの世のものではないことを、人間に告げる。イエズスが重視することは、人間の重視しているものと同じではない。<書簡>で語られるエルザレムは、王にして大司祭なるキリストの光栄と勢力とに満ちた聖なる公教会のことである。洗礼・堅振・聖体によって、キリスト信者は、主イエズスに完全な礼拝をせねばならぬ。われらは、愛の黄金、祈りの乳香、労苦の没薬をもって、礼拝せねばならぬ。キリストと一致して捧げるこの供え物は、必ず天主に嘉せられるであろう。

IN EPIPHANIA DOMINI (Die 6 Ianuarii) 主の御公現(一月六日)
I classis 一級祝日
Statio ad S. Petrum 指定巡礼聖堂。聖ペトロ大聖堂
Ant. ad Introitum. Malach. 3, 1 ; 1 Par. 29, 12. 入祭文  マラキア3ノ1、歴代史略上29ノ12
Ecce, advénit dominátor Dóminus : et regnum in manu eius et potéstas et impérium. 見よ、支配者なる主が来給うた。その御手には王権と勢力と統治とがある。
Ps. 71, 1. 詩篇71ノ1
Deus, iudícium tuum Regi da : et iustítiam tuam Fílio Regis. 天主よ、王に御身の審判を与え給え。王の子に、御身の正義を。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)。
Ecce, advénit dominátor Dóminus : et regnum in manu eius et potéstas et impérium. 見よ、王なる主が来給うた。その御手には王権と勢力と統治とがある。
Oratio. 集祷文
Deus, qui hodiérna die Unigénitum tuum géntibus stella duce revelásti : concéde propítius ; ut, qui iam te ex fide cognóvimus, usque ad contemplándam spéciem tuæ celsitúdinis perducámur. Per eúndem Dóminum nostrum. 天主よ、御身はこの日に、導く星により異邦人らに御独り子を示し給うた、願わくは、信仰によって既に御身を知ったわれらが、御身の高貴さの美しさを観想するに至らせ給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において・・・。
Léctio Isaíæ Prophétæ. イザイア予言書の朗読。
Is. 60, 1-6. イザイア  60ノ1-6
Surge, illumináre, Ierúsalem : quia venit lumen tuum, et glória Dómini super te orta est. Quia ecce, ténebræ opérient terram et caligo pópulos : super te autem oriétur Dóminus, et glória eius in te vidébitur. Et ambulábunt gentes in lúmine tuo, et reges in splendóre ortus tui. Leva in circúitu óculos tuos, et vide : omnes isti congregáti sunt, venérunt tibi : fílii tui de longe vénient, et fíliæ tuæ de látere surgent. Tunc vidébis et áfflues, mirábitur et dilatábitur cor tuum, quando convérsa fúerit ad te multitúdo maris, fortitúdo géntium vénerit tibi. Inundátio camelórum opériet te, dromedárii Mádian et Epha : omnes de Saba vénient, aurum et thus deferéntes, et laudem Dómino annuntiántes. エルザレムよ、起きて輝け。汝の光、主の光栄は汝の上に現れた。見よ、闇は地上を覆い、暗さは地上の民を覆う。しかし、汝の上に主は上り給うた。そして、汝において、主の光栄は明らかにされるであろう。諸国は、汝の光のうちを歩み、王たちは、汝のあかつきの光のうちを歩む。目を上げて、あたりを見回せ。皆は集まり、汝の方に来る。汝の子は遠くより集い、汝の娘たちは四方に生まれるであろう。見よ、汝は、人々の集い寄るのを見て、驚くであろう。海の幸がこちらに流れ、強い民が汝に集まるとき、汝は心騒ぎ、かつ喜ぶであろう。マディアンとエファとのらくだと幇牛(ほうとう)の群れは、大波のように汝の方に集まるであろう。皆、黄金と乳香とを持ち、主を讃美しつつ、サバより来るであろう。
Graduale. Ibid., 6 et 1. 昇階誦 イザイア 60ノ6,1
Omnes de Saba vénient, aurum et thus deferéntes, et laudem Dómino annuntiántes. サバから皆が、黄金と乳香とを持ち運び、主に讃美を捧げつつ来るであろう。
V/. Surge et illumináre, Ierúsalem : quia glória Dómini super te orta est. V/. エルザレムよ、起きて輝け。主の光栄は汝の上に現れた。
Allelúia, allelúia. V/.Matth. 2, 2. Vídimus stellam eius in Oriénte, et vénimus cum munéribus adoráre Dóminum. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。V/.マテオ2ノ2 われらは、東で、彼の星を見た、礼物と共に主を礼拝しに来た。アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。
Matth. 2, 1-12. マテオ 2ノ1-12
Cum natus esset Iesus in Béthlehem Iuda in diébus Heródis regis, ecce, Magi ab Oriénte venerunt Ierosólymam, dicéntes : Ubi est, qui natus est rex Iudæórum ? Vidimus enim stellam eius in Oriénte, et vénimus adoráre eum. Audiens autem Heródes rex, turbatus est, et omnis Ierosólyma cum illo. Et cóngregans omnes principes sacerdotum et scribas pópuli, sciscitabátur ab eis, ubi Christus nasceretur. At illi dixérunt ei : In Béthlehem Iudæ : sic enim scriptum est per Prophétam : Et tu, Béthlehem terra Iuda, nequaquam mínima es in princípibus Iuda ; ex te enim éxiet dux, qui regat pópulum meum Israël. Tunc Heródes, clam vocátis Magis, diligénter dídicit ab eis tempus stellæ, quæ appáruit eis : et mittens illos in Béthlehem, dixit : Ite, et interrogáte diligénter de púero : et cum invenéritis, renuntiáte mihi, ut et ego véniens adórem eum. Qui cum audíssent regem, abiérunt. Et ecce, stella, quam víderant in Oriénte, antecedébat eos, usque dum véniens staret supra, ubi erat Puer. Vidéntes autem stellam, gavísi sunt gáudio magno valde. Et intrántes domum, invenérunt Púerum cum María Matre eius, (hic genuflectitur) et procidéntes adoravérunt eum. Et, apértis thesáuris suis, obtulérunt ei múnera, aurum, thus et myrrham. Et responso accépto in somnis, ne redírent ad Heródem, per aliam viam revérsi sunt in regiónem suam. そのころ、イエズスは、ヘロデ王の時、ユダヤのベトレヘムに生まれ給うたが、見よ、東からある博士たちがエルザレムに来て、「生まれ給うたユダヤ人の王は、いずこにましますか。われらは東で彼の星を見、彼を拝みに来た」と尋ねた。これを聞いてヘロデ王は悩み惑い、彼と同じくエルザレムの皆もそうだった。王は、すべての司祭長と民間の律法学士らを集めて、キリストはどこに生まれるのかと問いただした。彼らは答えた、「ユダヤのベトレヘムに、予言者が次のように書いているからであります。『ユダの地ベトレヘムよ、汝はユダの町の中で最も小さいものではない、なぜなら、汝から、わが民イスラエルを牧すべき一人の君が出るからである』」と。そこでヘロデは、ひそかに博士たちを招いて、星の現われた時を詳しく聞きただし、彼らをベトレヘムに遣わそうとして言った、「行って、細かに幼児(おさなご)のことを尋ね、彼を見出すならば予に告げよ、予も行って彼を拝もう」。彼らは王の言葉を聞いて出かけたが、見よ、東で見た星が先立ち、幼児のましますところの上に止まった。彼らは星を見て喜びにあふれ、家に入って、幼児がその母マリアと共にましますのを見、(ここで、ひざまずく)ひれ伏して拝し、宝箱を開けて、黄金、乳香、没薬の礼物を献げた。そして夢の中に、ヘロデのところに帰るなと御告げを受けたので、他の途をとって自分の国に去った。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 71, 10-11. 奉献文 詩篇 71ノ10-11
Reges Tharsis, et ínsulæ múnera ófferent : reges Arabum et Saba dona addúcent : et adorábunt eum omnes reges terræ, omnes gentes sérvient ei. タルシスと諸王と島々は、捧げ物を捧げる。アラビアとサバの王たちは、礼物を運び来る。地上の全ての王たちは彼を礼拝するだろう、すべての民々は彼に服従するだろう。
Secreta. 密誦
Ecclésiæ tuæ, quæsumus, Dómine, dona propítius intuere : quibus non iam aurum, thus et myrrha profertur ; sed quod eisdem munéribus declarátur, immolátur et súmitur, Iesus Christus, fílius tuus, Dóminus noster : Qui tecum vivit. 主よ、願わくは、主の公教会の捧げ物をかえりみ給え。この捧げ物をもって、もはや黄金・乳香・没薬ではなく、同じ捧げ物により意味され、屠られ、拝領されるわれらの主御身の聖子イエズス・キリストが、捧げられるのである。御身と共に、天主として、聖霊との一致において・・・。
Præfatio et Communicántes propria. 序誦  御公現の序誦
Ant. ad Communionem. Matth. 2, 2. 聖体拝領誦  マテオ 2ノ2
Vídimus stellam eius in Oriénte, et vénimus cum munéribus adoráre Dóminum. われらは、東で、彼の星を見た、礼物と共に主を礼拝しに来た。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Præsta, quǽsumus, omnípotens Deus : ut, quæ sollémni celebrámus officio, purificátæ mentis intellegéntia consequámur. Per Dóminum nostrum. 全能の天主よ、願わくは、われらが荘厳な典礼によって祝い奉る奥義を、浄められた心での知解へと導かれんことを。天主として、聖霊との一致において・・・。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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