Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「ダヴィドの子にホザンナ!」ユダヤ人からも異邦人からもローマ当局からもイエズスは真の王として宣言される。

2020年04月09日 | お説教・霊的講話
2020年4月4日(初土)御受難の主日後の土曜日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年4月4日、御受難の主日の後の土曜日のミサをしております。

今日は初土曜日ですから、このミサの直後に、初土の信心を御聖体の前で致しましょう。短い御聖体降福式があります。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音で、ユダヤの人々がイエズス・キリストを、「ダヴィドの子にホザンナ!」そして枝を持って、王として迎え受ける様子が読まれました。

ラザロを死者から復活させた事、それによって大奇跡を行ない、多くのユダヤ人たちが、イエズス・キリストを「真のメシアだ」と信じた事、そして旧約の預言をまた1つ成就させながら、エルサレム中が、イエズス・キリストを、「王だ!」として、歓迎して受け入れた事。

これを以って、イエズス・キリストの殺害の計画は、ますます本物になっていきます。

イエズス・キリストは、真に王です。それは大天使聖ガブリエルがマリア様に預言された通りです、「ダヴィドの座を、王座を、永遠に、永久に支配する。」

ちょうどイエズス様がお生まれになった時に、3人の博士がはるばる、異邦人を代表して、東の国からやって来て、イエズス・キリストに王として、そして救い主として、真の天主として、礼拝と讃美とを捧げました。

こんどは、イエズス様の御死去の直前、天主の御摂理によって、イエズス様は全ユダヤから、ユダヤ中から、エルサレムに集まって来た、過越の為に集まって来たユダヤ人たちから、王として大歓迎を受け、預言を成就させるべきでした。

イエズス様は弟子たちに命令して、雌ロバと、そしてその子供、子ロバを持って来させます。

教父たちによると、「雌ロバ」はもちろん、長い間、人の軛の下に働いた動物で、「ユダヤ人」を表しています。また生まれたばかりの、何の軛(くびき)を受けていないこの「子ロバ」は、「異邦人」の象徴でした。

イエズス様は、この「異邦人」を象徴するこのロバに、誰も乗った事のないこのロバの上に、王としてお乗りになります。

その軛は布であり、服であり、とても優しいものでした。イエズス様の軛は軽く、そして快いものであるからです。この子ロバは何と幸せなロバでしょうか。

イエズス様は、真の王として明日宣言されます。たとえこの事によって、イエズス・キリストの死を決定的になすものとされようと。

ポンシオ・ピラトは、ローマ権威を以って、イエズス様を宣言しました、「ナザレトのイエズス、ユダヤの王」と。

私たちもこれを宣言します。イエズス・キリストこそ、私たちの真の王、全ての人々の王、私たちの心と、そして知性と、そして愛と、全てを支配する王

この私たちも、このユダヤの子たちと心を合わせて、イエズス様を王として宣言する事ができますように、いつも、終わりなく、宣言する事ができますように。

真の王イエズス・キリストを、私たちも王として迎え入れましょう。

特にマリア様に、その御恵みを乞い求めましょう。
「ダヴィドの子にホザンナ!」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






マリアは十字架の下で佇んでおられた。その意味は?何故?どのようにして?

2020年04月09日 | お説教・霊的講話
2020年4月3日(初金)聖マリアの七つの御悲しみのミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年4月3日、御受難の第1主日の後の金曜日、そして聖ピオ十世会では一級の大祝日で祝う、マリア様の七つの御悲しみの祝日を祝っています。

今日初金曜日ですので、本来ならば聖時間を行なうのですが、1時間の聖時間を短縮して、コロナウィルスの対策として、御聖体の前でロザリオを唱えて、そして御聖体による祝福を受けて、聖時間とする事に致します。

“Stabat Mater Dolorosa.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する姉妹の皆さん、マリア様は、十字架の下で佇んでおられました。この事は私たちに、3つの事を教えています。

1つは、天主の御摂理によって、イエズス様がお生まれになった時、御幼年の時、あるいはイエズス様の人生の最初だけではなく、イエズス様の人生の最も大切なその時である、「御受難」の時にも、マリア様がいらしたという事です。

これこそ、御摂理がお望みになった、という事です。マリア様は、十字架から決して離れる事はありませんでした。

第2のポイントは、マリア様は一体なぜ、十字架の下に佇んだのでしょうか?その動機は何でしょうか?

それはイエズス様の、イエズス・キリストの聖心の動機と全く同じです。

イエズス様は、聖父の栄光と、そして人類の罪の赦しの為に、十字架に喜んで架かりました。イエズス様の聖心は愛に燃えていました。聖霊の愛に燃えていました。そしてイエズス様が望んだ事は、ただひたすらに聖父の栄光であって、罪の償いを果たす事によって、天主聖父に栄光を帰すという事でした。

マリア様もやはり、聖霊の愛に燃えて、聖父の栄光を求めてのみ、そして私たちの罪の償いの為に、イエズス様と共に御自分の苦しみを、十字架の下で捧げていました。

ですからマリア様は、天主の栄光を、苦しみの中で歌っていた事になります。苦しみの中で、主を讃美していた事になります。

苦しみの中において、苦悩の中において、苦痛の中において、主の御旨を讃美し、それに栄光を帰していました。

ですから普通、もしかしたらイエズス様と離れた、あるいは聖心の愛に燃えていない人たちが、絶望したり、悲しんだり、イラついたり、あるいはむかついたり、あるいはその他「自尊心が傷付いた」等と、あるいは「俺の思い通りにいかなかった」等と言って腹を立てる、苦しむ、嫌になる、という事とは、全く別の事でした。愛に燃えていました。

第3の点は、イエズス様と同じ愛に燃えていたが為に、マリア様のこの外見の表れも、平和で、そしてある意味で、愛と喜びに満ちていたものでした。

矛盾するかもしれませんが、しかし「イエズス様と共に苦しむ」という事によって、マリア様の心には平和と、そして朗らかさがありました。これは愛に燃えていたからです。

ですからマリア様は、この苦しみの極致にもかかわらず、十字架の下で立ち留まっている事ができました。嘆き苦しんで、地面にのたうち回る事もありませんでした。


今日このマリア様の七つの御悲しみで、私たちもマリア様と共に、十字架の下に佇む事ができますように、イエズス様の御下に佇む事ができますように、御取り次ぎを乞い願いましょう。

特に聖ピオ十世会のシスターたち、奉献修道女たちは、マリア様のこの御悲しみを保護者としていますので、シスターたちの為にたくさんお祈り下さい。

シスターたちは、司祭、イエズス・キリストの代理者である司祭を助ける為に、祈りと、犠牲と、苦しみと、黙想を以って助ける為に、またその他の奉仕によって助ける為に、イエズス様の下に佇もうと、マリア様に倣っておられます。

どうぞこのシスターたちの為にたくさんお祈り下さい。そしてこのようなマリア様に倣う霊魂たちが日本の地からもたくさん出ますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。













東京では復活の主日のミサの会場:東京都台東区入谷1-27-4プラーズ入谷に変更

2020年04月09日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

東京では、来る4月12日復活の主日のミサの会場が、いつもとは別の場所に変更になりました。
ご注意ください!


東京都台東区入谷1-27-4 プラーズ入谷 『入谷ホール』の三階(一番大きいお部屋を予約、ということでしたが一番大きいお部屋については窓による換気が不十分と分かりましたので、大きく換気が一番良い部屋)を予約してあります。

社会的距離(隣りの人との距離)を保つ為に、一回ごとのミサが20名ほどになることを期待しております。

ミサの時間は、次の通りです。
三回のミサのどれかをお選びになっていらしてください。

09:00 歌ミサ
11:00 読唱ミサ
12:30 読唱ミサ

今までの経験から、午前11時00分のミサに多くの方々が集まることが予想されています。

ミサが三回あるという趣旨をご理解の上、なるべく午前11時のミサ以外に与るようになさってください。😓🙇

12:30 読唱ミサには、あまり参加者がないことも予想されています。🤔😑🥺

私たちの主の御復活のミサが捧げられることにイエズス様、マリア様に、深く感謝いたします。

ミサの会場を準備して下さる愛する兄弟姉妹の方々には、深く深くお礼申し上げます。多くの祝福がありますように!

私も、愛する兄弟姉妹の皆様が御復活の喜びに満たされ、祝福を受けられるように、全力を尽くします。

その日は、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で復活の徹夜祭を祝った後、復活の主日の早朝一番の新幹線で東京に向かいます。この新幹線がまだ動いている限り、時間通りミサを執行いたします。

また、先日の経験から、多くの方々が告解の秘跡を望んでおられます。次のミサを時間通り行う為に、しばらくの間は秘跡を最優先して、準秘跡の祝福はお休みといたします。ご理解ください。コロナウイルスが終息して、ミサを複数しなくても良いようになりましたら、また祝福も再開いたします。宜しくお願いいたします。

現在さまざまな理由でミサに来られなかったり、あるいは韓国のように司祭がその地を訪問できない状況にある場所の信者の方々ために、先週と同じく、朝9時のミサをインターネットで生中継する予定です。

Next Sunday, the Easter mass will take place at a special location - 'IRIYA Hall' near Iriya/Uguisudani/Ueno Stations.

【詳しい道順】
住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』

( 南北に走る昭和通り(国道4号)の東側にある、「加瀬の貸し会議室」という黄色い看板のついた11階建のビル)

交通:東京メトロ日比谷線「入谷」駅3番出口より徒歩3分
(またはJR山手線・京浜東北線「鴬谷」駅より徒歩11分)
(またはJR常磐線・山手線・京浜東北線「上野」駅より徒歩15分)

地下鉄日比谷線入谷駅では 目黒方面行の側の出口「竜泉方面改札」から出ると、駅構内はおよそ徒歩6分、地上にでてからおよそ1分。
(北千住方面行きの出口は、昭和通りの西側に、中目黒方面行きの出口は、昭和通りの東側にあるとのこと。ビルは昭和通りの東側。)

JR鶯谷駅では 南改札口を利用して南口から出ると駅と線路の南側に出るが、出口から左に曲がって陸橋を渡ると広い言問通りに出る。そのまま歩いていくと 昭和通り(西側)に出る。電車を降りてからおよそ16分。

なお、会場の床面は コンクリートの上に薄いカーペット敷きの可能性があります。床面が硬くて、跪きに困難な方もいらっしゃるかもしれません。クッション性のある敷物等をご持参することをお勧めします。













イエズスは、御自分が約束されたメシアであるという事を全てを以って証明した

2020年04月09日 | お説教・霊的講話
2020年3月29日(主日)御受難の主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年3月29日、御受難の主日です。
今日このミサの退場の歌はありませんが、日本語のいつもの歌はありませんが、司祭はミサの直後、退堂の直前に、諸聖人の連祷を唱えます。特にコロナウィルスの疫病の一刻も早い終息をお祈り致しましょう。

司祭が退場する時には、特別にStella Caeliを歌いましょう。

また今日、ミサの後の感謝の祈りの後に、終課を一緒に歌う事を提案します。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日の指定巡礼教会は、バチカンの丘にある聖ペトロ大聖堂です。ローマ皇帝ネロが、聖ペトロを十字架につけた所です。つまり、キリストの最初の代理者が十字架に付けられた所です。
今日の私たちの黙想は、この典礼に従って、「聖なる方が、最も邪悪な迫害を受けて苦しむ」ということに集中しましょう。今日ミサの典礼に従って、その私たちの黙想を致しましょう。

罪のないイエズス・キリストは、ユダヤの衆議所(サンヘドリン)から憎しみを受けます。イエズスは、御自分を擁護する人々からも、友人たちからも切り離されてしまいます。誰もイエズス様を守る人はいません。

今日の入祭誦は、キリストが御父に向かって、信頼を込めてする祈りです。グロリア(栄唱:栄光唱)は省略されます。

これからイエズス・キリストが捧げようとする犠牲(いけにえ)は、旧約の生け贄の完成です。

聖パウロは書簡の中で、旧約に対して新約がどれほど優位に立っているか、という事を説明します。なぜかというと、旧約と新約の比較をするからです。

旧約では、大司祭が一年に一度、唯一大司祭のみが入る事ができる、エルサレムの神殿の最も奥にある至聖所に入り、罪の赦しのために動物の生け贄の血を祭壇に注いでいた事に言及します。

しかしこれは、新約の大司祭であるイエズス・キリストが、たった一度だけで、全人類のため、アダムの全ての子孫のために、永久の贖いを成し遂げる、という事の前兆に過ぎませんでした。

そして皆さんが今、今日与っているこのミサ聖祭では、カルワリオのこの決定的で完成された同じ唯一の犠牲(いけにえ)が、私たちの眼の前で実現します、再現致します。

トラクトゥスと言われている詠誦では、イエズス様の御誕生の時からすでに、ヘロデから殺害されようとしてきた事を黙想します。「彼らは、私の若い時から、絶えず私に対して戦い続けた。」

そしてその同じ彼らは、その戦いに成功する事ができなかったので、この彼の、イエズス・キリストの背中をむち打ち、茨の冠を押し被らせることになります。「罪びとは私の背中を打ち叩いた。彼らは長らくその悪を続けた。」と。

しかし、悪は続きません、イエズス・キリストは必ず復活します。

キリストと衆議所の対立は、決定的になります。これは公に宣言されます。

イエズス・キリストはもはや排除されて、イスラエルの遺産から除かれます。イエズス様の側に立つ者も、イエズス様の味方をする者は誰であっても、破門されます、非国民扱いにされます、隔離されます、村八分、いじめに遭います。

そのような状況を見て、イエズス様は言います、「自分のうちに誰か罪を見いだす者があるのか?」と。

私たちの主は、ユダヤの衆議所の盲目に対して嘆きます。イエズス様がなさった事は、善であり、福祉であり、善業でした。イエズス様が仰った事は、全て真理であり、預言の成就でした。しかし理由も無く、衆議所は、イエズス・キリストを断罪します。

イエズス様は真理を言い続けます、「私は在る。アブラハムが在ったその時、私は在る。」御自分が天主であることを宣言します、断言します。

オッフェルトリウムと言われる奉献文では、イエズス様の祈りが代弁されます。キリストは、この世の死から逃れるのではなくて、永遠の命・栄光の命に生きることを祈っています。

密唱では、キリストの犠牲によって私たちが、「罪の鎖」から「不義の鎖」から解放されることを祈ります。なぜかというと、「罪を犯す」ということは、本当の自由ではなくて、かえって情念の奴隷状態になっていること、恥ずかしい悪魔の奴隷状態にあることだからです。
なぜかというと、罪を犯す人はすべて、罪の奴隷だからです。“Omnis qui facit peccatum, servus est peccati.”

この罪から私たちを解放しようと、イエズス様は喜んで、御自分の身に、私たちの罪の結果、全ての罰を、全ての苦しみを、受けようとされます。

聖体拝領唱では、私たちが御聖体拝領をする時に、新約の犠牲(いけにえ)に参与することが実現する、と歌っています。「これは、あなたたちのための、私の体である。この杯は、私の血における新しい契約である。これを飲むごとに、私の記念として行え。」

私たちはただ単に、御聖体を拝領するだけでは足りません。この御聖体のいけにえに私たちも参加し、私たちのいえにえを交じ合わせなければなりません。戴いた御恵みを使って、イエズス様の御恵みを成長させなければなりません。
ではこのイエズス様の苦しみ、ユダヤの衆議所から受ける迫害を黙想した後に、私たちはどのような遷善の決心をしたらよろしいでしょうか?

私たちは、キリストと衆議所の対立の後ろに、天主とサタンの対立、真理と偽りの対立、善と悪の対立を垣間見ます。私たちは、「キリストの側に付こう」と遷善の決心を立てましょう。

現代では、このキリスト側に付こうとしようとする私たちに、「それでも、悪魔の方にも一緒に同時に付く事ができるのではないか?」と誘惑をしています。悪と善を曖昧に、真理と誤りを曖昧にさせようとする傾向があるのではないでしょうか。キリストの教えと世俗の精神と妥協させようと。

私たちを待っている永遠のことを考えさせずに、あるいは考えずに、永遠に在し給う天主のことを考えずに、人間の世間体、あるいは噂話、あるいは世論を忖度して、それに傷付けないように、むしろ世間体の方を大切にして、イエズス・キリストを蔑ろにしてしまう、天主の真理をうやむやにしてしまう誘惑に満ちています。

しかし、イエズス様の今日の態度を見ると、私たちにこう教えています。
「本当の愛徳とは、人々に真理を伝えて永遠の続く命へと、天主の命へと行くことを助けることにある」と。「その為に、時には自分がたとえ理解されなかったとしても、本当のことを言う必要がある時がある」と。もしもそうでなければ、「キリスト教」という名前だけが付いた、実は偽物のキリスト教、世俗主義に陥ってしまうからです。

イエズス様は、御自分が約束されたメシアであるという事を、全てを以って証明しました。預言を成就することによって、奇跡を為すことによって、善を為すことによって、人々に奇跡を以って治癒することによって、あるいはパンの増加の奇跡を以って、あるいは真理の教えてによって。しかし、闇はそれを、真理を光を理解できませんでした。

しかし、イエズス様はこの真理を証明するが為に、その真理が為に、御自分の命を懸けます。御血を流しても、それを証明されます。

私たちもぜひ、イエズス様の側に常に付くことができますように、お祈り致しましょう。そのためにも、常にイエズス様と共に居た、最後まで、十字架の下にまで、最後の最後までもイエズス様と共に居た、マリア様にお祈り致しましょう。

聖母の汚れなき御心の御取り次ぎによって、私たちも常にイエズス様の側に留まりますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。










Laetareの主日に、教会は私たちに何故喜ぶ事を求めているのか?その理由は?

2020年04月09日 | お説教・霊的講話


2020年3月22日(主日)四旬節第4主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教(大阪)


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年3月22日、四旬節第4主日のミサを捧げております。

今日、この聖伝のラテン語のミサに初めていらした方に、心から歓迎致します。

このミサの後に感謝のお祈りがありますけれども、聖体拝領後の祈りなどをして後に、この前の主日のように終課を、グレゴリオ聖歌による夜の最後のお祈りをラテン語で歌いたいと思っています。10分かそれぐらいのものです。もし時間がありましたらいらして下さい。どうぞそのまま残って一緒に聖歌歌って下さい、お祈りなさって下さい。

来週の3月29日も、御受難の第1主日のミサがあります。私がフィリピンに戻る事ができなくなったからです。

これから毎週、復活の主日までずっとミサがある予定です。もしも状況によっては、その後ずっと主日のミサがあるかもしれません。お祈り下さい。



「喜べ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン


愛する兄弟の皆さん、今日四旬節の第4主日、四旬節のど真ん中に来て、教会は私たちに、「喜べ!」という叫びを聞かせてくれます。

その喜びのあまり教会は、普通は四旬節では紫の祭服を着ていますけれども、それに白を混ぜて、喜びの色を混ぜて、バラの祭服を着る事を願っています。

そしてこの喜びのあまり、伝統によると、ローマの教皇様は教会の公益者に、黄金で出来たバラの花を授けるのです。

けれども、私たちはマリア様に教会の最も偉大なる公益者、私たちを最も守って下さり、私たちにミサを毎週のように主日に下さり、ミサを捧げる事ができるように助けて下さっていらっしゃっているマリア様に、愛の心を、黄金のバラを捧げようという有志の方がバラを作って下さいました。私たちもマリア様に愛のバラを捧げたいと思っています。

今日、ではこの喜びの、“Laetare”の主日に、教会は私たちに一体何を、何で喜ぶ事を求めているのでしょうか?その理由を今日黙想しながらミサを捧げる事を提案します。

3つポイントがあります。

1つは、指定巡礼教会。これが喜びと関係あるからです。何故かというと、その指定巡礼教会の秘密は、

第2の点、書簡と、

そして第3の点、福音にあると私は思ってるからです。

そこで皆さんと一緒にこの事を黙想しつつ、教会と共に喜びに深く、そして特に「復活祭が近くなった」というこの喜びに深く入って行く事に致しましょう。


ではまず第1のポイント、指定巡礼教会、それは霊的に私たちがその教会に心を馳せるのですけれども、そして伝統によると、実際にそこに行って教皇様はミサを捧げる習慣があったのですけれども、それは今回は、ローマにある「エルサレムの聖十字架教会」です。

この教会は、元々はコンスタンティノローマ皇帝のお母様の家でした、“Domus Sessoriana”。そして“Caelius”という丘の上に建てられた大きな家ですが、聖ヘレナがエルサレムまで巡礼に行って、聖十字架の本当のイエズス様の架かった十字架の聖遺物をその大部分を、ローマまで持って来ました。

そしてそのあまりにも貴重な聖遺物を、どこに置こうか。自分の家を提供しました。そして自分の家を聖遺物を保管する教会として変えてしまいました。

今でもその教会はあります、“Santa Croce ”「エルサレムの聖十字架教会」ここはローマにとって、まさにエルサレムそのものでした。

ですから今日、この聖十字架教会に私たちは行くのですけれども、なぜかというと、私たちは、「新しいエルサレム」であるからです。そして喜びの元は「十字架」にあるからです。もう少しこの黙想を深めていきましょう。


⑵第2の点は書簡です。書簡は聖パウロが、旧約のモーゼと新約のイエズス・キリストの違いを比較して、新約がどれほど優位に立っているか、どれほど完成されているか、という事を強調します。

もちろん皆さんは、愛する皆さんは、四旬節の間、モーゼのやった40日間の断食や、あるいはモーゼが砂漠でユダヤ人たちにマンナを与えた、あるいは石を叩いて水を与えた、紅海を渡った、等という事を黙想してきました。これはもちろん、聖パウロによれば、来たるべき新約の前兆、象りでしかありません。

そしてそのモーゼが頂いた十戒は、シナイ山でのものでした。天主がまさにモーゼに姿を御見せになって、十戒を2つの石版に刻んで渡し、そしてものすごい恐ろしい天変地異のような、大自然をも震えるほどの恐ろしい光景をユダヤ人たちに見せてモーゼに見せて、もしも十戒に、そして天主の掟に背く事があれば、どれほど恐ろしい罰が待っているか、どれほど天主の御稜威は恐ろしいか、という事を教えました。

旧約の掟は、ユダヤ人たちをして、「恐れ」によって守らせるものでした。

しかも皆さんもご存知の通り、恐れには2種類あります。1つは「奴隷」のような恐れと、もう1つは「子供」のような恐れです。

奴隷のような恐れというのは、「ご主人様が、もしも命令通りしなかったらどれほど恐ろしい罰を与えるか、それを恐れて罰を恐れて、罰を受ける事を恐れて、それを守る」という奴隷のような恐れです。旧約が出来たのはまさにこれでした。

しかし、自由の、子供の私たち、新しいエルサレムの私たちは、聖霊降臨、エルサレムで聖霊降臨を受けました。つまり聖霊が私たちの心に愛の掟を、2つの掟を、「全てを超えて天主を愛し」「隣人も我が身の如く愛する」という2つの掟を、私たちの心に肉に刻んで下さいました。

私たちは確かに恐れますけれども、私たちの恐れは、子供のような恐れです、「天主を悲しませる事を、愛するが故に恐れる。もしもこのような事をしたら、三位一体は、天主聖父は、イエズス様は、聖霊は、御悲しみになるだろう。だからそれはだけは嫌だ。それを、天主を悲しませる事を恐れる」と、子どものような恐れを、愛を持っています。

そしてこの愛の完成は、御聖体によって与えられます。

モーゼが砂漠で与えたのはこの世の肉体のためだけのパンでした。しかしイエズス様は、「私は、天から降りる生けるパンである。私を食する者は死んでも死なない。永遠の命を持つ。」


⑶第3の点は、今日の福音です。

福音では、過越の近くになると、5000人の男性が、もしも子供や女性を含めると、更に大きい数の人々が、イエズス様を慕って、その御話を聞こうと、あるいはイエズス様から何か奇跡の御恵みを受けようと、砂漠に付き従います。おそらくその人数を見たら、甲子園さえも埋まって満席になってしまったに違いありません。

そしてそのような人たちが、何も食べるものも無く、そして砂漠にいるのを見て、イエズス様は彼らの肉体の事も、健康の事も、お腹の事も考えます、「ああ、どうしよう。」何と優しい天主でありましょうか。「イエズス様の御配慮は、私たちの全てに及ぶ。霊的な、そして肉体的な善に及ぶ」という事を、これを以って表しています。

何故かというと、イエズス様はたった5切れのパンと、2匹の魚によって、5000人の大群衆を充分食べさせて、満腹させて、しかもそれを残りを集めたら、大きなカゴに12個、それが溢れるばかりになった、とあるからです。

何と寛大で、何と私たちにたくさん与えようと願っている方でしょうか。全能の憐み深い愛でしょうか。

もちろんこれは序の口です。

実は、愛する兄妹の皆さん、今日ミサに与っていらっしゃる皆さんは、それよりも更に素晴らしい奇跡を、今日受けようとしているからです。

霊的に私たちは、砂漠のようなこの世を、天のエルサレムまで巡礼をしています。そして私たちを養おうと、たとえ私たちが何万人であろうと何百万人であろうと、大阪のあるいは日本国民の全てであろうと、イエズス様はそれを全て養って、更に十分余るほどの力を持っています。

どのようにするかというと、「御聖体」を以って私たちを養おうとされます。今日のこのパンの奇跡は増加の奇跡は、まさに来たるべき過越、復活祭の直前で、もうすぐイエズス様が制定されようとする「御聖体の秘跡」の前兆でありました。その予告でありました。

そればかりでなくイエズス様は、「弟子たち」を通じてこれを配りました。使徒たちによって配りました。

それと同じように、最後の晩餐の時、その御自分の御復活のすぐ近くになると、御聖体の秘跡、このミサ聖祭を制定する、そして私たちを養おうとするのみならず、使徒たちの後継者をも私たちに残そうと考えられました。それが「叙階の秘跡」です。「カトリックの司祭職」です。

カトリックの司祭というのは、その核心はどこにあるかというと、「ミサ聖祭を立てる事」にあります。

もっとはっきり言うと、「ホスチアを、パンを、イエズス・キリストの御体にそのものに変えてしまう事」です。「パンの実体を、イエズス・キリストの実体に変える事」です。これをカトリックの用語で、「全実体変化」と言います。聖変化させる事です。

まさにこの事に、カトリックの司祭の最も高貴な、最も最高の権能が、力が現れます。これを以ってこそ、カトリックの司祭は、天使たちよりもはるかに大きな、偉大な者となります。

何故かというと、真の天主イエズス・キリストを、天におられて復活されているイエズス様を、この祭壇に来て下さるように命ずる事ができるからです。

そしてその瞬間、司祭がそうした瞬間、聖変化の言葉を唱えた瞬間、イエズス様は天から本当に、それに従って、私たちの目の前に降って下さるからです。そしてパンは、イエズス・キリストの本当の体になるからです。

そして司祭のこの人間の儚い手を以って、イエズス様が御自分を、皆さんの元に与えられて食されようと望んでおられます。そして御自分の御体を以って、御血を以って、私たちを養おうと、そして私たちと1つになろうと願っています。

今日福音で読んだ歴史上の事実、このパンの増加の奇跡は、私たちが今目の前で行なわれるこのミサ聖祭の大奇跡の予告に過ぎません。私たちはそれよりも更にすごい事に与っています。

そして「その制定の日がもうすぐやって来る」という事を、イエズス様は教えています、教会は教えています。ですから、「喜べ!」と私たちを招いています。

御聖体の尊さ、そしてそれと同時にカトリック司祭職の偉大さ、イエズス・キリストの使命を続けるそのカトリック司祭の崇高さ、これはプロテスタントの牧師さんや、あるいはイスラム教のイーマンとか、あるいはその他と全く比較になりません。

何故かというと、カトリックの司祭こそが、新約の司祭であって、イエズス・キリストの制定した十二使徒の後継者を、脈々と、途切れる事なく、その司祭職を唯一続けているものであるからです。

このイエズス・キリストの使命を続ける為に、どれほど私たちにとって司祭が必要である事でしょうか。イタリアで多くの方がコロナウィルスによって亡くなっている。1日に何百人何百人と亡くなっている、そして若いお医者さんたちが命を懸けて、看護士と共にその看護に当たっている、というのを見ると、非常に感動的な話があります。

しかし、イエズス・キリストの命を与える為に、イエズス・キリストの御体を私たちに与える為に、イエズス・キリストの真理を私たちに伝える為に、洗礼を以って超自然の命を私たちに与える為に、永遠の死から私たちを救う為に与えられた霊的な医者である司祭、この司祭はどれほど高貴で、どれほど必要とされている事でしょうか。

愛する兄弟の皆さん、どうぞ教会と共に、喜びの中に深く入って下さい。そして私たちに御聖体が与えられる、という事を心から感謝致しましょう。

そしてまた私たちに聖なる司祭たちが、聖伝の信仰を守る、このミサを守る司祭たちが多く与えられますように、お祈り致しましょう。

そしてマリア様に是非、イエズス様の御母、天主の御母であるマリア様に、司祭職の母であるマリア様に、お願い致しましょう。

どうぞ、私たちがこの奇跡よりも、今日福音で読んだ奇跡よりも更に偉大な奇跡が、いつも、世界中でどこでも与えられる為に、多くの聖なる司祭を送って下さい、とお願いする事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。













--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】