Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【再掲】朝鮮最初のカトリック司祭、聖アンドレア金大健神父の信徒への手紙

2020年06月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
聖金大建アンドレア神父についてご紹介します。


 朝鮮最初のカトリック司祭、アンドレア金大健









 李氏朝鮮末期1821年8月21日に、忠清南道の両班で熱心なカトリックの両親のもとに生まれる。兒名は再福といった。祖父である金震厚は1814年に牢死により殉教し、父親イグナチオ金済俊は1836年フランス人司祭であるモバン(Maubant)神父から受洗、1839年に西門外で斬首の殉教をしている。
 金大建は、15歳の時モバン神父より受洗、その才能を認められ、マカオ(澳門)の神学校で勉強するように推薦を受け、両親の元を離れて、同輩の崔良業、崔方済とともに遼東と満州を経て中国大陸を縦断するマカオまでの旅に出た。神学、ラテン語、フランス語などをマカオ駐在のパリ外国宣教会司祭から学び、6年の勉学の後、1845年8月17日に、上海でフェレオル司教(Ferreol、注:ペレオールではない)からカトリック司祭として叙階される。
 第三代朝鮮教区監牧(朝鮮教区長)であるフェレオル司教を助けるために1845年10月、朝鮮に入り、監牧代理として宣教活動をする。翌1846年6月5日、官憲により逮捕され投獄される。同年9月15日天主教を信じた邪學罪人の反逆罪として軍門梟首による死刑を宣告され、同年9月16日殉教。25歳。

 一年に満たない朝鮮での「司牧活動」のために、若くして家を捨て祖国を離れて留学し、フランス式のカトリック神学教育を受た。神学を学ぶため、また祖国朝鮮で司牧するために数千キロメートルも危険な旅を繰りかえした。迫害の中、朝鮮で迫害を受けているカトリック信徒たちを慰め励まし教えた。

 1925年7月5日、ピオ十一世により韓国69位福者の一人として列福される。
 1984年5月6日、ヨハネ・パウロ二世より103位韓国殉教者の一人として列聖される。
 韓国聖職者の守護の聖人。

聖金大建神父の生涯は次にくわしい。

聖金大建神父の生涯

聖金大建神父の生涯

 ラテン語で書かれた書簡二十三通が残っている。漢文でも一通書簡を書き、獄中で朝鮮で迫害を受けている信徒たちを励ますための回覧状(廻諭文)を唯一ハングルで書き残した。神父は一度も自分の韓国語の名前を署名で使っていない。常に金アンドレアである。

 何故金大建神父は、あらゆる危険、体力の極度の衰弱、重病にもかかわらず、中国大陸を縦断して司祭となり、雪の中でも何百キロを歩き、陸地と海路を通じて命の危険を冒してまで朝鮮に戻ったのか? それは秘蹟を信徒たちに授けるためであった。ミサ聖祭をたて、罪の告白を聞き、祝福するためであった。

 金アンドレア神父様のような危険な宣教の旅は、とても真似できるものではない。迫害の中、飛行機も電車もバスも車もない時代の旅行だ。電話もファックスも携帯のメッセージもメールもインターネットもない。金アンドレアは歩いて歩いた。しかしその気持ちが私には痛いようによく分かる気がする。牧者がその信徒たちを思う気持ち、彼らを愛する気持ちがよく分かる。私はその牢獄での書簡を読んで深く感動した。

 たった二十五歳になったばかりの朝鮮最初のこの司祭殉教者には、どれ程多くのことを信徒の方々に伝えたかったことだろうか!「言うことは限りなくあり」、いくら紙を尽くしても筆を尽くしても書ききれなかっただろう。彼らのことを「心から愛して忘れることの出来ない」気持ちでどれ程一杯だっただろうか!

 聖金アンドレア神父は、彼らに一つのことしか願っていない。これこそ本当の愛から出る願いだった。つまり彼らの救霊だ。聖なる神父は何度もこう繰り返している。

「迫害を耐え忍び、主の栄光のために働き、あなたたちの救霊を全うせよ。」
「天国に行って会おう。」
「天国で会い永遠に至福を享受することを願う。」

 金アンドレア神父様の書いたものは日本語ではあまりよく知られていないので、金アンドレア神父の口を通して私も日本にいる愛する兄弟姉妹の皆様に同じことを言うために、この書簡を是非紹介したいと思う。

 聖なるロザリオの聖母よ、我らのために祈り給え!
 無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!
 聖アンドレア金大建よ、我らのために祈り給え!

*********************


金アンドレア神父の最後の書簡
獄中にて 1846年8月末
(訳:トマス小野田神父)


교우들 보아라!
信徒たちよ、見よ。

 我が友よ、良く考えて、考え抜くように。天主は何もなかった原初(無始之時)より天地万物を創造し、その中に私たち人間を、御自身の姿に似せて創り給いこの世に置き給う目的(慰藉)とその意味を考えるように。

 全てこの世のことを、じっくり考えてみると、哀れで悲しいことが多い。このように厳しく哀れな世界に一度生まれ、私たちを生まれさせたもう主(임자)を知らないとしたら、生き甲斐もなく、生きていても無益で、たとえ主の恩によりこの世に生まれ、主の恩により受洗して入信し主の弟子になっても、名前はまた尊くとも、実が伴わなければ、名前を何の役にたつのか。この世に生まれ入信した意味(効験)がないのみならず、むしろ主に背き主の恩に背く(背主背恩)ことになり、主の恩寵を受けるだけで主に罪を犯すならば、生まれてこないだけということと何とも同じことだ。

 種を植える農夫を見ると、時に合わせて畑を耕し、肥料を蒔き、暑さに苦労を顧みることなく、美しい種を養い育て、収穫の時に至って、穀物が良く実るなら、汗を流した苦労を心は忘れてむしろ喜び踊り幸福になるだろうし、穀物が良く実らず収穫の時に空籾と殻だけしかならないなら、主人は汗を流した苦労を思い出し、むしろこの畑に肥料を蒔いてやった努力のためにこの畑を冷遇するだろう。このように主は、この地を畑とし、私たち人間をして稲とし、恩寵をして肥料とし給い、贖罪のために御托身し給いて、御血によりて私たちに水を与え、良く育ち実りをつけるようになさっておられる。審判の日に、収穫の時が到来し、恩寵を受けて実りをつけたならば主の養子(義子)として天国を享受するだろうし、もしも実りをつけることが出来なかったのならば、主の養子から主の敵となり、永遠にふさわしい罰を受けることだろう。

 私の愛する兄弟たちよ、よく知るように。私たちの主イエズスは、この世に生まれ、その身に無数の苦難を受け給い、苦しみの中から聖なる教会を建て給い、苦難の中でそれを成長させ給う。しかし、この世の嵐がどれ程激しく戦うとも、勝つことは出来ない。イエズスは御昇天後の使徒の時代より今に至るまで、聖なる教会はあまねく無数の艱難の中を成長し、ただ今では我が朝鮮に聖なる教会が到来して五、六十年の間に、幾度も迫害に信徒たちが今までさらされており、また今日、迫害は炎のように燃え上がり、数名の信徒たちと私までが捕らえられ、更にあなたたちまで困難の中に耐えている。私たちが一つの神秘体となり悲しみの心(哀痛之心)がないとしても、肉体(肉情)にはとても耐えられない離別は、難しくないわけがあるだろうか。しかし、聖書に言われているように、小さな髪の毛の先でさえも主は御覧になり給う、と。主にはご存じないことがなく全てを御覧になる、と言われ給うたのだから、どうしてこのようなのかと言うような迫害が、主の御旨(主命)でなかったり、主の与え給う報償と罰(主賞主罰)でないわけがあるだろうか。

 主の聖なる御旨に従うなら、全心で天主イエズスの御稜威の側にたち、既に敗北させられたこの世の悪魔を打とう。このように遑々として慌ただしい時代にあたって、気後れさせることなく、むしろ力を尽くしてますます持てる力を出し、ちょうど勇敢な軍人が武器を携えて戦場に立つようにして、戦って勝つように。

 どうか互いの友愛を忘れずに助け合い、合わせて主が私たちを憐れみ給い艱難を終えられるまで待て。万一どのようなことがあっても、どうか気をつけて極めてよく注意して主の栄光のために働き、ますます用心を重ねよ。ここにいる者二十名は、まだ主の御恵みにより元気でいる。もしも死んだ後でもあなたたちがこの人たちの家族をどうか忘れることのないようにせよ。

 言うことは限りなくあるが、今や紙筆が尽き、ここで終える。私たちは遠からず戦場に出かけるだろうから、どうか、着実に功徳を修め、天国に行って会おう。心から愛して忘れることの出来ない信徒たちに、あなたたちはこのような困難の時代にあたり、どうか心を虚実に惑わされずに、夜も昼も主の助け(主祐)を乞い求め、三仇(=救霊を妨げる三つの敵である、悪魔、世俗、肉欲のこと)に敵対し、迫害を耐え忍び、主の栄光のために働き、あなたたちの救霊を全うせよ。このような迫害の時は、主の試練を受け世俗と悪魔に打ち勝ち功徳をますます積むときである。どうか、困難に大きく降伏する心で主に従う救霊の事業(事主救靈事)を途中で放棄してしまわず、むしろ過去の聖人聖女のあとをすべて自分のものと習得(萬萬修治)し、聖なる教会の栄光をいやまし、天主の着実な軍人と養子となったことを証明し、たとえあなたたちの体は多数でも、心では一人となり、愛を忘れずに、互いに忍びあい、憐れみ、主の憐れみの時を待て。

 言うことは無数にあるが、場所が妥当ではなく書けない。全ての信徒たちは、天国で会い永遠に至福を享受することを願う。私の口をもってあなたたちの口に当てて、愛を接吻せよ。

副監牧 金 アンドレア

(追伸)
 この世の全てのことは、些かのことも主のみ旨の通り(莫非主命)であり、些かのことも主の報償であり罰(莫非主賞主罰)である。従って、このような迫害もたしかに天主の許しがあってのことであり、あなたたちは甘受忍耐し、主のために生きひたすら主に悲しく乞い求め、早く平和を下さるのを待て。私が死ぬのはあなたたちの肉体と霊魂の大事に、いかに支障でないわけがあるだろうか。しかし、天主は遠からずあなたたちに、私と比較して、より着実な牧者を報償として下さるだろうから、どうかそわそわせず、大きな愛を起こし一つの体のように主に仕え、死後一緒に永遠に天主の御稜威に会い、ともに至福を享受することを多く願う。元気でいるように。

金神父 贈物謝絶

옥중에서, 1846년 8월 말
교우들 보아라. 우리 벗아! 생각하고 생각할 지어다.
천주께서 무시지시(無始之時)로부터 천지 만물을 배설(配設)하시고,
그 중에 우리 사람을 당신 모상(模像)과 같이 내어 세상에 두신 위자(爲者, 즉 창조주)와 그 뜻을 생각할지어다.
온갖 세상일을 가만히 생각하면 가련하고 슬픈 일이 많다.
이 같은 험하고 가련한 세상에 한 번 나서 우리를 내신 임자를 알지 못하면 난 보람이 없고, 있어 쓸데없고,
비록 주은(主恩)으로 세상에 나고 주은으로 영세 입교하여 주의 제자되니,
이름이 또한 귀하거니와 실이 없으면 이름이 무엇에 쓰며, 세상에 나 입교한 효험(效驗)이 없을 뿐 아니라,
도리어 배주배은(背主背恩)하니, 주의 은혜만 입고 주께 득죄(得罪)하면 아니 남과 어찌 같으리오.
밭을 심는 농부를 보건대, 때를 맞추어 밭을 갈고 거름을 넣고 더위에 신고(辛苦)를 돌아보지 아니하고
아름다운 씨를 가꾸어 밭 거둘 때에 이르러 곡식이 잘되고 염글면,
마음의 땀낸 수고를 잊고 오히려 즐기며 춤추며 흠복(欽服)할 것이요,
곡식이 염글지 아니하고 밭 거둘 때에 빈대와 껍질만 있으면,
주인이 땀낸 수고를 생각하고 오히려 그 밭에 거름내고 들은 공부로써 그 밭을 박대하나니,
이같이 주께서 땅을 밭을 삼으시고 우리 사람으로 벼를 삼아 은총으로 거름을 삼으시고 강생구속(降生救贖)하여
피로 우리를 물 주사 자라고 염글도록 하여 계시니,
심판날 거두기에 이르러 은혜를 받아 염근 자 되었으면 주의 의자(義子)로 천국을 누릴 것이요.
만일 염글지 못하였으면 주의 의자로써 원수가 되어 영원히 마땅한 벌을 받으리라.
우리 사랑하온 제형들아. 알지어다.
우리 주 예수께서 세상에 내려 친히 무수한 고난을 받으시고 괴로운 가운데로조차 성교회를 세우시고
고난 중에 자라나게 하신지라.
그러나 세상 풍속이 아무리 치고 싸우나 능히 이기지 못할지니,
예수 승천 후 종도(宗徒) 때부터 지금까지 이르러 성교 두루 무수 간난(艱難)중에 자라니,
이제 우리 조선이 성교 들어온 지 50~60년에 여러 번 군난(窘難)으로 교우들이 이제까지 이르고,
또 오늘날 군난이 치성(熾盛)하여 여러 교우와 나까지 잡히고,
아울러 너희들까지 환난(患難) 중을 당하니, 우리 한 몸이 되어 애통지심(哀通之心)이 없으며,
육정(肉情)에 차마 이별하기 어려움이 없으랴.
그러나 성교(聖敎)에 말씀하시되, ‘작은 털끝이라도 주께서 돌아보신다’ 하고 ‘모르심이 없어 돌보신다’하였으니,
어찌 이렇듯한 군난이 주명(主命)이 아니면 주상 주벌(主賞主罰)아니랴!
주의 성의(聖義)를 따라오매, 온갖 마음으로 천주 예수의 대장의 편을 들어, 이미 항복받은 세속?마귀를 칠지어다.
이런 황황(遑遑) 시절을 당하여, 마음을 늦추지 말고 도리어 힘을 다하고 역량을 더하여,
마치 용맹한 군사가 병기를 갖추고 전장에 있음 같이 하여 싸워 이길지어다.
부디 서로 우애(友愛)를 잊지 말고 돕고, 아울러 주 우리를 불쌍히 여기사 환난을 앗기까지 기다리라.
혹, 무슨 일이 있을 지라도 부디 삼가고 극진히 조심하여 위주 광영(爲主光榮)하고 조심을 배로 더하고 더하여라.
여기 있는 자 이십인은 아직 주은으로 잘 지내니 설혹 죽은 후라도 너희가 그 사람의 가족들을 부디 잊지들 말라.
할말이 무궁한들 어찌 지필(紙筆)로 다하리.
그친다. 우리는 미구에 전장에 나아갈 터이니 부디 착실히 닦아 천국에 가 만나자.
마음 사랑하여 잊지 못하는 신자들에게, 너희 이런 난시(難時)를 당하여 부디 마음을 허실히 먹지 말고
주야로 주우(主祐)를 빌어, 삼구(三仇)를 대적하고
군난을 참아 받아 위주광영하고 여등(汝等)의 영혼대사(大事)를 경영하라. 이런 군난때는 주의 시험을 받아,
세속과 마귀를 쳐 덕공(德功)을 크게 세울 때니
부디 환난에 눌려 항복하는 마음으로 사주 구령사(事主救靈事)에 물러나지 말고
오히려 지나간 성인 성녀의 자취를 만만 수치(修治)하여
성교회 영광을 더으고 천주의 착실한 군사와 의자가 됨을 증거하고,
비록 너희 몸은 여럿이나 마음으로는 한 사람이 되어,
사랑을 잊지 말고 서로 참아 돌보고 불쌍히 여기며, 저의 긍련(矜憐)하실 때를 기다리라.
할말이 무수하되 거처가 타당치 못하여 못한다.
모든 신자들은 천국에 만나 영원히 누리기를 간절히 바란다. 내 입으로 저희 입에 대어 사랑을 친구(親口)하노라.
부감 김 안드레아
세상 온갖 일이 막비주명(莫非主命)이요. 막비주상주벌(莫非主賞主罰)이라,
고로 이런 군난도 또한 천주의 허락하신 바니,
너희 감수 인내하여 위주(爲主)하고 오직 주께 슬피 빌어 빨리 평안함을 주시기를 기다리라.
내 죽는 것이 너희 육정과 영혼 대사에 어찌 거리낌이 없으랴.
그러나 천주께서 오래지 아니하여 너희에게 내게 비겨 더 착실한 목자를 상주실 것이니,
부디 설워 말고 큰사랑을 이뤄, 한 몸같이 주를 섬기다가
사후에 한가지로 영원히 천주 대전에 만나 길이 누리기를 천만 천만 바란다.
잘 있거라.







【聖体の黙想】聖体は地上の天国であって終わりない生命の保証である

2020年06月11日 | 聖伝のミサの予定
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の制定された理由

聖体は地上の天国であって終わりない生命の保証である

 礼拝 尊いホスチアは光栄と勝利とに輝く天国の主宰者、天使の王を隠すひとむらの雲である。このように、主が聖体の雲に隠れて地上に近づかれるのは、私たちを主に近づきやすくするためである。
しかし、いと高い天の玉座に大いなる御稜威(みいつ)をもって座したもうときでも、また私たちのかよわいのを労わるために聖体の雲に隠れて地上におくだりになるときにも、主はいつも同じ主である。主は私たちが他日天国で光栄のうちに所有する幸福の保証、その先験としてここに来てくださるのである。
聖体が天国の保証であるというのは、私たちにこれを与えるとの約束が聖体によって結ばれたからである。だから、『わが肉を食する者は永遠の生命を有す。われは天よりのバンなり。われを信ずる者は死をみることなかるべし』と主はかたく約束されて御身をその保証としてお与えになったのである。だから聖体はこの御約束をどこにあっても繰り返し、それを実行されたもうのである。
今日聖体によって御身を私たちに与えてくださる以上、主はあとで天国の幸福を私たちにお与えにならないことができない。いったい、天国とは何か。イエズスを有すること、永遠に、確実に、イエズスを所有すること、神秘的にあますところなく終わることなくイエズスを所有することである。主は完全に私たちのものとなり、私たちは完全に主のものとなる。天国とはこれである。では、聖体とは何であるか。イエズスを有すること、その中に常に永久にイエズスか存在されること、私たちが秘跡的にイエズスをお受けすることではないか。イエズスの存在、並びに私たちがイエズスと一致する方法は、天国と聖体におけるのとでは相違がある。なぜなら地上にあっては、一方にイエズスはその存在をお隠しになり、他方に私たちは主を完全に所有して、いつも主とともにいることができない。ここでは天国のパンを食すときにも、主を認めるのは信仰だけで、感覚は少しも主に触れないばかりか、感覚はたびたび信仰を弱め、その光をくもらせて、霊魂が天高く駆け上ることを妨げさえする。しかしながら同じ実在が天国と聖体とにある。主は天国と同様に、ここ地上においても聖体によってご自身を私たちにほんとうに与えてくださるのである。
だから、聖体が天国の保証だといっても、別に、不思議ではないだろう。救い主がすでにこの最初の御恵みを与えてくださる以上、どうして他日天国でご自身を完全に与えることを拒まれるだろうか。 この真理をよく味わい、私たちが主に対して、はなはだ不忠実で変わりやすいのに反し、決して御約束を変えられない主を礼拝しよう。
聖体はまたこの世での天国の先験であって、その意味で保証以上のものである。先験とは、のちに与えられる祝福の一部を、あらかじめ前もって味わうことである。すなわちそれは、私たちのために用意された天国の完全な幸福の最初の味わいである。
天国とはどんなところであろうか。それはあらゆるよいものを全部完全に自分のものとするところである。だから旧約聖書は『聖体をすべての喜びを含むパン』と名づけ、イエズスもまた聖体を『天よりのパン』とお呼びになった。実際、聖体はその名にそむかず、天主を直観する至福は天主のパンによって味わわれ、天使の歓喜は天使のパンによって測られ、天国の幸福は天からのバンによってはじめて知らされるのである。
この涙の谷に、このようなおびただしい禍(わざわい)と、不幸とが絶えないのは、聖体の無力によるのではなくて、責任はみな私たちにあるのである。すなわち私たちの信仰は地上の財宝にまどわされ、私たちの心は物質的欲望によって弱くなっているために、ついに永福の清い喜びを楽しめぬようになったのである。
だから礼拝しよう。 この世を楽園の入口にするために、天からおくだりになった生きたパンを。感謝と感嘆の心をもってこれを礼拝しよう。

感謝 主のご慈愛のいかに大いなることよ。主の愛のいかに激しいことよ。私たちの上に施したもう主のあわれみのいかに深いことよ。なぜなら、かりに私たちの労役と戦いとの報いとして天国の御約束があるだけで、これを得るのに必要な功徳は、私たちが独力で積み上げなければならなかったとしても、それで主の愛とご好意とは十分に証明されたわけだからである。ところが主はそれで満足されなかった。私たちのために死んで私たちに天国に入る権を得させたもうた救い主、御血の功徳をもろもろの秘跡を通じてみな私たちにわかちたもうた救い主、尊いみ教えによって完徳の道をお示しになった救い主、まずご自分から天国に昇って私たちのために席を用意したもう救い主は、まだ、これをもって十分とされず、私たちの手をとって天国に導くために、聖体の中に隠れて再び地上に帰り来ることをお望みになった。主は私たちに天国を保証するために、前もってご自身を私たちにお与えになるのである。それは天国の歓喜のいくらかを地上ですでに私たちに味わわせ、これによって私たちを、この世の一時的な財宝の誘惑から退け、天上の永遠の幸福を慕わせようとするためであった。
ああ主よ、私たちを天国に導くために、なお主のなさることが残っていたであろうか。御身の愛は実によくゆきとどいている。これほどまでにご配慮されるのに、もし天国に行くことができなければ、私たちが懲罰を受けるのは当然であろう。どんな懲罰も、これを避けさせるために主が私たちに示したもうご慈愛に比べるなら、もののかずではないからである。

償い ああ主よ、汚れない美、限りない善、終わりないいのち、すべての幸福と善そのものなる天主よ、御身がこの天来の秘跡をもってお与えになる御約束と御招き、また天国の保証とその先験とを心に思い浮かべると、私たちは、どのように恥じなければならないであろうか。私たちはこの世の快楽が奪い去られてしまって不幸に陥ったときでなければ、天国のことを考えようとしない。すなわち、地上の不幸をいやすためにはじめて天国を望むのであるから、その反対に少しでも現世的の幸福を得、自分の心、自分の感覚の欲望が満たされると、目を天主の方にあげることをやめてしまう。たまたま天国のことを考えるかと思うと、それは主に向かって『願わくはこの幸福の杯を飲み干すまで、われを天国に呼び寄せたまわざれ』と嘆願するのである。
ああ至聖なる聖体よ、御身が親しく来てくださるのは、このような地上の迷いに捕われた汚れた霊魂の中である。そこで御身はわずかしか愛されない。だから御身は私たちの中で無力無為に終始し、熾烈(しれつ)な愛に燃えた聖人らの霊魂の中に生じさせられたような、天主と天国とに対する感激、熱望、歓喜、法悦(ほうえつ)を私たちの心にお起こしにならないのである。

祈願 天来のパンなるいとも尊い聖体のみ前に出るたびごとに、望徳を盛んにする最もまじめな決心をしよう。あなたの日々の祈りと聖体拝領の際に、かたときも望徳を忘れないように。また、あなたの感謝の時にも、この決心に忠実であったかどうかを糾明しよう。
これまでの事がらの実行は、必ず肉のきずなから私たちを引き離し、私たちを地上の細事から超越させ、私たちに現世を軽んじさせ永遠を愛させるようにするであろう。

実行 聖体拝領のたびごとに最後まで主に忠実である御恵みと天国を恋い慕う賜物とを願い、また永福を得る妨げとなる一切の事がらを犠牲としてささげることを決心しよう。




今日6月11日は、御聖体の祝日(一級大祝日 白)です。大阪では聖伝のミサが捧げられます。

2020年06月11日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日2020年6月11日は、御聖体の祝日(一級大祝日 白)です。大阪では聖伝のミサが捧げられます。


2020年6月14日(主日)は、日本(東京と大阪)では御聖体の祝日の荘厳祭を行います。

【東京】
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【大阪】
18:00 ミサ聖祭 歌ミサ

御聖体の祝日(一級大祝日 白)
聖木曜日において、拝すべき聖体制定の記念を祝った。しかし、その時はご受難中であり、充分盛大に喜びを表すことができなかった。この祝日が定められたのは、十三世紀、ベルギーのリエージュの、聖ユリアナ・ド・コルニヨン修道女によってである。後にウルバノ四世教皇と、クレメンテ五世教皇とによって、全教会の祝日と定められた。この日のミサと聖務日課とは、アクィノの聖トマの作である。
【ミサ聖祭】
〈書簡〉において聖パウロは、救主のご受難と御死去の記念である聖体制定を語り、清い心をもってこれをうけるべきであるといましめている。アクィノの聖トマによる美しい〈続誦〉は、聖体に関する神学の要略であるといってよい。

IN FESTO SANCTISSIMI CORPORIS CHRISTI ご聖体の祝日 耶稣圣体
I Classis 一級大祝日 一等复式【白】
Ant. ad Introitum. Ps. 80, 17. 入祭文 詩篇、80ノ17 进台咏 咏80:17
Cibávit eos ex ádipe fruménti, allelúia : et de petra, melle saturávit eos, allelúia, allelúia, allelúia. 天主は、かれらを肥えた小麦で養い給い、アレルヤ、そして岩から出た蜜にかれらを飽かせ給うた、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 主用麦子的精华,养育了祂的子民。阿肋路亚。祂用盘石流出的蜜,使他们果腹,阿肋路亚,阿肋路亚,阿肋路亚。
Ps. ib., 2. 詩篇、80ノ2 咏80:2
Exsultáte Deo, adiutóri nostro : iubiláte Deo Iacob. 私たちの救いなる天主に喜び踊れ、ヤコブの天主に喜びうたえ。 你们当向天主——我们的力量,高声颂扬,向雅各布伯的天主要欢呼欣乐。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦) 光荣归于父……。
Cibávit eos ex ádipe fruménti, allelúia : et de petra, melle saturávit eos, allelúia, allelúia, allelúia. 天主は、かれらを肥えた小麦で養い給い、アレルヤ、そして岩から出た蜜にかれらを飽かせ給うた、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 主用麦子的精华,养育了祂的子民。阿肋路亚。祂用盘石流出的蜜,使他们果腹,阿肋路亚,阿肋路亚,阿肋路亚。
Oratio. 集祷文 集祷经
Deus, qui nobis sub Sacraménto mirábili passiónis tuæ memóriam reliquísti : tríbue, quǽsumus, ita nos Córporis et Sánguinis tui sacra mystéria venerári ; ut redemptiónis tuæ fructum in nobis iúgiter sentiámus : Qui vivis et regnas. 驚くべき秘蹟のもとに、御受難の記念をわれらにのこし給うた天主よ、願わくは、我らをして御身の御体と御血の玄義をかくも崇敬し、御身の贖いの実りをわれらにおいて常に感ずるをえんことを。聖父なる天主とともに・・・。 天主,祢藉着这个奇妙的圣事,将对祢受难的纪念留给了我们,求祢恩赐我们能如此虔敬祢体血的神圣奥迹,以致我们常常感受祢救赎的恩效。祢和天主父……。
Léctio Epistolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corinthios. 使徒聖パウロの、コリント人への書簡の朗読 书信
1. Cor. 11, 23-29. コリント前書、11ノ23-29 格前11:23-29
Fratres : Ego enim accépi a Dómino quod et trádidí vobis, quóniam Dóminus Iesus, in qua nocte tradebátur, accépit panem, et grátias agens fregit, et dixit : Accípite, et manducáte : hoc est corpus meum, quod pro vobis tradétur : hoc fácite in meam commemoratiónem. Simíliter ei cálicem, postquam cenávit, dicens : Hic calix novum Testaméntum est in meo sánguine. Hoc fácite, quotiescúmque bibétis, in meam commemoratiónem. Quotiescúmque enim manducábitis panem hunc et cálicem bibétis, mortem Dómini annuntiábitis, donec véniat. Itaque quicúmque manducáverit panem hunc vel bíberit cálicem Dómini indígne, reus erit córporis et sánguinis Dómini. Probet autem seípsum homo : et sic de pane illo e dat et de calice bibat. Qui enim mánducat et bibit indígne, iudícium sibi mánducat et bibit : non diiúdicans corpus Dómini. 兄弟たちよ、実に私があなたたちに伝えたことは、主から授かったことである。すなわち、主イエズスは裏切られた夜、パンをとり、そして感謝してのちそれをさき、「これは、あなたたちのための私の体である。私の記念としてこれをおこなえ」とおおせられた。食事を終えてから、同じように杯をとり、「この杯は私の血における新しい契約である。これを飲むごとに、私の記念としてこれをおこなえ」とおおせられた。まことに、あなたたちはこのパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるまで、主のご死去を告げるのである。だから、ふさわしい心を持たずに、主のパンを食べ、その杯を飲む者は、主のおん体とおん血とを犯す。だから、そのパンを食べ、その杯を飲むごとに、おのおの自分をしらべなければならない。主のおん体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである。 弟兄们:我所传授给你们的,是主告诉了我的,那就是:主耶稣在被出卖的那一夜,拿着饼,祝福了分开说:“你们拿去吃吧,这是我的身体,将为你们而舍于人的,为了纪念我、你们要这样作。”同样、吃了晚餐以后,祂拿了爵说:“这爵是由我的血而缔结的新盟约。你们每次喝它时,你们为了纪念我、要这样作。”你们每次吃这饼,喝这爵,就是宣告主的死亡。直到祂来临为止。所以谁不正当地吃饼,或喝主的爵,对于主的体血有罪。人要先自省,然后吃饼喝爵。对于不辨别主的体而不正当地吃喝的人,便在吃喝着自己处罚的判断。
Graduale. Ps. 144, 15-16. 昇階誦 詩篇、144ノ15-16 台阶咏(咏144:15-16)
Oculi ómnium in te sperant, Dómine : et tu das illis escam in témpore opportúno. 主よ、すべての目は、御身に希望する。御身はかれらに、適宜の時に食べ物を与え給う。 上主啊!一切人都举目瞻仰祢,祢赐给他们,应时的食粮。
V/. Aperis tu manum tuam : et imples omne animal benedictióne. V/.御身は御手を開き、すべての生けるものを祝福で満し給う。 祢伸开祢的手,使一切有生气的,都随意饱食。
Allelúia, allelúia. V/. Ioann. 6, 56-57. Caro mea vere est cibus, et sanguis meus vere est potus : qui mandúcat meam carnem et bibit meum sánguinem, in me manet et ego in eo. アレルヤ、アレルヤ、V/. ヨハネ、6ノ56-57 私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲物である、私の肉を食し、私の血を飲む者は、私に留まり、私もまた彼に留まる。 阿肋路亚,阿肋路亚。(若6:56-57)我的肉真是食粮,我的血真是饮料。谁吃我的肉,喝我的血,他在我内,我在他内。
Sequéntia. 続誦  (ラウダ・シオン) 继抒咏
Lauda, Sion, Salvatórem, シオンよ、救い主を讃えよ、 1. 熙雍啊,你该颂扬你的救主吧!
lauda ducem et pastórem 指導者を、牧者を讃えよ、 并以各种的诗章和赞歌,
in hymnis et cánticis. 賛歌と頌歌によって。 称颂你的领袖和你的善牧!
Quantum potes, tantum aude : おまえが出来るかぎり、それだけ大胆になれ、 2. 你该尽你所能,殚心竭力的向祂颂赞:
quia maior omni laude, 全ての賛美に優る方であるが故に、 因祂是赞不胜赞而
nec laudáre súffícis. 単なる賞賛では足りぬ。 你总不能充分足量称颂祂的。
Laudis thema speciális, 賛美の特別のテーマは、 3. 我们今天所应讴歌颂扬的
panis vivus et vitális 命を与える生けるパン、 原本主题,
hódie propónitur. これが、今日、提示される。 便是施与生命栩栩的活粮。
Quem in sacræ mensa cenæ 聖なる晩餐の食卓で、 4. 这个活粮,是在最后的晚餐席上,
turbæ fratrum duodénæ 十二の兄弟たちの群れに  由基督亲自分授
datum non ambígitur. 明らかに与えられたそれだ。 十二位宗徒的。
Sit laus plena, sit sonóra, 賛美は満ちあふれ、響きわたれよ、 5. 愿你的颂赞成为美满的,又响亮而又踊跃的,
sit iucúnda, sit decóra 喜びにあふれ、歓喜の精神の 愿你内心的愉快成为不胜欣喜
mentis iubilátio. 美しさよあれ。 而溢于分外的。
Dies enim sollémnis agitur, 実に、それは荘厳な日のこと、 6. 因我们今天所庆祝的节日,
in qua mensæ prima recólitur その日に、この制定が 便是追忆耶稣
huius institútio. 食卓の最初の実り【聖体】を収穫した 当初建立者圣宴的盛典。
In hac mensa novi Regis, 新しい王のこの食卓で 7. 在新王的筵席上,
novum Pascha novæ legis 新しい法の新しい過ぎ越しは、 被呈献的是新的巴斯卦羔羊,
Phase vetus términat. 古い過ぎ越しを終わらせた 从此旧的巴斯卦便告结束。
Vetustátem nóvitas, 新しきは古きを  8. 新的祭礼祛逐旧的仪式;
umbram fugat véritas, 真理は影を追い払い 事实取消预像;
noctem lux elíminat. 光は夜を除去した。 光明消除黑暗。
Quod in cœna Christus gessit, キリストが晩餐で行われたことを、 9. 基督在最后晚餐中所履行的,
faciéndum hoc expréssit 御自分の記念として  正是祂命了宗徒为纪念祂
in sui memóriam. これを行うよう命じられた。 而应重行的事。
Docti sacris institútis, 聖なる制定により教えられ  10. 我们祝圣饼酒
panem, vinum in salútis パンとぶどう酒とを 作为救赎我们的牺牲,
consecrámus hóstiam. 私たちは救いのホスチアと聖別する。 是由于基督圣训所指示的。
Dogma datur Christiánis, キリスト者たちに、ドグマが与えられた、 11. 麦面饼成为基督的身,
quod in carnem transit panis パンが肉となり、 葡萄酒变作祂的血,
et vinum in sánguinem. ぶどう酒が血と変化する、と。 这是基督徒当信的道理。
Quod non capis, quod non vides, あなたが理解せず見えないことを、 12. 用悟司而不能明了,用眼目而不能见到,
animosa fírmat fides, ものごとの秩序の外にあることを 这是超乎物外的常态,只有活泼的信仰,
præter rerum órdinem. 生き生きとした信仰は堅固にする。 提供我们确实的肯定。
Sub divérsis speciébus, いろいろな外見のもとに 13. 肉眼所见到的是饼是酒,
signis tantum, et non rebus, しるしだけのもとに、現実のもとではなく、 然而这些都是外表的形式罢了,
latent res exímiæ. 貴重な現実が隠れ給う。 内中所隐藏的,却是奥妙的事实。
Caro cibus, sanguis potus : 肉は食べ物、血は飲物に、 14. 饼形内基督的身充为食粮,酒形内祂的血作为饮料,
manet tamen Christus totus しかし、全キリストは  然而整个的基督,
sub utráque spécie. 両形色のもとましまし給う。 却在饼或酒的形内。
A suménte non concísus, 拝領者によって、切断されず、 15. 领圣体的人是领整个的基督,
non confráctus, non divísus : 裂かれず、分かたれず、 祂是不得损割,
ínteger accípitur. 完璧に領受される 不得破碎而又不得分裂的。
Sumit unus, sumunt mille : 一人が拝領しても、千人が拝領しても、 16. 无论一人或千人领之,
quantum isti, tantum ille : この人が受けたように、あの人も同じく、 各人所领到的全属均等,
nec sumptus consúmitur. 尽き果てることがない。 基督决不因被人领食而遭受消耗的。
Sumunt boni, sumunt mali 善人が拝領するのと、悪人が拝領するのとでは、 17. 善人领主与恶人领主完全相同,
sorte tamen inæquáli, しかし、命の或いは内的な 然而结果却大相差别:
vitæ vel intéritus. 結果は異る。 一则是生活,一则是死亡。
Mors est malis, vita bonis : 悪人には死が、善人には命が 18. 善人因而得生,恶人因而死亡,
vide, paris sumptiónis 同じ受領が、どれ程の異なる結末と 你当注意,他们同样领食
quam sit dispar éxitus. なるかを見よ。 而结果有如此的不同。
Fracto demum sacraménto, ついに秘跡がさかれても、 19. 当饼形剖分之时,
ne vacílles, sed meménto, ゆるがされずに、思い出せ、 你该记着,切勿怀疑,
tantum esse sub fragménto, 一片のもとにも、 整个的基督怎样存在于全的饼形内,
quantum toto tégitur. 全体のもとと同じように、包まれている。 同样的存在于饼形的各分内。
Nulla rei fit scissúra : 現実はさかれない、 20. 的确,圣体是不得分裂的,
signi tantum fit fractúra : しるしだけが砕かれる、 所分的只是形像。
qua nec status nec statúra それによって意味された方の 形像的大小与式样可能更改或变动,
signáti minúitur. 状態も背丈も小さくならない。 而基督的圣体,却绝对不得增损。
Ecce panis Angelórum, 見よ、天使達のパンを、 21. 这是天神的食粮,
factus cibus viatórum : 旅人の糧となったこれを、 成为旅世的人之养料,
vere panis filiórum, 正に子らのパンであり、 真是天主子女的食物,
non mitténdus cánibus. 犬へ投げやってはならない。 不得投给狗群的。
In figúris præsignátur, 前表において、既に予告されていた。 22. 关于这奥迹,古时有了象征的史迹,
cum Isaac immolátur : イザクが屠られるとき、 有依撒格的被作祭品,
agnus paschæ deputátur : 過越の子羊が食されるとき、 有巴斯卦羔羊的被宰,
datur manna pátribus. 太祖らにマンナが与えられるとき。 有赐给我们祖先(依民)的玛纳。
Bone pastor, panis vere, よい牧者よ、まことのパンよ、 23. 身为善牧和真粮的耶稣,
Iesu, nostri miserére : イエズスよ、われらをあわれみたまえ。 求祢矜怜我们吧!
tu nos pasce, nos tuére : われらを牧し、われらを守り、 请祢养育我们,保护我们,
tu nos bona fac vidére 生きる人々の地において、 并使我们在永生者的
in terra vivéntium. 我らをして善を見させ給え。 天乡获享真福。
Tu, qui cuncta scis et vales : 御身は、すべてを知り、おできになり給う、 24. 祢是全知又是全能的,
qui nos pascis hic mortáles : ここで死すべき我らを牧し給う。 祢是养育在世为人之我们的,
tuos ibi commensáles, あそこで御身と共に食卓に着く者として 求祢使我们在天作祢的同席者和祢的同继承者,
coherédes et sodáles 共に天の遺産の相続者としてまた友人として、 并使我们偕同祢的诸圣同
fac sanctórum cívium. 諸聖人の市民として我らをなさしめ給え。 为天国的公民。
Amen. Allelúia アメン、アレルヤ。 阿们。阿肋路亚。
+ Sequéntia sancti Evangéli secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦 福音
1. Ioann. 6, 56-59. ヨハネ 6ノ56-59 (若6:56-59)
In illo témpore : Dixit Iesus turbis Iudæórum : Caro mea vere est cibus et sanguis meus vere est potus. Qui mandúcat meam carnem et bibit meum sánguinem, in me manet et ego in illo. Sicu misit me vivens Pater, et ego vivo propter Patrem : et qui mandúcat me, et ipse vivet propter me. Hic est panis, qui de cælo descéndit. Non sicut manducavérunt patres vestri manna, et mórtui sunt. Qui manducat hunc panem, vivet in ætérnum. そのとき、イエズスは、ユダヤ人たちにおおせられた。「私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。生きておられるおん父が私をつかわし、そのおん父によって私が生きているように、私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてもなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる」と。 那时候,耶稣向犹太人群众说:“我的肉真是食粮,我的血真是饮料。谁吃我的肉,喝我的血,他在我内,我在他内。如同生活的父遣我来,如同我因父而生活;照样,吃我的,也将因我而生活。这是自天而降的粮食,不像你们祖先所吃过的——他们死了。谁吃这粮食,将永远活着。”
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Levit. 21, 6. 奉献文 レヴィ記、21ノ6 奉献咏(肋21:6)
Sacerdótes Dómini incénsum et panes ófferunt Deo : et deo sancti erunt Deo suo, et non pólluent nomen eius, allelúia. 主の司祭は、天主に香とパンとをささげ奉る、これがために、かれらは天主に対して聖なるものとなるだろう、彼らは天主の御名を汚さぬ、アレルヤ。 上主的司祭奉献天主馨香和食品,所以他们对于他们的天主,应是圣洁的,不应污辱祂的名号,阿肋路亚。
Secreta. 密誦 密祷经
Ecclésiæ tuæ, quǽsumus, Dómine, unitátis et pacis propítius dona concéde : quæ sub oblátis munéribus mýstice designántur. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、御身の教会に一致と平和の賜を憐れみ深く与え給え、その賜物は捧げられたいけにえのもとに神秘的に意味されるなり。天主として、(…)。 主,我们所献上的礼品(饼、酒),便是统一与和平的玄妙象征,求祢将此两恩,赐给祢的教会。因我们主……。
Præfatio de Ssma Trinitate (in Dominica in solemnitate) 主日の荘厳祭では 三位一体の序誦 天主圣三的颂谢引
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属于我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣……
Ant. ad Communionem. 1. Cor. 11, 26-27. 聖体拝領誦 コリント前、11ノ26-27 领主咏(格前11:26-27)
Quotiescúmque manducábitis panem hunc et cálicem bibétis, mortem Dómini annuntiábitis, donec véniat : itaque quicúmque manducáverit panem vel bíberit calicem Dómini indígne, reus erit córporis et sánguinis Dómini, allelúia. あなたたちがこのパンを食し、この杯を飲む毎に、主のご死去を告げる、彼が来給うまで。それ故、ふさわしからず、主のパンを食し、その杯を飲む者は、主の御体と御血とを冒涜する被告となる、アレルヤ。 你们每次吃这饼,喝这爵,就是宣布主的死亡,直到祂来临为止。所以谁不正当地吃主的饼或喝主的爵,对于主的体血有罪,阿肋路亚。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经
Fac nos, quǽsumus, Dómine, divinitátis tuæ sempitérna fruitióne repléri : quam pretiósi Corporis et Sanguinis tui temporalis percéptio præfigúrat : Qui vivis. 主よ、願わくは、我らをして御身の天主性を永遠に味わわせ給え、この世における御身の尊き御体と御血との拝領はその味わいを前兆するなり。聖父なる天主と・・・。

主,求祢恩使我们永远饱享祢的天主性:如今领受祢的圣体圣血,即此享受的预像。祢和天主父……。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】