Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

O Cor Jesu fons amoris おお、イエズスの聖心よ、愛の泉よ、 愛徳のいけにえよ

2020年06月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

イエズスの聖心に対する聖歌を御紹介いたします。



O cor Jesu, fons amoris,
caritatis victima,
vocibus te iam sonoris
laudent cordis intima.

Tu perenni gratiarum
rore mentes irrigas,
crucis lignum tu amarum
haustu dulci mitigas.
Amen.

【日本語訳】

おお、イエズスの聖心よ、愛の泉よ、
愛徳のいけにえよ、
御身を心の響きの声で親密に人々が讃美せんことを。

御身は、聖寵のとこしえの露で心を灌漑し給う、
御身は、十字架の苦い木を、甘い飲み物に和らげ給う。
アメン

くしきえびかずら】 (公教聖歌 #284)
奇しき葡萄樹(えびかずら) 我らの主イエズス
つきせぬ生命(いのち)を たもう嬉しさ
つきせぬ生命(いのち)を たもう嬉しさ

とこしえの望み あたえられし身
世のもの忘れて あめのみ慕う
世のもの忘れて あめのみ慕う

幹につらなれる えだなるわれら
よき實(み)を結びて 君に献げなん
よき實(み)を結びて 君に献げなん

みきを離れては 枯れ果つべき身
すがり奉らまし 天(あめ)にゆくまで
すがり奉らまし 天(あめ)にゆくまで

【カトリック聖歌:くしきぶどうの木】

奇しき葡萄の木よ わが主イエズス
つきせぬ命を たもう嬉しさ
つきせぬ命を たもう嬉しさ

とこしえの望み 与えられし身
世のものわすれて 天のみ慕(しと)う
世のものわすれて 天のみ慕(しと)う

幹につらなれる えだなるわれら
よき実を結びて 君にささげん
よき実を結びて 君にささげん

幹をはなれては 枯れ果つべき身
すがり奉らまし 天にゆくまで
すがり奉らまし 天にゆくまで





【聖体の黙想】聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心のお望みに適うものである

2020年06月19日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の顕示に関する黙想

聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心のお望みに適うものである

 礼拝 天主なる主が、その御稜威を愛をもっておおい座したもう玉座のみ前に跪(ひざまず)き、かつて聖女マルガリタ・マリアが主を仰ぎのぞみながら、聖心の啓示をお受けしたときに感じた同じ感情をもって主を礼拝しよう。彼女は語る。

『ある日、聖体が顕示されていたときに、主は突然私に聖心をお示しになった。聖心は主の御胸よりほとばしりいずるほのおに包まれたかまどのようで、御手足の傷は太陽のように輝いていた。そして主の御からだは烈火の中に立ちたもうようであった』と。

この時、救い主イエズスは、聖女にその神聖な人性を示すためホスチアのおおいを除き、普段その中にひそみ隠れておいでになる暗黒を照らされたのである。これによってもわかるように、主の聖心はホスチアの中にいつも鼓動し、私たちを迎えてくださるのである。

ああ たとい秘跡の陰に隠れておいでになっても、ここにおいでになる御者は、天主にして人なるイエズス・キリストでいらっしゃることを固く信仰し、全身全霊をあげて主を礼拝しよう。

救い主は聖女に仰せになった。『わが心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまず、愛を証するためには、いさぎよく万事を犠牲にした。それなのに、私はこの愛の秘跡に対して、忘恩、冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆を受けるだけである。それゆえ、せめてなんじだけでも、なんじの力に応じて少しでも私を慰め、私の心に報いてほしい』と。

聖体の礼拝、聖体の賛美は、このようにして主がお求めになった報恩である。

ああ、主よ、私たちは主に愛と尊敬とを捧げ、盛大な聖体降福式によって主を賛美し、主のために忠実な礼拝者の群を集めたいと願うのである。私たちは常に主のみ前に座して、あるいは観想の沈黙、あるいは賛美歌の合唱、そのほかあらゆる信心の務めを尽くしたい。そこには、信仰、愛、賛美、服従などの礼拝、痛悔、同情、犠牲、献身などの償い、また、信頼、奮発、祈禱などの祈願のすべてがあるからである。主の礼拝者なる私たちは、このようにして、一切を主に捧げ、完全に主と一致し奉るよう努力するのである。

感謝 聖体の愛と祝福とを理解する人は、聖体降福式の盛儀に参加し、礼拝者の群に入ることをこのうえない慰めとするはずである。なぜなら、彼らはこれによって、救い主に負債を支払い、感謝の義務を少しでも減らすことができるからである。

聖体降福式にあずかるときには、私たちは普通よりもさらにいっそう熱心と誠意とをもって主を礼拝しなければならない。それはこの聖体が、このためにこそ制定されたものであって、また、こうしてはじめて聖心のお望みに適うからである。

主は私たちに対する愛を証するために何ものをも惜しまず、すべてを犠牲にされた。それにもかかわらず私たちはなぜ主に対する感謝の務めに不熱心なのであろうか。私たちは最少限度の必要を満たすだけでなく、すすんでそれ以上の奉仕をなし、すべてを捧げ、すべてを捨てる幸福を経験したくないのであろうか。愛するもののためには何ものをも与え、何ものをも惜しまぬところにこそ幸いがある。主はご生涯を通じ、特に十字架上においてご自身を無とし、また聖体の中においては、私たちの救霊のために日ごと御自らを天父にお捧げになる。この限りのない愛に対する感謝として、私たちもまた献身、犠牲を実行し、永遠の幸福にあずかろうではないか。

償い 聖心に対する償いの意味をよく理解し、熱心をもって奮発するため、私たちは引きつづいてパレ・ル・モニアルの啓示を黙想しなければならない。主は『それなのに私はこの秘跡に対し、多数の人より忘恩、冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆を受けるだけである』と仰せられた。

『それなのに』とは、いかに非痛なみ声であろうか。主の絶大な愛に報いるのに、私たちは十分な愛と信頼とをもってしない。主と私たち、主の聖心と私たちの心、私たちのために一切を惜しまなかった主と、主のために努力し苦しむことを恐れる私たちとの間には、いかに悲しむべき相違があることであろう。

主は『多数の人から』と仰せになった。すべての人ではないが、大多数の人、すなわち、少数の例外を除いた人類が、主の愛に忘恩をもって報いている。

『冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆』とは、主が御自ら私たちの不義と罪悪とを指摘された御言葉である。これらはみな愛と感謝との欠乏から起こる。

『冷淡』とは、何ものをも感動させることができない私たちの利己主義的な頑なさである。

『軽蔑と不敬』とは、私たちの不熱心な投げやりのことである。卑近な例をとるなら、母なる聖会が、私たちに聖体の前に跪き、ランプをともし、ろうそくをつけ、祭壇をおおうのに麻布を使うことを命じているのに、跪く礼はおろそかにされ、ランプはたびたび消えたままで、祭壇の布は染みだらけとなり、聖櫃の上には塵がたまりがちなのである。種々の祭式のためには金銭が出し惜しまれる。『この浪費は何のためぞ』とつぶやく声が聞こえてくる。主よ、主は私たちの間で最も卑しい人のように取り扱われになられている。

最後に、主は『冒瀆』を嘆かれる。主を拝領しても心の奥で主を汚す者、悪魔の手先となって主の祭壇を略奪する者、彼らこそ最も憎むべき冒瀆者である。

主はこのように嘆かれたあと『すべてこれらのことは、受難の時に感じたどんな苦しみよりも大いなる苦しみである』と仰せになった。

このような御言葉を耳にしても、なお私たちはまだ主を敬うことを怠り、聖体降福式に対して精神的、物質的に不忠実であることができるだろうか。

祈願  『それゆえ、せめてなんじの力に応ずる多少の報恩をもって、私を慰めてくれねばならぬ』
この御言葉の中に、しなければならない決心、求めなければならない恩恵が示されている。すなわち、私たちの熱心、誠意、賛美こそは、最上の主なるイエズスのご光栄であるばかりでなく、実にその御慰め、御喜びとなるのである。
この確信をもって主を礼拝し、たびたび聖体を拝領し、聖堂を飾るための労力と費用とを惜しまず、また聖体降福式の普及のために全力を尽くそう。これによって、私たちは功徳を積み、聖心をお慰めし、『聖体中において人々にあがめられん』ことをお望みになる主の御渇きを癒すことができるのである。

実行 聖体降福式のため祭壇を飾るのになにも惜しまないようにしよう。






人類の忘恩に対する償いの祈(聖心の大祝日にこの祈りを唱える)

2020年06月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日は私たちの主イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。

人類の忘恩に対する償いの祈(聖心の大祝日にこの祈りを唱える)

 いと甘美なるイエズスよ、主(しゅ)が人々に示し給いし御慈(おんいつく)しみはかえつてかれらの忘却(ぼうきゃく)と冷淡とけいべつとによりて報いらるるなり。さればわれらは、主の祭壇の御前(みまえ)にひれ伏し、いとも愛すべき主の聖心(みこころ)が、あらゆる方面より受け給う、かくも憎むべき忘恩(ぼうおん)ぼうとくを償(つぐの)わんがために特に礼拝し奉(たてまつ)る。

▲されどわれらもまた、かつて主に背(そむ)き奉りたるものなるを思い出し、深く悲しみて御(おん)あわれみを願い奉る。われらはおのが罪を償(つぐの)うのみならず、さらに進んで、救霊(きゅうれい)の途(みち)を遠ざかり、主の御招き(おんまねき)に応ぜずして不信仰を改めざる者、洗礼の約束を破りて、主の御戒(おんいまし)めの快きくびきを振り棄てたる人々の罪をも償わんと望み奉る。すなわちわれらは、世の腐敗せる風俗、むくなる青少年の霊魂を堕落のふちに導く誘惑、聖日(せいじつ)の無視、主ならびに主の諸聖人に向けらるる不敬の言葉、主の代理者たる教皇を始め、すべての司祭職に対してなさるる侮辱、至聖(しせい)なる愛の秘蹟(ひせき)に対する無関心と恐るべきとくせい、主のさだめ給いし、公教会の権利と権威とにさからう、社会の公然の不義の如き、悲しむべき種々の罪を、あまねく償い奉らんと欲す。ああかくの如き罪をば、われらの血潮(ちしお)もてことごとく洗い浄(きよ)めんとすべもがな。われら今ここに、主のいと高き御霊威(ごれいい)に対する冒辱(ぼうじょく)の償いとして、主がかつて十字架の上にて御父(おんちち)に献(ささ)げ給い、なお日ごと祭壇の上にて繰り返し給う償いに、童貞なる聖母、諸聖人、およびすべての信心深き信者の償いを合わせて献げ奉り、堅固(けんご)なる信仰、汚れなき生活、福音の戒め、ことに愛徳(あいとく)の完全なる実行をもつて、主の聖寵(せいちょう)の助けのもとに、われらおよび全人類の罪と、主の大いなる御慈しみ(おんいつくしみ)に対する冷淡とを、わが力の及ばん限り償い、全力を尽して、主に対する罪人(つみびと)の冒辱(ぼうじょく)を防ぎ、かつ能(あた)う限り多くの人々を、主の御許(おんもと)に呼び集めんと心より約束し奉る。いと慈悲深きイエズスよ、願わくは、至聖(しせい)童貞なる協償者(きょうしょうしゃ)マリアの御取次(おんとりつぎ)によりて、われらが進みて献げ奉る償いの約束を受け給いて、われらをして死にいたるまで忠実に主に仕え、天のふるさとにいたる日まで、この決心を固く保たしめ給え。聖父(ちち)と聖霊と共に世々に生きかつしろしめし給う主なるかな。アーメン。





--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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