2019年2月2日(初土)童貞聖マリアの御潔めの祝日のミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
【ロウソク行列の前の説明】
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は童貞聖マリア様の御潔めの祝日です。ミサの前に、ロウソクの祝別と、ロウソク行列があります。
簡単に説明をします。
この「ロウソク」というのは、「イエズス様」です。そして今日私たちはシメオンとなって、聖殿において、主の、人となった天主の憐れみを受け取ります。このロウソクを持って、この御聖堂から出て、一周回ってからまた戻ります。それは、「この地上での、イエズス様と共にこの地上で生活して、天国にまた行くのだ」という意味です。
では儀式が始まります。
【説教】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の御潔めの祝日です。そこで、この御潔めの祝日の中に深く入る事に致しましょう。
今日の御潔めの祝日には、2つの重大な、重要な要素があります。
1つは、御降誕から始まって、人類が救い主を迎え受けたという、人類が救い主と出会ったという事が、今日クライマックスになります。
御降誕の時には、救い主イエズス様、人となった全能の天主、救い主、約束されたメシアは、マリア様と聖ヨゼフ様、そして選ばれた野宿していた羊飼いたち、牧場の牧者たちに知らされました。少数の人々に知らされました。
御公現には、エルサレムがそれを知りました。光の町として輝いて、そして異邦人の人々も群れをなして、ラクダを連れて、お土産を持って、預言された通り、救い主を拝み、礼拝しにやって来ました。
そして今日、選ばれた民の熱心な人々に、そして私たちの手に、私たちの心に、救い主がお越しになります。そればかりではなく、私たちはその救い主を持って、教会の外を回りました。そして「救い主は真に生まれた。私たちの元にいる」という事を証して、また天国の象徴であるこの御聖堂に戻ってきました。入祭誦で、戻った時に入祭誦でこう歌いました、「教会の真ん中で、人となった天主の憐れみを、私たちは受けた。」
私たちがロウソクを受けたという事は、ちょうどシメオンがイエズス様を、神殿の真ん中で、救い主だと認めてマリア様の手から受けたように、「私たちは確かに、救い主を受けた。」
そして行列の最中の時には、“Adorna thalamum”「だから私たちは主と一致した。天主イエズス様は私たちの花婿、私たちは花嫁で、イエズス様と私たちはこれでこの出会いを受けて、もう決して離れる事がないように、その花嫁の部屋をさぁ飾れ。そして王であるキリストを受ける準備をせよ、受けよ」と歌います。
そう歌いながら私たちは、この世の人々にイエズス様の光を照らしながら、人々に言います、「私たちの救い主は来られた。王であるキリストを受けよ。私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、私たちの寝室にイエズス様が入るように、それを綺麗に飾れ。」
ちょうどこの私たちがロウソクを受けたのは、また洗礼の時に受けたロウソクを思い出させます。教会は私たちに毎年1回、このロウソクの、御潔めのロウソクを受けさせて、「イエズス様を受けた」「イエズス様の花嫁になった」「イエズス様の子供になった」という事を思い出させます。「悪魔の支配の手から逃れて、天主の子供となった」という事を思い出させます。「そしてその事を世の人々に知らせるように」と招いています。
こうして今日私たちが書簡書で読んだ、マラキアの預言が実現した事を記念します、「支配者が来るだろう。すぐに来るだろう。そして契約の使者が神殿に来るだろう」という事を、「それが実現した」という事を私たちは記念します。確かにイエズス・キリストは、預言を全て成就された御方です。
第2の要素は、最初クリスマスの時には私たちは、「世の光であるイエズス様がお生まれになった」という事を祝いましたが、それは馬小屋で照らされていました。
そしてこの光は今度は御公現の時には、エルサレムを照らします。
ところが今日は、御降誕から40日後のお潔めの時には、光である新しい光、栄光の光の王であるイエズス様は、全世界を輝かせようと、全世界に光ろうと御望みになります。
そのイエズス様の光は、真の真理の光は、愛徳の光は、憐れみの光は、全世界を輝き出さなければなりません。これがイエズス様の御望みです。それがこの典礼の光がますます広がっていく様子を表しています。ですから私たちは今日、ロウソクをただ受けたのみならず、それを持ってこの世を輝かし出しました。
この2つの要素を見ると、私たちはどんな事を今日は思わなければならないのでしょうか?
よく考えてみると、イエズス様の御望みというのは、「御自分が真の救い主であるという事を世に知らせて、そして多くの人が、できれば全ての人が、その光を受け入れて、その光を認めて、天国にへと入る」そして「イエズス様が御血を流された全ての霊魂たちが、イエズス様を花婿として自分の寝室に迎え入れて、イエズス様をお愛しする、イエズス様を救い主として、その御血の潔めを受ける、その御血によって罪を赦される」それを御望みであるという事が分かります。「その真理の光が、愛の光が全世界に輝かされる」という事を御望みであるという事がよく分かります。
そしてその為にイエズス様は、私たちをお使いになりたいと思っているのです。つまり、私たちは道具にならなければなりません。
カトリックの司祭を見て下さい。カトリックの司祭は、単なる道具にすぎません。なぜ単なる道具かというと、カトリックの司祭がいくら逆立ちをしても、いくら何をしても、イエズス様の御恵みがなければ、何もする事ができません。いくら綺麗な話をしても、イエズス様の御恵みがなければ、人の心に響くところはありません。いくら綺麗な祭服を着て、いくら綺麗な言葉を話しても、御恵みがなければ、イエズス様が働かなければ、超自然の命を与えて下さらなければ、何もできません。ですから道具にすぎません。
しかしイエズス様は、この道具がなければミサをする事もできないし、道具がなければ洗礼を授ける事も、あるいはイエズス様の御言葉を伝える事も、あるいはこの道具がなければ、御聖体として私たちと共に居る事もできません。この道具を通して、霊魂を救おうと、永遠の命を救おうと思っています。ですからイエズス様は、非常に深い知恵を以って、この儚い人間というものを使って、永遠の命を救おうと御望みになりました。
もしもこの道具が、「イエズス様の仕事をするのが嫌だ!」と言えば、それによって永遠の地獄に落ちてしまう人が存在します。この道具が道具として使われるのを拒否したが為に、救われない人々もいるという事です。それにもかかわらず、その道具を使う事を御望みになりました。
もしも私たちが、「このロウソクを持って行くのは、ちょっと嫌だ」と言えば、その光を見ない人がいます。それと同じように、私たちに道具になるように御望みになっています。ちょうど私たちはピアノのオルガンのようです。イエズス様が演奏者ですから、素晴らしいオルガニストです。世界最高の音楽を演奏する事ができるオルガニストです。しかし素晴らしい最高のオルガニストも、オルガンがなければ何もする事ができません。どうしてもオルガンが必要です。どんなに安いものでも、鍵盤だけでも、最高の何百万円もするようなものでなくても、ちゃちなものでも必要です。
もしかしたら私たちは、道具としてあまりにも惨めで、みすぼらしくて、本当なら半音の黒い所が欠けていたり、あるいはちょっと音が外れている鍵盤もあるかもしれませんが、しかし最高のオルガニストであるイエズス様は、その音が外れているのもよく知っているので、どこが外れているか、どこが無いかを知っているので、あたかも最高のオルガンであるかのように弾く事が、演奏する事ができます。
イエズス様の能力は、どのような、この世の目から見るとスタンダードから見ると、「何でこんな道具を?」というようなみすぼらしいものを使って、最高の作品を、最高の結果を出す事ができるほどのアーティストであって、演奏者であって、そしてその道具を支配する事ができる使う事ができる有能な天主です。
しかしそれにもかかわらず、どうしても道具が必要なのです。唯一私たちに求められている事は、「道具となる」という事を、「イエズス様の御望みのままに使われる」という事をイエズス様が、ちょうど私たちが、典礼が要求するように、「さぁ、外に出て行列をしなさい」と言えば、「はい」と言って、そのままやったように、イエズス様が御望みのように、私たちがする、それだけが必要です。
いつも「道具である」という事を自覚していなければなりません。しかし私たちの本性はあまりにも自分中心なので、非常にしばしば、そしてすぐに私たちは「道具である」という事を忘れてしまいます。あたかも自分がやっているかのように、あたかも自分が中心であって、自分が、ピアノの演奏家よりもピアノの方が価値があるかのように、何の為に存在しているかを忘れてしまいます。ちょうど花瓶がお花の為にあるのだけれども、でもお花の事は全く忘れて、みすぼらしい花瓶が偉ぶっているかのようです。演奏者があまりにも素晴らしいという事を忘れて、半分壊れたようなオルガンが偉ぶっているかのようです。
しかし、私たちがいつも「イエズス様の道具である」という事を思えば思うほど、「素直であろう」と思えば、「従順であろう」と思えば思うほど、「イエズス様の御望みを叶わせよう」と思えば思うほど、私たちはその道具として素晴らしい結果を、多くの霊魂を光り輝かす事ができますし、そしてそれに感動を与える事もできますし、イエズス様へと引き寄せる事もできますし、イエズス様の平和と喜びを伝える事ができます。
つまり私たちは、「イエズス様の道具となる」というものすごい栄誉を持っている、という事です。考えてもみて下さい。もしも日本の特命大使として、日本の名前の為に、何か日本政府によって特別に依頼されて、任命されて外国に行って、あるいはトランプ大統領に会った、あるいは他の人と会った、「日本の特命大使です。政府からそれを受けてます。」何という名誉でしょうか。私たちはその大使として、特別の依頼を受けています。イエズス様の、王の王である救い主の大使として、この道具として、イエズス様の名前によって、イエズス様御自身を、私たちではなくイエズス様を輝かせるように、イエズス様を運ぶように。
もちろんミサの前に行列するのは簡単でしたが、「それを、私たちが天国に行く日まで、 イエズス様を持って、イエズス様の光と愛の炎を輝かせながら、この地上を歩きなさい。いつもイエズス様の道具である事を意識しなさい。」素晴らしい使命を与えられています。
今日、私たちはシメオンとなりましたから、このイエズス様を決して離す事なく、天国に行く日まで、この光を守らなければなりません。
その秘訣は、マリア様です。マリア様は終わりまでこのようになさいました。マリア様が私たちを助けて下さいますように、汚れなき御心のマリア様に、それができるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
そう歌いながら私たちは、この世の人々にイエズス様の光を照らしながら、人々に言います、「私たちの救い主は来られた。王であるキリストを受けよ。私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、私たちの寝室にイエズス様が入るように、それを綺麗に飾れ。」
ちょうどこの私たちがロウソクを受けたのは、また洗礼の時に受けたロウソクを思い出させます。教会は私たちに毎年1回、このロウソクの、御潔めのロウソクを受けさせて、「イエズス様を受けた」「イエズス様の花嫁になった」「イエズス様の子供になった」という事を思い出させます。「悪魔の支配の手から逃れて、天主の子供となった」という事を思い出させます。「そしてその事を世の人々に知らせるように」と招いています。
こうして今日私たちが書簡書で読んだ、マラキアの預言が実現した事を記念します、「支配者が来るだろう。すぐに来るだろう。そして契約の使者が神殿に来るだろう」という事を、「それが実現した」という事を私たちは記念します。確かにイエズス・キリストは、預言を全て成就された御方です。
第2の要素は、最初クリスマスの時には私たちは、「世の光であるイエズス様がお生まれになった」という事を祝いましたが、それは馬小屋で照らされていました。
そしてこの光は今度は御公現の時には、エルサレムを照らします。
ところが今日は、御降誕から40日後のお潔めの時には、光である新しい光、栄光の光の王であるイエズス様は、全世界を輝かせようと、全世界に光ろうと御望みになります。
そのイエズス様の光は、真の真理の光は、愛徳の光は、憐れみの光は、全世界を輝き出さなければなりません。これがイエズス様の御望みです。それがこの典礼の光がますます広がっていく様子を表しています。ですから私たちは今日、ロウソクをただ受けたのみならず、それを持ってこの世を輝かし出しました。
この2つの要素を見ると、私たちはどんな事を今日は思わなければならないのでしょうか?
よく考えてみると、イエズス様の御望みというのは、「御自分が真の救い主であるという事を世に知らせて、そして多くの人が、できれば全ての人が、その光を受け入れて、その光を認めて、天国にへと入る」そして「イエズス様が御血を流された全ての霊魂たちが、イエズス様を花婿として自分の寝室に迎え入れて、イエズス様をお愛しする、イエズス様を救い主として、その御血の潔めを受ける、その御血によって罪を赦される」それを御望みであるという事が分かります。「その真理の光が、愛の光が全世界に輝かされる」という事を御望みであるという事がよく分かります。
そしてその為にイエズス様は、私たちをお使いになりたいと思っているのです。つまり、私たちは道具にならなければなりません。
カトリックの司祭を見て下さい。カトリックの司祭は、単なる道具にすぎません。なぜ単なる道具かというと、カトリックの司祭がいくら逆立ちをしても、いくら何をしても、イエズス様の御恵みがなければ、何もする事ができません。いくら綺麗な話をしても、イエズス様の御恵みがなければ、人の心に響くところはありません。いくら綺麗な祭服を着て、いくら綺麗な言葉を話しても、御恵みがなければ、イエズス様が働かなければ、超自然の命を与えて下さらなければ、何もできません。ですから道具にすぎません。
しかしイエズス様は、この道具がなければミサをする事もできないし、道具がなければ洗礼を授ける事も、あるいはイエズス様の御言葉を伝える事も、あるいはこの道具がなければ、御聖体として私たちと共に居る事もできません。この道具を通して、霊魂を救おうと、永遠の命を救おうと思っています。ですからイエズス様は、非常に深い知恵を以って、この儚い人間というものを使って、永遠の命を救おうと御望みになりました。
もしもこの道具が、「イエズス様の仕事をするのが嫌だ!」と言えば、それによって永遠の地獄に落ちてしまう人が存在します。この道具が道具として使われるのを拒否したが為に、救われない人々もいるという事です。それにもかかわらず、その道具を使う事を御望みになりました。
もしも私たちが、「このロウソクを持って行くのは、ちょっと嫌だ」と言えば、その光を見ない人がいます。それと同じように、私たちに道具になるように御望みになっています。ちょうど私たちはピアノのオルガンのようです。イエズス様が演奏者ですから、素晴らしいオルガニストです。世界最高の音楽を演奏する事ができるオルガニストです。しかし素晴らしい最高のオルガニストも、オルガンがなければ何もする事ができません。どうしてもオルガンが必要です。どんなに安いものでも、鍵盤だけでも、最高の何百万円もするようなものでなくても、ちゃちなものでも必要です。
もしかしたら私たちは、道具としてあまりにも惨めで、みすぼらしくて、本当なら半音の黒い所が欠けていたり、あるいはちょっと音が外れている鍵盤もあるかもしれませんが、しかし最高のオルガニストであるイエズス様は、その音が外れているのもよく知っているので、どこが外れているか、どこが無いかを知っているので、あたかも最高のオルガンであるかのように弾く事が、演奏する事ができます。
イエズス様の能力は、どのような、この世の目から見るとスタンダードから見ると、「何でこんな道具を?」というようなみすぼらしいものを使って、最高の作品を、最高の結果を出す事ができるほどのアーティストであって、演奏者であって、そしてその道具を支配する事ができる使う事ができる有能な天主です。
しかしそれにもかかわらず、どうしても道具が必要なのです。唯一私たちに求められている事は、「道具となる」という事を、「イエズス様の御望みのままに使われる」という事をイエズス様が、ちょうど私たちが、典礼が要求するように、「さぁ、外に出て行列をしなさい」と言えば、「はい」と言って、そのままやったように、イエズス様が御望みのように、私たちがする、それだけが必要です。
いつも「道具である」という事を自覚していなければなりません。しかし私たちの本性はあまりにも自分中心なので、非常にしばしば、そしてすぐに私たちは「道具である」という事を忘れてしまいます。あたかも自分がやっているかのように、あたかも自分が中心であって、自分が、ピアノの演奏家よりもピアノの方が価値があるかのように、何の為に存在しているかを忘れてしまいます。ちょうど花瓶がお花の為にあるのだけれども、でもお花の事は全く忘れて、みすぼらしい花瓶が偉ぶっているかのようです。演奏者があまりにも素晴らしいという事を忘れて、半分壊れたようなオルガンが偉ぶっているかのようです。
しかし、私たちがいつも「イエズス様の道具である」という事を思えば思うほど、「素直であろう」と思えば、「従順であろう」と思えば思うほど、「イエズス様の御望みを叶わせよう」と思えば思うほど、私たちはその道具として素晴らしい結果を、多くの霊魂を光り輝かす事ができますし、そしてそれに感動を与える事もできますし、イエズス様へと引き寄せる事もできますし、イエズス様の平和と喜びを伝える事ができます。
つまり私たちは、「イエズス様の道具となる」というものすごい栄誉を持っている、という事です。考えてもみて下さい。もしも日本の特命大使として、日本の名前の為に、何か日本政府によって特別に依頼されて、任命されて外国に行って、あるいはトランプ大統領に会った、あるいは他の人と会った、「日本の特命大使です。政府からそれを受けてます。」何という名誉でしょうか。私たちはその大使として、特別の依頼を受けています。イエズス様の、王の王である救い主の大使として、この道具として、イエズス様の名前によって、イエズス様御自身を、私たちではなくイエズス様を輝かせるように、イエズス様を運ぶように。
もちろんミサの前に行列するのは簡単でしたが、「それを、私たちが天国に行く日まで、 イエズス様を持って、イエズス様の光と愛の炎を輝かせながら、この地上を歩きなさい。いつもイエズス様の道具である事を意識しなさい。」素晴らしい使命を与えられています。
今日、私たちはシメオンとなりましたから、このイエズス様を決して離す事なく、天国に行く日まで、この光を守らなければなりません。
その秘訣は、マリア様です。マリア様は終わりまでこのようになさいました。マリア様が私たちを助けて下さいますように、汚れなき御心のマリア様に、それができるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。