Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【再掲】2019年2月2日(初土) 童貞聖マリアの御潔めの祝日 説教 「ローソクと行列、御潔めの祝日の意味」

2021年02月01日 | お説教・霊的講話
2019年2月2日(初土)童貞聖マリアの御潔めの祝日のミサ
小野田神父 説教


【ロウソク行列の前の説明】
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は童貞聖マリア様の御潔めの祝日です。ミサの前に、ロウソクの祝別と、ロウソク行列があります。

簡単に説明をします。
この「ロウソク」というのは、「イエズス様」です。そして今日私たちはシメオンとなって、聖殿において、主の、人となった天主の憐れみを受け取ります。このロウソクを持って、この御聖堂から出て、一周回ってからまた戻ります。それは、「この地上での、イエズス様と共にこの地上で生活して、天国にまた行くのだ」という意味です。
では儀式が始まります。

【説教】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の御潔めの祝日です。そこで、この御潔めの祝日の中に深く入る事に致しましょう。

今日の御潔めの祝日には、2つの重大な、重要な要素があります。

1つは、御降誕から始まって、人類が救い主を迎え受けたという、人類が救い主と出会ったという事が、今日クライマックスになります。

御降誕の時には、救い主イエズス様、人となった全能の天主、救い主、約束されたメシアは、マリア様と聖ヨゼフ様、そして選ばれた野宿していた羊飼いたち、牧場の牧者たちに知らされました。少数の人々に知らされました。

御公現には、エルサレムがそれを知りました。光の町として輝いて、そして異邦人の人々も群れをなして、ラクダを連れて、お土産を持って、預言された通り、救い主を拝み、礼拝しにやって来ました。

そして今日、選ばれた民の熱心な人々に、そして私たちの手に、私たちの心に、救い主がお越しになります。そればかりではなく、私たちはその救い主を持って、教会の外を回りました。そして「救い主は真に生まれた。私たちの元にいる」という事を証して、また天国の象徴であるこの御聖堂に戻ってきました。入祭誦で、戻った時に入祭誦でこう歌いました、「教会の真ん中で、人となった天主の憐れみを、私たちは受けた。」

私たちがロウソクを受けたという事は、ちょうどシメオンがイエズス様を、神殿の真ん中で、救い主だと認めてマリア様の手から受けたように、「私たちは確かに、救い主を受けた。」

そして行列の最中の時には、“Adorna thalamum”「だから私たちは主と一致した。天主イエズス様は私たちの花婿、私たちは花嫁で、イエズス様と私たちはこれでこの出会いを受けて、もう決して離れる事がないように、その花嫁の部屋をさぁ飾れ。そして王であるキリストを受ける準備をせよ、受けよ」と歌います。

そう歌いながら私たちは、この世の人々にイエズス様の光を照らしながら、人々に言います、「私たちの救い主は来られた。王であるキリストを受けよ。私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、私たちの寝室にイエズス様が入るように、それを綺麗に飾れ。」

ちょうどこの私たちがロウソクを受けたのは、また洗礼の時に受けたロウソクを思い出させます。教会は私たちに毎年1回、このロウソクの、御潔めのロウソクを受けさせて、「イエズス様を受けた」「イエズス様の花嫁になった」「イエズス様の子供になった」という事を思い出させます。「悪魔の支配の手から逃れて、天主の子供となった」という事を思い出させます。「そしてその事を世の人々に知らせるように」と招いています。

こうして今日私たちが書簡書で読んだ、マラキアの預言が実現した事を記念します、「支配者が来るだろう。すぐに来るだろう。そして契約の使者が神殿に来るだろう」という事を、「それが実現した」という事を私たちは記念します。確かにイエズス・キリストは、預言を全て成就された御方です。

第2の要素は、最初クリスマスの時には私たちは、「世の光であるイエズス様がお生まれになった」という事を祝いましたが、それは馬小屋で照らされていました。
そしてこの光は今度は御公現の時には、エルサレムを照らします。
ところが今日は、御降誕から40日後のお潔めの時には、光である新しい光、栄光の光の王であるイエズス様は、全世界を輝かせようと、全世界に光ろうと御望みになります。

そのイエズス様の光は、真の真理の光は、愛徳の光は、憐れみの光は、全世界を輝き出さなければなりません。これがイエズス様の御望みです。それがこの典礼の光がますます広がっていく様子を表しています。ですから私たちは今日、ロウソクをただ受けたのみならず、それを持ってこの世を輝かし出しました。

この2つの要素を見ると、私たちはどんな事を今日は思わなければならないのでしょうか?

よく考えてみると、イエズス様の御望みというのは、「御自分が真の救い主であるという事を世に知らせて、そして多くの人が、できれば全ての人が、その光を受け入れて、その光を認めて、天国にへと入る」そして「イエズス様が御血を流された全ての霊魂たちが、イエズス様を花婿として自分の寝室に迎え入れて、イエズス様をお愛しする、イエズス様を救い主として、その御血の潔めを受ける、その御血によって罪を赦される」それを御望みであるという事が分かります。「その真理の光が、愛の光が全世界に輝かされる」という事を御望みであるという事がよく分かります。

そしてその為にイエズス様は、私たちをお使いになりたいと思っているのです。つまり、私たちは道具にならなければなりません。

カトリックの司祭を見て下さい。カトリックの司祭は、単なる道具にすぎません。なぜ単なる道具かというと、カトリックの司祭がいくら逆立ちをしても、いくら何をしても、イエズス様の御恵みがなければ、何もする事ができません。いくら綺麗な話をしても、イエズス様の御恵みがなければ、人の心に響くところはありません。いくら綺麗な祭服を着て、いくら綺麗な言葉を話しても、御恵みがなければ、イエズス様が働かなければ、超自然の命を与えて下さらなければ、何もできません。ですから道具にすぎません。

しかしイエズス様は、この道具がなければミサをする事もできないし、道具がなければ洗礼を授ける事も、あるいはイエズス様の御言葉を伝える事も、あるいはこの道具がなければ、御聖体として私たちと共に居る事もできません。この道具を通して、霊魂を救おうと、永遠の命を救おうと思っています。ですからイエズス様は、非常に深い知恵を以って、この儚い人間というものを使って、永遠の命を救おうと御望みになりました。

もしもこの道具が、「イエズス様の仕事をするのが嫌だ!」と言えば、それによって永遠の地獄に落ちてしまう人が存在します。この道具が道具として使われるのを拒否したが為に、救われない人々もいるという事です。それにもかかわらず、その道具を使う事を御望みになりました。

もしも私たちが、「このロウソクを持って行くのは、ちょっと嫌だ」と言えば、その光を見ない人がいます。それと同じように、私たちに道具になるように御望みになっています。ちょうど私たちはピアノのオルガンのようです。イエズス様が演奏者ですから、素晴らしいオルガニストです。世界最高の音楽を演奏する事ができるオルガニストです。しかし素晴らしい最高のオルガニストも、オルガンがなければ何もする事ができません。どうしてもオルガンが必要です。どんなに安いものでも、鍵盤だけでも、最高の何百万円もするようなものでなくても、ちゃちなものでも必要です。

もしかしたら私たちは、道具としてあまりにも惨めで、みすぼらしくて、本当なら半音の黒い所が欠けていたり、あるいはちょっと音が外れている鍵盤もあるかもしれませんが、しかし最高のオルガニストであるイエズス様は、その音が外れているのもよく知っているので、どこが外れているか、どこが無いかを知っているので、あたかも最高のオルガンであるかのように弾く事が、演奏する事ができます。

イエズス様の能力は、どのような、この世の目から見るとスタンダードから見ると、「何でこんな道具を?」というようなみすぼらしいものを使って、最高の作品を、最高の結果を出す事ができるほどのアーティストであって、演奏者であって、そしてその道具を支配する事ができる使う事ができる有能な天主です。

しかしそれにもかかわらず、どうしても道具が必要なのです。唯一私たちに求められている事は、「道具となる」という事を、「イエズス様の御望みのままに使われる」という事をイエズス様が、ちょうど私たちが、典礼が要求するように、「さぁ、外に出て行列をしなさい」と言えば、「はい」と言って、そのままやったように、イエズス様が御望みのように、私たちがする、それだけが必要です。

いつも「道具である」という事を自覚していなければなりません。しかし私たちの本性はあまりにも自分中心なので、非常にしばしば、そしてすぐに私たちは「道具である」という事を忘れてしまいます。あたかも自分がやっているかのように、あたかも自分が中心であって、自分が、ピアノの演奏家よりもピアノの方が価値があるかのように、何の為に存在しているかを忘れてしまいます。ちょうど花瓶がお花の為にあるのだけれども、でもお花の事は全く忘れて、みすぼらしい花瓶が偉ぶっているかのようです。演奏者があまりにも素晴らしいという事を忘れて、半分壊れたようなオルガンが偉ぶっているかのようです。

しかし、私たちがいつも「イエズス様の道具である」という事を思えば思うほど、「素直であろう」と思えば、「従順であろう」と思えば思うほど、「イエズス様の御望みを叶わせよう」と思えば思うほど、私たちはその道具として素晴らしい結果を、多くの霊魂を光り輝かす事ができますし、そしてそれに感動を与える事もできますし、イエズス様へと引き寄せる事もできますし、イエズス様の平和と喜びを伝える事ができます。

つまり私たちは、「イエズス様の道具となる」というものすごい栄誉を持っている、という事です。考えてもみて下さい。もしも日本の特命大使として、日本の名前の為に、何か日本政府によって特別に依頼されて、任命されて外国に行って、あるいはトランプ大統領に会った、あるいは他の人と会った、「日本の特命大使です。政府からそれを受けてます。」何という名誉でしょうか。私たちはその大使として、特別の依頼を受けています。イエズス様の、王の王である救い主の大使として、この道具として、イエズス様の名前によって、イエズス様御自身を、私たちではなくイエズス様を輝かせるように、イエズス様を運ぶように。

もちろんミサの前に行列するのは簡単でしたが、「それを、私たちが天国に行く日まで、 イエズス様を持って、イエズス様の光と愛の炎を輝かせながら、この地上を歩きなさい。いつもイエズス様の道具である事を意識しなさい。」素晴らしい使命を与えられています。

今日、私たちはシメオンとなりましたから、このイエズス様を決して離す事なく、天国に行く日まで、この光を守らなければなりません。

その秘訣は、マリア様です。マリア様は終わりまでこのようになさいました。マリア様が私たちを助けて下さいますように、汚れなき御心のマリア様に、それができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






【再掲】Adorna thalamum tuum, Sion(シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ)の歌詞とその日本語訳

2021年02月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 Adorna thalamum tuum, Sion(シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ)の歌詞とその日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών,
Adorna thalamum tuum, Sion,
シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ

καὶ ὑπόδεξαι τὸν Βασιλέα Χριστόν,
et suscipe Regem Christum:
しかして王たるキリストを迎え入れよ

ἄσπασαι τὴν Μαριάμ, τὴν ἐπουράνιον πύλην·
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
天の門なるマリアを抱擁せよ

αὕτη γὰρ (θρόνος Χερουβικὸς ἀνεδείχθη,
αὕτη) βαστάζει τὸν Βασιλέα τῆς δόξης, νεφέλη φωτὸς
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い

ὑπάρχει ἡ Παρθένος, φέρουσα ἐν σαρκὶ Υἱὸν πρὸ Ἑωσφόρου,
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う

ὃν λαβὼν Συμεὼν ἐν ἀγκάλαις αὐτοῦ ἐκήρυξε λαοῖς, Δεσπότην αὐτὸν
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり

εἶναι, ζωῆς καὶ τοῦ θανάτου, καὶ Σωτῆρα τοῦ κόσμου.
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。


霊的な生ぬるさに冒された霊魂にはどのような特徴があるか

2021年02月01日 | お説教・霊的講話
家の主人とぶどう畑のたとえについての短い説教(七旬節)

ドモルネ神父様

本日の福音のたとえについて少し考察しましょう。

1.福音のたとえの提示

家の主人は天主です。ぶどうの木は、二つのものを意味しています。まず、集会書が言っているように、私たちの霊魂のことです。「ぶどうの木として、私は心地よい香りをもたらした」(集会書24章23節)。

もう一つは、聖グレゴリオが言っているように、教会のことです(詩篇79章9節参照)。働く人を雇うために出かける家の主人は、愛徳というぶどう酒を造るために、私たちの霊魂を育て、教会で働くように私たちをお召しになっている天主であり、この愛徳によって、天主はすべてに超えて愛され、ほめたたえられるのです。働く人に与えられる賃金は、永遠の幸福という報酬です。

2.私たちの審判の基準

夕方に来た働く人は、朝から働いていた人たちと同じ賃金をもらいましたが、それは、彼らが最初の人たちよりも天主への奉仕に熱心で寛大だったからです。このことは、私たちの主イエズス・キリストの審判が、私たちの奉仕の長さよりも、私たちが天主のために尽くす熱意と完徳にかかるであろうことを示しています。

若い頃から天主の掟を守りながらも、福音的勧告の道において私たちの主に従うことを拒んだ金持ちの若者の態度と、公の罪人でありながら、回心後は十字架まで忠実に主に従った聖マリア・マグダレナの態度を思い出し、比較してみてください。

3.生ぬるさへの警告

本日の書簡と福音を通して、教会は私たちを霊的な熱意へ向かうよう奨励し、霊的な生ぬるさに陥らないよう警告しようと望んでいます。

霊的な生ぬるさに冒された霊魂にはどのような特徴があるでしょうか。それは、福音に不満を持った働く人に見られるものです。天主への生き生きとした内的な愛を持たずに、外見上の宗教的な義務を果たしていること、善き主が私たちに要求なさったことが難しくて疲れることを不満に思っていること、善き主が私たちに報酬として決して十分には与えてくださらないことを不満に思っていること、天主と隣人のために寛大かつ飽くことなく献身している人々をうらやましく、妬ましく思うことです。

4.霊的な生ぬるさへの薬

このような生ぬるさから抜け出すためにはどうすればよいのでしょうか。私たちは、このたとえの中で最後に来た働く人たちが示していることをまねるべきです。それは、天主に対して善意を捧げること、自分は役に立たないしもべであり、天国に招かれるにふさわしくないことをしばしば思い起こして謙遜でいること、他人から何の評価も期待せずに、彼らのために働いて助けること、聖パウロの言葉「受けるよりも与えることに幸せがある」(使徒行録20章35節)を思い起こすことです。

最後に、何よりも私たちの主イエズスのご受難をしばしば黙想することです。そこでは、愛徳の火が非常に強いため、私たち自身が火の中に入らずには近づけません。そこでは、私たちの主の寛大さは非常に英雄的であるため、私たちは自分の自己中心を恥じることしかできません。

共同受難の聖母が、天主への奉仕にさらに熱心であるよう私たちを導いてくださいますように。アーメン。




ドモルネ神父の「信仰に関する近代主義者の原理についての説教」

2021年02月01日 | お説教・霊的講話
御公現後第三主日 

信仰に関する近代主義者の原理についての説教

ドモルネ神父様

はじめに

本日の福音で、教会は私たちに、私たちの主イエズス・キリストの超越性について考えさせます。

主はらい病人を奇跡的に癒やされ、百夫長が主の前で深い敬意の念を持ってへりくだり、主は主の神性に信仰を持たない者は誰であれ地獄に落ちると宣言なさったのです。これらすべてのことは、私たちのうちに、私たちの主イエズスに対する畏敬の念を呼び起こすのにふさわしく、同時に私たちに対する主の大いなる御あわれみを示しています。

今日、私たちは、ひざまずいてご聖体を受けることを禁じる司教や司祭がいるというところまで来たカトリック教会を含めて、私たちの主イエズス・キリストがどれほどこの世で軽んじられているかを考えると、どのようにしてこのような状況にまで来てしまったのだろうかと思うかもしれません。

福音の百夫長の態度と、あまりにも多くの聖職者やカトリック信徒による私たちの主に対する態度は、完全に二分されています。前者には深い敬意とへりくだりがあり、後者には不注意と愚かな傲慢があります。その理由は、カトリックの聖職者と信者の多くを駄目にしてしまった近代主義の異端にあるのです。

1.不可知論

この異端の出発点は不可知論です。「不可知論」(Agnosticism)とは、否定を意味する「A」と、知るという行為を意味する「gnosis」に由来しています。したがって、「
Agnosticism 不可知論」とは、「知ることができない」ことを意味します。不可知論とは、自分の外にあるものを知ることができないという誤った考えです。
不可知論によれば、私たちは知覚や感覚を持っていますが、現実には何であるのかを知ることはできないとされます。例えば 、私が一切れの肉を見て、触って、匂いを嗅いで、食べます。私はさまざまな感覚を持っていて、私が見て、触って、匂いを嗅いで、食べるこの物体を「肉」と呼んでいるのですが、実際にはそれが現実に何なのか分からない、この物体が現実には何なのかを知ることができないと主張するのです。

多分、皆さんは、それは非常に奇妙な教えであると言うでしょうし、皆さんは正しいでしょう。なぜなら、それは不合理だからです! 誤謬には常に何らかの不合理がつきものです。だから、不可知論者にとって、私たちは自分自身の外側にあるものを知ることはできず、内面的に感じるものを知ることしかできないのです。言い換えれば、私たちは自分自身で考え、感じていること以外は何も知らないのです。ですから、不可知論者によれば、私たちは天主が存在するかどうかを知ることはできない、つまり、自分の周りにある被造物についての知識で推論し、それを使うことで天主が存在するかどうかを知ることはできないのです。

これは誤った教えです。なぜなら、人は自分の周りにあるものを本当に知り、この世にあるものを知ることによって天主を知るようになるからです。聖パウロはローマ人にこう言っています。「天主の不可見性は、世の創造の時以来、そのみわざについて考える人にとって見えるものである」(ローマ1章20節)。しかし、この不可知論こそが近代主義の教えの出発点なのです。

2.生命的内在

さて、第二段階に入ります。その問いはこうです。天主が存在するかどうかを、私たちの身の周りの被造物の知識で推論し、それを使うことで知ることが不可能であるならば、人間の生活における宗教の起源や存在をどのように説明することができるのでしょうか? 近代主義者の答えは、宗教とは、人間の霊魂の奥底に根ざした、ある種の自然な心の感情から来る生き方であり、知的な精神では触れることができないとされるのです。そして、その必要性は、人生におけるある決然とした好ましい状況の中で現れると答えています。

人間の霊魂の奥底から来るこの心の感情を、近代主義者たちは複雑な表現で「生命的内在」(Vital Immanence)と名付けました。つまり、この感情は人間の霊魂の中にひとりでに存在し、誰かや何かによって加えられるものではないのです。私たちは、宗教的生活のこの感情、この必要性を持って生まれてくるのです。

近代主義者のこの教えは誤りです。宗教が存在するのは、被造物である人間が創造主を敬うことが、自然で厳格な義務であるからです。

3.天主との一致は、生命的内在による(近代主義)

第三段階に移りましょう。近代主義者は、この生命的内在、この心の感情こそが天主との接点であると言います。私たちは理性では天主を知ることはできませんが、この心の感覚を通して天主に到達することができるのです。近代主義者によると、この感情を体験することによって、天主は天主ご自身を直接知らせてくださるのです。私たちがこの感情を経験したとき、私たちは信仰を持つことになります。

このようにして、近代主義者は、宗教を厳密に個人的で経験的な問題に矮小化します。近代主義者は、啓示をもはや天主から与えられ、教会によって伝達される客観的な教えではなく、人々の良心の中にある感情の表現とします。近代主義者は、信仰を、もはや天主から与えられた啓示を理性によって同意することではなく、宗教的な感情の経験とするのです。

4.近代主義による私たちの主イエズス・キリスト

こういったすべてにおいて、私たちの主イエズス・キリストについてはどうでしょうか?! さて、近代主義者によると、私たちの主は、実際にはただの人間であり、宗教的感情による無比の体験をした、並外れた才能のある人間であり、彼の死後、人々が彼の物語を理想化させ、天主の力と奇跡という並外れた行いを彼のものとする成功を収めて、彼の周りの人々に宗教的感情による無比の体験を感じさせました。そして、イエズスの宗教的な感覚の体験は、キリスト教と呼ばれる特定の宗教的な生き方を生んだのです。近代主義者によれば、「聖伝」とは、この経験の伝達を意味します。すなわち、イエズス・キリストが与えて下さった教えの伝達ではなく、イエズス・キリストが始められた宗教的感情の経験の伝達なのです。

このように、近代主義者は、私たちの主イエズス・キリストの神性を否定するようになり、キリスト教を宗教的な感情を経験する特殊な方法に過ぎないものとしてしまうのです。同じいのちの内在から来ているものとして、イスラム教、仏教、神道、ユダヤ教、ヒンドゥー教のような他の経験がありますが、近代主義者にとっては、すべてが根本的に同じなのです。近代主義者によれば、福音は、実際に起こり、多数の証人によって確認された事実を報告する歴史書ではなく、読み手の宗教的感情を刺激する意図を持つ黄金伝説にすぎないのです。

これらはすべて誤りであり、地上での私たちの主イエズス・キリストの統治を破壊しようと望む変質した心の実りでしかありません。本日の福音が私たちに思い起こさせてくれる単純な真理を、すぐに見てみましょう。

福音書は、イエズスが群衆に彼の教理の本質を説いた「山から下りられた」(マテオ8章1節)
と書いています。

このことは、私たちの主イエズスが私たちに、霊と真理によって聖三位一体を礼拝するよう教えられるために、また天国への道を教えられるために、地上に降りられた天主の御子であることを思い起こさせてくれます。らい病人と百夫長の中風の下男の二つの癒やしは、私たちの主イエズスが、霊的に中風を起こしていて自分では天国に行くことができない私たちを、私たちの罪というらい病から清め、私たちに天国に行く能力を与えてくださる唯一のお方であることを思い起こさせてくれます。

しかし、気を付けていただきたいのは、私たちの主イエズス・キリストが二人の病人を癒やされたのは、彼らが主の神性に対する信仰を持っていたからだということです。私たちの主は、主の神性を信じる者だけを癒やすことがおできになり、へりくだって知性を主の教えに委ね、意思を主の掟に委ねる者だけを癒やすことがおできになります。これは、天主が確立され、聖パウロが次のように表現した法です。「天主はイエズスを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみなひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『主イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章9〜11節)。ユダヤのファリザイ人のように、私たちの主イエズス・キリストの神性を公言することを頑なに拒む者は誰でも、地獄に落ちることになります。「国の子らは外の闇に投げ出され、そこで泣いて歯ぎしりするだろう」(マテオ8章12節)。

結論

愛する信徒の皆さん、近代主義の異端が世界中でカトリック信仰を癌のように破壊しつつあり、私たちの主イエズスが多くの司祭や司教によって裏切られ、主の神性とその権利がすべての国によって拒否されているこの困難な時代において、教会の招きに応じて、本日、福音の百夫長に霊的に一致しましょう。

イエズスの前にへりくだってひれ伏し、イエズスの神性に対する私たちの信仰と、いかなる犠牲を払っても死に至るまで快くイエズスに従うことを堅く宣言しましょう。

そうすれば、イエズスは私たちの罪を清めてくださり、イエズスに倣う力を与えてくださいます。陣立てを整えた軍隊のように強い無原罪のマリア様が、私たちの模範となり、私たちの星となり、この人生とこの近代主義との戦いの間、私たちの支えとなってくださいますように。アーメン。


近代主義について詳しく知るには、聖ピオ十世教皇の回勅をご覧下さい。





カトリック聖伝のミサの報告 東京 大阪 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka SSPX Japan

2021年02月01日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日、1月31日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計97人でした。大阪では25人でした。日本では、総計122人でした。天主様に感謝いたします。

天気もよく、多くの方々にとっては、ミサに与りやすかったのだと思います。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべも、大阪で午前のミサを行いました。ミサの直後には、聖体降福式も行いました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the 3 masses in Tokyo today was 97, including children.

09:00 mass
M: 18 (incl. 2 children)
F: 18 (incl. 2 children)
Total: 36 (incl. 4 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 4 children)
F: 21 (incl. 8 children)
Total: 40 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 12 (incl. 1 child)
F: 16 (incl. 2 children)
Total: 28 (incl. 3 children)

Total of 3 masses (excl. 7 people who participated in multiple masses)
M: 46 (incl. 7 children)
F: 51 (incl. 9 children)
Total: 97 (incl. 16 children)




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】