アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について
第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」
また
第2の願い「御国の来たらんことを」
さらに
第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」
第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え
第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」
また
第2の願い「御国の来たらんことを」
さらに
第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」
第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え
を既にご紹介いたしました。
今回は、その続き
第5の願い 我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え
についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第5の願い
我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え
159.天主の限りない力、およびこれに結び合わされた同じく無限の知恵と仁慈とを示す事物は枚挙のいとまがありませんが―事実、どこに目を向けようと、何に思いをはせようと、そのはかりしれぬ仁慈と寛仁とのきわめて確かな印を人は見出すのですが―、主イエズス・キリストの御受難の筆舌に尽くしがたい奥義ほど、天主の私たちに対する広大な愛と感嘆すべき愛徳をよりよく表すものはありません。実にこの奥義から、罪の汚れを洗い清める尽きることのない泉が湧き出たのですが、私たちは「我らの罪を赦し給え」と天主に祈って、主の導きと恵みによって、当の泉に浸かり、浄められことを願うのです。
160.この祈願は、主イエズス・キリストが人類にお与えになった諸々の利善のいわば「まとめ」とも言うべきものを含んでいますが、これはイザヤが「ヤコブの家の咎は赦されるであろう。そして彼らにとっての最たる利善は、その罪が取り去られる、ということである1」と述べて教えているところです。またダビドも「幸せなのは、その罪が赦された者2」と謳って、罪の赦しというこの恵みが、いかに比類なきものであるかを示しています。
161.したがって司牧者は、永遠の生命を得るためにかくも重要な当祈願の意味を、正確かつ入念に教示、解説せねばなりません。
162.この願いから、主祷文の祈りの新しい段階に入ります。なぜなら、これまでは天主から永遠かつ霊的な善のみならずはかない、地上での生活に属する利善を願ったのですが、これ以降は霊魂と身体の悪、現世および来世における悪を私たちの許から遠ざけてくださるよう願う[のだ]からです。
§ I. この祈願を為すために必要な心構え ―― 痛悔
163.しかるに願うものを得るためには、正しく願うことが必要であるため、どのような心構えで天主にこの祈願を為すかを述べるべきだと思われます。
司牧者は信徒に、この祈願を為すべく天主に近づこうとする者は、まず第一に自らの罪を認めることが必要であることを諭さねばなりません。次に、これを犯したことについて心から悔い、最後に、かかる心情を抱く罪人を天主が常にお赦しになる心づもりであるになることを、深く確信することです。それは、犯した罪の苦渋に満ちた回想と認知とが、私たちをしてカイン3とユダ4の心を満たした、赦しを得ることについての絶望に陥れることのないためです。実にこの両人は、天主がいかに柔和で憐れみ深い方であるかを悟らず、ただその中に報復者のみを認めたのでした。
164.したがって、この祈願を唱えるにあたって、私たちは自らの罪過を悔悛の心をもって認めつつ、裁き主ではなく父として天主の許にはせより、正義に即してではなく、憐れみによって私たちを処遇してくださるよう願うべきです。
165.天主が聖書をとおして私たちにお語りになる言葉に耳を傾けるならば、私たちは容易に己の罪を認めることとなります。事実、預言者ダビドは「皆迷い、皆腐敗しきった。善を為す者はただ一人としていない5」と述べ、同じくサロモンも、「一度も罪を犯さずに、善を行うほどの義人は、この世にはいない6」と言明し、また他の箇所では、「誰が『私の良心は清い、私には罪がない』と言えるだろうか7」と問うています。他方聖ヨハネは、人が傲慢心を抱かぬように、「罪がないと言うなら、それは、自分を偽っているのであって、真理は私たちの中にはない8」と記しています。また預言者エレミアは、「汝は『私には罪がない。したがって御身の怒りが我が身から遠ざからんことを』と言った。しかるに私は汝が『私は罪を犯さなかった』と述べたゆえにこそ、汝を裁くのである9」、という天主の御言葉を伝えています。
166.彼ら皆の口をとおしてお告げになったこの真理を、主キリストは、自分が罪人であることを告白する祈りを唱えることをお命じになって確証されておられます。事実、この祈願を他の意味に解することをミレヴァの公会議は次の判決文をもって禁じています。「もし誰かが、聖人らが主祷文中の「私らの罪を赦し給え」という祈願を唱える場合、これは謙遜の念からそう唱えるのであり、真実に即して唱えるものではない、と言うなら、当の者は排斥される。10」
実際誰が、祈りつつ、人にではなく、他ならぬ天主に偽りを言う者を我慢できるでしょうか。このような人は、口先では赦されることを望むと言いながら、内心では、赦されるべき罪などないと言うものだからです11。
167.しかるに、自らの罪の必要不可欠な認知のためには、ただ当の罪をざっと思い起こすだけでは充分ではありません。却ってかかる罪の記憶が私たちにとって苦渋に満ちたものであり、かつ心を刺し貫き、良心の呵責を催し、痛苦の念をかき立てることが必要です。
したがって、司牧者はこの点を信徒に説明するにあたり、彼らが単に自らの悪行と罪過を思い起こすにとどまらず、これらの過ちを悔やみ、悲しみつつ想起すべきであることを入念に諭さねばなりません。これは、かかる心奥の感情に心をしめつけられた彼らが、父なる天主に立ち返り、自が身に突き刺さった罪のトゲを引き抜いてくださるよう謙虚に願うためにです。
168.しかるに司牧者は罪の醜さのみならず、加えて人間の卑しさと汚れとを信徒に示さねばなりません。何となれば、腐った肉の塊、この上なく醜悪なものに過ぎない私たち人間は、あろうことか天主のはかり知れぬ御稜威とその名状しがたい卓越性とを、罪を犯すことをとおして、陵辱してはばからないのです。私たちを創り、贖い、解放し、かつ無数の比類なき恩典で満たしてくださった他ならぬこの天主に対してです!それは何のためでしょうか。至高の善である父なる天主から離れ、罪の恥ずべき報いに惹かれて、悪魔に対する悲惨きわまりない隷属状態に己が身を引き渡すためにです。しかるに、天主の甘美なくびきを払いのけ、父なる天主に私たちの精神を結びつける愛徳の絆を打ちほどき、非情きわまりない敵の配下に降った者らの霊魂を、どれほど残虐に悪魔が支配するかは、およそ言葉で言い表すことができません。事実、聖書中で悪魔は「世の頭および支配者12」、「闇の支配者13」かつ「傲慢の子ら皆の王14」と呼ばれています。実に、悪魔の圧制に打ちひしがれる者たちには、「我らの天主なる主よ、御身でない他の主たちが私たちを支配しました15」という預言者イザヤの言葉が実によく当てはまります。
169.もし私たちが、この愛の契りが破られたことにさほど心を痛めないならば、少なくとも罪によって私たちが陥った苦難と災厄とに心を動かされるべきです。実に、罪によって、キリストの伴侶となった霊魂16の聖性は冒され、主の神殿は汚されるのです。しかるに当の神殿を汚す者に対して使徒パウロは、「天主の神殿を汚す者があれば、天主は彼を亡ぼされる17」という警句を発しています。罪が人にもたらす害悪は数えることができませんが、このほとんど無限とも言うべき災厄を、預言者ダビドは次の言葉をもって表しています。「御身の御怒りに打たれ、体には、痛まぬ所はなくなった。私が罪を犯してから、私の骨には、健やかな所がなくなった。18」
己が身に罪の病害に冒されない部分が一つもないと告白する際、ダビドは罪によって穿たれた傷の深さを熟知していました。事実、罪の毒が彼の骨、すなわち理性と意志という霊魂の中で最も強固な能力にまでしみ込み、冒していたのです。聖書は罪人を足萎え、つんぼ、おし、盲人、中風持ちと呼ぶことをとおして、罪というこの病毒の及ぼす害悪がいかに大きく、広範囲にわたるかを示しています。
170.しかるにダビドは、罪の咎に伴う心痛を抱くにとどまらず、却って自らの罪によって引き起こした天主の怒りについて苦悶したのです。事実、不敬な者と天主の間には、争いがあり、前者の罪科によって天主はこの上ない冒瀆をお受けになりますが、これは使徒パウロが、「悪を行って生きる者にはすべて、[天主の]怒りと憤り、艱難と苦悶とがある19」と述べて指し示しているところに他なりません。
171.実際、罪の行為は過ぎ去るとしても、罪の汚れと罪責とが後に残ります。しかるに天主の絶えず脅かす怒りは、あたかも陰が身体につきまとうように、これにつきまとい、責め立てます。かくして、ダビドがこういった罪の呵責に悩まされていたとき、自らの過ちの赦しを願うよう促されたのです。司牧者は、彼の著した詩編50の中に、悔悛の模範と、この点に関する教えの根拠とを見出すことができますが、司牧者は、これを信徒らの眼前に置き、彼らが預言者の例に倣い、悔悛の心情、すなわち真の痛悔と赦しを得る希望とを抱くよう図らねばなりません。
172.このような仕方で信徒に罪の痛悔を抱くよう教え諭すことが、いかに有益であるかを、エレミア書における天主のみ言葉が示しています。実に天主は、イスラエルの民に痛悔の念を抱くよう、自らの犯した罪に起因する諸々の災厄に目を注ぐようお促しになるのです。「汝らの天主たる主を見すて、もはや私を畏れぬことがいかに悪く、痛ましいことかを見きわめよ、と万軍の天主なる主は仰せになる。20」
173.自らの罪を認めず、これについていかなる痛悔の念も抱かぬ者らは、預言者イザヤ、エゼキエル、ザカリアの書において、「頑なな心21」、「石のような22」、あるいは「ダイヤモンドのような心23」を持つ者であると言われています。こういった類の者は、石のごとく、いかなる悔悛の念によっても心を和らげることがなく、生命の、すなわち救いをもたらす認識24の感覚を、いささかも有さないからです。
§ II. 天主への信頼
174.しかるに信徒らが、罪の重さを目の当たりにして恐れをなし、赦しを得る望みを失うことのないよう、司牧者は次の論拠によって、彼らがかかる希望を抱きつづけるよう、図らねばなりません。
まず第一に、いとも聖にして尊ぶべき使徒信経にあるように、私たちの主イエズス・キリストが、教会に罪の赦しを与える権能をお授けになったという事実です。
第二に、この主祷文中で当の祈願を為すようお教えになることをとおして、主は、人類に対する天主の仁慈と寛大さがいかに大きなものであるかをお示しになりました。なぜなら、もし天主が、悔い改める者の罪を即座に、喜んで赦す心構えをもっておられなかったとすれば、決して「我らの罪を赦し給え」というこの祈願文を私たちにお残しにならなかったはずだからです。
したがって、この言葉をもって罪の赦しを願うようお命じになった主が、私たちに慈父心に満ちた憐れみを施してくださることを深く確信しなければなりません。実に当祈願に含まれた意味は、天主が私たちに対して抱かれる心構えは、私たちが罪を悔やむなら、すすんでこれをお赦しになるというものであることだからです。
176.しかるに、私たちが掟に従わぬ際、他ならぬ天主に対して罪を犯すのです。罪をとおして私たちは、自らの力の及ぶかぎり、天主の御知恵の秩序を乱し、その御稜威をけがし、行いと言葉によって陵辱することになるからです。
177.しかるに、当の天主はこの上なく仁慈な父であられ、全てを赦すことがおできになり、ご自分がそうすることを望まれる旨、仰せになりました。それのみならず、天主は人がご自分に罪の赦しを願うことをお求めになるのであり、またどのような言葉でこの恵みを願うべきかをお教えになりました。
したがって、天主のご助力によって私たちが天主と和解し、その寵愛25に再び浴することができるという事実を、誰も疑うことができません。
178.さて、天主の御意志がすすんで人の罪を赦すよう傾くものであるという事実の認識は、信仰をいや増し、望徳を養い、愛徳の火を焚きつけるものですから、この教理を説明するにあたって、天主の御言葉、およびきわめて重い罪を犯した後、痛悔の念を起こしたために天主からその赦しを受けた者たちの例を挙げることが適当です。26しかるに、この点についてはすでに、主祷文についての序章および使徒信経中の罪の赦しに関する部分で、できるかぎり詳しく解説したので、司牧者は必要に応じて同箇所から適切な材料を見出し、また残りは聖書の豊かな源泉から汲むことができます。
§ III. 負い目」という言葉の意味するところ
179.しかるに、この点を説明するに際しても、主祷文中の他の祈願において用いたのと同じ解説の手順をふむべきです。すなわち司牧者は、信徒がここで言う「負い目27」という語が、何を意味するかを把握し、言葉の意味を誤解して、願うべきものとは異なる他のものを願うことがないよう図らねばなりません。
180.まず第一に、この祈りをとおして私たちは、心を尽くして、霊魂を尽くして、精神を尽くして愛するという、私たちが天主に対して確かにもつ負い目を免除されるよう願うのでは到底ありません。却って、この負い目ないしは借りを返すことは救霊に不可欠な条件でさえあります。
181.「負い目」という言葉には、さらに従順、礼拝、崇敬およびこれに類したその他の義務をも含まれますが、無論私たちは、これらの負い目をもはや有しないことを願うのでもありません。
182.しかるに私たちは、天主が私たちを罪から解放してくださるよう願います。事実、かかる解釈に基づいて、聖ルカは「負い目」という言葉の代わりに「罪」の語を用いています28。なぜなら罪によって私たちは天主に対して、罪を犯した者、有罪の者となるのであり、同時に罰の負い目を負うことになるのですが、当の負い目は、償いをなすことによって、あるいは苦難を忍ぶことをとおして返済しなければなりません。主キリストが預言者の口を借りて、「私は自分の借りにならないものを支払った29」と仰せになったのも、この種の借りないしは負い目についてであります。30
183.この天主の御言葉によって、私たちは自分たちが借りを有した者であるだけでなく、全く返済能力のない者であることを理解します。なぜなら、罪人は、自らの力では、いかようにしても己が罪の償いを果たすことができないからです。したがって私たちは、天主の御憐れみに依り頼むべきなのですが、しかるに、この御憐れみには、同じ天主の正義が等しく対応しており、天主はこれ(即ち正義)を決していささかもお手放しにならないため、私たちは祈りと主イエズス・キリストの御受難のご保護とを活用しなければなりません。主の御受難によらなければ、誰一人自らの罪の赦しを得ることができず、またあらゆる償いの原理と効力とが、ここに源を発するからです。
184.主イエズス・キリストが十字架上でお支払いになり、秘蹟をとおして(これを実際に受けるか、少なくともこれを受ける望みを抱くことによって)私たちにあてがわれる代価はかくも大きいため、これにより、私たちがここで願う恵み、すなわち罪の赦しをかち得、かつこれを成就するのです。
この祈願をとおして、私たちはただ軽い過ち、容易に赦しを得ることができる罪だけでなく、重い大罪の赦しをも乞い願います。しかしながら、大罪に関しては、私たちの祈りは、先に述べたように、悔悛の秘蹟を実際に受けるか、もしくは少なくともこれを受ける望みを抱かないかぎり、効果を有しません。
185.さて主祷文中、私たちが「我らの罪」ないし「負い目」と言う際、これは「我らの(日用の)糧」と、その前に言うのとは全く違った意味でです。当の糧が「私たちの糧」であるのは、天主の仁慈によってこれが私たちに与えられるからなのですが、罪が私たちのものであるのは、当の罪の責任が私たちの中にあるからです。なぜなら私たちの意志がこれに同意し、承諾するのであり、意志が伴わなければ罪たり得ないからです。
186.したがって私たちは、自らの過ちを認め、告白し、罪から清められるために必要な天主の慈悲を乞い願うのです。
その際、私たちはいかなる弁解も為さず、また人祖アダムとエヴァがしたように他人に責任を嫁す31ことも避けなければなりません。却って私たちは、もし知恵のある者でありたいなら、預言者ダビドが「私の心が悪意の言葉に傾き、自分の罪を弁解することのないようにしてください32」、と祈った言葉を自らに当てはめ、己が身を咎めるべきです。
187.しかるに私たちは、「我が罪を赦し給え」とは言わず、「私らの罪を赦し給え」と唱えますが、これは人々の間に存すべき兄弟的一致と愛徳とが、私たち一人々々に求めるところに即してのことであります。すなわちこのように祈ることをとおして、私たちは隣人の共通の救いに配慮し、私たち自身のために祈る際に、他人のためにも祈るのです。
188.このように他者のためにも合わせて祈る仕方は、主キリストがお教えになり、次いで天主の教会によって受け容れられかつ常に守られてきましたが、殊に使徒らはこれを自ら実践し、また他の者たちがこれを実践するよう尽力しました。隣人の救霊のために、燃え立つほどの切望と熱意とをもって為す祈りの顕著な例を新・旧約の聖人、モーゼとパウロとにおいて見出すことができます。前者は、「彼らにこの咎を着せ給うな。さもなくば我が身を生命の書より除き給え33」と、また後者は「私の兄弟ためならば、私自身は呪われて、キリストから棄てられた者となることさえ望む34」と天主に祈ったのです。
§ IV. 我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え
189.「(我らが人に赦す)如く」という言葉は、二様に解することができます。第一に、この言葉は比較、類似の意味合いを持ちます。すなわち私たちは、私たちが自分たちに侮辱ないしは害を為した者たちを赦すように、天主も、私たちが主に対して犯した罪を赦してくださるよう願うのです。
第二に、この言葉は条件の意味合いを含みます。主キリストが次の御言葉を仰せになったのも、この意味に即してのことです。「あなたたちが他人の過ちを赦すならば、あなたたちの天の父も、あなたたちを赦してくださる。しかし他人を赦さなかったら、父もあなたたちの過ちを赦してはくださらない。35」
190.しかるにこの2つの意味は共に、他人の負い目を赦す同一の必要性を含んでいます。すなわちもし私たちが、天主が私たちの過ちを赦してくださることを望むならば、必定私たちも、私たちに害を為した人々を赦さなければなりません。事実、天主は私たちが受けた侮辱を忘れ、相互の熱誠、愛徳の心情を抱くことをかくもお求めになるため、隣人と和解しない者の犠牲ないしは捧げ物を拒絶し、疎んじられるのです。また、他人が自分に対してあって欲しい様に、自分も他人に対してあらなければならないというのは、自然法の則です。したがって、隣人に対して敵対心を抱きつつも、天主に自らの罪科の赦しを願う者があるとすれば、それこそ厚顔無恥の極みと言わねばなりません。
191.したがって危害、侮辱を受けた者は、速やかにこれを赦す心構えをもたなければなりませんが、それはこの祈願文がこのようにふるまうよう強く促すため、また聖ルカによる福音書において、天主がこれをお命じになっているがためです。すなわち主は、「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したならば、彼を戒め、もし悔い改めるならば赦しなさい。たとえその人があなたに対して一日に七度罪を犯し、七度「悔い改めます」と、あなたの許に来て言うとしても、彼を赦しなさい。36」と仰せになったのです。また同じ主は、聖マタイによる福音書で、「あなたたちの敵を愛しなさい37」と仰せられ、使徒パウロ、またその前にサロモンも、「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。38」と述べています。さらに、聖マルコによる福音書で、主は次のように仰せになっています。
「あなたが立って祈るとき、誰かに恨みがあるなら、まずそれを赦せ。そうすれば、天にいるあなたたちの父に、自分の罪を赦してもらえるのである。39」
§ V. 隣人を赦すための動機
192.しかるに、傷ついた自然本性の悪弊により、人間にとって、受けた侮辱を赦すことほど困難なことはないため、司牧者は、キリスト教者に必要な、穏和で憐れみに満ちた精神を抱くよう、信徒の心を変え、矯め直すよう、自らの知慮と才知を尽くして務めねばなりません。
天主ご自身が、敵を赦すよう命じておられる聖書の箇所を詳らかに引用すべきです40。
司牧者はまた、ある人が天主の子であることの最良の証の一つは、彼が受けた侮辱を容易に赦し、かつ敵を心から愛することであるという、明白な真理を教示しなければなりません。
しかるに、敵をも愛するという、この態度の中に、私たちと、父なる天主との間に、ある種の類似性が見出さられます。なぜなら、天の御父は、ご自分にあからさまに背反し、真っ向から敵対していた人類を、御独り子の死によって永遠の滅びから贖い、ご自分と和解されたからです。
以上の勧告と訓戒とのまとめとして、それに従うのを拒む者は恥辱と(霊魂に対する)害悪を被ることを免れない、主キリストの次のご命令を引用すべきです。「あなたたちを迫害し、中傷する者らのために祈りなさい。こうして、あなたたちは、天においでになるあなたたちの御父の子となるのである。41」
193.さて、この教理を解説するにあたって、司牧者は、並々ならぬ賢慮を示さねばなりません。それは、敵ないしは自分に害を為した者を赦すという、この義務を守る必要性と困難とを知って、救霊に達する望みを失ってしまう人が誰もいないようにです。なぜなら、受けた侮辱を意志的な忘却によって打ち消し、自分に危害を為した者を愛すべきであることを知った上で、これを果たすことを望み、かつ力の限り務めつつも、受けた侮辱、危害の記憶を完全に抹消し得ないと感じ、また心中に恨み心がわずかなりとも残っていることを認めて、大きな良心の動揺をきたし、自分が心から、率直に敵対心を捨て去らず、かくして天主の掟に従わないものであることを懸念する人たちがいるです。
194.このため、司牧者は、互いに対立する肉と霊の傾きについて説明しなければなりません。すなわち、前者の感覚が恨みを晴らすよう促す一方、後者に属する理性は、自らに害を為した者を赦すよう心を傾けるということ、またこの二つの傾向から絶えることのない争乱と葛藤が戦いが生じることを明示すべきです。司牧者はさらに、理性に相反し、対立するこの種の堕落した自然本性に基づく欲求については、精神が受けた侮辱、危害を赦し、隣人を愛する義務と意志とにとどまっている限り、救霊上いささかの懸念も生じないという事実を、信徒に諭さねばなりません。
195.しかるに、受けた危害、侮辱を忘れ、敵を愛する心づもりになりきれず、そのため、他人を赦さなければ自らの罪も赦されないという先述の条件に恐れをなし、主の祈りを唱えるのをはばかる人がいるかも知れません。42この有害きわまりない誤謬から当の者らを救うために、司牧者は次の2つの論拠を指し示すべきです。
第一に、ある信徒がこの祈りを唱える際、当人は全教会の名においてこれを為すのですが43、しかるに教会の中には、必ずこの種の負い目を他の人にすでに赦した敬虔な人たちがいるものです。44
第二に、当の祈願を為す際、私たちは、この祈りをとおして私たちが願うところのものを得るために抱くべき心情をも同時に願うのです。この意味で私たちは、罪の赦しと真の痛悔の賜とを願うのです。私たちは内的な悔悛を願い求め、また罪を忌み嫌い、これを司祭に正直に、謙って告白する恵みを願います。
したがって、私たちは他人から受けた損害、ないしは何某かの害を赦す必要があるため、天主に己が罪の赦しを願う際、同時に、私たちが忌み嫌う者たちと和解する恵みが与えられるよう祈ることになります。
したがって、当の祈願を為すことによって天主に対して一層深く罪を犯すという、虚しく、咎むべき怖れを抱いて怖じ気づく者らに、かかる謬見を捨てさせ、却ってむしろこの祈りを頻繁に唱えて、自らに害を為した者を赦し、敵を愛する心を与えてくださるよう、父なる天主に願うよう励まさねばなりません。
§ VII. この祈願が実りをもたらすために必要な心構え
196.しかるに、この祈りが実に実り多きものとなるためには、先ず、これを唱えるにあたって、次の事柄をよく留意し、熟慮しなければなりません。すなわち、私たちが天主の御前に懇願者として罷り出ること、また同じこの天主から、唯痛悔する者だけに与えられる罪の赦しを願うのであるということ、したがって、痛悔者にふさわしい愛徳と敬虔心を有することが必要であること、さらに、このように自らの罪を悔いる者には、あたかも己が悪業を眼前に置き、これを涙ながらに償うのが甚だふさわしいということです。[をよく留意し、熟慮しなければなりません。]
197.当の考察に、かつて罪を犯すきっかけとなり、また今後も父なる天主の御稜威を汚す機会となり得る事物を避ける決心を加えなければなりません。ダビドが「私の罪は常に私の前にある45」と述べ、また他の箇所で「毎夜、私は床を涕涙で洗い、流す涙で寝床をぬらす46」と言うのも、彼がこのような心境にあった時に他なりません。
198.各人は、天主に祈って己が罪の赦しを得た者たちが、どれほど熱心に祈ったかを、思い浮かべるべきです。すなわち、己が過ちを恥じ、悔いるあまり、神殿から遠く離れ、目を地に伏せ、胸を打ちつつ「我が天主よ、罪人なる我を憐れみ給え!」と祈った税吏47、あるいは主キリストの後ろに立ち、その御足を涙でぬらし、これを髪の毛でぬぐった罪の女48、また主を否んだ後に、「外に出てはげしく泣いた」ペトロ49の例を眼前に置かねばなりません。
199.さらに、人は虚弱で、罪という霊魂の病持ちであればあるほど、多くの薬を、より頻繁に飲む必要があります。
しかるに病んだ霊魂の治療薬となるべきものは、悔悛と聖体の秘蹟に他なりません。したがって信徒はごく頻繁にこれを用いるべきです。
又施しも、聖書の示すごとく、霊魂の傷を癒すために適した特効薬です。したがってこの祈りを敬虔に唱えることを望む人は、困窮者に能うるかぎりの善を施さねばなりません。施しがどれほど罪の汚れを消去する効力を有するかは、トビア書において主の天使ラファエルが、「施しは、人を死から救い、すべての罪を浄めます。施しをする人は、長い日々を与えられ、施しをする人は、[天主の]憐れみと永遠の生命を見出します50」、と述べて示すとおりです。また預言者ダニエルも、ナブコドノゾル王に、「施しをして罪を消し、貧しい者たちを憐れんで悪をお消しになってください51」と忠告しています。
200.しかるに、最良の施し、かつ最良の憐れみの業は、受けた侮辱、不正を忘れること、および私たち自身ならびに身内の者の所有物、評判ないしは身体を傷つけた人に対して、好意を示すことです。
したがって、自らに対して天主が憐れみ深く処してくださることを望む者は、諸々の反目を天主のために水に流し、かつ受けた侮辱、不正をことごとく赦し、敵のためにすすんで祈り、かつ彼らに善を為す機会を一つも逃さないようにすべきです。しかるにこの点は、殺人について取り扱った際にすでに解説したので、司牧者は同箇所を参照することが適当です52。
201.当の祈願の説明を終えるにあたり、他人に対して頑なで、誰にも情けを示さないにも関わらず、自らに対して天主が寛容憐れみ深くあってくださるよう願う人ほど仁義に反した者はなく、また考えることもできない、ということを述べて結びとすべきです。
注
1 イザヤ書 27章9節
2 詩編31 1節
3 創世の書 4章13節
4 マタイ 27章4-5節
5 詩編13 3節および詩編52 4節
6 伝道の書 7章21節
7 格言の書 20章9節
8 ヨハネの第一の手紙 1章8節
9 エレミア書 2章35節
10 ミレヴァ公会議決議文 7、8、9章 (デンツィンガー 108項参照)
11 Trid. sess. 6 de Justificatione, cap.11 ならびに August. in Euch. cap.17参照
12 ヨハネ 14章30節
13 エフェゾ人への手紙 6章12節
14 ヨブの書 41章25節
15 イザヤ書 26章13節
16 エレミア書 2章2節およびホゼア書 12章3節参照
17 コリント人への前の手紙 3章17節
18 詩編37 4節
19 ローマ人への手紙 2章8-9節
20 エレミア書 2章19節
21 イザヤ書 46章12節
22 エゼキエル書 36章26節
23 ザカリア書 7章12節
24 訳者注 すなわち当節で問題になっている、自らの犯した罪についての認識。
25 訳者注 このように天主と和解し、その寵愛に浴するということは、即ち天主の恩寵を再び受ける、ということに他ならない。事実、「寵愛」という言葉で訳したラテン語原文の語 <gratia> は、同時に「恩寵」の意味をも含んでいる。
26 聖マリア・マグダレナ、聖ペトロ、善き盗賊、聖アウグスチヌス等々。
27 訳者注: 主祷文の原文(聖書のギリシャ語原典上)およびラテン語訳文では、「我らが、我らに対して負い目を有する者らを赦す如く、我らの負い目をも赦し給え」となっている。(< Dimitte nobis debita (「負い目」ないしは「借り」の意味)nostra, sicut et nos dimmitimus debitoribus (負い目のある者の意味)nostris.>)
28 ルカ 11章4節
29 詩編68 6節
30 訳者注 主キリストは、全く罪の汚れに染まらぬ者でありながら、私たち人間の罪の負い目を、御受難を忍ぶことをとおして支払ってくださった。しかるに罪の赦しを得るためには、私たちの側でも、自らの苦しみを主の御受難に合わせて甘受し、かつ償いを果たすことが必要である。
31 創世記 3章12節
32 詩編140 4節
33 出エジプトの書 32章31節
34 ローマ人への手紙 9章3節
35 マタイ 6章14節
36 ルカ 17章3-4節
37 マタイ 5章44節
38 ローマ人への手紙 12章20節および格言の書 25章20-21節
39 マルコ 11章25節
40 出エジプトの書 23章4節/レヴィの書 19章17-18節/サムエルの書上 24章5-8節/ヨブの書 31章29節/格言の書20章22節/マタイ 5章44節以下、18章33節および26章50節以下/使徒行録7章55節以下/ローマ人への手紙 12章14-21節/コリント人への前の手紙4章12節/エフェゾ人への手紙4章26節/テサロニケ人への前の手紙5章15節/聖ペトロの前の手紙 3章9節ルカ23章34節等参照
41 マタイ 5章44節
42 神学大全第2巻第2部第25問8-9項参照
43 神学大全第2巻第2部第83問16項第3反論への解答参照
44 訳者注: かかる敬虔な信者の功徳は、未だふさわしい内的状態でこの祈りを唱えることができない者たちの不足を、ある意味で補うこととなる。
45 詩編50 5節
46 詩編6 7節
47 ルカ 18章10節以下
48 ルカ 7章38節
49 マタイ 26章75節
50 トビア書 12章9節
51 ダニエル書 4章24節
52 ローマ公教要理第3部 十戒の部 VI. 9参照