Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

鞭打ち、茨の冠、嘲笑、偽証人、偽りの裁判、十字架の重さ、道行、マリア様との出会い、何度も倒れ、釘付けにせられた事、十字架の上で仰った七つの御言葉、全ては私たちの罪を赦す為でした

2021年04月12日 | お説教・霊的講話

2021年4月2日(初金)聖金曜日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹の皆さん、今日は聖金曜日です。

私たちの主イエズス・キリスト、人となった真の天主の御言葉は、十字架の上で御受難を受けて、そして御死去されました。

私たちに2つの事を訴えています。

(1)天主が、私たちの事をどれほど愛しておられるか、命を与えるほど、私たちの罪を赦す、という事のみを考えて、私たちに全てを御与え下さいました。

私たちにもしも時間があれば、イエズス様のなさった受けた全ての苦しみを、一緒に黙想したいほどです。鞭打ち、茨の冠、嘲笑、偽証人、偽りの裁判、十字架の重さ、道行、マリア様との出会い、何度も倒れた事、そして釘付けにせられた事、十字架の上で仰った七つの御言葉、全ては、私たちを愛して、私たちの罪を赦す為、それだけでした。それ以外の事は何も考えませんでした。考えたのは、聖父の栄光と、私たちへの愛でした。

それでも足りないかのように、今日は4月の初金曜日ですから、同時に聖金曜日、イエズス様は亡くなった後に、自分の心を、聖心を開いて、私たちに愛を訴えます。「御自分の愛を信じて欲しい」と仰っています。両手を開いて、「私の元に来なさい。私の愛を受けてほしい。私の心は開かれている。どのような罪人であっても、真っ赤に染まった罪を持っていても、雪のように真っ白にする事ができる。何も恐れる事はない。私には憐れみと、赦しと、平和しか考えていない。」

イエズス様の元に行きましょう。私たちを愛するイエズス様の元に、愛を以って参りましょう。


第2は、同時に、罪の醜さです。

「もしも生木が、まだ生きている木がこれほどの事を受けるなら、枯れ木はどれほどの事が起こるだろうか」と、エルサレムの婦人にイエズス様は仰いました。

天主聖父は、聖子さえも容赦せずに、罪が一体どれほどの結果をもたらすか、という事をイエズス様の御受難で見せて下さいました。罪の結果、私たちの犯した罪が、イエズス様の十字架を準備しました。

御受難は私たちに、罪の痛悔の心、悔悛の心を湧き起こさせてくれます。「イエズス様を愛するが故に、もはやこれ以上イエズス・キリストを悲しませたくない。イエズス様、今まで悲しませた事を痛悔しています。どうぞ憐れんで下さい。」

マリア様と共に、十字架の元に佇(たたず)みましょう。そしてイエズス様を、イエズス・キリストの憐れみをいつも信じる事ができるように、たとえどのような事があっても、イエズス様の元に行く事ができるように、そしてイエズス様が流された血が無駄にならないように、全ての人々がイエズス様の聖心の愛を信じる事ができるように、流された御血の功徳を自分のものと適用する事ができるように、お祈り致しましょう。救いが、イエズス様の受難の功徳が、全ての人に行き渡りますようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズス・キリストの制定した秘跡、御聖体、司祭職、全ての超自然の御恵みがここにあります。私たちはこれを受けるだけで良いのです。

2021年04月12日 | お説教・霊的講話

2021年4月1日(初木)聖木曜日 最後の晩餐のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖木曜日です。
私たちの主イエズス・キリストが御聖体を私たちの為に制定して下さった聖なる喜びの夜に、3点を黙想する事を提案します。

1つは、「御聖体は、真に、本当に、現実に、実体的に、私たちの主イエズス・キリストの御体である」という事です。

「現実に」という事は、夢とか頭の中で考えてるものではなくて、本当に、この私たちが何を思おうと、そうである、という事です。

「真実に」という事は、これは嘘や誤りではなく、真に、という事です。

そして「実体的」にという事は、ただたとえ形が、たとえ色が、或いはたとえ味が、そうではないように思えたとしても、その実体は、真にイエズス・キリストである、という事です。

これは、トリエント公会議が不可謬権を行使して、「もしもそうでなければ、私たちはカトリックの信仰を持っていない」と宣言した真理です。

ですからこの御聖体は、本当に、現実に、生きている天主である、私たちの主イエズス・キリスト御自身です。

そしてその御聖体を私たちが受ける事ができるように、そして私たちと共に世の終わりまでいる事ができるように制定して下さいました。愛の秘跡です。


第2の点は、「ミサの犠牲(いけにえ)を制定して下さった」という事です。

ミサ聖祭は、イエズス様の、イエズス・キリストの十字架のいけにえの再現です。イエズス・キリストの十字架がもう一度、この祭壇の上で現実に行なわれる、という事です。

ただ、捧げられるいけにえも同じ、捧げる司祭も同じですけれども、捧げられるやり方だけが違っています。

十字架の上では、血を流されて捧げられましたけれども、しかしミサの時には、無流血において、秘跡的に、御聖体、御体と御血が分離する事によって、秘跡的に屠られて、いけにえが屠られる、いけにえが成立します。

しかし、イエズス様はもはや、痛んだり苦しんだりする事なく、屠られます。無流血の内に屠られました。しかし、これは私たちの罪の償いの為に、私たちが日々犯す罪が赦される為に、私たちに適用される為に、私たちに十字架のいけにえの恵みと全く同じ恵みと功徳を与える為に、日々与える為に、そのミサが行なわれます。

「ミサの価値」、「ミサの偉大さ」というものは、全てに勝っております。無限の価値があります。


第3の点は、「私たちに、イエズス・キリストの司祭職を制定して下さった」という事です。

天主の御言葉が人間となった時に、司祭が、メルキセデクの位による司祭が成立しました。その最高の司祭職、天主と人間が一つになるその司祭職、一致の恵みを、儚い人間私たちに与えて下さいました。
この司祭職の最も大切な役割というのは何でしょうか?

それは、「御聖体を作る」事です。「聖変化を起こさせる」事です。天使でさえもする事ができない、「ミサ聖祭を捧げる」、「十字架のいけにえの再現を行なう」という事です。「最高のいけにえ、唯一の天主聖父の聖心に適ういけにえを捧げる事ができる」という恵みです。

イエズス・キリストに勝る名はありません。イエズス・キリストには全てに超える名を与えられました。これが私たちのカトリックの信仰です。全ての現代の問題、現代の社会の、国際社会の、あるいは家庭の、あるいは全ての問題をもしも解決するとしたら、全ての恵みはここにあります。イエズス・キリストの制定した秘跡、御聖体、司祭職、全ての超自然の御恵みがここにあります。私たちはこれを受けるだけで良いのです。これによってかつてヨーロッパでは偉大な文明が築かれました。

私たちは、このイエズス・キリストの信仰の全ての御恵みを頂いた、遺産相続者となりました。この御恵みを感謝致しましょう。

そしてマリア様に是非お祈り致しましょう。この信仰を終わりまで守る事ができますように。私たちは、救いは他の所に探す必要はありません。イエズス・キリストにだけ、全ての御恵みがあります。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズス・キリストは、私たちに御聖体、御血、御母、全てを与えたにも関わらず「もしかしたら人々は愛を信じないかもしれない」と恐れたかのようです

2021年04月12日 | 聖伝のミサの予定

2021年3月28日(主日)枝の主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父お知らせ

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は枝の主日で、お知らせがあります。

1つは、来たる聖木曜日・聖金曜日・聖土曜日と、夕方に典礼があります。
また聖金曜日、聖土曜日には、朝課もあります、朝の9時からです。

ロザリオの十字軍も、聖木曜日までとなっています。「ミサが私たちにとって自由に与る事ができますように。多くの召命が与えられますように」という意向で、ロザリオの十字軍をしていますけれども、一旦聖木曜日で、この集計を取ります。今まで私に報告して下さった方も、最初からのぜひ記録を教えて下さい。これを本部に報告致します。ロザリオの十字軍の報告をお願い致します、聖木曜日までです。

第2は、聖金曜日は、大斎小斎の日です。寛大に御捧げ致しましょう。

特に聖金曜日は、4月の初金曜日です。イエズス様は、「十字架の上に私が高く上げられたら、私は全て、私の元に引き寄せる、呼び寄せる」と仰いました。

まさに十字架の上で、イエズス様は私たちを呼び寄せておられます。特に御死去の時に、私たちに全てを与えて後に、イエズス様はそれでも足りなかったと思われたかのようです。私たちに全てを与えて、御聖体を与えて、御血を与えて、御母を与えて、秘跡を制定して、そして全てを与えたにも関わらず、「もしかしたら人々は、イエズス様の愛を信じないかもしれない」と恐れて、イエズス様は、どれほど私たちを愛しておられるか、という事を見せようと思いました。

そこで、御自分の聖心を、私たちの方に開いて、全ての御血と水を、私たちに流されました。これでもか、という愛を、私たちに見せて下さろうとしました。聖金曜日です。イエズスの聖心、初金曜日にも当たっています。

昔、かつてエルサレムの人たちが、イエズス様の愛を信じなかった時に、「私はどれほど、雌鳥が、雛を羽の下に抱えるように、抱きかかえようとした事か」と言いましたけれども、イエズス様は、「羽」ではなくて、私たち雛を、御自分の「心」の中に、心臓の最も奥深くに入れて、保護して下さろうと思われました。

ですから、このイエズス様の聖心の愛を信じて、これに信頼して、この中に深く入りましょう。そして私たちは、もしも十字架を受けたなら、イエズス様からの愛として、イエズス様の愛を信じつつ、イエズス様と共に、これを御捧げ致しましょう。

マリア様がいつも私たちを、イエズス様の聖心の中に守って下さいますように。

良い聖週間をお迎え下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ヴィガノ大司教「聖金曜日のように今日も主を否むペトロ、逃げ隠れする使徒たち、教会にいばらの冠をかぶせ、教会を十字架につける者たちがいる。」

2021年04月12日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「聖金曜日のように、今日も、主を否むペトロ、逃げ隠れする使徒たち、教会にいばらの冠をかぶせ、顔を叩いてあざけり、鞭で打って嘲笑にさらし、教会を十字架につける者たちがいる。聖母と一人の使徒が十字架のふもとにとどまり、教会の受難の証人となるものもいる。悲しみ、死、墓の後には復活もある。」

キリストのご受難がキリストの神秘体においても成就しなければならない。

Abp. Viganò: A Meditation on the Passion and Death of the Lord
ヴィガノ大司教「主のご受難と死についての黙想」

PASSIO ECCLESIÆ
教会の受難
主のご受難と死についての黙想

今はあなたたちの時である。くらやみの力だ。
ルカ22章53節

聖なる三日間の典礼のテキストは、主がローマ総督の命令のもと、最高法院(サンヘドリン)の意思によって受けられた拷問の粗野な残虐性を、鞭のように私たちに叩きつけます。大司祭たちに扇動された群衆は、天主の子の無実の血を自分たちとその子らの上に呼び寄せ、エルザレムに入城したときに主のものとされた勝利をわずか数日の間に否定しました。ホザンナの讃美と叫びは、「十字架につけよ」という叫びに変わり、棕櫚の枝は鞭と棍棒になったのです。群衆はどれほど失望させることができるのでしょうか。彼らは確信をもって名誉を与えることができますが、その直後に同じ確信をもって死刑を宣告するのです。

この死刑の宣告の主役たちと責任ある人々は誰でしょうか。十二使徒の一人であるユダは、盗人であり、裏切り者です。銀貨30枚で主を教会の権威者に引き渡し、主を逮捕させました。最高法院、つまり、ご受難の瞬間にも有効な旧法の宗教的権威です。偽りの証人たちは、金で雇われているか、悪評を求めているかで、互いに矛盾しながら主を告発します。民衆、というよりも広場でのデモの準備をしている群衆で、数人の熟練した操り手に導かれるままに行動します。パレスチナにおける皇帝の代理である総督ポンティオ・ピラトは、不当な判決を下しますが、公的な権威を持っています。そして、無実の人間に対して、期待されているからという理由だけで、かつてないほどの残酷さで怒りをぶつける名もなき部下たち、すなわち、神殿の番兵、最高法院の兵士、ローマ兵、暴力的な暴徒です。

私たちの主は、正当な裁判官によってその無実が認められたにもかかわらず、死刑を宣告されます。「Accipite eum vos et crucifigite; ego enim non invenio in eo causam」(かってにこの人を連れていって十字架につけよ。私はこの人に罪を見つけない)【ヨハネ19章6節】。ピラトは大司祭たちも群衆も敵に回したくなかったのです。大司祭たちは群衆を、パレスチナを軍事的に占領しているローマ人への憎しみを利用して操ることができるのです。ピラトは、民衆のレビ人や長老たちが自分を軽蔑し、彼を異教徒とみなして距離を置き、総督官邸に入ることで自分を汚したくないと考えていることを知っています。彼らは、自分たちを抑圧しているこの世の権力が、自分たちのメシアを天主への冒涜、つまり宗教的な罪で断罪する共犯者になることを確実にしていてさえも、外に留まっているのです。いや、むしろ、無実の人を有罪判決なしで死に追いやるためにです。ピラトは言います。「Innocens ego sum a sanguine iusti huius」(この男の血について私には責任がない)【マテオ27章24節】。かくして、世俗の権力者は、傲慢と暴動の恐ろしさに直面して、正義の行使を放棄するのです。ちょうど、霊的な権威が、自分が独占している権力を失いたくないために、預言を隠し、彼が天主であることが次々と確認されているにもかかわらず、約束されたメシアと認めないと主張し、真理を語ってご自分が天主であることを宣言したという理由でイエズス・キリストを殺そうと陰謀を企てるようにです。司祭のかしらたちはピラトを脅します。「Si hunc dimittis, non es amicus Cæsaris」(もしあの人をゆるすなら、あなたはチェザルの友ではない)【ヨハネ19章12節】。そして、自分たちの王を死刑にするために皇帝の権力に身を委ねるというところまで行くのです。「Non habemus regem, nisi Cæsarem」(私たちの王はチェザルのほかにありません)【ヨハネ19章15節】。しかし、それはユダヤの王であるヘロデではなかったでしょうか。

十字架の上でさえも、主はご自身の犠牲の応誦を、詩篇の言葉で唱えられます。「Deus meus, Deus meus: ut quid me dereliquisti?」(私の天主よ、私の天主よ、なぜ、私を見捨て給うのか)。聖書を暗記している人は、この荘厳な叫びの中に、会堂に対する最後の警告があることに気づかないふりをしています。それは、40年後に皇帝ティトの手によって、レビ人の司祭職の廃止と差し迫った神殿の破壊があるという予兆を示していることです。この詩篇21篇でダヴィドは、ユダヤ人たちが自分の目の前にあったもの、盲目のためにもはや理解できなかったものを預言しているのであり、私たちは今日、聖金曜日の典礼のとがめの交誦の中で、この警告が繰り返されているのを聞きます。それは、選ばれた民の不忠実を容易に信じられず、さらに新しいイスラエル、その教皇、その役務者たちの不忠実が、それに劣らずがく然とさせるほど繰り返されていることに心を痛めているのです。

復活祭の前の三日間の典礼の中には、痛みと苦しみに満ちた告発のように聞こえない言葉は一つとしてありません。ユダとご自分の民が主を裏切ることで実現し、宗教と世俗の権力が主とそのキリストに対抗して一致して行う行動をご覧になる主の告発です。「Astiterunt reges terrae, et principes convenerunt in unum, adversus Dominum, and adversus Christum ejus」(この世の王たちは立ち上がる、主とその油を注がれた者に逆らって、君主たちは手を結ぶ)【詩篇2篇2】。

主はこう言われます。「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだこと忘れてはならぬ。あなたたちが世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。しかし、あなたたちはこの世のものではない。私があなたがたを選んでこの世から取り去った。だからこの世はあなたたちを憎む。『奴隷は主人より偉大ではない』と先に私が言ったことを思い出せ。彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」【ヨハネ15章19-20節】。この警告によって、救い主は、ご自分の至聖なるご受難が、ご自分の神秘体においても、つまり「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」と、何世紀にもわたって個人においても、時の終わりに団体としての教会としても、成就しなければならないことを私たちに思い起こさせてくださいます。ですから、キリストのご受難と教会の受難の間の対応関係は重要なのです。

この対応関係は、今のくらやみの時代に一層明らかになっているように私には思われます。この時代には、不忠実にして腐敗した新しい会堂の権力が、主と主に忠実な人々を迫害するために、時の権力と同盟を結んでいます。今日もまた、権力に飢え、自分たちを服従させている帝国を喜ばせたいと思っている司祭のかしらたちは、ピラトに頼ってカトリック教徒を非難させ、自分たちの指導者の裏切りを受け入れたくないために天主を冒涜していると非難しています。昨日の使徒たちと殉教者たちは、今日の使徒たちと殉教者たちの中にもう一度生きています。彼らは今のところ、血を流す殉教の特権を拒否されていますが、迫害、排斥、嘲笑を拒否されているわけではありません。

もう一度、最高法院に善き牧者を売るユダを見ます。もう一度、偽証者、悪人、群衆を扇動する者、神殿の衛兵、総督官邸の兵士を見ます。もう一度、衣を裂くカヤファ、主を否むペトロ、逃げ隠れする使徒たちを見ます。もう一度、教会にいばらの冠をかぶせ、顔を叩いてあざけり、鞭で打って嘲笑にさらし、役務者の不祥事や信徒の罪という十字架に教会をつける者たちを見ます。今日もう一度、海綿を酢に浸し、槍で教会の脇腹を刺す者たちがいます。

しかし、聖金曜日と同じように、今日も教会の母と一人の使徒が十字架のふもとにとどまり、かつて「passio Christi」(キリストのご受難)の証人であったように、「passio Ecclesiæ」(教会の受難)の証人となるのです。

この沈黙と黙想の時に、私たち一人ひとりが自分自身をよく調べることができますように。終末の時代の典礼行為において、たとえ同調するためだけであっても、目をそらし、首を振り、カルワリオへの道行きで主につばを吐いた人々の中に入りたいかどうか、自問しようではありませんか。

この聖なる再現の中で、私たちは教会の荒廃したイメージの中で血にまみれたキリストの御顔を拭く勇気があるかどうか、キレネ人(キレネのシモン)のように、教会がその十字架を担うのを助ける方法を知っているかどうか、アリマタヤのヨゼフのように、教会の復活まで教会を安置するのにふさわしい場所を提供することができるかどうか、自問しましょう。

私たちは、最高法院や大司祭のようにキリストを叩いたことが何度あったか、信仰よりも人間を敬うことを優先したことが何度あったか、銀貨30枚を受け取って救い主を裏切り、主の善き役務者たちにおいて救い主を司祭のかしらたちや民の長老たちに引き渡したことが何度あったか、自問しましょう。

教会が暗くなった空の下で「Consummatum est」(すべては成し遂げられた)と叫び、大地が揺れ、神殿の幕が上から下まで引き裂かれるとき、キリストの苦しみの欠けた所(コロサイ1章24節)は神秘体において成し遂げられるでしょう。私たちは、十字架から降ろされ、墓に安置され、自然による完全で静かな沈黙、そして古聖所への降下を待つのです。この場合も、神殿の番兵がいて、「pusillus grex」(小さな群れ)が復活しないように見張っているでしょうし、信徒がそれを盗みに来たと言う人もいるでしょう。

聖土曜日は聖なる教会にもやって来ます。悲しみ、死、そして墓の暗闇の後には、「エクスルテット」(Exultet)と「アレルヤ」(Alleluia)もやって来ます。

「Scimus Christum surrexisse a mortuis vere」(われらはキリストがまことに死からよみがえり給うたのを知る)【復活の続誦からの引用】。私たちは、キリストの役務者たちがすべてが失われたと考えるであろう瞬間に、キリストの神秘体もキリストとともに復活することを知っています。そして彼らは、【エマオで】「in fractione panis」(パンの分割のとき)主を認識したように、教会を認識するでしょう。

これが、この聖なる復活祭と私たちを待ち受けている時代に向けた、私の心からの願いです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年4月2日
聖金曜日


ロザリオの十字軍の報告 2021年4月12日現在、総計10356環のご報告をいただいております

2021年04月12日 | ロザリオの十字軍

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ロザリオの十字軍の報告をご紹介いたします。
2021年4月12日現在、総計10356環のご報告をいただいております。

ご参加くださった方でお知らせいただいてない方がいらっしゃいましたら、もしよろしければお知らせいただければ幸いに思います。
ありがとうございます。
寛大なご参加を感謝申し上げます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
+イエズスキリストの平和。
小野田神父様、
2020年11月21日から2021年3月31日までの、聖ピオ十世会のロザリオの十字軍の報告です。
フランシスコ  141環
テレジア    210環
神様が、祝福して下さいますように。祈りのうちに。
デオグラチアス。

【報告】
ヨゼフ  132環
マリア  400環

【報告】
総計、4951環
*シスター       3060環
*ヨゼフ・マリアの二人で、304環
*マリア         132環
*マリア          56環
*ルルド         396環
*アンナ         211環
*マリア         792環

【報告】
小野田神父様
3環/日×(10+31+31+28+31+1)=396環

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
ロザリオ十字軍の報告 大変遅くなって申し訳ありません。
私が、1月21日から4月1日までの間にお捧げできたロザリオの環数は 266環でした。
引き続き 今後も ロザリオと また聖ヨゼフ様へのノヴェナも お祈りいたします。

【報告】
+Ave Maria Immaculata!
ロザリオ十字軍の報告をいたします。
7人で1,223環です。

【報告】
アヴェマリア!アレルヤ!ご復活おめでとうございます!
ロザリオ十字軍の報告です。家族で691環です。報告が遅くなってしまいすみません。よろしくお願いします!

【報告】
ロザリオ十字軍
2020.11.21〜2021.4.1 のロザリオの環数は
夫婦合わせて1274環でした。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田修道院長様
遅くなりましたが、SSPXの総長の御意向のために唱えたロザリオの数を連絡いたします。(11/21~4/1)
ちょうど100環でした。

【報告】
遅くなりましたが、ロザリオの十字軍のご報告です。
11/21-12/13 20:30現在
130環となります。
毎日、喜びの玄義、苦しみに玄義、栄えの玄義を1環ずつ唱えさせていただいております。
来年4/1までしっかり報告させていただきます。

ロザリオの十字軍のご報告です。
12/14-12/31 22:00現在
51環となります。
よろしくお願いいたします!

ロザリオの十字軍のご報告です。
1/1-1/31
99環となります。
よろしくお願いいたします!

ロザリオの十字軍のご報告です。
2/1-2/28
81環となります。
よろしくお願いいたします!

ロザリオの十字軍のご報告です。
3/1-3/31 19:30時点
101環となります。
よろしくお願いいたします!

【報告】
おはようございます。
ロザリオの十字軍の報告ですが、
2020/11 = 14 (Rosary)
2020/12 = 35
Jan = 32
Feb = 29


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】