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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

時は永遠のためなり|「つかの間」のこの世の今しか、痛悔の念を起こすチャンスがないのです

2021年04月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年4月25日は復活後第三主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「復活後第三主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


ヘルマン・コーエンに起こったこと:カトリック信仰を持つこと場合天主からの贈り物

2021年04月24日 | お説教・霊的講話
ヘルマン・コーエン(Hermann Cohen, 1820 - 1871)について



今日のミサ中の説教では、カトリック教会が真実を教えているという明白なしるしを、天主が私たちに与えてくださっている、ということをお話ししました。

これらのしるしというのは、たとえば、あらゆる反対の中でのカトリック教会の優れた継続性や世界中への拡大、教会の教えの聖性や、教会によって育まれた数多くの聖人たち、教会によってなされた偉大な文化的、芸術的、科学的業績などです。これらのしるしが示しているのは、カトリック教会の教えを信じることは合理的であるということです。

しかし、信仰を持つ、言い換えれば、教会によって伝えられてきた私たちの主イエズス・キリストの教えを本当に信じるには、これらのしるしを見ることだけでは十分ではありません。信仰を持つためには、超自然的な助けが必要です。天主からの特別の御恵みが必要なのです。

ヘルマン・コーエンという音楽家に起こったことを見ると、カトリック信仰を持つことが天主からの贈り物であることがわかります。

ヘルマン・コーエンはユダヤ人で、1820年に生まれました。ヘルマンはピアノの神童で、7才の時に初のコンサートを開きました。

ヘルマンは著名なピアニストであったフランツ・リストの弟子でした。ヘルマンは非常に有名になりました。しかし、罪深い生活を送っていました。後に、彼はこの世の楽しみの虚栄を悟り、キリスト教に興味を持つようになりました。

1847年、ヘルマンはパリの大きな教会のミサでオルガンを弾いていました。ところが聖変化の時、言い表しようのない感情に襲われたのです。その翌週も同じ経験をしました。またある日には、3つのミサに続けて参列しましたが、退屈も疲れも全く感じませんでした。

またある日のミサでは、御聖体奉挙のとき、ヘルマンは自分の人生のすべての罪への悲しみのため、大声で泣きだしてしまいました。この時、天主の御恵みがヘルマンの心を貫いたのです。ヘルマンはカトリック教会のことを尊敬していただけではなく、カトリック教会が教えるイエズス・キリストのすべての教えを堅く信じました。ヘルマンは洗礼を受け、数年後にはカルメル会の司祭になりました。

ヘルマンの母は、ロザリーという名前で、ユダヤ教徒でした。ヘルマンは、母の回心のため、童貞聖マリアに沢山祈りました。しかしロザリーは、死ぬまでカトリック教徒にはなろうとしませんでした。自分の母親がこのような状態で亡くなるのを見ることは、ヘルマンにとって大きな苦しみでした。

ところが数年後、私たちの主がヘルマンに次のことを明らかにされました。ヘルマンの母ロザリーがまさに亡くなろうとする時、童貞聖マリアがイエズスに対して、ロザリーを許して、憐れむよう執拗にお願いされたのです。そこでイエズスは、ロザリーに大きな力のある御恵みを与えられました。ロザリーは亡くなる数秒前に、イエズス・キリストを信じ、イエズス・キリストを救い主として愛したのです。主はこうおっしゃいました。「この知らせをヘルマン神父に伝えたいのは、それが彼の慰めとなり、私の母の御心の素晴らしさと、私の母が私の心に持つ力とを、ヘルマン神父がこれまであらゆるところで祝福してきたように、これからも祝福し続けるようにするためである。」

カトリック信仰を持つという御恵みを、私たちの主と、聖母マリアに感謝することを忘れないようにしましょう。また、私たちの家族、友人、そして私たちが会うすべての人もこの同じ信仰の御恵みを頂くことができるよう、熱心に、そして我慢強く、聖母マリアにお祈りいたしましょう。








天主は、その無限の知恵と全知全能によって、永遠の昔から、特定の人々を司祭職のために準備し、その使命を果たすのに必要な資質をその人々に授けてこられました

2021年04月24日 | お説教・霊的講話
司祭の召命についての短い説教(2021年4月18日、大阪にて)

ドモルネ神父

はじめに

今日の福音で、私たちの主イエズスは、ご自身を良き牧者にたとえておられます。そのため、この主日は「良き牧者の主日」とも呼ばれます。この日は通常、司祭や修道者の召命についての説教を行います。私もこの習慣に従って、司祭の召命についてお話しします。

司祭とは何か

司祭は仲介者です。仲介者とは、二人の当事者の間に立って両者を結び付ける人のことです。司祭は、天主と人間との間の仲介者です。司祭は、天主と人間とを結び付けるため、両者の間に立つのです。私たちの主イエズス・キリストが、この結びつきを実現させる唯一のお方です。

なぜでしょうか? それは、イエズス・キリストが、天主であると同時に人間でもある唯一のお方だからです。天主は、イエズス・キリストを通して人間に恩寵をお与えになりますが、人間はまたイエズス・キリストを通して、天主に礼拝、感謝、嘆願をお捧げするのです。このように、イエズス・キリストは、唯一にして普遍的な司祭でいらっしゃるのです。

しかし、イエズス・キリストは、ご自分の司祭職を特定の人々に分け与えられます。彼は使徒たちにこう言われました。「私に従え、私はあなたたちを人をすなどる者にしよう」(マテオ4章22節)。また次のようにも言われました。「諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19節)。人間であるカトリック司祭はすべて、キリストの司祭職を分け与えられた人なのです。

司祭の召命

司祭とは、二人の当事者を結び付ける仲介者です。そのため司祭は、天主と人間という双方の当事者に受け入れられる必要があります。この受け入れられるということが、「召命」と呼ばれるものです。召命は天主からのものであるとともに、人間からのものでもあります。

天主が任命なさらない限り、誰も天主の代理者にはなれません。聖パウロはこう言いました。「アロンのように天主に召された者のほか、この誉れを自分で受けることはできぬ」(ヘブライ5章4節)。天主は、その無限の知恵と全知全能によって、永遠の昔から、特定の人々を司祭職のために準備し、その使命を果たすのに必要な資質をその人々に授けてこられました。そして、時が来れば、天主はこれらの人々に、自発的に天主のご計画に従うように、彼らの心の中に呼びかけられるのです。これが天主の側からの召命です。

さて、人間の側から言えば、司教から聖なる叙階の秘蹟を受けなければ、誰も司祭になることはできません。司教は、司祭の義務を十分に果たすことができると判断した人々にのみ、この秘蹟を与えます。

司祭の義務とは何でしょうか? 
第一に、天主の栄光と霊魂たちの救いのために祈り、ミサのいけにえを捧げることです。
第二に、天主の啓示を教え、秘蹟を授けることによって、霊的に霊魂たちを養うことです。
第三に、信徒を聖徳とあわれみのわざを実践するように導き、励ますことです。

司教は、これらの義務を果たすのに必要な資質を備えた人々を司祭職に呼び出します。この司教からの呼び出しが、人間の側からの「召命」です。

司祭の召命に必要な資質

一人の男性が司祭になるために必要な資質はどのようなものでしょうか? 主に三つあります。知識、聖なる生活、正しい意向です。

・第一の資質は、十分な神学の知識を持つことです。これが必要である理由は、司祭は、人々に天主の啓示を教え、悪魔や誘惑との戦いにおいて人々を導き、人々が天主のみ旨に従った決断をするのを助けるからです。私たちの主イエズスは、使徒たちにこう言われました。「あなたたちは世の光である。…あなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はその良い行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章14、16節)。司祭は神学校で神学を学びます。

・第二の資質は、聖なる生活を送ることです。これは、成聖の恩寵の状態で生活し、堅固な敬虔さを持つことを意味します。貞潔、寛大、従順といった聖徳が特に必要です。不純、頑固、怒り、不摂生といった悪徳は、特に不適格です。

・第三の資質は、正しい意向を持つことです。それは、天主に栄光を捧げ、霊魂を救うために司祭になりたいという願いを持つことです。それ以外の理由であってはなりません。

結論

天主が一人の男性を司祭職にお呼びになるとき、天主がその人に出現されて、「あなたに司祭になってもらいたい」と言われるのではありません。天主はその人に、司祭の義務を十分に果たすのに必要な知的・道徳的資質をお与えになり、また天主の栄光と霊魂の救いのために働きたいという願いをお与えになることによって、その人をお呼びになるのです。司教は、一人の男性に聖なる叙階の秘蹟を授けることを認めることによって、その人を呼ぶのです。

天主はお呼びになる若者に何を期待なさっているのでしょうか? 若者が、「はい」と答えることです。天主が私たちの主イエズスを大司祭に任命されると、イエズスはこう言われました。「私は『私はここにいます』と言った。…巻物の本には私のことが、あなたのみ旨を行うようにと書かれている」(詩篇39篇8-9節)。天主が童貞聖マリアを救い主の御母に任命されると、聖母はこう言われました。「私は主のはしためです。あなたのみ言葉のとおりになりますように」(ルカ1章38節)。天主から司祭職に呼ばれる若者たちが、私たちの主イエズスや童貞聖マリアと同じ寛大さをもって、その呼びかけにお答えしますように。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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