アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、今日2021年5月16日は御昇天後の主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御昇天後の主日の説教」の動画をご紹介いたします。
ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、今日2021年5月16日は御昇天後の主日です。
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ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。
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トマス小野田圭志神父
Supplication of Archbishop Carlo Maria Viganò to the Most Holy Virgin Mary
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の至聖なる童貞マリアへの嘆願
2021年5月13日
この一年以上、全世界は、パンデミックを口実に「グレート・リセット」と新世界秩序(New World Order)の確立のための条件をつくり出そうとするエリートたちの人質となっています。天主および人類に対する敵対者が計画したこの最新の革命は、地獄のわざであるのは確実であり、祈り、断食、償いという霊的な武器に頼って戦わなければならないものです。私は忠実なカトリック信者の皆さんに、聖母に捧げられた今月(五月)の間、毎日聖なるロザリオを唱え、以下のような祈りを付け加えるように勧めます。すべての恵みの仲介者、勝利の元后が、この背教の時にそのご保護によって私たちを助け、悪に抵抗し罪人の改心を得るために剛毅の徳を与えてくださいますように。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
至高なる聖母、天の元后よ、この暗黒と苦悩の時に、御まなざしを御身の子なるわれらに向け給え。今この時、敵の軍勢が、天主とその教会と人類とに対して、地獄からの攻撃を増大させつつある真っ只中にあるわれらが、ひれ伏して捧げ奉る信頼に満ちた祈りを聞き入れ給え、祈りに答えるを軽んじ給うなかれ。
御身は、謙遜の模範のみならず、天主のみ旨への従順の模範にして手本なり。われらの統治者らを照らし給い、それによりて、彼らが行使する権威は主から来ること、また自らがなさなかった善および犯した悪のいずれについても公正な審判者なる主に責任を取らねばならぬことを思い起こさせ給え。「信実なる童貞」よ、公務を司る者らに、その職務についての道徳上の義務を尊び、悪徳や誤謬とのいかなる共謀をも拒否するよう教え給え。
天主の玉座の御前にて執り成し給え。霊魂と身体の悪を癒やし給い、まさしく「病人の快復」として皆が祈り奉る御身よ、医師や医療従事者をその職において導き給え。彼らが病人の世話を行い、われらのうちで最も弱き者らに援助を与えるのを助け給え。不適切な治療や有害な薬物で死や病気を引き起こすことを強制する者どもに対抗する勇気を彼らに与え給え。われらの霊魂の天主なる医師、われらの主イエズス・キリストに祈り給い、身体の生命と健康を促進する役割と義務に対する意識を彼らの良心に呼び起こすよう主に願い給え。
エジプトへの逃避の際、ヘロデの虐殺から天主なる御子を救い給うた御身よ、われらの子供たちを、迫り来る道徳的・霊的な脅威から救い出し給え。われらの小さき子らを、罪および悪なるまことの疫病から、また身体と霊に打撃を与えんとするイデオロギー独裁体制の犯罪計画から守り給え。われらの子供らに危険かつ道徳的に違法な薬物を実験的に使用することに反対するよう、親や教育者を強め給え。子らの無垢な心を傷つけ、さらには子供らの道徳を腐敗させ、子らの知性をゆがめることで、幼きころより堕落させんと試みる者どもの攻撃をくじき給え。
永遠の命への道において、御子の現存で慰めを受け給うた御身よ、病人、高齢者、死にゆく者、特に、非人間的な規制によって、秘蹟を受けるのをはく奪され、病院のベッドで孤独に死を迎える者に寄り添い給え。彼らに慰めを与え給え。彼らが天主との友情の慰めをもって目を閉じることができるよう、自らが犯した罪に対する悔い改めと、その罪の償いとして自らの苦しみを捧げ奉らんとの望みを彼らに起こさせ給え。
「司祭職の母」と呼ばれ給う御身よ、われらの牧者らを照らし給え。今ある脅威を認識すべく、彼らの目を開かせ給え。彼らを、御子キリストの一貫した証人となし、主が彼らに委ね給うた群れの勇気ある守護者となし、誤謬と悪徳に勇敢に反対する者となし給え。至聖なる童貞よ、世間体や罪との共謀などのすべてを彼らから取り除き給え。天主と隣人への愛で彼らを燃え上がらせ、彼らの心を照らし、彼らの意志を強め給え。
御身の御前では地獄のすべての悪魔が逃げ出すなり。この憎むべき専制政治による悪魔の計画、パンデミックという欺瞞、邪悪を働く者どもの嘘を打ち破り給え。キリストのまことの光が誤謬と罪の暗闇を照らすごとく、嘘の上に真理の光を輝かせ給え。御身の敵を混乱させ給い、あえて天に挑み、反キリストの支配を確立せんと欲する者どもの高慢なる頭を、御足の下で辱め給え。
天主の御定めにより、すべての恵みの仲介者にしてわれらの共贖者なる御身よ、御身の汚れなき御心の凱旋を見奉る御恵みを、われらに得しめ給え。その汚れなき御心に、われら自身、われらの家族、われらの共同体、聖なる教会、われらの祖国、そして全世界をわれら奉献し奉る。
アメン
2021年5月13日
主の御昇天
ファチマの童貞聖マリアの御出現
【訳注】
Auguste Dame (仏), Augusta Signora(伊), August Lady(英)Augusta Señora(西)の訳語として、「至高なる聖母」とした。その理由は、聖体降福式の時の讃美の時に 聖母についてフランス語で "auguste Mère de Dieu" とあり、同じauguste という単語が使われており、日本語では特に auguste に対応する言葉は訳されてはいないが、中国語では「至高至聖」と訳されているので、それを参考にしたからである。参考までに各国語では次の通りである。
Bénie soit l'auguste Mère de Dieu, la très Sainte Vierge Marie !(仏)
Benedetta la gran Madre di Dio, Maria Santissima(伊)
Blessed be the great Mother of God, Mary Most Holy(英)
Bendita sea la Incomparable Madre de Dios la Santísima Virgen María(西)
讚美至高至聖瑪利亞天主之母。(中文)
Viganò: There are Those who Want the Church to be an NGO Imbued with Freemasonry.
ヴィガノ大司教「教会をフリーメーソンに染まったNGOにしようと望む者たちがいる」
2021年5月4日
マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人および敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教がラジオ・スパダに行ったインタビュー(第二部)を発表させていただきます。第一部はここにあります。
ヴィガノ大司教「ベネディクト教皇は『不適切な協力者、信頼できない協力者、さらには腐敗した協力者にまで取り巻かれていた』」
ラジオ・スパダによるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教とのインタビュー
【ラジオ・スパダ】
大司教様、3月にマルコ・トサッティの新刊本「Neo-Vatican Gallery」(ネオ・バチカン・ギャラリー)を、大司教様の序文とともに発表した際に開始したインタビューを「完結」できるのをうれしく思います(この本は英訳のほか、イタリア語とスペイン語でも出版されています)。まず第一に、あの最初の対話がわずか数週間で世界中に広まったことを確認しておきましょう。多くの言語に翻訳され、活発な議論が始まりました。広く関心と注目を集めました。あちこちで少し小さな批判がなされ、それはとりわけ「ベネディクト十六世」をテーマにしたものでしたが、その批判には神学的なレベルにおいてはあまり一貫性がありませんでした。その討論は主に、ラッツィンガーの思想における、ある種のヘーゲル的な影響に関連してあなたが提起なさったテーマに関するものでした。あの議論の中でこのような点を認識しておられましたか。もしよろしければ、このインタビューを機にお返事をいただけないでしょうか。そうでない場合は、ほかの問題に話を進めたいと思います。
今日の対話はいくつかの部に分けて行いますが、ここでは読者の理解を助けるために、読者に役立つ内容の概要を説明します。最初に、聖伝を守るための英語圏の現在の役割、そのあとで聖母マリアの問題、次に典礼の問題、そして最後にエキュメニズムについての部分です。
では、マルコ・トサッティの新刊本が取り扱っている英語圏のテーマから始めましょう。歴史的に、公会議のイデオロギーに反対する人々は「多くはフランス語を話していました」(マルセル・ルフェーブル大司教が指導的役割を果たしていたためでもあります)が、今日では、英語を話す人々の間で、特に米国で、この戦線が大きく拡大していることが分かります。また、有名な「アガサ・クリスティ特別許可」(Agatha Christie Indult)【*】は、その活動に明らかな限界があったにもかかわらず、当時(1970年代初頭)としては重要な意味を持っていたことを忘れるべきではありません。大司教様は外交官として任命されたことから、特にワシントン駐在の教皇大使としての役割から、何十年にもわたって英語圏のことをよくご存じです。では、この進化についてはどう思われますか。それは何によるものでしょうか。この意味で、大司教様はどのような見通しをお持ちでしょうか。
【*訳注:ヒーナン特別許可(Heenan Indult)ともいう。ウィキペディアなどによると、英国のヒーナン枢機卿が1971年、教皇パウロ六世に、イングランドとウェールズで聖伝のミサに愛着のある人々に、このミサを捧げる許しを求める誓願を提出した。その誓願にはトリエント典礼という芸術文化遺産を守るという意向もあったため、署名にはカトリックでない著名人の名前も多かった。教皇が署名者を見て「おお、アガサ・クリスティ」と叫んで許可に至ったとされたため、その通称がついた。ただし、このミサは1962年版ではなく、1965年版の典礼に基づいている。】
【ヴィガノ大司教】
あなたの表現を使わせていただければ、公会議のイデオロギーに反対する人々が当初は主に「フランス語を話していた」理由は、そのころ、フランスには、信徒と聖職者の両方で、ある種の深みのある知識人がいたという事実のためであり、彼らが、社会的な出来事と教会的な出来事との間に非常に密接な関係があることを明らかにしていたからだと私は想像します。忘れてはならないのは、フランスは1968年の激しい社会的対立と超進歩主義の一形態に直面していたものの、イタリアでは、その超進歩主義はとりわけ大都市以外では、おそらくあまり広まっていなかったのだろうということです。フランスでは、反聖職者の政府による迫害や影響をすでに経験していたカトリックの伝統の深い国で進行中の革命について、もっと大きな認識がありました。
英国では、少数派であるカトリックが英国国教会と常に対峙していましたが、公会議の教会がプロテスタントの典礼や教理の立場を受け入れつつあることが明らかになると、信徒だけでなく、多くの非カトリック信者も固く一致した反応を起こし、彼らは、聖座が現代社会の世俗化のメンタリティーに屈することを理解できないと考えました。いわゆる「アガサ・クリスティ特別許可」は、カトリックと英国国教会を区別する要素であった聖伝の典礼を取りやめるという決定に対して、多くの知識人が失望していたことを明らかにしました。それは、宗教的迫害に直面してきたカトリックの何世紀にもわたる英雄的な抵抗を否定するかのようなものでした。
公会議前の健全なエキュメニズムは、カトリック教会の胎内に戻ってくる英国国教会信徒の絶え間ない流れを支持していましたが、70年代、特に典礼改革の後、この流れは枯渇し、「改宗」は[カトリックに向かう]代わりに東方教会に向かうようになりました。異端的な公会議のテーゼによれば、唯一の牧者の下にある唯一の囲いに再び入ることを心から望みそう希望している人々でさえも[カトリックに改宗する代わりに]、離教と異端の中にそのまま残されるべきだ、と考えられていたからです。
キリスト教民主党が政治的に主導していた教皇座のイタリアでは、おそらくカトリックが消滅するという危機にあるとは思えなかったという事実もあって、公会議革命への反応はもっとずっと緩やかなものでした。
米国での信仰の復興はもっと最近のもので、米国のカトリック信者が、信仰と典礼が日常生活の中で脅かされていることに気づくのが遅れた結果です。1950年代の米国の教会は、ピオ十二世の先見の明のある行動と、多くの優れた高位聖職者たちの使徒職のおかげで、急速に成長していました。その高位聖職者たちの中でも、フルトン・シーン大司教を忘れることはできません。比較的若い国民の熱狂、無数の改宗、米国におけるカトリックの「新鮮さ」が、おそらく危機が表にはっきり出るのを遅らせたのでしょう。しかし、この危機は、イエズス会の大学や、バイデン、ケリー、ペロシら「カトリック信者の」政治家が出てきた進歩主義者のサークルで、すでに始まっていたのです(こちら)。
生命の尊重のようなカトリックの道徳に関連するテーマは、カトリック信者ではない大統領たちも支持し、司教団や信徒の喝采を浴びました。社会的にも教会的にも、草の根の人々と上層部の間の亀裂が感じられるようになってきたのは、最近のことでした。それは一方では、ビル・クリントンに始まる熱心な中絶推進派の大統領たちによって、他方では、フランスや英国だけでなく、イタリアや、スペイン、ポルトガル、アイルランドなどのカトリックの伝統が強い国で広まっている欧州の進歩主義の要求にさらに近い立場の司教たちによってです。
この亀裂は、市民と政治家、そして信徒と司教を隔てる大きな距離を明らかにしました。政治階級と位階階級による裏切りに直面して、トランプ大統領をカトリック信者も信頼を置くことのできる米国民の伝統的価値観の擁護者とみなす良心が再び目覚めたことは正常であって、さらに私は賞賛すべきこと、御摂理的なことであるとさえ言いたいと思います。
昨年11月3日の不正選挙は、逆にディープ・ステートとディープ・チャーチの間の「邪悪の合意」(pactum sceleris)を強化し、司教、知識人、超進歩的なカトリック・メディアの断固たる支持のもと、世界統一主義者(globalist)のイデオロギーと新世界秩序(New World Order)の計画に完全に従順な自称「カトリック信者の大統領」をホワイトハウスにもたらしました。米国における疑似パンデミックの扱いは、ディープ・チャーチの本当の顔を明らかにし、多くの信徒の目を開かせ、「グレート・リセット」の提唱者たちの間に存在する共犯関係を信徒に理解させました。
大統領選挙の本当の結果が最終的に明らかになり、[アメリカで]干渉や操作に悩まされない新しい選挙が行われうる時には、バイデンはまたも米国のディープ・チャーチを自分の側に引き込むでしょう。その時には、特に、教会の信仰・道徳・典礼に改変を受け入れるつもりのないカトリック信者たちには、社会的に関わることになるような新たな刺激となるでしょう。
【ラジオ・スパダ】
マリア信仰というテーマが、今の時期ほど広く語られたことはこれまで決してありませんでした。ベルゴリオがまたしても、マリアの共贖者としての役割の重要性を最小限にするような発言をしてから、聖母の称号をめぐる「討論」(そう呼びましょう)が始まりました。このマリアの特権を守るために、私たちは最近、「Libro d'Oro di Maria Santissima」(至聖なるマリアのゴールデン・ブック)という本を出版しました。私たちは、カトリックがマリアなしで存在できるとは考えていません。さらに、現在私たちが経験している反マリア的攻撃の原因が、公会議に、そして公会議後の時代の管理者にないとするのは不可能であると考えています。一方では、公の演説や「文書」を通して、直接的にも間接的にも本物のつるはしを使い、他方では、まことのマリア崇敬を否定するかのような新・出現信奉主義的な感傷的言動が浮上しています。ヨハネ・パウロ二世がペトロの座に就き、ラッツィンガーが教理省長官に就任したとき、この意味で受け入れがたい作戦が、エキュメニズムの名の下に、大きな力のある革命に典型的な交互に入れ替わるプレートを使って【押し進めたり引き下がったりして】、実行されたことを忘れてはなりません[1]。
(1)1996年、第12回国際マリア学会議がチェンストホヴァで開催された際、東方「正統」教会3人、英国国教会1人、ルター派1人を含む神学者グループが、共贖の教義に反対する宣言を発表しました。完全な対話形式の宗教的無関心主義の方式(ここが問題の本質です)で、共贖者、仲介者、代願者の称号を「曖昧」と定義し、その文章が「オッセルヴァトーレ・ロマーノ(L'Osservatore Romano)」【聖座所有の日刊紙】に掲載されました。
(2)マリア信心に対する「宗教改革」の悲惨な結果を一時的に脇に置くことによって、また、あたかもキリストの神秘体からマリアを分離してもマリアを愛することができるかのように「すべての異端に対する凱旋者」(Triumphatrix over all heresies)としてのマリアの役割を不明瞭にすることによって、ヨハネ・パウロ二世は1997年11月12日の一般謁見で次のように述べています。「ルターの著作には、例えば、あらゆる聖徳の模範として称賛されているマリアに対する愛と崇敬の念が込められています。ルターは、天主の御母の崇高な聖性を支持し、時には無原罪の御孕りの特権を肯定し、他の改革者たちとマリアの終生童貞に対する信仰を共有しています」[2]。大司教様の個人的な経験で、マリア信仰の「公会議による」衰退をどのように経験されましたか。高位聖職者として、イタリアや海外での長年の奉仕活動の中で、このテーマに関連してご覧になってきたことについて、私たちに教えていただけますか。教会の危機に関するあなたの「良心の決断」に、童貞聖マリアは役割を果たしておられましたか。
【ヴィガノ大司教】
いつの時代も異端者たちを一致させているのは聖母に対する不寛容です。つまり、童貞聖マリアのための崇敬と、それが前提としているマリアの教理、そしてそれを典礼的に表現したものに対する不寛容さです。さらに言えば、これは驚くべきことではありません。サタンは、天主の御母に、その御子によっていにしえの蛇の頭を踏み砕いたお方、歴史の流れの中で教会に対する地獄の攻撃を打ち破ったお方、そして、時の終わりに反キリストとサタンに対する最終的な勝利を収めるお方を見いだしているのです。
至聖なる三位一体は、聖母とともに贖罪のみわざを行うのを喜んでおられます。聖母に対して、いかなる被造物も考えつくことができなかった特権を与えられました。その筆頭は、聖母を原罪から守り、救い主のご誕生の前も、その間も、その後も、聖母の童貞性を無傷で守ったことです。新しいエバであるマリアに、サタンは自分に勝利し、エバの誘惑と堕落の償いをする被造物を見いだしているのです。こういう訳で、マリアは、新しいアダムであるキリストと一致した共贖者なのです。
キリスト信者の中にある、聖母への子としての信心を根絶することは非常に困難です。プロテスタントの偽改革や英国国教会の離教の後でも、童貞女マリアへの信心は、それを消すために特別な努力を必要とするほど生き残っていました。天の母への愛があまりにも自発的で、自然で、適合している場合、素朴な人の心から天の母への愛を引き剥がすことは困難です。幼い子どものころに唱えるよう母親が教えてくれた1回の「めでたし」だけが理由であったとしても、至聖なるマリアへの信心のおかげで教会の胎内に戻った異端者たちのケースのことを私は思い浮かべます。この信心は、素朴で、謙虚で、甘美で、確信に満ちていて、最も純粋なものです。この信心は、神学的な教理の高邁さを知らない人々でも減ることはありません。
なぜなら、この信心は、ほかの何よりもまさって、私たちを子どもとして、また聖母を母としてみなしており、私たちの犯したすべての欠点にもかかわらず、聖母を、私たちが常に依り頼む「救い主」(Salvatrice)、あわれみ深きお方、代願者として認識させるからです。たとえ、私たちが御怒りを招いたため天主なる御子の方へ目を上げるのが恐ろしいときであったとしても、「あなたの母を見よ」(ヨハネ19章26-27節)なのです。【つまり聖母を私たちの母としてすがって行くことができる。】
こういう訳で、サタンは「婦人」(the Lady)を嫌うのです。祓魔式の際にサタンは聖母(Our Lady)をそう呼びます。サタンは、イエズス・キリストの御力がその御母によって少しもぼかされることがないだけでなく、むしろ高められることをあまりにもよく知っているのです。なぜなら、サタンの傲慢がサタンを地獄に沈めたのに対し、御母の謙虚さは御母をすべての被造物のはるか上へと高め、御母にご托身になる天主の御子を孕らせたからです。そのご托身によって、御子は人間の肉体をお取りになりましたが、ルチフェルにはそれが許せなかったのです。
公会議後のマリア信仰の衰退は、天の元后に対するサタンの嫌悪感の最新の表現に過ぎず、最も異常でつまずきを与えるものと言えるでしょう。マリア信仰の衰退は、あの集会【第二バチカン公会議】が天主から来たものではないことを示すしるしの一つであり、至聖なる童貞の称号や功徳にあえて疑問を呈することさえする人々が天主から来たものではないのと同様です。
一方、父親の敵を喜ばせるために、自分の母親が貶められることを許す息子がいるでしょうか。ですから、天主の御母にして私たちの母の名誉が危うくなっているとき、【教会の役務者による】異端者や異教徒とのあからさまなこの共犯関係があるのは、いったいどれほど深刻なことでしょうか。三位一体の最愛のお方は、父なる天主によってその娘として、子なる天主によってその御母として、そして聖霊なる天主によってその浄配として選ばれ給うたのです。
公会議の欺瞞と現在の背教に気づくようになるという私の「回心」の賜物は、聖母に対する私の絶え間ない信心のおかげで可能になったと、私は信じています。1944年4月の連合国軍の爆撃の際、母は私をヴァレーゼの私たちの家の下の防空壕に連れて行き、御影が小さなランプで照らされた聖母のご保護を祈りながら、私を抱きしめました。聖母の祝されし「冠」(ロザリオ)は、いつも私の祈りに活力を与えてくれました。
聖なる童貞は、そのかかとで、御子の教会にはびこって冒涜する地獄の偶像を踏み砕き給うのです。ご自身の役務者によって追放された御子に王冠を回復させるお方です。この暗黒の時に良き人々を支え、保護し、罪人のために回心と悔い改めの聖寵を懇願するお方です。
【ラジオ・スパダ】
典礼のテーマも関連しています。今日、最も困難な戦いの一つは、全時代のミサ【聖伝のミサ】と新近代主義者による公会議革命の結果生まれたミサとの間に存在する深遠な違いを信徒に説明することである、と私たちは考えています。それは、その根底にある神学の問題だけでなく、「パウロ六世のミサ」の歴史それ自体の問題でもあります。その改革はプロテスタントの著名な代表者が参加した委員会の助けを借りて行われ、その結果、現在のようなエキュメニカルな典礼になった、という事実を知っているカトリック信者は、ほとんどいません。残念ながら今日、典礼の問題における「実質的な宗教的無関心主義」の風潮がないわけではありませんが、これは前回の対談でも言及したように、ベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の矛盾した内容の所産でもあります[3]。また、ミサのテーマについても、2020年6月9日に大司教様の友人のM・グァリーニ博士のウェブサイトに掲載されたエッセーの中で、大司教様は次のように述べておられます。「歴史の流れの中で異端が広まったとき、教会は常に迅速に介入してそれらを断罪してきました。それは、ある意味で第二バチカン公会議を先取りしていた1786年のピストイアの司教会議(シノドス)のときに起こったようにです」。この考察について、さらに詳しく教えてください。大勅書「アウクトレム・フィデイ」(Auctorem Fidei)を参照して、現在の状況に関連してどのような要素を強調することができますか。この段落で示唆されている事実を、もっと多くの人々に明らかにするために、できることは何でしょうか。
【ヴィガノ大司教】
キリストの神秘体が、公式で荘厳で公の行為である典礼の祈りを、二重の声で神秘体のかしら【キリスト】に向かって上げることができるということを維持するのは、少なくとも困難であるという事実について、私はあなたに同意します。この二重の性質は二枚舌を意味し得るものであり、カトリックの真理の単純性と直線性に反します。ちょうどその二重性が、そのみ言葉が永遠であり、至聖なる三位一体の第二のペルソナである天主に反しているのと同じようにです。キリストは、革新主義者たちが「特別な形式」と呼ぶ完全な声【聖伝のミサ】で御父に語りかけると同時に、「通常の形式」で天主の敵に好意を示す不完全な声【新しいミサ】で御父に語りかけることはできません。
一方、「通常の形式」という同じ不適切な表現は、一般的な言葉で言えば、特別ではないもの、当たり前のもの、価値の低いもの、レベルの低いもの、を示す「普通・平凡」という認識を、意図せずに示しています。人が「通常・普通・平凡」であると言うと、確かに褒め言葉には聞こえません。ですから、私は、この状況を一時的なものとして受け入れて、許容しなければならないと考えています。
その状況下で、伝統的な典礼は、唯一のカトリックの典礼への復帰が必要であることと、その公会議版の廃止が不可欠であることを考慮して、霊魂に多くの善を及ぼしつつ、復帰し、広まっていく道があるはずです。典礼において、教会は人間にではなく、天主の御稜威に語りかけることを忘れてはなりません。洗礼を受けて生きている教会の成員は、彼らと至聖なる三位一体との間に「橋を架ける者」(pontifex)である「聖なる役務者」によって、典礼の祈りにおいて共に一致しています。典礼をある種の人間中心的なイベントにすることは、カトリックの精神とは最も無縁なものです。
私がピストイアの司教会議に言及したのは、第二バチカン公会議の文書の中に、さらには公会議後のいわゆる「教導権」の中に、大勅書「アウクトレム・フィデイ」によって断罪された誤謬が顕著に再提示されたからです。私が顕著にと言うのは、真理が天主において[天主の他の本質と共に]本質的であるのと同じく、嘘や誤謬もサタンのしるしであって、サタンは何世紀にもわたって反逆の叫びを繰り返し、常に自分が憎む真理を、消し去ることのできない憎しみをもって攻撃しているからです。
アリウスからロワジーまで、ルターからLGBTQ支持のマーティン神父(イエズス会)まで、その叫びを起こさせる者は常に同じです。この理由により、教会は「常に」誤謬を断罪し、「常に」同じ真理を確認するのであり、この理由により、異端者は「常に」同じ誤謬を再提示するのです。金の子牛を使ったイスラエルの民の不忠実や、アッシジ、パチャママ、アスタナの忌まわしいものに関しては、新しいものは何もありません。
【ラジオ・スパダ】
これまでに述べてきたことを最終的に確認する意味でも、エキュメニズムというテーマに、さらに具体的に入っていかない訳にはいきません。以前の質問でも注目したように、エキュメニズムは、私たちが証人になっているこの危機のあらゆる面と密接に結びついています。その存在は、少なくとも、パウロ六世のアテナゴラス【コンスタンティノープル総主教】との会見や「正教会」のメリトン【カルケドン府主教】の足への接吻以来、本格的な形となり、1986年(ヨハネ・パウロ二世)と2011年(ベネディクト十六世)といったさまざまなアッシジの会議で徐々に勝利を収め、アブダビ文書やアマゾン・シノドスの際に聖ペトロ大聖堂に持ち込まれた異教徒の像にまで至っています。このような宗教的無関心主義の道は、理論的にも実践的にも、数え切れないほどの教皇庁の文書(ピオ十一世の「モルタリウム・アニモス」(Mortalium Animos)、聖ピオ十世の「パッシェンディ」(Pascendi)、ピオ九世の「シラブス」(Syllabus)は誰にでも適用されます)によって直接的に断罪されています。超自然的な信仰の光に反しているだけでなく、まず第一に自然的な理性の光にも反しています。なぜなら、非論理的で、間違っており、曲解しているからです。それ(エキュメニズム)は、いわゆる「進歩派」や、残念ながら少なからぬ「保守派」の公然とした協力のおかげで、もう一度復活して繁栄しています。あなたの経験の中で、特にさまざまな大陸でなさったさまざまなミッションの中で、司教団がこの問題について認識があることに、少なくとも個人として、気づかれましたか。つまり、公の場の「慎重さ」の裏で、少なくとも録音されるマイクがないときには、この背教の重大性を認識している聖職者が存在するのでしょうか。もしそうであれば、その認識は、行われる行為がひどくなるにつれて、年々高まっているように思われますか。
【ヴィガノ大司教】
主を愛する司教たちや司祭たちは、公会議の教理と啓示された信仰の間には、どうしようもない矛盾があることをよく知っています。そして、誤謬を広め、自ら革命の推進者となっている傭い人たちも、そのことを完全によく知っています。しかし、傭い人たちが教会をフリーメーソンの原理に染まったある種のNGOに作り変えるために教会を変化させようと本気で考えている一方で、良き牧者たちは、多くの失敗が、第二バチカン公会議がほのめかした誤謬そのものの必然的な結果ではなく、ほとんど途中の事故であって遅かれ早かれ何らかの方法で正されるだろうと信じることに甘んじているのです。
この哲学的かつ心理学的な誤謬は、神学的な誤謬であるというよりはもっとそのようなものですが、彼らは、現在の危機の発生源【第二バチカン公会議】を維持するとともに、教会の不変の教導権への忠誠とを維持しているのです。これは、まさに無駄で自然に反しているがゆえに失敗を運命づけられているタイタニック号のような巨大な作業です。
たとえを言わせてください。医者が特定の病気の症状を見つけた場合、その診断は病状を特定し、症状を取り除くだけではなく、症状の原因を取り除くことを目的とした治療法を採用します。また、症状を病気と結びつけることを拒否しながら、症状を治すことはできません。公共的な問題でも同じことが言えます。統治者が、管理されていない移民によって犯罪が増加していることを発見した場合、犯罪者を逮捕することは確かにできますが、不法移民を止めなければ何の成果も得られません。さて、このことは日常生活の問題では明らかですが、なぜそれが、天主の御稜威に当然なされるべき礼拝、教会の名誉、霊魂の救いに関わる問題のような、さらに重大な問題にまで適用されることがないのでしょうか。
私の兄弟たちは、自分たちが陥った欺瞞を認識するという、危機の発端となった教理的、道徳的、典礼的な原因を特定するという、誤って踏み出した安易な道から引き返すという、謙虚さを持つべきだと私は思います。それは、自分たちが放棄し、何世紀にもわたって唯一の実行可能な道であることが証明されてきた狭くて険しい道、すなわち十字架の道、自己犠牲の道、そして真理、すなわちイエズス・キリストに対する英雄的な証しの道を再開するためです。そうなったならば、悪魔とそのしもべによる教会への攻撃は、これまで常にそうだったように増えていくことでしょう。「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」(ヨハネ15章18-27節)が、兄弟たちは天国と勝利の手柄を得ることができます。逆に、この世とそのかしらと折り合いをつけることができると信じているなら、自分に託された霊魂と自分自身の霊魂について、天主にお答えしなければならなくなるでしょう。
このような時代精神への安住は、おそらく勇気の欠如とある種の臆病さを表しているものであり、カトリック信者、さらには天主の聖職者のあるべき姿である「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う」(マテオ11章12節)とは正反対のものです。
【ラジオ・スパダ】
大司教様、このような対話ができて、本当にありがとうございます。
注:
[1]「革命的」な台本に従って、この時期にマリア信心に「好意的」な宣言がなされたことは驚くべきことではない。この宣言は明らかに反対の実践と交互に行われ、一般的な新近代主義の文脈に挿入され、現在明らかになっている結果をもたらした。
[2]一般謁見1997年11月12日【教皇ヨハネ・パウロ二世】
[3]特に、以下の一節に注目したい。「第一条 パウロ六世によって公布されたローマ・ミサ典書は、ラテン典礼様式に属するカトリック教会における『lex orandi(祈りの法)』の通常の表現である。一方、聖ピオ五世によって公布され福者ヨハネ二十三世によって改訂されたローマ・ミサ典書は、教会の同じ『lex orandi』の特別の表現であると見なされる。そしてその敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない。教会の『lex orandi』におけるこれら二つの表現は、決して教会の『lex credendi(信仰の法)』を分裂させるものではない。実のところ、これらは唯一のローマ典礼様式の二つの執行方法である」
【参考資料】マジャール・ネムゼット紙に掲載された「ダボス時代の新共産主義」2021年3月1日
この記事は、2021年3月1日にマジャール・ネムゼット紙のオンライン版に掲載されました。「マジャール・ネムゼット」(Magyar Nemzet)は、ハンガリーの主要な日刊紙です。1938年に創刊されたマジャール・ネムゼット(ハンガリー国民)は、ハンガリーの保守派が参考とする保守系新聞で、ヴィクトル・オルバン首相率いる現ハンガリー政府に近い立場にあります。フランス革命を準備した啓蒙主義の論理的結論として行きつく先として、新しい共産主義的な新世界秩序が樹立しつつあるとの警告です。
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ひねくれたイタチ【ずるい者】にしろ、単なる愚か者にしろ、無知なリベラル派は、いまだにディープ・ステートや隠された権力などは存在しないと必死に大衆に信じ込ませようとしている。一方、あまりにも現実である隠されたネットワークは、2020年に戦略を変更して、それを世界に公表した。
世界経済フォーラム(WEF)の創設者であるクラウス・シュワブは、昨年5月のダボス会議で、チャールズ英皇太子とともに「グレート・リセット」を発表した。
この新たな始まりは、現在の世界秩序の基盤およびルールを置き換え、作り変えることにほかならない。彼らの見解によれば、現在の形態の資本主義は人々の福祉に貢献していないため、環境を保護し、社会的不平等を減少させるような新たな種類の資本主義を構築しなければならないという。
グレート・リセットは、新型コロナウイルス感染症後の時代に新世界秩序をもたらすものであり、それは政治的、イデオロギー的、経済的なまとまりを意味し、また、国家のない世界を意味する。
シュワブやその他多くの人々の発言から、彼らの大きな計画は、マルクスとエンゲルスの偉大な夢である、ある種の国境を越えた国際的な支配体制の下で世界的な共産主義を導入するものであることが分かる。(これは正確にはプロレタリア独裁とは呼べない。ロスチャイルド一族からビル・ゲイツに至るまで、世界のエリートのメンバーはプロレタリアとは言えないからだ。「プロレタリア」という言葉を「エリート」に置き換え、「独裁」を残し、エリート独裁とすることで、われわれは真実に近づき始める。)
これらの隠された権力は、今、その姿を現し、前面に出てきている。そのため、メインストリーム(主流)の、政治的に正しい(politically correct)とされるナラティヴが、いままで"錯乱した幻想"というレッテルを貼っていたことは、今ではこれらの紳士たち自身の言葉で、つまりこれらの大きな野心を持った権力者たちの最前線で(au premier plan)見ることも、読むことも、聞くこともできるのだ。もちろん、彼らはシュワブが最大の善意と慈善活動に関心を持っていると言い続けるだろうが、こうしたマントラにはあまり価値はない。少なくとも、彼らはこの「グレート・リセット」から利益を得る立場にあるからだ。
それよりも、もっと注目すべきなのは、クラウス・シュワブが、新「トランスヒューマニズム」世界秩序という目標についてインタビューで語った多くことの裏にある意味である。
第一に確認しておきたいのは、次のことである。グローバル・エリートの最重要の目標が、国民や国民国家を解体し、包括的で大規模な世界政府を創設することであり、それによって、社会的不平等、気候変動、持続可能でない成長、移民などの問題を処理し、解決しようとするのは、もはや疑いのないものだということだ。
もちろん、世界のエリートたちは長い間、これについて準備をしてきたのである。著名な人物が何十年も前からこのことについて語ってきた。
1970年代から80年代にかけて、元米国務長官・大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーがハーバード大学で講義を行い、経済のグローバル化の次は政治のグローバル化だと言っていた。この講義をクラウス・シュワブは50年ほど前に聞いていたのだ。また、ブレジンスキー元米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は主権国家の終焉を説き、デヴィッド・ロックフェラーは世界政府の必要性に言及し、ブッシュ米大統領(父)は1990年の演説で新世界秩序を宣言した。つまり、彼らは本当に目立たない「陰謀の生みの親」なのである。
第二に、シュワブのこれまでの発言や、昨年7月に発売された著書「グレート・リセット」(ティエリ・マルレとの共著)から推測されるのは、彼らが世界統治形態(global governance)を、「市民社会も市場も政府も問題を解決できない」という考えに基づいた、ある種のユニークで新しい複合的なシステムと考えているということだ。
そのため、彼らが考える解決策は、企業と政府が「効果的に互いにコミュニケーションをとる」ことである。これは、グローバル市場の主要企業が、各国政府からこれらの「困難な任務」を徐々に引き継いでいくということにほかならないと私は思う。
また、83歳のシュワブが率いるWEF(世界経済フォーラム)の指導者たちを見てみると、ブラックロックやブラックストーンのCEO、カーライル・グループのデヴィッド・ルビンシュタイン会長、中国最大の富豪ジャック・マー、さらには国連、IMF、欧州中央銀行のリーダーなど、巨大企業や大富豪が名を連ねている。WEFがグローバル・エリートのネットワークにとって不可欠な結節点、(理論物理学者アルベルト・ラースロー・バラバーシの概念を用いるなら)「ノード」であることは疑いの余地がない。しかし、もちろん、米外交問題評議会やビルダーバーグ・グループなど、他のノードとも密接に動いている。私がここで言いたいのは、この巨大な再起動は、クラウス・シュワブとその友人たちの個人的な努力だけではなく、継続的な会話、合意、承認が先に存在していたということだ。
「国家時代」以後の、国家を超えた統治形態に話を戻すと、彼らの対話や発言から明らかなように、彼らは実際に、伝統的な各政府とグローバル市場の各層を統合し、民間の企業が補完する、複雑でグローバルな権力の秩序を構想している。既存の制度的・機能的な国境線は解消され、一種の共同管理あるいは共同支配が形成されるだろう。当然ながら、繁栄や健康、世界平和といった「ヒューマニスト」の目標のためにだ。
もう少し掘り下げてみると、これらの大物たちは、民主主義を複雑な統治形態に置き換え、選挙や国会議員よりも技術官僚制(technocracy)を優先させ、透明性の代わりに一般市民には理解できない「専門知識」(expertise)を重視しようとしているという事実に、すぐに気づかされる。
第三に、シュワブが「プロジェクト・シンジケート」(ジョージ・ソロスが所有するウェブサイトでもある)で、グレート・リセットを確立するために新しいイデオロギーは必要なく、単に「より回復力があり、結束力があり、より持続可能な世界に向けた実用的なステップ」を踏めばいいと説明していることは注目に値する。
私に言わせれば、[グレート・リセットを確立するために]必要なのは、新自由主義であり、社会・社会主義版の新自由主義(正確には新共産主義)の「新しい波」だ。言い換えれば、共産主義的自由主義が確立されるべきだと思える。(また、不幸な運命を迎えたハンガリーの詩人アティッラ・ヨージェフ Attila József の1936年の言葉を引用すればこうなる。 Talán dünnyögj egy új mesét, fasiszta kommunizmusét 「きっと君は新しい物語をはなすだろうね。ファシズム的な共産主義の話を。」)
そして、社会主義・共産主義的な自由主義がすべての人に受け入れられた後は、専門的・科学技術的・環境保護的な(technical- technological-ecological)問題や危機に対処するだけである。つまり、、実用主義であり、これはフクヤマの「歴史の終わり」という説の温めなおしとも考えることができるだろう。あるいはマルクスかもしれない。彼の共産主義の考えは、この世の問題はある日全て解決されることになっており、その暁には、各々は自分の必要に応じて配給を受け取り、人々は狩りをしたり、釣りをしたり、あるいはもしも好むなら、批判の批判において活動するだろう。皆が平等で、皆が幸せになるだろうということだ。
第四に、シュワブが表明するようなグローバル・エリートが設定した目標の中には、デジタル化、ロボット化、人工知能の時代に適応して人間の地位が変革しなければならないという考えがある。
すでに2016年に、シュワブはその著作「第四次産業革命 ダボス会議が予測する未来」(Shaping the Fourth Industrial Revolution)の中で、新たな巨大IT企業(new tech giants)が使用する技術によって、政府は私たちの心という(今まではプライベートだった)私的領域に侵入し、私たちの考えを読み、私たちの行動に影響を与えることができ、その結果、私たちの物理的世界の一部にもなると書いている。シュワブは、ラップトップパソコンやバーチャルリアリティー・ヘッドセットのような今日の外部デバイスが、いずれ「ほとんどの場合、われわれの身体と心に埋め込むことができるようになる」と予測している。そしてシュワブは、こう結論づける。「第四次産業革命が導くところは、私たちの物理的、デジタル的、生物学的なアイデンティティーが統合して一つになることだ」。
本当の陰謀論者を紹介しよう。クラウス・シュワブである。残念なことに、彼は実際には陰謀論者ではなく、むしろ陰謀家の方なのだ。リベラル派の皆さん、このことをよく考えてもらいたい。しかし、その目標が本当に「[オルダス・ハクスリー流に言えば] 新共産主義の)すばらしい新世界」であることを疑問に思わないようにするために、WEFのユニークなCMで語られているスローガン(あるいは、むしろその中のいくつかの内容)も引用しておこう。
「2030年へようこそ。私は何も所有せず、プライバシーもありません。そして人生はかつてないほど素晴らしいものになりました!」
「あなたは何も所有しません。そして、あなたは幸せになります」
「あなたが欲しいものは何でも借りられます。そしてそれはドローンで配達されます」
「気候変動によって10億人が立ち退くことになるでしょう」
「難民の受け入れと統合をもっとうまく行わなければなりません」といった具合だ。
こういった偉い人たちは私たちのために最善を尽くそうと思っている。これこそが、私たちが恐れるべき正当な理由であり、そしてまた、ようやく目覚めるべき正当な理由なのである。
タマシュ・フリッチ(Tamás Fricz):筆者は政治学者であり、【ハンガリーの首都ブダペストにある】基本的権利センター(Center for Fundamental Rights)のリサーチ・アドバイザーである。